〔 原文 〕
祭如在、祭神如神在。子曰、吾不與祭、如不祭。
〔 読み下し 〕
祭ること在すが如くし、神を祭ること神在すが如くす。子曰わく、吾祭に與らざれば、祭らざるが如し。
【訳】
孔子が先祖の祭りを執り行う際には、あたかもご先祖の魂がそこに臨在するかのように畏敬の念を捧げた。又、神様を祭る場合には、あたかも神様がそこに降臨されているかのように敬虔な態度を示した。そして、「祭りを執り行うのに、こうしないと祭った気がしないのだ」と云った。
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今は他のご家庭では仏壇があるのだろうかと、ふと思う。そういう我が家に仏壇はない。と言っても信仰心が薄いわけでもなく、多分まだ両親が健在ということも大きいと思う。実家へ行けばそこにはちゃんとした仏壇があり、両親それぞれの祖父と祖母がともに並んで微笑んでいる写真が飾ってある。最後まで存命だった父方の祖父が亡くなったのはもう25年前である。
実家では、ご飯の時に米を炊くと、まずは炊き上がった最初のご飯を仏壇に供える。私も実家へ行った時は進んでこの役割を引き受けるが、その時当然仏壇で手を合わせる。そして心の中で祖父と祖母たちに話しかける。内容はその時々であるが、「じいちゃんとばあちゃんの子供(つまりは私の両親だ)をお見守りください」というのが多い。その時は、「あたかもご先祖の魂がそこに臨在するかのように」しているなぁと改めて思う。
また、年に一度、近所の北野神社に初詣に行くが、その時も手を合わせながら心の中で神様に話しかけている。まぁ大抵は両親の健康と家族の健康祈願といったところで、自分のことは祈らない。しかし、これも「あたかも神様がそこに降臨されているかのように敬虔な態度」をとっている(つもり)。別にそれ自体は珍しいことではなく、ほとんど皆そうだろうと思う。神様が実際にいるかどうかは問題ではなく、「いるという態度」が大切だと思うのである。
そもそもであるが、神様や祖先に対する信仰というものは、「そういう態度」が大切なのだという気がする。私自身、よくよく突き詰めていけば、無神論者であり幽霊等の霊魂の存在は信じない人間である。人間はすべて己の脳みそで思考し、それによって存在している。神様も人間の思考の結果生み出されたものであるし、したがって死んでしまって脳の機能が停止したらそれでおしまいである。死んでまで幽霊になって思考するということはあり得ない。もちろん、悪霊やたたりの類や、天国や地獄すらも人間の空想である。
しかし、だからといって、神も仏もありはせぬという考えが正しいかというとそうは思わない。人間は生きていく上で何らかの信仰は必要だと思う。それが神様ならそれでいいし、仏様でも祖先でも良い。大事なのはスタンスである。信仰を持っている人間は傲慢を抑えられる。神様の前で頭を垂れる謙虚な瞬間が人間には必要であるし、それがあるかないかの差は大きい気がする。
神様の種類はキリスト教でもイスラム教でも何でもいいが、信じるならきちんと信じて欲しいと思う。神様は「汝殺すべからず」と教えているのだから、その教えを守ってほしいが、歴史はその神の名において異教徒を殺すことを是とした人々を記録している。今でもテロリストはみなアラーの熱心な信者であることは恐るべき皮肉だと思う。それに比べると、我が国の八百万の神々は実に穏やかである。生贄も聖戦も要求しないし、他の神々(異教徒)にも寛容である。信じるなら当然、神道だろう。
実際に神々や祖先(の霊)がいるかどうかは問題ではなく、大事なのは「いるという態度」だと思う。実家で仏壇に向かう時、穏やかにほほ笑む祖父母の写真をそれぞれ見ると、かつて小さかった頃に接した思い出が蘇ってくる。母方の祖父とは将棋を指したし(強くて全然勝てなかった)、父方の祖父とは一緒に酒を飲んだ。いい思い出だし、そんなことを思い出しながら心の中で語りかけると穏やかな気分になる。きっと、私の心の声も届いているだろうと思えてくる。
そう言えば会社には神棚があって、近所の氏神様からいただいたお札が飾られている。しかし、どうも日々の仕事に追われていると、「そこにいらっしゃる」という気持ちは抜け落ちている。それも改めないといけないかもしれない。商売繁盛を祈願したものだが、社員みんなが幸せに働けるならそれでいいと思うし、繁盛は人間の努力次第だ。それはそれとして、そこに「いるという態度」は完全に抜けてしまっている。これからは一日に一度くらいは首を垂れることもしないといけないだろうと思う。
【本日の読書】
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