2025年4月27日日曜日

映画『愛がなんだ』に見る愛の形

 映画『愛がなんだ』を観た。ストーリーだけを追えばちょっと変わった恋愛映画という事で片付けられるような映画なのであるが、映画の主人公の2人の関係を観ながらいろいろと考えさせられた。映画の主人公は、まもなくアラサーというOLの山田テルコ。田中マモルという男と付き合っているようであるが、どうもそういうわけでもない。というのも、テルコの思いは一方的で、マモルからはそれが感じられないのである。冒頭では風邪で寝込んでいるマモルからテルコに連絡が入り、差し入れを頼んでくる。喜び勇んでマモルの部屋に向かうテルコ。甲斐甲斐しくお粥を作る。

 その後、テルコは風呂掃除を始める。この時点で2人の親密度はわからないが、風呂掃除はやり過ぎのように思う。婚約しているとかならまだしも、そうでなければ「私はいい嫁になる」アピールのように思えてしまう。マモルはもういいからとテルコを追い返すのであるが、その気持ちもよくわかる。しかし、この時点で既に終電はなく(そんな時間に風呂掃除もないだろうが)、追い返すマモルももう少し気を遣いたいところ。テルコも後先考えずに行動するタイプのようで、手持ちの現金がなく、タクシーも呼べずに友達に頼んで泊めてもらう。

 テルコはマモルに一途なのであるが、それがまた異常。常にいつ呼び出されてもいいように待機状態だし、呼び出されれば状況いかんに関わらず喜んで駆けつける。2人で朝まで飲んでも、マモルは1人タクシーに乗って先に帰ろうとする。私の感覚であれば、先に女性をタクシーに乗せるだろう。どうやら惚れているのはテルコだけのようだが、マモルもそんなことは嫌でもわかるだろう。しかし、惚れていなくてもそのくらいの配慮は私ならするだろう。男からすれば、自分に惚れて何でも言いなりの女は実に便利である。会いたい時に呼び出し、やりたい時にやれる。そんな女を男なら1人はキープしておきたいところである。

 映画は少し大袈裟なところはあるが、好きになった相手に一途に突進するタイプは普通にいる。「好き好き」オーラを出しまくって相手に接するのである。相手も同じ気持ちならいいが、そうでない場合は(特に女性は)、便利に利用されてしまう可能性は高い。男にとって口説くハードルのない女は便利この上ない。本命の彼女がいればともかく、いなければ現れるまでの「つなぎ」にしようと思うだろう。それは決して女性にとってはいい事ではないはず。それを防ぐには、グッと気持ちを抑えて距離を保ちつつ接近するしかない。

 テルコの例であれば、具合の悪い相手に差し入れはいいだろうが、用が済んだらさっさと帰るべきだろう。あれもこれもと世話を焼くのはやり過ぎである。呼び出されても3回に1回は気持ちを抑えて断りたいところだ。応じても時間を見て適切な時間に帰る事も大事である。ボクシングで言う「ヒットアンドアウェイ」というやつである。「恋愛は駆け引き」などというつもりはないが、特に女性は男に遊ばれない工夫はすべきであろうと思う。

 相手を好きになったら男も女も相手に対して身も心も開いていくのだろうが、男と女ではやり方は変えるべきだと思う。男は一途にアタックするべきだし、それで相手の女性の心が動く可能性はある。しかし、男は寄ってくる女に対しては、それほど好きでなくても、気のあるふりをして便利なキープ女にしようという邪な考えを抱く可能性は高い。それゆえに女の方もガードしながら近づいていく必要がある。あまり簡単に許してはいけないと思う。

 私も自分の経験を振り返ってみると、上記のように思う。それが今の若者にも通じる原理なのかどうかはわからない。ただ、こういう映画が創られるという事は、今もまだ通じる心理なのかもしれない。男は好きでなくても恋人のように女と付き合えるものなのである。そういう事は私の娘にも警告として伝えてあげたい気もするが、「若い頃に何をやっていたのか」と突っ込まれるのもまずいし、伝え方は難しい。それでも映画を観ながら考えたのは、「注意するとしたら、テルコの方だろう」という事。これは女が自衛するしかないと思う。

 映画は観る者にいろいろな事を示唆してくる。ストーリーとは関係のないところで今回はあれこれと考えてしまった。ちなみに映画では男をいいように振り回す女も登場して、どっちもどっちであった。それぞれ「相手のことを考えてあげようよ」と思ってしまったが、やはりこういうことに関しては男に対して同情心は湧いてこないものである。つくづく、女性には自らを安売りをしないようにしてするべきだと思うのである・・・


映画『愛がなんだ』

【今週の読書】

 いま世界の哲学者が考えていること - 岡本 裕一朗 シャーロック ホームズの凱旋 森見登美彦 単行本 猪木のためなら死ねる! 最も信頼された弟子が告白するアントニオ猪木の真実 - 藤原喜明, 佐山聡, 前田日明 〈他者〉からはじまる社会哲学 - 中山元 存在と思惟 中世哲学論集 (講談社学術文庫) - クラウス・リーゼンフーバー, 村井則夫, 矢玉俊彦, 山本芳久






2025年4月23日水曜日

いつの間にか迷惑メール

 個人のメール宛にも職場のメール宛にも大量のスパムメールが送られてくる。もういい加減何とかしてほしいところである。個人宛の方は迷惑メールフィルターが機能していてかなりブロックしてくれている。ときどき迷惑メールでないものまでブロックされているので、削除する時には一通り送り主とタイトルとに眼を通さないといけないが、それでも1つ1つ削除する手間を省いてくれるのはありがたい。それに対して、職場のメールはフィルター機能が怪しく、基本的にすべて入ってくる。土日には暇を見てこまめに削除しているが、そうしないと月曜の朝は迷惑メールの削除で仕事に取り掛かるのが遅れる事になる。

 職場に送られてくるメールは、アドレスも教えていないのに探り当てておくってくる純粋な迷惑メールと、名刺交換した相手からその会社のメーリングリストに登録されて送られてくるものとに分けられる。それぞれの会社から送られてくるメールは、親切にもメーリングリストの解除方法が記載されているものが多く、大半はひと手間かかるものの、それで解除できる。まだマシであると言える。ところがそのうちのとあるメールは解除ページに飛んでアドレスに入力しても「登録されていません」と表示されて解除できない。毎日「〇〇社△△(担当)」というタイトルで送られてきて嫌気がさしていた。

 ところが先日、その「〇〇社△△(担当)」から直接電話が掛かってきた。職場へのセールス電話は多いが、まさか迷惑メールのご本人から掛かってくる事態は想定していなかった。ちなみにその迷惑メールの「〇〇社△△(担当)」さんには一度も会った事はなく、おそらくホームページか何かで代表のアドレスを把握して登録の上、送付してきているのだと思われる。興味津々取り次がれた電話に出ると、「〇〇社△△(担当)です」と堂々たる話しぶり。そこで、「あぁ、〇〇社の△△(担当)ですね、よく存じ上げています」と親し気に応じた。

 私も少し意地が悪いところがあるかもしれない。初めて電話したはずなのに自分を知っているのかと訝しむ相手に「毎日スパムメールが送られてきて困っているのですっかりお名前を覚えてしまいました」と畳みかけた。さらに「解除はこちら」とあるのでわざわざ何度か試みたが、「登録されていない」と表示されて解除できなかったと続けた。一体、何の目的で頼んでもいないメールを毎日送りつけてくるのか?売名か営業か?売名なら大成功と言える。電話が掛かってきて即座にわかったのであるから。しかし、営業なら失敗である。

 サービス提供のつもりで毎日様々な情報を送りつけてくるのも本当にサービスとして役だっているなら効果はあるだろう。しかし、望みもしない相手に解除もできない形で有無を言わさず送りつけてくるのは逆効果以外の何ものでもない。件の会社の担当者はそんな事にも思いが及ばないのだろうかと思う。おそらくそのあたりの想像力はないのだろう。さらに毎日うんざりしているのでタイトルだけ見て中身も見ずにゴミ箱に入れているが、おかげで社名と担当者名が脳裏に焼き付いてしまったと伝えた。さすがに相手も恐縮して要件も話さず(さすがにそこまで心臓に毛は生えていなかったようである)メール配信の停止を約束して電話を切った。

 翌日、弊社の新事業会議で、新製品の販売戦略について話をした。弊社で初めての自社製品の販売である。何もかもが初めての試みであるが、宣伝をどうするかという話の中で、ターゲット企業のホームページにセールスメールを送るという意見が出てきた。毎日自社ホームページに大量に届くセールスメールをゴミ箱に入れている身としてはちょっと心が痛かった。逆の立場に立てば同じことをするのである。それでも中には目に止めて問い合わせをするケースもある。興味があるかないかはこちらにはわからない。やってみる価値はあると思う。ただ、毎日送りつけるのはやはり論外である。

 女性を口説く場合は一度や二度(や三度や四度、)断られたくらいで諦めるのは問題外で、そこは諦めずに行くべきだと思う。その熱意が頑なに閉ざされていた彼女の心を開かせる効果がある事は私も経験済みである。営業においても熱心に通い詰めてお客さんを口説き落とした武勇伝はあちこちで耳にする。それもまた真実である。しかし、メールにはそんな熱意はない。女性を口説くのにも営業マンが通うのにも熱意がある。その熱意が相手に伝われば相手を口説ける。しかし、安易に簡単に送るメールに熱意は必要ない。本物のスパムメールは同じタイトルで五月雨のように送り込んでくる。そこに熱意は欠片もない。0×∞=0なのである。

 営業に熱意は必要であるが、それはきちんと汗をかくものである必要がある。それが相手に伝わってこそ成果に結びつく。汗は脳みそにかくものであっても良いと思うが、正しく汗をかいてこそである。いろいろな事が簡単にできるようになった世の中であるが、正しく汗をかく努力はしなければならないだろうと思うのである・・・


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【本日の読書】
 いま世界の哲学者が考えていること - 岡本 裕一朗  黄色い家 - 川上未映子




2025年4月20日日曜日

論語雑感 子罕第九 (その1)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感
【原文】
子罕言利與命與仁。
【読み下し】
子(し)、罕(まれ)に利(り)と命(めい)と仁(じん)とを言(い)う。
【訳】
先師はめったに利益の問題にはふれられなかった。たまたまふれられると、必ず天命とか仁とかいうことと結びつけて話された。
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 儒教の伝統として利益の追求を戒めるところがある。日本にもその伝統が伝わっていて、士農工商の身分制度では商人が一番低い地位に置かれていた。それは現在でも伝統的に残っていて、「金が第一」などと公言しようものなら白い目で見られることは間違いない。しかし、そうは言ってもお金を否定できるものではない。人はなぜ働くのかと問われると、ほとんどの人が「お金」というだろう。そうでないという人には「無給でもやりますか」と問いたい。そこで無給でもやるという人こそ本当にお金のためではなく働いていると言えるだろう。

 先日、新入社員に企業理念について話をした。なぜ企業理念が必要なのかという話である。我々は民間企業であり、民間企業は利益追求企業である。しかし、それでは「儲ければ何でもいいのか」というと、当然そうではない。「どういう風に儲けるのか」が大事である。そこで企業理念を定めているわけである。企業理念に沿って経営活動を行い、正しく儲けようというものである。徹頭徹尾「金、金、金」ではやはり周りの尊敬は得られない。孔子の言う「天命」というほど大袈裟ではないが、それに相当するのが企業理念であろう。

 個人でもそれは同じで、「何のために働くのか」という問いに対し、一時的には「お金」ではあっても、それをどういう形でもらいたいかはまた別である。先日、転職希望者と面接をした。我が社の給与水準でいくと現状の年収より下がってしまう。損得だけで考えれば転職はしないであろう。しかし、その彼は今の職場ではできないことができるという理由で、あえて年収ダウンを呑んで転職を決めた。お金が第一ではあるが、お金がすべてではない。あえて言うなら「お金+α」のトータルバリューと言える。

 私の前職の社長は「金がすべて」という考え方であった。「何をして儲けるか」というよりも「いくら儲かるか」が大事という考え方であった。「顧客満足」の追求と言ってもそれがいくら儲かるのかと考え(大抵それはいくらと決めることは難しい)、そんな事を考えなくても儲けられればそれで良いんじゃないかと公言する人であった。経営の事がまるでわかっていなかったという事もある。大金持ちのボンボンで、とにかく「通帳の0が増えるのを見るのが楽しい」と公言して憚らなかった。最終的には社員全員を切り捨てて会社を売却して売却代金を独り占めした人だったが、それが必ずしも企業価値に見合わない安値になったのも当然かもしれない。

 私もそんな裏切りにあい、再就職先を探したが、最終的に候補に残ったのは2社。単純に年収だけならもう1社の方が高かったが、「仕事のやり甲斐」、「面白さ」という点で今の会社を選んだのである。そして働きを認めてもらい、今では年収も選ばなかったもう1社よりも大幅に増えている。お金も大事であるが、「何ができるか」も大事である。結局、今仕事が楽しいと感じられるのも、「お金以外の価値」を追求した結果である。「天命」とか「仁」などというつもりはないが、お金とそれ以外とをバランスよく追求する事が大事という点では同じだろう。

 孔子の言いたかったことはそういう事だろうと思うのである・・・

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【今週の読書】
 いま世界の哲学者が考えていること - 岡本 裕一朗  黄色い家 - 川上未映子






2025年4月16日水曜日

『THE DAYS』に見る部下のあり方

 前回、ドラマ『THE DAYS』を観て心理的安全性について感じる事を記したが、今回は部下のあり方について感じた事を述べてみたい。ドラマの総理大臣(菅直人元総理がモデル)は、未曽有の危機の中、専門家たちが思うような意見を出せず、イライラを募らせ、結果的に怒鳴ったり詰問したりを繰り返していた。今で言うパワハラであるが、部下の方としても対処の仕方はあると思えた。人間、どうしても怒鳴られれば萎縮する。完璧な答えを返そうと思えば思うほど慎重になるし、そうすると益々歯切れは悪くなるし、それはすなわち聞き手からすると不信感へとつながる悪循環である。

 まずは怒鳴られても怯まないのが一番である(と言っても気の弱い人には難しいかもしれない)。頭に血を上らせて怒鳴り返すのは論外だが、心の中で深呼吸し、冷静に言うべき事を返すのがいい。その際、「絶対間違いないか!」「100%正しいのか!」と詰められる事はよくある。そこも冷静に、そもそも「絶対という事はあり得ない」と答えを言う前に納得してもらう必要がある。当時の状況は誰もが経験した事のない状況なわけで、そもそも絶対という事がわかっていれば迷わず行動できるわけである。「より可能性の高い回答しかできない」と私なら怯まず答えるだろう。それで不満なら首にしてくれと。

 そもそも絶対とは言えない可能性のうちどのリスクを取るのか。それこそ最高司令官たる総理大臣の責任である。それを思い出してもらえるよう、冷静に答えたいところである。この「冷静に」というのも重要で、私も銀行員時代、債権回収の場で激高する経営者相手と対峙したことがある。怒鳴りつけてくる相手に対し、終始穏やかに冷静に話をし続けたところ、相手もだんだん落ち着いてきて、最後は互いに穏やかに話をして別れたのであるが、こちらが冷静であれば相手も冷静さを取り戻すのではないかと思う。

 激高する相手に対し、またはイライラして厳しい口調で詰問してくる相手に対し、怯まないでいられるには多少の勇気が必要かもしれない。どうしても顔を背けて逃げたくなるのが人情であるが、そこで面と向き合うのは勇気がいる事かもしれない。私はもともとラグビーをやっていたせいか、あまりビビるという事はこれまでになかった。私が社会人になった時、最初の上司は典型的なパワハラ上司であった。本来、課の№2的存在である主任さんもよく怒られ、立たされていた。新入社員の私はそのパワハラ上司の目の前に座らされており、私とパワハラ上司との間に主任さんが長時間立たされていて、その居心地の悪さに困惑した経験がある。

 その時の主任さんも気の弱い方で、やはり蛇に睨まれた蛙よろしく、パワハラ上司の詰問に黙り込む事がしばしばであった。黙り込まれるとよけいにイライラして回答を強い口調で求める。そうすると萎縮して声も小さくなり、自信のない回答になる。するとパワハラ上司はイライラして「はっきりしろ!」と怒鳴る。まさにドラマのような悪循環であった。隣で聞いていた私は、「間違ってもいいからはっきり自分の意見を言えばいいのに」と思っていたものである。毅然とした態度こそが、相手に対する安心感を与えるものではないかと思う。

 ドラマでは総理に報告すべく待ち構えていた関係者が歩いてくる総理に恐る恐る話しかける。「今聞かないといけない要件か!」と一喝されて、その関係者は怯んで「後でもかまいません」と引きさがってしまう。私なら、「こういう事態ですので、歩きながらでも聞いてください」と食い下がるだろう。どういう内容のものだったかはわからないが、本当に後でもいいような報告なら、総理の側近に報告して伝えてもらえばいいのであり、そうするべきである。わざわざ報告しようと思った内容であるなら、無理やりにでも報告するくらいの度胸がないとダメではないかと思う。

 そもそも上に立つ者がそんな態度ではいけないので、それがすべてであるが、運悪くそういう器量の狭い上司に当たってしまった場合は、殴られてもいい覚悟で堂々と報告すればきちんと対応してもらえるものだと思う(実際に殴られる事はまずないだろう)。東電の首脳陣も総理の勢いに怯んで海水注入中止を現場に指示する。それに対して現場責任者の吉田所長は面従腹背の態度で、中止する振りをしながら実際は注水を続ける。結果的にそれが良かったようなのであるが、そういう度胸のある人間が現場にいたから良かったものの、東電首脳陣のような「言いなり君」ばかりだったらどうなっていたのだろうかと背筋が寒くなる。

 パワハラ上司の下で、仕事では何も言い返せない2年目の若造だった私だが、夏休みの取得については、怯む先輩を差し置いて1人パワハラ上司と交渉し、上司から指定された7連休を拒否して9連休を勝ち取った。その時も自分の意見を怯むことなく伝えた結果であるが、その時にパワハラには「怯むな立ち向かえ」という教訓を得たのである。今はパワハラも指導が入る良い時代になったが、それに甘んじるのではなく、仕事では怯まず立ち向かう気概が部下にも必要だと思うのである・・・


【本日の読書】
MORAL 善悪と道徳の人類史 - ハンノ・ザウアー, 長谷川圭  黄色い家 - 川上未映子





2025年4月13日日曜日

『THE DAYS』に見る心理的安全性

 福島第一原発の事故を描いた『THE DAYS』を観ている。その前に本では『死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の500日』(門田隆将著) を読んでいるし、映画では『Fukushima 50』を観ているが、今度は全8話のドラマである。もうストーリーはお馴染みであるが、それでもそこから伝わってくる緊迫感、喉元過ぎればで「原発必要論」を声高に主張する人たちへの反発もあって観たくなるのかもしれない。さすがにドラマ版は映画版よりも長いのでじっくりと描かれる。観ているとストーリーとは別のところで考えさせられるシーンが出てくる。

 特徴的なのは、総理大臣(当時は民主党の菅総理)の言動だ。現場の混乱も構わずヘリで視察に向かう。危機管理室では関係者をヒステリックに怒鳴り散らす。当時も批判されていたが、本や映画やドラマでもすっかり悪者である。しかしながら、そんな表面的な部分ではなく、よくよく総理の言動を追って行くと、そこには総理の苛立ちと焦りが感じられる。一国の最高責任者として的確な判断を下さなければならないのに、そのために必要な情報が与えられないという苛立ちと焦りである。

 まず批判された現場視察であるが、これも危機管理室で総理の疑問に的確に答えられる者がいないため、「ならば直接この目で確かめに行く」となったのである。総理の側近には原子力安全委員会の者もいれば東電の人間もいる。しかし、総理の疑問に対し、的確に答えられない。それで総理はイライラを募らせ、周囲に当たり散らす。すると関係者は萎縮してはっきりと答えられなくなる。その悪循環に陥るのである。総理に問われた関係者が下を向いたり他の者に転化したり、口ごもる様子は確かに観ていてイライラする。

 しかし、それも当事者の立場に立てば当然なのである。誰しもが経験したことのない未曾有の事態なのである。誰も正解を知っているわけではない。象徴的なのが、第5話で海水注入を巡るやり取りである。真水の不足を見越して現場では原子炉を冷やすために海水注入を準備する。しかし、危機管理室では海水を注入すると再臨界が起きるのではという疑問が呈される。総理は原子力安全委員会の者に問う。「海水注入で再臨界は起きるのか」と。その口調は厳しいものであり、その場には緊張感が漂う。

 問われた専門家は、起こらないだろうとは思うものの、「絶対か?」と問われれば口ごもる。「可能性はゼロかと聞かれればゼロとは言い切れない」という何とも歯切れの悪い答えである。それで総理はイライラしてまた怒鳴りつける。するとよけい萎縮して何も言えなくなる。総理の気持ちはもっともだが、トップに立つものとしては様々な可能性、意見の中から適切に判断を下さないといけない。何より大事なのは、とにかくあらゆる情報、あらゆる意見を出させてそれを検討することである。その点ではこの総理の態度はまるでダメである。

 部下が思う通りに発言するためには、何を言っても大丈夫という安心感がないといけない。最近ではそれを「心理的安全性」という言葉で表しているが、まさにその心理的安全性がここではまったく機能していない。総理としては、イライラはグッと堪え、冷静かつ穏やかに問いかけ、どんな意見であろうと感謝の言葉とともにその意見を受け入れることが必要である。側近もいろいろと意見を述べている。頭からそれを否定するのではなく、すべて一旦受け入れるのである。「気がついた事があればすぐに言ってほしい」と加えて。

 総理にご報告と原子力安全委員会の者が総理を呼び止めるシーン。総理はかしこまる者に対して、「今報告すべき急ぎの報告か!」と詰問する。するとその者は萎縮して「後でも構いません」と答えて引き下がる。これではいけない。本当に余裕がないのであれば、「◯◯の後で聞くから待っててくれ」とすればいいわけで、怒鳴ったり詰問したりしても何も得るものはない。結局、菅総理はその時の一連の危機対応について批判されてしまったが、それも無理からぬ事、たぶんご本人はまわりの者の無能を言い訳にしたいだろう。だが、心理的安全性を確保しなかったのは間違いなく本人の責任であるし、批判は回り回ってその身に返ってきたものと言える。

 ビジネスの現場でも結局は同じである。部下だからと言って軽視するのではなく、いろいろな意見を忌憚なく言わせられれば、それは結局自分自身が正確に判断を下す助けになる。人の振り見て我が振り直せ。学びは至る所に落ちている。その他にもリーダーシップや部下としてあるべき姿など、ビジネスにも有益なドラマであると思うのである・・・



【今週の読書】
〈他者〉からはじまる社会哲学 - 中山元 MORAL 善悪と道徳の人類史 - ハンノ・ザウアー, 長谷川圭  黄色い家 - 川上未映子





2025年4月10日木曜日

3日で辞める新人

 世間では入社式の日に新入社員が辞めたという話を聞く。退職代行会社「モームリ」が発表したとの事で、「様々な理由はありますが、入社前に聞いていた内容が、実際に勤務すると全然違う。入社直後に最も多い退職理由です」との事である。まるでイメージがわかず、それはどこか遠くの会社の特殊な社員の話かと思っていた。先週までは。ところが、今週初、新入社員の1人から連絡があり、退職したいという申し出があった。今週から外部の研修に送り出す事になっていたため、驚きつつもそちらの対応もしつつ、本人を呼び出して話をした。「一体何が悪かったのだろう」と訝しみつつ・・・

 本人は3日間研修を終えた後、4日目は体調不良を理由に休んでいた。聞けば体調不良は事実で、それはメンタルによるものと本人の弁。なんでも「東京での生活が無理」という事であった。地方出身のその新人は、3日間の「通勤地獄」で参ってしまったようである。東京に住んでいれば、否、地方出身でもみんな経験することであるが、「なんでその程度で」という気がする。思わず「今の若い者は」と言いたくなる。しかし、みんながみんなそうではないし、他の新人は元気に研修に行っている。ごくレアケースであろう。

 個人的には通勤電車などすぐ慣れるものだと思う。もちろん、東京人の私でも通勤電車は耐え難い。だから時間をずらしたり、西武線も準急には乗らず各停に乗るなどしてできるだけ回避している。少し早く家を出ればいいだけの話でまったく苦にならない。しかし、そんな話をしても無意味であろう。嫌だ嫌だという思いが深まればメンタルもやられ、それが体調にも現れるかもしれない。正直言って私とは感覚がまるで違う。通勤電車など好きな者は誰もいないだろう。月曜日の朝、憂鬱な気分で「痛勤電車」に乗る人はすくなくないだろう。みんな仕事だから我慢しているのである。

 そんな我慢もできず、せっかくの就職を放り出して故郷へ帰る若者ってどうなのだろうか。もしも我が息子だったらどうアドバイスするだろうと考えてみる。しかし、大事なのは「辛さ」は本人にしかわからないという事。私にとっては何でもない事が、本人にとってみれば人生の一大事という事もある。それを念頭に置いた上で辞める事は仕方ないが、「もう少し頑張ってみたら」という事は言うだろうと思う。何も「石の上にも三年」などという諺を持ち出すつもりはない。ただ、通勤がダメという程度であれば「1ヶ月頑張ってみろ」とは言うだろう。

 あるいは、会社に事情を説明し、慣れるまで時差出勤を交渉してもいいかもしれない。会社の方としてもいきなり辞められるよりいいだろう。そこは親の知恵で妥協策として交渉し、少しずつ慣らすという方法もある。まさか親が乗り出して交渉するわけにはいかないので、本人に話をさせる事になるだろうが、そのくらいはさせたいと思う。それでも基本的に我が子であればその身を一番に考える。電通の事件のようなことがあれば親としても耐えられない。そこの根本的な部分はズレないようにしたいと思う。

 「入社前に聞いていた内容が、実際に勤務すると全然違う」というのは、日本ならではなのかもしれない。海外では事前にきちんと仕事内容を確認してjobに就くらしいので、それは立派な退職理由になるのだろう。「それなら事前に確認すればいい」というのは正論だが、実際に我が国ではそんな事はない。私が銀行に入った時、何となく預金や融資の仕事というイメージはしていて、その通りと言えばその通りだったが、預金やクレジットカードの申し込みを集めるノルマを課されるなんてそれこそ「聞いてねぇよ」という話で、嫌で嫌で堪らなかったものである。

 海外ではどこまで特定するのかわからないが、すべて事前に決められるものでもないし、基本的に仕事なら何でもやれよと私なら思う(そうは言っても、私も休日の会社行事まで「仕事」と言われた時は思いっきり拒否してしまったが・・・)。現代とは感覚が違うのであろうが、簡単に仕事を辞めるという発想はやはりいかがなものかと思う。我が子なら頭ごなしに叱るのではなく、まずは本人とじっくり話をし、互いの感覚の違いを確認しつつ、私の考えを伝えたいと思う。理由によっては認めるが、男が腹を決めて一旦東京に出た以上、満員電車くらいでメンタル云々というのは情けないの一言に尽きる。この気持ちは変わらない。

 入社直後から退職代行会社が大流行りというのも嘆かわしい。この先日本は大丈夫なのだろうか。息子大好き、息子可愛いという世の母親たちが男をダメにしているようにしか思えない。時代が違うというよりも間違った方向に進んでいると感じる。3日で辞められて会社にも打撃はある。採用時に見極められるものでもないが、何とか見極める目は持てるようにしたい。そして元気に研修に通う他の新入社員を大事に育てたいと思うのである・・・

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【本日の読書】
MORAL 善悪と道徳の人類史 - ハンノ・ザウアー, 長谷川圭  黄色い家 - 川上未映子




2025年4月8日火曜日

論語雑感 泰伯第八 (その21)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感
【原文】
子曰、禹吾無閒然矣。菲飮食、而致孝乎鬼神、惡衣服、而致美乎黻冕、卑宮室、而盡力乎溝洫。禹吾無閒然矣。
【読み下し】
子(し)曰(いわ)く、禹(う)は吾(われ)間然(かんぜん)すること無(な)し。飲(いん)食(しょく)を菲(うす)くして、孝(こう)を鬼(き)神(しん)に致(いた)し、衣(い)服(ふく)を悪(あ)しくして、美(び)を黻冕(ふつべん)に致(いた)し、宮(きゅう)室(しつ)を卑(ひく)くして、力(ちから)を溝(こう)洫(きょく)に尽(つ)くす。禹(う)は吾(われ)間然(かんぜん)すること無(な)し。
【訳】
先師がいわれた。
「禹は王者として完全無欠だ。自分の飲食をうすくしてあつく農耕の神を祭り、自分の衣服を粗末にして祭服を美しくし、自分の宮室を質素にして灌漑水路に力をつくした。禹は王者として完全無欠だ」
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 孔子はしばしば過去の君主を称えている。そのほとんどが徳のある人物とされている。いわば個人の資質に着目したものが多く、行動に着目しているのは少ないような気がする。今回は、具体的な行動を示して褒めたたえている。自分の利益のためではなく、民の利益のために行動する。君主はいずれもそうであって欲しいと思うが、あえて強調するという事は、君主は自分の利益のために行動するのが当たり前だったという事かと思う。絶対的な権力を手に入れれば、人間は傍若無人になり、好き勝手に振る舞うものだったのだろう。

 日本の天皇も「かまどの煙」で有名な仁徳天皇の例が挙げられる。丘の上から国を見渡した仁徳天皇が、民家の煙が立っていないことに気付き、民が貧しいからだと判断して3年間徴税を禁じる。それ以後、自身も衣服や履物は破れるまで使用し、屋根の茅が崩れても葺かないという徹底した倹約ぶりで、3年後、人家の煙は盛んに上っているのに満足して課税を再開したが、民も喜んでこれに応え、国も栄えたというものである。実話なのかどうなのかはわからないが、そういういかにもなエピソードが残っているという事は、何らかのそんな実例があったという事なのかもしれない。

 法人でも業績が悪化すると、社長自らが自分の役員報酬を下げて業績(利益)回復を図る事がある。非上場の企業でも銀行からの借り入れがある場合は、業績が悪いと次の借り入れに影響するかもしれない。自分の役員報酬を下げる事で会社の利益を維持し、その姿勢を示す事で銀行の印象も良くなる。社長は大概社員よりも高給を取っているから当然という考えもあるが、それをきちんと実行に移せるというのも大事だと思う。いわゆる「経営責任」であるが、責任ある立場に就いている者としては、そうした行動は社員の信頼獲得に繋がるし、そういう行動が取れるようでありたいものである。

 銀行員時代、やはり会社の業績低迷を受けて、社長が月額200万円の役員報酬を半分に下げると報告してきた例があった。ただし、全社員の給料もカットすると報告してきた。もともと小規模な中小企業でもあり、社員の給料も多くはない。それをさらに下げるというのだから、社員さんも気の毒だなと思ったものである。半分ではなく、1/4にしたらいいのにと漠然と思ったものである。その後、その会社がどうなったのかはわからないが、そもそも規模からして200万円もの役員報酬を取るのではなく、もう少し内部留保に努めたらいいのにと思ったのを覚えている。

 社長というのは、社員にあまり給料を払いたがらないものなのかもしれない。私も前職の不動産業時代、転職してまず社員の給料が低い事が気になったので、よく4月の昇給時に給料の引上げを提案したが、社長の渋る事、渋る事。もちろん、当時業績が低迷していて、社長自身も役員報酬を下げていた事もある。給料は上げると簡単には下げられない(簡単に下げる社長もいるが)。慎重になるのも頷けるが、薄給もまた罪だと思う。生活もある事だし、そこは考えないといけない。私も取締役だったから懸命に業績向上策を考えて実行した。結果的に6年連続で増収を達成したので、何回か従業員の給料を社長の抵抗を押し切って実行したものである。

 国の指導者であれ会社の経営者であれ、己の事しか考えない者はその地位にふさわしくない。しかし、中小企業では下の者から社長にモノ言うことは難しく、「搾取されている」と言ってもおかしくないところもかなりあると思う。自由にできるからこそ、そこに民を思う気持ちをこめなければならない。前職の社長もそのあたりは足りていない典型であった。幸い、現職では社長は民の事を思う指導者であり、私もやりやすい。あとは会社をもっと発展させ、私ももっと役員報酬をもらいたいと思う。我が社の社員のかまどからもうもうと煙が立ち上るようにしたいと思うのである・・・

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【本日の読書】
MORAL 善悪と道徳の人類史 - ハンノ・ザウアー, 長谷川圭  シャーロック ホームズの凱旋 森見登美彦 単行本





2025年4月3日木曜日

新入社員に伝えたいこと

 新入社員が入社した。今年も新卒社員を迎える事ができた。さっそく社内研修を行ったが、外部から招いた講師の話を新入社員とともに聞きながら考えた。その講義では、「あなたにとって何が重要ですか」として、「家族・健康・仕事・趣味・時間」の中から選ぶというものであった。私は何となく、「①家族②趣味③健康④時間⑤仕事」の順番で選ぶかなと思った。新入社員の回答はバラバラで、それはそれで面白かったが、よくよく考えると違う側面が見えてきた。それは①と②は、③~⑤がなければ成り立たないという事である。

 家族は大事といっても、病気であれば家族に世話の手間をかける。趣味もできない。時間がなければ家族と過ごす時間が維持できなくなるし、趣味も同様。仕事(=お金)がなければ家族の生活やましてや趣味など論外である。つまり、①または②を大事に思うなら、③〜⑤を大事にしなければならないという事になる。気持ちの上で重要な事と、実際に重要な事は異なっているという事になる。面白いものである。結局のところ、大事なものを優先するためには、まずはしっかり稼がなければならないという事なのだろう。

 そういうこともあり、新入社員には研修で働く意義を伝え、働き方も伝えたいと考えている。どんな仕事でも「やり様」はある。ただやるだけではなく、人に真似のできないくらいのレベルでやる意気込みがあった方がいい。どんな仕事でもそれは可能だと思う。私がまだ子供の頃の思い出であるが、ある郵便配達員がいつも「〇〇さん、郵便です」と言いながら郵便を配達していたのを覚えている。返事などほとんどないだろうが、その人が配達にくると私もすぐに郵便を取りに行ったものである。

 その人はまだ若い郵便配達員で、ある夏の日、いつものように「〇〇さん、郵便です」と言って配達していた彼を母は慌てて呼び止め、スイカを振る舞った。その人は恐縮しながらも、汗をぬぐいながら自転車にまたがったままスイカを頬張っていた。母は暑い夏の日に一生懸命配達している若い配達員に何かしてあげたかったのだろう。黙って配っていても誰も文句は言わないだろう。なのにその人は「〇〇さん、郵便です」と言って配る事で、母の、そして同じように近所の人たちの好意を勝ち取っていたのである。

 そしてもう50年くらい前の話なのに、その人の事が私の心にしっかりと残っている。「人の心に残る仕事ぶり」と言えば大げさなようであるが、その人の仕事はしっかり私の心に残っているのである。ただ郵便を配るという誰にでもできる仕事を、その人は一軒一軒「〇〇さん、郵便です」と言って配る事で、誰にもできない仕事に変えてしまったと言える。「誰にでもできる仕事を誰もやらない方法でやる」「人の心に残る仕事をする」というのは、あくまでも理想であるが、そういう仕事をしたいという気持ちは常に私にもある。新入社員にもそんな心構えをもってほしいと思う。

 「下足番を命じられたら、日本一の下足番になってみろ。そうしたら、誰も君を下足番にしておかぬ。(小林一三)」とは、私も好きな言葉であるが、同じ事を言っている。ただ言われた事をやるのではなく、自らその仕事では日本一と言われるくらいのレベルでやる。そのためには熱意や創意工夫が必要になってくる。そんな風に仕事をしていたら、たちまち頭角を表すだろうし、当社であれば間違いなく未来の社長候補である。ただ、社会人デビューしたての若者にどこまでこの思いが通じるのだろうかという疑念がなくはない。

 かく言う私も37年前に社会人デビューした時は、まさに「①家族②趣味③健康④時間⑤仕事」の順番通りの考え方であったので(ひょっとしたら⑤なし⑥なし⑦仕事くらいだったかもしれない)、とても自慢できたものではない。もしもあの頃の自分と話ができるのであれば、上記のような話をして性根を叩きなおしたいと思う。通じるか通じないかとあれこれ考えるのではなく、あの頃の自分に言い聞かせるつもりで、我が社の新入社員に語ることにしようか。いずれ社会に出る息子にも話したいと思うし、いいと思う事は疎まれても話すことにしようと思うのである・・・


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【本日の読書】

MORAL 善悪と道徳の人類史 - ハンノ・ザウアー, 長谷川圭 ヒール 悪役 (日本経済新聞出版) - 中上竜志