2018年10月25日木曜日

我が子に望むもの

結婚してしばらく夫婦2人の生活を楽しんでいたが、やがて子供を授かったとわかった時、得も言われぬ喜びを感じたことを覚えている。その喜びは我が子の誕生の知らせによって頂点に達したと言って良い(もちろん、その後も我が子の成長に伴う喜びは多々あった)。出産までの間、だんだん大きくなる妻のお腹を眺めては、とにかく無事に生まれてきて欲しいと願い、それこそが唯一最大の願いであった。それは誰もがそうであろうと思う。

しかしながら、その願いは我が子の成長に伴って日々変化していく。妻などはやれアトピーだ、ハイハイの時期が遅いかもしれないとか、歩くのはいつ頃かと、とにかくいろいろ心配していたようである。その時期が来れば、希望の幼稚園に入れるか否かとか、小学校に入れば将来のために勉強をさせた方がいいだろうと通信教育を始めたり・・・まぁ世間の親は(特に母親は)みんなそうなのであろう。

妻との教育方針の違いは既に中学受験の時に表面化し、「公立中学校で十分」とする私と受験派の妻とが対立、結局妻に凱歌が上がる。世間の親もみんなそうだろうと思うが、我が子の幸せを願う気持ちは一緒だが、その方法論が私には受け入れ難い。それはともかく、「良い高校」「良い大学」「良い企業」という旧態依然とした人生設計を良しとするもので、そのために目を血眼にして我が子に勉強させようとする。

しかし、私などは自分の経験(公立高校→一流国立大学→大手都市銀行→中小企業)に基づいて考えてみると、やっぱり小学校、中学校で「受験、受験」というのはバカげていると思う。それはたとえればマラソンにおいて最初から先頭集団で飛ばせというようなものである。まだ成長途中の子供がそんなに勉強できるわけがないし、勉強したとしても途中で息切れするものだと思うのである。やらせる親は自分でやったことがあるのかと疑問に思う。

事実、私の小学校時代のある友人も、早くから塾通いをしていて成績も良かったが、私立の中学に進み、最終的に彼が入ったと聞いた大学は私など何の苦労もなく入れるところであった。それが悪いとは言わないが、要は受験勉強など中学3年からやれば十分だというのが私の考えである。もちろん、それで一流高校に入れないという意見があるかもしれないが、私の考えはそれで構わないというものである。敢えて言えば、2番手レベルくらいのところに入れるようにはしたいところである。

その際、間違っても付属高校には入れたくない。それは大学受験をさせたいと思うからである。受験はよりランクの上の学校へ入るためというより、1つの「試練」と考えている。人生いろいろなところで試練があるが、人はだれでも成長過程においてそれを体験すべきだと思う。受験など失敗したところで大したことはないし、それに対して本人にはプレッシャーがかかる。そのプレッシャーの中で、目標を決めて頑張れる機会としては受験はいいと思う。

大事なことは、幼児時代ならいざ知らず、「親は子供の面倒を途中までしかみれない」という事実である。いずれ子供は自立しなければならない。ならばその時に困らぬ様、親としては子供をトレーニングしておきたい。この先、どんなことがあっても自分で生きていけるように、である。それは一流企業に就職したらOKというものではない。大企業だって(JALのように)倒産もするし、リストラに遭うかもしれないし、仕事のプレッシャーに負けて鬱になるかもしれない。「大企業に入って安泰」とは言えないのは自明の理である。だが、世の母親たちはそれを理解していない・・・

就職しても勉強は必要である。それは社内の競争だったり、必要に迫られた資格の取得だったりするかもしれないが、学生時代とは違う仕事に必要な勉強である。そしてそれには終わりがない。なぜなら世の中は常に変化しているし、生き残っていくには油断できないと思うからである。そんな勉強をずっと続けていかれるかどうかは、その都度受験という試練をこなすことによって培われるノウハウと気力だろう。わけもわからぬまま勉強させられて、勉強することが嫌になってしまったら元も子もないと思う。

我が子については、無事生まれて来てくれただけで十分だと思う。あとは何があってもしっかり生きていかれる力をつける手助けをすることだ。一流企業に就職したら終わりというものではない。本人が望むなら大学に行かなくてもいいし、「役者になりたい」と言っても止めたりはしない(ただ、どれほど困難な道かは教えるだろう)。そう考えているから子供の進路について気になるのは、「何か迷ったり困ったりしていることはないか」だけである。

娘は来春高校を卒業するが、その先どうするかは未定だ。どうやら受験する気はなさそうだ。妻はヤキモキしているが、私は別に大学に行かなくても良いと思っている。それより中学1年の息子が今から大学受験を避けるため付属に行きたいとほざいているのを何とかしたい。妻も同調しているから手強いが、ここは時間をかけてじっくり考え方を変えさせたいと思っている。まぁそうは言っても最終的には本人次第だが・・・

 無事生まれてくれれば何もいらないと思っていた事を考えると、無事に生まれてくれたからそれだけでも幸せである。それを肝に銘じて子供たちと接していたいと思うのである・・・




【本日の読書】
  


 

2018年10月17日水曜日

論語雑感 八佾第三(その12)

〔 原文 〕                     
祭如在、祭神如神在。子曰、吾不與祭、如不祭。
〔 読み下し 〕
(まつ)ること(いま)すが(ごと)くし、(かみ)(まつ)ること(かみ)(いま)すが(ごと)くす。()(のたま)わく、(われ)(まつり)(あずか)らざれば、(まつ)らざるが(ごと)し。
【訳】
孔子が先祖の祭りを執り行う際には、あたかもご先祖の魂がそこに臨在するかのように畏敬の念を捧げた。又、神様を祭る場合には、あたかも神様がそこに降臨されているかのように敬虔な態度を示した。そして、「祭りを執り行うのに、こうしないと祭った気がしないのだ」と云った。
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今は他のご家庭では仏壇があるのだろうかと、ふと思う。そういう我が家に仏壇はない。と言っても信仰心が薄いわけでもなく、多分まだ両親が健在ということも大きいと思う。実家へ行けばそこにはちゃんとした仏壇があり、両親それぞれの祖父と祖母がともに並んで微笑んでいる写真が飾ってある。最後まで存命だった父方の祖父が亡くなったのはもう25年前である。

実家では、ご飯の時に米を炊くと、まずは炊き上がった最初のご飯を仏壇に供える。私も実家へ行った時は進んでこの役割を引き受けるが、その時当然仏壇で手を合わせる。そして心の中で祖父と祖母たちに話しかける。内容はその時々であるが、「じいちゃんとばあちゃんの子供(つまりは私の両親だ)をお見守りください」というのが多い。その時は、「あたかもご先祖の魂がそこに臨在するかのように」しているなぁと改めて思う。

また、年に一度、近所の北野神社に初詣に行くが、その時も手を合わせながら心の中で神様に話しかけている。まぁ大抵は両親の健康と家族の健康祈願といったところで、自分のことは祈らない。しかし、これも「あたかも神様がそこに降臨されているかのように敬虔な態度」をとっている(つもり)。別にそれ自体は珍しいことではなく、ほとんど皆そうだろうと思う。神様が実際にいるかどうかは問題ではなく、「いるという態度」が大切だと思うのである。

そもそもであるが、神様や祖先に対する信仰というものは、「そういう態度」が大切なのだという気がする。私自身、よくよく突き詰めていけば、無神論者であり幽霊等の霊魂の存在は信じない人間である。人間はすべて己の脳みそで思考し、それによって存在している。神様も人間の思考の結果生み出されたものであるし、したがって死んでしまって脳の機能が停止したらそれでおしまいである。死んでまで幽霊になって思考するということはあり得ない。もちろん、悪霊やたたりの類や、天国や地獄すらも人間の空想である。

しかし、だからといって、神も仏もありはせぬという考えが正しいかというとそうは思わない。人間は生きていく上で何らかの信仰は必要だと思う。それが神様ならそれでいいし、仏様でも祖先でも良い。大事なのはスタンスである。信仰を持っている人間は傲慢を抑えられる。神様の前で頭を垂れる謙虚な瞬間が人間には必要であるし、それがあるかないかの差は大きい気がする。

神様の種類はキリスト教でもイスラム教でも何でもいいが、信じるならきちんと信じて欲しいと思う。神様は「汝殺すべからず」と教えているのだから、その教えを守ってほしいが、歴史はその神の名において異教徒を殺すことを是とした人々を記録している。今でもテロリストはみなアラーの熱心な信者であることは恐るべき皮肉だと思う。それに比べると、我が国の八百万の神々は実に穏やかである。生贄も聖戦も要求しないし、他の神々(異教徒)にも寛容である。信じるなら当然、神道だろう。

実際に神々や祖先(の霊)がいるかどうかは問題ではなく、大事なのは「いるという態度」だと思う。実家で仏壇に向かう時、穏やかにほほ笑む祖父母の写真をそれぞれ見ると、かつて小さかった頃に接した思い出が蘇ってくる。母方の祖父とは将棋を指したし(強くて全然勝てなかった)、父方の祖父とは一緒に酒を飲んだ。いい思い出だし、そんなことを思い出しながら心の中で語りかけると穏やかな気分になる。きっと、私の心の声も届いているだろうと思えてくる。

そう言えば会社には神棚があって、近所の氏神様からいただいたお札が飾られている。しかし、どうも日々の仕事に追われていると、「そこにいらっしゃる」という気持ちは抜け落ちている。それも改めないといけないかもしれない。商売繁盛を祈願したものだが、社員みんなが幸せに働けるならそれでいいと思うし、繁盛は人間の努力次第だ。それはそれとして、そこに「いるという態度」は完全に抜けてしまっている。これからは一日に一度くらいは首を垂れることもしないといけないだろうと思う。

 自分自身を振り返ってみて、もう少し信仰のある生活を送ってみてもいいかもしれないと思うのである・・・




【本日の読書】