2025年6月18日水曜日

霊魂は存在するのか

 今、通勤電車の中で読んでいる『語りえぬものを語る』という本の中で、「霊魂は存在するのか」という話があった。別に真面目に霊魂の存在を議論したものではなかったが、自分の中で引っ掛かったので改めて考えてみた。霊魂とは、ちょっと調べてみると、「肉体とは別に精神的実体として存在すると考えられるもの。肉体から離れたり、死後も存続することが可能と考えられ、体とは別にそれだけで一つの実体をもつとされる、非物質的な存在。人間が生きている間はその体内にあって、生命や精神の原動力となっている存在、個人の肉体や精神をつかさどる人格的・非物質的な存在、感覚による認識を超えた永遠の存在と考えられている」とある。これをそっくりそのまま信じるのは難しいだろう。

 昔からいわゆる「幽霊」と言われるものも、この霊魂とイコールなのだと思う。死してなお存在する人(の名残?)であるが、人間は生物であり、心臓が止まればその生存は終わる。思考も生命活動の一環であり、脳への血流が止まり生命活動が終われば思考も消滅する。すべてがそこで終わって無に帰るわけであり、「死後も存続する」ことはないと考えるのが自然であろう。もしも死後も存在するのであれば、認知症になった人はどうなるのかと思う。当然、認知症のままの霊魂が残る事になる。幽霊=霊魂の存在を信じる人がいるとしたら、この点はどう思うのだろうかを聞いてみたいと興味深く思う。

 とは言え、同じ生物として活動していてもその思考内容は人によってまったく違う。人間であれば心臓の働きも脳の働きもみな同じであろうが、脳の働きの結果としての思考については千差万別である。この点は実に不思議だと思う(当たり前だと思う人の方が多いかもしれないが)。「同じ生命活動でありながら思考が人によって違う」という事ゆえに、生物としての肉体以外に何かがあるとすれば、それが霊魂と名付けられるものなのかもしれないとは思う。ただし、それは肉体を離れて存在するものではなく、肉体とともにあって「生命や精神の原動力となっている存在」というものである。

 同じDNAを持血、同じ親の下で育っても兄弟で性格が違うというのも当たり前にある。同じ学校に通い、同じ担任に教わってもそれぞれ当たり前に違う。自分中心の考え方をする者もいれば、周りの人に配慮できる人もいる。同じ映画を観ても、同じ本を読んでもそこから受ける影響はみな違う。人から面白いと言われて勧められた映画を観てさほど面白いとは思わなかったという経験はザラだし、本もまた然り。逆に自分がめちゃくちゃ感激した映画をせっかく勧めたのに観もしなかったという事も同様。なぜ同じように感じないのだろうか。同じものに触れてもそこから何かを感じる感性というようなものもまた人によって違う。

 そうした感性は、思考の違いも同様、おそらく細胞レベルで研究してもわからないだろう。「病は気から」という言葉がある通り、人間の精神状態は肉体にも影響を及ぼす。そうなると、やはり「生命や精神の原動力となっている存在」というものがあると言ってもおかしくはない。ただ、それを「霊魂」と称するのには抵抗感がある。それは「霊」という言葉に引っ張られているのかもしれない。「霊」はどうしても「幽霊」に通じてしまい、「ありもしないもの」というイメージがしてしまう。基本的に「霊魂」が存在するとしてもそれは生きているものであろう。死んで生命活動が終われば霊魂も消滅する。

 一方で生きている者にはやはり目に見えない「生命や精神の原動力となっている存在」というものがあるように思う。原子レベルのものは目に見る事はできないが存在する。それと同様、今は十分に解明できていないだけで、そういうものがあるのかもしれない。それはそれとして、その人を形作る思考の元になっている何かがあって、それは血管を流れる血液なのかニューロンを伝わる電気信号なのか、何らかの活動によって生み出されているものであろう。それを「霊魂」と名付けるのであれば霊魂は存在する。ただ、個人的には「霊魂」というより「魂」と言った方がしっくりくる。

 こういう「魂」は大事だと思う。「魂を込めて」作ったものには何か普通のものとは異なる霊力のようなものを感じたりする。野球に例えるなら、魂を込めて作ったバットと普通に作ったバットのどちらかを選べと言われたら、たいがい魂を込めて作ったバットを選ぶだろう。たとえ材質はまったく同じだったとしても、そこに目に見えない力を感じて期待して選ぶだろう。その場合、その人は作り手の「魂」の存在を信じているという事になる。目に見えているものがすべてではない。特に人間の精神のようなものは一見、存在を軽視されそうであるが、「魂」は確実に存在すると信じられる。

 ラグビーでは「魂のこもったタックル」と言えば、気迫あるプレーで仲間の気持ちを鼓舞するものである。そういうタックルをする者は何より仲間の信頼を得る。魂が震える芸術作品というものもある(同じ作品を見ても魂が震えない者も当然いる)。現に信じる信じないは別として、我々は魂を前提として考えているのは事実である。「霊魂」という言葉に引きずられることなく、「魂」と考えればその存在は十分に考えられる。魂のこもったタックルはしたいし、ここぞという時には魂のこもった行動を取りたいと思う。

 「霊魂」は存在しないが「魂」は存在する。そんな風に思うのである・・・


Stefan KellerによるPixabayからの画像

【本日の読書】

 存在と思惟 中世哲学論集 (講談社学術文庫) - クラウス・リーゼンフーバー, 村井則夫, 矢玉俊彦, 山本芳久  【中古】 語りえぬものを語る 講談社学術文庫/野矢茂樹(著者) - ブックオフ 楽天市場店  新古事記 [ 村田 喜代子 ] - 楽天ブックス

2025年6月15日日曜日

論語雑感 子罕第九 (その5)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感
【原文】
子畏於匡。曰、文王旣沒、文不在茲乎。天之將喪斯文也、後死者、不得與於斯文也。天之未喪斯文也、匡人其如予何。
【読み下し】
子(し)、匡(きょう)に畏(い)す。曰(いわ)く、文王(ぶんおう)既(すで)に没(ぼっ)し、文(ぶん)茲(ここ)に在(あ)らずや。天(てん)の将(まさ)に斯(こ)の文(ぶん)を喪(ほろ)ぼさんとするや、後(こう)死(し)の者(もの)、斯(こ)の文(ぶん)に与(あずか)るを得(え)ざるなり。天(てん)の未(いま)だ斯(こ)の文(ぶん)を喪(ほろ)ぼさざるや、匡(きょう)人(ひと)其(そ)れ予(われ)を如何(いかん)せん。
【訳】
先師が匡で遭難された時いわれた。「文王がなくなられた後、文という言葉の内容をなす古聖の道は、天意によってこの私に継承されているではないか。もしその文をほろぼそうとするのが天意であるならば、なんで、後の世に生れたこの私に、文に親しむ機会が与えられよう。文をほろぼすまいというのが天意であるかぎり、匡の人たちが、いったい私に対して何ができるというのだ」
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 この文章だけだと(翻訳の限界かもしれないが)状況がよくわからない。孔子が匡という国で何らかの災難に巻き込まれたのであろうか。それも人災のように思える。風前の灯のような己の状況に対し、自分には天意があるのでむざむざとここで命を絶たれることはないとでも語ったのであろうか。それは自分を鼓舞するための言葉のように思う。自分はいったい何をすべきなのか、それは天命なのか。もしも天命であれば中途半端にやめるわけにも行かない。己の本分を全うするという覚悟も必要になってくる。

 会社の役職も上がれば上がるほど似たような覚悟を求められるものではないかと思う。中小企業に転職して以来、どうも中小企業では「役職」に対する意識が弱いと感じている。特に「取締役」というものがどういうものかわかっていない。我が社でも古株の取締役がいたが、本来の役割を理解しないまま、社長と意見対立が続き、その意見は取締役としては如何なものかという事だったので、私ももう1人の取締役からも支持を得る事なく孤立し、今回自ら辞表を出した。本人的にも限界を感じたのだろうと思う。

 その取締役は新卒で我が社に入り、エンジニアとしてしかるべき優秀な成績を収め、最終的には取締役に抜擢されるに至ったのである。一般的に取締役に就任するにあたっては、社員として一旦辞表を出して退社する。その時点で退職金ももらう。そして株主総会で信任を得て取締役に就任するのである。役割は「会社の経営」である。株主に選ばれた取締役は、直後の取締役会で代表取締役(すなわち社長)を選任する。自分が選ばれれば社長になるわけで、当然そういう「経営目線」で考えないといけない。

 ところが中小企業では人材不足もあって、ある日突然取締役に任命される。本人も役員報酬はそれまでの給与よりも高いし、何より肩書きとしては申し分ないので気軽に引き受けてしまう。任命する方も事務的な手続きに終始し、「取締役とは」という話をするわけでもない。当たり前だが、取締役に任命されたからといって、その瞬間から取締役の仕事ができるわけではない。その立場を十分に自覚し、「これまでとは違う」という意識で「何をなすべきか」を考えないといけない。大企業ではそのあたりは出世の階段を競争を勝ち抜いて上がっていくうちに自然と身につくのだろうが、人材不足の中小企業ではどうしても「明日から取締役、しっかりやれ、以上」で終わってしまう。

 自分は天意を受けているという孔子の信念は、何となく思い込みが激しいように思うが、取締役を拝命したのであれば、それがたとえ社員数人の小さな会社であり、会社法で取締役が3人以上いないといけないからやむなく任命されたに過ぎないとしても、同じように自覚を持って任に当たりたいものである。何となく名刺に「取締役」とあると見栄えがいいと思ってそれに安住してはいけない。以前、リゲインのCMで「24時間戦えますか?」というのがあって、それは今の時代に受け入れられないものではあるが、取締役は例外である。

 取締役は「経営者」に分類され、従って雇用保険の対象にもならず、辞めても失業保険はもらえない。自分で会社を儲けさせてその働きに相応しい(当然社員の給料より高い)役員報酬をもらい、それで自分の身を守らねばならないのである。「役員にオンとオフはなく、オンとスリープがあるだけ」というのは私の名言(?)であるが、いつ何時でも経営モードに頭が切り替わらないといけない。休日に温泉に浸かっていても、何かあれば瞬時に経営の事を考えないといけない。そういう意味で、「24時間モード」なのである。

 件の取締役は、残念ながら(雇われている)社員の意識のまま取締役になり、しかも悲しいかな人材不足で部長も兼務であった(私もそういう兼務ではあるが)。それゆえに就任前後でやる事は変わらず、そんな状況で「取締役としての意識を持て」というのも酷だったのかもしれない。天意を得たというほど大袈裟ではないが、中小企業であっても取締役になる以上、そのくらいの信念と考えはあってしかるべきだと思うのである・・・

Gerd AltmannによるPixabayからの画像


【今週の読書】
 存在と思惟 中世哲学論集 (講談社学術文庫) - クラウス・リーゼンフーバー, 村井則夫, 矢玉俊彦, 山本芳久  【中古】 語りえぬものを語る 講談社学術文庫/野矢茂樹(著者) - ブックオフ 楽天市場店 またうど【電子書籍】[ 村木嵐 ] - 楽天Kobo電子書籍ストア





2025年6月12日木曜日

人生に無駄な事はない

 高校の時、将来の進路に悩んだ私は、単純に観た映画の影響で弁護士になろうと志し、大学は法学部を選択した。当時の大学生は入ってしまえばこの世の天下。授業にもろくに出ずに遊ぶのが世の雰囲気であった。しかし、私は両親に授業料を出してもらう以上はきちんと学ばなければとそういう世の風潮に反発し、学生時代は真面目に授業に出席して勉学に励んだ。しかし、3年になってそれまでの一般教養課程から専門課程に入り、ようやく本格的に法律の勉強に入ったが、1年間勉強してわかった事は、「法律は自分には合わない」という愕然とする事実。悩んだ末、弁護士という進路を変更し就職を選んだ。

 その変更は今でも1ミリも悔いていない。むしろよくきっぱり切り替えたと思う。ただ、恨めしく思うのは、一般教養課程という大学のカリキュラム。高校の延長のようなつまらない授業で、今でも何の意味があるのか疑問である。1年から専門課程に入れば良いと思う。そうすれば私も2年時には転部などにより他の学部で勉強ができただろうと思う。4年になった時点では、もはや留年してまで転部するという選択肢は親にも負担をかけたくなかったため取れなかった。それはそれでしかたがないが、せっかくの4年間なのであり、4年間専門課程でみっちり学べるようにすればいいのにと今でも思う。

 そういう経緯もあって、銀行に就職した私であるが、大学で法律を学んだ経験は、なんとなくあちこちで生きていると感じてきた。銀行員時代は不良債権の担当を長く続けたが、債権回収の現場では法的対応がどうしても視野に入ってくる。当然ながら弁護士と打合せを繰り返す事になるが、その時に大学で法律を学んだ下地というのが生きてきたのである。大学で学んだと言っても司法試験を受験したわけではない。弁護士と比較すれば学生レベルの知識などたかが知れている。だが、知識レベルというものではなく、強いて言えば「言葉がわかる」と言えるのかもしれない。

 法律は、(民事の場合)互いに争う原告と被告とが法廷で事情を知らない裁判官に自らの正当性を法律に照らして主張するものである。「実際にどうか」ではなく、「法律に照らしてどうか」である。それゆえに、「実際はこうだ」と主張しても始まらない。「法律に照らしてどうか」を主張しないといけない。このあたり、慣れない人にはわかりにくかったりする。また、弁護士も専門用語で専門的な話し方しかできない人もいて、慣れない人にはわかりにくかったりする。そうした専門バカ(と言っては失礼だが)の弁護士さんの話をスムーズに理解できるという事はしばしばあった。

 不動産業へと転職したあとは、大企業の金融証券取引法違反事件に巻き込まれ、横浜地検に事情聴取に呼ばれた事があった。社長や他の同僚と順番に呼ばれたのであるが、聴取の冒頭で「これは任意調査という理解でよろしいか」と検事に念を押した。当然ながら任意調査であり、途中で嫌だと思えば打ち切って帰れるわけである。担当検事は私の出身大学と学部を見て納得したようで、その質問に対しては丁寧に説明してくれた。もちろん、こちらにやましいことなど何もなく、全面協力のスタンスで望んだのであるが、しかしながら住所氏名のほかに学歴や財産状況まで事細かく書かされ、少なからずあまりいい気はしなかったのである。せめて「(拒否できると)わかっていて協力している」と示したかったのである。

 極めつけは、前職の退職後、元社長と争った裁判だろう。相手は弁護士を立てて訴えてきたが、私は弁護士に相談しつつも基本的に1人で受けて立った。相談した弁護士には初めから不利だと言われていたし、それは自分でもわかっていたが、それでも終始1人で裁判を続けて最後は不本意ながら和解で終わった。しかし、弁護士費用をかけずに終わらせたので、その点では経済的な損失は最小限にとどめられたと自負している。何とかできるだろうと思ったのも、法律的な論点がそれほど難しいものではなかった事もあるし、法律的な表現にも抵抗感がなかった事もある。訴えるのはさすがに無理だが、受けて立つなら何とかなるものである。

 最近ではまた会社対会社の訴訟になっている。今度は訴えた方。上場企業の理不尽にモノ申したわけであるが、こちらも最初から不利と言われている。筋論からいけば圧倒的に我が社の方が世間の同情を得られると思うが、契約上ではさすがに相手もよく身を守っている。当初から和解を想定しましょうと弁護士から提案を受けているが、できるだけ有利な条件で和解に持ち込みたいと考えている。されどやはり情勢は不利。しかし、ここにきて最後の反撃に出る事になった。「契約は口頭でも成立する」のであるが、であれば「契約は口頭でも解消する」のではないかと私が弁護士に投げかけたのである。

 弁護士も常に最適な手を打てているとは限らない。あるいは最適解を提案してくれていても、実は2番目の解の方が良かったりすることもある。言われるがままにすべてお任せとしていては、絶対にそういう事はわからない。詳しい事はわからなくても、要所要所で弁護士さんと話をし、相手の主張を説明してもらい、こちらの主張を考える中で思い浮かんだアイディアである。ただ闇雲に考えればいいというものではないが、法学部を出ていたからこそ、そうした対応が取れてきたのだと思う。

 「人生に無駄な事があると思えば無駄な事が起こり、無駄な事がないと思えば無駄はない」という言葉がある。その通りだと思う。大学4年の春、進路変更を決断した時、法学部に入って無駄な時間を過ごしてしまったと呆然とした。できれば別の学部に入りなおしてやり直したかった。しかし、振り返ってみると、法律の下地ができた事が今は自分の一つの強みであると思っている。今でも法曹界は私が進むには魅力の乏しい世界だと思っているが、それでも飛んでくる弾から身を守るくらいはできるようになっていると思う。まったくの素人よりもその「ほどほど感」が良いと思う。

 そういう意味で、学生時代に学んだ事は無駄ではなかったと改めて思うのである・・・


succoによるPixabayからの画像


【本日の読書】 
 存在と思惟 中世哲学論集 (講談社学術文庫) - クラウス・リーゼンフーバー, 村井則夫, 矢玉俊彦, 山本芳久 若い読者に贈る美しい生物学講義――感動する生命のはなし - 更科 功 【中古】 語りえぬものを語る 講談社学術文庫/野矢茂樹(著者) - ブックオフ 楽天市場店 またうど【電子書籍】[ 村木嵐 ] - 楽天Kobo電子書籍ストア




2025年6月8日日曜日

退職代行は必要か

 退職代行を巡って「ダイヤモンドオンライン」で二つの記事が目についた。一つが肯定的な『退職代行を使う人はどこに行っても通用しない?→ひろゆきの答えがド正論すぎて、ぐうの音もでなかった』であり、もう一つが否定的な『退職代行は使っちゃダメ?→「転職のプロ」による直球解説がド正論すぎて、ぐうの音もでなかった』である。どちらが正しいかという比較は意味がない。どちらもそれなりに正しいと思うからである。ただ、自分だったらどうするかと問われれば、答えははっきりしている。「自分だったら退職代行は使わない」。

 前半はひろゆき氏の意見だが、ひろゆき氏は仕事にやりがいなんて必要ないし、自分の時代はアルバイトなんて「ブッチが当たり前」だったとしている。退職代行を使ってさっさと辞めればいいというもの。後半はキャリアコンサルタントによるもので、退職代行を使うようでは逃げグセがつくし、後々できる社員にはなれないというもの。私はどちらかと言えば後半の方の意見であり、自分でしっかり意思表示して手続きできないような人間はどこに行っても通用しないだろうと思う。

 もちろん、それはあくまで相手が「まとも」な場合であり、そうではなくて心を病んでしまった場合などはこの限りではない。退職代行も有効な離職手段であり、大いに活用すべきだろう。パワハラ被害に遭ったりした場合は、顔を見るのも会社に行くのもトラウマになるというケースもあるだろう。すべての場合を否定するわけではない。それにしても退職代行という商売はなかなかうまいところに目をつけたものだと思う。世の中にだいぶ認知はされてきたし、これはこれで面白いビジネスだと思う。

 息子が就職してもしも退職代行を使って退職したいと相談されたらなんて答えるだろう。まずは退職したいという状況を確認し、相手に問題がなければ当然「自分で直接意思表示して退職手続きを取れ」と伝えるだろう。それがまずは社会人としてのあり方だと思う。お別れの挨拶をきちんと済ますのは基本的なそれだろう。「ブッチ」など間違っても息子にはさせたくない。「ビジネスライク」という言葉があるが、いくらビジネスでも人と人との関係にあっては、しっかりと挨拶から始まり挨拶で終わる人間関係を維持したいところである。

 もともと私は、高校生の時には既に親に小遣いをもらわなくなっていたぐらい自立的・自律的な人間である。自分でやるべきことを他人にお金を払ってやってもらおうという考え方は欠片すらない。退職代行などもしも私の時代にあったとしても利用なんて考えすらしなかっただろう。相手に問題があればまだしも(私などは相手に問題があったとしても)、辞めるという事ぐらいさっさと伝えてしまえばいいだけだろうと思う。鼻くそを掘るくらい簡単な事を代行に頼むなんて想像もできない。

 煩わしい、面倒だという気持ちからなのかもしれないが、そんな無駄金を使うくらいなら、自分で「辞めます」と伝えてその分おいしいものを食べるとか、どこかに行くとか、ちょっと贅沢に趣味に費やすとかの方がよっぽどお金の有効活用になる。自分でできない事なら仕方ないが、できる事なら自分でやってお金は有効活用したい。そんな退職代行なんかに、辞めると言うだけの簡単な事にお金を使うという方が精神的な苦痛は大きい。そんな簡単な事ができないなんて、本当に大丈夫かとそっちの方が心配になる。

 「辞める」と言うだけの簡単な事ができないという事は、ちょっとややこしそうな事はすぐ敬遠したがるという事だろう。それでその後の人生を乗り切っていけるのだろうか。実際にはどんな人なのかわからないが、女性に振られるのが怖いと告白すらできない男のようにも思えてしまう。挨拶はできるのだろうか、わからない事はきちんと聞けるのだろうか、遅刻した時は「すみません」と謝れるのだろうか、人に何かをしてもらった時は「ありがとうございます」と素直に言えるのだろうか。そんな事まで考えてしまう。

 世の中には避けて通りたくなる面倒な事は山ほどある。それをいちいち避けていたら、乗り越える力などつくはずもない。そんなのは次から次へとひと足ふた足で乗り越えてさっさと次へ行くくらいの気概とパワーがないといけない。退職代行を使うのはまだ一部だろうが、そんな若者ばかりになったら日本の未来も暗澹たるものになるように思う。現代的なビジネスではあると思うが、それは一時の隆盛で、いずれ衰退していく方が日本の未来のためには安心であると思うのである・・・


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【本日の読書】
 百年の孤独 - G. ガルシア=マルケス, Garc´ia M´arques,Gabriel, 直, 鼓







2025年6月6日金曜日

若返り

 先日、何気なく目に入ってきたテレビ番組で、老化についての研究の最前線の様子がレポートされていた。マウスによる実験では、実際に細胞が活性化し若返りが確認されたという。2030年代には実用化されるような可能性も報じられていた。実に素晴らしい。不老不死は太古から人類の夢であり、生物である以上、それは無理な夢かと思っていたら、どうやら不老は少し延ばせるのかもしれない。実用化されたとしてもそれは果たしてどのくらいのものなのだろうか。まさか永久的にとはいかないだろうが、平均寿命が120歳というようなレベルであれば素晴らしい事である。是非とも早期実用化を願うばかりである。

 シニアのラグビーをやっていて、愕然とさせられるのはシャワールームである。みんなの裸体が一目瞭然。たるんだ皮膚、皺。40代くらいまでだとまだ皮膚に張りがある。ところが私より上の世代では見事にたるんでくる。特に尻。老化の現実をもろに見せつけられる瞬間である。自分の背中とか尻とかは見えにくいが、たぶん似たり寄ったりなのだろうと悲観的な気持ちになる。パスのスピードも走るスピードも遅くなる。咄嗟のプレーに対応できない。「花園に出場した」という経験を語る人もプレーにその片鱗は見られない。私が目にしている老化の現実である。

 若返りが可能になれば、私のようにスポーツに勤しむ者はいつまでも十分な形で楽しむ事ができる。病気も減って国の医療費の軽減につながるだろう。何より個人の人生をより長く充実して楽しむ事ができる。良いことづくめのように思える。しかし、心配なのは年金財政だろう。今の制度ではあっという間に破綻してしまうだろう。今よりもさらに寿命が延びるわけである。支給開始年齢も65、70、75歳と延びていかざるを得ない。いったいいつになったら年金をもらえるのかわからなくなる。まぁ、その分健康寿命も延びれば働けるわけであり、自分の食い扶持は自分で稼ぐという事になるのかもしれない。

 さて、そうなった場合、世の中はどうなるのであろうか。定年が80歳まで延長されたら出世の階段も雲の上に届くくらい長くなるのだろうか。それでも階段を登れるうちはいいが、登れない人にとっては長い苦痛の時間か、プライドを傷つけられての忍耐の時間があるだけである。登れたとしても次の段までがまた長いだろう。そうなると、なかなか給料も上がらないかもしれない。今でもそういう動きはあるようだが、伝統的なピラミッド型の組織構造も変わっていくのかもしれない。

 個人的な経験からすると、やはり一つの企業に長くいるよりも幾つかの企業を渡り歩いた方が面白いと思う。50〜60歳くらいまでの間は最初の企業で頑張って生活の基盤を安定させ、後半は少しリスクを取って中小企業など自分が幹部として活躍できる場所に移れば面白い経験が積めると思う。出世の長い階段を前に立ち尽くすよりも、実力の蓄積と生活基盤を整える事に集中して、時期が来たら「第二の就活」に乗り出す事もできる。80歳までのビジネス人生を前半後半の二部構成で考えられる。

 もっとも怖いのは「精神の老化」だろうか。年齢を経てくると人間は間違いなくめんどくさがりになる。自分でやるより人にやってもらおうとする。新しいものは「わからない」と初めから敬遠するようになる。あえて自分から手を挙げようとしなくなる。昨日と同じやり方で今日を乗り切ろうとする。それが脳の働きが劣化することによる生物的・必然的な反応であり、それも若返り化によって改善されればいいが、単に精神的なものであるなら問題である。いくら体が若くても、「魂の老人」は若者の足枷となる。

 人間はなかなか自分の考え方を変えられない。年齢を経れば経験も加わって自分の考えが深まっていく。そうなると新しい考え方を受け入れできないところがある。我が社でも以前高齢の顧問とあるソフトウエアを巡って意見が対立した事があった。顧問には初めから否定されてしまい議論にすらならなかった事がある。最後はその話をしようとすらさせてもらえなかった。意見を聞いて試してみて、それでダメだと言われるならまだわかる。試しもせずにダメと決めつけられてはこちらとしても納得がいかない。「老害」とはこういう事かと思ったものである。私なら一通り相手の主張を聞いた上で判断するが、そう言っていられるのも今のうちなのだろうか。

 その昔、銀行員時代に支店の上司がサミュエル・ウルマンの詩を見つけて感動し、ご丁寧に支店の全員に配った事がある。
「青春とは人生の或る期間を言うのではなく心の様相を言う」
というものであるが、当時はまだ若かったし、元々根っからの天邪鬼である私は、「年寄りが青春にしがみついている」と冷ややかに見つめていたが、サミュエル・ウルマンがその詩を書いた年齢に近づくに従って思うのは、青春よりも精神のアンチエイジングである。

 肉体の若返りももちろん素晴らしいが、併せて精神の老化は避けないといけない。若返りの薬が実用化された時、それが果たして庶民に手の届くものであるなら是非手にしたいし、その時にはそれにふさわしい精神年齢を維持したい。「実るほど頭が下がる稲穂かな」の精神は、意識すれば維持できる。若返り薬を期待しつつ、自分でできる精神のアンチエイジングは意識していきたいと思うのである・・・


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【本日の読書】
 百年の孤独 - G. ガルシア=マルケス, Garc´ia M´arques,Gabriel, 直, 鼓





2025年6月1日日曜日

誕生日に思う〜論語雑感 子罕第九 (その4)〜

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感
【原文】
子絕四。毋意、毋必、毋固、毋我。
【読み下し】
子(し)、四(し)を絶(た)つ。意(い)毋(な)く、必(ひつ)毋(な)く、固(こ)毋(な)く、我(が)毋(な)し。
【訳】
先師に絶無といえるものが四つあった。それは、独善、執着、固陋、利己である。
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 6月は誕生月である。毎年、その時に思うことを綴っている。この1年を振り返ってみて思うのは穏やかに過ごせてきたなという事。何か劇的な事が起こったわけではないが、何もないのが一番だとこの頃は思っている。娘は社会人、息子は大学生のそれぞれ2年目を迎えている。心を病んだりして、休職したり大学へ行けなくなったりという事もない。家族も病気になったりする事もない。両親はますます短期記憶が怪しくなっているが、それは年齢もあって止むを得ない。まったくもって平穏な毎日がありがたい。

 友人から招待券をもらい、ラグビーリーグワンの決勝戦を観戦してきた。新国立競技場は2回目であるが、その威容といい、雰囲気といい、秩父宮とはまた違った良さがある。招待されたのはプレミアムシートで、一般席とは椅子が違い座り心地がいい。秩父宮も一般席とちがって座席間の間隔が広く、背もたれもあったが、国立競技場はそれ以上である。廊下も絨毯であるし、人が少ないために静かでゆったりしている。そんな中での観戦は最高の誕生日プレゼントであり、友人には感謝しかない。

 会場では大学時代のラグビー部の先輩や後輩も来ていた。同じ友人の招待であるが、前回会ったのがいつかも覚えていないくらい久しぶりで、そうすると一瞬お互いがわからない。それでも「会ったことある」という思いから一生懸命記憶の糸を辿り、「あぁ◯◯さん」、「□□!」となったのである。30年ぶりくらいに会った先輩は言われないとご本人とはわからなかった。記憶にあるその先輩は、もっと痩せていて、カッコ良かったものであるが、今やただの親父であった。自分もそう思われていたのだろう。

 同期の友人2人はもう定年退職していた。家では奥さんに疎ましがれていて、一生懸命家事手伝いをしているという。今の時代は定年退職した後も家で威張ってゴロゴロしていられるわけではない。私は妻とは老後は別々に暮らしたいと思っているが、一緒に暮らすと家事をあまりやらなかった男は特に大変である。しかし、どんなにやってもベテラン主婦には敵わないし、それを良しとしない妻とは対立必至であり、ならば別居するのがお互いにストレス回避でちょうどいい。密かに温める私の老後プランである。

 両親を見ていると、いずれやってくる「老い」を意識せざるを得ない。この頃、被害妄想が出てきていて、近所の人が倉庫に盗みに入ったなどと言っている。そこで感じるのは、その人の根底にある人間性である。人に対しての根底にある想いが、認知能力が衰えていく中で現れるのではないだろうか。人に対して攻撃的になるか、寛容になるかである。残念ながら、我が母は攻撃的だ。以前はそれほどでもなかったから、たぶん表には出さなかったのだろう(妻には出していたのかもしれない)。人の振り見てではないが、自分は寛容でありたいと思う。今からしっかり人間性の奥底に刻みつけないといけない。

 この先も安定して今と同じ暮らしが送れるのかはわからない。会社が生き延びていければ大丈夫のように思うが、AI時代を迎え、システム開発の世界はどうなるかわからない。もしかしたら一気に仕事がなくなる時代がすぐそばまで来ているのかもしれない。そこは運命共同体。自分だけが助かる道を考えるのではなく、みんなで困難を乗り越えていくことを考えたい。今の会社に対して自分ができる事は何か。常にそれを意識していきたいと思う。最低でもあと9年は何とか今のまま働きたい。そのためにはできる事をやり続けよう。

 これから意識していきたいのは「いい老い方」。人間は歳をとれば若者の見本にならないといけない。そのためには日頃の行動からそれを意識していかないといけない。それこそが孔子に絶無と言われていたものであるように思う。「独善的になっていないか」、「何かに執着しすぎていないか」、「頑迷固陋になっていないか」、「利己的になってはいないか」がまさにそれではないだろうか。人生90年としたら、すでに自分は第四コーナーに差し掛かっているわけであり、その先のラストスパートに備えないといけない。いいゴールのイメージを描いて、みんなにスタンディングオベーションを受けられるように、これからやっていきたいと思うのである・・・



【本日の読書】
 百年の孤独 - G. ガルシア=マルケス, Garc´ia M´arques,Gabriel, 直, 鼓




2025年5月30日金曜日

日本男児の敵

 先日、部下の女性社員と面談していて家族の話になった。曰く、「(ちょっと頼りない)若手社員に息子が似ている」と。母親であるその女性社員が言うには、「何を言っても馬耳東風」、「夜中にいつまでもゲームをやっていて朝起こすのが大変」等々堰を切ったように息子に対する不満を述べ立てる。それを聞いた私はいちいち息子の気持ちがよくわかってしまった。息子にとって母親は口うるさいものである。そもそも母親は(男と比較して)細かいところに気がつくがゆえに指摘も一々細かいし、説教をすれば長いし、くどい。防衛策として馬耳東風は必然なのである(私も妻の小言に対してそうしている)。

 そこで(妻には言えない)持論をその女性社員にぶつけた。「朝、起こしても起きないなら起こさなければいい。遅刻して困るならそれは自分だし、痛い目に遭えば次から自分で起きる工夫をするだろう」と。しかし、やっぱり母親というのはそうもいかないようで、「そうは言っても・・・」と納得しかねる様子。母親としてはどうしても息子の一挙手一投足が気になり、「ちゃんとやっているか」が気になるのだろう。小学校の時も、掃除をちゃんとやるのは女の子で、男の子はいいかげんかサボるかどちらかであったが、そういう男と女の違いが表れるのかもしれない。

 そもそもであるが、「男をダメにするのは母親である」というのが私の信条である。父親にとっては娘がかわいいのと同様、母親にとっては息子がかわいいようで、問題はそのかわいがり方である。女の感覚で育てればそれは女のようになってしまうだろう。私などは娘も息子も高校の卒業式から行かなかったし、大学はなおさらである。もう一々親がついて行くものでもないとの考えである。まぁ、子育ての卒業という意味で、自分のために行くのは良いと思うが「ついて行かないと心配」などという理由ではダメである。

 その昔、私が大学受験をした際、どこかの学生服を着た男が母親と待合室で座っていた。「ママと一緒に受験に来るのかよ」と腹の中でバカにしたが、そういう時に父親は来ないだろう。仕事だからという事もあるが、仕事がなくてもこないだろう。大学のラグビー部の試合を観に行くと最近は父母の観戦が目につく。父親よりも圧倒的に母親が多い。キャーキャー歓声を挙げて応援している。社会人になっても病欠の連絡を親がしてくるという事も耳にするが、それはたいがい母親だろう。そして母親はそれに違和感を覚えない。

 母親の息子離れが遅れればそれだけ息子の乳離れも遅くなる。それはやがて大人となって大人の女性と付き合うようになった時、「マザコン」という形で表れる。そんな男と女性は付き合い、結婚したいと思うだろうか。まず思わないであろう。しかし、間違いなくマザコン男を育て上げるのは100%母親である。子供がかわいいのは当然であるが、高校生くらいになったらもう手取り足取り面倒を見るのはやめるべきなのだ。我が家の妻も大学生の息子のスケジュールを確認して朝起こしている。「いいかげんにしたら」と心の中でつぶやいている。

 母親が子離れするのはいつぐらいがいいだろうかと考えてみると、だいたい高校生になったら始めるべきだろう。大学生なら自立を学ばなければいけない。もう母親が積極的に世話を焼くのはやめるべきである。ましてや社会人になったらなおさらである。ところがいつまで経っても子離れできないと、息子はマザコンになるか、そうではなくても母親を突き放せなくなる。息子が独身のうちはいいが、結婚すれば厄介な事になる。妻は息子のように夫の世話をしない。すると母親はそれに不満を持つ。嫁姑戦争の火種になる。

 「嫁姑」と「婿舅」では圧倒的に「嫁姑」にきな臭さが満ちている。男は互いに干渉しないが、嫁姑は息子を巡って対立する。今まで自分が全力を傾けて世話してきた息子を嫁は適当にあしらう。「夫は子供ではない」から当然であるが、それを母親は理解できない。我が家もこれで嫁姑関係が断裂した。私は高校生の時から親にこずかいをもらわなかったくらい親からは自立していたが、冷たくされても息子は息子であり、自分の代わりに(自分の思う通りに)尽くさない嫁に不満を抱いていたのだろう。

 将来、息子が(結婚したなら)嫁姑戦争勃発の可能性は高いと私は見ている。私は何もできないが、せめて息子に警告はしたいと思っている。私と違って息子はまだ母親に甘えているところがある。そこは大いに不安があるところである。娘には料理を手伝わせるが、息子には手伝わせない。今や女性の社会進出が当たり前で、共働きも普通だが、結婚していきなり家事をやれと言われてもろくにできないだろう。それでいいのか日本の女性たち。夫が家事を手伝わないと不満を言うなら、そういう夫にならないように息子を育てなければならない。そういう意識を持っている母親がどのくらいいるだろうか。

 今のままでは我が息子もそうであるが、日本男児の行く末も大丈夫であろうかと心配になる。愚かな母親たちによって日本の息子たちがダメ男にならないようにと思うのである・・・

Christine SponchiaによるPixabayからの画像


【本日の読書】
 若い読者に贈る美しい生物学講義――感動する生命のはなし - 更科 功  百年の孤独 - G. ガルシア=マルケス, Garc´ia M´arques,Gabriel, 直, 鼓





2025年5月25日日曜日

部下からの評価

 我が社も3月に上半期を終え、現在上期の社員評価を行っているところである。期の初めに立てた目標の達成度から日頃の貢献度にわたって上司と部下とが個人面談を行なう形で実施する。我が総務部では、まず課長が部員と面談を行い、私がそれを踏まえて最終評価を決定する。主たる評価は課長が行い、私はその結果の報告を受けて最終評価を決定するのである。その際、いつも一つだけ課長に注文をつけている。「私に対して不満に思っている事を聞いてほしい」という事である。評価は上司が部下に対して一方的にするものだけでもあるまい。部下も言いたい事があるだろうという思いからである。

 世の中には部下が上司を評価する「360度評価」というものがある。我が社は取り入れていないが、個人的に興味があるし、内心自分はいい上司であるつもりでいるので、批判などされないだろうという思いもあった。そして課長との面談でその内容を聞いた。そうしたところ、思いもかけず結構な批判が寄せられた。

  1. 自分で指示したことを忘れるので仕事がやりずらい
  2. 部の新人に対する指導が厳しく、部の空気が悪くなる
  3. 電話等との会話も厳しい時があり、聞いていて不快
  4. 部下の仕事をもっと把握してほしい
  5. 部下の意見が通らないのは仕方がないが、せめて聞くふりくらいしてほしい
聞いていったい誰の事だろうと思わず思ってしまった。

 1に関しては自覚もあって大いに反省しているところである。3も忙しい時にセールスの電話がかかってくると、ぞんざいな対応になる事があるのも事実である。しかし、それ以外はまったく身に覚えがない。新人の指導については、このご時世であり、パワハラには注意しているし、心の病に罹られても困るので穏やかに指導しているつもりであった。部下の仕事も把握しているつもりだし、意見もきちんと聞いているつもりであった。「何で?」という反論が心の中に湧き上がってきた。

 しかし、「評価は他人が下したものが正しい」という故野村監督の言葉を日頃から信奉している身としては、自らの思いをグッと抑えないといけない。実際、身近にいる部下がそう感じているとしたら、それは自分の思いよりもより事実に近いのであろう。自分に対する批判というのは誠にこたえるものである。自分が正しいと思っていて、その通りに行動しているのに、そう捉えてもらえない。なぜなのかと考えてみても、それが他人にはそう見えていないという事は、どちらが正しいかは考えるまでもない。

 人は自分の顔を見る事はできない。見ようと思えば鏡を見るしかない。その鏡に向かって、自分はこんな顔ではないと言ったところで始まらない。それが自分の顔なのである。鏡がおかしいというのも的外れ。であれば部下の意見も事実として受け止めねばならない。今回改めて思ったのは、自分は意外とクヨクヨするタチであるということ。思いもかけない部下からの批判に心は凹む。これを見る限り、自分はいい上司であるという幻想は捨てないといけない。それにしても遠慮なく言ってほしいと言ったからでもあるが、遠慮ないなぁと思ってしまった。

 しかし、クヨクヨしても反発しても仕方がない。いい空気の中でみんなに仕事をしてもらうには自分も指摘されたことを直さないといけない。多分、それは家庭内で私に対して妻が不満を感じているところでもあるのかもしれない。人には自分ではわからない「外から見た自分」というのがある。内から見た自分は有能で思いやりがあって、部下思いのいい上司なのであるが、外からはそうは見えないという事も大いにあるだろう。そこは真摯に受け止めようと思う。

 それにしても自分にもいい面はあると思うのだが、それはそうでもないのだろうかと思ってみる。しかし、振り返ってみれば、普段言いたくても言えない批判を言ってくれとお願いしたのは自分であるが、批判だけではなくいい面も挙げてと言えば良かったと今更ながら思う。きっとよく見えている部分もあるはずである(たぶん・・・)。それも合わせて聞けていたら、少しは慰められたかもしれない。部下からの指摘は半年後の評価で少しでも減るようにこれから心掛けようと思う。現時点ではいい上司になれていなくても、これからなれる可能性はまだまだある。

 会社の業績も大事だが、足元をもう一度見つめ直し、みんなが気持ち良く働けるような環境づくりに努めようと思う。それと合わせて、今度は「良い点も挙げて」というのを忘れないようにしようと思う。昔から私は「褒められて伸びるタイプ」と自認しているがゆえに、それがあれば励みにもなる。これからも部下からの評価を大事にしたいと思うのである・・・


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【今週の読書】
 存在と思惟 中世哲学論集 (講談社学術文庫) - クラウス・リーゼンフーバー, 村井則夫, 矢玉俊彦, 山本芳久 手紙屋~僕の就職活動を変えた十通の手紙~ - 喜多川泰 日本とユダヤの古代史&世界史 - 縄文・神話から続く日本建国の真実 - - 田中 英道, 茂木 誠 ブラック・ショーマンと覚醒する女たち - 東野 圭吾




2025年5月21日水曜日

認知症

 先日、認知症の生涯リスクが60歳以上で55%だというネット記事を読んだ。米国の調査では75歳以上で4%、80歳以上で20%が認知症になると言う。年を取れば取るほどその比率は高まるのであろう。楽観的な私としてはどこまでも他人事であり、自分が認知症になるなんて思ってもいない。しかし、そんな事は誰もがそう思っているように思う。少なくとも認知症になりたいなんて思っている者は1人もいないであろう。しかし、人間の脳細胞も年齢とともに劣化していくのは間違いない。自分で意識しようとしまいと、細胞が劣化すれば必然的にそうなっていくのは自然の摂理であるようにも思う。

 我が両親は2人とも今年で88歳である。2人ともやはり認知能力は衰えてきている。特に短期記憶に関する衰えは顕著である。先日、四万温泉に行ったが、父は参加しなかった。はじめ、父の認知能力の衰えもあり、心配した母が「父を1人残しては行けない」と言うので、私は3人分で宿を予約した。あまり早く言ってもと思い、1週間前に父に意思確認したところ、「行く」という。念のため父が毎日見る引き出しにその旨のメモを書いて貼り付けておいた。「来週温泉に行く」と。そして前日、電話で意思確認した。その時点でも「わかった」との事であった。そして当日、迎えに行くと、「聞いていない」、「突然言われても困る」、「行きたくない」である。

 旅行の用意をしていた母は一生懸命説得を試みる。「私も行くとは思わなくて言わなかったのは悪かったけど・・・」。いやいや、「1人で置いていけない」って言ったのは誰?駄々っ子のように行かないと言い張る父。「もっと早く言ってもらわないとこっちにも都合がある!」とのたまう。やむなく諦めて父を残して温泉に向かう。一泊の温泉旅行であり、腰の悪い母は歩き回れないので車で少し周辺を回る程度で帰ってくるのに、母は3日分くらいの荷物を用意し、飲み薬に至っては10日分を鞄に入れている。宿に着けば30分以上鞄の中身を出したり入れたりしている。母は複雑な宿の中では自力で部屋へ帰る事ができず、私がすべて付き添う。

 そのうち私が誰だかわからなくなったりするのだろうかと思う。父は最近、物がなくなり、近所の人が盗んだと言い始めている。父は現役時代、印刷工場を経営していて、実家には今も当時の倉庫が残っている。その倉庫にしまっておいたものがなくなるそうなのである。財布を無くしたというので、銀行のキャッシュカードやクレジットカードの再発行手続きを代行した。免許証も入っていたと言うが、それはもう必要ないので仕方がないとした。ところが、しばらくして行ってみると、免許証を持っていてクレジットカードも同じものが2枚ある。どうやらどこかから出てきたらしい。問い詰めると財布をなくした事実はないと言う。

 細かく挙げればきりがない。そんな両親に対しては、もう腹を立てずに温かい心で接するしかない。幾度か銀行に行って手続きをするのを手伝ったら、窓口の行員さんに顔を覚えられてしまった。そして先日、またキャッシュカードをなくしたと父が銀行に行ったところ、「息子さんに相談してくれ」と言われて追い返されたと憤慨していた。もちろん、そのキャッシュカードはその後ちゃんとどこかから出てきた。いずれ自分もそうなるのだろうか。どうしたら防げるのであろうか。両親ともそれぞれの祖父なり祖母なりが認知症になった姿を見ている。自分が同じようになりたいとは思っていない。

 自分が自分でなくなるというのは、実に怖い事である。たとえ手足が不自由になろうと、病気になろうと、意識だけは最後まで自分自身でいたいと思う。しかしながら、最近仕事でも部下に物忘れを指摘される事がしばしばある。同じ話を2度したり、同じ事象に対して違う指示をしたり。今は半分笑って済まされているが、そうなると自分は大丈夫と根拠のない楽観はできないように思う。以前はよく読んでいた本も、父は覚えられなくて読むのをやめてしまっている。自分もそうなるのだろうかと考えると恐ろしくなる。最後は病院のベッドであっても、本を手元に置き、タブレットで映画を観続けられるなら、構わないのであるが・・・

 「頭を使っていれば大丈夫」という話を聞き、脳トレなんかもいいという話がある。しかし、イギリスのサッチャー元首相も認知症になったと聞くと、大丈夫とも言えないと思う(レーガン元大統領が認知症になったのにはあまりショックを受けないが・・・)。敬愛する祖父は89歳で亡くなるまで頭はしっかりしていた。いつまでも元気でいられるのが一番であるが、そうでなくてもせめて頭と目だけは最後までしっかり維持していたいと心から思う。「抜け殻」となってしまうことは避けたい。両親にも長生きしてほしいと思うが、抜け殻になってまでとは思わない。

 祖父のように最後まで自分自身でいられるであろうか。医学の進歩に期待するだけではなく、自分自身も面倒がらずにできる事があるならやろうと思う。このブログも何かの役に立つのであれば続けよう。願わくば最後の日まで雑感をつぶやきたいと思うのである・・・

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【本日の読書】
 存在と思惟 中世哲学論集 (講談社学術文庫) - クラウス・リーゼンフーバー, 村井則夫, 矢玉俊彦, 山本芳久 日本とユダヤの古代史&世界史 - 縄文・神話から続く日本建国の真実 - - 田中 英道, 茂木 誠 ブラック・ショーマンと覚醒する女たち - 東野 圭吾





2025年5月18日日曜日

論語雑感 子罕第九 (その3)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感
【原文】
子曰、麻冕禮也。今也純儉。吾從衆。拜下禮也。今拜乎上泰也。雖違衆、吾從下。
【読み下し】
子(し)曰(いわ)く、麻(ま)冕(べん)は礼(れい)なり。今(いま)や純(じゅん)なるは倹(けん)なり。吾(われ)は衆(しゅう)に従(したが)わん。下(しも)に拝(はい)するは礼(れい)なり。今(いま)、上(かみ)に拝(はい)するは泰(たい)なり。衆(しゅう)に違(たが)うと雖(いえど)も、吾(われ)は下(しも)に従(したが)わん。
【訳】
先師がいわれた。「麻の冠をかぶるのが古礼だが、今では絹糸の冠をかぶる風習になった。これは節約のためだ。私はみんなのやり方に従おう。臣下は堂下で君主を拝するのが古礼だが、今では堂上で拝する風習になった。これは臣下の増長だ。私は、みんなのやり方とはちがうが、やはり堂下で拝することにしよう」
************************************************************************************

 世の中には「変えていいもの(変えるべきもの)」と「変えてはいけないもの(変えるべきではないもの)」とがある。孔子は倹約のため麻の冠を絹糸の冠に変えるのは構わないが、君子を拝する方法は変えないと主張している。自分で使うものはその時々の都合に合わせて変えるのは差し支えないが、君子を拝するという相手に対する礼儀の部分は変えたくないと言っている。自分に関するものは変えても、相手に対する礼儀の部分は変えたくないという基準があるのだろう。

 「最も強いものが生き残るのでなく、最も賢いものが生き残るのでもない。唯一生き残るのは変化できるものである」というのは、ダーウィンが言ったとされる言葉であるが、私も常に変化し続けなければいけないと思う1人である。考え方も柔軟にしたいと考えている。自分の意見に固執するのではなく、相手の意見にも耳を傾けるべきところはないかと考え、もしもそういうところがあるのであれば自分の考えを変えるのに躊躇しない。そういうスタンスでいたいと常に思っている。

 それは何も良い子ちゃんぶるのではなく、もしも間違った意見に固執していて、後でその間違いが明らかになった時は何よりも「カッコ悪い」からである。過去にそういうカッコ悪い上司を見てきているから、自分はその二の轍を踏まないようにしたいのである。「そうか、それもいいね!」と言って意見を変えてしまえば良いのである。上司は常に正しいなんて思う必要はなく、「上司は常に正しい意見を採用する」というスタンスでいた方が本当の意味での保身になる。私にとっては自分の意見は変えても良いものなのである。

 基本的に何事に対しても柔軟に、と考える。だから割と変える事には抵抗はないように思う。食べ物の好みのようなものは変えたくても変えられないところがある。寿司が好きなのは変えられない。ただ、食わず嫌いだけはしないようにしている。人に勧められたものは、たとえ自分の好みでないと思ったとしても、まず食べてみる。それでやっぱり好きになれなければそれで仕方がない。食べ物に限らず、好みの問題はなかなか柔軟にとはいかないところがある。どんなにサッカーが面白いと言われても、ラグビーが一番という気持ちはおそらく一生変わらない。

 柔軟にとは言っても、神様への畏怖は大事にしたい。初詣には欠かさずに行きたいし、神社の類に対しては、それがどこであろうと崇敬の念は持っておきたい。両親や兄妹や親戚や友人は大事にしたい。ただ、これは相手との相性があるから、合わない人とは無理に合わせるよりも距離を置きたい。私も義理の叔父に合わない人がいるが、無理に合わせる事もなく、距離を置くようにしている。そのあたりの考え方は、変えたくないところになるかもしれない。

 仕事でも、社内には意見の合わない人はいるが、いたずらに批判するのではなく、きちんとコミュニケーションを取って、相手の意見を聞きながらも自分の意見は遠慮なく言うというスタンスも変えずにおきたいと思う。批判もきちんと伝えているので、もしかしたら内心反発されているかもしれない。ただ、それでも自分が正しいと思う意見はきちんと伝えたいと思う。それに対して相手がどう反応しようと、それはその相手の考え方なので、私はそれをきちんと受け入れようと思う。

 総じて好みのように自然発生的なものは変え難いし、無理に変えるのもストレスになる。それは自然のあるがままに任せ、ただ自分で変えられる考え方の部分には柔軟性を持たせておきたいと思う。自分よりも大事にすべきものは大事に敬い、それ以外の自分に関するものは柔軟に変える。歳を取ると体も硬くなり、思考も固くなる。思考が固くなれば頑固ジジイに一直線である。それもまたカッコ悪いように思うし、思考も軟体生物のように常に柔軟に保っていけるようにしたいと思うのである・・・


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【今週の読書】
 存在と思惟 中世哲学論集 (講談社学術文庫) - クラウス・リーゼンフーバー, 村井則夫, 矢玉俊彦, 山本芳久  手紙屋~僕の就職活動を変えた十通の手紙~ - 喜多川泰  日本とユダヤの古代史&世界史 - 縄文・神話から続く日本建国の真実 - - 田中 英道, 茂木 誠 風に立つ - 柚月裕子





2025年5月15日木曜日

プレゼントの意味するもの

 先週末、四万温泉に母を連れて行ってきたが、時節柄それを母の日のプレゼントとした。プレゼントは昔から苦手であり、苦労している分野である。ましてや我が母は私を上回る天邪鬼なところがあり、「何か欲しいものがあるか?」と聞くと「ない」と言い、それではと勝手に選ぶと文句を言うという難しいところがある。かつて結婚当初、お中元、お歳暮と両親に送ったが、ビールを送れば「お父さんは最近あまり飲まない」と言われ、コーヒーを送ると「このところ胃の調子が悪くて飲めない」と言われるという事が続いた。新婚の妻からは「何をやっているの」と責められたものである。

 それに対して父は希望も文句も言わない。いつからか父の日と誕生日には梅酒かワインを送るようにしているが、単純に感謝してくれる。送るものが決まっていると実に楽である。妻と付き合い始めて面食らった事の一つは、「プレゼントして欲しいものを事前に聞く」という事である。「気に入らないものをもらうよりも欲しいものをもらった方が嬉しい」という合理的な考え方で、いわゆるサプライズ的な要素はない。それが良いか悪いかは個人の好みであるが、プレゼントで悩んだ結果、失敗することが多い私としてはいいのかもしれないと思ってみる。それでも失敗したとしても、サプライズ的な方がいいような気がするのは素直な気持ちである。

 プレゼントは、相手の事を思いながら何が喜ばれるだろうと想像しながら選ぶものであるというイメージが私にはある。私の場合、失敗する事が多いから偉そうな事は言えないが、相手のために悩んで選ぶ時間が相手に対する気持ちそのもので、そういうものであるからこそ、私は自分がもらう立場の場合、それがどんなものであろうと感謝して受け取る事にしている。プレゼントそのものよりも、プレゼントしてくれた相手の気持ちが嬉しいと思う。それゆえに、「相手に事前に欲しいものを聞いて、それをプレゼントする」という事にはどうしても抵抗を感じるのである。

 我が母はそんな事と対極にある。あろう事かプレゼントにケチをつけるのである。相手を嫌な気持ちにさせるというのはもっとも最悪な対応である。しかし、母の気持ちの根底には喜びがあるのではないかと思う。一種の照れ隠しである。ただ、たとえ照れ隠しであろうと、やはりケチをつけるというのは最悪であるとしか言いようがない。勝手に選んでプレゼントすれば文句を言われ、「何か欲しいものがある?」と聞くと「いらない」と言う。自分の母親でなければ絶縁するところであるが、そういうわけにもいかない。サプライズであげたものが母の心にヒットしないと難しい。そう言えば実家には私が高校生の時にプレゼントしたアジサイがいまだに季節になると咲いている。それは数少ない成功事例である。

 一方、父には年に2回、プレゼントを贈っているが、母と違ってすなおにお礼を言ってくれる。ただ、その場限りのお礼で、嬉しいのかどうなのかイマイチよくわからないところがある。梅酒もワインも味が気になるところで、次に行った時に「どうだった?」と聞いても「おいしかった」というだけである。それはそれで何となく物足りないところがある。本当に気に入ったのか、それともそうではないが、とりあえずこちらに合わせてくれているのか。そう考えてみると、贈る方としては、実は「喜んでもらいたい」のだと思う。相手の事を考えて贈るのは、相手に喜んでもらいたいのだと。

 当たり前と言えば当たり前。人はなぜプレゼントをするのかというと、それは相手を喜ばせたいからと言える。それが純粋なものであろうと、そうでないもの(例えば下心付きの女性へのプレゼントなど)であろうと、そこは変わらない。ただ、それは贈る者の勝手であり、相手に何かを要求するものではない。たとえ相手が喜ばなくても、それで不満を言うのは正しくない。相手の反応が気に入らないのであれば、次回からやめればいいだけである。そして受け取る方も、相手の勝手なプレゼントにどう反応しようが自由である。ただ、大事な事は、相手の気持ちにどう反応するか、であろう。

 「プレゼントには感想という情報のお返しが一番相手に喜ばれる」という言葉がある。それはそうだと思い、以来私も心掛けている。プレゼント以外にも本や映画などを紹介された時にも当てはまるので、必ず心掛けている。やはり、相手を喜ばせたいという気持ちが根底にある以上、その気持ちに応えるにはやはり相手を喜ばせる事を考えないといけない。それにはたとえもらったものが気に入らなくても、気に入ったように振る舞うのがいいと思う。それは相手を偽る事ではなく、自分を喜ばせようとしてくれた相手の気持ちに応えるものである。そこには感想も添えたいところである。

 プレゼントというと、どうしても「モノ」に目が行く。しかし、本当は「相手の気持ち」なのであり、そこに目を向けたい。わざわざ自分に何かを贈ってくれるのであり、もらった「モノ」がどうこうではなく、贈ってくれた「相手の気持ち」に対して応えたいと思う。天邪鬼な我が母にモノを贈って喜ばせるのは難事であるが、温泉に連れて行くのは確実に喜ばれる。喜んでいる顔を見るのはこちらも嬉しいし、そういう意味ではプレゼントは贈る相手だけでなく、自分自身をも喜ばせるものなのかもしれない。

 プレゼントを贈る相手がいるというのも考えてみればありがたいもの。プレゼントはどんな角度から見ても嬉しいものであると思うのである・・・


Bob DmytによるPixabayからの画像

【本日の読書】

 ガダルカナル[新書版] - 辻政信  風に立つ - 柚月裕子  存在と思惟 中世哲学論集 (講談社学術文庫) - クラウス・リーゼンフーバー, 村井則夫, 矢玉俊彦, 山本芳久




2025年5月12日月曜日

四万温泉旅行記

四万たむら
 ほぼ1年ぶりに母を連れて温泉に行ってきた。もう家族で旅行する事もほとんどなく、せめて年老いた母親を温泉にでもと始めてもう何年経つだろう。今回は、なんとなく耳に入ってきた四万温泉を選択した。母も腰が悪く、あまり長距離の移動は難しいので、東京から近く、それほど負担もなく行けるところという観点で選んだのである。母を温泉に連れて行くというのが当初の目的であったが、最近では私も温泉+美味しい食事という組み合わせにいつしか心を奪われているところもある。

 関越自動車道渋川伊香保インターで高速を降りてひたすら田舎道を走る。この時期、暑くもなく、寒くもない。昨日まで降っていた雨もいつしかやみ、時折日もさしてくる。窓を開けて走ると気持ちがいいことこの上ない。「いいなぁ」と思うも、それは東京から来ているからであり、このあたりに住んだら風景にはすぐ飽きるだろうし、買い物にしても何にしても不便さばかりがあって堪らないのかもしれないと思ってみたりする。こういう田舎の風景は、故郷と同様、「遠きにありて思うもの」なのかもしれない。

 そんな奥まった山の中に四万温泉はある。川沿いというのも温泉郷の特徴かもしれない。そうした四万温泉の「四万たむら」に宿を取る。室町時代創業というから相当な歴史がある。旅館の裏手には田村家の墓があり、代々受け継がれてきているのだろう。隣に四万グランドホテルがある。部屋に備え付けの浴衣には「四万グランドホテル」の刻印があり、どうやら経営は同じであると想像した。おそらく、室町時代創業の由緒あるレトロチックな温泉宿だけではなく、客層拡大のために現代的なホテルを建設したのかなと想像してみる。社員旅行華やかなりし時代にはさぞ賑わったのではないかと想像する。

週末でも寂しい温泉街
 近隣にはかろうじて生き延びているような温泉街がある。宿の女中さんは外国の方が混じっていたし、社員旅行の敬遠、少子高齢化などの時代の波の影響を受けているのかもしれない。宿に着くと食事の前に1人周辺の散策を常としている。腰の悪い母は部屋でくつろぐ。1時間ほどで散策を終えて夕食前に最初の湯に浸かる。温泉に行くと、だいたい3度湯に浸かる。夕食前、就寝前、そして朝風呂である。宿の中は複雑で、7つの湯は館内に分散し、エレベーターを乗り継ぎ、4階で降りて連絡通路を歩いて隣の建物の入るとそこは5階という具合に複雑である。普通の人にはなんでもないが、老齢の母はもう1人で館内を移動できない。

 したがって、部屋から風呂まで送り迎えをしないといけないという手間がある。食堂はいいが、風呂は一緒に入るわけにもいかないし、毎回悩ましい思いをする。今回、とうとう母は迷子になって館内電話でフロントを呼び出して迷子の訴えをしてしまった。普通の感覚ではなんでもないが、年を取るとみんなそうなるのだろうかと思ってみる。部屋も食事も7つの風呂も良かったが、個人的には硫黄臭漂う温泉が好きという事もあり、四万温泉はちょっと物足りなさがあった。この近辺では、今のところ万座温泉がベストである。

 翌日、11時チェックアウトの利点を活かし、母は朝風呂に朝食を挟んで2度入り、温泉を満喫して宿を後にする。そのまま帰ると早すぎるので、近くの奥四万ダムを見学。川を堰き止めてできた人工湖をぐるりと一周する。水がきれいであり、晴天の下、あたりの新緑と相まっての眺めに自然の中で心身がリフレッシュしていく気がする。iPhoneで写真を撮るが、風景というものはどんなに高性能のカメラでも目で見たものを写し撮ることはできないものだと改めて思う。百聞は一見に如かずではないが、自然の景色は自分の目で見ないとダメである。

 名残り惜しみながら四万を後にする。東京にはあっという間に帰ってくる。窓から流れ込んでくる空気は明らかに違う。手軽に往復できるし、毎週末行くという贅沢もしてみたいと思う。ネックは自分で運転すると(特に渋滞なんかがあったりすると)疲れるというところだろうか。海外旅行もいいが、週末は温泉で過ごすという贅沢もありかもしれないと思う。今後の人生の楽しみ方の一つとして候補に挙げたいと思うのである・・・

新緑と濃いグリーンの湖水をたたえた人造湖
下から眺めると迫力ある四万ダム

【本日の読書】
 存在と思惟 中世哲学論集 (講談社学術文庫) - クラウス・リーゼンフーバー, 村井則夫, 矢玉俊彦, 山本芳久 ガダルカナル[新書版] - 辻政信 風に立つ - 柚月裕子




2025年5月8日木曜日

AIは人類を幸福にするのだろうか?

 先日、読んだ『いま世界の哲学者が考えていること』の中で、「AIは人類を幸せにするのだろうか」という項目があった。興味深いテーマである。AIは一部の領域では既に人間を凌駕している。チェスや碁でも既に人間に勝つAIが登場しているし、医療分野や自動運転ではかなりの期待がされている。お掃除ロボットなど家電にも搭載されており、我々の日常生活にAIは欠かせないものになっている。それなのになぜ「AIは人類を幸福にするのだろうか」という疑問が付されるのであろうか。

 その疑問に対しては、根底に「AIによって人間が不幸になる可能性もある」という考えがあると思う。その筆頭は映画『ターミネーター』だろう。このSF映画では、近未来に進化したAIが、地球にとって人類は害悪をもたらすと判断し、人類抹殺を決定して実行に移すというストーリーであった。しかし、人類の抵抗にあって苦戦するAIは、過去にさかのぼり人類の指導者であるジョン・コナーをまだ子供のうちに抹殺しようとターミネーターを過去(映画では現在)に送り込んでくるというストーリーである。

 確かに、人類の発展によって現在は地球温暖化という問題が起こっており(これについては同書でも反対意見が紹介され議論を提示している)、人間が地球にとって有害な存在であるという意見も成立しなくもない。SF映画とは言え、AIが人類を有害と判断して排除しようとしても不思議ではない。そんな事は起こりえないと断言できるかと言われると、素人の私としては「断言できないのではないか」と思うしかない。あらかじめそんな事にならないようにプログラムすればいいように思うが、シンギュラリティを超えたらどうなるかわからないのではないかと思う。

 シンギュラリティを超えると、AIが自己改善を繰り返し、人間の知能を超える、あるいは、人間の知能を超えるようなAI自身が生まれるらしい。そうなるといくら事前に人間に害をなさないようにプログラムしていても、そのプログラムをAI自体が書き換えるのではないかと思う。さらにそんな書き換えができないようにプログラムしておいても、そのプログラム自体を書き換えるかもしれない。そんな歯止めを考えたとしても、その歯止め自体を越えられないようにできなければ意味はないし、人間に作れるものであればAIにも作れるはずであるし、結局は歯止めは機能しないように思う。

 人間には善人と悪人がいる。果たしてAIには善なるAIと悪のAIはできるのであろうか。できるとしたら悪のAIはどんな悪事をするのだろうか。そもそも悪事は人間の欲望に基づいていると思うが、AIには欲望がないはずであるし(そう考えてもいいのかと考えると眠れなくなる)、そうするとAIが独自にどんな悪事を働けるのか疑問に思う。仮に善なるAIしかできないとして、その善の定義はどうなるのだろうか。「人間にとっての善」か「地球にとっての善」か、それによって「善だから安心」とは言えなくなる。

 人類と大げさに掲げなくても、AIがすべて判断し、人間はそれに従うだけという世界もあり得そうに思う。しかし、それとて現在の支配者がAIに代わるだけと言えなくもない。我が家では妻が独裁政権を築いているので、私はその決定に同意するだけである。それがAIに代わったとしても何か変わるものでもない。会社の社長も側近の意見を聞いて決定している場合、側近がAIに代わったとしても何か変わるわけでもない。指示待ち族のサラリーマンにしてみれば指示するのが人間かAIかの違いだけで、「AIに従っていれば責任は問われない」とすれば、何の疑問もなくAIの指示を受け入れるだろう。

 そんなところで何の根拠もなく思うのだが、人類を排除するようなAIは出現しないように思う。私の性格として楽観的なところもあるが、AIは賢いので人類を滅ぼすような方向には働かないのではないかと根拠なく思う。ただ、では安心かと言うとそうではない。滅ぼす代わりに支配する方向にはいくかもしれない。支配と言っても欲望にまみれた人間の支配とは違い、人類に苦役を課す事はないが、「すべてAIの指示通りに生活しなさい」という形でのコントロールである。「人間の幸福はすべてAIが考えるので、人間はただそれに従っていれば良い」という事になったら、それは果たして幸福と言えるのだろうか。

 指示待ち族の人にとっては、誰をデートに誘い、どこのレストランに行き、どのメニューを注文し、どんな言葉を耳元でささやくのかすべてAIが指示してくれたら楽でいいだろう。そういう人にとってはAIは幸福をもたらしてくれるものと言えるだろう。指示待ち族でなくても、いつも誰かに助言を求めたり、自分で調べるにしてもネットで調べたりするのであればその手段がAIになるだけであり、同じであると言える。私ならsiriがもっとスムーズに人間のように回答してくれるなら、「新宿でお勧めのレストラン教えて!」など頻繁に使うだろう。ただ、さすがに耳元でささやく言葉は自分の脳みそで考えるだろうが・・・

 デートならまだしも、進路相談や結婚相談などするようになれば、それはもう支配と同じように思う。「支配」と考えれば抵抗があるが、「アシスタント」と考えれば抵抗はない。何事につけ、アシスタントに助言を求め、その通りに行動するのであれば「支配」と「アシスト」は同義になるように思う。果たしてそれは幸福なのだろうか。それは次世代の問題という気もするが、私としては自分の存命中にそういう時代が来てほしいと思う。そしてその答えを自分で出したいと思うのである・・・


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【本日の読書】

 なぜか人生がうまくいく「優しい人」の科学 - 和田秀樹 シャーロック ホームズの凱旋 森見登美彦 単行本 存在と思惟 中世哲学論集 (講談社学術文庫) - クラウス・リーゼンフーバー, 村井則夫, 矢玉俊彦, 山本芳久  手紙屋~僕の就職活動を変えた十通の手紙~ - 喜多川泰