今、通勤電車の中で読んでいる『語りえぬものを語る』という本の中で、「霊魂は存在するのか」という話があった。別に真面目に霊魂の存在を議論したものではなかったが、自分の中で引っ掛かったので改めて考えてみた。霊魂とは、ちょっと調べてみると、「肉体とは別に精神的実体として存在すると考えられるもの。肉体から離れたり、死後も存続することが可能と考えられ、体とは別にそれだけで一つの実体をもつとされる、非物質的な存在。人間が生きている間はその体内にあって、生命や精神の原動力となっている存在、個人の肉体や精神をつかさどる人格的・非物質的な存在、感覚による認識を超えた永遠の存在と考えられている」とある。これをそっくりそのまま信じるのは難しいだろう。
昔からいわゆる「幽霊」と言われるものも、この霊魂とイコールなのだと思う。死してなお存在する人(の名残?)であるが、人間は生物であり、心臓が止まればその生存は終わる。思考も生命活動の一環であり、脳への血流が止まり生命活動が終われば思考も消滅する。すべてがそこで終わって無に帰るわけであり、「死後も存続する」ことはないと考えるのが自然であろう。もしも死後も存在するのであれば、認知症になった人はどうなるのかと思う。当然、認知症のままの霊魂が残る事になる。幽霊=霊魂の存在を信じる人がいるとしたら、この点はどう思うのだろうかを聞いてみたいと興味深く思う。
とは言え、同じ生物として活動していてもその思考内容は人によってまったく違う。人間であれば心臓の働きも脳の働きもみな同じであろうが、脳の働きの結果としての思考については千差万別である。この点は実に不思議だと思う(当たり前だと思う人の方が多いかもしれないが)。「同じ生命活動でありながら思考が人によって違う」という事ゆえに、生物としての肉体以外に何かがあるとすれば、それが霊魂と名付けられるものなのかもしれないとは思う。ただし、それは肉体を離れて存在するものではなく、肉体とともにあって「生命や精神の原動力となっている存在」というものである。
同じDNAを持血、同じ親の下で育っても兄弟で性格が違うというのも当たり前にある。同じ学校に通い、同じ担任に教わってもそれぞれ当たり前に違う。自分中心の考え方をする者もいれば、周りの人に配慮できる人もいる。同じ映画を観ても、同じ本を読んでもそこから受ける影響はみな違う。人から面白いと言われて勧められた映画を観てさほど面白いとは思わなかったという経験はザラだし、本もまた然り。逆に自分がめちゃくちゃ感激した映画をせっかく勧めたのに観もしなかったという事も同様。なぜ同じように感じないのだろうか。同じものに触れてもそこから何かを感じる感性というようなものもまた人によって違う。
そうした感性は、思考の違いも同様、おそらく細胞レベルで研究してもわからないだろう。「病は気から」という言葉がある通り、人間の精神状態は肉体にも影響を及ぼす。そうなると、やはり「生命や精神の原動力となっている存在」というものがあると言ってもおかしくはない。ただ、それを「霊魂」と称するのには抵抗感がある。それは「霊」という言葉に引っ張られているのかもしれない。「霊」はどうしても「幽霊」に通じてしまい、「ありもしないもの」というイメージがしてしまう。基本的に「霊魂」が存在するとしてもそれは生きているものであろう。死んで生命活動が終われば霊魂も消滅する。
一方で生きている者にはやはり目に見えない「生命や精神の原動力となっている存在」というものがあるように思う。原子レベルのものは目に見る事はできないが存在する。それと同様、今は十分に解明できていないだけで、そういうものがあるのかもしれない。それはそれとして、その人を形作る思考の元になっている何かがあって、それは血管を流れる血液なのかニューロンを伝わる電気信号なのか、何らかの活動によって生み出されているものであろう。それを「霊魂」と名付けるのであれば霊魂は存在する。ただ、個人的には「霊魂」というより「魂」と言った方がしっくりくる。
こういう「魂」は大事だと思う。「魂を込めて」作ったものには何か普通のものとは異なる霊力のようなものを感じたりする。野球に例えるなら、魂を込めて作ったバットと普通に作ったバットのどちらかを選べと言われたら、たいがい魂を込めて作ったバットを選ぶだろう。たとえ材質はまったく同じだったとしても、そこに目に見えない力を感じて期待して選ぶだろう。その場合、その人は作り手の「魂」の存在を信じているという事になる。目に見えているものがすべてではない。特に人間の精神のようなものは一見、存在を軽視されそうであるが、「魂」は確実に存在すると信じられる。
ラグビーでは「魂のこもったタックル」と言えば、気迫あるプレーで仲間の気持ちを鼓舞するものである。そういうタックルをする者は何より仲間の信頼を得る。魂が震える芸術作品というものもある(同じ作品を見ても魂が震えない者も当然いる)。現に信じる信じないは別として、我々は魂を前提として考えているのは事実である。「霊魂」という言葉に引きずられることなく、「魂」と考えればその存在は十分に考えられる。魂のこもったタックルはしたいし、ここぞという時には魂のこもった行動を取りたいと思う。
「霊魂」は存在しないが「魂」は存在する。そんな風に思うのである・・・
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Stefan KellerによるPixabayからの画像 |
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