2013年2月16日土曜日

日本的意思決定

先日、世話役として参加している社会人向け勉強会で、「日本的意思決定」の話が出た。
その中で、ある銀行の頭取が重要案件を決める席上で、「金融庁は何と言っているのか」「前例はあるのか」「他行はどうなのか」という質問をしたと言う。
会議に参加していたある外国人が、滑稽に思って広めたらしい。
それを聞いて笑えなかったのは、私が銀行員だったからでもあるし、これこそ「日本的意思決定」であると思ったからでもある。

そもそも日本は聖徳太子の時代から、「和をもって貴しとなす」(17条憲法第1条)国である。第2条(仏)よりも第3条(天皇)よりも「和」が先に来る国である。
欧米の個人主義は個々の個性が尊重されるが、日本人は「和」である。
そうすると、組織における意思決定も、トップダウン型よりもボトムアップ型となる。
銀行では、支店長が決めて来た融資案件であっても、担当者が稟議という形でお伺いを立て支店長に改めて承認をもらう形を取るのである。


ボトムアップ型も悪くはない。
一担当者が組織に自分の考えを働きかけていける良さがある。
しかしながらそこに組織の多数の意見が加わる。
全員が一致して無条件に賛成というなら問題はないが、大概はいろいろな意見が出てきて調整が必要となる。どの意見も尊重すると、まとまらなくなる。
どうするか。

ここで生きてくるのが、自分達の輪から超越した意見あるいは絶対に間違いのない意見。
要は「錦の御旗」であり、過去の成功体験=前例である。
そしてそれがなければ、「みんなが同意していること」、つまり「みんなで渡れば怖くない」理論だ。

先の頭取も、欧米であれば一人で決めるだろうが、「和をもって貴し」とする社会では頭取と言えども私利私欲ではない「正しい回答」をする必要がある。
だから「錦の御旗」=金融庁の意見、「前例」、そして「みんなの意見」=他行動向を尋ねたのである。

この「錦の御旗」はいろいろと形が変わる。日本が“外圧”に弱いのも、その一種だと思う。
最近読み終えたばかりの「ローマ法王に米を食べさせた男」という本にも、「内側の人間は近い人間の悪いところしか見ない」という説明があった。我が子の良いところを近所の人の評価で知るという例だったが、会議で身内の人間が意見を言っても取り上げず、権威のある識者が語っていたりすると信用するというのも同じ理屈だ。

「他所で流行っている」などという説明が説得力を持ち、だから日本人はオリジナルな創作に弱く、モノマネに強い。スティーブ・ジョブズもソニーに勤めていたら、例えアイディアを思いついてもiPhoneは作れなかっただろう。

考えてみれば、「絶対的に正しい答え」などそうあるわけではない。
どこかで割り切るしかないが、問題は「誰が割り切るか」だ。
個人主義社会では絶対的トップがいるから問題ないし、そもそもそれがリーダーシップの証で称賛される。ところが和の社会では、トップと言えども調和を求められる。

トップが創業者で、「絶対君主」なら問題はないし意思決定も早いが、サラリーマンが階段を上りつめたタイプのトップだと、みんなが正解だと思うような答えを求める。「絶対的に正しい答え」を求めるから、会議の回数も増えるし、意思決定にも時間がかかる。
稟議に回す書類の形式でさえ、いろいろ意見がでると収拾がつかず、それを回避するため書式も統一したりする(ここでも前例踏襲だ)。それが高じると「フォント」の大きさや種類を直すという作業に気を取られ、時間を取られる事になる。そうしてようやく晴れて意思決定がなされる。

稟議書の出来栄えは見事だが、ようやく卵が割れた時には、隣では同時に産み落とされた卵から孵ったヒナが成長して次の卵を産んでいたりする。国会議員の削減がなかなかできず、震災の復興が進まないのもある意味必然なのかもしれない。政治家が悪いという指摘も、突き詰めていけばそんなところに当たるのではないかという気もする。

大きな組織になればなるほど、公平性が求められればられるほど、行きつく姿なのかもしれない。そしてそれこそが、我が日本社会の持つ特質なのかもしれないと思うのである・・・


【今週の読書】
「ローマ法王に米を食べさせた男」高野誠鮮
「人生の科学」デイヴィッド・ブルックス
「ヒア・カムズ・ザ・サン」有川浩

   

 

 

0 件のコメント:

コメントを投稿