いつ頃からか、人に何かを「相談」するという事がなくなってしまった。と言っても専門的な話についてはいろいろと専門家に相談している。裁判をやった時は当然ながら知人の弁護士に相談しながら訴訟をこなし、医師にもいろいろと相談するし、わからないことは素直に教えてもらうようにしている。「相談」というのは「お悩み系相談」である。「どうしたらいい?」と悩み、誰かに相談するという「相談」である。この手の話については、もちろん悩みがないという事ではない。「あるけど相談に至らない」という表現の方が正しいかもしれない。
以前、驚いたことに転職相談を受けたことがある。大きな病院で働く看護師で、先生の独立に伴い誘われたがどうしようというものであった。なんで私に相談してきたのかいまだに理由はわからない。ただ、その時は「その先生と一緒に働きたいかどうか」で決めたらいいと回答した。看護師ならいくらでもつぶしはきくし、なぜためらうのかよくわからなかった。そもそも迷うということは、メリットとデメリットが拮抗しているということ。つまりメリットもあればデメリットもある。だから悩む。なら割り切るしかない。
誘われたということはその先生とは良い関係(男女関係という意味ではない)にあるという事、迷うという事は「行きたい」という気持ちと「行って大丈夫か」という気持ちが相対峙しているということ。なら「行ってダメだった場合」を想像してそれに耐えきれない(めちゃくちゃ後悔する)というならやめればいいし、「あの先生と一緒にやってダメなら仕方がない」と諦められるならやればいいとそんなことを答えた。今聞かれても、誰に聞かれても同じ回答をするだろう。
それはともかく、私の場合、どうするべきかと悩んだ時、自分の中で客観的な人生相談が始まる。「今こういう状態で、~」と私の中で、誰かに相談するかのように私が説明を始める。するとそれを聞いていたもう一人の私がそれに対して回答を与え始める。かくして私の中で悩みに対する回答が出てきてしまう。そしてその答えに満足するので、あらためて誰かに同じ相談をする必要を感じなくなってしまうのである。自問自答であるが、ちょっと違う。正確に言えば、自分Aが問い、自分Bが答えるのであり、A≠Bなのである。
そう言えば昔、『神との対話』という本を読んだ。心に浮かんだ感情を紙に書いていくと、手が勝手に動いて神が語りだしたという内容である。それが神なのかどうかはわからないが、妙に納得した。私が頭の中でやっているのと同じであると思う。紙に書くか頭の中で自分Bに向けて説明するかの違いだけである。著者が神と呼んでいるものを私は自分Bと言っているだけのように思う。どちらにしても一度自分を客観化することにより、自分が悩みと切り離され、第三者の立場で答えが見えてくるということなのだろうと思う。
『神との対話』を読んだ時、素直に自分にも誰にでもできると思った。答えを書き出すという作業の中で、同時にそれを読みながら答える自分が(神でもいいと思うが)出てくる。もしも将来、自分が死に瀕した時、子供には「何か迷うことが出てきたら心の中でお父さんに問いかけなさい、その場で答えてあげるから」と伝えようと思った。心に浮かんだ言葉が私の言葉だと。私が今自分でやっていることを理解しにくければ、心の中で亡き父に問えば答えてくれるということで代用できるだろうと思う。
これが神なのかどうかはわからないが、単純に自分を客観化することによって、他人から見た自分の姿が見えることが答えなのではないかと思う。他人のことはよくわかるのに自分のことはわからないというのはよくあること、また「自分のことは棚に上げて」というのも同じ理屈ではないかと思う。母は事あるごとに、父に「いらないものを捨てて整理しろ」と言っている。父は「いらないものはない」と答えている。私が母に同じことを言うと、母も「いらないものはない」と答える。母の方がはるかに持っているものは多いのに、である。笑い話である。
「人のふり見て我がふり直せ」という諺がある。これも理屈は似たようなものだろう。他人というのはよく見えるもの。そして自分というのは見えないもの。顔はどうしても鏡がなければ見えないが、悩みは客観視することができる。それによって他人なら見えるのに自分のは見えない解決策が見えたりする。自分はそれができているのだろう。もっとも、いくら自分を客観視できたところで、肝心の問題解決力がなければそもそも相談しても答えられないことは当然である。問題解決力はそれゆえに鍛えておきたいところである。これからも自分の中でお悩み解決をやっていけるようにしたいと思うのである・・・
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| sobimaによるPixabayからの画像 |
【本日の読書】

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