情に棹させば流される。
意地を通せば窮屈だ。
とかくに人の世は住みにくい。
(草枕)
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およそこの世は人間関係がほとんどすべて。仕事でも家庭でもその他においても。人間社会の中で生きていくには仕方のない事であるが、この人間関係というものが世の幸不幸の大部分を占めているような気がする。
そしてその人間関係の鍵となるのが、「言葉によるコミュニケーション」=「言葉のキャッチボール」であると思う。「モノは言いよう」と言うが、本当にこの言葉の使い方一つで、同じ事を言っていてもまったく結果は違ってくる。「そういう言い方はないだろう」と、文句を言いたくなる事は日常茶飯事。言い方一つで気分を害する例は枚挙に暇がない。
20代の頃は、棘のある言葉に接すると、真っ向から歯向かっていた。気分が悪い時は、相手を不快にさせるとわかっていて、そういう言葉を使った事もあったと思う。30代で多少考え方が変わった。そうあちこちで対立ばかりしていても疲れるだけだと悟ったのだ。
また、気持ちの良い対応をされると嬉しくなるのは誰でも同じだろうが、自分もまたそうであった。それに輪をかけたのは、片思いの影響もあった。どうしたら、意中の女性に愛されるのだろうかと考えたら、他人と勇ましく対立ばかりしている人間が対象になるとは思えなかったのだ。
40代になって、『自分が源泉―ビジネスリーダーの生き方が変わる』という考え方に触れた。「目の前のすべての結果は自分が作り出していると考える」考え方は、自分にしっくりとくるものだった。だがそれでも、何気ない相手の一言や対応に腹の立つ事は絶えない。仕事でも家庭でも極力感情を抑えようとはしているものの、なかなか難しいところがある。
そんな時に「距離を置く」というのは一つの解決策だ。嫌な相手とは接触の機会を断ってしまえば、それ以上ストレスは感じないで済む。しかし、仕事でも、そして家庭では特に逃げる事はできない。であれば、正面から受け止めるしかない。最近ようやくこの受け止め方がわかって来た。
相手は相手なりに自分が正しいと思っている。そしてしばし、そこに悪意はない(と考える)。時に鈍感になり、言葉の棘の痛みをやり過ごす。自分で転んだ時は、痛くても誰にも当たれないように。相手が悪意で言って来ても、『自分が源泉』の立場に立てば、それを言わせたのは自分だとなる。
考えてみれば、「キャッチボール」は「キャッチ」ボールであって、「スロー」ボールではない。投げるのではなく、捕るのがキャッチボールなのである。相手の胸に向けて、(取りやすい)ボールを投げるのがキャッチボールの基本とされているが、実は相手の投げたボールを、例え取りにくくても頑張って捕るのがキャッチボールの本来の意味なのかもしれない。
そう考えれば、言葉のキャッチボールも受け止め方が大事だと言えるだろう。自分にはまだまだ練習が足りないと改めて思う。人生もそろそろ半分を過ぎただろうし、好きな事をして楽しく毎日を暮らしたいと思うが、それには上手な言葉のキャッチボールが必要だと思う。
元旦に「今年一年は家では腹を立てない」と決めた。もうそろそろ期限を迎えるが、今のところはうまくいっている。相手が気分がよければ、それは自分にも伝播する。上手なキャッチボールは何よりも自分のより良い人生に直接結び付く。50になるまでまだ少し時間がある。
それまでにはこの境地をもう少し極めたいと思うのである・・・
【本日の読書】
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