2018年3月29日木曜日

世の中というもの

先日の事、車で移動中に見慣れない建物を見かけた。何の建物だろうと思ってよく見たら、パチンコの景品交換所であった。パチンコをやらない私でもとりあえずパチンコの仕組みは知っている。店内で出た玉を景品と称する棒に替え、それを景品交換所に持ち込むと現金に変えてくれる。交換所は当然、そのパチンコ店の運営である。なぜそんな事をするかというと、日本では賭博が禁止されているから、パチンコの玉を直接現金に替えることは賭博行為にあたるからできず、あくまでも店内では「景品に交換する」ことになっているからである。

 子供の頃、親戚の叔父さんがよくパチンコで勝ったと言ってはガムやチョコなどをくれたものである。子供心に大人にはどんどんパチンコに行ってほしいと思ったし、自分でも行きたいと思ったものである。その頃、既にこうした「現金化」が行われていたかどうかはわからないが、わざわざひと手間かけて「景品交換」の形を取ることに何の意味があるのかとも思う。そんな仕組みは誰でもが知っているだろう。警察だってそうである。明らかに脱法行為の現金化であるが、このくらいは良いだろうという裁量の下、建前上「景品交換」という形にすることで見逃しているのだと言える。

 考えてみれば、こうしたことはソープランドについても言える。ソープランドで行われている行為は明らかに「売春行為」であり、売春防止法に違反している。それは警察だってよく知っているが、取り締まったりはしていない。なぜかと言えば、男にとって性欲の発散は不可欠であり、ソープランドがあることによって性犯罪を防ぐという効果もあるだろうし、言ってみれば「必要悪」として目をつぶってもらっているのだと想像できる。パチンコと違って建前はないが、人目につかない密室での行為である事から形式的な建前もいらないのだろう。

 私の働く不動産業界でも事実上の脱法行為は存在する。普通、賃貸の部屋を借りると不動産会社に「仲介手数料」を払うことになる(大家と直接契約すれば不要である)。それは大抵「家賃の一か月分」であることが多い。しかし、実は法律上は仲介業者は大家と賃借人双方から「合計で一か月分」、賃借人からは「半月分」しかもらってはいけないことになっている。しかし、「合意があれば」一か月分もらっていいことになっている。それで普通賃借人からは一か月分をもらい、大家さんからは「広告費」という名目で一か月分をもらっているのである。

 なら、「合意しなければいいのでは」と思うだろうが、それはその通りである。ただ、それを知っている賃借人はほとんどおらず、「手数料は一か月分です」と説明され、ハンコをつけば「合意した」とみなされるのである。もちろん、業者さんによっては「エイブル」のように初めから半月分しかとらない良心的なところもあるが、多くの零細業者はできる限り手数料を稼ごうとするので、堂々と一か月分を請求しているのである。その仕組みを知っている人が抗議してみたら面白いと思うのだが、そうしたら「紹介しない」という対応をされるかもしれない。一度どこかで試してみたいと常々思っている。

 いずれも法律の陰でこっそりと商売をしているものと言える。こういう例はほかにもいろいろあるだろう。それがすべて悪いとは思わないし、法律を改正すべきとも取り締まりを強化すべきとも思わない。それはきっと社会に必要な「矛盾」なのだと思う。人間社会のことだから、何でもきっちり決めてやるというわけにもいかないのだろう。売春も合法化するのは問題があるし、きっちり取り締まれば別のところで犯罪が増えるかもしれない。そういうジレンマをうまく解消しているのだろう。

 民泊やウーバーなどの新しいサービスは、そもそも法律が追い付いていないというものもある。個人的には「矛盾」は好きではないのであるが、世の中いろいろな都合があって「矛盾」をスルーすることによってうまく収まっているのかもしれない。憲法第9条なんてその最たる例だろう。一々目くじら立てていても仕方がないのかもしれない。それでも個人的には憲法くらいは「矛盾」を解消するべきだと思うが、考えてみればそれも世の中に必要な「矛盾」なのかもしれないとも思う。

それで世の中がうまく回っているのであれば、こうした世の中の「矛盾」も悪くはないのかもしれないと思ってみるのである・・・




【本日の読書】
 多動力 (NewsPicks Book) - 堀江 貴文 死の島(上)(新潮文庫) - 福永 武彦






2018年3月25日日曜日

コストか投資か

もう数年前のこと、同窓会の幹事をしていて同窓会の活性化案をいろいろと考えたことがあった。活性化のために必要なのはまず人を集めること。それも年に1回の総会に人を集めることを考えた。そこでまずネックになっていると考える「会費(6,000)」を無料にすることを提案した。今はちょっと居酒屋へ行っても4,000円もあれば十分楽しめる。わざわざ6,000円も払ってくるのは、よほど好きな人か参加するのが定例行事と化している人ぐらい。だから来るのはいつもの固定メンバーと化していたのである。

新しい人を呼び込むのにまずは会費という壁を取り除こうと、私は総会の無料化を提案した。無料であれば、少なくとも2つあると私が考えていた大きなハードルのうち1つは消える(もう1つは「知り合いがいない」だ)。そこで考えたのは、総会の経費を「コスト」ではなく、「投資」と考えること。「コスト」であればどうしても消極的になるが、活性化策に対する「投資」と考えるなら納得性もあるだろうと思ったのである。ところが、「タダで飲み食いするのはけしからん」等の意見が主流を占め、私の考えは理解されなかった。

「投資」であろうと、「コスト」であろうとお金が出て行くことには変わりない。要は考え方の違いなのであるが、どう考えるかは重要ではないかと思う。もし、皆が「投資」と考えてくれていたら、「タダで飲み食いするのはけしからん」という発想は出て来なかっただろう。あれから何年も経過しているが、同窓会総会への参加者は依然として増えていない。同じことは、企業においても言えると思う。例えばそれは人件費である。

人件費は管理会計上は販管費に分類される。つまり「コスト」である。コストである以上、できるだけ抑えようと考えるのは当然の経営発想である。けれどこれを「投資」と考えると、また考え方も変わる。例えば私の勤める中小企業でも、現在来年度の社員の給料を少し上げることを提案している。ここのところみんなの働き方も変わってきていて、よくあるように「言われたことだけをやる」というスタイルではなく、自分なりに工夫して「プラスαの働き」をしてくれるようになっている。それを評価して、さらなるモチベーションアップにしてもらえたら、との考えからの提案である。

と言っても、社員総数10名の中小企業である我が社では、給料のアップといってもたかが知れている。今回私の提案している案は、年間の金額に直すと30万円である。1人あたり数千円の世界である。もちろん、給料は一年だけのことですまない。それがずっと続くわけであり、10年としても300万円である(平均年齢の高い我が社では、あと10年働く人が果たしてどのくらいいるのだろうという感じである)。この金額をどう考えるか、である。「コスト」と考えるなら、私もちょっと考える。しかし、「投資」と考えれば抵抗感は少なくなる。

同じことでも考え方を変えると結論も異なる。例えば今回我が社では、ある販売用不動産の売れ行きが悪く、思い切って500万円価格を下げようと言う意見が出てきた。どうしようかと迷っていたら、買い手がついて、結局200万円下げただけで契約できた。差額の300万円は失わずに済んだわけである。不動産を売るとなれば、500万円ものディスカウントを一気にやろうとする。「戦力の逐次投入は愚策」と社長は考えたのであるが、それはそれなりに正しい。しかし、値下げした分は永久に失われるわけである。

それに比べれば、社員のモチベーションアップにつながると考えられる投資300万円について渋るのは理に適っていない。少なくとも、一瞬で失われてしまう値下げよりも確実に会社にプラスになって残る。どうせ使うのなら、こういうお金の使い方をするべきだと個人的には思う。お金の使い方はいろいろである。どうせ使うのなら、それが「コスト」なのか「投資」なのかを考えてみる必要はあると思う。その場で消えてなくなってしまうものなら「コスト」であるし、後でリターンとして戻って来るのなら「投資」である。

何事につけそうした意識を持ち、「コスト」であるなら抑制的に考えればいいし、逆に「投資」と考えるべきものを「コスト」としてしか見れないようなことは避けたいと思う。そうした見る目を持ち続けたいと思うのである・・・




【今週の読書】
 ありがとうの魔法 - 小林 正観 死の島(上)(新潮文庫) - 福永 武彦





2018年3月21日水曜日

三方良し

金融の世界から不動産業界に転職してきた我が身であるが、いろいろなところでカルチャーの違いをこれまで感じてきた。その一つが、「職人の言葉使い」である。我が社はもともとが建設業の会社であり、社内には現場監督も経験した職人さんが工事部長をしている。内装工事等を自社で手がけられるのもそのためであり、会社の強みの一つにもなっている。そんな工事部長であるが、職人同士の会話となると、聞いていてハラハラするくらい言葉使いがぞんざいである。

その会話を聞いていると、とても他の会社の人との会話とは思えない。「友達言葉」ならまだいい方で、敬語などカケラも出てこない。もちろん、社内ではみんなと普通に会社員らしい言葉使いで話しているからそういう話し方ができないわけではない。しかし、職人同士となると途端である。まぁ職人の世界は逆にその方がいいのかもしれないし、それについてはあえて何も言わないことにしている。が、それにも増して気になるのは「値切り交渉」である。

下請け作業を依頼するに、先方からは必ず見積もりを取るのであるが、出てくると必ずまけさせる。払う方としては少しでも安い方がいいから悪いとも言えないが、でもなんとなく気になる。そんな疑問が先日露出する。あるちょっと規模の大きな工事を新しく付き合い始めた会社に発注した時のことである。提出を受けた見積もりはその会社が売り込みに来た時のもので、こちらで予測していた金額よりかなり安かったため、発注することにしたのである。

ところが、ここで工事部長がその見積もりに対し、さらなる値切りを始めたのである。それも例のぞんざいな口調で、である。相手もかなりギリギリの数字を出してきていたのであろう、その困惑が見て取れたのでディスカウントの依頼は取り消し、もともとの価格で発注した。工事部長は「見積り通りで発注するなんてありえない」と不満気であった。これはどちらが正しいという問題ではなく、考え方の問題である。

私の考え方としては、確かに安いのに越したことはないが、大事なのは信頼関係だと思う。そもそもこちらが予定していた価格よりもかなり低い見積もりであったわけであり、会社としてはそれで助かっている。相手も自分の出した見積もりで、希望する採算を確保できるならお互いにハッピーと言える。いわゆる三方良しだと思う。これに対し、さらにディスカウントすることで利を得るのは我が社だけである。

これがいわゆる「下請けいじめ」の典型だろうと思う。発注する側は確かに立場が強いわけであり、仕事をもらう方としては仕事が欲しければ相手の要求を呑むしかない。安くしろと言われれば価格を下げざるをえないが、それで利益が取れればいいが取れなければ死活問題である。もちろん、すべて言い値で取引すればいいというものではないのは当然で、ある程度の適正価格はこちらでも掴んでおかなければならない。発注側という強い立場にあるなら、それを理由してうまく自分と相手との利益を調整すればいいと思うのである。

そもそもであるが、建設業界というところは相手に対する信頼感が欠かせない業界だと思う。見えない手抜きをされても、それを見抜くのは容易ではない。内装工事程度であれば目を光らせていれば大丈夫だが、今回の発注のように規模が大きな外装工事となるとそれも容易ではないはず。一昔前の姉歯事件やマンションが傾いたりする事件はみんな行き過ぎたディスカウントが根底にあるのではないかと思う。相手に安心していい仕事をしてもらうためにも、「気持ちの良い支払い」は必要だと自分は考える。

先日読んだ本の中に、「一人一人の力は微力であって無力ではない」という言葉があった。無力ではない以上、そういう考え方で続けていればそのうち何らかの形になるかもしれない。いい言葉だと思う。何かと行儀の悪い不動産・建築業界だからこそ、関わる人たちといい関係を続けて行くためにも、「微力」を尽くしたいと思うのである・・・




【今週の読書】
 ありがとうの魔法 - 小林 正観 死の島(上)(新潮文庫) - 福永 武彦





2018年3月18日日曜日

論語雑感 為政第二(その21)

或謂孔子曰。子奚不爲政。子曰。書云。孝乎惟孝。友于兄弟。施於有政。是亦爲政。奚其爲爲政。
()るひと(こう)()()いて()わく、()(なん)(まつりごと)()さざる。()()わく、(しょ)()う、(こう)なるか()(こう)兄弟(けいてい)(ゆう)なり、有政(ゆうせい)(ほどこ)すと。()()(まつりごと)()すなり。(なん)()(まつりごと)()すことを()さん。
【訳】
ある人が先師にたずねていった。先生はなぜ政治にお携さわりになりませんか。先師はこたえられた。書経に、孝についてこのようにいってある。『親に孝行であり、兄弟に親密であり、それがおのずから政治に及んでいる』と。これで見ると、家庭生活を美しくするのもまた政治だ。しいて国政の衝にあたる必要もあるまい
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孔子の言動を追って行くと、それはそれはなかなかの人格者だというのがわかる。そんな人格者なら、当然誰もが人々の指導者になってもらいたいと思うだろう。ましてや2,500年前の中国では、人々の「権利」などという概念もなかっただろうし、安定した生活を送るためにも人格者に政治を任せたいという気持ちはあっただろう。従って、孔子に政治をやらないのかというのは、当然な疑問であり願望であったと思う。

それに対する孔子の答えは、「家庭生活を美しくするのもまた政治」というもの。何も国家の指導者にならずとも、生活を良くしていくという意味では政治家も家庭の夫も変わらないという考えはよく理解できる。逆に言えば、家庭生活を美しくできなければ、国なんて余計に美しくできないという事が言えるのかもしれない。似たような事は、実は自分も「リーダーシップ」ということに関してよく考えている。

リーダーシップというものは、どこの組織であろうとそれほど大きく変わらないものではないかと思うのである。例えばスポーツのチームと会社組織などはそれがよく当てはまると思う。スポーツでも会社組織でも、まず組織の目標というものがある。リーグ戦に勝ち抜くことか、ライバル企業との競争に勝ち抜くことかの違いはあるとして、競争の中で目標を達成するという意味では同じである。

その目標に向けて、チームのメンバーを鼓舞していかなければならない。目標を明確に示し、メンバーにその役割を認識させ、そしてその力を最大限発揮するように仕向ける。個々人がその力を最大限発揮し、組織としてのチームワークを織りなせば、いい成績を残せるだろう。会社やチームの組織の大小はあろうが、この原則は変わらないと思う。更に言えば、組織を国と考えると国民のリーダーとしての政治家にも同じことが言えるのかもしれない(最も国家としての目標が何かということに影響はされるかもしれないが・・・)

政治の目的を「国民生活の安定」、あるいは「国民の幸せ」と定義するなら、「国民」を「家族」と置き換えればそれは家庭に当てはまる。大小の違いはあるとしてもやるべき事は(大小の違いだけで)同じだと言えるのだろう。そう考えれば、孔子の言わんとしている事はよく理解できる。ただ、そういう返事をもらった「或る人」は、たぶんその答えに満足しなかったのではないかと思う。小さな組織でうまくやっている人なら、それをもっと大きな組織でやってほしいと思うからである。

ただ、やっぱりリーダーシップと違って政治は家庭と比べるのは無理があるかもしれないとも思う。「家庭生活を美しくする」とはどういう事かを考えてみると、一家の大黒柱(何をもって「大黒柱」とするかは最近疑問であるが、とりあえず経済的な意味とする)とすれば、まずは収入の安定(できればその増加)がある。国家も経済力は重要であるから同じであるが、医療や福祉、治安維持等組織が大きくなれば組織作りも必要となってとても家庭規模では収まらない。それに良き家庭人が必ずしも良き政治家という事にはならない事は想像に難くない。そういう意味では、孔子の答えはちょっと違うと言えるかもしれない。

そもそもであるが、ここにあるやり取りは孔子の思想を伝えているのかと思うと個人的には疑問に思う。例えば自分が政治家にならないのかと尋ねられたら、「No」と答えるであろう。たとえそういう機会に恵まれたとしても、政治家を目指すのはなんとなく「面倒」である。もしかしたら、孔子も実は「そんな面倒臭いこと」と内心思ったのかもしれない。そう言っては身も蓋もないから、「家庭も一緒」と答えたのではないかと疑ってみたりする。

案外、それが真相だったりして、と思ってみたりするのである・・・




【今週の読書】
 「原因と結果」の経済学―――データから真実を見抜く思考法 - 中室 牧子, 津川 友介 終わった人 (講談社文庫) - 内館牧子





2018年3月14日水曜日

それは病気か

ある高校生の悩みを聞いた。学校でクラスに馴染めないらしい。どうもクラスメイトとの人間関係に「気を遣って疲れてしまう」らしい。私も実は人見知りであり、初対面の人は苦手な口である。できれば新しい人とは知り合いたくないし、友達も今以上増やしたくはない。ある程度慣れてしまえば平気であるが、それまではとにかく話すだけで疲れるので、その子の気持ちもわからなくもない。ただ、学校に行きたくないとまではいかないので、そこがよく理解できないところである。

 その子に限らず、会社に行けないサラリーマンの話など、今やどこにでも転がっている。そのうち「国民病」になるのではないかと思うくらいである。先の子も仲の良い友達はいるみたいであり、まったくの人間嫌いというわけでもなさそうである。「合う合わない」があるのも理解できる。ある程度人はみなそうした人間関係を負担に思うものだと思うが、極端に走るのは何が原因なのだろうか。素人にはとても理解できるものではない。

 ある意味、「心が繊細」だとは言えるかもしれない。そういう状況になってしまうと、では「心療内科にでも行って診てもらうか」としか素人的には思わないが、それはそれがベストなのかもしれない。ただ、医者に通わなければならない状況だからと言って、それが果たして「病気」なのだろうかという疑問も頭を過る。普通と違う状況に対して、「異常だ」と判断し、何でも病名をつければいいものではないようにも思う。

 たとえばもはや国民病とも言え、ちょうど今の時期苦しんでいる人も多い花粉症だが、これも病気と考えるのはちょっと迷うところ。花粉症とは、スギなどの花粉に体の免疫が過剰に反応しているものだろう。私のように何ともない者は、花粉に対し体が反応していないということであり、そちらの方が異常なのかもしれない。ちょっとした異臭にすぐ気がつく人もいれば、私のようにほとんど気がつかない者もいる。ちょっとした音が気になる人もいれば気にならない人もいる。

ひょっとしたら人間関係に悩む人は、普通の人が気にならない相手の反応を敏感に感じ取ってあれこれと考えてしまうのかもしれない。私などは、相手が誰であろうと割と平気で自分の意見を言えるが、それで傷ついたり不快な気分になっている人はたぶんいると思う。私も気がつく限りは反省して気をつけるようにはしているが、なにせ私のセンサーは感度が悪いからどうにも心もとない。感度の良いセンサーを備えた人だと、それ故に疲れてしまうのかもしれない。ある意味、「鈍感」こそがこの世の中を快適に暮らしていける要素なのかもしれない。この時期、外で思いっきり深呼吸できる身としてはそう思う。

その昔、子供の頃よく母親に「人の気持ちがわかるようにならないとダメ」と言われたものである。それに対し、「人の気持ちなんてわかるかよ」とよく反発していたものである。その考えは今でも変わらない。仕事ではよくお客さんの気持ちを想像して行動するようにはしているが、基本的に人の気持ちはわからないというのが自分の確固たる考えである。「以心伝心」なんて幻想だと思う。

それでうまくいっているなんて自惚れているわけではないが、できないものは仕方ない。人の気持ちなんてわからないし、わかりたくもない。考えてみれば、基本的に1人が好きなのも人間関係のわずらわしさが嫌だからであり、だから友達も少なく、大学時代の友人などは両手で数えてもお釣りがくる状態である。これからも無理に新しい人の輪に自分から出て行って入りたいなどとは思わない。きっと悩める高校生の子は、こんな鈍感な開き直りができないのかもしれない。

少しでもこんな話を悩めるその子に伝えたい気もする。これから出ていく世の中は、学校のクラスどころではなく、もっと大勢の人と関わり合わなければならないし、その中で感度の良いセンサーを持っているとかなり苦痛になるかもしれない。もっと気楽に、周囲に気を遣わせるぐらいでもいいのにとも思う。

今が人生の悩める一時期であり、早く乗り越えて楽しい高校生生活を送れるようになってほしいと願うのである・・・




【本日の読書】
 孤独について 生きるのが困難な人々へ (文春文庫) - 中島 義道 「原因と結果」の経済学―――データから真実を見抜く思考法 - 中室 牧子, 津川 友介






2018年3月11日日曜日

シニアスポーツ

最近、毎週土曜日に某大学ラグビー部のOBチームに参加させてもらって練習に励んでいる。以前から母校ラグビー部のシニアチームに参加していた(『やっぱり走ろうと思う』『練習再開』)が、なにせ母校のチームは練習は月に1回とあって、だんだん物足りなくなってきたのである。そこでツテをたどって、今のチームに参加したという次第である。

メンバーは、60代から70代が大半。私のように50代は「若手」である。練習はただのジョギングと違って、走るスピードの強弱やパスやパント(ラグビーのキック)というバリュエーションがある。自分と敵との関係では瞬間の判断が求められる。運動不足の解消だけではない面白さがあって、参加する意味は大きい。それに最近高校時代の同期の友が練習に来るようになり、彼に「スクリューパス」を教えることで新たな学びも得られるようにもなった。

その同期とともに練習していた高校時代は、もう35年以上前になるが、パスは平パスと言われる普通のパスで、スクリューパスは高校生にはまだ早いという雰囲気であった。それが今では普通に広まっている。同期はもちろん投げたこともないから、教えてくれと頼まれたのである。こちらもなんとなく習得したので、基本をきちんと確認したいと思ったが、最近はYouTubeという便利なものがある。しっかりと基本をチェックできるのがありがたい。

さて、練習の方であるが、シニアの面々はやっぱり動きが緩慢。その昔、シニアの試合を観て「みっともない」と思ったのは間違いではなく、ラグビーの醍醐味である激しいコンタクトプレーなどはできようもない。みんな昔はそれなりにやっていたのだと思うが、やっぱり肉体も衰えて来ると動きも悪くなるのだろう。そう言えば、100歳以上での100メートル走の世界記録は4222だという。歩いてもそのくらいかと思えるが、「老化」とはそういうことだとすれば、みんなのプレーも無理はない。

しかし、それでもみんな試合をする。同世代同士なら条件は同じ。しかもパンツの色で年代分けをしてハンディをつける。50代は紺、60代は赤、70代は黄色、80代は紫であり、赤以上のプレーヤーにはハードタックル厳禁である。今度初めて試合に参加するのだが、紫パンツの人には「触ってもいけない」と冗談半分で注意されている。相手のパンツの色を見て、瞬時にタックルするかホールド(捕まえるか)するかを判断しないといけないというのは、結構難しいかもしれないと思っている。

そんな年になってまでなんで「みっともない」ラグビーをするのかと、若い頃は思っていたが、最近は練習に参加している大先輩たちの生き生きとした顔を見ていると、その理由もよくわかる。みんなラグビーが好きなのである。それも観るだけでは飽き足らない、自分でやるという魅力である。そうしたメンバーがあちこちから集まってきてチームを作っている。今度の試合は、母校(こちらは高校の方だ)OBチームの試合であるが、味方にも相手チームにも今のチームで一緒に練習しているメンバーが入っている。

テレビで観るような試合とは程遠いシニアの試合は、激しいプレーは見られないし、動きは緩慢だし、基本的なプレーもおぼつかなかったりして確かに「みっともない」。しかし、当人たちは真剣で、自分のできるプレーを精一杯こなしボールを追う。まだ50代の自分は、赤黄の先輩たちから比べたら動きは鋭く、プレー面では優位に立っている。適度な「手加減」を求められる立場である。だが、いずれ「手加減される」立場になるだろう。

その昔、テニスなどのスポーツは、生涯続けられていいなと思ったことがある。そういうスポーツを(ラグビーから遠ざかった時)始めようかと思ったこともある。自分も幾つになってもスポーツをしたいと思ったからである。だが、78歳の先輩が走っている今のチームを見ると、ラグビーも立派な「生涯スポーツ」である。多分この先自分もテニスやゴルフすらも無縁のままかもしれない。ゲートボールなど間違ってもやらないだろう。

シニアスポーツについてはいろいろな意見があるかもしれない。しかしやっぱりそれは「好きなもの」であることが、当然ながら一番である。「もう若くないからできない」というのは言い訳であって、やろうと思えばラグビーですらできてしまう。78歳の先輩は、「今度の試合に出たいから」と言って練習に出て来る。自分もそこまでできるかどうかはわからないが、できる限りは続けてみようかなと考えている。

みっともなくてもいいと思う。それは他人が決めることではなく、自分が決めること。さしづめ、今度の試合ではスタンドオフという初めてのポジションに挑戦させてもらえるし、しっかり練習して楽しみたいと思うのである・・・




【今週の読書】
 山地酪農家 中洞正の生きる力 (ソリストの思考術) - 中洞 正  孤独について 生きるのが困難な人々へ (文春文庫) - 中島 義道




2018年3月7日水曜日

常に正しい正義

大学時代、法学部に所属し法律を学び始めた私は、法律の考え方に感心するとともに疑問を持つことも多々あった。その一つが「違法収集証拠排除法則」である。これは、刑事訴訟法(私はゼミでは刑事訴訟法を選択したのである)で、その名の通り「違法に(手続きに反して)収集された証拠」について(たとえそれがホンモノだとしても)「その証拠能力を認めない」とするものである。これに該当すると(手続きを間違えると)、犯罪を犯した人が合法的に無罪になることもあり得るというものである。

 それでいいのかと、法律を学びたての私は思ったものである。しかし、それは「正義であれば何をしても良い」という考え方を排除するもので、真犯人を釈放するリスクがあったとしても、守らなければならない大事な原則とされている。正義を追求するあまり、行き過ぎた捜査によって冤罪などの最悪な結果だけは防ごうという趣旨だろう。しかし、悪は常にずる賢い。そんな法律の趣旨をあざ笑うかのように、巧みに法の網の目をかいくぐり悪は世にはびこる。そんな悪に善人である庶民は煮え湯を飲まされる・・・

 そうした悔しさがあるからこそ、「必殺仕事人」のような番組が創られ、ヒットするのであろう。私も藤田まことが演じる八丁堀の旦那こと中村主水が、昼行燈と呼ばれながら影では正義の裁きを求める声に応じて仲間たちと天に代わって成敗するストーリーが大好きであった。それは世の東西を問わず、ハリウッド映画の世界でもいろいろ創られている(バットマンパニッシャーなど)からいずこも同じなのであろうと推測させられる。

「法で裁けぬ悪を成敗する」というのは実に心地よいが、それは一方で危うさをも秘めている。要は、「本当に正しいのか」という部分である。例えば『殿、利息でござる!の先代・浅野屋甚内十三郎のように、世間では強欲商人と言われていても、その実は貧しき人に慈悲深かったりするような人は、誤解されて成敗されてしまうかもしれないのである。正義もある一面だけを持って判断するのは難しい。

それに人はとかく自分の意見こそが絶対的に正しいと思いがちである。そしてそれについてしばし盲目的になりやすい。その場合、反対する相手の意見をとにかく否定し、聞く耳すら持たなかったりする。自分の意見も大事であるが、そこには常に客観的になれる冷静さも必要だと思う。そのように言えばだれもが賛成するだろうが、具体的に自分のことになると客観的にはなれず、「正義の暴走」になることもよく目にすることである。特に権力や影響力を持つ人は意識しないといけない。

昨年、ニュースで世間を騒がせた「森友・加計学園」問題に対する朝日新聞を筆頭とするマスコミの報道は(収まったかと思ったらまた再燃しているが)、そんな「正義の暴走」を思い起こさせる。『徹底検証「森友・加計事件」――朝日新聞による戦後最大級の報道犯罪』を先日読んだばかりであるが、その本を読んだからというわけではなく、自分の主張に不利なニュースは流さないという「報道しない自由」などという言葉を振りかざされると、まさに「暴走」の感がある。本の内容もそれだけで真実の裏付け感がある。

それは例えば、警察が事件の犯人を逮捕した際、実は(犯人に有利な)アリバイが出てきた時、「捜査しない自由」などと言ってそのアリバイを調べないで起訴したとしたら、それこそ冤罪につながる恐ろしいことである。そういう証拠が出てきたら、一旦冷静になり客観的立場からもう一度事件を捜査するスタンスが必要である。自分たちの主張に不利なニュースを「報道しない自由」もこれと同様に考えると、よくもまあ堂々と主張できるものだと呆れてしまう。

思えば子供の頃は、新聞に書いてあることはすべて真実だと思っていた。そしてマスコミは常に公平なのだと。相対する意見を両論対等に扱い、何が真実か冷静に追求していくというマスコミの理想像は、もはや朝日新聞などのメディアには当てはまらないようである。いや、朝日新聞にとどまらず「俺たちが真実だと考えるものが真実」という傲慢な姿勢は、すべてのマスコミに通じると言っても大げさではない。

自分としてはそんなマスコミに何かを期待するなどいうことはもうない。期待するだけ無駄なのでニュースは自分なりに取捨選択していくしかないと思っているが、「人の振り見て我が振り直せ」は心掛けたい教訓だろう。権力も影響力もない身であるが、そんなスタンスを常に意識したいと思うのである・・・




【本日の読書】
 3億人の中国農民工 食いつめものブルース - 山田 泰司 ものの見方が変わる 座右の寓話 (ディスカヴァー携書) - 戸田智弘





2018年3月4日日曜日

論語雑感 為政第二(その20)

季康子問。使民敬忠以勸。如之何。子曰。臨之以莊則敬。孝慈則忠。舉善而教不能則勸。
季康子(きこうし)()う。(たみ)をして敬忠(けいちゅう)にして、(もっ)(すす)ましむるには、(これ)如何(いかん)せん。()()わく、(これ)(のぞ)むに(そう)(もっ)てすれば(すなわ)(けい)孝慈(こうじ)なれば(すなわ)(ちゅう)(ぜん)()げて不能(ふのう)(おし)うれば(すす)む。

【訳】
大夫の季康子(きこうし)がたずねた。人民をしてその支配者に対して敬意と忠誠の念を抱かせ、すすんで善を行なわしめるようにするためには、どうしたらいいでしょうか。先師はこたえられた。支配者の態度が荘重端正であれば人民は敬意を払います。支配者が親に孝行であり、すべての人に対して慈愛の心があれば、人民は忠誠になります。有徳の人を挙げて、能力の劣った者を教育すれば、人民はおのずから善に励みます
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今回の言葉は、政治面での国家の指導者についての言葉であるが、ある程度の組織になればどこにでも当てはまるリーダー論でもあると思う。それはスポーツのチームであっても、会社であっても同じなのではないかという気がする。これについて、仕事面でこの言葉の意味を考えてみたいと思う。

「態度が荘重端正」とは、言葉や言動が正しく筋が通っているというような意味なのだと思うが、まずもってこういう要素がないと下の者の敬意は得られないであろう。
昔の上司にいつも不機嫌な表情をしている方がいた。時折聞く経歴や過去の苦労話などからは尊敬できる要素の高い方であったが、どうにも疑問に思う点が2つあった。それは朝挨拶を返してくれないことと、議論の途中で黙り込んでしまうことであった。もともといつも不機嫌な表情をしている方であったが、朝挨拶をしてもそのままスルーであった。それは私に対してだけではなく、みんなに対してであった。

挨拶は、言うまでもなく人間関係の基本である。1日のスタートは挨拶で始まる。それがスルーされてしまうと、こちらも何か悪いことをしたのかな」と思ってしまうし、話しかけるのが憚られるし、あれこれと余計なことを考えなければならなくなる。挨拶ぐらい素直に返してくれたら、こちらもスムーズに1日の仕事に入っていける。たったそれだけのことなのに、その方は何を考えていたのか今でもわからない。

そして仕事を巡って議論になると黙ってしまう。議論といっても激しいものではなく、言われたことに対して、それでいいのかなと思った疑問をぶつけてみたようなケースである。そうした意見や疑問がもしかしたら気に食わなかったのかもしれない。「黙って言われた通りにやれ」ということだったのかもしれない。こちらの意見に対する回答が「沈黙」ではやりきれなかった。

人間である以上間違いはある。その方の指示通りにやって(疑問の残る指示であったから、こちらからは意見を申し上げたが当然スルー)、懸念した通りトラブルとなったことがあった。そういう時、部下の立場からするとミスした上司に対する思いは普段の言動次第である。その時「それ見たことか」と思ったのは当然である。これが意見を聞いてもらった上で、改めて「俺の言う通りにしてくれ」とでも言われていたら、反感はまったく抱かなかっただろう。

続いて次の要素である「親に孝行」と言うのはいかにも儒教らしいが、上司や社長がそうであれば「心象」はいいだろう。「この人はいい人だ」という思いを根底にいだければ、その後の関係にも影響すると思う。さらに部下や社員に対し慈愛の心があれば、たとえ怒られても素直に指導が聞けるだろうし、次はミスしないように頑張ろうと前向きな気持ちを維持できる。この「怒られても素直に聞ける」という部分は、人格以外の何物でもない。

「有徳の人を挙げて、能力の劣った者を教育す」るとは、「有能な人をきちんと評価し、能力の劣る人は丁寧に教えて仕事ができるようにすれば」と解釈したが、そうすればみんなモチベーションを維持して頑張るだろうと思う。基本的に日本人は皆真面目だし、「こういう風に仕事をしてほしい」と説明すれば、大概のことは理解して実行してくれるだろう。そしてその結果をきちんと評価してあげれば、誰でもいい仕事をしてくれると思う。私の信念であるが、「(部下を)使えない上司」はいるが、「使えない部下」はいないのである。

論語は、長い年月を経ても変わらない真理を言い表している言葉が多くあるが、この言葉も「国の支配者」だけでなく、「組織のリーダー」についても大いに当てはまる言葉であると思うのである・・・


【今週の読書】
 徹底検証「森友・加計事件」――朝日新聞による戦後最大級の報道犯罪 (月刊Hanada双書) - 小川榮太郎 チェルノブイリの祈り――未来の物語 (岩波現代文庫) - スベトラーナ・アレクシエービッチ, 松本 妙子