2018年12月31日月曜日

2018年大晦日雑感

2018年も最後の1日となった。年末恒例の大掃除も3日間に分けて行い、昨日終了した。昨年までは大晦日まで大掃除であったが、今年は少しゆとりの大晦日である。年越しそばは、我が家では夜ではなく昼に食べることにしているが、今年も美味しくいただいた。後はこれも恒例なのだが、紅白を見ながらすき焼きで年越しである。家族みんなが健康で新しい年を迎えられることを何よりもありがたく思う。

今年も映画は今夜の作品を入れて177本、本は118冊読んだことになる。一昨年から比べると少し少ない。まぁ「量より質」と思っているから少ないことが悪いとは思っていない。本は厚さもあるから余計である。映画はこれから一年間を振り返って年間ベスト10を決めたいと思うが、また今年も悩ましいところであろう。

基本的に人から勧められたものは必ず試してみることにしている。今年は、本では『終わった人』を勧められて読んだが、定年を意識する人なら考えさせられる一冊だと思う。私は定年のない会社(ただし、「潰れなければ」だが)に入ったので関係なくなってしまったが、ますます老後が長くなるこれから、悠々自適とは程遠い人はしっかり考えないといけない問題だろう。定年後というなら、『定年前後の「やってはいけない」-人生100年時代の生き方、働き方-』も読んでおくべき一冊だと思う。

映画については、信頼の置ける友人の推薦と、大ヒットの実績から『カメラを止めるな!を一昨日観たが、こちらは残念ながら事前の期待を上回ることはなかった。おそらく、「面白い」という先入観無くして観ていたらたぶん面白いと感じたのだろうと思う。ただ、あまりにも期待値が高かったため、正直言ってがっかりしてしまった。評判が高くなければ間違いなく観ていなかった映画であり、事前の評価は難しいところであるが、それでも観ないよりは観た方がいいだろうし、これからも「勧められたものは観る」というスタンスは維持していきたいと思う。

1年間頑張って勉強してきたマンション管理士は、再チャレンジの今年も1点差で涙を飲みそうである。脳みその老齢化を理由にしているが、それは理由になっていないのが自分自身でもよくわかる。コツコツやるのは自分の持ち味だが、何をどうコツコツやるかが重要なこと。年が明けたら、改めて戦略を練り直し、再々チャレンジと行く予定である。来年もまた11月まで自らを率しながらのコツコツの日々である。

なんの心配もない穏やかな年末と行きたいところだが、心配事のない人生などあり得ないのだろう、今も我が家には心配事がある。自分のことならともかく、娘のこととなると有効な打つべき手が思い当たらず、もどかしい限りである。それにしても、年末の忘年会で集まった12人のうち、3人が不登校や発達障害などの子供の問題を抱えていた。未婚と合わせて子供の問題が静かに我が国の将来を蝕んでいるような気がする。我が家は我が家で正面から向き合うしかないと腹を括っているが、愛を持ってあたりたいと思う。

つくづく、人と接しながら暮らしていくこの世の中において、自分と他人の意見の相違ほど扱いの難しいものはないと思う。自分が正しいと常に思っているが、それは他人との文脈の中では必ずしも適切ではない。そのあたりをどう調整するか。それは来年も引き続き大きな課題だと思う。それは仕事においても家族においても同様で、理解を得ることを諦める前にもう少し頑張ってみたいと思う。それが来年の課題だろうか。そのためのキーワードは「感謝」ではないかと考えている。

まだまだと思うから、さらにもう少しと成長の余地があるのかもしれない。そういう意味で、「まだまだ」はいいことだと思う。1つの試練が片付けば、また次の試練が顔をもたげるのだと思う。それにめげず、くじけず、愛を持って来年も頑張っていきたいと思う2018年の大晦日である・・・




【今週の読書】
 社会は変えられる: 世界が憧れる日本へ - 江崎禎英 狂王の庭 (角川文庫) - 小池 真理子






2018年12月27日木曜日

魂の老化は防げるか

実家の母親は81歳である。ここのところ長年使用している愛用のガラケーの調子が悪いとぼやいている。そこで私からこの機会にスマホにしたらと提案し、近々切り替える予定である。実はスマホにしたらということは、随分前から言っているのだが、やはり現代のデジタル機器を使いこなせるのかということに不安があるようで、ずっと躊躇していたのである。パソコンも使えない母ならまだしも、パソコンを使いこなす同じ年齢の父すらも「あと10年若かったら」と言って躊躇している。

そんな両親の反応を身近で見ていて、「歳を取る」とはそう言うものかと思っていた。しかしながら、母親とまったく同じ年齢の女性と会ってその考えは一変した。その方はパソコンを駆使して株式投資を行い、もちろんスマホも使いこなしていた。ちょっと郊外に住んでいるということもあって、毎日自らスクーターを駆って買い物に出掛けていた。我が母とは大違いであった。2人の違いは何だろうと考えてみると、やっぱり「考え方」だろうと思う。

「自分は年だから新しいことは覚えられない」と思ってしまったら、その時点で終わりである。よくよく比較して見れば、ガラケーとスマホでは、画面はスマホの方が大きいし、電話やメールという機能はボタンがないだけでそれほど違わない。実際のところ、初めて覚えるのにガラケーとスマホを比較したら、アプリをいろいろ使いこなそうとすれば別だが、基本機能だけならスマホの方がやりやすいと思う。要は「意識の差」だけだと思うのである。

歳を取れば記憶力が減退するのは、50代の我が身をもって痛切に感じているが、衰えるだけで覚えられないわけではない。現に80歳を超えていても、宅建などの資格試験に合格する人はいる。たとえ若い頃の半分しか覚えられなかったとしても、「半分は覚えられる」わけである。この考え方ができるかどうかだろう。自分には無理だと思えば無理だし、「あと10年若かったら」という人は、たとえ10年若くても同じセリフを吐くだろう。

それは高齢者だけに当てはまるものではなく、会社でも同じだと思う。創業直後のベンチャー企業はがむしゃらに新しいことに挑戦する。だから失敗はあったとしても、技術やビジネスモデルでブレイクスルーを起こす。一方、大企業は総じて反応が悪い。それは硬直的・官僚的な組織系統もあると思うが、私自身の経験でいけば、「なにもわざわざそんな事をしなくとも」という考え方だろう。新しいこと、ちょっと変わったことをやろうと思うと、組織の壁も厚く、根回しやらプレゼンやら手間暇がかかるので面倒だと思うのである。

そして本来、組織系統も大企業から比べるとずっと簡略で、はるかにスピーディーに動けるはずの中小企業でも、この「何もわざわざそんな事をしなくとも」という考え方に侵されていたりする。十分に儲かっている企業ならそれでいいかもしれないが、大半の中小企業はそんな余裕などないはずで、あらゆるところに収益機会を求めていくべきだと思う。ベンチャーはそういう点では「元気」なわけで、ベンチャーでない我々中小企業においても、そういう「元気」=スピリットが必要だろうと考えている。

よく物事は簡単な方と困難な方があるなら、困難な方を選ぶべきと言われるが、特に世の中で商売をして存続していこうとするなら猶更であると思う。簡単なことなら誰でもやれるし、そんなレッドオーシャンで得られる収益はわずかだろう。「あえて」「わざわざ」やってみる事が必要だろうと常々感じている。失敗したら大きな痛手を伴うなら慎重対応が求められるが、ちょっとしたチャレンジなら「とりあえずやってみる」感覚が必要だと思う。

我が社が営む賃貸業では、建物・設備の経年劣化は防ぐことはできないが、自分自身の魂の経年劣化はいくらでも防ぐことができる。この「敢えてやってみる」気持ちを常に持ち続けたいと思うのである・・・




【本日の読書】
 「米中関係」が決める5年後の日本経済 新聞・ニュースが報じない貿易摩擦の背景とリスクシナリオ (PHPビジネス新書) - 渡邉 哲也 社会は変えられる: 世界が憧れる日本へ - 江崎禎英






2018年12月24日月曜日

論語雑感 八佾第三(その15)

〔 原文 〕
子入太廟。毎事問。或曰。孰謂鄹人之子知禮乎。入太廟。毎事問。子聞之曰。是禮也。
〔 読み下し 〕
()(たい)(びょう)()りて、事毎(ことごと)()う。(ある)ひと()わく、(たれ)鄹人(すうひと)()を、(れい)()ると()うや。(たい)(びょう)()りて事毎(ことごと)()う。()(これ)()きて()わく、()(れい)なり。
【訳】
先師が大廟に入って祭典の任に当られた時、事ごとに係の人に質問された。それをある人があざけっていった。
「あの鄹(すう)の田舎者のせがれが、礼に通じているなどとは、いったいだれがいいだしたことなのだ。大廟にはいって事ごとに質問しているではないか」
先師はこれをきかれて、いわれた。――
「慎重にきくのが礼なのだ」
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論語もこの「八佾第三」はなんとなく意味不明の言葉が多い気がする。それは時代と文化が大きく違うことに起因しているのかもしれない。だとすれば、それはそれで仕方のないことである。最も、ここで私は論語の解釈をするつもりはなく、ただただ読んで感じたことを記すだけなので、関係ないといえば関係ない。

鳴り物入り(「礼に通じている」)で役職を任された孔子だが、いちいち聞いてばかりなのを見て、周りの者が「なぁんだ、大したことないじゃん」と思われたということだろうが、「聞くことこそ」が「礼」だとここでは諭している。さて、ではなぜ孔子はいちいち聞いたのだろうか。その理由を考えてみると、「わからないから」か「確認したいから」のいずれかとなるだろうと思う。なぜなら、聞くには「知らないから聞く」か「知っているのに聞く」かいずれかであり、「知らないから聞く」のは当然として、「知っているのに聞く」のは「自らの知識あるいは相手の知識を確認したいから」に他ならないからである。

「知らないから聞く」のは当然であるが、実はこれは勇気のいることである。なぜなら、人は皆プライドというものがあり、「知らない」ことをどこか恥じる気持ちがあるものである。まったく門外漢で知らなくても恥ではないようなことなら別だが、少なくともここの孔子のように「知っているだろう」と思われていることなら尚更である。ここでは、知らなくてバカにされているわけであるから、そんな中で自らの無知を暴露する行為である「聞く」ことを躊躇せずにやっているスタンスは素晴らしいと言える。きっとソクラテスも感心するだろう。

一方、「知っているのに聞く」のなら、そこには慎重な性格が窺える。それが「自らの知識を確認したいから」であるなら、鄹(すう)の田舎から出てきていることを鑑み、大廊の祭典にあたり自らの知識を過信することなく、確認を取っているわけである。そこから感じられるのは、謙虚さと実直さであろうか。また、「相手の知識を確認したいから」であるなら、そこには一段高い視線が感じられる。

相手がどのくらいの知識を持っているのか、確認することはどのくらいその相手を信頼できるのかという尺度になる。答えがしっかりしていれば、その相手は相当の知識を持っているのだとわかるわけで、以後その相手に対しては深い信頼を置いて仕事ができることになる。逆に知識があやふやだったり、頼りないところがあるなら全幅の信頼を置くのはリスキーである。特に責任者として新しい職場に着任した際、自分の部下となる者がどれだけしっかりしているかを掌握することは重要なことだと考えればわかりやすい。質問は相手のレベルを図る最も確実な方法である。

どのケースを取ったとしても、新たな職場に来て質問を重ねる人物を批判するのは適切とは言えない。批判するどころか褒められた人物だと言える。さすが孔子様である。ただ、それが礼だというのはどういう理屈なのかがわからない。「礼」という単語のイメージにも引きずられるところがあると思うが、どのケースにおいても「礼」とは結びつかないような気がしてならない。まぁあまり礼とは関係なく考えたいところである。

いずれにせよ、知ったかぶりとはいかなくとも、「何となくわかっている気」でスルーしてしまうところが自分にはかなりある。これからそんな自分に気がついたら、きちんと質問して確認しないといけないと改めて思う。自戒としたい言葉である・・・




【今週の読書】
 「米中関係」が決める5年後の日本経済 新聞・ニュースが報じない貿易摩擦の背景とリスクシナリオ (PHPビジネス新書) - 渡邉 哲也 「死」とは何か イェール大学で23年連続の人気講義 完全翻訳版 - シェリー・ケーガン, 柴田裕之





2018年12月20日木曜日

18歳

娘が18歳の誕生日を迎えた。生まれたと知らせを受けたのは、18年前の昨日。もう18年も経つのかと感慨ひとしおである。その一報がもたらされたのは、出勤前の早朝のことであった。妻が里帰り出産であったため、生まれたと聞いても実感など湧かず、まだ見ぬ我が娘を想像しながら出勤したものである。あれから18年。娘の年齢はそのまま私の父親としての18年の歴史でもある。18歳となると、もう選挙権もあり車の免許も取れるわけである。

世間では、娘も年頃になると父親を敬遠するようになるとはよく耳にすることである。だが、幸いなことに我が娘に限ればそんなことはなく、普通に接してくれている。父娘間の会話も普通である。その要因はと言えば、娘の性格でもあるだろうが、私の父としてのあり方であろうと思うようにしている。しかし、当然のことながら母娘間の距離の近さに比べたら敵うところではない。妻と娘は一緒に風呂に入ったり布団に入ったりしているが、そんな真似は父親には到底できない。仕方のないところである。

自分が18歳の時はどんなだっただろうと思い返してみる。今となっては楽しいことしか覚えていない。記憶は時と共にフィルターでろ過されて美しい思い出が多く残りがちであるから、そんな自分と今の娘とを比べるのは不公平だろう。高校三年生。受験という暗雲が漂っていたはずだが、青空一杯の日々だったように思う。ラグビーは引退していたが、様々な大人の経験をし、大人の扉を開けて足を踏み入れた時であった。

自分の経験から鑑みて、娘には来年は「車の免許を取る」「アルバイトをする」「本を読む」の3つを勧めている。車の免許については、私自身も大学に入ってすぐに取得した。大学2年生以降、彼女とドライブに行って楽しいキャンパスライフを送るために早いうちに取っておこうという戦略的計算であった。その目的は残念ながら取らぬ狸の皮算用に終わったが、免許自体は早く取っておいて正解だった。妻も免許を持っていて、それは日々の生活でも大いに役立っているし、これはやっぱり早いうちに取っておくべきだと思う。

アルバイトも社会経験ということでは欠かせないと思う。あげられるこずかいに限りがあるという悲しい現実は別にして、他人の中で働いてお金を稼ぐという行為は大事なことであり、就職して始めてそれを経験するのではなく、まずアルバイトで経験すべきだと思う。自分は高校に入る前にアルバイトデビューを果たし、以後親からこずかいをもらうことなく、すべてアルバイトで賄った。我ながらなかなかの若者振りだと思うが、そこまでとはいかなくても、経験は積ませたいと思う。

読書については、娘も日頃読んでいるが、何を読んでいるかと言えば若者向けのライトノベルである。私が言うのは「文学作品」であるが、これについては娘は抵抗感を示している。「夏目漱石なんて面白くない」と言うのであるが、言われてみれば確かに娘の求めるような「面白さ」はないかもしれない。そんな返事を残念に思ったが、ではそれを覆せるだけの説得ができるかと言うと、自分ではできないことにハタと気がついた。なぜ、文学作品を読むべきなのだろう。

私自身はと言えば、そんな疑問を持つことなく次々に手を出していた。夏目漱石、芥川龍之介、太宰治、ヘミングウェイ、ヘンリー・ミラー、ドストエフスキー、ディケンズ、ブロンテ等々、三島由紀夫は社会人になってからであったが、学生時代はそんなところを疑問に思わず読んでいた。逆にもっとたくさん読んでおくべきだったというのが、あとの後悔である。だが、なぜ読むべきかと改めて問われれば、「教養として」以外に何があるだろう。ストーリーとしての面白さはそれなりにあったと思うが、「味わい」のようなものかと思ってみたりする。「とにかく読んでみろ(そうすればわかる)」という説得力のない説得しかできないかもしれない。

自分が今18歳に戻れたらさぞや楽しいだろうと思う。大学での学びももっと違うものになるだろうし、海外留学にもチャレンジしてみたい。読みたい本のリストはあっという間に3ケタを超えるだろうし、アルバイトもラグビーもあれもこれもと指折っていったらたぶん1日に24時間あっても足りないだろう。だが、それは今となったから思うことで、現役の18歳にはわからないかもしれない。自分自身も半分くらいしかわかっていなかったと思うし、無理もないことなのかもしれない。

我が娘はこれからどんな青春を送るのだろうか。今はいろいろと困難な時期にある娘だが、親としてできることをし、疎まれても自分の経験を伝え、通じなくても思っていることを話してみたいと思う。その結果、良好な父娘関係が崩れたらと思うと躊躇しないでもないが、説教臭くならないように明るく楽しく語ってみたいと思う。いずれ娘が自分の子供たちにアドバイスする時に、今の自分の経験がひょっとしたら役に立つかもしれないからである。

大人の扉の入り口に立ったばかりの我が娘。父としてその行く道をこれからも見守っていきたいと思うのである・・・




【本日の読書】
 定年前後の「やってはいけない」 (青春新書インテリジェンス) - 郡山 史郎 「死」とは何か イェール大学で23年連続の人気講義 完全翻訳版 - シェリー・ケーガン, 柴田裕之






2018年12月16日日曜日

再びタバコを吸う日は来るだろうか

今はいい時代になったと思うことしばしばであるが、その一つが「禁煙社会」の到来だろう。喫煙者にとっては、受難の時代であるが、吸わない者にとっては誠に居心地の良い社会である。それは一昔前の時代を描いた映画を観たりすると改めて実感する。所構わず紫煙を燻らせている。職場然り、喫茶店、レストラン、駅のホーム等々、特に「禁煙」と断っていなければどこでもタバコが吸えるのが当たり前であった。

私はと言えば、高校生くらいの時に従兄弟に手ほどきを受けタバコを吸い始めた。特に不良というわけではなく、珍しい存在でもなかったと思う。ちょうど体も大人になりきる頃であり、「大人の世界」の象徴でもある酒とタバコにはやっぱり興味がいく。初めの頃は味よりも何よりも好奇心だけだったと思う。そして大学に入ると、もう味も覚えて、それどころかいろいろと吸って自分の好きな味を探し、普通に吸っていたものである。ちなみに当時の好みはセブンスターとマルボロであった。

大学を卒業して都市銀行に就職したが、最初に配属された支店では、3時までの営業時間中は禁煙であったが、シャッターが閉まるとみんな一斉に引き出しから灰皿を取り出して、タバコを吸いながら仕事をしていた。最も、新米の頃は「タバコを吸いながら仕事をするのは生意気」という雰囲気があって、私はとてもタバコを吸いながら仕事なんてできなかったが、職場の女性が毎朝、上司の灰皿を綺麗にし、灰の落ちた机の雑巾がけをしていたものである。今はもうありえない世界だろう。

自分ではタバコを吸う癖に、人のタバコの煙は嫌いという誠にわがままだった私は、そんな職場環境は苦痛であった。飲み会なども隣でバカバカ吸われていたし、それが当たり前であった。そんな中にいれば、タバコを吸っていなくとも家に帰ればタバコの匂いにまみれていた。当時の女性は気の毒だったと思う。先日、我が社の忘年会があったが、もちろんタバコなど吸う者はいない。それは禁煙指定がされているからではなく、たとえ喫煙がOKであっても、喫煙者は圧倒的に少数だし、雰囲気として吸えなかったであろう。今は愛煙家の方が小さくなっているのである。

いい時代になったと心底思うが、では将来的にどうなるのだろうと思う。もう逆行することはないだろうから、再びかつてのような喫煙社会になることはないだろう。もはや社会的にも煙害に対する抵抗は強いし、それゆえに時代は電子タバコを登場させている。しかし、この電子タバコはタバコの未来を救うのだろうか。なんとなく自分のデビューを考えてみると、初心者にはハードルが高いような気がする。

まず、タバコデビューする少年は、味よりもファッションとして憧れるものだと思う。自分もテレビや映画などで、主人公がタバコをカッコ良く吸っていたのを見ていたし、周りにも吸う人が大勢いた。だから、「吸ってみる?」と従兄弟に言われた時もためらわずに手に取ったのである。今はテレビや映画の中にも周りにも吸う人は少ない。タバコがカッコイイという雰囲気もないし、何より電子タバコだと「もらいタバコ」がし難い気がする。一緒に吸えないからである。そうすると、デビューする人も減るのではないかという気がするのである。

私は「禁煙」をしたわけではないので、実は今でも吸いたいと思ったら吸うことがある。それは人が吸っているのを見てうまそうだなと感じてのことであるが、ちょっと一本と言ってもらって吸ってもあまりうまくはない。やっぱりタバコのうまさというのは、習慣によるところもあると思う。たまに吸ってもうまくないから続けて吸いたいとは思わず、従って喫煙者には戻らない。吸いたいと思ってもまず吸える場所を探さないといけないし、そんな状況だと今後少子化が進む中で喫煙人口の割合はさらに減っていきそうな気がする。それは電子タバコでも止められない流れではないかと思う。

タバコ産業がこれからますます衰退するとしても、あまり同情心は湧いてこない。そのうち我々の子孫たちは、昔は「乾燥させた葉っぱを燃やしてその煙を吸っていた」という話を信じられないという気持ちで聞く時代が来るのかもしれない。それはそれで面白いと思うが、自分としてはどうだろうか。吸うことに対しては特に抵抗感があるわけでもないが、何せアマノジャッキーな性格ゆえ、社会が非喫煙に行くなら自分はその反対に行くかもしれない。

まぁ、何か義務があるわけでもないし、その時はその時。その時々の自分の感情に素直に従ってタバコとは付き合っていきたいと思うのである・・・




【今週の読書】
 負けグセ社員たちを「戦う集団」に変えるたった1つの方法 - 田村 潤, 勝見 明 狂王の庭 (角川文庫) - 小池 真理子







2018年12月12日水曜日

追う恋、追われる恋

先日のこと、車に乗っている時に何気なくつけていたラジオで、「追う恋と追われる恋、どちらが幸せか」という質問に対し、リスナーの回答を募るということをやっていた。なんとなく追うのは男で、追われるのは女というイメージがあるが、それは中高年の感覚なのだろう、リスナーからの意見では、結構追う女も多くて、これも時代なのかと感じながら聞いていたのである。

自分はと言えば、間違いなく「追う」タイプであるが、そんな自分に蘇ってくる記憶は追って追って追いつけなかったものばかり。それなりに付き合った女性は、思い起こしてみればみんな追われた方だと気がついた。そう言えば、自分たちの時代もバレンタインなど、女性からアプローチするのもよくあったなぁと思い出す。追うより追われる方が楽ではあるが、そこにはどうしても「妥協」というものが入る気がする。やっぱり「追う」方だろうなぁと今でも思わずにはいられない。

初めて女の子に告白したのは、小学校6年の時だ。これはあっさりと振られてしまった。それからあつものに懲りて膾を吹くようになってしまい、以後は大学まで自分から行くということをしなくなっていた。もちろん、意中の相手がいなかったわけではない。その反動から、大学時代は合コンにせっせと参加し熱心に追いかけたが、惨敗の日々。社会人になると、やはり責任というものが生じるので、数撃つわけにはいかなくなって慎重になったから惨敗の数は減ったが、その分追いきれなかった無念の度合いは大きい。

慎重にとは、真剣にということと同意だが、マメに電話をかけたり、デートには趣向を凝らして花束を持って行ったりしたものである(それもすぐ渡すとわざとらしいからなかなか渡さなかったりしたのである)。自作の童話をプレゼントしたこともあるが、結局のところそんな小手先のテクニックなど通じず、想い届かず無念の敗退となった。今でもうまくいっていたらと夢想する。もしもあの頃に戻れたなら、(内緒の話だが)もう一度今度は死に物狂いで再チャレンジするだろうと今の我が身を振り返って思う。

そんな妄想をしつつ、リスナーのいろいろな意見を聞いていて、ふと思う。追うのと追われるのは表裏一体ではないかと。例えば一つの幸せな恋があったとする。男は惚れた女を追いかけてその恋が成就し、2人は幸せ一杯だとする。しかし、それは男から見れば「追う恋」であるが、女から見れば「追われる恋」である。その時、2人に同じ質問をしたら、男は「追う恋がいい」と答えるだろうし、女は「追われる恋がいい」と答えるだろう。どちらがいいかと問われれば、理論上その答えは等しくなるはずである(あくまでも双方「幸せ」だと感じている場合だが・・・)

理論上はどちらの答えも同数になるが、それでも質問されれば、やっぱり自分は「追う派」である。理論上同じと言っても、どちらの立場に立つかは選択である。その選択に際し、自分は「追う」方を選ぶのである。それはなぜかと言えば、やはり主導権は常に自分に持っておきたいからであり、何よりもその方が後悔がないと思うからである。安易な妥協をしてしまった場合、その後悔は後を引く。それは実体験だけになおさら強くそう思うのである。

ラジオはいつの間にか次の質問に移っていた。
「別れる時にメールや電話で伝えるのはアリ?」。
これもまたじっくりと語れるテーマだと思いながら、苦い思い出を噛み締めていたのである・・・




【本日の読書】
 負けグセ社員たちを「戦う集団」に変えるたった1つの方法 - 田村 潤, 勝見 明 人間の条件 (ちくま学芸文庫) - ハンナ・アレント, 志水速雄





2018年12月9日日曜日

白と黒の狭間

カルロス・ゴーンが逮捕されてから少し時間が経ったが、さすがにネタ切れなのかマスコミも大人しい。その後の報道を見ると、たぶん今は起訴する検察が証拠固めを行なっているのだと思う。これも実にわかりにくい事件で、巨額の報酬をもらったことが罪なのではなく、それを投資家に「公表していなかった」ことが問題となっている。さらに報道によれば、その報酬も既にもらっているわけではなく、退職後に「もらうことになっている」ものだという。つまり、「まだもらっていない」わけである。

もらっていないのに「もらった」とされるのは、日産との間で「覚書」という形で約束がなされていたということで、覚書を締結した時点で公表しなければならなかったというものである。しかも金額が確定していなかったなら問題はなかったようで、なんだかその白と黒の境界線は微妙である。これは殺人や窃盗のように行為そのものが違法な刑事罰と異なる所以であるが、このあたりは実際に直面すると悩ましい部分である。

今の仕事ではお客さんからいろいろと要望があったりする。もちろん、報酬をいただく以上満足いく成果を出すことは重要である。しかし、だからと言ってどんな要望にもお応えしますというわけにもいかないのも確かである。例えばその要望が違法であったりすれば、当然やるべきでないのは当たり前である。だが違法とは言えず、かと言ってやっていいものとは言い難いものだと難しいところがある。

今回頼まれたのは、そんな悩ましい内容。一応、弁護士に相談したら、「訴えられたら負ける」というもの。依頼者は、まともに法的な手続きを取るとかなりの費用がかかることもあって、まともにはやりたくない。なので我が社に法律の手続きを取ることなくやってほしいと言ってきたのである。「訴えられたら(費用的な)責任は取るから」と。依頼者にしてみると、法的対応でかかる費用よりも、訴えられて負けて払う損害賠償の費用の方が安いこと(過去の判例からすると、半分くらいで収まる)、さらにそれも「訴えられたら」の場合で、「訴えられない可能性もある」との理屈である。

依頼者にしてみれば、実に経済合理性にかなった考え方であるが、問題は当社としての対応である。行為自体は法律に明確に違反しているとは言い難いが、過去に訴えられて負けた判例がある以上、好ましい行為とは言えない。ゴーン氏の例で言えば、覚書を作ってサインだけしていない状態とでも言えるだろうか。報酬をもらうという事実は確定していて、ただ覚書にサインするという行為だけしていない状態である。「確定したら公表」というルールなら、形式上(サイン)は確定していなくとも、事実上確定している(いつでもサインできる)なら公表しないといけないだろう。

さて、どうするかと悩んだ末、お断りすることにした。悩んだと言っても、悩んだのは「やるかやらないか」ではなく、「断り方」である。やはり、依頼を断る以上、相手が気に入らなければ取引を切られる可能性もある。かっこよく断るのは簡単だが、社員一同食っていかなければならないわけで、「喰わねど高楊枝」というわけにはいかない。「やるやらない」で悩まなかったのは、やっぱりいくら仕事でも「そこまでしたくない」という単純な気持ちである。

幸い今回はうまく断ることができて事なきを得たが、常にそうとは限らない。「もう頼まない」と取引を切られてしまうこともあるだろうし、それでも会社の業績が上向いてきている今の状態だからよかったが、これが切羽詰まっている時だったらどうだろう。明らかに違法行為であれば断るだろうが、「違法とも言い切れない」というところであったらどうだろうか。今回と同じ判断ができるだろうかと考えてみると、心許ないのも確かである。

ゴーン氏が巨額の報酬のもらい方にいろいろと工夫を凝らしたのも批判を恐れてのことだという。もらい難いならもらわなければいいし、欲しいなら堂々ともらえば良かったわけである。堂々と巨額の報酬を(おそらく起こるであろう批判を無視して)もらい続けることができたか否かは別として、結果的には公表額で我慢していたら、この先ももらい続けることはできたであろうし、その方が結果的にたくさんもらえたかもしれない。欲深き計算違いだったと言えるかもしれない。

我が社もこれから先どうなるかはわからないが、「君子危うきに近寄らず」ではないが、白いラインの内側をしっかり歩きたいと思うのである・・・




【今週の読書】
 ニューエリート グーグル流・新しい価値を生み出し世界を変える人たち - ピョートル・フェリークス・グジバチ 人間の条件 (ちくま学芸文庫) - ハンナ・アレント, 志水速雄





2018年12月7日金曜日

論語雑感 八佾第三(その14)

〔 原文 〕
子曰。周監於二代。郁郁乎文哉。吾從周。
〔 読み下し 〕
()()わく、(しゅう)()(だい)(かんが)みて、郁郁(いくいく)として(ぶん)なるかな。(われ)(しゅう)(したが)わん。
【訳】
周の王朝は、夏殷二代の王朝の諸制度を参考にして、すばらしい文化を創造した。私は周の文化に従いたい。
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 論語に収められているのは、すべて教訓じみた話ばかりというわけではなく、場合によっては意味の分からない言葉もある。今回のこの言葉もまさにそれであり、まったくわからない。周の文化が良いと言っているのはわかるが、夏殷二代にわたる国のどんな諸制度をどんなふうに受け継いで、どんな文化を築き上げたのかがまったくわからない。たぶん、わかる人などいないのであろう。
 
 調べてみると、孔子の生きていた春秋時代は、周が東西に分裂してさらに群雄割拠となった時代である。この言葉の意図するところも、当時身の回りにあった周の文化を支持しているのか、それとも混乱の中で失われた文化を懐かしんでのものかもわからない。わかるのは、ただ孔子が周の文化を支持しているということだけである。
 
 しかし、そもそもであるが、文化とは何かという問題もある。改めて説明を求められると実は難しい。風俗習慣の類だろうかと何となく思う。となると、大抵その中にどっぷりと浸かって生きていると、それが「普通」となるから、なかなか否定しにくいものがあるかもしれない。例えばお隣の国では、悪人は死んでも悪人であり、墓を暴いて骨を粉々にしたって構わないそうだが、我が国は死ねばノーサイドで、死者の墓を暴くなんてたとえ悪人でも躊躇われるところである。

 どちらが良いかと聞かれれば、それは自分たちが慣れ親しんだ価値観に合致した方を選択するだろう。入れ墨を入れるのは主に反社会勢力の人たちであり、だから公共のプールや温泉は「入れ墨」禁止としているのである。しかし、マオリ族の人は入れ墨が反社会勢力の象徴とは考えない。宗教上の理由で牛や豚を食べず、アルコールも飲めないのは耐えられないと思うし、お正月には初詣に行き、12月にはクリスマスを祝うのに抵抗感がない。こういう文化に違和感を持たず、したがって否定もしない。よほどの変わり者でない限り、自分の文化を支持するのではないだろうかと思う。
 
 今の我が国の文化の中で気に入らないことはなんだろうかと考えてみる。それは個人個人の好みによって異なるかもしれないが、私個人からすれば「みんな一緒」という「平等思想」かもしれない。と言ってもこれは難しいところで、「列に順番に並ぶ」といういい面もあるが、「人と違う」ことを排除しようとする悪しき面もある。「隣の人と同じ」というのは、確かに安心かもしれないが、道を外れることに対する抵抗感は大きい。「人を押し退けてでも早い者勝ち」という文化には嫌悪感を覚えるが、みんな同じリクルートスーツで会社訪問する文化もいかがなものかと思うのである。
 
 しかしながら、総じて私も我が国の文化は心地よいと思う。嫌なところ、疑問に思うところはさり気なくかわしていけばいいだけである。子供達が楽しそうなクリスマスを祝い、一週間もすれば一転して神社に初詣に行き、年賀状のやり取りを楽しむ。春には花見をし、みんなが一斉に休むお盆休みには積極的に働き、人が働いている時に休む。秋は味覚とラグビーの季節。そんな文化が心地良い。

 孔子ならずとも、我は日本に従わんと思うのである・・・




【本日の読書】
 ニューエリート グーグル流・新しい価値を生み出し世界を変える人たち - ピョートル・フェリークス・グジバチ 人間の条件 (ちくま学芸文庫) - ハンナ・アレント, 志水速雄




2018年12月2日日曜日

電車で席をゆずる時

先日のこと、通勤で帰宅する時、池袋から準急に乗り、たまたまのタイミングで座ることができた。その時、杖をついたいかにも足の悪そうな人が目に入り、咄嗟に一つ座席をずれて座れるように席を確保してあげた。気がつけば、どうやら私がずれなければ空いていたはずの席に座りそこねたおばちゃんが、口惜しそうに離れて行った。何気無い瞬間的な出来事である。

通勤時間が1時間20分の私は、出来れば座りたいが、椅子取り合戦のようなみっともない真似はしたくない。幸い、池袋からは準急で15分。それほどの時間でもないので、いつも「空いていれば座る」というスタンスであるが、もっと先へ行く人なのであろう、いつも座るために多くの人が列を作って並んでいる。先日は、たまたまのタイミングだったが、普段は座れないことの方が多いのである。

足の悪い人が無事隣に座った時、ふと思ったのであるが、もし席が空いていなかったらどうなっていただろうと。私であれば迷わず席をゆずるが、他の人はどうなのだろう。特に座ろうと思ってわざわざ電車を見送って並んで座った人たちである。そういう人たちも、お年寄りや体の不自由な人に席を譲らないといけないのだろうか。正論を言えば、「譲るべき」なのであろうが、果たしてそうするべきなのであろうか。

同じ疑問に直面したことがあるのを思い出したのだが、それは新幹線の自由席である。私は妻の実家に行った際、1人帰るときはいつも座席指定など取らずに新大阪から始発に並んで自由席に座って帰ってくる(まぁお正月など座席指定を取るのが大変なことが主な理由である)。その時、もしも途中でお年寄りが乗って来たら、席を譲らないといけないのだろうか、と。

新幹線でも池袋でも、座りたいと思う人は、わざわざ電車を見送って並んで席を確保するのである。にも関わらず、「フラリと乗って来た」お年寄りに席を譲らないといけないのであろうか。並んで確保した席が優先席なら論外であるが、普通の席であればそれで譲らされるのも理不尽な気がする。そういう方には、優先席の方に行って欲しいと正直言って思ってしまう。あるいは、座りたいなら並んだらどうかと。

もちろん、そういう方を並ばすのがいいとは思わない。そういう部分も含めての「優先対象者」だと思うからである。座りたいと思って並んで確保した席であっても、目の前にお年寄りや体の不自由な人に立たれたら、それはやっぱり譲らねばなるまい。もしかしたら、それを狙って敢えて若者の前に立つという人がいるかもしれないが、「座れなくても仕方ない」と思って乗ってくる人もいるだろうし、その判別はつけられない。運が悪かったと諦めるしかない。

「同じように並んで座るか優先席に行けば良い」と言っても、途中から乗ってくる場合もある。あくまでも始発駅だから並べるのであって、途中駅ではそれは難しい。そうなると、「わざわざ並んで座ったのに」という言い訳は通じない。さらに優先席の位置がわかればいいが、わからず乗り込んで来ることもある。やっぱり健常者には不利である。ただ、さすがに新幹線は許される気もする。せっかく座ったのに、席を譲って2時間立つのはやっぱり辛いし、座らないと辛い人は、やはり自助努力をすべきだろうと思うのである。

いつもくだらないことを考えてしまうが、新幹線などの長距離列車は別として、都内の電車程度なら譲らなくてもいい言い訳はなさそうである。いつでも譲る覚悟で座るべしと思うのである・・・




【今週の読書】

 寝ながら学べる構造主義 (文春新書) - 内田 樹 人間の条件 (ちくま学芸文庫) - ハンナ・アレント, 志水速雄