2017年5月31日水曜日

いなげやの店舗戦略

我が家の近所にあるスーパー「いなげや」が、このたび改装オープンした。この店舗は、我が家がこの地に引っ越してきて以来20年、ご近所スーパーとして重宝している店舗である。この店が毎日営業していることに慣れてしまっていることは、わずかな間の改装期間の休業に不便を感じてつくづくと実感させられたものである。

そんな我が家御用達のいなげやが改装オープンしたのであるが、これがどうもあまり評判がよろしくない。家に帰ると、妻がさっそく新装開店初日の様子を報告してきた。どうやらご近所の奥様方と散々批評会をやったらしく、その興奮冷めやらぬといった感じであった。はたしてその評判はというと、残念ながらいいものではなかった。
「いなげやさん、何考えているのかしら?」と妻は不満タラタラである

妻を含め、ご近所の奥様方の評価は厳しいものであった。それというのも、改装内容が従来中心だった生鮮食品を減らし、コスメ系を増やしたものであったからである。特に致命的なのは、「魚がない」ということらしい。実際、店舗の中心にはコスメ系商品が燦然と配置されており、ここに力を入れているというのが素人目にもわかる。どうやら、グループ会社のウェルパークとの共同開発であるらしい。決算報告でも「実験店」として取り上げられているくらいだから、いなげやとしても力が入っているのだろう。

しかしながら、ご近所の奥様たちの批判は手厳しい。曰く、
1.      コスメ系はすぐ近所にドラッグ店(一本堂)があり、駅前にはマツキヨもあるため重複感がある(なくても困らない)
2.      いなげやを主に利用するのは、駅から遠いエリアの人。重いものを持つのが嫌な人が、駅前のライフで買わずにここで買って帰るのだが、生鮮食品が少なくなるとライフで済まさざるを得なくなる
言うもので、なるほど主婦の意見はさすがに日々の買い物をベースにしているだけにリアリティがあると感心する。

今やあちこちに乱立しているドラッグ店を見ていると、やっぱりそれだけ儲かっているのだと思う。わざわざコストをかけて改装するくらいだから、儲かるという目論見があっての事なのだろう。ご近所の主婦の意見がどうあれ、減らした魚よりも新設したコスメ品で利益が増えたならその戦略は正解なわけである。傍でとやかく言う筋合いのものではない。

それにいなげやは東証一部上場企業。今回の改装にあたっては、当然ながら市場調査を尽くしているだろう。近隣の競合スーパー、ドラッグ店の立地・品揃え、地域の住民構成や消費動線など十分に調査・研究しての判断だろう。これまで魚を買いに来ていたお客さんがよそへ行くことも当然想定しているはずだし、それによって下がる売り上げをコスメ系でカバーしておつりがくるとの判断でやっているわけである。勝算は当然あるのだろう。

妻の不満は、不満に留まらず不安にまで及ぶ。「コスメ品が思ったより売れず、業績が悪化してその結果撤退となったら困る」というものである。何せ我が家からは徒歩12分のスーパーである。立地的便利さは他と比較にならない。そうなったら、ご近所の人たちもみなショックを受けるであろう。お使いに行かさせることが多い私にとっても、まんざら他人事ではない。

さて、果たして結果はどうなるのであろうか。大企業の決断が吉と出るのか、ご近所の主婦の「皮膚感覚」が正しいのか。大いに興味を持ちつつ、当面は複雑な気持ちで見守ることにしたいと思うのである・・・

新装なった店内

 【本日の読書】
  99%の会社はいらない (ベスト新書) - 堀江貴文 ノモンハンの夏 (文春文庫) - 半藤 一利






2017年5月28日日曜日

王女と兵士の寓話(もしも自分だったら)

昔、ある王様がパーティーを開き、国中の美しい女性が集まった。護衛の兵士が王女の通るのを見て、あまりの美しさに恋に落ちた。だが王女と兵士では身分が違いすぎる。でもある日、ついに兵士は王女に話しかけた。王女なしでは生きていけないと言い、王女は兵士の深い思いに驚いてこう言った。
100日間の間、昼も夜も私のバルコニーの下で待っていてくれたらあなたのものになります」と。兵士はバルコニーの下に飛んでいった。2日、10日、20日がたった。毎晩王女は窓から見たが兵士は動かない。雨の日も風の日も、雪が降っても、鳥が糞をしても蜂が刺しても兵士は動かなかった。90日が過ぎた頃には、兵士は干からびて真っ白になっていた。眼からは涙が滴り落ちた。涙を押さえる力もなかった。眠る気力すらなかった。王女はずっと見守っていた。99日目の夜、兵士は立ちあがった。椅子を持って去ってしまった・・・ 
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 先日のこと、知人との酒の席で突然質問された。
「あなただったら、北朝鮮をどうしますか?」。
酔いもあってか大して考えるでもなく、私は答えた。
「私が金正恩だったらですね・・・」
すると、私に質問をした相手は驚いていた。どうやらその方は、「日本の立場として北朝鮮に対してどうするべきか?」を議論したかったようなのである。なのに私が「金正恩だったら・・・」と予想外の答えを返したので意外だったらしい。

しかし、私にとっては、「もしも自分だったら」と考えるのは普通の思考パターンであったのである。映画や小説を観たり読んだりしてもニュースを見ていたりしても、ついつい「自分が(そこで取り上げられている)人物であったら〜」と考えてしまうのである。だから先の質問についても自然とそう考えてしまっていたのである。もっとも、「日本として」と質問されていたら、当然質問の趣旨に沿った答えをしていたと思うから、相手の質問の仕方にも問題があったかもしれない。

それはそうと、先日久しぶりに観た映画『ニュー・シネマ・パラダイス』でもそうであった。冒頭の寓話をアルフレードがトトに語る。それをききながら、やっぱり「私がこの兵士だったら〜」と考えていたのである。苦い思い出とともに。
もしも自分が兵士だったらどうしていただろうか?
そうしていつのまにか、自分だったら100日間立ち通した後、王女に約束の履行を迫ることなく立ち去るだろうと結論づけていた。

冷静に考えれば、王女と兵士とでは身分が違い過ぎる。おとぎ話ならともかく、現実問題としてこの身分差を超えるのは難しい。比較的身分差が解消されている現代においてさえも、例えば眞子様のお相手が学習院時代の同級生ではなく、シングルマザーの母子家庭に育った高卒の飲食店アルバイトだったら、果たして今と同じように祝福されるだろうかと考えてみると、昔の時代の王女と兵士では、童話の世界以外では不可能な組み合わせでしかない

それに王女が課題を課した真意もわからない。諦めさせる手段だったのか、気まぐれなのか、それとも本当に兵士を受け入れるつもりで相手の本気度を確かめたかったのか。そうした中で、惚れてしまった相手の心を得るためのそれが唯一の手段である以上、兵士としてはやるしかない。自分が兵士だったら、意地と根性と執念と情熱とありったけのものを投入して立ち続けるだろう(まぁ、本来の任務は大丈夫なのかというツッコミは、なしにしておこう)

考えてみれば、「100日」という「目標設定」は実にありがたい。期限も相手の真意もわからぬまま女性へのアタックを続けるというのは難しいものがある。実は私も過去にそれで諦めてしまい、しかも後日「もう一押し」だったことが判明し、人生最大の後悔をしたことがある(それ以上のものは今だないし、多分この先もないだろう)。自分の気持ちだけだったら無期限でも頑張れるが、相手のこと(迷惑なんじゃないかとか)を考え始めると、疑念は恐ろしい力を得るのである。期限はその疑念を封じてくれる。

100日間立ち通すのは、自分という人間を示すことでもある。障害があるのならまず自分から乗り越えてみせる。まず自分が相手の出した課題に答えるのが第一である。そしてその後立ち去るのは、そこからは相手が自分で結論を出さないといけない部分だからである。強制されるものではない。確かに約束ではあるが、だからと言って相手に履行を強いることはできない。愛とは見返りを求めるものではないから、自分が相手の出した課題をクリアーしたからと言って、得意満面に王女に約束の履行を求めるのは違うだろう。

王女には王女が越えなければならない課題がある。越えるにしても辛い試練がある。国王夫妻である両親との対立。もしかしたら国の安全保障のために、大国の王子と政略結婚の予定があるかもしれない。ディズニー映画とは違って、「愛こそすべて」で解決するものではない。自分が課題をクリアーしたことは、王女がその試練に向かう条件を整えたに過ぎず、相互履行を強制させるものではないと考えるのである。

自ら安定した王族の地位を捨て、(おそらく)両親の期待を裏切って兵士の元に行くのは100日の課題以上の困難がある。王女がそれをクリアーできるかどうかわからないし、相手のことを考えるのであれば、クリアーできなくても非難するべきものではない。困難な試練に向き合った時、人はしばしば疑念にかられる。「このまま続けていって大丈夫だろうか」と。その時、自分が出した課題をクリアーした相手なら信頼できると思ってもらえるかもしれない。そしてそれがあれば、試練を乗り越えられるかもしれない。人はそこに確かな手応えがあれば、頑張れると思うのである。

映画『ニュー・シネマ・パラダイス』では、主人公のトトはエレナの部屋の窓の下に毎晩佇むことを宣言して実行する。そしてトトは来る日も来る日も開けられることのない窓を眺めて過ごす。そうしてトトは、とうとうエレナのハートを射止める。映画だからと言ってしまえばそれまでであるが、もしも自分があの諦めた時にこの映画を観ていたら、ひょっとして人生最大の後悔は違うものになっていたかもしれないと思わされるシーンである。

この寓話については、ググるといろいろな「解釈」が目に飛び込んでくる。しかし、私はやっぱり「解釈」ではなくて、「もしも自分が兵士だったら」と考える方を自然と選んでしまう。人の行動の真意をあれこれと想像するより、その方がずっと楽しい。

「もしも100日の課題をクリアーして立ち去ったら、果たして王女は国王を説得し、周囲の猛反対を押し切って一兵士の愛に応えてくれただろうか」

「もしも」の空想は、そこまでにとどめておきたいと思うのである・・・



2017年5月24日水曜日

意思の力

最近、仕事でいろいろと議論をしていて考えた。「意思あるところに道は通じる(“Where there's a will, there's a way.”)」というが、それはとても大事な考え方だということである。きっかけとなったのは、これからやっていくことについての議論だった。正直言ってやるのは難しい。でも何かやらないと会社の業績発展はない。現状は下りのエレベーターに乗っているようなもの。停滞は死を意味する。では何をやって下りのエレベーターを駆け上がるか。

「冷静に分析して、できる可能性が低かったらやってもしょうがない」という意見を言われた。それを聞いて瞬間的に嫌悪感を感じたが、感情的になるよりも実際のところどうだろうかと冷静に考えてみた。確かにそれは一理ある。世の中、無駄な努力など数多くあるだろうし、何でもやってみればうまくいくというものでもない。だからと言って冷静に分析してやっても無駄と言っていて平然としてもいられない。

しかしながら、よく考えれば「冷静な分析」というのも実はアテにならないと思う。それは頭の中で空想しているだけだったり、「運」と言ってもいい想定できない要素を含んでいないからである。経営の神様松下幸之助は、人を採用する際、「運がいいかどうか」を基準にしたという(【運命を開く】)。その運とはとどのつまり考え方らしいが、その通りだと思う。

ある営業マンが取引を取ろうとある企業に日参していたが、担当部長はけんもほろろ。来ても無駄と取りつくシマもない。頑固そうだし、「熱心に来ても無駄」と言い切る姿勢からは突破口を開く道筋が見えない。一日の終わりに疲れて帰る道すがら、それでも今日も行ってみようと足を向けた。ところが部長はその日は風邪で休みで、代わりに出てきた社長が暇をいいことに話を聞いてくれ、面白そうだとその場で契約してくれた。たとえの作り話であるが、似たような話はこれまでも耳にしたことがある。まんざら突飛な作り話でもないはずである。

では、そうした「偶然」を予測できるかと言えば、いくら「冷静に予測」したところで予測できない。そうした「偶然」を呼び寄せたのは、「諦めなかった心」であり、それは「執念」とも「情熱」とも言えるが、結局は「意思の力」に他ならない。そういう意思の力をもって何かをやろうとして奮闘していれば、たまたまそれを見ていた人が協力の手を差し伸べてくれるかもしれない。そういうものだと思う。

「できるかできないか」ではなく、「やるかやらないか」。
目の前の道は舗装された平坦な道ではなく、曲がりくねった砂利道が上り坂になっているようなものだと思う。次々に出てくるハードル。それを乗り越えたりくぐったり蹴とばしたりしながら目的地に向かって進んでいかないといけない。そこで必要になってくるのは、もう「意思の力」しかないと思うのである。

目の前にあるLong and Winding Road。意思の力をもって突き進んでいきたいと思うのである・・・


 
【本日の読書】
 経済がわかる 論点50 2017 - みずほ総合研究所 ノモンハンの夏 (文春文庫) - 半藤 一利





2017年5月21日日曜日

国立にて

JR中央線の国立駅は、私が大学時代毎日通った街である。その後、銀行に入った後も3年間ほど国立にある支店に勤務していたことがあるので、これを含めると都合7年ほど通勤通学で通ったことになる。それはそれぞれ30年、20年ほど前のことである。今も大学のラグビーグラウンドには学生の試合を観に行ったり、シニアチームの練習に参加しに行ったりする時にちょくちょく訪れている。そんな本日も、グラウンドに行く前にちょっと時間があったので、ゆっくりと散歩してきたのである。

人生で初めて国立駅に降り立ったのは、かれこれ34年ほど前の受験の時である。北口の改札を出ると、まっすぐ伸びる大通りがあって、その沿道を歩いて行くと、やがて緑に覆われたキャンパスに到着する。そのアカデミックな雰囲気を一発で気に入ってしまい、この大学に入りたいと心から思ったし、将来はこの地に住みたいとすら思ったのを覚えている。

かつて駅前にあった本屋さんはもうないが、銀行と信用金庫の大きな店舗は健在である。30年前から残っている店も結構多い。フランス料理のレストランもそのまま。学生には敷居が高すぎて、その後も結局チャンスがなくて行ったことはない。その代わりなんども行った喫茶店が健在なのはうれしい限り。

銀行員時代に取引先だった店舗がある。もう社長さんもいい歳だろうなどと思ってみる。何気なく入って行けば、今もあの頃のように店番をしていたりするのだろうか、それとも代替わりしたのだろうかなどと思ってみる。入って行ってみて、仮に社長さんが今も店番をしていたとしても、私のことなどもう覚えていないだろうと思う。

キャンパス内は、さすがに大きな変化はない。講堂関係は昔のままだし、緑の中で悠然と佇む様は壮観である。それだけ見ていると、時間の流れを感じさせない。今でも30年前の感覚が蘇ってくる。私は、当時の大半の学生の風潮と異なり、授業にはかなり真面目に出ていた。授業とラグビーとで、一週間に7日間国立に通っていた。各教室内の雰囲気も味があって良かったと今でも思う。

街を歩いていて、そこかしこに思いが及ぶ。普段はすっかり忘れていても、そこに来ると思い出すことがある。それは学生時代のことであったり、銀行員時代のことであったりするが、そこに来た瞬間、「ああそう言えば」と思い出すのである。そう考えてみると、この街には私の思い出が埋まっていると言うこともできる。だからだろう、散歩していても飽きると言うことがない。それどころか、「あそこはどうなっているだろうか」などと次々に連鎖して行くから、全部行こうとしたらとてもではないが、「ちょっと散歩」と言うわけにはいかないだろう。

今日はほどほどに切り上げ、グラウンドへと向かった。5月とは思えない夏日の1日。人工芝の上でボールを追い、流す汗が心地良い。ここはいつも気軽に来ることができる。30年前は、土と雑草のグラウンドだったが、今では立派な人工芝。あの頃、こんなグラウンドでやりたかったなとつくづく思う。高架式になり近代的になった国立駅から帰りの中央線に乗る。昔の味わいのある駅舎は残念ながらもうない。変わったようでいて変わらず、変わらないようでいて変わりゆく街。

次に行くのは、また来月の練習日。また少し早めに行き、今度は今日歩かなかったところを歩いてみようかと思ったのである・・・



【今週の読書】
 ニュースで学べない日本経済 - 大前 研一 ノモンハンの夏 (文春文庫) - 半藤 一利





2017年5月17日水曜日

論語雑感 為政第二(その2)

子曰。詩三百。一言以蔽之。曰思無邪。
(いわ)く、()三百(さんびゃく)一言(いちげん)(もっ)(これ)(おお)えば、(いわ)く、(おも)(よこしま)()し。
【訳】(Web漢文体系)
先師がいわれた。詩経にはおよそ三百篇の詩があるが、その全体を貫く精神は『思い邪なし』の一句につきている。
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中国古典として有名な詩経について語ったものであるが、詩経については読んだこともなく、名前しか知らない。したがって、全体を貫く精神がどうのこうのと言われてもピンとこない。ただ、「邪なし」という部分については思うところもあり、考えてみた。

「邪がない」ということは、国語的には「正しくない」といった意味になるのであるが、果たして詩経の意味するところはどうであろうか。読んだこともないので細かいニュアンスはわからない。ただ、個人的に「邪なし」と聞くと、「純粋」というイメージがする。何が純粋かというとそれは「私心がない」ということだろう。それは特にリーダーに求められる資質だと思う。

リーダーとは、会社で言えば社長だし、スポーツチームで言えば監督だろうか。もっと下のレベルで部長とか課長とかの場合もあるだろうし、キャプテンのレベルもあるだろうが、いずれにせよリーダーに「私心」があると、それはチームの士気にかかわり、メンバーのロイヤルティーにもかかわると思う。当然、私心溢れるリーダーの下では、士気も上がらないだろうし、ロイヤルティーも下がるだろう。

考えてみれば当然で、社長が社員に出す指示が、私腹を肥やすことにつながったりしていれば、社員は黙って従うだろうが内心良くは思わない。例えば中小企業などでは、よく社長が私用で使った領収書を経理に回すようなことがある。社長にしてみたら自分の会社だし、少しでも税金を軽減したいしという思いから、何も考えずにそうしているのかもしれない。ただ、それを指示されてやる立場からすると、(自分だったら)快くは思わないだろう。逆にそれが営業に関するものだったりすると、「社長も頑張っているのだな」と思うだろう。

監督に対する信頼感も、もちろんその指示がチームの勝利に結びつくものであることによって強化されるだろう。それがメンバー選びなどで、自分より劣っていると思う者が選ばれて、それが監督の身内やお気に入りだったりすると、チームに献身する気も失せてしまうだろう。言い換えれば「納得性」という言葉になると思うが、そうしたものがチームスポーツなどではチームの原動力の一因になると思う。

こうした「邪なし」はリーダーだけに問われるものかと言えば、それだけでもないだろう。例えばチームの一メンバーであったとしても、チーム方針に対する意見を述べる時などは、大局的な観点に立った意見というものが要求されるだろう。「チーム全体にとって良い事」であれば、その意見にも説得力が加わる。単に自分に都合がいいだけのものだったりすれば、反発を招くだけでとてもみんなの合意など得られない。

そうしたことをあれこれと考えると、結局のところグループで動く場合は、この「思い邪なし」という原則が基本原則になってくるように思う。果たして詩経に収められているのはどんな内容なのかはわからないが、この言葉を目にしてそんなことを思う。
今、小さいと言えども会社の中でそれなりの立場にいることを考えると、我が身にも当てはめてみたいと思うのである・・・

 

【本日の読書】
 レシピ公開「伊右衛門」と絶対秘密「コカ・コーラ」、どっちが賢い?―特許・知財の最新常識― - 新井信昭 怪談 (集英社文庫) - 小池真理子




2017年5月14日日曜日

朝令暮改がなぜ悪い

先日のこと、社長がずっと当面の会社の目標としてきたことを変えるような発言をした。ここにきて突然変えるのかと思ったが、それは果たしていいことなのか悪いことなのか正直に言えばわからない。目標がコロコロ変わったらやりにくいし、かと言って絶対不変のものでなければいけないというものでもないだろう。何が正しいのか、自分の思考も整理したいと思う。

これに関連して、朝令暮改という言葉がある。朝に出した指示を夕方変えてしまうことで、一般的にはマイナスイメージの言葉として捉えられている。しかし、ビジネス的には、めまぐるしく変わる経営環境には迅速な対応が求められるのも事実だし、朝令暮改のスピード感が必要な時もある。一概に悪いこととは言えない。

では、何が良くて何が悪いのか。なんとなくそれは、「変えるべきもの」と「変えてはいけないもの」の違いである気がする。企業のあるべき姿とか大目標とか、そうした根幹に関わるべきものは、そうそう易々と変えるべきものではないだろう。一方で、それらを達成する方法は柔軟に変えていくのが良いと思う。戦術は柔軟にである。

例えば、「北海道に旅行に行こう」という目標があったとして、みんなで準備をしていたとする。そこで「飛行機で行こう」と言っていたものを直前になって「やっぱり新幹線で行こう」、「フェリーで行こう」と変えるのは戦術レベルの変更だ。目標を達成する手段は、「その達成の仕方」を含めて変えてもいいと思う。しかし、「やっぱり沖縄に行こう」とやられると、準備は最初からすべてやり直しとなる。これを朝令暮改でやられるのは、実行部隊としては厳しいものがある。

では、「そこは絶対変えてはいけないのか」と言うと、そう言い切ってしまうのも問題があるような気がする。ただ一つ言えるのは、「朝令暮改で変えるべきではない」と言うことだろう。企業の根幹に関わることをコロコロ変えるのは、社員のモチベーションや外部に対する信頼感という意味でまずいであろう。誰もが仕方ないと納得するような理由が必要になってくる。

そういうと、仕方ない理由を簡単に探してきて見せたりする人もいるかもしれない。だがそれは、「よっぽどの理由」である。例えば、「大地震で現地は大混乱」などとなれば誰もがやむを得まいと思うが、「天候が悪化して飛行機が運休」などという程度では「よっぽど」とは言えまい。代替手段が思いつく限りは、目標達成に向けて少々の障害はクリアしないといけない。

では、「よっぽどの理由」がなければダメなのか。これも最後は「納得性」の問題だと思う。指示される社員が、「納得」すれば問題ない。結局のところ、あれこれ考えても最後はこの「納得性」なのではないかという気がする。「変えるべきではない」ようなことを変えるにあたり、十分な時間をとって説明し、議論し、そして納得を得る。その上での変更なら、社員も「仕方ない」と思うのではないだろうか。

結局のところ、1人でやっているなら何も問題はないわけであるが、社員を使い組織で動く場合には、目標変更は社員のモチベーションを意識してやらないといけないという結論に行き当たる。そしてそれは、戦術レベルならともかく、企業の根幹に関わるものになればなるほどである。必然的に朝令暮改的にはできなくなるであろう。

さて、そう結論づけたところで我が社の目標はどうなるのであろうか。社長の気持ちもあるし、じっくりと議論して双方の納得性を高めていきたいと思うのである・・・




【今週の読書】
 東大が考える100歳までの人生設計 ヘルシーエイジング (幻冬舎単行本) - 東京大学高齢社会総合研究機構 海と毒薬 (角川文庫) - 遠藤 周作, 駒井 哲郎





2017年5月11日木曜日

宗教の意義

前回、宗教のあるべき姿について考えた際、同時に何となく感じたこと。それはなぜキリスト教が度重なる迫害にも負けずに拡大し、世界宗教へと発展したのかという理由である。それは、遠藤周作の『侍』をよんでいて何となくわかったような気がする。

 『侍』では、主人公の侍は藩命を受けて宣教師ベラスコに率いられてノベスパニアからスペイン、バチカンへと旅するのであるが、藩命を成就すべく道中でキリスト教に改宗する。心からの改宗でなく形だけのものである。ところが国内ではキリスト教に対する弾圧が開始され、侍の藩命は叶うことなく終わり、失意のうちに帰国する。そして、そこに待っていたのはキリスト教に帰依したことに対するお咎め。

 お役目を果たせなければ切腹もあり得る時代、お役目の為に苦難の旅を果たしたが目的叶わず、待っていたのは理不尽な仕打ち。侍はやり切れぬ思いに苦悩するのであるが、やがて十字架に磔となったキリスト像に救いを見出していく。ここに宗教の本質があるように思う。三浦綾子の小説『氷点』を読んでキリスト教の「原罪」の意味が良くわかったが、この本では宗教に帰依する気持ちがわかったような気がする。

 その本質は、「救い」である。侍はお役目大事と自らの意思を曲げてキリスト教に改宗する。しかし、国内情勢の変動という自らはどうしようもない外部事情でお役目を果たせず、さらに帰国後は「キリスト教に帰依した」という事実をもって責められ、詰め腹を切らされることになる。これほどの理不尽に対し、侍は誰にもその無念をぶつけようもない。そんなやり切れぬ思いを癒してくれたのが、信じてもいないキリストの像だったわけである。

 「苦しい時の神頼み」という言葉がある。人間は、どうしようもないピンチに陥り、あるいは不安を抱えた時に普段信心もしていない神様にすがるのである。「神仏は尊ぶが神仏に頼まず」が信条の私でさえ、数年前神頼みをした。毎朝早くに近所の氏神様を詣で、手を合わせたのである。その時はもう自分ではできることはない状態で、できることと言えば神頼みくらいであったから、神様に手を合わせたのである。実際は、神頼みと言いつつ半分は手を合わせることによって心の平安を得ていたところもあったと思う。それも宗教の役割だと思う。

 藩の為にと私心を捨ててやった行為が仇となり、今やそれで腹を切らされる。侍にとってはそれは耐え難き心痛であろう。客観的に見ても運が悪かったとしか言いようがない。そして武士としてはお家存続もあり、抵抗は許されない。理不尽な運命を受け入れるしかない時、そっとそばで慰めを与えてくれれば、人は誰でもその者に心を許すであろう。侍が真のキリスト者になっていく過程がよく理解できる小説であり、三浦綾子と同様、クリスチャンであった遠藤周作らしい信仰の描き方で、両著ともキリスト教というものをよく説明してくれている。

 私の場合は、結果的に神頼みの効果はなかった。そういう意味では、「髪も仏もあるものか」という気分だったが、毎朝神社にお参りをすることによって、一時の心の平安を得られたのは事実である。そしてそれでいいのだと思う。やはり神仏は尊ぶものであって、頼むものではないのである。神社に行って神聖な空気に触れ、心静かに謙虚な気持ちで二礼二拍手一礼する。それで心の平安を得られれば良いとするべきなのであろう。

 毎朝神社に通っていると、神社の前を通る時に一礼して行く人たちが少なからずいた。ちょっとした驚きであったが、そういう人たちがいることを嬉しくも思う。自分自身、キリスト教徒になることは、これからも多分ないと思うが、近所の氏神様に対する信心は持っていたいと思う。そしてそこを謙虚になれる自分なりの場所と時間とにし、折に触れ足を向けたいと思う。
そういう信仰もありなのではないかと思うのである・・・



【本日の読書】
 東大が考える100歳までの人生設計 ヘルシーエイジング (幻冬舎単行本) - 東京大学高齢社会総合研究機構





2017年5月7日日曜日

宗教のあるべき姿

最近、『侍』を読み、『ノートルダムの鐘』を鑑賞し、その流れでキリスト教に関しいろいろと思いを巡らせた。自分自身、平均的日本人らしく宗教観は曖昧で、「なんとなくぼんやりとそれらしく振舞う」といった程度である。心から信じている神の像があるわけでもなく、せいぜい初詣とかに神社で手を合わせるくらいである。

ドライに考えていくなら、神様というのは人間の想像力の賜物だと思う。地球ができたのも生命の誕生も自然現象のなせる技で、あえて言うならその自然現象を引き起こす力を神と名付ければ辻褄が合うだろうが、イエス・キリストの奇跡は今となっては検証のしようもないし、言い伝えの類だと思う。ただ、宗教は人間を謙虚にさせる効果もあるし、様々な効用があるから、信じること自体悪いことではなく、むしろ良いことだと思う。ただ、信者としての姿は如何なものかと苦言を呈したくなること、しばしばである。

その最たるものは、「なぜ自ら崇めるキリストのように行動しないのか」というところだろう。十戒では、「汝殺すなかれ」と説かれているにも関わらず、殺人はなくならない。ある程度の犯罪者は別としても、十字軍の歴史を紐解くまでもなく、「神の御名において」正当化された軍事行動は数え切れない。キリストの奇跡を信じるのであれば、キリストの教えたように行動すべきなのではないのだろうかと思ってみる。

例えば、イエス・キリストが現代に復活し、アメリカ合衆国に住んで大統領に立候補したら、間違いなく当選するに違いない。その時、イエスは必要な事態となった場合、果たして核のボタンを押すであろうか。それほど極端でなくとも、そもそも軍にシリアへの空爆のような作戦行動を命じるであろうか。「左の頬を打たれたら」と教えるキリストがそんな行動を命じるはずがない。だが、普通の大統領に選ばれるような人は、たとえクリスチャンでもそうは考えないであろう。銃規制ができないのも、規制されては困る銃器メーカーが裏で手を回しているのだろうが、神の教えに従うのであればそういうことはできないしさせないであろう。

結局、キリスト教徒と言っても、それは「都合の良い部分だけを都合良く」解釈して神を信じているというだけの話であると断言しても差し支えはないであろう。一人一人が、「もしもイエス・キリストであったらどう行動するだろうか」と考えて行動するのであれば、アメリカをはじめとした欧米諸国の行動も違ったものになるだろうし、世界は今よりもはるかに平和になっているに違いない。

もちろん、日曜日には必ず教会に行き、自らの行いを常に悔い改め、人には愛をと真面目に教えを守っている人もいるだろう。だが、大概は自分の都合の良いように教えを解釈し、神の御名の下、自分の好きなように行動しているように思えてならない。『ノートルダムの鐘』のフロロー大助祭の姿がそれをよく物語っている。私はクリスチャンではないから、神を信じながらもその教えに従おうとしない考え方はよくわからない。その点、我が国の宗教は寛容だと思う。

我が国の宗教は、主として神道になると思うのだが、神道では何かをしろと命ずることもなく、八百万の神々に対してはただ敬う気持ちだけを持てば良いというもの。他の宗教の神についても寛容であるから、仏教を始めキリスト教もイスラム教も禁止しない。歴史的に神道に宗教戦争がない所以である。日曜日の礼拝も、15回の礼拝も義務付けられておらず、思わず存在を忘れてしまいそうなほどである。そう考えると、我が国の神道は大事にするべきものに思えてくる。初詣以外にも折に触れ、ご近所の氏神様にお参りでもしないといけない気もしてくる。

人間は、ともすると尊大になりがちである。自分よりはるかに偉大な存在があるということは、人間を謙虚にさせる効果がある。人に頭を下げるのに抵抗がある人も、神様なら抵抗は少ないだろう。そういう意味で、宗教はあっても良いと思うし、自分も否定せずに受け入れたいと思う。そしてできるならその教えは、我が国オリジナルの平和的なものにしたいと思う。もしもこの先クリスチャンやムスリムの人と宗教について語る機会があれば、自信を持って我が国の伝統的宗教の信者を名乗りたいと思うのである・・・