2018年10月25日木曜日

我が子に望むもの

結婚してしばらく夫婦2人の生活を楽しんでいたが、やがて子供を授かったとわかった時、得も言われぬ喜びを感じたことを覚えている。その喜びは我が子の誕生の知らせによって頂点に達したと言って良い(もちろん、その後も我が子の成長に伴う喜びは多々あった)。出産までの間、だんだん大きくなる妻のお腹を眺めては、とにかく無事に生まれてきて欲しいと願い、それこそが唯一最大の願いであった。それは誰もがそうであろうと思う。

しかしながら、その願いは我が子の成長に伴って日々変化していく。妻などはやれアトピーだ、ハイハイの時期が遅いかもしれないとか、歩くのはいつ頃かと、とにかくいろいろ心配していたようである。その時期が来れば、希望の幼稚園に入れるか否かとか、小学校に入れば将来のために勉強をさせた方がいいだろうと通信教育を始めたり・・・まぁ世間の親は(特に母親は)みんなそうなのであろう。

妻との教育方針の違いは既に中学受験の時に表面化し、「公立中学校で十分」とする私と受験派の妻とが対立、結局妻に凱歌が上がる。世間の親もみんなそうだろうと思うが、我が子の幸せを願う気持ちは一緒だが、その方法論が私には受け入れ難い。それはともかく、「良い高校」「良い大学」「良い企業」という旧態依然とした人生設計を良しとするもので、そのために目を血眼にして我が子に勉強させようとする。

しかし、私などは自分の経験(公立高校→一流国立大学→大手都市銀行→中小企業)に基づいて考えてみると、やっぱり小学校、中学校で「受験、受験」というのはバカげていると思う。それはたとえればマラソンにおいて最初から先頭集団で飛ばせというようなものである。まだ成長途中の子供がそんなに勉強できるわけがないし、勉強したとしても途中で息切れするものだと思うのである。やらせる親は自分でやったことがあるのかと疑問に思う。

事実、私の小学校時代のある友人も、早くから塾通いをしていて成績も良かったが、私立の中学に進み、最終的に彼が入ったと聞いた大学は私など何の苦労もなく入れるところであった。それが悪いとは言わないが、要は受験勉強など中学3年からやれば十分だというのが私の考えである。もちろん、それで一流高校に入れないという意見があるかもしれないが、私の考えはそれで構わないというものである。敢えて言えば、2番手レベルくらいのところに入れるようにはしたいところである。

その際、間違っても付属高校には入れたくない。それは大学受験をさせたいと思うからである。受験はよりランクの上の学校へ入るためというより、1つの「試練」と考えている。人生いろいろなところで試練があるが、人はだれでも成長過程においてそれを体験すべきだと思う。受験など失敗したところで大したことはないし、それに対して本人にはプレッシャーがかかる。そのプレッシャーの中で、目標を決めて頑張れる機会としては受験はいいと思う。

大事なことは、幼児時代ならいざ知らず、「親は子供の面倒を途中までしかみれない」という事実である。いずれ子供は自立しなければならない。ならばその時に困らぬ様、親としては子供をトレーニングしておきたい。この先、どんなことがあっても自分で生きていけるように、である。それは一流企業に就職したらOKというものではない。大企業だって(JALのように)倒産もするし、リストラに遭うかもしれないし、仕事のプレッシャーに負けて鬱になるかもしれない。「大企業に入って安泰」とは言えないのは自明の理である。だが、世の母親たちはそれを理解していない・・・

就職しても勉強は必要である。それは社内の競争だったり、必要に迫られた資格の取得だったりするかもしれないが、学生時代とは違う仕事に必要な勉強である。そしてそれには終わりがない。なぜなら世の中は常に変化しているし、生き残っていくには油断できないと思うからである。そんな勉強をずっと続けていかれるかどうかは、その都度受験という試練をこなすことによって培われるノウハウと気力だろう。わけもわからぬまま勉強させられて、勉強することが嫌になってしまったら元も子もないと思う。

我が子については、無事生まれて来てくれただけで十分だと思う。あとは何があってもしっかり生きていかれる力をつける手助けをすることだ。一流企業に就職したら終わりというものではない。本人が望むなら大学に行かなくてもいいし、「役者になりたい」と言っても止めたりはしない(ただ、どれほど困難な道かは教えるだろう)。そう考えているから子供の進路について気になるのは、「何か迷ったり困ったりしていることはないか」だけである。

娘は来春高校を卒業するが、その先どうするかは未定だ。どうやら受験する気はなさそうだ。妻はヤキモキしているが、私は別に大学に行かなくても良いと思っている。それより中学1年の息子が今から大学受験を避けるため付属に行きたいとほざいているのを何とかしたい。妻も同調しているから手強いが、ここは時間をかけてじっくり考え方を変えさせたいと思っている。まぁそうは言っても最終的には本人次第だが・・・

無事生まれてくれれば何もいらないと思っていた事を考えると、無事に生まれてくれたからそれだけでも幸せである。それを肝に銘じて子供たちと接していたいと思うのである・・・




【本日の読書】
 数学を使わない数学の講義 (WAC BUNKO 272) - 小室直樹 働くことがイヤな人のための本: 仕事とは何だろうか - 中島義道






2018年10月17日水曜日

論語雑感 八佾第三(その12)

〔 原文 〕                     
祭如在、祭神如神在。子曰、吾不與祭、如不祭。
〔 読み下し 〕
(まつ)ること(いま)すが(ごと)くし、(かみ)(まつ)ること(かみ)(いま)すが(ごと)くす。()(のたま)わく、(われ)(まつり)(あずか)らざれば、(まつ)らざるが(ごと)し。
【訳】
孔子が先祖の祭りを執り行う際には、あたかもご先祖の魂がそこに臨在するかのように畏敬の念を捧げた。又、神様を祭る場合には、あたかも神様がそこに降臨されているかのように敬虔な態度を示した。そして、「祭りを執り行うのに、こうしないと祭った気がしないのだ」と云った。
************************************************************************************
今は他のご家庭では仏壇があるのだろうかと、ふと思う。そういう我が家に仏壇はない。と言っても信仰心が薄いわけでもなく、多分まだ両親が健在ということも大きいと思う。実家へ行けばそこにはちゃんとした仏壇があり、両親それぞれの祖父と祖母がともに並んで微笑んでいる写真が飾ってある。最後まで存命だった父方の祖父が亡くなったのはもう25年前である。

実家では、ご飯の時に米を炊くと、まずは炊き上がった最初のご飯を仏壇に供える。私も実家へ行った時は進んでこの役割を引き受けるが、その時当然仏壇で手を合わせる。そして心の中で祖父と祖母たちに話しかける。内容はその時々であるが、「じいちゃんとばあちゃんの子供(つまりは私の両親だ)をお見守りください」というのが多い。その時は、「あたかもご先祖の魂がそこに臨在するかのように」しているなぁと改めて思う。

また、年に一度、近所の北野神社に初詣に行くが、その時も手を合わせながら心の中で神様に話しかけている。まぁ大抵は両親の健康と家族の健康祈願といったところで、自分のことは祈らない。しかし、これも「あたかも神様がそこに降臨されているかのように敬虔な態度」をとっている(つもり)。別にそれ自体は珍しいことではなく、ほとんど皆そうだろうと思う。神様が実際にいるかどうかは問題ではなく、「いるという態度」が大切だと思うのである。

そもそもであるが、神様や祖先に対する信仰というものは、「そういう態度」が大切なのだという気がする。私自身、よくよく突き詰めていけば、無神論者であり幽霊等の霊魂の存在は信じない人間である。人間はすべて己の脳みそで思考し、それによって存在している。神様も人間の思考の結果生み出されたものであるし、したがって死んでしまって脳の機能が停止したらそれでおしまいである。死んでまで幽霊になって思考するということはあり得ない。もちろん、悪霊やたたりの類や、天国や地獄すらも人間の空想である。

しかし、だからといって、神も仏もありはせぬという考えが正しいかというとそうは思わない。人間は生きていく上で何らかの信仰は必要だと思う。それが神様ならそれでいいし、仏様でも祖先でも良い。大事なのはスタンスである。信仰を持っている人間は傲慢を抑えられる。神様の前で頭を垂れる謙虚な瞬間が人間には必要であるし、それがあるかないかの差は大きい気がする。

神様の種類はキリスト教でもイスラム教でも何でもいいが、信じるならきちんと信じて欲しいと思う。神様は「汝殺すべからず」と教えているのだから、その教えを守ってほしいが、歴史はその神の名において異教徒を殺すことを是とした人々を記録している。今でもテロリストはみなアラーの熱心な信者であることは恐るべき皮肉だと思う。それに比べると、我が国の八百万の神々は実に穏やかである。生贄も聖戦も要求しないし、他の神々(異教徒)にも寛容である。信じるなら当然、神道だろう。

実際に神々や祖先(の霊)がいるかどうかは問題ではなく、大事なのは「いるという態度」だと思う。実家で仏壇に向かう時、穏やかにほほ笑む祖父母の写真をそれぞれ見ると、かつて小さかった頃に接した思い出が蘇ってくる。母方の祖父とは将棋を指したし(強くて全然勝てなかった)、父方の祖父とは一緒に酒を飲んだ。いい思い出だし、そんなことを思い出しながら心の中で語りかけると穏やかな気分になる。きっと、私の心の声も届いているだろうと思えてくる。

そう言えば会社には神棚があって、近所の氏神様からいただいたお札が飾られている。しかし、どうも日々の仕事に追われていると、「そこにいらっしゃる」という気持ちは抜け落ちている。それも改めないといけないかもしれない。商売繁盛を祈願したものだが、社員みんなが幸せに働けるならそれでいいと思うし、繁盛は人間の努力次第だ。それはそれとして、そこに「いるという態度」は完全に抜けてしまっている。これからは一日に一度くらいは首を垂れることもしないといけないだろうと思う。

自分自身を振り返ってみて、もう少し信仰のある生活を送ってみてもいいかもしれないと思うのである・・・




【本日の読書】
 大前研一 デジタル・ディスラプション時代の生き残り方 - 大前 研一 月と六ペンス (光文社古典新訳文庫) - モーム, 土屋 政雄





2018年10月15日月曜日

子供の教育に思うこと

 昨日のこと、最寄駅から電車に乗ったところ、一緒に乗ってきたお母さん方と遭遇した。騒がしく話をしていたが、その内容を聞くとはなしに聞いていると、どうやら学校の説明会に参加してきたようであった。我が地元にはレベルの高い中高一貫の公立高校がある。おそらくそこの説明会に連れ立って参加してきたのだろう。そう言えば、我が家もかつては妻がよく学校の説明会に足を運んでいた。どこの家庭もこういう役割は母親なのであろうか。

そういう熱心さは悪くはないと思うが、どうも昔から違和感を禁じ得ない。それは自分自身の経験から感じるものでもある。私は高校受験に際しては、自分で受験する高校を選んだものである(第一志望は都立高校、第二志望は同等レベルの私立校と滑り止め)。自分で調べ、自分で願書をもらいに行き、受験も合格発表も1人でこなした。親にはお金を出してもらっただけである。それがあるべき姿ではないかと思うのである。そのため長女の受験の時もアレコレ口出ししなかった。はっきり言って高校などどこでも良かったのである。

長女の場合、妻が積極的に受験に噛み込んでいた。塾へ行って勉強するように仕向け、学園祭にはあちこち顔を出し、もちろん学校説明会も東奔西走していた。そこまでする必要があるのか今でも疑問に思うが、反対はできなかった。それは私と妻との間の力関係である。残念ながらそこには圧倒的な差があって、私にはほとんど力がない。あれば当然放置していただろう。本人から助言を求められたら、もちろん精一杯力になってやるが、それ以外は本人に任せていただろうが、現実は上記の通りである。

だからと言って、我が子の教育に無関心というわけではない。むしろ逆である。子供は将来、親元を離れて生きて行かないといけない。そのための力をつけるには、少しずつ試練を与えてそれを乗り越える力をつけさせることが大事だと思う。親があれこれと世話を焼き、上げ膳据え膳でお膳立てすべきではないと思うのである。「獅子は我が子を千尋の谷に落とす」と言えば大げさかもしれないが、受験はその最適な試練だと、自分の経験からも言える。心配なのはわかるが、どうも世の中の母親達を見ていると、受験で鍛えられていない非力なままの子供達の先行きが心配になってくる。

レベルの高い高校に行くのは、よりレベルの高い大学に行くためでなく、受験という試練を乗り越えて自分自身一つ上にステップアップするためである。そしてレベルの高い大学に行くのは、大企業に就職するためではなく、将来必要な教養を身につけたり、自分が希望する仕事に必要な知識を身につけたり、あるいは知的好奇心を満たすためである。大学を選ぶにあたり、卒業生の就職先一覧なんかを見るのはまったくのピンボケである。

仮にそうして大企業に就職しても、そこからまた社内で競争があり、業績必達のためのプレッシャーがあり、人間関係に悩まされたりといろいろな試練がある。親は就職させたらそこで安心して終わりであるが、子供たちにとってはここからが本番である。大企業と言ってもグローバル化社会の中では、一部上場企業だって倒産するしリストラだってある。うつ病にならず、リストラされても生き残っていけるようにならないといけない。そのためには社会人になっても勉強は必要である。小学生、中学生の頃から毎日尻を叩かれて勉強して、大学に合格したら「もう勉強なんかしたくない」となったらどうするのだろうと思う。

高校に入ってラグビー部に入ったが、練習はそれなりにハードであった。それでもラグビーが面白かったから大学に入って迷わずラグビー部に入った。だが、同期で大学までラグビーを続けたのは他には1人だけだ。みんないろいろやりたいことがあったのだと思うが、ハードな練習に嫌気がさしたのかもしれない。大学に入ってまで苦しい練習なんかしたくないと思ったのかもしれない。勉強もそれに相通じるものがあるように思う。

また、ラグビー部の同期で、今それなりに元気なのは皮肉なことに大学に行かなかった2人だ。残りはみんな大学に行き、サラリーマンになっている。それはそれで家族を養い立派に自立しているが、ウィキペディアで検索しても名前は出てこないし、ジャガーを乗り回したりはしていない。大学に行かなかった2人にはそれができている。世の中ってそんなものである。高校受験で母親が熱心に学校説明会などに出ているのを見たりすると、違和感を覚えるのはそんな理由である。

今、妻の関心は中学1年の息子に移っている。早くも苦手教科だけ塾に行かせ、ダッシュの準備をしている。自分としては3年になるまで落ちこぼれない程度にやっていればいいと思う。それまで野球を熱心にやってほしいと思うが、果たして私の希望通りに行くかは難しい。それでも息子と日々会話を交わし、私の考えを伝えていこうと思う。草食系男子も軟弱系も、それを生み出すのは母親であるというのが私の考えである。

 せめて我が息子をたくましく育てたい。そのためには、妻との力関係の改善からはじめなければならない思う。この歳になってもまだまだ試練は続くのである・・・




【今週の読書】
 「不思議な会社」に不思議なんてない―――建設業をサービス業に変えて急成長! - 荒木恭司 世界史を変えた詐欺師たち (文春新書) - 東谷 暁 大前研一 デジタル・ディスラプション時代の生き残り方 - 大前 研一





2018年10月11日木曜日

人間とロボットが仕事を奪い合う

先日読んだ『世界を変えた14の密約』という本にちょっと恐ろしい記述があった。それはアメリカで自動洗車機が使われずに横に置かれ、代わりに人が洗車しているのだとか。それは実は自動洗車機はコストがかかる一方で、人は失業を恐れて洗車機より安い賃金で一生懸命働くからだという。「人の方が安い」となった結果、人の労働力が機械に置き替わっているのである。近い将来、AIが人の仕事を奪うと言われているが、それに抗う動きと歓迎することは、もちろんできない。

本の結びは、人間が安い賃金で働き、それをAIが「瞬きもせず」監視する様子を想像して終わっているが、空想話として笑い飛ばすにはちょっと背筋が寒くなる未来像である。人間の労働力を軽減するのが機械化であるが、ここでは機械はより高度な仕事を引き受け、人間がその下で単純労働に従事するという構図である。これはなかなか恐ろしい構図だと思う。考えてみれば、AIに奪われる仕事というのは単純労働とは限らない。むしろ、高度な判断業務かもしれない。

そういう高度な判断業務は、会社にあっては例えば「人事評価」かもしれない。これはサラリーマンにとって一番不満のタネになりそうなものであるが、AIに置き換えられたら「実績より人柄」などという世界は通用せず、容赦のない実力評価がバシバシ下されるかもしれない。もっとも逆にその方が文句が出ることがなくなるかもしれない。また、人事でいけば採用もAIが行うようになるかもしれない。あらゆるファクターを考慮して採用判断され、さわやかだけが取り柄の好青年は不利になるかもしれない。

さらに進めば経営判断もAIが行うようになるかもしれない。CEOがAIとなれば、機械が人間の役に立つのか、人間が機械の役に立つのかわからなくなる。そうなると、巨額の役員報酬を得るのは優れた経営者ではなく、そのAIを作る会社ということにになるのかもしれない(その会社のCEOもAIかもしれない)。人間が機械の下で、公平な人事評価を受けて働く世界。そんな未来像を想像してみると、その先にはどんな世界があるのだろうかと思う。

例えば、映画でいけばその先にある未来は『ターミネーター』型ではなく、『マトリックス』型に思える。『ターミネーター』の世界は、高度に発達した防御システム「スカイネット」が地球の存続にとって害をなすのは人間であるとして、人類抹殺のために動き出すというものであった。『マトリックス』の世界は、コンピューターが人間を完全に管理し、人間はカプセルの中で寝かされ、意識だけコンピューターが創り出した仮想世界で生きているというものであった。抹殺されないだけマシかもしれないが、どちらの未来像も現実化してほしくはない。

そんな未来に自分が生きることになるとしたら、やっぱり思うのはただこき使われるだけの社員にはなりたくないということである。それは誰しもそう思うだろう。それにはまず、日頃から「考えないで仕事をする」のは回避しないといけないと改めて思う。指示されたことを指示された通りにやるだけでは何の工夫もないし、それなら機械が指示を出しても結果を機械的に判断できるから、機械に管理させればいいとなるかもしれない。

そこで一工夫できる人間であれば、重宝されるであろう。私の常日頃信奉する「創意工夫」である。
「下足番を命じられたら日本一の下足番になってみろ。そうしたら誰も君を下足番にしておかぬ(小林一三)」
言われた事だけしかできない社員は、AI上司が登場したらたちまち機械に管理される人間になってしまうのであろう。

科学の発達は、人類の幸福に貢献すべきものだとは思うが、核兵器の例もあって必ずしもそうとは言い切れない。AIの進化が、果たして人間の幸福につながるのだろうかと考えてみるが、答えはわからない。AIの上司であっても、人間の理不尽な、ゴマスリだけで昇進したような無能力上司よりははるかにマシだとも言うこともできる。そんな来るべき未来に自分が労働者として参加していられるかどうかはわからない。もしかしたらギリギリで「逃げ切り世代」になるかもしれない。でも子供たちには関わることだし、無関心ではいたくない。

AI上司の方がひょっとしたらいいのかもしれないが、私の今の感覚だとやっぱりそこは機械には負けたくない気がする。合理的判断だけでは割り切れない機微の世界、機械には及ばない創意工夫の世界、それを持って余人ならぬ余AIに替えられぬサラリーマンとして評価されたいものである。AIであろうが人間であろうが、どちらにせよ「使われるよりも使う方」に回れるように意識していたいと思うのである・・・





【本日の読書】
 「不思議な会社」に不思議なんてない―――建設業をサービス業に変えて急成長! - 荒木恭司 世界史を変えた詐欺師たち (文春新書) - 東谷 暁






2018年10月8日月曜日

JALの不当解雇問題に思うこと

職場の帰り道、たまに駅前でJALの不当解雇を訴えるビラ配りに遭遇する。また、先日は知人が参加したコーラスの会場で、やっぱりJAL(パイロットと客室乗務員の)不当解雇を訴える人たちがいたと聞いた。どうやらあちこちで活動を続けているようである。また、ちょっとググってみてもホームページが開設されており、その主張するところもよくわかる。ただ、個人的にはこの訴えには違和感を禁じ得ない。

そもそもであるが、「不当解雇」というのは、まったくの会社都合で、例えば特定個人を「気に入らない」というような理由で解雇するようなケースではないかと思えてしまう。そんなことで解雇されていたら堪らないので保護されるべきなのは当然であろう。しかし、会社が倒産したら社員は当然路頭に迷うのものであり、それをもって「不当解雇」とは言わない。また民事再生などの法的な再生においても、「経営上の必要性」が認められれば解雇が認められることになっているのも頷ける。

日本の法律では、雇用はかなり守られており、会社もやたらに解雇はできない。しかし、会社の存続が危ぶまれるようなケースでは解雇も認められるのである。解雇される個々人の利益と、解雇によって存続する会社(と雇用が継続される社員)の利益とを比較衡量すればやむを得ないという判断であろう。それは解雇される立場からすれば許されざることだろうが、「全体の利益」という観点からすれば真っ当な判断である。

JALのケースも上記のケースである。放漫経営からJALが会社更生法の適用を受けたのは2010年で、もう8年も前のことである。会社存続のため、大幅な債権カットが行われ、あわせて人員整理が行われたわけである。債権カットは所詮銀行だから世間の同情は集まらないだろうが、人員整理については当人たちにとってはまことに気の毒なことである。ただ、「倒産させて全員を解雇する」のと「存続させて一部の雇用を守る」のとどちらを選ぶかで、後者が選択されたわけである。

解雇された人は気の毒であるものの、それは全体の利益を優先させたやむなき判断で、当然ながらそれを「不当解雇」とは言わない。問題になるとすれば、解雇の基準であろうが、「高齢と病歴」というのもやむを得ないと思う。若い人の方が概して生活は大変だろうし、高齢の人は定年までより近いし、「それまでたくさんもらったでしょう」という感情も働く。病歴だって「顧客の安全」ということを考えればやむを得まい。どんな基準を設けたところで、解雇される人からは不満が出るだろうし、そう考えるとこの基準に問題があるというより、「よりマシな基準」を選んだ結果だと言えるだろう。

それにそもそもの考え方が私には受け入れられない。日本では労働者は守られているが、それに甘えてはいけないと私は常々考えている。いつ会社が倒産するかわからないし、解雇されるかもわからない。そういう気持ちで己自身を鍛えていないといけないと思う。「大企業に入ったら後はつつがなく過ごしてそこそこの給料をもらっていればいい」という「ブラ下がり社員」にはなりたくない。明日首だと言われても次の日から別の会社で生きていける心構えで働くべきだろう。「解雇できるならしてみろ」という気概を持って会社に貢献していれば、「残ってくれ」と言われる社員になれるだろうと思う。

不当解雇を訴える元パイロットや客室乗務員たちは、「ただ言われた通り飛んでいただけ」という気持ちもあるだろう。実際、経営破綻した責任は過去の経営者たちにあるのだろうが、だから無罪放免とはいかない。責任はなくても仕事と給料は消えてしまったのだから、他で生きて行く道を探すしかない。不当解雇と訴えている暇があったら、他で働けばいいだけである。パイロットがやりたいなら全世界の航空会社で雇用を探せばいいのだし、そういう働き口がないなら諦めて別の道を探すしかない。私だったら、たとえコンビニのアルバイトしかなかったとしても、働く手段を見つける方に労力を使うだろう。

JAL以外にも外資系の企業からクビにされたと不当解雇を訴える人たちを見たことはあるが、同じである。言いたいことはいろいろとあるのだろうが、会社側から「いらない」と判断されたのなら、私であれば笑って「あばよ」と言うだろう。「いらない」と言われた会社の足に「クビにしないで!」とすがりつく真似は、私には頼まれてもできない。そういう気概は自分自身常に持っていたいと思う。

私などの吹けば飛ぶような中小企業に勤務している身としては、会社が倒産すれば民事再生もクソもなく、一発で倒産であろう。そういう意味では会社とは運命共同体であり、会社を支えることは自分を支えることでもある。JALのような守られた大企業とは根本的には大違いであり、覚悟が違うと言えるのかもしれない(まぁもっとも私自身、大銀行に勤務していた時代からそういう覚悟は持っていたけど・・・)。世の中で生きて行くメンタリティが甘いとしか言えない。したがって「不当解雇」を訴える声を聞いても同情心はかけらも湧いてこない。

人は人、自分は自分。人のことより大事なのは明日の会社の存続。それは己自身の未来でもあるし、高い気概を持って明日も働こうと改めて思うのである・・・




【今週の読書】
 ピーター・ティール 世界を手にした「反逆の起業家」の野望 - トーマス・ラッポルト, 赤坂桃子 SOLO TIME (ソロタイム)「ひとりぼっち」こそが最強の生存戦略である (夜間飛行) - 名越康文, 伊藤美樹





2018年10月3日水曜日

論語雑感 八佾第三(その11)

【原文】          
或問禘之説、子曰、不知也。知其説者之於天下也、其如示諸斯乎。指其掌。
【読み下し】
(ある)るひと(てい)(せつ)()う。()(のたま)わく、()らざるなり。()(せつ)()(もの)天下(てんか)()けるや、()(これ)(ここ)()るが(ごと)きかと。()(たなこごろ)(ゆびさ)す。
【訳】
或る人が帝祭の内容を質問した。孔子は、「私は知りません。もしそれを知っている人がいたら、天下をここに乗せて見るようなものでしょう」と云って掌(てのひら)を指差した。
************************************************************************************
この時代、皇帝には独特の祭事があったようで、しかもその内容は一般には秘されていたようである。そしてその内容を知ることが、皇帝としての権威の一つであったのだろう。日本でも皇室の行事について、一般の人はほとんど知らないだろうし(別に皇室の行事は秘密ではないかもしれないが・・・)、どこの国のどこの時代でもそういう独自のものがあるものなのかもしれない。

考えてみると、「祭り事」については、それこそがすなわち「政(まつりごと)」という言葉でもあることを鑑みると、昔は「祭る」ことが(神様から国を治めることを認められたという)権力の正当性の証だったのかもしれない。そうであるならば、それは政権の秘密として厳重に守られていたであろうから、孔子といえどもその内容を知らなくて当然なのだろう。それに対し孔子も知ったかぶりをすることなく、素直に「知らない」と答えている。

「秘密」には、知っているかいないかで、ある種の優越性が生じる。秘密とは甘美な香りがするもので、人が知らないことを知っているというのは、誠に心くすぐられるものがある。そして「知っている」ことが権威に結びつくこともある。それは例えば会社なんかでもそうであり、会社の上層部の考え方や動きを知っていることが、上司の権威を支えていたりすることもある。

私も小さい会社とはいえ、一応役員であるから、一般社員に比べるとある程度経営事情に通じている。会社の方針なんかについては立案そのものに携わっていたりするから、なおさらである。ただ、私の場合、それを秘していていざという時に見せびらかすようなことはしない。むしろそういう情報は積極的にオープンにしている。会社の決算状況から始まり、その期の方針だったり、その時々において役員会議で議論されていることだったりである。そうした情報をオープンにすることにより、「権威」よりむしろ「モチベーションアップ」に比重を置いているのである。

人によっては会社のそうした情報には興味なんてないのかもしれない。当然、聞いていてもスルーしている人もいるだろう。それはそれで構わないし、興味のある人に伝えるだけでいいと思っている。その理由としては、自分がやっている仕事、目先の指示された仕事に対し、盲目的に従うよりも基本的な会社の方針がわかっていて、だからそれがこの指示につながっているのだとわかる方が仕事の成果としての質が上がると思うからである。

振り返ってみると、自分自身が盲目的に従うことについて反発心を持っていることが根底にはある。意味のないことをするのは嫌だし、だからよくわからない指示をされたりするとその理由を聞きたいし、指示された内容についてもっといいやり方があると思えばそれを提案せずにはいられない。考えずに動くということが嫌いだというのがある。だから「言われたことだけやる」のは嫌いだし、人にもそれを求めてしまうのかもしれない。

概ねサラリーマンと言えば、仕事帰りに赤ちょうちんで一杯やりながら仕事の愚痴をこぼすのが相場と言われているが、その背景にはこうした「情報不足」があるような気がする。自分の考えとは相いれない指示を受けた時、上司の置かれた立場や情報からすれば当然そういう指示になるということがあるだろう。知らないからこそ、「おかしい」となるわけで、それが愚痴になっていることも大いにあるだろう。

「今、会社はこういう状況にあって、よってこういうことに力をいれていかないといけないわけで、だからあなたにはこの仕事をしてもらいたい」という流れの中で指示を受ければ、誰でも納得するのではないかという気がするし、言われなくともそのくらい考えてわからなければ上司に聞くぐらいなのが「できるサラリーマン」ではないかと思う。我が社ではそこまでの自主性は期待できないが、そう思うからこそせめてこちらから手の内を見せるのである。

孔子の真意はともかく、現代に生きる我々について言えば、否、我が社について言えば、「もしそれを知っている人がいたら、会社の経営をここに乗せて見るようなものでしょう」などとは言われないようにしたいと思うし、むしろみんなが知っているようにしたいと思う。自分のやっている仕事が会社全体にどう生きているのか。みんな分かって働くのがいい結果につながると思う。
 そんなわけで、個人はともかくとして、会社の経営はなるべく透明な方がいいと思うのである・・・




【本日の読書】
 ピーター・ティール 世界を手にした「反逆の起業家」の野望 - トーマス・ラッポルト, 赤坂桃子 みかづき (集英社文庫) - 森絵都