2025年8月21日木曜日

お盆に思う

 お盆と言えば、東京では7月だが両親の実家のある長野県では8月である。子供の頃、東京の自宅で母が迎え火を焚き、部屋にはお供えを飾り、送り火を焚いて一連の儀式を終えた。ご先祖様が戻ってくるという話を聞き、「どんなご先祖様なのだろうか」と想像を膨らませたものである。そして夏休みに入り、母に連れられて里帰りするとまたそこでもお盆であり、子供の頃はそういうものだと思っていた。お盆がなぜ全国一律同じでないのか。考えてみればおかしいのであるが、子供心にはそういうものだと素直に思い込んでいて不思議には思わなかった。

 なぜ東京と長野県ではお盆の時期が違うのか。調べてみれば、それは明治期に時の明治政府が旧暦から新暦に切り替わった当時、これを徹底させようとしたため、そのお膝元であった東京やその周辺の地域、都市部などは令に沿って対応せざるを得なく、新暦7月15日にお盆を行なうようになったと言われているそうである。何となく東京は地方出身者が多く、7月をお盆とすると里帰りできないから8月にしたのかという気がしていたが、そういう経緯があったようである。

 迎え火を焚いてご先祖様をお迎えし、来るときはきゅうりの「馬」で早く来ていただき、帰りは送り火を焚いて茄子の「牛」でゆっくり帰っていただく。子供の頃は家で母がしっかりやっていたが、就職して家を出てからはそんな事をする事もなく(寮生活だったからそういう事を1人でやる事はなかった)、結婚してからは私も妻もそういう事は念頭になかったから一度としてやった事はない。それゆえ、ご先祖さまも我が家には来ていただいた事はない。当然、子供たちもそういう習慣を家で経験していないのでこの先もする事はないだろう。

 考えてみれば、豆まきはやっている。子供も小さい頃は元気よく「鬼は外!、福は内!」とやっていた。クリスマスにはクリスチャンでもないのにツリーを飾っている。豆まきよりもクリスマスよりもお盆の方が重要な気もするが、なぜ私も妻もそういう事をやらなかったのか、考えてみればおかしい。豆まきもクリスマスも子供にとっては遊び心が満たされて楽しいからかもしれない。そう言えば祖父母の家に行くと祖先の写真が飾ってあったが、我が家にはない。そうしたところから「祖先」に対する思いも違うのかもしれない。

 さらに考えてみれば、母方の祖母は私が生まれる前に亡くなっている。母にとっては自分の母親であり、また、母の祖父母も亡くなっていたから、祖先とは自分の身近な家族という思いがあったのかもしれない。逆に私には最後に祖父が亡くなったのは30歳の時であり、祖先とは会った事もない人たちという感覚がある。そういう意味では我が家の子供たちはまだ祖父母が3人健在である。実際に身近に接していた祖父母であれば、もう少し死者に対する思いも違っていたのかもしれない。

 映画『リメンバー・ミー』は、メキシコの「死者の日」の祝祭を背景にしたものであったが、ところ違えど一年に一度亡くなった祖先が帰ってくるというコンセプトは同じである。調べたわけではないが、同じような行事は他の国、地域にもあるかもしれない。亡くなった身内に会いたいという思いは万国共通だろうし、目には見えないけど帰ってくると思いたい気持ちから始まったのだろう。ただ、お盆に祖父母の家に帰るのは、「祖先が帰ってくるから」という事で家族が集まるのは理解できる。しかし、東京の家には祖先も来たことがないわけであるし、何となくしっくりこないものがある。

 そういう理屈はともかく、亡くなった親族を思う気持ちは私にもある。私には産声を上げることなく亡くなった姉がいるというし、30歳の時になくなった祖父との思い出は多い。ただ、そういう気持ちは「来てもらう」よりも「こちらから行く」気持ちが強い。なので墓参りの方が気持ちが入りやすい。結婚した年の夏休み、妻を連れて墓を守る伯父の家にはよらずに(結婚の報告のため)祖父母と姉の墓参りをしたものである。目に見えぬ祖父が家に来るというよりも、物理的に骨が埋まっている墓の方がしっくりくる。

 いずれにせよ、亡くなった親族を弔う気持ちは私にもあり、実家に行けば両祖父母の仏壇にご飯を供えて線香を立て、手を合わせる。お盆でなくても毎週やっている。来るとか来ないとかではなく、両祖父母に対する気持ちから抵抗なくやっているが、個人的にはそれでいいと思う。亡くなった者に対する気持ちは、送り火やきゅうりと茄子という形でなくても十分あるし、それでいいのではないかと思っている。この先もお盆の行事をやる事はないだろうが、だから祖先をないがしろにしているというつもりはない。

 実家の母はこの頃認知能力があやしくなり、今年のお盆は迎え火は焚いたが、送り火は焚来忘れたと嘆いていた。きゅうりの馬と茄子の牛はどうでもいいらしい。「まだ帰っていないならそれでもいいんじゃない」と慰めたが、大事なのはどう思うかである。亡くなっても折に触れて思い出す事が供養のようにも思う。子供の頃、お盆で祖父母の家に親戚一同が集まって賑やかだった。少子化も進んでそういうお盆は少なくとも私の親族ではなくなっている。ご先祖様は寂しいかもしれないが、両祖父母とは実家の仏壇を通じて繋がっていると考えたいし、それでいいと思うのである・・・


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【本日の読書】

 ビジュアル図鑑 昆虫 驚異の科学 - デイヴィッド・A・グリマルディ, 丸山 宗利, 中里 京子 カラー図説 生命の大進化40億年史 中生代編 恐竜の時代ーー誕生、繁栄、そして大量絶滅 (ブルーバックス) - 土屋 健, 群馬県立自然史博物館  片想い (文春文庫) - 東野 圭吾





2025年8月17日日曜日

出場辞退に思うこと

 夏の全国高校野球選手権が行われているが、先日、1回戦を突破した広陵高校が大会途中で出場辞退という異例な事になった。大会前からネットで部内のいじめ問題が指摘され、出場に疑問の声が上がっていたが、個人的には今は昔ほどでもないので辞退するべきとも思わなかった。昔は何かあるとすぐ出場辞退で、野球部員でない生徒の不祥事の責任まで取らされて気の毒であった。最近はそういう辞退をあまり聞かなくなっていたのでいい傾向だと思っていたが、経緯を見れば出場の判断はおかしいと思わないし、その後の炎上を受けての辞退もやむを得ない気もする。

 大学ラグビーの世界でも今年は関西の雄、天理大学が選手の不祥事(大麻所持)で無制限活動自粛になっている。ちょっと寂しいがやむを得まい。ラグビー部で大麻と言えば、かつての関東の雄、関東学院大学がやはり部員が大麻の所持(部屋で栽培していたとか)と吸引とで逮捕され、名物監督が辞任し、以後凋落して今では関東リーグ戦1部と2部を行ったり来たりという状況である。天理大学も同じような事になると寂しいように思う。一旦、凋落してしまうと持ち直すのも難しいのかもしれない。

 学生スポーツは卒業によって選手が入れ替わる。当然ながら毎年、新しい学生の確保が大事であるが、不祥事を起こすと有望選手は入学を避けてライバル校へ行くだろう。チームが弱くなれば、強いチームでやりたいという選手はますます敬遠するだろうし、歯車の逆回転が止まらなくなる。天理大学も活動を再開したとしても、そういう影響が出るのではないかと思えてならない。その分、新興勢力が出てくるという見方もあるからなんとも言えないが、何より真面目にやっていた学生は気の毒である。

 関東学院大学の事件からもう18年経っている。天理大学のラグビー部員も関東の事件を知らなかったのだろう。誰でも大麻を吸ってみたいという興味はあるだろうから、ちょっとぐらいという誘惑に駆られたのだろう。本人もこういう事態になるとわかっていたら絶対に手を出さなかっただろう。広陵高校の野球部員もイジメは悪い事だとは知っていただろうし、その時は自分の行為がイジメに当たるという意識もなかったのかもしれない。当然、今日の事態が予測できたらやらなかっただろう。「後悔先に立たず」というやつである。

 もしも、自分が指導者だったらどうするだろうと思う。相手は若気の至りの特権のある若者であり、監視するにも限度がある。ゆえにそこは教育しかないだろう。他校の不祥事を例に取り、ちょっとした事がどんな事態を招くのか。それを語って聞かせるしかない。今は飲酒や喫煙も厳しくなっている。私の頃は高校生でも居酒屋で酒が飲めた。今でも覚えているが、クラスで運動会の打ち上げを蒲田の居酒屋でやったものである。1人高校生が混じっているなどというレベルではない。大らかな時代であったとつくづく思う。

 痴漢もセクハラもなくなりはしないのだろうが、かなり「やってはまずいもの」という認識は世に広まっている。私の若き銀行員時代は、営業担当の課長さんにお客様だけではなく、 行内に対する営業として、女性に対してもたまにはお尻を触ってやらないといかんと諭されたものである(さすがにやらなかったけど・・・)。今はそんな事をしたら大問題になるだろうが、そういう事を気軽に言える雰囲気だったのは確かである。それで世の中は、大らかだったかつてより世知辛くなったのかと言えば、それはいい方向へ改善したという事だと思う。

 これからもルールから逸脱する若者はなくならないだろうが、指導者はひたすら教育するしかないだろう。練習だけさせるのが指導者の役割ではない。野村監督も語っていたが、「人間的成長なくして技術的な成長はない」だろうから、練習以外にも教え諭す必要があるだろう。広陵高校の辞退という事態を受けて、甲子園出場を狙える学校の野球部監督はもちろんであるが、そうでなくても、まずは指導者たる者は今回の例を採り上げて生徒に話してみるくらいはするべきではないかと思う。

 学生スポーツの場合は、何よりも勝負の前に教育があるべきであろうし、それは学業もさりながら勝負に臨む前の姿勢という事でもある。また、指導者にしてみれば「リスクコントロール」という面もある。広陵高校の監督さんは、野球部の出場選手全員から「尊敬する人」とされていたようであるが、野球以外の指導に漏れがあったのは確かであろう。私には無縁の世界であるが、指導者にしてみれば「対岸の火事」ではなく、「他山の石」とすべきであると思うのである・・・


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【今週の読書】
 ビジュアル図鑑 昆虫 驚異の科学 - デイヴィッド・A・グリマルディ, 丸山 宗利, 中里 京子 監督の財産 (SYNCHRONOUS BOOKS) - 栗山英樹  カラー図説 生命の大進化40億年史 中生代編 恐竜の時代ーー誕生、繁栄、そして大量絶滅 (ブルーバックス) - 土屋 健, 群馬県立自然史博物館  片想い (文春文庫) - 東野 圭吾





2025年8月13日水曜日

和解は難しいのか

ロシア軍、ウクライナ東部ドネツク州で10キロ以上前進…米露首脳会談で主導権の確保狙いか
ロイター通信は12日、ロシア軍がウクライナ東部ドネツク州の前線地帯の一部で、急激な進軍を見せたと報じた。数日間で10キロ・メートル以上前進したとしている。15日に予定される米露首脳会談でプーチン露政権は、ウクライナ軍に同州からの撤退を求めていると報じられており、交渉で主導権を握ろうと攻勢を強めているとみられる。
2025/08/13 10:10日本経済新聞
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 米露首脳会談が予定され、そこでウクライナとの和平が協議されるという。ロシアとウクライナの戦争も気づけば3年5か月になろうとしている。日米間の太平洋戦争が3年9ヶ月であったことを考えると随分長く続いている。日米間では戦力差が圧倒的であり、日本は無条件降伏を選ぶしかなかったが、ウクライナは欧米の支援もあって善戦しているから、戦争終結の形としては今のところ和平合意しかないだろう。ただ、双方に思惑があるだろうから簡単にはいかないのかもしれない。

 以前、電車の中でどこかの酔っ払いサラリーマンと喧嘩になった事がある。次の駅で下りて先制パンチをかましたところで周囲にいた人たちにあっという間に引き離された。一人二人ではなく、見知らぬ者同士の連携に私自身驚いてしまったが、こんな喧嘩みたいに紛争当事者を上回る仲裁者がいれば強引に和解させる事も可能だろうが、大国ロシアが相手ではそれも難しい。どうしても話し合いにならざるを得ないが、ウクライナも意地と思惑があるから簡単には妥協しないであろう。特にどちらかが優勢だと確たるやめる理由がない限り、仲を取り持つのは容易ではない。

 裁判などは法律というルールがあるので勝ち負けははっきりとわかる。それでも判決ではなく途中で和解というのはよくあるケースで、と言うより判決を書くのは大変なので裁判官は和解を勧めたがるらしいが、その場合も双方にメリットがないと和解には至らない。私も2年前に裁判を経験し、内容的には敗訴に等しい和解となった。苦渋の決断の要因はそのまま続けて判決に行って、たとえ勝っても次の訴訟を起こされれば時間的、精神的苦痛が続くし、最終的にはどこかで負けると考えられたからである。

 日本も日露戦争ではアメリカの仲裁を受けて「判定勝ち」したわけであるが、日露双方に戦争継続が困難な事情があったからこその和平成立だったわけで、いまだ体力のある段階での和平は難しいのであろう。一方、ガザではイスラエルの戦力がハマスを圧倒しているが、こちらも停戦の見通しは経たない。それはイスラエルが戦力的に優位であり、ハマス殲滅という目標が可能であると考えるからやめる理由がないのであろう。国際世論を気にしないイスラエルを止めるとしたら、イスラエル兵の犠牲が増えるとか、国内の反戦ムードの高まりとかがないと難しいのかもしれない。

 ボクシングでは既定のラウンドが終われば判定となり、裁判では原告被告よりも強力な力を持つ裁判官がいるから無期限の争いとなることはない。だが、戦争はそうではない。英仏100年戦争という歴史もあるくらいである。もっともウクライナもガザの戦争もそう長くは続かないと思うが、どのような形で決着がつくのであろうか。ウクライナは欧米の支援があって戦争を継続できている。そうすると、見方を変えれば欧米はウクライナに戦争を継続させているわけであり、それによって双方に戦死者を増やし続けさせているとも言える。それは果たしてどうなのかと思う。

 かと言って支援をやめればウクライナは屈辱の敗北を喫する事になる。ウクライナからの視点とロシアからの視点、人類全体からの視点とでいろいろ考えは変ってくる。人類全体が譲り合いの精神を持って共存できればいいと思うが、武器を突きつけ合って「抑止力」の形でしか平和を保てないというのはつくづく残念である。首脳の思惑はいろいろとあるのかもしれないが、命を懸けて戦場で戦うのは名もなき兵士だし、被害を受けるのは市民だし、早くどこかで手打ちになればいいと思う。

 我が国も台湾で火の手が上がれば対岸の火事ではすまないだろうし、人類もそろそろ共存という事ができるようになってほしいと思う。自分もそうだが、これから我が子たちの世の中になっていく。生きて行く上でいろいろと苦難はあるだろうが、何より平和な世の中にあっての苦難であって欲しいと思う。平和共存という人類の叡智を駆使した世の中を実現できる日は到来するのであろうか。できれば自分の生きている間に、そんな世界に少しでも近づいて欲しいと思うのである・・・

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【本日の読書】
 ビジュアル図鑑 昆虫 驚異の科学 - デイヴィッド・A・グリマルディ, 丸山 宗利, 中里 京子  監督の財産 (SYNCHRONOUS BOOKS) - 栗山英樹  日本社会のしくみ 雇用・教育・福祉の歴史社会学 (講談社現代新書) - 小熊英二  片想い (文春文庫) - 東野 圭吾





2025年8月11日月曜日

論語雑感 子罕第九 (その9)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感
【原文】
子見齊衰者、冕衣裳者、與瞽者、見之雖少必作。過之必趨。
【読み下し】
さいものと、べんしょうものと、しゃとをれば、これわかしといえどかならつ。これぐればかならはしる。
【訳】
先師は、喪服を着た人や、衣冠束帯をした人や、盲人に出会われると、相手がご自分より年少のものであっても、必ず立って道をゆずられ、ご自分がその人たちの前を通られる時には、必ず足を早められた。
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 時代と文化とが違うためなんとも言えないが、孔子の時代は喪服を着た人や、衣冠束帯をした人や、盲人に対しては道を譲るというのがルールというかマナーであったのだろう。現代の我々の社会においては、電車の中の優先席の考え方が当てはまるのかもしれない。電車の優先席は、以前は「シルバーシート」と呼ばれていて、文字通り「お年寄りに譲る席」という感じであったが、今はお年寄りに限らず、体の不自由な人、妊婦などにその範囲が広がっている。だから「シルバー」ではなく「優先席」なのだろう。

 この優先席であるが、「優先」であって「専用」ではない。したがって、非該当者は座ってはいけないという事はなく、空いていれば座っても構わないわけである。そう考えて私も空いている時には座るのに躊躇はしない。ただし、優先されるべき人が来た時にはきちんと席を譲っている。最近は鞄に妊婦マークやヘルプマークをぶら下げている人が増えてきていて、それはそれで譲るべき目安となって助かっている。特にお腹のあまり出ていない妊婦さんなどは、見た目で判断できないので大いにいいと思う。

 それにしてもヘルプマークをつけている人であるが、一体その理由はなんなんだろうといつも思う。そもそも「外見からわからない」からヘルプマークをつけるわけであり、見た目でわからないのは当然であるが、それにしてもどういう理由なのかはいつも気になっている。先日などはお腹の大きな女性が目の前に立ったため、席を譲ろうとしたのであるが、顔を見て躊躇してしまった。マスクをしていたのではっきりわからなかったのであるが、何となく40代後半に見えたのである。果たして本当の妊婦であろうかと疑問を抱いたのである。

 席を譲るのはわけない事であるが、妊婦でなかった場合は微妙である。お腹は立派な妊婦なのであるが、その中に生命が宿っているか否かでまずい結果をもたらす可能性もある。隣には若い女性が座っていたが、知らん顔をしている。それはそもそも譲る気がないのか妊婦ではないと判断しているのかはわからない。迷いに迷って席を譲ったのだが、相手の女性は怪訝な表情を浮かべながら席に座った。どうやら妊婦ではなかったようである。まぁ、女性に席を譲るのは男子たるものの務めであり悪くはないが、「紳士としての行動」と心の中で言い訳をしていた。

 それはともかくとして、エレベーターでは後から乗り込んだ場合は必ずパネルの前に立ち、降りる人が降りる間、「開」ボタンを押して自分は最後に降りるようにしている。最近、そういう行動を取る人をよく目にするが、自分もそうするようにしている。他人に何かを譲るというのは、ゆとりの表れであると思う。持てる者から持たざる者に対するゆとりの譲渡である。孔子の場合は「礼儀」の意味もあるかもしれない。ただ、それにしてもゆとりがあるから礼儀を守れるという事もある。ゆとりがなければ譲る事はできない。先日、『セーヌ川の水面の下に』というパニック映画を観たが、サメに襲われそうな時に先を譲るのは難しいだろう。

 昨年の正月に羽田で航空機事故があったが、幸い乗客全員無事避難して旅客機に被害はなかった。乗務員の誘導が見事だったと思うのだが、乗客もパニックに陥る事なく避難したのだろう。その時のゆとり度はどのくらいであったかわからないが、そういうパニック時でも、いわんや普通の時においては尚更譲り合うゆとりは持ちたいものである。それは他人に対する親切というよりも自分自身に対する心の余裕といった方が正しいかもしれない。

 例え遅刻しそうで急いでいる時においても、人を押し除けて行くのではなく、エレベーターを降りるわずかな時間、ボタンを押して最後に降りるゆとりは持ちたいと思う。何よりそういう人間でありたいというのが一番である。常にまわりを見回す余裕を持ち、一歩下がって他の人に道を譲る。そういう行動をこれからも心掛けていきたいと思うのである・・・


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【今週の読書】
 日本社会のしくみ 雇用・教育・福祉の歴史社会学 (講談社現代新書) - 小熊英二 猪木のためなら死ねる! 2 「闘魂イズム」受け継ぎし者への鎮魂歌 - 藤原喜明, 前田日明, 鈴木みのる





2025年8月6日水曜日

群馬県立自然史博物館


 夏休み後半の初日、予定通り群馬県立自然史博物館に行ってきた。『生命の大進化40億年史 古生代編 〜生命はいかに誕生し、多様化したのか』という本に刺激を受けてのものであるが、何でも思った事をやってみようと思っての行動である。幸い、我が家からは関越自動車道に乗って1時間半ほどで行ける。ドライブも楽しむ感じでちょうど良い。のんびりと車を走らせたが、やはり1時間半ほどで着いてしまう。建物の外には巨大なカブトムシのモニュメントがお迎えしてくれる。小さな子供には受けるだろうと思う。

 館内に入れば人類の進化の模型があり、地球誕生から生命の発生が語られる。かなり推測が入っているのだろうが、生命の誕生は本当に奇跡の賜物という感じがする。さまざまな化石が並び、進んでいくと実際の発掘の様子のレプリカが足下に展示されている。安全だと分かっていてもガラスの上を歩くのにはドキドキしてしまう。カンブリア紀から石炭紀の古生代の様子は本の通り。ただ、実際の化石を見られるのは気分が違う。それにしてもモノによっては化石と気づかないで終わりそうな気がする。

 目を引くのは中世代に入ってからの恐竜の展示。巨大な恐竜の迫力はさすがである。いかにも子供が喜びそうなものである。そう言えば我が息子も小学生の頃はこういう恐竜が大好きだったなと思い起こす。地層中の鉱物中の放射性同位体の量を測定して年代を推測するとの事であるが、その方法を発見した人もすごいと思う。そして今度は標準化石から地層の年代を測定する事もあるようで、高校時代の地学の授業を思い出した。つまらない授業だと思っていたが、解説がすんなり理解できるのも地学の授業の恩恵である。

 以前、地球の歴史についての何かを読んだことがある。地球の歴史を1年にしたものである。元旦の午前0時に地球が誕生したとすると、生命の爆発的増加が見られたというカンブリア紀はその年の11月18日頃に相当する。説明によると生命そのものは35億年ほど前くらいに誕生したらしいが、それだと3月末頃。その頃は微生物レベルだったのだろうから、長い雌伏の時を経て様々な生物に進化していったのであろう。ホモ・サピエンスの誕生は12月31日23時40分頃だから、いかに長い時間がかかっているかがわかる。

 目の前に展示されている化石がそんな昔のものだというのも何か不思議な感じである。展示はどうしても恐竜中心になっている。たぶんその方が「客受け」するからだろう。もちろん、恐竜たちも大地を支配していた頃を想像するとそれはそれで生命の不思議を感じさせる。しかしながら、個人的にはまだ陸上に上がる前の生物たちの姿に興味をそそられた。人間とは似ても似つかぬ太古の生物たちであるが、確実にそれらのどこかの系統が陸上に上がり、哺乳類に進化し、そして人類に進化していったわけである。

 短い時間だったが、満喫して外へ出る。「危険な暑さ」と言われる夏の日差しが眩しい。ついでだから富岡製糸場にも足を伸ばそうかと考えていたが、日本の遺産としてはいいが、どう考えても世界遺産としては違和感しかない施設であり、内容もなんとなく想像もついてしまうし、地球の長い歴史に思いを馳せた余韻のまま訪れる気になれなくてやめてしまった。その代わり、田舎の知らない街中を少しドライブしてみたいと思い、高速に乗らずに藤岡までのんびりドライブしてきた。

 若い頃には想像もつかなかった夏休みの過ごし方であるが、今日1日としては十分である。そのうち海外にも再び行ってみようと思う。これからは自由な独り身であるし、楽しみは尽きない。まだまだ初日。残り夏休み後半の5日間を充実して過ごしたいと思うのである・・・




2025年8月3日日曜日

夏休み2025

 「夏休み」と言えばかつては甘美な響きがあった。長期間学校に行かなくても良い=勉強しなくて良いというのは、子供には嬉しい話だし、普段行けないところに行けるというのも嬉しい話である。私は中学生まで御代田にある従兄弟の家に遊びに行くのが何よりの楽しみであった。約2週間ほど滞在していたが、従兄弟と一緒に従兄弟の通う学校のプールに入れてもらったり(それが可能だったのである)、その友達と一緒に遊び回ったり、伯母さんにおにぎりを作ってもらって近所の飯玉神社に行って食べたり・・・

 高校生になって部活動が始まるとそれも出来なくなった(私としては無邪気に練習休んで行こうと思ったのだが、高校の部活動はそれが許されないとは知らなかったのである)。以来、御代田に2週間も行くことはなくなってしまったし、そもそも従兄弟とも何年も会わないという状態になってしまった。社会人になると、そもそも夏休みが短い。土日が休みになって、うまく休みを取れば連続9日間の休みが取れるが、それが精一杯。それなのに最初はそれすらダメだと言われたものである。

 振り返ってみれば、夏休みにいかにしてより多くの連続休暇を取るか、に腐心していた銀行員時代であった。転職した不動産会社は「お盆に一斉休暇」という私の最も嫌いなパターンだったので、翌年からみんなに働きかけてバラバラに取得する方式に変えた。それでも連続9日間は変わらず。取ろうと思えば2週間連続も取れたが、今度は立場がそれを許さず自主的に9日間に抑えて、社員のみんながより多くの休みを取れるように意識した。子供が大きくなると、休みを取ってもすることがないという事態になったのは想定外だったとも言える。夫婦2人でという考えはあったが、もうそういう状態ではなかった。

 少しは親孝行と思って、この時期万座温泉に行き(最初は草津温泉であった)、その後従兄弟に会いに行くという事を始めたのが数年前。従兄弟と年に一度会うことができるようにも心がけた。お互い家族を持って仕事も持ってとなると、毎日遊び回っていた子供の頃のようなわけには行かないが、それでも酒を飲みながらいろいろな話をするのもまた一興である。御代田へ通い始めて50年、それぞれの道を歩んでいるが、年に一度くらいは交流があってもいいのではないかと思う。

 今年はまた心境に変化が生じた。社会人になって初めて夏休みを分割して取ることにしたのである。前半は土日絡めて4日間休みを取り、万座温泉と佐久・御代田ツアーへ行ってきたが、今年は後半6日間がこれから控えている。今年は実家へ行って「出戻り」の準備をするのもあるが、1人で博物館へ行こうと思っている。国立科学博物館と群馬県立自然史博物館である。きっかけは『生命の大進化40億年史 古生代編 〜生命はいかに誕生し、多様化したのか』という本なのであるが、そこに出てきたカンブリア紀の生物の展示があるようなので興味を持ったのである。1人自由気ままにそういう活動をするのもいいだろうと思う。

 実は連続して取ろうと分割して取ろうと、夏休みそのものは「5営業日」であることには変わらない。昔は欧米は1ヶ月休みを取ると聞いて羨ましいと感じたが、今はそれよりも少なくとも質を充実させたいと思う。その上でトータル10営業日くらいの夏休みを取りたい気持ちはあるが、現場の社員はそんなに休める環境にはないので、ちょっと難しいかもしれない。ただ、5日間であったとしても、過ごし方によってはいろいろと楽しめるとは思う。博物館巡りも面白ければ京都や奈良の博物館も面白そうであるから行ってみるのもいいかもしれない。

 2027年にはオーストラリアでラグビーのワールドカップが開催される。今までは行くことは無理だろうと思っていたが、別居すればなんの気兼ねもなく行けるという事に気がついた。試合日程からすれば「夏休み」というわけには行かないが、ずらして取るということを考えてもいいかもしれない。いろいろと考えてみると楽しみは広がっていく。そしてその楽しみを実現していくには、何より仕事をしっかりやって、会社の業績を安定させないといけない。当たり前であるが、仕事という基盤がしっかりしていて、初めて休みという事が意識できるのである。

 そもそも仕事は楽しいからやっているというところもあるが、充実した休みを取るためにも一層力を入れる必要がある。これから家計費も別居すれば2家族分必要になるし、より多くの収入を得る必要がある。人生を充実させていくためにはお金も必要であり、しっかり稼がないといけない。会社の業績が良くなればそれも可能になってくる。ぼやきたい気持ちになる時もあるが、自分がリーダーシップを取って指導できる部分もあるだろうし、ぼやいている暇があったら、やれる事をやろうと思う。

 まだ、後半の夏休み前であるが、そう考えると仕事も夏休みも楽しみであると思うのである・・・


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【本日の読書】
 日本社会のしくみ 雇用・教育・福祉の歴史社会学 (講談社現代新書) - 小熊英二  リカバリー・カバヒコ - 青山 美智子






2025年7月31日木曜日

論語雑感 子罕第九 (その8)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感

【原文】
子曰、鳳鳥不至。河不出圖。吾已矣夫。
【読み下し】
子(し)曰(いわ)く、鳳(ほう)鳥(ちょう)至(いた)らず。河(か)、図(と)を出(い)ださず。吾(われ)已(や)んぬるかな。
【訳】
先師がいわれた。「鳳鳥も飛んでこなくなった。河からは図も出なくなった。これでは私も生きている力がない」

図 … 古代の伝説で伏羲ぎの時、黄河から現れた竜馬の背に描いてあったという絵図。
   八卦の元となった。図が出ることは、聖人の現れる前兆とされた。
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 何をやってもうまくいかないという時はよくあるように思う。私生活でも仕事でも今の私はそういう時期にあるように思う。トーストを床に落とした時、バターを塗った方が下になるという時である。意図せざる結果が出てしまうという事がこのところ続いている。自分の意思だけで済むのであれば簡単であるが、他人が絡むと自分の思ってもいない方向に物事が進んでしまうというのもよくある事である。そんな事が続くと気持ちも凹むというもの。「なぜ自分ばかりが貧乏くじを引くのだろうか」と嘆きたくなるものである。

 部下から文句を言われた。自分たちに仕事を押し付けすぎだというものである。我々は総務部であり、何かと細かい仕事が多い。それでもみんな定時に帰っているのだが、他の部署では残業が発生している。私としては全社的な観点から引き受けられるものは総務で引き受けるように変更したのである。営業事務の一部を持ってきたり、本来総務でやるべき仕事であるものの、他の部署が担当していたりしていたものである。それが「負担増」と感じた部下からのクレームになったものである。

 仕事は誰かがやらなければならないものであり、やる人間には負担増となり、やらない人間には負担軽減となる。そこをどう線引きするか。全体的に見て他部の担当者の仕事量の方が総務部の担当者よりも多かったので、仕事の平準化という意味で総務部へ移管したのである。そもそも本来的にどこが担当するのが適当かと考えたら総務部という答えになるという事もある。ところが、負担増となる担当者からクレームになったのである。クレームは遠慮知らずで、「部長は私たちを守ってくれない」とまで言われてしまった。

 確かに私は部長ではあるが役員でもあり、全社的な観点から見て物事を判断している。間違っているとは思わないが、「あちらを立てればこちらが立たず」で改めて難しいなと思わされる。さすがの孔子様にも不遇の時があったのだろう、いろいろとうまくいかない事を嘆いているような今回の言葉であるが、孔子のような偉人でもそうなのだから私のような凡人にはよけいなのであろう。そう思って自らを慰めるのであるが、他にも気持ちが凹む問題があって、どうしても暗くなる。「我が社はこの先この有様で大丈夫なのだろうか」と。

 こういう状況下で、孔子はどう自分を慰め、奮い立たせていたのだろうか。できればこの後の言葉を知りたかったところである。しかし、考えてみれば仕事上の悩みは「仕事があればこそ」の悩みである。それを実感したのが最初に銀行を辞めた時であり、転職した不動産会社で社長の裏切りで放り出される事になった時である。この先大丈夫なのだろうかという不安に比べれば、まだ仕事はあるわけであり、収入もあるわけであり、このくらいの悩みはその対価であると考えれば耐えられないものではない。

 やった事が裏目に出たという事ではなく、やった事に対して想定外の問題が生じてきたという事であり、それはそれで解決していくしかない。仕事は「問題のモグラ叩き」であり、叩いても叩いてもモグラは次々に出てきてゲーム終了まで途切れる事はない。それで虚しく感じる必要はなく、叩いたモグラの数はカウントされ、評価される。たくさん評価されるためにはたくさんのモグラを叩く必要がある。出てくるモグラを嘆く必要はないと考えている。むしろモグラ叩きに参加できることに感謝しないといけない。

 時に気が滅入ってやる気がなくなる事もあるが、それも仕事があるからこそであり、仕事がない悩みから比べればはるかにいいと思う。結婚すればしたなりの問題が発生するが、だからしない方がいいとは思わない。たとえ終わったとしても、始まりがあったからこそであり、結婚しなければ良かったとは思わない。何事もそうなのかもしれない。この先も「鳳鳥も飛んでこい、河からは図も出ない」という状況はあるだろうが(そういう状況しかないかもしれない)、悪い面ではなく、良い面だけを見て乗り越えていきたいと思うのである・・・


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【本日の読書】

手紙屋~僕の就職活動を変えた十通の手紙~ - 喜多川泰 草枕 - 夏目 漱石 監督の財産 (SYNCHRONOUS BOOKS) - 栗山英樹 日本社会のしくみ 雇用・教育・福祉の歴史社会学 (講談社現代新書) - 小熊英二 カラー図説 生命の大進化40億年史 古生代編 生命はいかに誕生し、多様化したのか (ブルーバックス) - 土屋 健, 群馬県立自然史博物館 イワン・イリイチの死/クロイツェル・ソナタ (光文社古典新訳文庫) - トルストイ, 望月 哲男







2025年7月28日月曜日

消えていく歴史

 この週末、母と叔母を伴って母の故郷に行ってきた。ここ数年の恒例となっている「万座温泉」+「従兄弟会」である。万座温泉は私のお気に入りの温泉である。標高が高いのでこの時期でも夜は涼しい。温泉に入るのも苦にならない。それにあたりに漂う硫黄臭と白湯が気分も盛り上げてくれる。ラグビーをやっているためにあちこち痛いところがあるが、それがすべて癒える気になる。実際に一晩で良くなるものでもないが、一度数日でいいから湯治なるものをやってみたいと思っている。夜2回と朝風呂と3度湯に浸かり、硫黄臭を体に纏って従兄弟会に臨む。

 今回、久しぶりに会った従兄弟Bは、いつも会う従兄弟Aの兄。私とは14歳離れている。学生時代、我が家に下宿していたのも懐かしい思い出である。そんな従兄弟Bは、久しぶりに会った私の母と叔母に質問攻撃。それは主に母方の家系に関するもの。どうも母と叔母が存命のうちにいろいろと聞いておきたいと思っていたようである。私も聞くともなしに耳に入ってくるまま話を聞いていた。小学生の頃、よく我が家に遊びにきていたおじさんがいた。どういう関係なのかよくわからなかったが、実は祖母の弟だったという事が判明した。

 祖母の旧姓はその地区でよく聞く名前。同じ苗字の方の選挙ポスターが張り出されていたから、その地区での地主だったのだろう。祖母はもともとかなりの美人で、祖父と結婚した時は、悔しがった男たちがかなりいたようで、母もそんな男たちからよく聞かされたそうである。「よりにもよって一番冴えない男(=祖父)と結婚した」と。しかし、伯母2人は若い頃美人だったらしいが、母と叔母はその血を受け継がなかったらしい。叔母も「きれいなんて言われた事がない」と嘆いていたが、贔屓目に見ても確かに「きれい」とは言い難い。

 母がまだ子供の頃、おそらく昭和20年代であるが、風呂は近所で持ち回りだったという。つまり近所内で順番に風呂を沸かし、「今日は◯◯さんの家」という具合に湯に入りに行き、入浴後にその家でお茶を振舞われて帰ってきたという。そういう事実は歴史の教科書には載っていない。まさに生き証人に聞くしかない。叔母は水道が引かれた日の興奮を今でも覚えていると言う。それまでは家の前の川で水を汲み、歯を磨き、風呂に入れて沸かしていたと言う。そんな思い出話は貴重だ。

 祖父は「新し物好き」で、村で一番にテレビを買ったと言う。そのため、近所の人がよくテレビを見に来ていたらしい。そういうと力道山の街頭テレビの話を思い出す。しかし、祖父宅での一番人気は「解決ハリマオ」だったらしい。近所の子供達がみんな見にきていたと言う。1人親の厳しい子がいて、見に行くのを禁止されていたらしいが、そこは子供。こっそり来たのを叔母が招き入れて見せたと言う。そんな話も知られざる埋もれた生活史なのだろう。映画『三丁目の夕日』は昭和30年代の東京の話だったが、そのちょっと前の長野県は望月町の話である。

 私が幼少時代、母親に連れられて訪れた祖父宅は、今はもう見知らぬ他人の家になっている。小さな子供のいる若夫婦の家らしいが、私の記憶にある祖父宅がかつてそこにあり、川から汲んだ水で風呂を沸かし、従兄弟たちと遊び夜は雑魚寝したことなど知る由もないのだろう。それは今私の自宅についても同様で、ここにはかつてアパートが建っていたらしいが、そこに住んでいた人たちの思い出や、アパートが建つ前(田畑?)の歴史もどこかで誰かが記憶しているのだろうが、私が知る事はない。そう考えると、人が変わって歴史が失われていくのも寂しいように思う。

 私が今回聞いた話は、私だからこそ興味深いと言える。おそらく、我が家の子供たちはあまり興味をもたないだろう。母には私の知らない歴史がたくさんあり、それらの大半は母がいなくなればなくなってしまう。歴史の教科書にも載っていないし、Googleに聞いてもわからないものである。そう考えると、そういう話を聞けるのも今のうちと言える。昨日のことも覚えていない両親だが、昔の事は覚えている。もうじき同居する予定であり、一緒に暮らしながらそんな昔話をいろいろと聞き出したいと思う。

 もともと歴史好きではあり、いろいろな歴史に興味を持ってきたが、両親のファミリーヒストリーをこれから興味深く聞き出していきたいと思うのである・・・


Michal JarmolukによるPixabayからの画像

【今週の読書】
 草枕 - 夏目 漱石  監督の財産 (SYNCHRONOUS BOOKS) - 栗山英樹  カラー図説 生命の大進化40億年史 古生代編 生命はいかに誕生し、多様化したのか (ブルーバックス) - 土屋 健, 群馬県立自然史博物館  イワン・イリイチの死/クロイツェル・ソナタ (光文社古典新訳文庫) - トルストイ, 望月 哲男




2025年7月24日木曜日

踏み出す

この道を行けばどうなるものか、危ぶむなかれ。

 危ぶめば道はなし。 踏み出せばその一足が道となる。

  迷わず行けよ。 行けばわかるさ。

一休宗純

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 「嫌ならやめればいいじゃないか」というのは昔からの私の考えである。「そうはいかない」という考えもわからないではないが、基本的な考えは変わらない。最初にそれをはっきりと言葉にしたのは、銀行に入って3年目くらいの時であったと思う。業績不振から担保不動産を処分して借入の返済をしていただく事になった取引先の役員に言われた言葉がきっかけだった。当時下っ端の私にはわからなかったが、おそらく私の上司と借入の返済を巡っての厳しいやり取りがあったのであろう、担保不動産の売却手続きに同行した私に不満をぶつけてきたのである。

 曰く、「銀行の仕事は嫌な仕事だと聞いている」、「知り合いの銀行員も子供には継がせたくないと言っている」等、いかに銀行の仕事が嫌な事かという事を私に告げてきたのである。挙句に私に同意を求めてきた。「あなたもそう思っているのではないですか」と。相手が嫌味を言ってきている事は感じていたし、それに対する反発心も確かにあったが、私は純粋な気持ちから答えたのである。「仕事は嫌ではないですよ。嫌なら辞めますから」と。子供に継がせたくないような仕事ならなぜそれを続けるのか。「家族のため」というのは言い訳にしか過ぎないと思う。
 
 もちろん、そう簡単に辞めるわけにはいかないという事情もわかる。すぐに他に「嫌ではない仕事」が見つかるわけではないだろうし、見つかったとしても収入が落ちるならどうしようという問題もある。選択肢がなければ嫌であろうと何であろうと辞めるわけにはいかない。家族持ちであればなおさらである。私であれば、それなら「嫌だと思わない方法」を考えるだろう。仕事の中に何か楽しみを見つける(これは比較的得意である)とか、嫌な要因を自分なりに解消する努力をするとかするだろう。

 嫌なものをなぜ我慢するのか。その理由に自分自身納得できないのであれば、「やめる」というのが私の基本的な考え方である。そういう考え方に基づき、このたび結婚生活も終わりにする事にした。妻の私に対する「他人扱い」にもう耐えられなくなったのである。おそらくその原因は私にあるのだと思う(自覚はないがそうなのだろう)。ただ、明確なところはわからないし、話し合ってそれを改善してもらおうという気にもなれない。この秋、子供たちと妹夫婦とでハワイに行くと告げられ、それが決定打になった。私は誘われる事もなかったのである。

 この状況で家族を続けていく意味はあるのだろうかと自問してみるが、答えは「否」である。私にその気はあっても妻にはない。それを非難するのも意味はないし、これ以上他人扱いされてまで一緒に暮らす意味もない。そうなると、残るは「嫌ならやめればいい」という答えしか残らない。そうしてまずは別居することになった。子供たちを追い出すわけにもいかないので、私が家を出る事にしたのであるが、腹を決めて行動に移せば物事は意外と進んでいくものである。

 銀行員時代、50代半ばでたいがいみんな子会社か取引先かに転籍するかして銀行を去る事になっていた。私はその前に独自に探して出ようと思っていたが、なかなか踏ん切りがつかなかった。それはどこかで面倒な事を先送りする気持ちが強かったからである。しかし、いざ実行してみると何の事もない。なぜぐすぐず先送りしていたのか自分でもあきれるくらい簡単な事であった。別居も同じである。ここ何年も迷っていて、理由をつけては先送りしてきたが、もう行動に移そうと考えた。行動に移してみれば実に簡単であった。

 私の銀行員時代の同僚は、今も関連会社などに残っている者が多い。処遇によっては満足していて、それはそれでいいと思う。しかし、自らの境遇を嘆いている者もいる。それはその時に勇気をもって飛び出さなかったからであり、「もう少し考えよう」とか「どうしようか」などと言っている間に時間が過ぎてしまった結果である。私の場合は偶発的に出ざるを得なかったという理由なので偉そうな事は言えないが、結果的に行動したのは正解であった。基本的に「迷ったら動く」という考え方が大きいが、(あまり好ましくない)行く末が予想されるのであれば、思い切って動くべきだと思う。

 今の時代は恵まれている時代である。転職するにしても選択肢は多い。年齢を重ねると難しくなるが、それでも贅沢を言わなければ生きていけるくらいは稼げるであろう。離婚も社会的に悪影響があると言われたのも過去の話であるし、子供との縁が切れるわけでもない。そうであればもう迷う話ではない。実家の両親もこの頃老いて危なっかしいし、同居すればその分安心するところもある。いいタイミングと言えばいいタイミングなのである。あれこれくよくよ考えるよりも、前向きに自分の未来について考えたいと思うのである・・・

Greg ReeseによるPixabayからの画像


【本日の読書】
 草枕 - 夏目 漱石  監督の財産 (SYNCHRONOUS BOOKS) - 栗山英樹  カラー図説 生命の大進化40億年史 古生代編 生命はいかに誕生し、多様化したのか (ブルーバックス) - 土屋 健, 群馬県立自然史博物館  イワン・イリイチの死/クロイツェル・ソナタ (光文社古典新訳文庫) - トルストイ, 望月 哲男





2025年7月20日日曜日

息子と酒を飲む

 長男が生まれた時、ゆくゆくは息子とやってみたい事として二つを思い浮かべた。それはキャッチボールと酒を飲む事である。キャッチボールはどの時点で達成しただろうかと考えると微妙である。まだ幼稚園児くらいの時に家族で公園に行き、よくボールとバットで遊んだ。まだゴムのボールで、手が届くくらいの距離で投げ合ったのはキャッチボールになるのだろうか。個人的には小学生になって少年野球を始めた息子とグローブをはめて軟式ボールでやったのがそれであると考えている。誘うと素直についてきて、投げるボールもだんだん早くなっていった。

 中学生くらいになるともうそんな機会がなくなったが、息子が二十歳になった今年、とうとう二つ目の目標が実現した。ちょうど妻と娘が2人して出掛け、私と息子とが留守番になったのである。好機到来とばかりに「飲みに行くか?」と誘ったところ、「あまり飲めないけど」とついて来た。どこへ行こうかと考えたが、近所で歩いていける「土間土間」がいいという息子の意見を取り入れ、2人で飲みに行った。最近はどこも半個室の席が多い。我々もそんな半個室の席に案内される。改まって2人だけで向き合って座るのも新鮮である。

 大人としてはいつものように「とりあえずビール」と頼もうとしたら、息子は何やらサワーを頼んだ。「そこはビールだろうが」と思うも、初めてのことであるし好きなようにさせる。つまみを自由に頼ませたら、いきなりチャーハンを頼む。このあたりはまだ飲むより食べる方が優先のようである。唐揚げや卵料理は私も好きなので異論はない。半個室とは言っても仕切りなどなく、あたりの酔った人たちの大きな声が響いてくる。居酒屋であるし、静かなところでゆっくりというわけにはいかない。父子2人だけの飲み会は、まわりの喧騒とは裏腹に静かなものである。

 話題は大学の事から始まる。40年前、私が学生の頃は文系の学生は授業に出ないのを良しとしていた。そういう風潮に抗って、私は週12コマの授業に出ていた。ラグビー部の同期はみんな5コマ程度だったから、みんなに変人扱いされた。聞いたところ息子は14コマ出ていると言う。面白い授業もいくつかあるようで、それはいい事だと思う。大学の勉強は将来何に役に立つかもわからない事を学べる贅沢なひと時である。スティーブ・ジョブズのカリグラフィーの授業の話は有名であるが、息子にも授業を楽しめと伝えた。

 息子は中学の時に練馬区が後押ししている制度を利用してオーストラリアに1週間ホームステイしている。その時の経験が強烈だったらしく、英語に対する学習意欲が強い。学生のうちに留学したいと常々言っている。「是非行け」というのが私のアドバイス。私には学生時代にそういう考えがなかったのが残念であるが、息子には是非行ってもらいたいと思う。さらに就職するなら海外大学院へ行かせてくるところを選ぶべしとも伝えた。海外大学院でMBAを取れば社会で生きていく上での武器になるだろう。

 また、起業するならいきなりするのではなく、一旦大手企業に就職した方がいいとも伝えた。私の考えだが、大手企業で3年ほど働けば社会人としての基礎が身につくし、組織というものもわかるようになる。何よりベンチャーにはない「信用」を出身大学と大手企業での就業経験が補ってくれる。それで安泰というわけではないが、私はあまりにも学生時代そういうことに無知すぎたこともあり、息子には知識として教えておきたいと思ったのである。これからどうなっていくかわからないが、「知は力なり」である。「知っている」という事は大きなアドバンテージになると思う。

 息子は母親とは仲が良い。私はどちらかというと自立心が強すぎて親(特に母親)とは距離を取っていた。今その距離を毎週訪問して穴埋めしているが、母親との会話で得られるものは限られている。少なくともビジネスマンとしての基礎知識は私の方が教えられるところである。せめてもの父親の存在感の証として、そういう話は語っておきたいと思うのである。いつかそれが息子が何かを決断する時の役に立てば、それが親父の存在価値だとも言える。初めての息子との飲み会はこんな具合だった。息子は最初の一杯以外は飲まなかったが、それもまた良し。そこは祖父から親父へと続く家系の遺伝を受け継いだのだろう。

 思いもかけず、長年の目標が叶ったひと時であった。しかし、これが第1回。これから折に触れて父子でサシ飲みをして語り合っていきたいと思うのである・・・


Engin AkyurtによるPixabayからの画像

【今週の読書】
 手紙屋~僕の就職活動を変えた十通の手紙~ - 喜多川泰 監督の財産 (SYNCHRONOUS BOOKS) - 栗山英樹 日本人にどうしても伝えたい 教養としての国際政治 戦争というリスクを見通す力をつける 豊島 晋作 単行本 O イワン・イリイチの死/クロイツェル・ソナタ (光文社古典新訳文庫) - トルストイ, 望月 哲男




2025年7月16日水曜日

何のために働くのか

 現在、『手紙屋〜僕の就職活動を変えた十通の手紙〜』という本を読んでいる。kindleで無料で読めるためスマホで読んでいるのだが(それを「本」と言えるのかという気持ちはある)、そこで主人公は「何のために働くのか」という事を考えさせられる。それを読みながらいろいろと考えた。自分は何のために働いているのか。人は何のために働くのか。究極的に言えば、働くのは「食う(=お金)のため」である。それが労働の本質であり、それを否定できるのは「お金はいりません」と言える人だけであろう。この本質は大事だと思う。

 ラグビーを始めた高校生の頃、練習の指導に来てくれていた先輩に「ラグビーは格闘技だ」と言われたのを覚えている。激しくぶつかり合うスポーツだし、その時はそうなんだろうと思っていた。しかし、その後「本質」を意識した時、その考えは変わった。ラグビーの勝敗はどうやって決まるのかと言えば、ボールを相手陣地につけた事(=トライ)である。野球やサッカーと同じボールゲームであり、より多く点数を取った方が勝つのである。この点、相手を倒す事で勝利する格闘技とは異なる。つまり、「ラグビーは格闘技ではない」のである。

 「何のために働くのか」の本質は「お金のため」である。大半の人がそうであるだろう。その昔、スティーブ・ジョブズが請われてアップルのCEOに返り咲いた時、報酬は1ドルだったという。そういう人こそ、「働くのはお金以外のため」と胸を張って言えるのである。しかし、「お金のために働く」と言うとどうも露骨すぎて具合が悪いのか、人は「家族のため」とか(家族が食べていくためというならイコールお金のためとも言える)、「世の中の役に立ちたい」とか言うのである。ではそれはきれい事かと言えばそうとも言い切れない。

 銀行を辞めて初めて転職した時、2か月ほどブランクがあった。プラプラしているのも何だしと思ってアルバイトをした。工場での簡単な梱包作業であったが、定職に就いたらアルバイトなどできないだろうし、世の中体験という意味と暇つぶしという意味が大きかった。決してお金のためではなかったが、ではタダでもやったかと言うとそれはない。それは私の貴重な労働力をタダで売り渡したいとは思わなかったからである。お金のためではあるが、食うためではない。この「お金のためではあるが、食うためではない」というのも真実である。

 原始社会あるいは遅れた社会では何より「食うため」が働く目的の第一だろう。しかし、世の中が発展して食う事がそれほど難しい事でなくなってくると、お金以外に働く目的が選べるようになる。考えてみれば「何のために働くのか」という議論は、この段階ではじめて問われる事だろうと思う。終戦直後の日本では、そんな悠長な事は言ってられなかっただろう。そういう意味では、「何のために働くのか」などという議論ができるのは豊かな社会という事になる。そうした豊かな社会では、「お金に加えて」働く目的を追及するという「贅沢」が認められるという事である。

 4年前、2度目の転職活動をした際、最終的に2つの候補が残った。A社は給料が高いが通勤に不便。B社は規模がA社より若干大きく通勤に便利。2つの選択肢を前に私はB社を選んだ(妻に教えたらA社を選べと言われただろう)。給料も大事だが、B社の方が規模的に仕事が面白そうだと思ったのである(大きいと言っても100人規模なので決して「安定」ではない)。実際、求められていた財務に加えて人事の仕事にも手を出し、今も仕事は面白い。結果的に給料も大きく上がったし、選択は正解であったと思っている。

 今の世の中、職業選択の自由は大いに保障されているし、仕事も多岐にわたっている。それであれば「食うためだけ」の仕事をする必要はない。「+α」で働く理由を求める事ができる。その「+α」こそが「何のために働くのか」という問いに対する回答になるのだろうと思う。「お金を稼ぎつつ世の中に貢献できる」とか、「お金を稼ぎつつ海外で働ける」とか人それぞれにその理由は見出せることになる。したがって、「何のために働くのか」と問われて「お金のために決まっているじゃないか」という人は、その「+α」がない人という事になる。それはちょっと寂しい。

 私はと言えば、今のシステム開発会社に入ったのは仕事が面白そうだと考えた事による。頼まれた財務の仕事はもちろんきっちりやっているが、頼まれてはいなかったが人事の充実も課題だと考えて手を出す事にした。忙しいが人事の仕事は面白くやりがいを感じている。もともと面白そうな仕事を探してやるよりも、仕事の中に面白さを見出していく方が性に合っているので、自分の力で会社が良くなっていくのは非常に快感ですらある。お金のためだけに働いているのではないと断言できる。

 息子も大学を卒業すれば就職である。自分なりの好みはあるだろうが、「何のために働くのか」という事もしっかり考えるようにアドバイスしたいと思う。しっかりした「+α」を持って社会で活躍してほしいと思うのである・・・


FirmbeeによるPixabayからの画像

【本日の読書】

 手紙屋~僕の就職活動を変えた十通の手紙~ - 喜多川泰  監督の財産 (SYNCHRONOUS BOOKS) - 栗山英樹  日本人にどうしても伝えたい 教養としての国際政治 戦争というリスクを見通す力をつける 豊島 晋作 単行本 O  イワン・イリイチの死/クロイツェル・ソナタ (光文社古典新訳文庫) - トルストイ, 望月 哲男