【原文】
子曰、吾未見好德如好色者也。
【読み下し】
子曰く、吾は未だ徳を好むこと、色を好むが如くなる者を見ざるなり。
【訳】
先師がいわれた。「私はまだ色事を好むほど徳を好む者を見たことがない」
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孔子の言葉も論語を読んでいるとよく分かりなかったりするものも多いが、素直に受け取るべきなのか戸惑うものもある。これは戸惑うものの一つである。そもそも徳を色事(=性欲)と比較するのかという感じがする。例えで比較するにしても性欲と比較するのは果たして適切なのかとさえ思う。性欲は食欲と睡眠欲からなる人間の3大欲求の一つであり、それは人間というより生命としての遺伝子レベルでの欲求である。後天的な徳と比較できるものではない。そもそも孔子ですらその欲求から逃れられていたとは思えない。
人間の3大欲求であるが、食欲と睡眠欲は色眼鏡では見られない。せいぜい食欲については過度のものが戒められる程度である。睡眠欲も然り。しかし、性欲だけはどうも表に出すことを憚られる。聖職者にあってはわずかな例外を除いて禁忌とされるのが多く、あたかも聖職者は性欲とは無縁のような顔をしている。しかし、キリスト教で数年前に性的虐待スキャンダルが明らかになったのは決して例外的なことではなく、それ以外にも映画(『スポットライト 世紀のスクープ』)の題材にもなっているのもある。
それは決しておかしな事ではなく、そもそも性欲は人間の根本に根差した欲求であるから、いかに表面的に徳でカバーしようとしてもできないものだからに他ならない。徳としては他の人よりも積んでいるはずの神父ですらそうなのだから、ましてや他の一般人についてはなおさらである。つまり、どれほど徳を積もうとそれが性欲を上回ることはないということであり、孔子の言うことは「ないものねだり」とさえ言うことができると思う。初めから成り立たないのである。
しかし、そこは考え様である。徳とはどのようなものかということにも関わることであるが、いくら好きでも時と場所をわきまえることは必要である。その「わきまえる」ということが「徳」だというのであれば、それは「徳>性欲」というケースもあるだろう。女性を口説くにしても順序があるだろうし、風俗以外ではそれ目当てという事を前面に出さないのが男の嗜みとでも言うべき事である。そうしてグッと堪えることは本能にも勝ることであり、そういう意味では本能をなくすことはできずともコントロールすることは可能なのである。
いくらお腹が減っていても、周りの目を気にせずにガツガツと食べることははしたない事である。電車の中で口を開けて寝ている人の間抜けヅラも笑わせてくれる。起きている時にどんなにしっかりしていたとしても、その間抜けヅラを見てしまうと興醒めであろう。性欲もガツガツと表に出してしまっては、「品がない」と言われてしまうだろう。その昔、まだセクハラがない時代は会社で若い女性に下ネタを連発するおじさんたちがいたが、実にみっともないものであった。
3大欲求に打ち勝つことはできないが、うまくコントロールして表面上を装うことはできる。「色事を好むほど徳を好む」とまではいかなくとも、少なくとも表面上は装うことはできるはずであり、それこそが徳なのではないかと思う。刀も鞘に収まっているのがあるべき姿であり、「いざ」という時意外に抜き身のままにしておくのは周囲を落ち着かない気分にさせるだろう。良い鞘に収まってこその名刀であるようにも思う。私も還暦を過ぎて名刀の切れ味も落ちてきているように思うが、それゆえにこそ鞘は立派なままに保っておきたいと思うのである・・・
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| tuloolaecheaschaeferによるPixabayからの画像 |
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