2026年2月1日日曜日

不運な運勢にあって

 運勢のようなものは本当に当てになるのだろうかと、この頃ふと思う。人生においてはいい時ばかりではなく、悪い時もある。何をしてもうまくいかない時というのもあるだろう。最近、私はそんな人生のトンネルに入ってしまっているような気がする。妻と別居して実家に戻って以来、仕事においても主として社内の人間関係で思うようにいかず、何となくこれでいいのだろうかというモヤモヤ感に包まれている。順調に行っている時には感じない焦燥感のようなものと言えるだろうか。

 もともと私は占いのようなものは信じていない。まぁ、何か迷った時の参考にはなると思う。ただ、それは信じるというよりも、迷った時にコインの裏表で決めるのと同じ扱いである。生年月日や星座や血液型や手相やカードなどで人間の何がわかるのかと思う。長い年月の間に、そういうものに何らかの関連性を見出して生まれてきたものではあるのだろうが、何か根拠があるようなものではなく、「当たるも八卦」の世界であると思っている。したがって、いわゆる「運勢」のようなものも信じてはいない。

 人生にいい時もあれば悪い時もあるのは事実だろう。だけどそれは運勢ではなく、「たまたま」である。いい事と悪い事がバランスよく起こるというものではなく、たまたま好ましくない事が続いただけである。しかし、我々はそこにどうしても意味を見出したくなる。何か好ましからざる事をした報いではないかとか、何かの祟りではないかとか。あるいは運勢が悪いとか。そういうもののせいにすれば、「仕方がない」と諦められるし、あるいはお祓いをしようという事になるかもしれない。

 今、不運の渦中にあるとしたら、それは過去の「選択」の結果によるものだろう。例えば私の場合、それは別居という選択をした事によるものかもしれない。しかし、そうだとしてもその選択以外にあり得なかったので、その選択をしなければ良かったとは思わない。その選択の結果だとするならば、甘んじて受け入れるしかない。会社内の人間関係のゴタゴタにしても、それは私の行動という選択の結果であるが、それは意図的に相手と対立するためのものではなく、意識せざる結果であり防ぎようがない。

 私も常日頃、いい上司であり、いい部下であり、いい同僚でありたいと考えている。だから言葉遣いも部下に対してでさえ丁寧にしているし、ハラスメントには特に意識して避けているからその問題はない。しかし、それでもモノの言い方であったり、やり方であったり、報連相が足りていないと思われたりするところから批判を受けている。知らず知らずのうちに信頼度が下がってしまったのである。残念であるが、起こってしまった事はどうにもならない。この後、もっと注意深く行動して信頼回復に努めるしかない。

 病気に関しては意外中の意外であったが、人間である以上ずっと完全な健康体というわけにもいかず、これもまた仕方がない。同僚の中には私より若いのに癌の再発を繰り返している者もいる。神はサイコロを振らないとアインシュタインは言ったが、サイコロを振っているとしか思えないこともある。人間それぞれの持って生まれた細胞の抵抗力なのかはわからないが、彼に比べればまだまだマシである。考えてみれば、そこもすべて運勢などという者ではなく、己の考え方、心の持ち方次第なのかもしれない。

 「人は不幸を数え上げる事を好み、喜びを数え上げる事をしない」とはドストエフスキーの言葉であるが、今回続いている不運の中にも気が付けば幸運も含まれている。例えればトーストを床に落としてしまったが、バターを塗っている部分が上になって落ちたようなものかもしれない。落とした事を嘆くよりも、バターを塗った部分が上になった事を喜べるようにしたい。そうした心の持ち方が、不運の渦中を耐え抜く力なのかもしれない。悪い運勢を嘆くのではなく、「やまない雨はない」と考えるようにしたい。そういう考え方で、今を頑張りたいと思うのである・・・


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【今週の読書】
 全体主義の起原2 新版――帝国主義 全体主義の起原 新版 - ハンナ・アーレント, 大島通義, 大島かおり  財務省亡国論 - 高橋洋一  豊饒の海 第二巻 奔馬 (ほんば) - 三島 由紀夫  万物の黎明~人類史を根本からくつがえす~ - デヴィッド・グレーバー, デヴィッド・ウェングロウ, 酒井 隆史




2026年1月28日水曜日

転職について

 私の勤める会社では、常時人材を募集しているが、先日は某社主催の転職フェアに出展した。採用目的の会社が多数出展し、転職希望者が出展企業を見て回っていいところがあれば転職しようというものである。需要と供給とをマッチングさせるサービスである。それぞれの思惑もあるのだろうが、実に多くの企業が出店し、転職希望者が来場しているものだと関心する。昔は終身雇用が当たり前であったが、今は転職も一般的になってきている。私自身、過去に2回転職しているが転職も場合によっては悪くないと思うので、今の風潮はwelcomeであると考えている。ただ、転職はエネルギーがいる事なので、できることなら避けたいと個人的には思う。

 今回は転職する方ではなく、受け入れる方であり、当然ながらより良い方を採用したいと思っての出展。ただ、応募してくる人は千差万別、こちらの希望通りの人ばかりではない。転職フェアで我が社のブースにきていただいた人と先日個別に面接をした。某大手企業を定年退職し、再雇用制度はあったものの、大幅に給料が下がるという理由で転職活動をされている方である。労働年齢も上がってきている昨今、60歳でリタイアというのも難しいだろう。私も同年代なのでよくわかる。ただ、その方のスキルは元いた企業内に特化したスキルで、年齢的にも採用は難しいという判断になった。

 私も自分の経験からして、大手企業を定年退職してから改めて再就職先を探すのはなかなか難しいと思う。何か特別なスキルや経験があれば別であるが、そうでないと採用する方にメリットがない。それまでもらっていた給料を念頭に大幅に下げられたからと言って、「やってられるか」と外に転地を求める気持ちはわかるが、「武器」がないとプライドには値がつかないのである。私の場合は2回ともやむなくの転職であったが、それでもまだ「期限」が残っていたのが多少なりとも良かったのだと思う。

 高年齢の場合は、マネジメントスキルや外部にもわかる実績がないと一般的な転職市場では厳しい見方しかされないだろう。私は50歳でのやむにやまれぬ転職であったが、そのあたりの自覚はしっかり持っていて、高望みすることはなく、最後は知人の社長が経営する会社に転がりこんだ。業績改善には多大な貢献をしたが、最終的にはその社長に裏切られ、会社を売却されて路頭に迷うことになった。そこで頼ったのは「知人」である。ビズリーチなど高年齢者には役に立たない。

 幸い、今の会社で評価されて、ありがたいことに年収もほぼ銀行員時代に戻っている。いままでやってきたことが開花している感があり、仕事の満足度も高い。ただ、定年を待って退職金をもらって「期限」を過ぎてから転職しようとしていたら、たぶん今の会社は難しかったと思う。大企業に勤めている人は、あまり天狗にならず身の丈を低めに見積もった方がいいと思う。誰でも自己評価は高くなるものであるが、周りはそれほど高くは見ていない。また、先の人は合間合間に「プライド」が垣間見えた。大企業に勤めていたのはわかるが、それを入社して振りかざされても困ると感じたのである。

 また、転職回数が気になる人もいる。転職が一般的になってきたとは言え、何度も転職をしている人はやはり採用に二の足を踏む。「すぐに転職してしまうのでは」と思うと、積極的に採用しにくい。特に転職して1年も経たないうちにまた転職となると、「なんで?」と思う。もちろん、「当初の説明と違う」などやむにやまれぬ事情もあるだろう。まず事情を聞いてから判断しようと思う。ただ、それに転職回数が加わると事情を聞くまでもないと思ってしまう。何度も転職をしているなら、そのあたりは十分確認する経験値が備わっているはずである。それはただ単に「辛抱が足りないだけ」ではないかと思えてしまう。

 我が社は新卒採用に加えて中途採用も行っているが、中途採用は必要かと言えば必要である。それは他社で基礎訓練を受けており、その必要がなく「明日から働ける」即戦力という意味が強いが、「他社での経験」も大きい。我が社とは違う環境で働いた経験というのは、我が社に新しい風をもたらすところがある。新卒で入ってずっと働いている「純粋培養」の社員はもちろんありがたいが、「外の空気」も交じり合って新しい文化になったりする。私自身も「外から来た人間」であるし、気が付けば社長以外の役員は全員「外から来た人間」である。それが変革をもたらしているのは事実である。

 振り返ってみれば転職は大事な人生戦略である。できればステップアップしていくのが望ましいが、私の場合は「余命を保つ」タイプである。定年を機に年収ダウンすることなく、銀行員時代に近い年収を維持できている。転職をしやすい時代になったからといって安易に「嫌だから」辞めるのではなく、「こうなりたい」という目的があってのものがいいだろう。それは受け入れる側の方からも望む事である。「逃げ出す転職」をすべて否定するわけではないが、「求める転職」の方がはるかに望ましいのである。

 転職をする理由は人それぞれであると思うが、相手もあることであり、「自分が高く売れるのか」は意識したいところ。そういう自分も今の会社が最高に評価してくれるところは間違いなく、他を考えずに今の会社に徹底的に貢献したいと考えている。それが自分を守る最高の方法でもあると思うのである・・・


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【本日の読書】

 全体主義の起原2 新版――帝国主義 全体主義の起原 新版 - ハンナ・アーレント, 大島通義, 大島かおり 潮音 第一巻 (文春e-book) - 宮本 輝 財務省亡国論 - 高橋洋一





2026年1月25日日曜日

論語雑感 子罕第九 (その21)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感
【原文】
子曰、苗而不秀者有矣夫。秀而不實者有矣夫。
【読み下し】
いわく、なえにしてひいでざるものるかな。ひいでてみのらざるものるかな。
【訳】
先師がいわれた。「苗にはなっても、花が咲かないものがある。花は咲いても実を結ばないものがある」
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 作物を育てるにあたり、種から目が出て苗になり、それをさらに育ててやがて花が咲き、実を結んで収穫となる。種類にもよるが、ざっと作物を育てるにあたり期待されている流れだろう。それがここでは順調に行くものだけではなく、うまくいかないものもあるとする。曰く、芽が出ないものもあるだろうし、芽が出て苗になっても花が咲かないものもあり、花が咲いても実を結ばないものもあると。おそらくこれは人に例えたものだろうと思う。そしてそれはその通りだと思う。

 世のママさんたちは、子供が生まれるとやがて教育に敏感になっていく。極端になると幼稚園からお受験コースまっしぐらで我が子を塾に通わせる。とにかく将来いい就職先に就くには、いい大学、いい高校、いい中学、いい小学校、そしていい幼稚園というわけで、こんなママに鞭打たれて塾通いする子は可哀想だなと思う。そして親はいい就職先に就いたらそれで満足して終わり。我が子が幸せな人生を歩めるものと思うのだろう。そして誰彼ともなく、我が子自慢をするのである。

 しかし、花が咲かないものもあれば、花は咲いても実を結ばないものもある。いい高校に行ったはいいが、それで心を病んでごく普通の大学に行くことになったりする。就職までは成功しても、会社の中で人間関係がうまくいかず、出世路線からは外れてしまう。それならまだいいが、鬱になって休職したり、最悪なのは不祥事を起こして解雇なんてこともある。顧客の貸金庫から金品を盗んだ銀行員や、顧客からお金を詐取した外資系保険会社の社員のようになったら最悪である。

 そうならないためには何よりも心の教育が必要だと思うが、残念ながら我が子には思うようにできなかった。妻の意見に勝てず、2人の子供はずっと塾通いであった。娘は高校までは順調であったが、途中で学校へ行く足が鈍り、不登校にはならなかったものの、卒業はスレスレ。大学は1年目は見送り、2年目でなんとか普通のレベルのところに潜り込んだ。就職は本人も頑張って地方公務員になった。一流ではなくとも元気に働いているので父親としては大満足である。ただ、今の就職先だったら小学校から塾になど通わなくても普通にしていれば就職できたと思う。

 高校でコースから外れたのが燃え尽き症候群なのか学校が合わなかったのか、父親には何も語ってくれないのでわからない。結果論だが、塾へなど通わずに、友達と遊んでいた方が良かったのではないかと思う。まぁ女の子は勉強に興味を持てないとオシャレの方に走ってオツムの軽やかな女性になる可能性もあるのでそこは難しい。何が花で何が実なのかは難しいが、妻が思い描いていた娘の人生でないことは確かだと思う。それでも私からすればなんの不満もない。

 息子は幸い一流コースを進んでいる。それはそれで良いが、だからといっていい就職先に入り、いい人生を歩める保証はない。私としてはむしろこれから息子と時間をとっていろいろな話をしてあげたいと思う。それは出世論などではなく(そんな話をしてくれと言われても困ってしまう)、どうしたら心を守り、勝てずとも負けない人生を歩めるかである。私が歩んできたような道であり、少なくとも負けなければ大きな不幸には陥らないと思う(私もまだこの先はどうなるかわからないから確実な話ではない)。

 花でなくとも、咲かなかったり実を結ばなかったりはあるもので、大事なのはそれはもうダメだではなく、その時はどうするかだろう。転んでも起きることができれば問題ない。花も咲かずに実も結ばない雑草でも逞しく生えて子孫繁栄している。それで十分だと思う。華やかな明るい人生ももちろんいいが、多少日が翳っていても太く長く続く道であれば十分である。一隅を照らす存在であればいいと思うのである・・・


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【今週の読書】
 全体主義の起原2 新版――帝国主義 全体主義の起原 新版 - ハンナ・アーレント, 大島通義, 大島かおり  潮音 第一巻 (文春e-book) - 宮本 輝  万物の黎明~人類史を根本からくつがえす~ - デヴィッド・グレーバー, デヴィッド・ウェングロウ, 酒井 隆史




2026年1月22日木曜日

自分の中の自分

 いつ頃からか、人に何かを「相談」するという事がなくなってしまった。と言っても専門的な話についてはいろいろと専門家に相談している。裁判をやった時は当然ながら知人の弁護士に相談しながら訴訟をこなし、医師にもいろいろと相談するし、わからないことは素直に教えてもらうようにしている。「相談」というのは「お悩み系相談」である。「どうしたらいい?」と悩み、誰かに相談するという「相談」である。この手の話については、もちろん悩みがないという事ではない。「あるけど相談に至らない」という表現の方が正しいかもしれない。

 以前、驚いたことに転職相談を受けたことがある。大きな病院で働く看護師で、先生の独立に伴い誘われたがどうしようというものであった。なんで私に相談してきたのかいまだに理由はわからない。ただ、その時は「その先生と一緒に働きたいかどうか」で決めたらいいと回答した。看護師ならいくらでもつぶしはきくし、なぜためらうのかよくわからなかった。そもそも迷うということは、メリットとデメリットが拮抗しているということ。つまりメリットもあればデメリットもある。だから悩む。なら割り切るしかない。

 誘われたということはその先生とは良い関係(男女関係という意味ではない)にあるという事、迷うという事は「行きたい」という気持ちと「行って大丈夫か」という気持ちが相対峙しているということ。なら「行ってダメだった場合」を想像してそれに耐えきれない(めちゃくちゃ後悔する)というならやめればいいし、「あの先生と一緒にやってダメなら仕方がない」と諦められるならやればいいとそんなことを答えた。今聞かれても、誰に聞かれても同じ回答をするだろう。

 それはともかく、私の場合、どうするべきかと悩んだ時、自分の中で客観的な人生相談が始まる。「今こういう状態で、~」と私の中で、誰かに相談するかのように私が説明を始める。するとそれを聞いていたもう一人の私がそれに対して回答を与え始める。かくして私の中で悩みに対する回答が出てきてしまう。そしてその答えに満足するので、あらためて誰かに同じ相談をする必要を感じなくなってしまうのである。自問自答であるが、ちょっと違う。正確に言えば、自分Aが問い、自分Bが答えるのであり、A≠Bなのである。

 そう言えば昔、『神との対話』という本を読んだ。心に浮かんだ感情を紙に書いていくと、手が勝手に動いて神が語りだしたという内容である。それが神なのかどうかはわからないが、妙に納得した。私が頭の中でやっているのと同じであると思う。紙に書くか頭の中で自分Bに向けて説明するかの違いだけである。著者が神と呼んでいるものを私は自分Bと言っているだけのように思う。どちらにしても一度自分を客観化することにより、自分が悩みと切り離され、第三者の立場で答えが見えてくるということなのだろうと思う。

 『神との対話』を読んだ時、素直に自分にも誰にでもできると思った。答えを書き出すという作業の中で、同時にそれを読みながら答える自分が(神でもいいと思うが)出てくる。もしも将来、自分が死に瀕した時、子供には「何か迷うことが出てきたら心の中でお父さんに問いかけなさい、その場で答えてあげるから」と伝えようと思った。心に浮かんだ言葉が私の言葉だと。私が今自分でやっていることを理解しにくければ、心の中で亡き父に問えば答えてくれるということで代用できるだろうと思う。

 これが神なのかどうかはわからないが、単純に自分を客観化することによって、他人から見た自分の姿が見えることが答えなのではないかと思う。他人のことはよくわかるのに自分のことはわからないというのはよくあること、また「自分のことは棚に上げて」というのも同じ理屈ではないかと思う。母は事あるごとに、父に「いらないものを捨てて整理しろ」と言っている。父は「いらないものはない」と答えている。私が母に同じことを言うと、母も「いらないものはない」と答える。母の方がはるかに持っているものは多いのに、である。笑い話である。

 「人のふり見て我がふり直せ」という諺がある。これも理屈は似たようなものだろう。他人というのはよく見えるもの。そして自分というのは見えないもの。顔はどうしても鏡がなければ見えないが、悩みは客観視することができる。それによって他人なら見えるのに自分のは見えない解決策が見えたりする。自分はそれができているのだろう。もっとも、いくら自分を客観視できたところで、肝心の問題解決力がなければそもそも相談しても答えられないことは当然である。問題解決力はそれゆえに鍛えておきたいところである。これからも自分の中でお悩み解決をやっていけるようにしたいと思うのである・・・



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【本日の読書】

 全体主義の起原2 新版――帝国主義 全体主義の起原 新版 - ハンナ・アーレント, 大島通義, 大島かおり  潮音 第一巻 (文春e-book) - 宮本 輝  万物の黎明~人類史を根本からくつがえす~ - デヴィッド・グレーバー, デヴィッド・ウェングロウ, 酒井 隆史




2026年1月18日日曜日

歯医者にて

 先週末、久しぶりに歯医者に行った。夕食の最中、突然昔詰めた銀歯が取れてしまったためである。歯医者に行くのは久し振りで、たぶん30年近く前に行ったのが最後だと思う。個人的に医者自体あまり好きではないが、中でも歯医者はその最筆頭であり、最も行きたくない医者である。迷った末に、「詰めるだけなら大丈夫だろう」と思い切って予約を取ったのである。30年近く前と言ってもその時は親知らずを抜いた時で、虫歯の治療では小学生の時が最後である。今回取れたのもその時のもの。50年近く前の詰め物である。

 予約したのは職場の近くの医者。それでもとネットで「名医」と検索して探すところが自分でもいじらしいと思う。ちなみに、親知らずを抜いた時は、最初の時が一番大変でこりごりしてやはり本屋で「名医」を探して行ったのである。そうしたら噂にたがわず簡単に抜いてくれて感動的であった。ただ、それは抜きやすい上の親知らずということもあったが、下の歯もスムーズに抜いてくれた。その時、虫歯も見つかったのだが、「痛くなったらくればいいよ」と言っていただいた。その考え方も「名医」に相応しいと思う。

 さて今回であるが、受付で渡されたのがタブレット。そこにいろいろと情報を入力していく。情報を手軽に管理するという意味では現代的である。内部は白で統一されていて清潔感あふれている。完全予約制と謳っており、患者は少ない。必要以上に待たされることもなく、見込んでいた1時間もかからずに終わった。予約はかなり埋まっていたが、合理的なシステムだと思う。担当は若い女医さんで、若干の不安が頭をもたげる。よく観察すれば何人も医師がいる。「名医」は嘘だなと思うももう遅い。

 ネットの情報も玉石混交であり、よく「◯◯ベスト10」などがある。地方に出張に行った時にお土産やラーメン屋などを検索する時に必ず出てくる。こういうサイトはアクセスを稼ぐ目的だったりするから気をつけないといけない。お土産やラーメン屋ならともかく、「名医」は何を持ってそう判断しているのかわからない。住所だけで掲載しているのかもしれない。1人医師の歯科医ならまだしも、何人も医師がいる医院では全員が名医というわけではないだろう。「痛くなったらくればいいよ」というような医師こそが名医だと個人的には思うが、そんな医師はいるのだろうか。

 さて、若い女医さんだが、軽く診たあと、レントゲンを撮りましょうという。なんで歯に詰め物をするだけなのにと思うも、そこは指示に従う。そのデータに基づいて丁寧に説明してくれるのだが、気になった他の歯の状況も見てくれたようである。穿った見方をすればそこで悪い歯を見つけて治療を促すのかと言えなくもない。そして治療。なぜか麻酔をしてくれる。それも注射器ではなく、ハンドガンのようなタイプのもの。「痛くない」というのを徹底しているのだろうか。

 今は銀ではなくプラスチックのようである。なぜプラスチックになったのか、そもそもなぜ銀だったのかは興味深いところである。医療も進歩しているのでプラスチックもいいのだろう。その場で簡単に終わったので加工のしやすさというところもあるのかもしれない。例によってドリルで削られたが、記憶に残っているような嫌な音をけたたましく立てるものではなく、静かであった。麻酔のせいか痛みもそれほどでもなく、なんとか治療も無事終わった。

 終わってホッとしていると、女医さんに歯石が溜まっていますと告げられる。そういえば治療中、関係のないところをいじってくれていた。「酷かったところをとりあえず綺麗にした」ということであった。確かにそれも大事なのかもしれない。やってもいいかなと思ったが、虫歯の存在を指摘された。そして「次に治療しましょう」とのこと。それはあの名医が「痛くなったらくればいいよ」と言ってくれたところ。まだ痛くならないから放置しているのである。

 医師として間違ってはいないが、正解ではないと思う。「論語と算盤」ではないが、「医師と算盤」なのかもしれない。丁寧でいい先生だとは思うが、まだ「名医」の域には達していないなと1人思う。個人的にはこれからもあの名医の先生の言葉に従おうと思うのである・・・



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【今週の読書】
 全体主義の起原2 新版――帝国主義 全体主義の起原 新版 - ハンナ・アーレント, 大島通義, 大島かおり 日航123便墜落事件 四十年の真実 - 青山透子 潮音 第一巻 (文春e-book) - 宮本 輝  万物の黎明~人類史を根本からくつがえす~ - デヴィッド・グレーバー, デヴィッド・ウェングロウ, 酒井 隆史



2026年1月15日木曜日

あぁ、コミュニケーション!

 コミュニケーションを取るのは難しいとつくづく思う。今に始まったことではないが、還暦過ぎてそれなりに人生経験を積んでいてもいまだにコミュニケーションには悩まされる。それは家族でもそうだし、仕事でも同様。コミュニケーションがうまくいかず、互いの関係がギクシャクすると、それは何をするにしても余計な神経を使うことになり、煩わしいことこの上ない。子供の頃は引っ込み思案で人見知りで、それが素の自分だと思っているが、だからよけい他人とのコミュニケーションが下手なのかもしれない。

 言葉も便利なようで不便に働く。意図した通りに伝わってくれればいいが、そうでないことはよくある。そんなつもりはないのに別の意図で捉えられるというのは今でも苦しむところである。たとえば「情けは人の為ならず」という諺がある。本来の意味は、「他人に情けをかければ、それは巡り巡って自分のためになることもあり、だから情けをかけるべき」ということだろうが、「情けをかけてもそれはその人のためにならず、だから情けをかけない方がいい」と誤解する人もいる。

 表面上の言葉だけを見れば後者の解釈も成り立つわけで、だからこそ表面的に捉えただけの人は誤解するのである。例えばかつて読んだ本の中に、「2人の囚人が監獄の窓から外を見上げた。1人は薄汚れた鉄格子を、もう1人は輝く月を見た」という言葉があった。これをどう解釈するか。鉄格子は現実を、輝く月は理想または夢を指すということはわかる。理想よりも目の前の冷たい現実を重視するのか、どんな境地にあっても常に理想を胸に抱くのか、どちらの解釈も成り立つ。

 これはこちらの解釈だと決められるのは本の著者だけだろう。そして本の著者は、現実に囚われて理想を見失うのではなく、常に星を見ろという意味で使っていたと記憶している。それはそれで自分の主張の補足として使った言葉だろうし、悪いとは思わない。しかし、現実を見ずに理想ばかり唱えるというのも愚かなことである。理想もいいが、現実問題として目の前の鉄格子(=問題)を何とかしないといけないわけであり、まずはそこに注力するのは当然である。2人の囚人のモノの見方、考え方に優劣はつけられない。

 かように著者が意図した意味とは違う解釈をされるわけである。先の諺のようにそれが1人歩きしたとしても、本来の意図をよく考えれば「情けをかけるな」という解釈はおかしいなと気づく。しかし、2人の囚人の例はどちらもそれなりに正しい。かく言う私もこの本を読んだのは随分昔であり、何となく意味を理解しているが、時間が経つとどちらの解釈だったかわからなくなってもおかしくはない。

 こうしたことが日常のさまざまな場面で起こる。何気なく言ったことが曲解される。それが曲解されたとわかれば訂正なり説明なりができるが、人の頭の中は見えない。こちらが意図した通りに伝わっていると思い込んでいたら、2人の間に見えない溝がいつしか深まっていくことになる。最近、社内で何となくギクシャク感を感じる人がいる。もしかしたら意図せぬ誤解が生じているのかもしれない。しかし、確たる証拠がないのでなんとも言えない。

 コミュニケーションには「誤解」もあるが、「言いにくい」という事もある。とあるベテランの方は、事あるごとに他人の批判を繰り返している。その批判は的外れではなく、正しい批判であると思う。されどそれを批判して終わっていたら何にもならない。かくあるべしという道を示し、改善を図るように働きかけてほしいと常々思っている。ベテランなんだし。だが、それを直接ご本人に言うのは憚られるところがある。相手がそれなりの地位にいるからなおさらである。

 それはもしかしたら私自身にも当てはまるのかもしれない。何となく違和感を感じているが、直接言いにくいので言えないでいるということもあるかもしれない。そうしたことがあるなら遠慮なく言ってほしいと思うが、相手からすれば「言えるなら言っている」というところかもしれない。それが批判であればあまり聞きたくはないが、知らずにいる方がもっと悪い。最近、とあるところから私に対する不満の声が聞こえてきた。その不満はもっともなところであり、私の対応が悪かったと反省しているところである。そうした目に見えない不満が伝わってくれば改善もできる。不満に対しては真摯に耳を傾けたいと思っている。

 コミュニケーションが難しいのは確かであるが、だからと言って忌避するのではなく、前向きに受け止めていきたい。まだまだ修業が足りないと嫌になるくらい実感する。輝く星を見上げながら、目の前の鉄格子に知恵を絞る。そんな態度でいたいと思うのである・・・




【本日の読書】
 全体主義の起原2 新版――帝国主義 全体主義の起原 新版 - ハンナ・アーレント, 大島通義, 大島かおり  日航123便墜落事件 四十年の真実 - 青山透子  潮音 第一巻 (文春e-book) - 宮本 輝  万物の黎明~人類史を根本からくつがえす~ - デヴィッド・グレーバー, デヴィッド・ウェングロウ, 酒井 隆史





2026年1月11日日曜日

論語雑感 子罕第九 (その20)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感
【原文】
子謂顏淵曰、惜乎、吾見其進也。未見其止也。
【読み下し】
顔淵がんえんいていわく、しいかな、われすすむをるなり。いまとどまるをざるなり。
【訳】
先師が顔淵のことをこういわれた。「惜しい人物だった。私は彼が進んでいるところは見たが、彼が止まっているところを見たことがなかったのだ」

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 「惜しい人物だった」という表現から、この時点で顔淵という人物は亡くなっていることがわかる。亡くなった人に対しては、日本人的には悪く言わないものであるが、中国の当時の状況はわからないので何とも言えない。ただ、孔子が褒めていることは間違いないことであり、また、たびたび論語にも登場するくらいなので、孔子に負けず劣らず立派な人物であったのだろう。「進んでいるところは見たが、止まっているところを見たことがない」という表現も何となくではあるが、よくわかる気がする。

 「進んでいる」と言われて連想するのは、「すぐに動く」ということ。仕事でも何か言われてすぐ動く人とそうでない人とがいる。我が社の役員会でも、とある役員は会議で話題になると、すぐに動いている。それは資料を集めたり調べたりすることだったり、ざっと計画を作って意見を求めてきたり、AIを駆使してパワポで資料を作ってみんなに提示したりである。特に社長からの意見に対しては敏感に反応している。私にはないスピード感で、最近では私も負けじと同じように動くようにしている。

 一方、これに対するのがなかなか動かない人である。何か指示されると期限を確認してくる。そして期限ギリギリになって提出してくる。もちろん、手元の仕事もあるだろうから、期限を睨みながら手元の仕事との優先度合いを確認しつつ、期限までにやるのは悪いことではない。しかし、それほど忙しくはないであろうと思われる人物が、できる限り先延ばししているのが見え見えというケースがある。おそらく、あくせく仕事をしたくはないのであろう。なるべく先送りしようとしているように思われる。

 最近がっかりしたことの一つは、我が社でも新規事業としてある分野の入札を進めていこうとしていることに対して、現場の責任者から今期スタートした中期計画(3ヵ年計画)において、2年目の後半からスタートするとしていることであった。なぜ、2年目の後半なのか。それは特に理由もなく、単なる先送りである。おそらく1年目は何もしないのであろう。2年目の後半スタートだったとしても、1年目のスタートに何をやり、それから何か体制整備や人員トレーニングなどの準備があるというのならわかるが、そういうものは何もない。単なる先送りである。

 また、今期から主要重点先として数社の取引先をピックアップした。当社としても今期力を入れて売り上げを伸ばしていこうという先である。しかし、期初の10月の初めに出てきた計画は、11月に挨拶に行くというもの。挨拶ならなぜ10月に行かないのかと問うと、「手ぶらで行くわけにも行かないので計画を立てている」という。それはそれでもっともらしく聞こえるが、私であればまず挨拶に行き、そこで相手の抱えている問題や課題を聞き出し、次の訪問では当社がそれに対して何ができるかを提案するだろう。

 私は財務・人事採用担当であり、なかなか現場のことには口出し難いのであるが、それでも考え方がおかしいと伝えている。しかしながら、結局、挨拶は延ばし延ばしになり、ようやく初回が終わったのは12月で、先によっては今月新年の挨拶を兼ねていくということになっている。何ともはやのスピード感である。孔子の言い方に倣えば、「止まっている」と言えると思う。ニデックの「すぐやる、必ずやる、出来るまでやる」ではないが、前へ進むには「すぐやる」精神は重要である。

 実際の顔淵がどんな人物だったのかは知る由もないが、我が社にいたらこんな働き方をしていたのではないかと想像できるところはある。私もまだまだこの会社で存在感を示さないといけない。私も「止まっているところは見たことがない」と言われるようにしたいと改めて思うのである・・・


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【今週の読書】

全体主義の起原2 新版――帝国主義 全体主義の起原 新版 - ハンナ・アーレント, 大島通義, 大島かおり 日航123便墜落事件 四十年の真実 - 青山透子 潮音 第一巻 (文春e-book) - 宮本 輝 万物の黎明~人類史を根本からくつがえす~ - デヴィッド・グレーバー, デヴィッド・ウェングロウ, 酒井 隆史

2026年1月7日水曜日

米軍によるベネズエラ攻撃に思う

トランプ大統領がベネズエラ攻撃「成功裏に完遂した」 マドゥロ大統領と夫人を拘束し国外へ連行したとも
Yahoo!ニュース 1/3(土) 18:42配信
アメリカのトランプ大統領は日本時間3日午後6時すぎに自身のSNSを更新し、ベネズエラの攻撃を「成功裏に完遂した」と発表し、マドゥロ大統領と夫人を拘束した上でベネズエラ国外に連れ出したと発表しました。********************************************************************************************************

 新春早々なかなか刺激的なニュースに触れた。米軍がベネズエラを攻撃し、なんとベネズエラの大統領を拘束して米国内に移送したという。これから裁判にかけるそうで、随分と大胆なことをやるものだと思う。攻撃理由は「アメリカ国内に海から流入する麻薬のほとんどがベネズエラから密輸されている」ということだそうで、これはたぶん建前で本当の狙いは別にあるのだろう。「大量破壊兵器を隠している」としてイラクに侵攻した「前科」があるからなおさらである。麻薬の件は事実かもしれないが、それだけでここまでするとは素人目にも思えない。何か利権絡みの事情があるのだと思う。

 そもそもであるが、アメリカなら何をやっても許されるのかという気がする。これを仮に中国やロシアがやったならアメリカは大層な剣幕で反対するだろう。それに対し、アメリカに対してはおざなりの批判だけで、面と向かって対抗する国はない。それをいいことに、好き勝手やっている。国内の場合、公権力は証拠を上げて裁判所の許可を取って逮捕し、裁判にかけてその罪を問う。日本人であれば、日本人として国から保護される権利を得ると同時に法に従う義務がある。とは言え、何人も令状なしに身体を拘束される事はない。それは国内限定の話である。

 これが国外となると、話は違ってくる。国外では日本の国内法が適用されず、したがってどんな悪事であろうと、国外で行われたものに関しては手が出せない。それは原則どこの国でも同じである。その国の法律はその国の中だけでしか通用しない。今回、アメリカはベネズエラのマドゥロ大統領を拘束したが、その根拠はどこにもない。ましてや裁判となると、なぜアメリカの国内法でベネズエラの大統領を裁けるのかと問われたらその根拠はない。そもそも裁判は成立しない。それをやるというのはもはや筋書の決まった茶番でしかない。

 それで思い出されるのが東京裁判である。戦勝国が敗戦国を裁くというのも同じで、「人道に対する罪」というのを作り出し、事後法の禁止の原則にも反して、勝手に作って勝手に裁くものであった。裁判という形さえ取れば、公平に裁いたとでも言えると思っているのだろうか。アメリカがどんなに自らの正当性を主張しようと、そこに正義はない。ジャイアンに誰も文句が言えないのと同じである。もっともな理由をつけて軍事行動を起こして領土分取り合戦をやっていた帝国主義の時代があったが、世界でアメリカだけがまだその精神で行動している。

 今回の軍事作戦の真の理由であるが、素人にはわからない。いずれそのうち情報が暴露されて伝わってくるのかもしれない。大統領の拘束に終わらず、トランプ大統領は「ベネズエラの安全で適切な政権交代が完了するまで、われわれはベネズエラに駐留し、国を運営する」との意向を明らかにしているから、ベネズエラを自分たちの意に添うように動かすつもりなのだろう。「気に食わない奴はぶん殴って言うことを聞かせる」的な行動で、腕力にモノを言わせるのは見ていていい気はしない。

 力を持つ者はそれに奢ってはいけないと思う。最近、部下から手厳しい意見をもらった。私には私なりの考えがあっての事だが、それをしっかり説明したところ、そうした正論で責められると何も言えなくなるとのこと。仕事であればきちんと考え、正論で議論するのは当然だと思う。私にはそういう正論に基づく意見もあるしそれを通す権限もある。しかし、今回はあえて部下の意見を入れて譲る事にした。正論で通せても部下の満足度は得られない。さらにそれはどうしても私が守らなければならない正論ではない。守るべき正論のためにも、ここは譲った方が部下も満足して働いてくれると考えたのである。

 それが良いのか悪いのかはわからないが、権限だけで意見を通すのは避けようと思っている。自分の意見は意見として相手の意見も聞き、その損得も考えて総合的に譲るべきところは譲ろうと思う。仕事で「腕力」に当たるのは地位に基づく権限だと思うが、それを振り回すのではなく、相手を説得するのではなく納得させられるように振舞いたいと考えている。アメリカの行動を見ていると、その裏に国益追及の精神があるのだろうが、醜いものにしか見えない。自分も役員として自信を持って行動しているが、それがみんなに支持されているかは意識しないといけないと思っている。

 「奢る平家は久しからず」。他人のふり見て我がふり直せではないが、自分自身は大丈夫だろうかと常に身を引き締めていこうと思うのである・・・


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【本日の読書】
 全体主義の起原2 新版――帝国主義 全体主義の起原 新版 - ハンナ・アーレント, 大島通義, 大島かおり  日航123便墜落事件 四十年の真実 - 青山透子  失われた時を求めて(4)――花咲く乙女たちのかげにII (岩波文庫) - プルースト, 吉川 一義





2026年1月4日日曜日

2026新春雑感

 新しい年がスタートした。昨年も正月三が日は実家で過ごしたが、今年は我が家としての実家である。年末に注文していたジャパネットたかたのおせちは量も多く、値段もそれなりであったが、3日間食べるという点では十分。両親も喜んでおり、これからおせちはジャパネットにしようと思う。お雑煮はだし汁の味付けに迷う。初日は失敗してしまったが、二日目からはなんとかなる。年賀状も年々少なくなっていく。内心、全部やめたいと思っているので出してくれる人に限って続けていこうと思う。

 元旦は初詣。今年から実家の氏神様に行く。1人で行こうと思っていたら、母が行くと言う。腰の悪い母だから神社まで歩けるか心配だったが、せっかくなのでのんびりと一緒に歩く。こういうひと時もあと何回あるだろうかと考えると、大事にしたい。昼過ぎになってしまったためか、神社はすでに長蛇の列。それでも初詣に行こうという人がこれだけいることを頼もしく思う。私自身、宗教心は薄いが、人間は自らを超越する神の存在を否定してはいけないと思っている。それゆえに神社は大事にしたい。これまでと同様、ここでも破魔矢を買って帰宅する。

 両親とも短期記憶はウルトラマンより短いかもしれない。つい今言ったことをもう忘れてしまう。親父は銀行にお金を下ろしに行くと前の日から準備していたが、当日、印鑑も通帳もどこかに置き忘れてしまう。自分でももどかしいのか、探しながらイライラして機嫌が悪くなる。当初は私が管理していたのだが、「自分のお金をなぜ自分で下ろせない」とキレてしまい、本人に返したのであるが、どちらにしろ自分で下ろせない状況には変わりない。うまくなだめつつ、どう印鑑と通帳を管理していくか、知恵と工夫が求められている。

 長いと思った9連休もあっという間に最終日。明日からはまた仕事である。しかし、それはそれで楽しみでもある。会社ではナンバー2として存在感を示せている。しかし、驕らないようにしないといけない。特に互いに意見が相違する場合、相手の考えもより一層尊重したい。自分は常に正論を述べているが、逆に相手が何も言えなくなるという指摘を昨年受けた。正論を唱えるのは当たり前であるが、相手の考えも尊重するという意味で、「内省」は今年もテーマに掲げたいと思う。

 自らの行動や考えを客観的に内省し、相手を受け入れる「寛容」も大事にしたい。特に両親に対しては、自分の意図した行動でなかったとしても、それが善意から出ているのであれば受け入れる寛容さを己に求めたい。そして心乱されず、心を鏡のように振る舞いたい。「鏡心」とでもいうべきであろうか。本来の意味がどうかは別として、自分の中に以上の三つは今年のキーワードとしたいと思う。自分の考えや行動が誰かのためになっているのかを意識したいと思う。

 仕事をしつつ、毎日の食事の支度をするというのは大変なことだと実感している。本格的な働く主婦からすれば笑われてしまうレベルだと思うが、今までのほほんとすべて妻にやってもらっていた身としてはかなり大変である。食事の宅配なども利用して切り抜けているが、これはこれで時間をうまく使っていきたい。日曜日、洗濯に掃除に買い物に食事の支度と忙しく動き回っていると自分の時間はなかなか取れない。親父がのんびりテレビを見ている姿を見ると手伝えと言いたくなる。己の今までの姿であろう。いい経験である。

 明日からまた仕事。会社の発展に大きく寄与したいという気持ちは引き続き意識していきたい。自分にしかできない仕事、自分ならではの仕事、誰かに常に頼られる存在であるとともに、誰かのために働くことを心がけたい。妻との正式離婚は息子が大学を卒業する2年後になる予定だが、その間に自分はこれからどう生きていくのかをよく考えたい。ラグビーもまだまだ楽しみたいし、それには己の体の老化に抗っていかないといけない。トレーニングはこれまで以上にしないといけないだろう。

 今年がどんな年になるのか。それは自分次第。1年が終わる時に、自分自身を褒められるように1年間行動したいと年の初めに思うのである・・・



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2025年12月31日水曜日

2025年大晦日雑感

 早いものでもう1年の終わりである。早いと言ってもそれは過去を振り返ってみるからであり、早いと言いつつ365日をしっかり過ごしていることは間違いない。その365日であるが、記憶に残る日と残らない日とがある。大半は記憶に残らないが、きっかけがあれば思い出せたりする記憶もある。そのきっかけに有効なのは日記であり、このブログであったりする。両方とも欠かさないようにしたい(このブログは週2回だが)と思うゆえんである。

 この1年の大きな動きは、やはり別居と病気だろう。別居はもうこれ以上妻と一緒に生活を続けていくのは無理だと感じ、今後のことも考えて早いうちにと踏み切った。それ自体、後悔はしていないし、両親も2人だけの生活はそろそろ無理があると感じていたので、実家に戻るいいきっかけであったと思う。2年後に息子が大学を卒業したら正式に離婚する予定である。原因はおそらく自分にあると思うが、それを露骨な態度に表されていてはストレスが溜まるのみ。お互いのためになるものだと思っている。

 実家では家事を担うことになったが、何せ記憶が3分ほどしか持たない両親との生活もまた別のストレスに晒されている。すべてやってしまうのも逆に良くないかと思い、ご飯を炊くのは頼んでいる。しかし、帰るコールでご飯を炊くように伝えても、3回に1回はできていない。「(私からの帰るコールの)電話を切る」→「お米を研ぐ」→「炊飯器にセットする」という動作の合間に、何か別の用事が入ったりすると忘れてしまうのだろう。炊き忘れるのも想定して帰宅しないといけないということを学んでいる。

 病気については、あれこれ悩んでみても仕方がない。今後、医師と治療について話していく中で考えるべきことも出てくるのだろう。ラグビーも続けられなくなるかもしれないし、お金もかかるかもしれない。最悪、死ぬのだろうけど、それら諸々をいろいろと想定して動いていくほかない。実家に引っ越す時につくづく感じたが、物は少ない方がいい。身辺整理するにしても残された者の負担も考え、なるべく断捨離を実行して身の回りの物を少なくしておく必要もある。すぐに死ぬことはないだろうが、想定は大事だと思う。

 振り返ってみれば、仕事は順調であった。「経営とは問題のモグラ叩き」だと思っているが、日々問題は発生している。会社は創立50周年を迎えたが、まだまだ安泰とは程遠い。3代目の現社長を支え、4代目も内々に決まった。自分は社長を支え、No.2として引き続き手腕を振いたい。病気がどう進展していくかにもよるが、財務を中心に自分の役割を果たしていきたい。大事なのはコミュニケーションであるが、それが十分にできているかは随時意識していきたいと思う。

 来年は、より一層内省を極めたいと思う。物事に動ぜず、常に「自分が源泉」を心がけ、心の鏡を磨いていきたい。他人の行動は自分を表す鏡であるという考え方もあるそうで、なんとなく今の自分の心境に合っていると感じる。自分を持つことは大事だが、他人の考えを尊重することも大事。それをどう一致させていくか。仕事ではより一層大事なことであるが、プライベートでも同様。しなやかな水の如く隅々にまで目が行き渡る用に行動していきたいと思う。

 自分自身の在り方として、常に「良き夫、良き父親、良き息子、良き友人、良き部下、良き上司、良き同僚」であろうと心がけている。残念ながら「良き夫」はできなかったが、そのほかはこれからも努力したいと思うし、来年はさらに力を入れたい。自分の存在は他人の中にあってこそのところがあり、周りの人たちに快を提供できればいいなと思う。「良き◯◯」を極めていきたいが、その最終形は「良き父親」である。子どもたちに自分たちの父親はどんな人間だったのか。それを示したい。

 2026年はどんな年になるのか。少しずつ完成形に向けて努力と手間暇を惜しまないようにしたいと思うのである・・・



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2025年12月28日日曜日

論語雑感 子罕第九 (その19)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感
【原文】
子曰、語之而不惰者、其回也與。
【読み下し】
いわく、これげておこたらざるものは、かいなるか。
【訳】
先師がいわれた。「何か一つ話してやると、つぎからつぎへと精進して行くのは回だけかな」
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 日本の諺では「一を聞いて十を知る」という言葉があるが、それと似たイメージであろうか。一つ指示されるとその先を自分で想像して仕事を進めていける人がいる。一方、その反対は一々手取り足取り指示されないと動けないということであるが、そういう人も実際にいる。その差は何なのかと考えれば、それは「意識の差」に他ならない。実際、私の部下にもそういうタイプがいる(年上のおじさんだ)。なるべく自分のやる事は最小限にとどめんとしてとにかく自分から仕事はしない。言われればやるが言われないとやらない。

 上司からすれば何とももどかしい。しかし、本人にすれば余計な責任を負わなくて済むし、余計なことを考える必要もない。おそらくいろいろと気がつく事はあるだろうが、それを指摘すれば自分がやる羽目になるから黙っている。もちろん、指示されればきちんとやる。私の前任者には随分と怒られていたが、私はそういう人だと認識したので、イライラすることもなく、自分が指示するのを忘れないようにするだけである(忘れたらそれは自分の責任)。

 その逆に別の部下は(こちらは20代の女性だ)、一度言えば後は自分から動いてくれる。年末近く、挨拶用の会社のカレンダーを発注しているのだが、昨年それを指示して業者との交渉から全部やってもらった。すると今年は自分から「カレンダーはいつ発注しますか?」と聞いてきた。「昨年は今頃だったので」と。どうやら自分で来年も同じことを言われるだろうとメモでもしていたのだろう。今回はデザインと費用の承認だけで、私はほとんど任せっきりで何もせずに済んだ。両者の違いは天と地である。

 当然、私の2人に対する評価も大きく違う。別に仕事人間になれというつもりはないが(女性部下の方もそんな様子は微塵もない)、ただよく気がつくということだけだろうと思う。自分が部下の立場なら言われたことだけをやる仕事は、責任もなくていいかもしれないが、圧倒的に面白くない。どうせやるなら面白い仕事の仕方をしたいし、その方がいい。仕事を面白くするなら、ゲーム感覚で自分なりの目標を決めてその達成を目指してもいいし、「できないやつ」より「できるやつ」と思われたい。

 スポーツでも同様。上手くなりたいと思ったら教えてもらうだけではダメで、自分なりに考えて必要だと思う練習をしないと人より上手くはなれない。チームの全体練習で不足する分は、自分で時間を作って練習しないといけない。それは「やれ」と言われてやるものではなく、自分で考えてやることである。私も学生時代は練習開始の1時間前にグラウンドに行って筋トレをしていたし、練習後はチームメイトに手伝ってもらってスローイングの練習をしたりしていたものである。

 「好きこそ物の上手なれ」という言葉があるが、同じ理屈かもしれない。その根底にあるのはやはり「意識」である。「能力の差は5倍、意識の差は100倍」(永守重信)という言葉は真実であると思う。孔子の弟子である回もそういう意識が高い人物だったのだろう。だから孔子も回を高く評価していたのだろう。私が女性の部下を評価するように。回も自分の名前がこんなにも長く残るとは想像していなかったに違いない。他にも弟子はいただろうが、名前の残る弟子になるかどうかの違いはこの意識の差に他ならない。

 こうした事は、これから社会に出る息子に伝えたいと思う。もう自分の意識を高める段階は終わったと思う。これからは息子や会社の若手の意識を高めることを考えていきたいと思うのである・・・




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【今週の読書】
 全体主義の起原2 新版――帝国主義 全体主義の起原 新版 - ハンナ・アーレント, 大島通義, 大島かおり  センスの哲学 (文春e-book) - 千葉 雅也  失われた時を求めて(4)――花咲く乙女たちのかげにII (岩波文庫) - プルースト, 吉川 一義




2025年12月25日木曜日

格言雑感

 先日、出張先のホテルでメモに印刷された格言を見つけた。私は結構、格言の類が好きであり、割とこまめにメモしているが、そんなこともあって目に留まったのである。そこに印刷されていたのは、「人間、所詮入れたものしか出せない」という言葉である。この言葉に特に感銘を受けたという事はなく、「そういう部分もあればそうでない部分もあるのではないか」と単純に考えただけである。確かに、「物理的」に言えばその通りである。人間は食べたものを消化し、エネルギーとしてその活動に必要な部分を取り出し、残りかすは捨てる。トータルでは同じであり、物理学でいう一種のエネルギー保存の法則が当てはまると思う。

 しかし、入れたものが食物ではなくて、知識だったらどうだろうかと思う。もちろん、知識そのものは変化しない。しかし、人間は取り入れた知識を生かして問題を解決する。知識が醸成され、考え方となればその考え方によって問題を解決できる。その広がりは入れたもの以上になるような気がする。一見、それもエネルギー保存の法則に類似して、入れた知識が出ていく点では同じように思う。ただし、知識は忘れない限り何度でも繰り返し利用できる。その点は食物によって得られたエネルギーとは異なる。何度でも繰り返し利用できるという点で、「入れたもの」以上に出せていると言えると思う。

 しかし、量より質に目を向けると、利用する回数という量よりも、解決できる問題のレベルという質の点で入れたもの以上のものが出せているかとなると、また考えさせられるものがある。ビジネス書などを読めば、著者の考えに接してそれまでにない考え方ができるようになるかもしれない。本当はそこに自分なりの考えを付与して発展させれば「入れたもの以上」だと言える。ただ、それは知識の内容によるかもしれない。「全部運が良かったと思いなさい」(松下幸之助)などは考え方のあり方で、慢心を諫めるものであるが、それ以上ではない。

 これに対し、「天才が1時間かかってやる仕事は2時間かけて追いつき、3時間かけて追い越す」(本多静六)なども考え方であるが、天才の仕事ぶりを見て追いつけないと諦めていたとしたら、「時間をかければ追い越せるじゃないか」と考えて継続すれば、それは大きな成果につながるかもしれない。今まで出せなかった成果が出せるようになるという点で、入れた考え方は入れた以上の成果を生み出したと言えるかもしれない。これこそが人間が他の動物と違うところだと言えるのだろう。

 似たものとしては「経験」がある。これは自らの経験を知識に変換したものと言える。「羹(あつもの)に懲りて膾(なます)を吹く」という諺があるが、これは一度熱い吸い物(羹)でやけどした経験から、冷たい和え物(膾)までフーフーと冷ましてしまうという状況を表したものであるが、過去の経験が知識となり、行動として表れているものである。過度な警戒心や臆病さを示す諺であるが、これも入れた知識が繰り返し利用される類のものであり(膾を吹く愚かさに気づくという新たな経験=知識を入れるまで続く)、入れたもの以上に出せる例とも言える。

 この言葉を思いついた人の本来の趣旨は違うのだろう。人間は所詮入れたものしか出せないので、入れたもの以上を出そうとしてはいけない、あるいは出せるものには限度があるといったものだろうと思う。天邪鬼な私としては、ついついそういう言葉に反発したくなる。そうではなくて、入れたもの以上に出せる場合があるのではないか、あるいは入れたもの以上に出せないと自分自身の価値はないのではないかと思ってしまうのである。入れたものが「指示」であれば、「言われたことしかできない」という事になる。それでいいのか、と思ってしまう。

 もしも本当に入れたもの以上は出せないのであれば、ならばより多く入れたらいいんじゃないのと思う。学生時代はラグビーに力を入れていたので、そのために常に体重を「あと5㎏」増やしたいと思っていた。太りにくい体質なのか、食べる量が少なかったのか、運動量が多すぎたのか、筋肉はそれなりについた感はあったが、体重はなかなか増えなかった。その体質は今も続いており、今は重宝しているが、もっと食えば良かったのかもしれない。知識に関しては、通勤時間を利用してたくさんの本を読んできたが、その成果は今しっかり出ていると実感している。それもまた良しであると思う。無理に入れたもの以上を出そうとせず、入れるものを増やし続けるのも大事である。

 出張の夜、1人ビジネスホテルの部屋にこもってつらつらとそんなことを考えてしまった。まだまだこれで打ち止めではなく、飽くことなく知識を入れ続けたいと思うのである・・・



【本日の読書】

 全体主義の起原2 新版――帝国主義 全体主義の起原 新版 - ハンナ・アーレント, 大島通義, 大島かおり  センスの哲学 (文春e-book) - 千葉 雅也  失われた時を求めて(4)――花咲く乙女たちのかげにII (岩波文庫) - プルースト, 吉川 一義





2025年12月22日月曜日

大人の事情なのか

スルガ銀行の不正融資問題 121億円の解決金支払いへ 4年の調停で迎えた「大きな節目」の裏で被害者が語る本音とは

スルガ銀行は福岡市に住む男性など全国各地のマンションのオーナー、およそ400人が所有する604物件のうち194物件に対し、解決金として合わせて121億円を支払うと発表しました。調停による一定の解決でスルガ銀行の不正融資問題は新たな局面を迎えていますが、窮地に追い込まれてきたオーナーたちは、「すぐには信用できない」などと本音を打ち明けていました。

Yahoo!ニュース 12/16(火) 20:04配信

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 この問題は、発生当初から興味を持っていた。元銀行員であり、前職は不動産業者であり、両方の立場を経験してきた身としては当然だと思うが、なんだか世の中おかしな事が当然のことのように報じられていて、違和感だらけである。そもそもスルガ銀行がなぜ世間の悪者になるのか、これは筋の通らない話である。一種の詐欺であるが、騙したのは不動産販売会社であり、スルガ銀行ではない。なのにすっかりスルガ銀行だけが悪者という扱いである。販売会社は倒産して、甘い汁を吸った人たちはトンズラしてしまったのだろうから、逃げられないスルガ銀行が割を食っているのだろう。

 もちろん、「不正融資」をしたスルガ銀行に全く責任がないわけではない。不正融資によって回収不能となった貸付金は損金となるが、その損失や一連の報道による株価の下落は株主に直結しており、株主に対する責任は重い。また、業績悪化などによる給与カットなどがあれば、社員に対する責任もあるだろう。しかし、今回の被害者に対する責任などないはずである。なぜなら、「貸してくれ」という申し出に対し、貸したことにどうして責任があるのか。証拠を改ざんして不正に銀行内の審査を通したとしても、それは銀行内の問題であり、貸付先に対するものではない。

 最近ではお年寄りが窓口で大金を下ろそうとすると銀行員がストップするようにしている。「騙されていませんか?」と確認しているのである。それを鬱陶しいと「自分の金を下ろすのは自由だろう」と逆ギレするお年寄りもいるらしいが、黙って払い出しに応じた場合、「なぜ止めなかった」と銀行を責めるのはお門違いだが、それと同じようなものである。騙したのは不動産会社で、騙されたのは投資家を気取った被害者である。もしも、しっかりと審査機能が働いていたら、騙された人たちは他の銀行に当たっていただろう。ひょっとしたらなんで「融資できないんだ」と文句を言っていたかもしれない。

 ニュースを読む限り、スルガ銀行が非難される筋合いはないと思うが、ニュースに出てこない事情があるのだろうか(あるとしたらそれを報じないのはマスコミの怠慢である)。ただ、騙した不動産会社は倒産してトンズラだろうから、被害者の救済を図るとしたらスルガ銀行しかないというところなのかもしれない。そうした「大人の事情」があるからこそ、「調停」なのだろう。もしも、スルガ銀行に責任があるのであれば、刑事事件になるだろうし、あるいは民事事件にもなるのだろう。被害者も騙されていたとは言え、自分の意思で借り入れの申し込みをしているわけであるし、自分の意思で契約書に実印を押しているわけである。被害者の顔をスルガ銀行に向けるのは本来憚られるべきである。

 スルガ銀行としても、行員が不正融資に関わっていたり(キックバックを受け取っていたという話もある)していたため、「俺たちは関係ない」と言い切れないのだろう。銀行内でどういう処分が下されているかは知る由もないが、行員が不正融資に関わって結果的に被害者が出ているとなれば、他人の顔はできないだろう。不正と言っても、キックバックの受領は明らかに犯罪行為であるが、自分の成績のためだとしたら、成績至上主義に追い込んだ組織体質などという問題に行き着く話である。知らん顔をするのは世間的にお客様商売をしている銀行としてはまずいと判断して調停に応じているのだろう。

 被害者も本来、それを理解した上で少しでも救済を受けられるようにすべきであるが、「すぐには信用できない」などと上から目線でモノを言うのは筋違いに思えてならない。騙されたのは仕方ないと言えなくもないが、大金を投資するにあたってどれだけ調べたのか、胸を張れるオーナーはどのくらいいるのだろうか。提示された資料と話を丸ごとホイホイ信じたのではないかと思えてならない。本来、「投資は自己責任」である。それをどこまで理解して実践していたのか疑問に思う。しっかり調べていれば、おかしいという点はニュースで漏れ伝わってくるだけでも十分にある。

 もしかしたらそんなことは十分にわかっていて、それでも対外的なポーズとしてあえて上から目線で語っているのかもしれない。そこまでは深読みしすぎかもしれないが、表面的な出来事だけではなく、表に出てこない話をもっと知りたいと思わざるを得ない。不動産価格は高騰し続けており、商売のためにおいしい話を持ち掛ける業者は後を絶たないだろう。騙されないために必要なのは「健全な猜疑心」である。それがあれば今回の被害もなかったのではないかと思う。もちろん、騙す方と騙される方では、悪いのは騙す方である。でも、それが世の中からなくならない以上、騙されないことが大事である

 おいしい話には、「すぐには信用できない」と初めから思うようにしなければならないのである。まぁ、スルガ銀行には気の毒な気がするが、それでも今回の被害者が少しでも救済されればいいなと思うのである・・・


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【本日の読書】

 センスの哲学 (文春e-book) - 千葉 雅也  失われた時を求めて(4)――花咲く乙女たちのかげにII (岩波文庫) - プルースト, 吉川 一義





2025年12月18日木曜日

私の死生観(残り時間が見え始めたこと)

 健康診断で便潜血、肺に影、血液検査異常値と3つも指摘を受け、年齢的にも仕方ないと気楽に再検査に臨んだ。便潜血は年中行事で何度も内視鏡検査を受けているので、今のところ大丈夫。肺の影も一時的なものだったようで、慌てて禁煙していたが、どうやら大したことはなさそう。しかし、予想外に血液検査は深刻で、骨髄検査をしましょうと言われ、人生初の骨髄検査に臨む。「痛い」と聞いていたが、麻酔の効果もあってか痛みはそれほどでもなく、どちらかと言えば「気持ち悪い」という感じ。2度とやりたくないという意味では大して違いはないかもしれない。

 さて、その結果がさらに深刻。今すぐに何かをしなければならないという事ではないが、放っておけばやがては命に関わる深刻な病状。治療方法は骨髄移植しかないという事であった。今後の治療については、次回時間を取ってゆっくり話しましょうということになった。何の根拠もなくだが、自分は90歳までは生きるだろうと思っていたから、青天の霹靂的な思いである。人生90年として、登りの30年、頂点での30年、そして下りの30年。最後の下りなのでこういうことがあっても、本来おかしくはないのである。

 実は、血液検査で異常を指摘されたのは今回が2回目。最初は昨年の健康絵診断。前の自宅の近くの大学病院に紹介状を持って行った。担当していただいたのは若い先生で、2回ほど通ったが、「様子を見ましょう」と言われて半年経ち、いくのをやめてしまった。今回は、職場の近くの大学病院。ベテランの先生で、最初から「これって白血病になるパターンなんだよね」と言い、2回目の受診で骨髄検査しましょうということになった。別居しなければ同じ病院に通っていたと思うし、考えようによってはラッキーだったかもしれない。

 また、移植となると近親者が第一候補になる。私の場合、弟か子供かになるのだろう。ただ、もしも臓器であれば子供からもらうわけにはいかない。まだ長い人生が残っているのに、臓器は健康なままにしておかないと子供たちも将来何があるかわからない。そんなリスクは子供に負わせられない。その場合は、運命だと思って受け入れていただろう。ただ、これも運よく骨髄なのでどうだろうかと思うところである。臓器ほどの影響はないと思うが、ドナーのダメージをよく聞いて判断したいと思う。

 診断は間違いなさそうであるから、それを前提としてこれから考えないといけない。ジタバタするつもりはないが、もうろくしつつある親より先に死ぬわけにはいかないとは思う。親の死を願うようなことはしたくないが、自分より早く死んで欲しいと思うのは正直なところである。昔の武士は元服するとまず切腹の作法を教えられたと何かで聞いた気がする。私は武士の血を引いてはいないと思うが、いざとなったら冷静に受け入れられるようにはしておきたいと思う。

 次回の医師との話では、生存率のような話も出るのだろう。そうすると自分の「残り時間」を否応なく突きつけられることになる。こういう時代だからネットで検索したり、AIに質問したりすればそれなりの回答を得られるのだろうが、正直今はそういう心境にはない。なるべくそんな話などなかったかの如くに先送りしようと思う。普通の人は、自分の「残り時間」など意識しないだろう。私も何となく90歳と根拠なく考えていたが、実はもっと手前かもしれない。場合によっては70歳にすら達しないかもしれないわけで、少々ビビっているのは事実である。

 病院からの帰り道、杖をつきながらヨボヨボと歩くお年寄りを見かけた。今までであれば、自分もいずれあのような姿になるのかとか、自分はもう少しシャンとしているだろうとか思っていたが、実はヨボヨボになるまで生きられるという事は羨ましい事なのだと改めて思う。されど嘆いても始まらない。これからは一層、「残り時間」をどう引き延ばし、そしてそれをどう生きるべきかを意識したいと思う。セカンドステージを無事通過できたことに感謝しつつ、最後のステージこそ子供たちに背中を見せるためにも、より良く生きたいと思うのである・・・


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【今週の読書】
 一度読んだら絶対に忘れない物理の教科書 - 池末 翔太  失われた時を求めて(4)――花咲く乙女たちのかげにII (岩波文庫) - プルースト, 吉川 一義