2023年7月30日日曜日

論語雑感 述而篇第七(その15)

読んで感じ 論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感。

【原文】

子曰、「飯蔬食、飮水、曲肱而枕之、樂亦在其中矣。不義而富且貴、於我如浮云。」

【読み下し】

いはく、あらじきくらひ、みづみ、うでこれまくらす、たのしみまたうちなりただしからたふときは、われおいぐもごとし。

【訳】

先師がいわれた。

「玄米飯を冷水でかきこみ、肱を枕にして寝るような貧しい境涯でも、その中に楽みはあるものだ。不義によって得た富や位は、私にとっては浮雲のようなものだ。」

『論語』全文・現代語訳

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 人にはいろいろな価値観がある。日本は儒教などの影響もあって、「商売は卑しいもの」「お金は汚いもの」という感覚がそれほどひどくはないものの、なんとなく我々の感覚の根底に残っている。もちろん、それらはいずれも「利用の仕方次第」であるが、それでも「私はお金が一番」などと言えば、あまり人には尊敬されないであろう。そう言えば、私の前職での社長は、「通帳のゼロが増えていくのが何より楽しみ」と公言していた。今にして思えばやはりそういう人物であったが、そういう人は尊敬という言葉とは縁がないだろうと思う。


 「不義によって得た富や位は、私にとっては浮雲のようなものだ。」という孔子の言葉は、本心で語っているなら当然人から尊敬を集めるだろう。前述の社長など、自分の力では黒字にできなかった会社を私以下の役職員の奮闘によって累積赤字を一掃できたのにも関わらず、史上最高益を達成した時に会社を売却し、売却資金はすべて独り占めし、社員は全員解雇して引退した。きっと今頃は億の金を手にし、悠々自適の引退ライフを送っているのだろう。まさに「不義によって得た富」であるが、本人はゼロを数えて満足しているのだろう。


 「そんなにしてまで金が欲しいか」というのは、我々庶民の僻みであり、本人にしてみれば「自分が持っていた権利を売って何が悪い」というのだろう。たぶん、「不義」などという感覚はないはずである。経営能力がなかったのは事実だが、そんな意識はかけらもなかっただろう。「部下に任せてやらせていた」という感覚であればそれが「経営能力」だと思っていたのだろう。人の感覚などは人それぞれであり、自分の感覚で正義を語ってもそれは所詮、独りよがりである。


 そう言えば以前、「清貧」なんて言葉が流行った。歌の文句でも「ボロは着てても心は錦」なんてのもあったし、「人生において大事なのは金ではない」というのは、誰もが否定しない事だろうと思う。だが、では「玄米飯を冷水でかきこみ、肱を枕にして寝るような貧しい境涯を送ってください」と言ったら、みんなどう思うだろうか。少なくとも私はごめん被りたいと思う。もちろん、例えば学生時代のような若い頃であればいいだろうが、来年は還暦などという年齢ともなればそうは言ってられない。


 「清貧」などは、はっきり言って今の私にしてみれば綺麗事にしか映らない。もしも目の前に「清貧」を説く者がいたら、「あなたは自分の子供に大学進学を諦めろと言えますか」と問うだろう。もちろん、価値観は人それぞれ。子供の進学よりも「玄米飯を冷水でかきこみ、肱を枕にして寝るような貧しい境涯に楽みがある」という価値観を否定するつもりはない。ただ、家族を持って責任が生じた身としては、なかなか真似のできない尊敬すべき価値観だと言える。


 もっとも、そういう責任をすべて果たした後は、そういう心境になることもあるかもしれない。もともと私はそれほど物欲があるわけではない。例えば車にしても高級車にはあまり興味をそそられない。むしろ今、「金に糸目をつけず好きな車を買っていい」と言われたら、迷わず買うのはトヨタのスープラ70である。若かりし頃、唯一欲しいと思った車だが、憧れのまま終わってしまったのである。フェラーリやBMW、レクサスなどこれまで欲しいなどと思った事はかけらもない。


 お金を否定するつもりはまるでない。「世の中には金で買うことができないものがある」という言葉は言い古されているが、私の好きな言葉は、「金で幸福を買うことはできないが、不幸を追い払う事はできる」というもの。特段、贅沢をしたいとは思わないが、家族を含めて不幸を追い払うことができるのは確かであり、そういう意味で人並み以上の金銭欲はある。どんな境遇でもその中に楽しみを見出す心掛けは必要であるが、私は清貧ではなく、お金のある境遇に楽しみを見出したいと思う。


 この孔子の言葉に強く賛同したいと思うのは、「不義によって得た富や位」に意味はないという部分だろう。金は欲しいが、人に不義を働いてまでとは思わない。その最低ラインは守りつつ、最低でも住宅ローンを払い終える70歳までは、今の給料をしっかり維持できるように働きたいと思うのである・・・

 

スープラ70
【本日の読書】
  






2023年7月27日木曜日

企業経営に大事なもの

 ♪車を売るならビッグモーター♪で有名なビッグモーターが揺れている。なんでも修理で預かった車に故意に傷をつけて保険を割り増し請求していたとか。常識で考えればとんでもない事であるが、経緯を見れば何年も遡ることができるみたいであり、常態化していたようである。なぜそんな悪質な行為が蔓延していたのかと言えば、それは経営からの「売上に対する圧力」だそうである。どこかで聞いたような話である。そしてトップはそれを「知らなかった」というのもまた然り。東芝で大問題になったのに、他山の石にはならなかったようである。

 企業が売上を重視するのは当然である。企業は成長し続けなければならない。と言うと反発心を持つ人もいるかもしれない。しかし、単純な話だが、そういう反発心を持つ人に対しては、「毎年給料が上がってほしいか?」と尋ねてみればよい。売上が上がらなければ、当然ながら給料だって上がらない。我が社でも人事面談でそう質問すれば100%の人が「上がってほしい」と答えるし、したがって企業が成長しなければならない必要性も理解してくれる。

 しかし、難しいのは簡単に成長できるものではないという事である。市場環境もあるし、競合もいる。企業はどこだって支払は低く抑えようとするし、それは自社の取引先も然り。そこを何とか上げていかないといけないのである。東芝もビッグモーターも法令やモラルに反してまで儲けろとトップが指示したわけではないのだろう(私は基本的に性善説の立場に立って考える)。ただ、儲けろという指示だけで、「どうやって」がなかったのだろうと想像できる。

 それにどうやらノルマを達成できないと降格人事もあったようで、降格となれば給料も下がる。家族持ちには大変だろう。「達成不可能なノルマを与え、できなければ降格」となれば、私も良心が咎めつつも不正に手を染めるかもしれない。現場で不正を働いた人を責めるのは酷なように思う。責めるべきは、そういう環境を作り出した幹部という事になる。「儲けろとは言ったが、不正をしてまでとは言っていない」というのは、負け犬より空しい遠吠えである。

 責められるべきは社長であり、トップのただ儲けろというだけの無能な指示をなんの疑問も持たずに下に下ろした取締役であり、その下の部長なりの現場までの責任者だろう。経営者であれば、東芝事件が起こった時に、「我が社は大丈夫か」という危機感を持たなければならない。取締役も然り。そして現場に近い管理職ほど、「無理なノルマ」だという事はわかるだろうから、そういう可能性も考えないといけない。おそらく、そういう正論を吐ける空気もなかったのだろう。

 最近は「心理的安全性の高い組織づくり」などということがもてはやされている。「こんなノルマ無理です」と言える環境も大事だし、上に立つ人間はそれに対し、「何としてでもやれ!」という根性論をぶつのではなく、「こうすればできるのではないか」という方法論で対処すべきであり、先頭に立って実行するリーダーシップが大事だし、それができないなら責任は上へ上へと行くべきである。つまり、ノルマ未達で降格させたなら、その直属の上司も降格すべきであり、その上の取締役、社長まで降格すべきなのである。そうでなければ人心は廃れ、組織は荒廃するだろう。

 上場企業であれば、成長を求められるのは当然であり、そのレベルも高いものが要求されるだろう。どういうレベルを目指すかは難しいが、少なくとも高過ぎもせず低過ぎもしない目標というのも難しいのは事実。簡単に手が届く目標はもちろん、「どう考えても無理」という目標を立ててもモチベーションは上がらない。ただ、「考えに考え、さらに考えてがむしゃらに実行したら目標達成できた」という事もあるから、一概に高過ぎる目標はダメとも言い難い。そこを見極めるのは難しい。

 1つ言えることは、「売上至上主義」ではダメだということ。それは言い換えれば「何をやっても売り上げを上げたら勝者」ということであり、何でもやるだろう。それがたとえ不正であっても。成果主義なども同様で、売上を求める一方で、モラルも維持するような風土も同時に育まなければならない。考えてみれば、「売上を上げろ」と言っているだけであれば、誰でも経営者になれる。自分が「誰でもなれる経営者」ではないと思いたいのであれば、ただ「売上を上げろ」だけではなく、その道筋も示さないといけない。

 我が社も年率15%アップの中期経営計画を立てている。そしてその筋道もきちんと示している。やる事は明確である。できなければ取締役の責任で、できなければボーナスも出ない(社員は出る)。当たり前だと思っていたが、どうやらビッグモーターよりは立派な経営陣だと胸を張れるのかもしれない。胸は張れてもボーナスが出ないのでは洒落にならない。妻にも白い目で見られてしまう。何とか頑張って業績目標を達成したいと思うのである・・・


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【本日の読書】

 




2023年7月23日日曜日

争いごとを避ける

 ウクライナでの戦争は未だ収束の兆しを見せない。どちらにも負けられない事情があり、本来なら単独では勝ち目がないウクライナに欧米諸国が支援をしているためにウクライナにも抵抗力が生じて善戦している。戦争が長引けばそれだけ戦死傷者が増えるわけであり、欧米の支援は戦死傷者を増加させる原因となっているとも言える。それが良いのか悪いのか、判断は難しい。そもそも戦争などせずに話し合いで決着をつければ良いのであるが、まだまだ人類はそこまで高度に発達していない。

 個人間でも、時折朝の通勤電車、あるいはホームで揉めている人を見かける。たぶん、きっかけは当たったの当たらないのというくだらない事情だろう。ちょっと譲り合えば何事もなく済むことなのに、「なんだ!」と声を荒げて噛み付く。言われた方も頭を下げてやり過ごせば良いのだろうが、そうではないから勢い言い合いになる。流れによっては殴り合いということになる。そうなると、駅員さんや周りの人が間に入って収まるまで続く。当事者同士だけだと解決は難しい。

 学校でも会社の中でも、およそ人間関係のあるところは揉め事がつきもの。どこの誰かもわからない駅のホームと違って、学校や会社ではお互い身元は割れているので、多少はブレーキはかかるのだろうが、それでも小さな軋轢はある。ほんの些細な物の言い方だったり、良かれと思ってした事が真逆の効果を生むということもある。会社の中では上下関係があるので、弱い立場の者は自然と耐えることになる。学校では上下関係ではなく力関係だろうか。それがストレスになったり不登校になったりするのだろう。

 その昔の銀行の職場で、誰からも距離を置かれているお局さんがいた。仕事はできるが、融通が効かない。口調も冷たいし、頼み事をするなら他の女性社員に頼むという流れが出来上がっていたが、時折、そんな頼みを受けた女性社員がお局さんに怒られていたりするのも目にした。そんな煙たいお局さんだったが、私は平気で話しかけていた。何よりお互い仕事なので頼まざるを得ないものは頼むしかない。そしてお局さんもルールに沿った依頼ならやってくれる。意地悪していたわけではなく、決められた通りのルールに従っていただけなのである。

 要は、「そのルールをちょっとまけて」という事をしてくれないからみんなから不評だったわけで、その「ちょっと」が重なると大変なので、ベテランのお局さんは平気で断るが、若手の女性社員は断れない。そんな状況だったのである。なのでこちらもきちんとルールに従って依頼すればやってくれるのである。どちらがどうかは難しい。少しぐらい融通をきかすべきなのか、甘えずに仕事なのできちんとやるべきなのか。ただ言えることは、きちんとルール通りにやればお互い不快な思いをしなくて済むということであった。

 にも関わらず、「このくらいやれ」と力関係で従わせようとすれば当然軋轢が生じる。そんなことをしようものなら、お局さんは上司に言いつけるだろうし、事務的にはお局さんが正しいから上司も叱るわけにはいかない。「まぁ、まぁ」と取りなすのがせいぜいということになる。さすがに殴り合いになるような事はないが、どこかで調整力学が働き、どこかで誰かが我慢して表面上を取りなして事なきを得る。会社内ではあくまでも平和的解決が優先されるから、殴り合いになるのはほとんどない。

 国家間もそんな取りなしができればいいが、そうでなければ戦争になる。もっとも、さすがに近年は過去の戦争の反省から、すぐに戦争手段に訴えるという事は無くなってきている。ただ、ゼロではない。争いごとを力で解決する事は現代ではなかなか難しい。サラリーマンの喧嘩も殴り勝てばいいかと言うとそうではなく、警察沙汰になれば当然タダでは済まない。社会的なペナルティもあるし、下手をすれば傷害罪という前科がつくかもしれない。勝ってもその場はスッキリするかもしれないが、後で後悔することになるかもしれない。

 ウクライナの戦争も、どちらかが勝つというより、そのうち厭戦ムードが出て、どこかの国の仲裁で収まるのかもしれない。すぐにでもと思うが、それはある程度時間をかけなければそういう状況にならなかったりするものかもしれない。力による解決しかできないというのは情けない事なのだが、現実の世界ではそれがまだ罷り通っている。駅のホームでの喧嘩程度ならまだ良いのかもしれないが、国家間となると厄介である。我が国は平和憲法があると言っても、それはせいぜいアメリカの戦争に巻き込まれないための免罪符程度の効果しかない。

 人間の理性によってのみ争い事を解決できる時代がいつか訪れるのだろうか。いつかはなどと言っていても仕方がない。世界を変えるには、まず自分から。通勤電車ではなるべく譲り、会社では感情ではなく理性で話をし、家庭では忍の一字で、老いた両親と接する時は春のような心で対応し、争いごとを避け、穏やかな生活を送るように、まずは心がけようと思うのである・・・

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【本日の読書】

 




2023年7月20日木曜日

成果報酬

 仕事で採用を担当しているが(本業は財務なのだが)、求人の手法には苦労している。何せ売り手市場なのでなかなか採用に結びつかない。そんな我々の足元を見透かしてか、よく採用関係の業者から電話がかかってくる。ビズリーチ、デューダ、インディード等の大手からそれらを扱う中小まで様々である。しかし、基本的に我が社では「媒体」は利用していない。それには理由があって、過去にお金を払って利用したのに効果がなかったという経験があるからである。今利用しているのは、成果報酬の人材紹介である。

 媒体の場合、基本的にお金を払って所定の求人サイトを利用する。採用できてもできなくてもお金は払う。一方、人材紹介会社は、基本的に成果報酬である。すなわち、紹介して「採用されたら」年収に応じて手数料を払うというものである。こちらは基本的に採用できなければ費用は発生しない。その代わり、発生したとするとその費用は「媒体」より割高なのであるが、確実性だけは間違いがない。割安である事よりも確実性を重視しているのである。

 給料でも一定の高額になってくると成果報酬というところがある。給料は基本、企業の売上から支払われる。売上が充分あげられれば高額の給料も支払えるが、そうでなければ下手をすると赤字になる。したがって、高い給料を払うならその分、売上も上げてもらわないと困るというのは当然の理。外資系などでは多く採用されているようだが、特に金融機関などはビックリするような高給だったりする。その分、ハードなのだろうが、本人がいいのであればやりがいもあるのだろう。

 M&Aなども基本的に成果報酬だ。売りたいという希望の企業の情報を買いたいという企業に紹介する。うまくマッチングして成約すれば手数料が発生する。それも基本的に1千万円単位の高額の手数料である。さらに細かく言えば、基本契約締結時に20%、決済時に残金と分けるパターンも多い。これは途中で破談になるのを防ぐとともに、破談になったとしてもそこまでの手間賃はもらおうというものだろう。高くても、その内容を考えれば仕方がないと言える。

 給料が基本的に成果報酬になったらどうなるだろうか。ガムシャラに頑張る人は頑張るだろうし、成果が上げられない人は(薄給に)耐えきれなくなって辞めていくのかもしれない。かつてある外資系企業の人と一緒に働いたことがあるが、みんな2月の契約更改の時はドキドキしていた。その場で「契約しない」と言われれば、即時パソコンも使えなくなり、荷物をまとめて出ていかないといけないそうである。そのためかみんなよく働いていたし、よく勉強していたようである。そういうのも良いんじゃないかと漠然と思ったが、外資に転職を考えるまでには至らなかった(英語もそこまで出来なかったし・・・)。

 給料が定額だと安心して働けるということはある。「今日は疲れたからもういいか」というのも自由である。成果報酬よりも金額的には少なくなるが、何より安心感というのはある。ボーナスも言ってみれば成果報酬的なところがある。業績連動にしている企業などはそうなるだろう。我が社も業績連動で総額が決まり、その配分は個人の評価によるので、成果報酬と言えなくもない。まぁ、まったく定額だと段々と成果も劣ってくるのが人間というものだろうからこのくらいは良いのかもしれない。

 先の求人媒体も、基本的に最初に手数料を受け取って、「あとは頑張ってね」という感じだ。採用できてもできなくても手数料は戻ってこない。営業のセールストークも軽快であるが、「過去の成果」は紹介してくれるが、「未来の成果」は約束してくれない。こちらが求めるのは「成果」であるから、多少費用が高くとも、確実なる「成果」を求める立場としては求人媒体を利用する気にはなれない。もっとも、自社にもっと求人できる魅力があれば関係ないのであるから、なまじっか求人媒体だけが悪いとも言い切れない。

 不思議な事に、自分が払う立場だと成果報酬が良いと思うが、もらう立場だと嫌だなと思う。それは「成果が挙げられなかった場合」を考えてしまうからで、払う方ももらう方も考えてみれば、この「成果が挙げられなかった場合」を考えるから良い悪いとなるわけである。成果が確実に挙げられるとわかれば、給料だって成果報酬の方が良いし、求人は媒体の方が良いとなるのである。突き詰めれば、成果を挙げられるかというリスクに行き着くわけである。

 求人はともかく、今から成果報酬で働くかと問われたらどうだろうか。あまりお金のためにガムシャラに働きたくないというのは、還暦手前の年齢のせいと言えば言い訳になるのだろうか。それでもほどほどにもらいながら、成果は成果で全力で追求して行くというのが個人的には心地良い。そういうスタンスでしっかり働きたいと思うのである・・・

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【本日の読書】

 




2023年7月17日月曜日

論語雑感 述而篇第七(その14)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感。

【原文】

冉有曰、「夫子爲衞君乎。」子貢曰、「諾、吾將問之」。入曰、「伯夷叔齊、何人也。」曰、「古之賢人也。」曰、「怨乎。」曰、「求仁而得仁、又何怨。」出曰、「夫子不爲也。」

【読み下し】

冉有ぜんいういはく、夫子ふうし衞君ゑいくんたすけむ子貢しこういはく、だくわれまさこれはむと。りていはく、伯夷はくい叔齊しゆくせい何人なんびといはく、いにしへこれ賢人けんじんなるものぞ。いはく、うらみたるいはく、よきひともとよきひとたり、またなんうらみむと。でていはく、夫子ふうしたす

【訳】

冉有が言った。「先生は衛国の君主を補佐するつもりがあるか?」

子貢が言った。「ああ、私が行って聞いてみよう。」

子貢は進み出て、言った。「伯夷叔斉とはどんな人ですか。」

答えた。「古代の賢者だな。」

問うた。「彼らは後悔しましたか?」

答えた。「仁を求めて仁を得た。後悔するか?」

子貢は出てきて言った。「先生は決して行かない。」

『論語』全文・現代語訳

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 これも現代語の訳になるとよく意味がわからない。まぁ仕方がないだろう。孔子はよほどの賢者であったのだろう。諸国の君主の補佐をすることについては選べる立場にあった様である。私も今の会社では取締役として社長の補佐をする立場である。そして前職でも同様であった。選り取り見取りの中から選んだというわけではなく、縁があって紹介されたというだけである。「受けるか、断るか」の選択肢しかなかったので、孔子とは大違いである。


 前職では一択、今職では二択の選択肢であったが、どれを選ぼうと私の基本的なスタンスとしては「相手を選ばない」ということであろうか。社長が優秀であろうがなかろうが、それに合わせて全力を尽くすだけであり、「優秀な社長だから選ぶ」というものではない。そうでない社長であっても、それならそれに合わせて自分の力を尽くすだけである。逆に、あまり優秀でない社長であれば、自分の力がそれだけ発揮できるという考え方もある。


 実際、前職はまさにそのパターンであった。当時、会社は赤字を重ねており、債務超過一歩手前、メインバンクからは新規の融資を見合わせられている状態であった。社長自身も迷走しており、早急に手を打たないとすぐに再就職の活動を始めなければならないほどであった。そこで中期経営計画を策定し、会社の在り方を決め、何で稼ぐかを明確にし、社名まで変更して再スタートを切った。幸い、社長がすべて任せてくれたので思う通りできたということもある。


 その結果、信用金庫を中心に融資に応じてくれる金融機関がいくつか現れ、業績は少しずつ改善し、6年間で累積損失は一掃して業績は機動に乗った。そしてこれからという時に、突如社長は会社をM&Aで売却して我々は路頭に迷うことになった。人を見る目がないという意味ではその通り。まさか最後にそんな裏切りにあうとは思わなかったが、それでも赤字会社を自分が中心になって建て直したというのはいい経験になったし、自信にもなった。「恨み半分」といったところだろうか。


 現職でも同様で、「今度は裏切られることはなさそうだ」という感覚で選ばせていただいたが、二択だったので孔子のように余裕で選ぶというわけではなかった。それでもやれることはあるもので、自然と実力を評価していただいて役員にしていただいたので、役には立っているのだろう。孔子の様に自由に選べる立場であればいいが、そうでないのであれば、「置かれた場所で咲く」気構えが必要になるのではないかと思う。そしてそういう気構えと実力があれば、どこへ行ってもやっていけるだろう。


 現代においては、孔子のような「選べる」立場の人は少ないだろう。であれば「誰であっても」という事は必要な事であると思う。少なくとも自分はそうである。まぁ、年齢的にも現職をもって骨を埋めるところにしたいと思うのである・・・


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【今週の読書】

   


2023年7月12日水曜日

高校野球観戦

 

 猛暑の中、夏の甲子園大会の東京予選を観戦に行ってきた。スポーツ観戦と言えばラグビー以外はあり得ない私が、わざわざ高校野球の観戦に行ったのは息子が高校球児であるからに他ならない。母校が何年か前、春の甲子園大会に出場した時も、さすがにテレビ観戦はしたが、現地に行くという選択肢は端からなかった。そこには何となく高校時代から「高校野球」に対して持っていた「不公平感」が大いに影響している。「同じ高校スポーツなのになぜ野球だけが特別扱いされるのか」という不公平感である。


 それは今でも変わらない。地方予選の1回戦から新聞に掲載される、それも名前まで載る。メディアの高校野球特別視は何よりも甚だしい。まぁ、それは国民の関心度からすれば仕方ないのであるが、先週末の1回戦は駒沢球場、本日の2回戦は神宮球場という特別扱いもそうである。ラグビーの場合、1回戦などどこかの高校のグラウンドがせいぜいで、間違っても秩父宮など使わせてもらえない。「たかだか1回戦で」である。しかも一般席は「有料」である。私も大人1,000円を支払っての観戦である。


 そんな私だから、高校野球の生観戦は人生初であることにも気づく。神宮球場は当然であるが、駒沢球場もなかなか立派な球場である。こういうところで試合ができるというのは、幸せな事だなと思う。これまでは不公平感たらたらであったが、我が息子がこういう恵まれた環境で、「1回戦から」試合できるというのは良いことだなと今は思う。長年抱えてきた不公平感がようやく解消されたような気になる。そんな感慨を抱きながら、2試合ともバックネット裏に陣取る。


 試合前の練習は、両チームとも公平に持ち時間ピッタリを使って行われる。観客はまばら。ほとんどは両チームの関係者であると思うが、中には根っからのファンなのかと思われる人もいた。予選の1回戦、2回戦あたりだとまだレベル的には低いが、そんなレベルでも面白いと思うコアなファンなのだろう。地方予選の1回戦から観戦していると、本番の甲子園までの1ヶ月は楽しい期間なのだろうと思う。私もこの9月に開催されるラグビーのW杯を楽しみにしているからその感覚はよくわかる。


 レベルという話でいけば、やはりプロとは格が違う。ピッチャーの投げるボールも、打球も送球も当然ながら差がある。内野ゴロに打ち取ったと思って安堵したら、内野安打になってしまうというのが何回かあった。たぶん、甲子園クラスになればアウトになるのだろうが、まだまだそのあたりは大きな差なのだろう。ラグビーでも強豪校になれば体格から違う。わが母校も何年か前に全国レベルの高校と対戦してボロクソに負けたが、それを考えれば無理もない。


 それでも小学生の頃から見ていると、さすがに随分野球らしくなってきたなとこれも感慨深い。何せ初めて息子に野球をやらせた頃は、どうやって息子が振るバットにボールを当てようかと四苦八苦したものである。休みの日にキャッチボールをやろうと連れ出した時は、取った時に手応えのあるボールを投げるようになったのが嬉しかったものである。もう相手などしてくれないだろうが、あの時キャッチボールをやっておいて良かったなと心から思う。


 息子はチームのキャプテンである。弱小都立高校であるが、それでもキャプテンを任されるというのは、そこそこのものがあるのだろうと思う。ポジションはキャッチャー。相手チームの攻撃で、ランナーが出ると敵のベンチをじっと見ている。何をしているのかと聞いてみたら、「サインを見ている」と言う。「わかるのか」と聞くと、わかる時もあるらしい。何より、見ていること自体がプレッシャーにもなると言う。いつ間にか町内少年野球レベルの親父を超えている(当然ではある)。


 ガラガラの観客席で私の後ろの方に座っていたのはどうやら相手チームの関係者。私も両親を連れて行ったが、同じような祖父母世代もいたようである。両チームとも似たようなユニフォームで(ラグビーでは似たようなジャージの場合、どちらかがセカンドジャージを使用する)、間違えたお婆さんが我が息子チームの応援をしてしまって怒られていた。私の親も何度も孫の姿を見間違っていたからその微笑ましさはよくわかる。本日の試合は息子のチームがコールドで勝利した。嬉しかったが、どこの誰か知らないお婆さんの家族のことはちょっと気の毒であった。接戦での勝利でも良かったかも知れない。


 息子は勝利の余韻に浸る間もなく、塾へと向かう。部活も大事だが、高校3年は受験生でもある。まあ、親父も浪人したから現役合格にこだわることもないが、文武両道は小学生の頃から言い続けてきたから、しっかりこなしてほしいと思う。そしていよいよ今度の日曜日は3回戦。相手はシード校だから勝つのは難しいかも知れない。炎天下の観戦は大変であるが、息子の最後の晴れ姿であるし、しっかりと一挙手一投足を目に焼き付けてきたいと思うのである・・・



【本日の読書】

   




2023年7月9日日曜日

不倫報道に思う

 広末涼子の不倫が報じられ、まだまだ関連記事をあちこちで見かける。芸能人の不倫と言えば興味本位の報道に終始がちかと思うが、今回はラブレターの公開にいたって「やり過ぎではないか」という意見もあったりして、擁護論的な意見が出ているのはちょっと安堵する部分もある。芸能人の宿命と言えばそうなのかもしれないが、個人的には不倫報道には何の興味もないし、広く世間にさらされて、さらには損害賠償なんて話もあって誠に気の毒だなという風にしか思わない。


 そもそもなんで不倫なんか報道するのだろうかと考えてみると、それは「記事が読まれるから」に他ならない。読まれもしない記事なんか書いても商売にはならない。「読まれるから書く」のだろう。しかし、読む方からすれば、「書かれるから読む」的なところもある。実際、私もそうである。だが、それで「記事としての価値がある」と思われるとちょっと違う気がする。たとえば道を歩いていて、ある家の玄関のドアが開いていれば自然と中を見る。他人の家の中を覗きたいとは思わないが、ドアが開いていれば見る。しかし、それは果たして「興味」なのだろうか。


 「興味」もいろいろである。例えば高校時代、「誰と誰が付き合っている」などという話は興味深かった。「知りたいか」と問われれば「知りたい」と答えるだろう。それは確かに興味ではあるが、なんでも知らないことを知りたいと思うのは人間の本能とも言える。社内恋愛もその類といえるし、それが身近な知り合いとなればさらに興味は増す。「知りたい」という「興味」である。芸能人もそうなのかもしれない。もちろん、同じ高校でも会社でもまったく知らない人同士であれば興味もわかない。それと同じなのかもしれない。


 不倫報道ではたいてい叩かれる。芸能人であれば、番組の降板などにつながってその影響は大きいだろう。そもそもなんで降板させるのかという疑問はある。問題行動だとしても、それは本人の家族に対するものであって世間に対するものではない。犯罪として処罰されるようなものではないし、なんで他人がとやかく言うのか、それこそが問題であるように思う。倫理的に問題なのは間違いないが、他人には関係のない話である。番組の降板も本人の責任なのかと思うと、それも疑問である。ただの世間に対する忖度でしかないように思う。そんな忖度で降板させた者の判断であるのにそれを本人に負わせるのはいかがかと思う。


 それにしても文春もよく暴くなと思う。あらゆるところにネットワークを張り巡らせているのだろうが、大したものだと思う。だが、仕事としてはどうなのかとも思う。職業に貴賤はないと思うが、「やりたい仕事」、「やりたくない仕事」というのはある。個人的には人の秘密を暴くような仕事は「やりたくない仕事」の筆頭である。それがウォーターゲート事件のようなものならやりがいもあるかもしれないが、熱愛報道、不倫報道の類はそうではない。たぶん私がやっても成果は上げられないだろうが、選ぶ自由がある限りはやりたくない仕事である。


 芸能人の不倫報道は尽きることがない。そのたびに叩かれ、仕事も(一時的に)なくなり、芸能人としては不利益しかないが、なぜみんな不倫をするのだろうか。バレたら大変なことになるというのは誰もがわかることだろう。それでも不倫をするのは、一つには「自分はバレない」と思っているからでもあるし、もう一つには恋愛にブレーキはかけられないからだろう。恋愛に結婚しているか否かは関係ない。ロミオとジュリエットの時代から、禁じられた恋は障害があるからこそ盛り上がったりするところもあるだろう。


 そもそも不倫は本当にいけないことなのか。配偶者に対する裏切り行為としては批判されるべきであるが、他人がどこまでそれを批判できるのかは疑問に思う。モラルを重視する人にとっては、たとえ他人に迷惑をかけないからと言っても許されるものではないということはあるだろう。そう考えると、私はモラル意識よりも「人間だもの」と考えてしまう方が大きいのだろう。まだまだ不倫報道は続くだろう。石川五右衛門ではないが、「世に不倫の種は尽きまじ」である。


 不倫報道なんてするべきではないとやっぱり思う。それに対して、「読む人がいるから」と言うなら、自分は「読まない人」になろうと思う。私一人そうなったからと言って何が変わるというものではない。ただ、世の中を変えようと思ったらまず自分から。まずは自分が無関心になるところから始めたいと思うのである・・・

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【今週の読書】

     





2023年7月2日日曜日

論語雑感 述而篇第七(その13)

 論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感。

【原文】

子在齊聞韶。三月、不知肉味、曰、「不圖爲樂之至於斯也。」

【読み下し】

せいりてせうく。つのつきにくあぢはひいはく、はかがくいたりすことここあるかな

【訳】

先師は斉にご滞在中、韶をきかれた。そして三月の間それを楽んで、肉の味もおわかりにならないほどであった。その頃、先師はこういわれた。

「これほどのすばらしい音楽があろうとは、思いもかけないことだった。」

『論語』全文・現代語訳

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 人類の歴史で音楽がどのくらいあるのだろうかと考えてみると、想像するにそれは言語と同じくらい古いように思う。人類発祥の地アフリカの音楽は打楽器が中心というイメージがあるが、最初は叩いたりするものが中心だったのではないかと思う。それが人類の発展とともに進化してきたのであろう。そんな音楽であるが、私は特にこれと言って好きなものはない。人並みに聞くことはあっても、それほど熱心というわけではない。特に好きなアーティストがいるわけでもない。強いて言えば今は亡き忌野清志郎とRCサクセションくらいだろうか。


 小学生の頃、キャディーズでアイドルデビューしたが、その引退とともに熱も冷める。中学生になって従兄弟の影響でビートルズを聴くようになり、これはその後ずっと折に触れて聴いている。しかし、それ以外はその時々に耳にした音楽を気ままに聴いているくらいで、特にファンで熱心にフォローしているアーティストはいない。ジャンルも和洋のポップスやロック、クラッシックから映画音楽まで幅広い。「幅広い」と言えば聞こえはいいが、要は核になるものがないとも言える。


 クラッシックもこれが好きというものはない。あえて言えばバッハの宗教系の音楽が好きだと言えるだろうが、あとはつまみ食い的な好みに終始する。映画音楽では、かつてはジョン・ウィリアムス(『スター・ウォーズ』、『未知との遭遇』、『スーパーマン』、『E.T.』、『インディ・ジョーンズ』など)、最近はハンス・ジマー(『パイレーツ・オブ・カリビアン』、『ダークナイト』)といった作曲家のものが気になるだろうか。映画音楽の趣味の起源は親父にあり、親父が買った映画音楽のレコードを聴いていたのが始まりである。


 洋楽でも特にファンというものはないが、人生で初めてコンサートに行ったアバ(これ以降コンサートには行っていない)やビリー・ジョエルは今でもよく聴く。ブライアン・アダムスは恋煩いをしていた時期によく聴いていたから、今でも聞けば当時の切ない気持ちが蘇る。バーブラ・ストライザンドも懐かしいし、クィーンやシンディ・ローパーもよく聴いたし、マライア・キャリーの歌声には度肝を抜かれた。最近ではレディー・ガガやシーア、アヴリル・ラヴィーンなんかが好きである。


 邦楽では今では「懐メロ」的なものが好きで、YouTube Musicで耳にすると片っ端からお気に入りに登録している。当時はそれほどでもなかったのに、時間が経つとまた違う感覚になるのだろうか、松田聖子や薬師丸ひろ子なんてのもお気に入りに入っている。年末の紅白で一番注目しているのは石川さゆり。考えてみれば、演歌も嫌いではない。基本的に邦楽はアーティストより曲という感じだろうか。だから『喝采』なんかは本家のちあきなおみより田川寿美版の方が好きである。


 昔からレコードをそれほど買い求めるということはなかった(小遣いがあまりなかったというのもある)が、CDもそれほど持っていない。ウォークマンも持っていたが、iPodをどうしようかと思っているうちにスマホで代用できるようになってしまったので、今はパソコンとスマホが音楽機器になっている。家の周りの草むしりを命じられた時は、スマホでAmazon musicに登録した曲を聴いている。イヤフォンは今はコードレスの時代だが、自分は耳の形のせいなのかよく落ちるので、左右つながっているタイプを愛用している。


 孔子のように食べ物の味も忘れるほど音楽にのめり込むということはなかったのが我が人生。音楽の授業で相性が悪いと感じ、以来、五線譜は避けてきたからいまだに楽器一つ満足に演奏できない。それはそれで残念に思う部分もあるが、聴くというより聞き流す専門といったところであろうか。これからもそのスタンスは変わらないし、おそらくこれから夢中になるアーティストが出てくるとも思えない。程々に楽しむというスタンスでこれからも音楽とは付き合うと思う。


 これから「懐メロ」はどんどん増えていくだろう。すべて一度に聴くには多すぎるだろうが、その時々でじっくり楽しみたいと思うのである・・・


FirmbeeによるPixabayからの画像

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