2011年5月14日土曜日

人生の幕引き

芸能人の自殺のニュースを目にした。
ほとんど知らないタレントだったが、まだ24歳と若く、いくら辛い事があってもこれからいくらでも変わっていくだろうにと、何とも言えない気がする。
我が国では、毎年3万人以上の人が自ら命を断つ。
中には小学生もいるから驚きだ。

私自身これまで自殺しようなどとは考えた事もなく、たぶん間違ってもしないとずっと思っていた。人生の目的は生きる事で、それも「より良く生きる」事であって、途中で諦めるべき事ではないと。しかし、最近ちょっと考え方が変わってきている。
場合によっては、それも「より良く生きる」ための選択肢ではないかと・・・

私の最も敬愛していた父方の祖父は1994年に亡くなった。
癌の告知を受け、もう治らないと医師から言われ、農薬を飲んだのだ。
10日ほど地元の病院に入院したあと、そこで息を引き取った。
死ぬ1週間ほど前に病院に見舞いに行った時、何も語らず私に形見となる品をくれたのだった。

親戚内では告知をした医師に対する批判が出ていた。
その時は、なぜ祖父が農薬を飲むなどという事をしたのかわからなかった。
いつも陽気だった祖父だが、いよいよ治らないとなって、そこで人生を投げ出したくなったのだろうか、と。

だが、最近思うのだ。
祖父は投げ出したのではなく、自分の手で静かにピリオドを打っただけなのだ、と。
子供たちはみんな立派に成長して家族を持ち、孫たちも次々に社会人になっている。
孫の私とも酒を飲めるようになっていたし、痴呆だった祖母も見送り、やる事もやって満足してもう潮時だと思ったのだろう。祖父の死に暗いものが感じられなかったのも、たぶんそんな満足感に薄々気がついていたからではないかと思う。

私も年をとって同じような状況になったら、お迎えが来るのを待つよりも、自分から行くのも悪くはないと思う。子供たちに必要以上に手間をかけさせるのもどうかと思うし、毎日同じ天井をいつとも知れずに眺めていたいとも思わない。
ただひたすら「死ぬまで生きる」事が良い生き方だとも思えない。
自分で満足できたなら、祖父のように自分で幕を下ろすのも悪くはないと思える。
何より身の回りの整理もできるし、葬式に誰を呼べとか、葬儀屋の手配もしておける。
日取りも、年末年始や誰かの何かの記念日は避けようとかもできる。
そんなに暗いアイディアでもなさそうである。

しかし、ふと考えると「どうやって」というところが問題だ。
飛び降りたり、飛び込んだりは後片付けが大変だし、首を吊るのも発見者にいい印象を与えない。しずかに布団の中にいる方が面倒をかけなくて済むが、それだと薬物しかないが手に入るだろうかという懸念が残る。せいぜい睡眠薬くらいだろうか。
確実に楽に行ける薬がうまく手に入ればいいのだが・・・

だがそれも意識がはっきりしていないとダメだ。
痴呆になったらそれどころではないし、脳死なんてケースはどうにもならない。

海外では自ら安楽死を選べる国があるらしいが、日本もそうなるにはまだまだ時間がかかりそうである。そういう時に、自ら楽に人生の幕を下ろせる方法があればいいのだがと案じてみたりする。

まあそんな心配はまだまだ先の事だ。
悩み多い毎日だとは言っても、ゴールまではまだまだ遠いし、いくらでも逆転の可能性はある。楽しい事だってあるだろうし、映画だって本だってこれからも面白いものがどんどん生み出されてくるだろう。

しばらくの間は、「最後のこと」などに思い煩うことなく、人生を堪能していきたいと思うのである・・・

【昨日の読書】
「もっといい会社 もっといい人生」チャールズ・ハンディ
「逆説の日本史17」井沢元彦

    

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