2015年6月18日木曜日

健全なる猜疑心

 先日、『会社勤めでお金持ちになる人の考え方・投資のやり方』という本を読んでいた時のことだ。バブル期の土地の高騰の話が出てきた。当時東京都23区の土地の値段とアメリカ合衆国丸ごとの土地の値段が同じになり、当時は誰もそれを異常だと思わなかったという説明がなされていた。確かにその説明を聞くと、その通りだと思う。当時のことはよく覚えているが、確かに異常だったと思う。

 著者は、「小学生でもおかしいと思うことを当時は誰も疑わなかった」と語っていた。確かにその通りであるが、そうであってもそうした説明を聞かされると、どうも私は「なるほど」と思うより「そうだろうか」と思う方が多い気がする。何か根拠があるわけではない。直観的にそう反応してしまうのである。一見、もっともそうに聞こえるほど、そうである。まぁもともと天の邪鬼だからかもしれない。

 当然、この説明を読んだ時も「そうだろうか」と思ってしまった。別にそういうことだってありうるのではないか、と思ってしまったのである。そこで簡単に調べてみる。東京23区の面積は621平方キロ。一方アメリカ合衆国の面積は9,628,000平方キロ。その差15,500倍である。

 価格の比較で、銀座一丁目の土地の値段は、ある場所で現在坪当たり約920万円。北海道阿寒湖周辺の某場所だと坪当たり3千円。その差実に3,067倍である。土地の値段はその利用価値にある。銀座一丁目の土地と阿寒湖周辺の土地とでは当然大きな差があって然るべき。その差3,000倍が妥当とするなら、先の23区の土地がアメリカ合衆国の土地の値段の15,500倍となったのは、やっぱり開き過ぎなのだろう。ここまで比較すれば、「異常だ」というのも納得できる。

 こういう考え方は、自分ではいいと思っている。たぶん、こうした考え方をしていると、詐欺被害には遭わない気がする。「オレオレ詐欺」のニュースを聞いて、よくこんなのにいまだに引っ掛かるものだと言う声を聞くが、年寄りでなくても、人の話を素直に鵜呑みにする人は、多かれ少なかれ詐欺被害に遭う可能性は高いと思う。だが、自分はたぶん大丈夫だという気がするのは、こういう考え方をするからなのである。

 ではそれが良いかというと、人間関係ではそうとも言えない。というのも、人と議論していると、しばしば「それは本当か」と反応してしまうのである。当然、相手はいい気がしないだろう。自分の意見の根拠をつかれ、しかも確信をもって答えられず、その上自分の主張の根拠をぐらつかせられたら、良い気分はしないものだろう。自分の意見を否定されるほど気分の悪いことはない。下手にやり込めてしまうと、相手の反発を招いてしまう。

 よく、会話の基本として、「Yes,but~」ということが言われる。相手の意見を一旦受け入れ、同意して認めた上で、「でもね~」とやれというわけである。こうすると言われた方は素直に自分の考え方を見直してみようとするという。なるほどその通りだと思うし、そうした「モノの言い方」を併用しないとかなり危険だと自覚はしている。ただ、できているかどうかは不安なところだ。

 まぁそれでも一応ここまでの自覚はあるので、救いようはあるのではないかと思わなくもない。意識するかしないかは大きな違いがあるからである。人と議論する時は、常にブレーキを意識する。これを心がけようと思うのである。自分では健全だと思っている猜疑心は、内に秘めたるものにしようと思うのである・・・

 【本日の読書】
これから日本で起こること―雇用、賃金、消費はどうなるのか - 中原 圭介 思考力を鍛える50の哲学問題 - 小川 仁志





   
 
 

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