2019年12月1日日曜日

本質を外すと意味がないこと

先日、弊社の同僚が宅地建物取引士(宅建士)の資格の更新手続きに行ってきた時の話を聞いた。宅建士の資格は生涯有効であるが、5年ごとに定められた講習を受けないといけないことになっている。まぁ法改正はよくあるし、取って安堵してしまうのではなく、専門資格として知識のアップデートは欠かせない。そのための講習である。当然、その内容も最近の法改正を中心とした知識のアップデートを促すものになっている。私が宅建士の資格を取ったのは2016年なので、講習まではまだ少し時間がある。

さて、そんな講習でのこと。受講者は初めに注意をされ、「居眠り禁止、スマホ禁止」を言い渡されたそうである。禁止されるということは、その行為が目に余るということに他ならない。おそらく、義務だから仕方がないと嫌々講習に来ている人が多いだろうから、勢い「暇つぶし」にスマホを眺めたり、あるいはうたた寝をしてしまうのであろう。その気持ちはよくわかる。運転免許の更新をイメージすれば想像するのに難くない。しかしながら、それを聞いて思うのは、「そんな禁止はどうなんだろう」ということである。

こうした「一律禁止」は簡単ではあるが、個人的には極めて「頭が悪い方法」だと感じる。「臭いモノには蓋」方式であり、「根本的な解決にはなっていない」。かつて合気道を習おうと思った時に、「喧嘩に使ったら破門」と言われて習う気が失せたことを書いたが、同じ理屈である。「大事なことは何か」を考えず、一律禁止にして解決した気になってしまっている。それで問題が解決するかどうかも考えない。これを「頭が悪い方法」と言わずして何と言うのであろうか。

講習中にスマホを見るのも居眠りをするのも、内容に興味がないからである。聞く気がない者にスマホを見ているからスマホを禁止し、居眠りしているから居眠りを禁止して果たして話を聞くようになるだろうか。私であれば、ぼおっと考え事でもして時間を潰すだろう。間違っても興味のない話を聞こうとは思わない。やることを封じれば話を聞くだろうと考えたなら、それは短絡的で大きな間違いである。では主催者側に立ったとしたらどうするべきだろうか?

そこでそもそも「目的は何か」と考えれば、「宅建士として必要な最新知識を覚えて帰ってほしい」ということである。であれば、「覚えるように仕向けたらいい」のである。では、どうしたら覚えるのか?一番簡単で手っ取り早いのは、講習の最後にテストをやればいいのである。それで一定点数以下であれば不合格として再受講にすればいいのである。みんな必死になって話を聞くだろう。その代わり、点数を取ればその間何をしててもいいとする。居眠りも自由、スマホもお好きにどうぞ、ただしテストに落ちたら再受講ね、とすれば居眠りもスマホで遊ぶこともしなくなるだろう。

テストをやると宣言されたら、受講者側としては再受講などご免だから「真剣に聞く」だろう。わからないことや気になることがあれば「スマホで調べて」みるかもしれない。手を挙げて講師に質問をする人だって出てくるだろう。「わからないことがあれば大変だから」である。よく「水辺に連れて行くことはできても水を飲ませることはできない」と言われる。本人がその気にならなければ、いくら強制したところで意味はない。子どもに勉強させようと塾に通わせて安心している親は多いだろうが、子どもが塾で勉強しているかどうかはわからない。一方で塾に通わなくてもきちんと勉強する子は勉強する。

「テストなんかすれば余計な手間がかかる」というのも本質を捉えられていない言い分である。簡単なものにすればいいし、それもダメなら最後に何人か無作為に指名して質問するのでもいい。「指されるかもしれない」という緊張感から講義を真剣に聞くだろう。要は緊張感をもって講義に集中するように仕向ければいいのであって、テストそのものが目的ではない。ちょっと創意工夫すればいろいろと考えられると思う。とは言え、所詮半分お役所仕事で真剣に考えていないのだろうから、そんなことをムキになって主張しても意味はないのかもしれない。2年後には自分も耐えなければならないのだろうが、本質を外した頭の悪い方法が変わらなければ、我が身に降りかかることになる。

 まぁ、そんなことを考えても仕方がない。せめて「人の振り見て我が振り直せ」で、本質を外れて上辺だけで物事を捉えて的外れなことをしていないか、我が身を振り返ってみたいと思うのである・・・




【今週の読書】

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