2012年12月6日木曜日

雨について思う

先日家族でディズニー・シーに行った。
この時期我が家恒例の年中行事である。
しかし空は生憎の曇り空。
天気予報は無情の「夕方から雨」を告げていた。
そして、その通り暗くなると同時にパラパラと雨が降り出した。

雨は降っても困るし降らなくても困るという、考えてみれば誠に奇妙な現象だ。
しかしながら雨というキーワードで過去を振り返ってみると、せっかく後楽園球場に野球を観に連れて行ってもらったのに試合が中止になってしまったりとか、旅先で恨めし気に空を見上げたとか、そんなネガティブなものが多い。
「恵みの雨」とは言うけれど、よくよく考えてみればそれは農家の人たちとかで、我々都会人にはやっぱり煩わしいものであるようだ。

妻などはよく「洗濯物が乾かない」と嘆いているし、それは主婦にとっては共通の認識でもあるだろう(そういう妻は小学生の頃、運動会の前の日に真剣に雨乞いしていたそうである)。
都会人にとっては、雨は嫌われ者と言えそうだ。
いざという時の雨は、本当に嘆かわしいものだ。
もっとも私自身は自称「晴れ男」なので、雨に泣かされる事は少ない方かもしれない。


雨で印象深いのは、やっぱりラグビーだ。
高校に入ってラグビーを始めた時、一番驚いたのが、「ラグビーの試合は雨でも中止にならない」という習慣だ。それまで野球をやっていたから、これはちょっとした驚きだった。
困ったのは、「だから練習も中止にしない」という最もな理屈。

それでも主要グラウンド(通称A面)は学校が使わせてくれなかったから、雨の日の練習はもっぱら通称“C面”と 呼んでいた、グラウンドというよりも体育館の裏の空き地だった。
狭いから大した事はできず、もっぱら地面のボールを滑り込んでキープするような練習ばかりさせられた。練習後の姿は想像するに難しくないと思う。

年に一度の夏合宿では、やっぱり辛くてみんなで雨乞いをした。
「雨でも練習する」という習慣を忘れたわけではなかったが、それでも雨乞いせざるを得なかった。「ひょっとしたら」という奇跡にすがったと言えるが、結果はやっぱり雨の中で練習は続けられた。

当然試合も雨の中で何度もやったが、相手も同じ条件とは言え、実力が十分発揮できたとは言えない。ボールはすべるし、ぬかるみに足は取られるし、動きも大きく制限されてしまう(もっとも最近は人工芝化も進んでいるので、状況も少し違うかもしれない)。

雨の日の試合は、やっぱり悲壮感が漂う。
ドラマでも、傷心の主人公が雨にずぶぬれになるのは定番のパターンだが、雨にはそういう効果がある。「涙雨」という言葉があるくらいだし、「氷雨」は悲しい内容だし、雨がふって楽しいのは童謡くらいではないだろうか。

外出する時に雨というのはやっぱり鬱陶しい。
しかしながら、この世に生きていく以上、雨は避けられない。
避けられないものなら、それなりに受け入れるしかない。
それが休みの日だったりしたら、諦めて晴耕雨読の精神で穏やかに過ごしたいと思うのである・・・



【本日の読書】

『マスタースイッチ 「正しい独裁者」を模索するアメリカ』ティム・ウー



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