2024年11月3日日曜日

男とは

 先日、高校の同期会があり、久々に元クラスメイトらと懐かしい話をした。卒業から42年、みんなそれぞれの人生でいろいろな経験をしているものである。1人の女性から何とはなしに、過去にDVを受けた経験があるということを聞いた。骨折をともなう怪我をして、子供とシェルターに避難したというのである。その昔は縁切寺などいうものがあったと聞くが(映画『駆込み女と駆出し男』にも描かれている)、現代でもそういう施設があるのは知っていたが、実際に利用した人の話を聞くのは初めてである。

 相手の男がどんな男かは知る由もない(聞くつもりもなかったが)。それにしてもありきたりながら「暴力はいかんよな」と思う。夫婦だから喧嘩をすることもあるだろう。我が家もたまに私が我慢しきれなくなると喧嘩になる。だが、そこで妻に手を上げた事はもちろんない。逆に「手を上げられた」事ならあるが、その時も反撃はじっと我慢した。そんな事は当たり前の事で自慢する事でもわざわざ言う事でもないと思うのだが、世の中には感情の赴くまま手が出る男もいるのだろう。

 男の場合、相手を殴るのは大抵「相手が自分より弱い」と思っているケースである。相手が女の場合はもちろん、男同士でも「相手に勝てる」と思うから強気になって殴るのであり、「相手に勝てない」と思えば手控える。「ずるい」と言えばその通り。しかし、そういうものである。そういう男は実に情けない。相手が弱ければ高飛車になり、強ければ卑屈になる。みっともない事この上ない。「ついカッとなって」という言い訳も虚しい。カッとなっても強い相手には手を上げないだけの冷静さはあるのである。

 私の場合は、妻と口論になっても常にどこか冷静になっているところがある。だからコントロールが効く。それは子供が小さかった時もそうで、わがままを言っていうことを聞かなくて腹が立った時もどこか冷静な部分があって、「ここは体罰を加えた方がいい」という判断をして、利き腕とは逆の左手で、頬を張ったものである。何も利き手で思いっきり引っ叩かなくても、子供にインパクトを与える効果は十分得られる。そしてそれで十分である。

 そう考えると、感情的になって体罰を加えた事はない。なんか立派な大黒柱のように思われるかもしれないが、電車の中で理不尽な振る舞いをする男に対しては躊躇なく蹴りを入れたりするからとても立派とは言えない。ただ、明らかに体力的に劣る女に手を上げるのとは違うと考えている(立派な考えとは言い難いかもしれないが・・・)。DV男が目の前にいたら、そういう話をして一度私に喧嘩を売る度胸があるか試してみたい気もする。

 最近は女も強くなり、それはそれでいいと思うが、逆に男が軟弱化している。それはムダ毛の脱毛をしたり髪の毛の手入れをしたり、化粧水で顔を洗ったりする事も含めてではあるが、それならDVも減りそうなものだが、統計値では年々増加しているそうである。ただ、結局、「弱い相手にしか暴力を振るえない」と考えるのであれば、「男が軟弱化している」という私の感覚は間違っていないと思う。

 女に手を上げるのではなく、自分とは意見の異なる会社の上司に自分の意見を堂々と言えるかを問う。自分より弱い者ではなく、強い者にどう振る舞えるか。きちんと自分を通せるかどうか。男にはそういう事が大事だろうと思う。妻の限りのないどうでもいい小言にジッと堪えるのも男の甲斐性なのだろう。こういう時代だからこそ、「男」というものに拘りたいと思うのである・・・

maturikaによるPixabayからの画像

【今週の読書】
なぜ働いていると本が読めなくなるのか (集英社新書) - 三宅香帆  アルプス席の母 - 早見和真





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