2017年3月29日水曜日

本質を見失うと・・・

物事はその本質をきちんととらえて考えないと、時としてとんちんかんな事をやる羽目になる。先日、そんなことを改めて思わされることがあった。それは高校の同窓会の幹事会での席上の事、その日の議題として卒業時に卒業生の中で同窓会に加入を拒否する人たちがいて、どうしたら100%加入してもらえるか、その対策が上程された時のことである。

 昔は、卒業したら100%加入するのが当たり前だったが、たぶんいろいろトラブルもあったのだろう、最近は加入については意思確認が必要とされるようになっている。そこで卒業時に意思確認するわけであるが、その時「No」という人たちが出てきているのである。それはそれで仕方ないと思うのであるが、それでも何か対策をというなら2つしかない。

 1つは同窓会に加入する魅力・メリットを誰にでもわかりやすく伝えることである。そしてもう1つは、そもそもであるが、同窓会自体を魅力ある組織にすることである。当たり前だがそれしかない。しかし上程された提案内容は、「入学時に他の書類ともども判をもらってしまう」というものであった。提案者は、他の高校での成功事例として聞きつけ、「それはいい」と飛びついたらしい。

 確かに、そうすれば100%加入となるのは間違いないであろう。ただ、そうして名前だけの会員を集めても当然意味はない。しかも、例年総会へ参加する会員の数は、総数の0.5%以下という誠にお寒い状況で、もはや同窓会の存在意義すら問われかねない状態である。それに対する抜本的な改善を試みるでもなく、さらに「名前だけの」会員を集めて良しとするスタンスでは先々知れているだろう。

 「木を見て森を見ず」という言葉があるが、物事は本質となるべき全体像をきちんと捉えておかないととんちんかんな対応を取ることになる。今回の件も、「どうしたら全員同窓会に加入してくれるか」という問いを出発点としているが、その中にのめり込んでいき、いつの間にか本質からずれてしまったものである。中心になっている人たちは真面目に考えているのだろうが、それがおかしい事に気が付かない。

 私が昨年まで別途お手伝いさせていただいていたボランティア団体でも、ホームページを作るにあたり、「詳しい」と称する人に制作を任せたが、出来上がったものはマニアック過ぎてまったく使えないものであった。ホームページを「どういう目的で使うのか」「どういう風に利用するのか」「そもそも何の目的でつくるのか」という本質を無視してテクニックのみに走った結果である(それは結局廃止にして、私が別の人に助けてもらって作り変えた)。IT関係はわからないからと言って、詳しい人に丸投げしたらそうなるというまさに悪しき見本であった。

 ボランティアであるからまだいいかもしれないが、仕事となるとモノによっては影響は甚大だからいい加減にはできない。本質を見失わないためには、常に「大事なことは何なのか」「あるべき姿はどういうものか」「要は何なのか」ということを問い続けないといけないだろう。本質を見失ってしまうと、「おかしなことを大真面目にやっていてしかも気が付かない」というまさに冒頭の例のようになってしまうだろう。

 人のふり見て、ではないが、改めて自分も気を付けたいと思うところである・・・

 

【本日の読書】
 デービッド・アトキンソン 新・所得倍増論 - デービッド・アトキンソン  日輪の遺産 新装版 (講談社文庫 あ 70-30) - 浅田 次郎





2017年3月27日月曜日

私が影響を受けた人

 人はいろいろな人に影響を受けて育つものである。かくいう自分もいろいろな人から影響を受けている。先日、高校のラグビー部OBの試合に参加した。そして久しぶりにお会いしたH先輩(大学のH先輩とは別人である)も高校生だった私が影響を受けた人の一人である。

高校に入学し、ふとしたきっかけでラグビー部の門を叩いた私の前に現れたH先輩は当時3年生でキャプテン。新入生には眩しい存在だ。練習はキャプテンの指示のもと行われていたから、当然その一挙手一投足に目がいく。ラグビーは当然うまいし、キャプテンシーもあって、自分もかくありたいと思ったものである。

その想いから、必然的にポジションもH先輩と同じナンバー8を選んだ。コーチには、体格的にはフランカーとか、運動神経も良かったからバックスも勧められたが、あくまでもナンバー8を希望した。幸いそれほどライバルもなく希望は叶ったが、それは卵から孵った雛が最初に目にしたものを親だと思うのと同じようなものかもしれない(その後大学に入るとさすがにフランカーに移ったが、それはそれで良かったと思う)

H先輩の影響は、ラグビーだけではない。そのユニークなキャラクターだ。もちろん、現役中はどちらかと言うと怖いイメージだったのだが、引退して受験モードに入ったあとは気軽に接してもらえるようになった。その時、初めて「素」に戻った先輩と接したのである。練習後にみんなで行きつけの喫茶店に行くと、H先輩らもなぜか受験の息抜きと称して来ていて、そこでH先輩の「本当の姿」を見たのである。

H先輩は、常に話の中心にいて、その話が面白いのなんのと。初めこそ練習中のイメージと違って戸惑ったのだが、慣れたあとはその「トーク」を楽しんだ。何と言っても一年坊主だし、隅で聞いているのが精一杯だったのである。H先輩はそんな隅っこの私を目ざとく捕まえては、よくダシにしてくれた。「お前暗いから一日一つ何か面白いことを言え!」。

そんなことを言われても、力なく笑うしかなかったが、先輩のトークは聞き流すだけでも効果があった。もともと父に似て無口だった私だが、大学に入り合コンに参加した際は、軽快なトーク(と自分では思っていた)を披露して女子大生の笑いを取れたのは、間違いなくH先輩のおかげである。「スピードラーニング」が、「聞き流すだけで英語が話せる」という謳い文句の宣伝をしているが、「聞き流す」だけでしゃべれるようになったのは事実だから、効果があるのは間違いないと断言できる。

ビールを飲みながら久しぶりにH先輩のトークを聞いていたが、相変わらずの面白さだった。大学を卒業したあと、大手製薬会社に入社し営業マンとなったH先輩だが、営業成績も良かったという。それはとりもなおさず、先輩のキャラクターとトークの結果だろうと思う。自分はといえば、影響を受けたとは言え、もともとは物静かで無口であるから先輩ほどの営業力は身につかなかったと思う。せいぜいが、社内でそれなりの人間関係(特に女性)を作るのに役立った程度である。だが、それでも大いに役立ったのは事実である。

先輩のトークは、やっぱり何年経っても自分が到達できる領域のものではない。だが、間違いなく自分の欠点を補ってくれるものであった。考えてみれば、キャプテンとして眩しい存在で、カッコよくて、だから同じポジションを志望してという流れがあったのが良かったかもしれない。最初からおチャラケた素顔を見てしまっていたら、距離を置いていたかもしれない。

先輩のトークの洗礼を浴びていなかったら、自分はどんなキャラクターになっていただろうとふと思う。多分、無口で根暗で、高校時代に付き合っていた彼女から「何考えているんだかわからない」と言われたことがあるが、どちらかというとカタブツのそういう人間になっていたのではないかと思う。そうしたら、自分の人生ももっとつまらないものになっていたかもしれない。

考えてみれば、それもありがたいことだと思う。今年は同じラグビーチームに入れてもらうことになっているが、そうすると接する機会も増え、相変わらずのトークを聞く機会も増えるだろう。それがさらなる影響としてわが身に現れるかどうかはわからない。ただ、もうすでに十分な恩恵を被ったことだし、今度その感謝の気持ちを伝えてみたいと思う。その場で先輩を笑わせられたら、高校時代果たせなかった課題をようやく果たせるのかもしれない。

先輩とは、末長くお付き合いさせていただきたいと、つくづく思うのである・・・


【今週の読書】
 雪煙チェイス (実業之日本社文庫 ひ 1-3) - 東野圭吾 投資家の父より 息子への13の遺言 - 高橋 三千綱 危険なビーナス (講談社文庫) - 東野 圭吾





2017年3月23日木曜日

論語雑感(学而第一の15)

子貢曰。貧而無諂。富而無驕。何如。子曰。可也。未若貧而樂。富而好禮者也。子貢曰。詩云。如切如磋。如琢如磨。其斯之謂與。子曰。賜也。始可與言詩已矣。告諸往而知來者也。
(いわ)く、(まず)しくして(へつら)うこと()く、()みて(おご)ること()きは、何如(いかん)()(いわ)く、()なり。(いま)(まず)しくして(たの)しみ、()みて(れい)(この)(もの)()かざるなり。子貢(しこう)(いわ)く、()()う、「(せっ)するが(ごと)く、()するが(ごと)く、(たく)するが(ごと)く、()するが(ごと)し」と。()(これ)()()うか。()(いわ)く、()や、(はじ)めて(とも)()()()きのみ。(これ)(おう)()げて、(らい)()(もの)なり。
【訳】
子貢が先師にたずねた。貧乏でも人にへつらわない、富んでも人に驕らない、というほどでしたら、立派な人物だと思いますが、いかがでしょう。先師がこたえられた。まずひととおりの人物だといえるだろう。だが、貧富を超越し、へつらうまいとか驕るまいとかいうかまえ心からすっかり脱却して、貧乏してもその貧乏のなかで心ゆたかに道を楽しみ、富んでもごく自然に礼を愛するというような人には及ばないね。すると子貢がいった。なるほど人間の修養には、上には上があるものですね。詩経に、切るごとく、磋るごとく、琢つごとく、磨くがごとく、たゆみなく、道にはげまん、とありますが、そういうことをいったものでございましょうか。先師は、よろこんでいわれた。賜よ、おまえはいいところに気がついた。それでこそともに詩を談ずる資格があるのだ。君は一つのことがわかると、すぐつぎのことがわかる人物だね。
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貧乏でも人にへつらわず、富んでいても人に驕らないという態度は、確かに立派だと言える。これは何も「富」を基準にしなくても「上下関係」という意味では広く当てはまるような気がする。例えば、「上司にへつらわず、部下に驕らず」といった具合だ。そもそも人は誰でも上にへつらい、下に驕るという傾向はあると思う。そういう傾向の中で、上下どちらに対しても同じ態度で接することができるというのは、芯の通った人物を感じさせる。

なぜ、人は上下関係に対してこのような傾向があるかというと、結局それは「自信のなさ」の故だと思う。貧乏でも自分に自信があれば、富める者とも対等に話ができるだろう。富んでいるなら(富以外に自信を持てるものがあるなら)、富だけで人を判断せずに対等に接することができるだろう。引け目を感じるからこそ上に対してへつらうのだし、下に対して優位な部分を強調しようとするのだろうと思う。

自分自身に自信があれば、たとえ貧乏でも他の点では劣っていないと思えるからへつらうこともない。他に自信があれば、貧乏なのは仕方がないと受け止められる。近所にお金持ちがいたとしても、胸を張ってご近所付き合いすればいいし、それがすなわち、孔子の答える「貧しくて楽しみ」という態度なのだろうと思う。釣りバカ日誌のハマちゃんが、社長のスーさんと友達付き合いできる所以なのだろうと思うし、自分もかくありたいと思う。

そうした孔子の答えに、子貢は「切磋琢磨」の言葉を持ち出す。この部分が「切磋琢磨」の出典かと思ったら、実は『詩経』というさらなる古典が元ネタらしい。「始可與言詩已矣」の「詩」はこの『詩経』の意味なのかもしれない。そうした弟子の教養を孔子は褒めているわけであるが、この「切磋琢磨」は実は私も好きな言葉で、自分の行動の根本においているし、だからこそ息子の名前にも取り入れたくらいである。

切磋琢磨とは改めて説明するまでもないが、一言で言えば「磨くこと」だ。何をと言えば、それは自分自身だろう。しかもただ「磨いて終わり」ではなく、「磨き続ける」ことだ。そこに完成形はない。学生時代は学校の勉強、そして社会に出てからも仕事にまつわる勉強や人間関係や人生といったテーマまで学ぶべきことは多い。常に学び、考え、実践し、そしてまた学ぶというサイクルを繰り返し、琢磨しないといけない。

要は、自分は自分と考え、しっかりとした信念と自分自身を保ち、常に自分自身を磨く。昨日より今日、今日より明日と一歩でも前進できるように切磋琢磨する。そういう人間に私はなりたいと思うし、息子にもそうなって欲しいと思う。

 この学而第一の15は、実に私の個人的心情にマッチするところである・・・


 

【本日の読書】
 投資家の父より 息子への13の遺言 - 高橋 三千綱  危険なビーナス (講談社文庫) - 東野 圭吾




2017年3月20日月曜日

論語雑感(学而第一の14)

子曰。君子食無求飽。居無求安。敏於事而愼於言。就有道而正焉。可謂好學也已。
()(いわ)く、君子(くんし)(しょく)()くことを(もと)むる()く、(きょ)(やす)きを(もと)むる()し。(こと)(びん)にして(げん)(つつし)み、有道(ゆうどう)()いて(ただ)す。(がく)(この)むと()()きのみ。
先師がいわれた。君子は飽食を求めない。安居を求めない。仕事は敏活にやるが、言葉はひかえ目にする。そして有徳の人について自分の言行の是非をたずね、過ちを改めることにいつも努力している。こうしたことに精進する人をこそ、真に学問を好む人というべきだ
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 孔子の説くいわゆる「君子」は極めて理想的な姿だ。ここでは飽食を諌め、家も贅沢なものは戒め、仕事は当然のこととして、言葉遣いや我が身の振り返りなど、修行僧そのものである。確かにそれだけしっかりやっていれば、「君子」と呼ばれるのもよくわかる。だからこそ、2,600年を経てもなお名を残しているのだろう。

それはそれで確かに立派ではあるが、では自分もそうしてみようかと思うと難しい。その最たるものは前半部分だ。衣食住とは人の生活の基本として挙げられるが、そのうちの食住に関する部分である。なぜなら、今の世の中には美味しいものが溢れており、そうしたものに目をつぶるのは非常に困難である。それに果たしてそれが現代の君子への唯一の道かという疑問もある。安居とは居心地のいい家といった感じであろうか、これも求めるのは人間の本能とも言える。

大前研一氏などの著書を読むと、「仕事も遊びもしっかりやる」というスタンスを貫いている。当然、美味しいものだって食べているだろうし、稼いだお金で世界各地へ遊びに行っているようだし、別荘だってあるくらいだから当然家もそれなりのものだと思う。大前研一氏のように、仕事も遊びも一流を実践している人は多いだろう。それが働くモチベーションになっているのかもしれないが、それが悪いとは思わない。そういう人たちが君子かどうかはわからないが、お手本を選べと言われたら、現代の方々を選びたいと思う。

これに対し、後半部分は大いに耳を傾けたいと思う。私自身、誰に対しても自分の考えをロジカルに説明、主張できる自信はある(妻を除いて、だが)。しかし、そういう自分では、それに対する危険性も感じている。自分の意見を主張するに熱心になるあまり、相手や周りが見えなくなることがあるからである。特に相手が言いたいことはあるがうまく説明できないと思われる時がしばしばあり、自分の意見に強い自信があると、反論が出てこないのも当然だと思いがちになることがあるのである。

過ちを改むることはもちろん大事だと思うが、それよりもまず自分の意見がどう相手に届いているかを知りたいと思う。それによって自分の意見を客観的に捉えることができる。自分の顔は自分では見ることができず、鏡があって初めてそれが可能となる。毎朝鏡を見るが如く、常に自分の意見についての「鏡」を持つように心掛けた方がいいということだろう。

そう考えると、後半部分は自分への戒めになる言葉である。孔子のいう「真に学問を好む人」というのは、謙虚に向上心を持つ人という意味と考えるべきかもしれない。孔子のいう真に学問を好む人には、食住の面でなれそうもないが、「鏡を見る努力」は怠らないようにしたいと思うのである・・・

 
【今週の読書】
 「言葉にできる」は武器になる。 (日本経済新聞出版) - 梅田悟司 雪煙チェイス (実業之日本社文庫 ひ 1-3) - 東野圭吾







2017年3月16日木曜日

タイミング

タイミングの良し悪しというのはあると思う。我が社は不動産賃貸業であるが、今はハイシーズンなので、募集している部屋も次々に埋まっていく。されど、ちょっと時期を外すと空室期間が長くなってしまう。もちろん、時期だけではなく家賃とかの条件もあるが、時期を外れて需要が減ると、当然ながら(こちらにとって)良い条件での募集は厳しくなる。

 退去の連絡をいただくと、当然ながらすぐ次の募集に思いが及ぶ。しかし、退去の時期が3月末とか言われると、何とも言えない気分になる。1月末なら需要のピークに募集できるので空室期間を短くできる。しかし、3月末だと需要のピークは過ぎてしまうので、しばらく借り手がつかないかもしれない。家賃戦略にも影響するし、「もう少し早く退去してくれれば」と思うも、こればっかりは相手のある話でどうにもならない。

 販売の場合は最たるもので、募集している時には買い手が現れず、ディスカウントして売却したあとに、定価でも買いたかったというお客さんが現れたりもする。「欲しい」タイミングと「売りたい」タイミングがばっちり合えば双方がハッピーだが、なかなかそうもいかない。私が自宅を買った時も、土地の値段を聞いた銀行の先輩に羨ましがられたものである。その先輩もかつて同じ地域で探していたが、その時は到底手が届く価格ではなかったという。「その値段だったら買いたかった・・・」と目の前でタメ息をつかれたが、どうしようもない。

 結婚したあとのこと、かつて大好きで猛烈にアタックした女性から「もうちょっと続けて欲しかった」と言われたことがある。「なんでその時に言ってくれなかったのか・・・」と随分恨めしく思ったものである。私がアタックしていた時は戸惑うばかりで、私が諦めたあと、じわじわと思いが寄せてきたというが、時すでに遅しであった。

転職もタイミングものである。企業の募集とこちらの応募がうまくマッチすればいいが、必ずしもそうはいかない。転職した先輩の話を聞き、そんな好条件なら自分もと思ったが、その時はもう募集がなかったということがあった。今は我が社で求人の計画があるが、こちらの望む人が望むタイミングで現れるかはわからない。

みんなちょっとしたタイミングなのであるが、それがずれるととてつもない違いとなって表れる。それが人の世の常だとはわかっているが、ちょっと辛い人の世だと思う事しばしばである。もしも何らかの方法で常にベストタイミングとなるようにできたら、自分の人生も仕事も随分違うのにと思う。けれどそれは叶わぬこと。過去を変えられないのと同様、ベストタイミングを選択することも不可能。できるのは、ただそれがベストタイミングであったと受け入れるだけであろう。就職も、賃貸募集も、転職も結婚も、ベストであったと思うのが良いのであろう。

そう思う一方で、それを何とかしたいと思う気持ちがふつふつと湧いている。もう恋愛は手遅れだし、転職は基本的にもう必要がない。しかし、仕事はまだまだ現在進行形。タイミングを合わせるのは最終的には難しいかもしれないが、奮闘努力のし甲斐はあるだろう。何事も前向きに、倒れるなら前への精神でやっていきたいと思うのである・・・

 
【本日の読書】
 経営者になるためのノート ([テキスト]) - 柳井 正  コシノ洋装店ものがたり (講談社+α文庫) - 小篠綾子



2017年3月12日日曜日

娘の進路

この頃、娘の進路について食卓で話題になる。と言っても高校一年の今の段階では、「理系か文系か」のレベルである。以前から娘は「理系」の科目が好きなようで、なんとなく「理系」だろうかと思っているが、だから大学は理系になるのかとか、女の子はやはり文系の方がいいんじゃないかとか考えているわけではない。もう間もなく進路について決める時期だろうし、何より本人の事だから本人が選ぶ問題である。

では、例えば娘にどっちがいいのかと聞かれたらなんと答えようか。結論としては、「好きな方を選べ」となるが、その参考情報くらいは提供したいものである。と言っても根っからの文系人間を自負していた自分としては、「選択」した経験がないという弱点がある。高校生活で唯一真面目に取り組んで赤字を取ったのが化学。数学は「好きの領域」を出られず、生物地学は高得点をマークできたが、理系では傍流だ。選ぶ余地がなかったということでは、楽であった。

迷ったのは文系の中でどうするかだ。いちばんの希望はやはり文学部だった。本を読むのが好きだったし、できれば小説などを書いてみたいという思いがあったのである。しかし、それで食っていくまでの覚悟はなく、「授業料の安い国公立の大学」という条件下では、東大は無理だがそれ以下はレベルが低すぎるという問題もあって断念。結局、法学部に進んだのである。

しかし、法律の世界は当初思い描いたようなものではなく、学び進めた挙句の結論は、自分が進んでいきたいという道ではないというものだった。その選択は間違っていなかったと思うが、就職では銀行を選択した。それなら経済学部か商学部の方がよかったのかもしれないが、日本の場合それほど進路と専攻が密接に関連していない。銀行に入っても違和感を感じたことはなかったし、むしろ不良債権部門に移った後は、顧問弁護士と話す上で法律的な下地は大いに役に立ったものである。

理系の大学では実験が多く、授業に多くの時間を取られるという話はよく聞く。だから嫌だというのも、なんだかなぁという気がする。先日飲んだ友人は、理系の大学から総合商社に進み、今は家業の飲食店の跡を継いでいる。理系とは程遠いキャリアだが、それもまた良しだと思う。考えてみれば文系から例えば企業の研究職には行けないだろうが、理系からは幅広く進めるようにも思う。そういう意味では理系の方が進路は広そうである。

スティーブ・ジョブズは「点が線になる」ということを語っていたが、よほど強い希望を持っているのでない限り、大学へ進む進路のうち「理系か文系か」という問題はそれほど重要な問題ではないのかもしれない。将来の就職がどうのこうのもあるかもしれないが、現時点で自分の希望に沿って選べば良いとやっぱり思う。それがよくわからないというのなら、とにかく動いて探してみるべきだろう。本を読んでもよし、先輩を訪ねるのもよし。私の場合は、ヒントをくれたのは映画であった

 若いうちはいろいろと悩むものである。だが、経験上立ち止まっていても悩みは解決しない。進路でも恋愛でもなんでも、まずは動いてもがいてみるのがいいんじゃないかと思う。無限の可能性と漠然とした不安とを目の前にした、考えてみれば自分も確かに立っていたあの頃が今にして思えば懐かしく、そしてそこに立つ娘が羨ましい。

 できることなら、そんな悩める子供にアドバイスの一つもできたら、自分の経験もよりいきたものになるのではないかと思うのである・・・



【今週の読書】
 確率思考の戦略論 USJでも実証された数学マーケティングの力 - 森岡 毅, 今西 聖貴  キリンビール高知支店の奇跡 勝利の法則は現場で拾え! (講談社+α新書) - 田村潤 コシノ洋装店ものがたり (講談社+α文庫) - 小篠綾子





2017年3月8日水曜日

あと10年で消える職業?

最も強いものが生き残るのではなく、最も賢いものが生き延びるでもない。唯一生き延びるのは変化できるものである。
ダーウィン
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『オックスフォード大学が認定 あと10年で「消える職業」「なくなる仕事」』という記事を以前目にした。ここのところ『自分の時間を取り戻そう-ゆとりも成功も手に入れられるたった1つの考え方-』とか、『第四次産業革命-ダボス会議が予測する未来-』などといった本を読んでいろいろと将来のありようを考えるが、市場から淘汰されないためには、やはり日頃から意識を持たないとダメであり、自分の仕事が「消える」のかどうかは考えておかないといけない。

 先の記事では、身近なところで「不動産ブローカー」というのがあった。言ってみれば「不動産仲介業」であるが、なるほどマッチングビジネスの代表とも言えるこの業務はなくなるかもしれないと思う。なにせ、「売りたい」、「買いたい」、「貸したい」、「借りたい」という要望を結びつけるだけであるから、AIが進化したらブローカーなど不要になるのは必然だと思われるからである。

 同じ不動産業と言っても、我が社は「賃貸業」が中心なので、関係ないやと構えていることもできるが、もしも仲介業だったらと考えてみることも必要かと思う。そうだとしたらこの10年で何をするであろうか。
まずAIに何ができて何ができないだろうかと考えてみると、単なる検索はAIが圧倒的だ。AIでなくても、今でもスーモなどに希望の「場所」「家賃」「駅からの距離」「間取り」「築年数」「専有面積」などを入力すればたちまち候補がいくつも出てくる。さらに「バス・トイレ別」「2階以上」「洗面所独立」など「こだわり条件」なども指定できる。既に「検索分野」では、不動産屋の役割は少なくなってきている。

とは言え、選んだあと実際に内見をしたり、気に入ったら申し込みをして時には条件なども交渉して契約をしてという事務手続きがあるわけで、この部分がどこまでAIにできるのかにもよるが、仲介業もまだまだ生き残る道があると思える。それに物件を選んではみたものの、実際に内見してみたらどうもイマイチだったなどという場合、「ちょっと条件から外れますが、こんな物件もありますよ」というおススメはAIにできるだろうか。「ここの大家さんはこんな方ですよ」とか「この辺りはこんなものもありますよ」なんて話は、まさに「人間業」なのではないかと思ってみる。

大家さんの立場からすると、早く入居者を決めたいという場合、通称ADと言う仲介会社に払う手数料を上乗せすることによって優先的に紹介を依頼してもらったりするが、AIだとそれができなくなるかもしれない。大家さんによっては、仲介会社の担当者に成約に際して付け届けをしたりしている人もいると聞く。「袖の下」とも言えるが、気は心だし、お互いハッピーなら別にとやかく言うことでもないが、こうした「人間ならでは」のこともできなくなるだろう。

そう考えると、まだまだ「消える」とは言えなさそうな気がする。それよりもいたずらにAIを脅威とするのではなく、うまく自社に取り入れて「マッチング」の部分は代行させるように利用するとかすれば恐れるに足りずという気がする。いたずらに戦々恐々として、「自分の仕事は大丈夫だろうか」と不安になったり、「自分の仕事は大丈夫だろう」と安易に安心したりするのではなく、「なくなるとしたらどうするか」と前向きに考えるようにしたいものである。

そもそもであるが、AIがどこまで進化するかにもよる。部屋を探しに来たお客さんに瞬時に候補物件を挙げ、そのまま内見に案内し、インプットしてある大家さんの人柄や地域の特徴や、同じ物件に住む入居者のトラブル履歴や地域情報を事細かく説明し、AD情報を加味しつつ契約まで代行するようになれば、もう完全にお手上げだろう。経営者は従業員を雇う必要がなくなってしまう。

まるでSFの世界だが、さすがに10年ではそこまではいかないだろうが、20年でも大丈夫かどうかはわからない。自分はともかくとして、これからを生きる我が家の子供たちには、どんな世の中になっても、どんな環境の変化があっても、生き残っていける術を考える人間になるように教えたいと思ってみたりする。

 ダーウィンの言葉は、今もなお、そしてこれからも真実であり続けると思うのである・・・


【本日の読書】
  確率思考の戦略論 USJでも実証された数学マーケティングの力 - 森岡 毅, 今西 聖貴  キリンビール高知支店の奇跡 勝利の法則は現場で拾え! (講談社+α新書) - 田村潤





2017年3月5日日曜日

決める事

 弟と話をし、両親の傘寿の祝いをやろうということになった。どこかで食事をと考えたが、どこにしようかと迷う。昔からこういうのは苦手である。デートの時にどこに行こうかとか。今はネットでいろいろと検索できるが、それでも迷うものは迷う。誰かに決めてもらえるなら、こんなに楽なことはなく、むしろ決めてもらった方がありがたい。遠距離恋愛していた妻との結婚前のデートが楽しかったのは、相手の本拠地に行くためデートコースを考えなくてよかったからかもしれないと、今にして思う。

「自分で決めなくていい」というのは、極めて楽である。逆に自分で決めるとなると、プレッシャーがかかる。その選択が不評だった場合、その責任がすべて自分にのしかかるからである。自分で決めなくていいならこれほど楽なことはないと思うが、そうも言ってられない時がある。大好きな女の子にデートの約束をしてもらった時とか、仕事の時もそうである。そこで「決めてください」なんて言えば、次にデートに誘ってもOKしてもらえない可能性は大きくなるし、仕事ではいつまでたっても責任ある立場につかせてもらえないだろう。

今の会社では、私はかなり自分で決めている。職人さんからは、「言ってくださればなんでもやります」と言われているし、直属の上司は自分ではあまり決めないので、私が代わりにみんな決めて必要な指示を出している。それで会社も動いており、自分自身それで満足しているので問題はない。レストランを決めるのは苦痛だが、仕事で決めるのは何の苦労もない。むしろ何で自分で決めたがらないのか不思議なくらいである。

例えば、会社でみんなでやる仕事のスケジュールを決めるとする。私の上司に任せると、「みなさんいつがよろしいですか?」から始まり、それに対し、「私はいつでもいいです」「決めていただければそれに合わせます」などと答えが出てくる。すると、「じゃあどうしましょう?」となり、「私もいつでもいいのですが・・・」と続く。キャッチボールばかりでいつまでも決まらない。そしてその展開に業を煮やした私が、では「○月○日にやりましょう」と決めて終わるという具合である。

私の性格からすると、決断できずにダラダラしているのが心地よくないし、あれこれ指図されるのも然り。なので誰も決断しようとしない我が社の体質は、結果として私がみんな決められるという点で都合がいいと言える。ただ、「それでいいのか」という思いはどうしても残る。自分にとっては都合が良くても、その人自身にとって、そして会社にとっていいのかという視点である。

自分で決めないというのは、要は「責任回避」と言える。先のスケジュールの例などは遠慮と言えなくもないが、仕事というものは一つ一つ何かを決めないと進んでいかないものである。民主的に決めるのもいいが、ある程度誰かが責任を取って進めて行くことによってスピード感を持って進んで行くということもある。決めるということは、責任を取るということであり、そこには「自分が責任を持って進めていこう」という意思と主体性とがある。決められない人には当然それがない。

若い頃から、失敗を責められていると、人間は保守的になっていく。言われもしないことをやって怒られれば、次からは余計なことはするまいと思うようになる。ババを引かないようにとひたすら「謙虚に」仕事をしていれば、失敗はないかもしれないが、間違いなく「頼られる存在」にもなれない。本人の責任ではない部分もあるかもしれないが、いつまでもそれに気がつかないと「そういう存在」になってしまう。

自分自身、「そういう存在」とは程遠いと自負しているが、しかし事がレストランとなると途端に決められない存在になってしまう。もうデートコースを考える必要もないからいいかと言えば、今回の件もある。だが、苦手なのは仕方ない。頼られなくてもいいし、兄貴としての威厳もそんなところで発揮したいとも思わないし、したがって傘寿の食事会の場所を決めるのは弟に頼ろうかと思う私なのである・・・


【今週の読書】
 確率思考の戦略論 USJでも実証された数学マーケティングの力 - 森岡 毅, 今西 聖貴  赤めだか (扶桑社BOOKS文庫) - 立川 談春







2017年3月1日水曜日

論語雑感(学而第一の13)

有子曰。信近於義。言可復也。恭近於禮。遠恥辱也。因不失其親。亦可宗也。

有子(ゆうし)(いわ)く、(しん)()(ちか)ければ、(げん)()むべきなり。(きょう)(れい)(ちか)ければ、恥辱(ちじょく)(とお)ざかる。()ること()(しん)を失わざれば、()(たっと)()きなり。
有先生がいわれた。約束したことが正義にかなっておれば、その約束どおりに履行できるものだ。丁寧さが礼にかなっておれば、人に軽んぜられることはないものだ。人にたよる時に、たよるべき人物の選定を誤っていなければ、生涯その人を尊敬していけるものだ
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 今回の言葉の意味は、ちと難しかった。原文を読んでも当然わからない。手元にある岩波文庫『論語』の訳でもよくわからなかった。ネットで調べて、ようやくそれらしい意味を理解した次第である。

最初の「約束したことが正義にかなう」とはどういうことかと考えてみるが、よくわからない。そもそもここでいう「正義」とは、「正しいこと」ということであろうか。どうもしっくりいかず、逆に「守れない約束」とは何かと考えると、それは「できない約束」であろうかと思ってみたりする。これなら銀行員時代から今に至るまで、仕事で経験していることが瞬時に脳裏に浮かぶ。「いついつまでに返済する」、「いついつまでに家賃を払う」と言った「守られない約束」の類だ。

お金の場合、「払う意思」ももちろん大事だが、肝心のお金がなければどうにもならない。約束を守れない人というのは(そもそも払う意思のない人は除いて)、楽観的な見通しに基づく当てが外れた人とも言える。「いついつまでにこのくらいお金が入ってくるからそれで払おう」、「これで一発当ててお金を作ろう」、「今手元にあるが、また入ってくるから使ってしまおう」等々様々なようであるが、いずれも同じ理屈である。

約束というのは、守れば信頼を得られるが、守られなければ信頼を失うものである。しかも簡単に。有子の意図した正義の意味はやっぱりよくわからないが、ここで言う正義とは「確かな見通しに基づいた意思」ではないかと思うところである。それをきちんと理解した上でしっかりと約束できる人は、時間通りに待ち合わせ場所に行くだろうし、したがって信頼を得られるのだろうと思う。

「丁寧さ」という点で、今も難しいのは「親しさとの紙一重」だ。仕事では、よく人の言葉遣いが気になる時がある。「うん、うん」とか「そうなんだよねぇ〜」とか、一見馴れ馴れしいように思えるが、初対面の相手はともかくとして、お得意さんとなると「親しさ」になる場合もあって判断が難しい。私はどちらかというと、「親しき仲にも礼儀あり」で常に丁寧語は崩さないが、それが逆に「取っ付き難い」と思われている節もあって、何とも悩ましい。

ただ、「人に軽んぜられることはない」という部分は、確かにそうではないかと思う時もある。映画などで、悪の親玉などが丁寧語で喋っていると、それだけで乱暴な言葉遣いの下っ端よりもはるかな凄みが出る。トラブルになって相手が激昂した時、丁寧に静かに話し続けたら相手も冷静さを取り戻したというケースもあった。「丁寧さ」も礼にかなっていれば(つまり理屈にかなっていればということだろうか)、そんな効果もあるということかもしれない。

人に頼る時に相手を選ぶというのは、至極当然のことのように思う。ここでは「生涯その人を(尊敬していける)」という部分に想いが至る。というのも、「仕事で尊敬しうる人だ、生涯おつきあいしたい人だ」と思う方はいるのだが、普段なかなかコンタクトを取れないというもどかしさを抱えているからである。年賀状はやりとりしていても、直接お会いしていない。と言って普段用事もなくてなかなか会いにも行けない。

尊敬とは心の中で思っているだけなのだろうかと思うと、それだけではない気がする。年に一度でもお会いして、その薫陶を得たいと思う一方、自分の存在を印象付けたいという思いもある。「機会がない」と嘆くだけではなく、機会を作ってでも今年はお会いしていただくべきかと思う次第である。やはり、思いは態度で伝えたい。

 今年は、ぜひそういうアクションを起こしてみようと思うのである・・・



【今週の読書】 
 LIFE SHIFT(ライフ・シフト)―100年時代の人生戦略 LIFE SHIFT - リンダ・グラットン, アンドリュー・スコット, 池村 千秋 「書く力」の教室 1冊でゼロから達人になる - 田中 泰延, 直塚 大成