2012年9月22日土曜日

勉強が楽しい

ただいま中学受験勉強中の我が娘。
目標は地元都立中高の一本勝負。
そんな娘はけっこう頑張って勉強している。
夏には自ら志願して合宿に行き、夏期講習にも通った。
こちらからけしかけたわけではないのに、である。

そんな娘に何気なく聞いてみた。
「勉強楽しい?」
すると間髪を入れず、「楽しい!」との答えが返ってきた。
勉強を楽しめるというのは良い事だ。
勉強は強制されたり、嫌々ながらやっても何ら身につくものではない。

そういう私も勉強は好きだった。
勉強が好きなどと言うと奇異の目で見られそうな気もするが、堅苦しい“勉強”と捕えるからそう思うわけで、例えば“クイズ”だと思えばそうは思われない。
「A君とB君が周囲10キロの池の周りをそれぞれ反対方向に走ります。
A君は時速8キロ、B君は時速10キロで走った時、二人が出会うのは何分後ですか?」
という問題を「算数の問題」と捕えるか「クイズ」と捕えるのかで、イメージは変わってくる。

私はもともとアルセーヌ・ルパンなどの謎解きモノは大好きであったし、今でも数独を初めとしてパズルモノは大好きで、すきま時間を利用してやったりしている。
数独などはあれこれと数字を推理していくものであるが、算数などはいろいろな問題に対し、公式などを駆使して解いていく謎解きそのものだし、そういう謎解きが好きであれば苦にならない事である。

歴史も大河ドラマだと思えば苦にならない。
「逆説の日本史」シリーズなどは面白くてずっと読み続けている。
確かに年号を覚えたりするのは大変なところはあるが、連続ドラマととらえれば日本史も世界史も面白く、受験勉強も苦ではなかった。

正直言ってさすがにすべての勉強が楽しいと言うわけでもなかった。
物理・化学といった「想像力だけでついて行かれない」ものは苦手だった。
高校時代唯一赤点を取ったのは化学だったし、自分なりに勉強してもそれだったから、興味の範囲から外れてしまうとそういう部分は出てきてしまう。

英語は中学で習い始めた最初から“勉強”などという意識は持った事がない。
既に「洋画を字幕なしで観たい」という願望を持っていたから、英語の授業はそのためのトレーニングだった。大学受験では英語が重視されていたから、特に時間を割いたが、英字新聞を読みFENのラジオを聞いたりしたのもすべてその一念だった。


実は今でも毎朝英語版CNNのネットニュースを読んでいるが、これもそのためだ。
言い方を帰れば「毎朝英語の勉強をしています」という事になるが、本人はそんなつもりは毛頭ない。
人は誰でも知らない事を知りたいと思うものだし、謎解きもそうだと思う。
義務と考えるから嫌になるのかもしれない。
私はもともと好奇心旺盛な方だと思う。
だから余計隣で何かやっていれば気になってしまうところがある。

大学時代は、熱心に授業に出席する“真面目な学生”だった。
ラグビー部の友人たちは、なるべく授業に出なくて済むようにしていたが、私はラグビーの練習スケジュールを睨みながらたくさんの授業に出た。
1コマ90分として、友人たちは週平均5コマ出ていればいい方だっただろうが、私は12コマ出ていた。それはもちろん、授業料を出してもらっている親に申し訳ないという気持ちも半分あったが、残り半分は好奇心だった。
そしてそういう学生生活は苦でも何でもなく、むしろ楽しんでいたのである。

娘も算数は謎解きの過程が面白いようである。
国語も作文は好きなようだし、社会も理科も面白いと言う。
ただ歴史は苦手らしい。
そういうところは、歴史の楽しさを語ってあげる事で解消できれば、とも思う。

これから受験まで残り半年を切った。
受験は受験でできる限り頑張ってほしいと思うが、それ以上に「勉強を楽しい」と思う気持ちは失わないでもらいたいと思う。
「MASTER・キートン」では、ユーリー・スコット教授が、
「人間はどんなところでも学ぶことができる。知りたいという心さえあれば」
と語っている。そういう「知りたい心、解きたい心」をずっと保っていてほしいと思う。

それは娘だけではなく、自分もそうあり続けたいと思うのである・・・
    

 

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