2020年4月29日水曜日

猪木社長と馬場社長

「この道を行けばどうなるものか 危ぶむなかれ 危ぶめば道はなし  踏み出せばその一足が道となり その一足が道となる 迷わず行けよ 行けばわかるさ」
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 小学校6年の時、今は伝説ともいうべき全日本プロレスのオープンタッグ選手権(ザ・ファンクスvsシーク、ブッチャー)を知ってプロレスを観るようになった。以来、20年くらいは熱狂的にプロレスを観ていたものである。テレビはもちろん、会場にも足を運んだ。今ではほとんど観なくなってしまったが、その手の本があるとついつい手を伸ばしてしまう。最近では、『猪木伝説の真相 天才レスラーの生涯』を読んだ。様々なレスラーが証言する中で、ちょっと興味を惹かれたのがグレート小鹿の話である。

 それはアントニオ猪木とジャイアント馬場を比較してのもの。グレート小鹿は「アイデアの猪木、カネの馬場」と2人を評す。それで改めてあの頃を思い出した。プロレスのスタートは、前述の通りジャイアント馬場率いる全日本プロレス(全日)であったが、やがてのめり込んだのはアントニオ猪木の新日本プロレス(新日)の方。理由は簡単。新日の方が面白かったからである。当時、全日はアメリカのNWAを頂点としたアメリカンプロレスの世界で、確かに大物外人レスラーは多数全日に来日していた。ところが新日はそれとは違う世界だった。

 タイガーマスクによる四次元空中殺法(全日のミルマスカラスのそれとははるかに次元が違った)、藤波・長州名勝負数え歌、猪木vs国際軍団抗争などは日本人同士のものだし、数少ないながらも外人レスラーもスタン・ハンセン、ハルク・ホーガンやアンドレ・ザ・ジャイアント、タイガー・ジェット・シンなど凄みがあった。それぞれの個性が光っていた。シンやハンセンなどはなぜか全日移籍後はそれほど光らなかった。かつての巨人のように4番打者をずらりと揃えても結局、その中で4番打者は1人だけという理屈である。

 猪木は日本プロレスを追放されて、ゼロからのスタートで新日を立ち上げた。それに対し、馬場は崩壊する日本プロレスの資産を引き抜いて全日を立ち上げた。波乱万丈のスタートと順風満帆のスタートがその後の違いの大きな理由である。何もないからとにかくアイデアを出す。力道山の時代からの日本人対外人という対立構造を維持した全日に対し、日本人抗争を取り入れた猪木。異種格闘技戦も外人不足という懐事情のなせる技だが、それがモハメド・アリ戦に結び付く。

 そうした日本人抗争も異種格闘技戦もリング上での技も完全決着試合(3カウントフォール勝ち)もブームは新日のリングで起こり、全日に流れるという形であった。新日がなければ、今も全日は日本人対外人の対立構造でNWA世界ヘビー級ベルトを巡って争い、「不透明な決着」でお茶を濁していたかもしれない。リング上での実力はともかく、「経営者」としては圧倒的に猪木の方が上だったと思う。新日はビッグマッチといえば東京ドームだったが、全日は日本武道館だった。馬場は経営とは「いい外人を連れてくる」というそれまでのセオリー(成功体験)から離れられなかったと言える。

 得てして業歴が長い会社ほど、「前例踏襲」が王道となりがちなのではないだろうか。我が社も中小企業ながら業歴は20年を超え、私が入社するまでは見事に過去の成功体験の中で生きていた。というか、もはや「成功」体験ではなくなっていた。それを利益が望めるビジネスモデルに変換して行ったが、うまくいくかどうかわからないことを進めるのは非常に勇気がいることである。だから役所や大企業がリスクを取らない前例経営に傾くのである。この勇気が取れるか否かはやっぱりトップの覚悟だろう。

 アントニオ猪木の新日本プロレスは、それまでの成功セオリーである「実力外人レスラーの招聘」ができなかったがゆえに、いろいろとお客さんを引きつける知恵を絞らねばならなかった。ジャイアント馬場の全日本プロレスはうまく行っているだけにそのセオリーから離れられなかった。勢いづく新日に対抗するため、馬場は日本テレビから引っ張ってきた金を湯水のごとく外人レスラー招聘に使ったとグレート小鹿は語るが、結局、全日が面白くなったのは新日流の「日本人選手同士の実力決着試合(不透明な両者リングアウト引き分け試合の排除)」だったのは皮肉だろう。

 経営が順風満帆だったとしても、今回のコロナ騒動のようなこともあるかもしれないし、ある日突然危機に襲われるかもしれない。その時に必要なのは、常に危機感とそれに裏付けされる勇気と覚悟なのだろうと思う。「この道を行けばどうなるものか」それが分かれば苦労はないが、あえて行ってみる勇気を失ってはならないと思う。今、我が社もコロナではないが、大きな外因によるそんな危機にある。怖くもあるが、燃える闘魂を意識して乗り越えていきたいと思うのである・・・


Greg MontaniによるPixabayからの画像 



2020年4月26日日曜日

コロナ騒動雑感(その3)

「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」
ヨハネによる福音書
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週末の巣ごもりも4週間目を迎えた。東京都ではなんとなく感染者数が減ってきているように思われるが、まだまだ続くのであろう。通勤電車はすっかりガラガラ。もともと時差通勤をしているようなものだが、行きも帰りもこれだけガラガラだと座れる時間も長くなり、不謹慎だがこれはこれで続いて欲しいというのが正直なところ。一応、中小企業なりに時差通勤、在宅勤務を一部の社員で行なっているが、その実態は休暇でありいろいろと支障は出ているのは致し方ないところだろう。

勤務先のある蒲田駅周辺は、いつもは賑わっているが、このところずっと閑散としており、繁華街から人がいなくなっているのはニュースを見るまでもなく事実である。一方で周辺の小さな商店街の方がむしろ人出が多かったりするのは、なんとなく皮肉めいている。この時期、売り上げが伸びたとしても大っぴらに喜ぶわけにもいかないだろうが、そういうことがあってもいいのだろう。逆に休業しているところは大変だろうなと思う。我が社が直接的な影響がないのはまったく幸いである。

大阪では休業要請に従わないパチンコ店に対し、大阪府が店名公表に踏み切った。6グループのうち2グループは慌てて休業に切り替えたが、4グループは無視するようである。休業に切り替えた2グループは、公表などブラフだとタカをくくっていたのだろうか。それなら最初から休業すればいいのに実にみっともない。逆にそれでも営業を継続するところはどんな判断なのだろうかと興味深い。背に腹は変えられない事情があるのだろうか。パチンコ店は結構経営が苦しいものだというのは、銀行員時代にいろいろと担当していて知っているだけにそんなことも考えてしまう。

こういう時に、要請に従う方がいいに決まっているが、従わないのも勇気がいると思う。それにしても営業を継続するとしても、そこには「利用者がいる」という事実があるのも確かである。開ける方が悪いのか、利用する方が悪いのか。こういう時期にパチンコに行く人はたぶんあまり公共心などないのであろう。「自分が良ければ」という考え方だろうし、そういう人を相手に商売して何が悪いと考えて営業しているのだろう。営業を自粛したところで、それで倒産しても誰も助けてはくれないだろう。

政府も休業補償をいろいろと考えているだろうが、それで充分かという問題もある。それにパチンコ店はただでさえ白い目で見られているところがある。日銭商売という商売柄、営業を再開したら在庫を売ればいいという商売と違って、休んだ日の売り上げは永久に取り戻せない。単に少しでも儲けてやろうという金の亡者的な理由よりも、懐が厳しいという事情のような気がする。世間的には「パチンコ店けしからん!」という雰囲気があるが、少し踏み込んで事情を知りたいと思う。パチンコ店は高い機械を買って営業しているところがあり、新しい機械を次々に導入するために資金繰りは大変だったりする。そういう苦しい事情があるかもしれない。

仮に儲けだけが目的であったとしても、企業は存在するだけで社員に給料を払わないといけない。資金を借りて投資をしていれば毎月返済もある。自粛要請を無視するパチンコ店を非難するのは簡単だが、それは例えばコロナ騒動が治るまで給料をもらえなくてもいい、売り上げがゼロでもいいという人だけが非難することができるのではないかと思う。むしろ、利用する人をこそ非難すべきだろう。利用者がいなければ営業していても害はないのだから。「開いているから」というのは理由にならない。少しぐらい我慢できないのかと思う(我慢できないし、したくないのだろう)。

それにしても日本の場合、「非常事態宣言」と言っても、中国をはじめとした海外諸国に比べると強制力という点では弱いらしい。だからもっと強制力のある制度をという意見もあるようだが、それが良いのか悪いのか。中国は論外としても、強制力の強い制度があるということは、「そこまでしないとダメ」ということと表裏一体とも言える。「自粛」できないから強制力を伴わせているのである。となれば、強制力のない「非常事態宣言」は誇らしいとも言える。完璧とは言えないが、我が国にはそれだけの自粛力があると考えたい。

 まだまだ先は見えないが、こういう事態もいい経験ではないかと思う。そういうと不謹慎かもしれないが、そう考えてモラルある行動を意識したいと思うのである・・・






【今週の読書】
  




2020年4月23日木曜日

リーダーの素養

まだ10代の頃、小学校時代から仲の良い4人組で何度かスキーに行ったことがある4人中3人が初心者であった。何とか滑れるようになると、みんなでリフトで上に上がる。そして滑り始める。最初の内は唯一の経験者が先頭に立って滑っていたが、そのうちその役割を嫌がるようになった。リフトで上に上がった後、「さぁ誰から滑るか」とみんなで顔を見合わすのである。誰も最初に滑りたがらない。微妙な沈黙タイムが流れるのである。今でもスキーと言うと思い出すシーンである。

私としては、唯一の経験者だった男に先陣を切って滑ってもらいたかった。後からついていく方が楽だからである。だが、よく言えば民主的、悪く言えば責任放棄。先陣を切るより後からついていく方がはるかに楽であり、「みんな普通に滑れるようになったんだから、俺がいつも先頭でなくてもいいだろ」と彼は考えたのであろう。他の3人にしてみれば、ようやくなんとか滑れるようになった程度であり、みんなの先頭に立てるほどではないと尻込みする。リーダー不在の混沌である。

これはたとえばみんなで飲みに行く場合、「どこに行く?」「俺、どこでもいい」というやり取りにも表れたりする。そんな時、「じゃぁ今度はこっちを滑ろう」とか、「あそこの店に行こう」とか提案できる人はリーダーの素養があると思う。リーダーの仕事で一番大事なのは、みんなの先陣を切って動けることだろう。要は「決定」である。結論を下し、自ら動く。これこそがリーダーにとって求められることだろう。小さいながらも会社組織の中で働いていると、この「決定」ができるかできないかで、リーダーとしての頼りがいがすべて決まってくると言っても過言ではない。

社内でも技術はあるものの、「決めてくれればその通りにやります」というのが口癖の人がいる。腕は確かなのであるが、常に「指示」を求めてくる。もちろん、立場的なものもあるかもしれない。しかしその一方で、「それだったらこうしたらどうですか?」と常に自分の意見を言ってくる人がいる。どちらが頼りがいがあるかは言うまでもない。「指示」に従っている方が、責任もないし楽ではある。その代わり権限は持てないし、やり甲斐も(たぶん)持てないだろうと思う。それでも(その方が)いいと言う人もいる(というかその方が多い)かもしれない。

これまで多くの人と一緒に仕事をしてきたが、どちらかと言えば、リーダータイプの人は少なかったと感じている。みんなどこかで常に責任を回避しているのである。「決めてくれればその通りにやります」とか「自分には権限がないから」とか、「上に聞いてみます」とか。実際に権限があるかどうかは実は関係がない。権限がなくても「こっちにしましょう」という提案はできる。それで上司の「決定」を引き出せたのであれば、それはその人が「決定」したのと結果的には同じである。ましてやリーダーの立場に立ったのであればなおさらである。

それでもまだ自らの決定に自信が持てないのか、「みなさんどうしますか」と聞いてくるのである。リーダーシップにもいろいろあって、「民主的リーダーシップ」が好みの人もいるかもしれないが、あまりそれにこだわると、かえってみんなで顔を見合わせて動きが取れなくなる。あのスキーの時のように。会社としてこうすべきと客観的な基準があるのなら、みんなの都合を聞くのではなく、「合わせてもらう」ように仕向けることも大事である。

 経験も能力もあるけど、ちょっと物足りない。自分の次のリーダーを指名する時に対象の人物がそんな感じであれば、「決定」できるように導いていかないといけない。そんなことをこの頃強く思うのである・・・


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【本日の読書】
  



2020年4月19日日曜日

論語雑感 里仁第四(その19)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感。
〔 原文 〕
子曰。父母在。不遠遊。遊必有方。
〔 読み下し 〕
いわく、父母ふぼいませば、とおあそばず。あそぶにかならほうり。
【訳】
先師がいわれた。――
「父母の存命中は、遠い旅行などはあまりしないがいい。やむを得ず旅行する場合は行先を明らかにしておくべきだ」
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 子供も成長して大人になれば親元を離れることになる。私などは自立心が強かったので、とにかく早く家を出たいと考えていた。しかし、最初の機会であった大学入学の際は、家を出る=家を借りることであり、家賃を考えればその選択はありえなかった。自分で払えるものではないし、親に負担を強いるのはそもそも自立ではない。片道1時間半という距離は、通えない距離ではない。結局、学生時代は真面目に片道1時間半の通学をやり通した(授業やラグビー部の練習で週7日通う「優等生」であった)

 銀行に内定をもらって真っ先に人事部の人に尋ねたのも、そういうわけで「寮に入れるか」ということであった。当時はまだ新入行員は入行時には全員寮に入る時代。そんなこと聞くまでもなかったのであるが、それだけ家を出たいという気持ちが強かったのである。と言ってもそれは実家が嫌だったのではなく、早く自立したかったのである。かくして、就職と同時に24年間共に暮らした家族の元を離れ、1人暮らしをするようになったのである。以来、両親とは別々に暮らしている。

 後で聞いた話ではあるが、私が就職して家を出た後、しばらく母は気が抜けて何もやる気になれなかったそうである。思うに、初めての子を授かり、おしめを替え、食事をさせ、何くれとなく世話をして育てた子供が出て行ってしまい、喪失感に苛まれたのだろう。今は大学の卒業式に、「子育て卒業証書」をくれる大学もあるのだとか。考えてみればその通りであるが、母親としては寂しかったのかもしれない。そんな思いが後々「母親と息子」の関係に影響するのだろう。そんなことは露とも知らない私は、初めての寮生活を満喫していたのである。

 鉄砲玉ではないが、寮に入った私はほとんど実家には帰らなかった。週末は銀行のラグビー部の練習があったし、寮にいれば仲間が誰かいるし、実家に帰る理由がなかったのである。実家が近い友人には、毎週帰宅している者がいて(そもそも寮に入るのが嫌だったという者もいた)、私もよく「実家に帰らないのか」と聞かれたものである。人それぞれだろうが、私は「週末に実家に帰るってことは、週末家にいるってことと同じだろう」と答えていた。したがって、実家に帰るのは特別に用事がある場合を除き、ほとんど年末年始のみであった。

 それでも結婚する時は、将来は同居したいと思ったし、それを受け入れてくれそうな妻を選んだつもりであったが、のちにそれは大間違いであったことに気付く。結果的に同居しなくてよかったと思うが、今やすっかり生活は別々で固定してしまっている。それでも親も歳をとれば何かと心配になってくるし、今は最低でも月に一度は実家に顔を出している。このコロナ騒動で(菌を持ち込んではいけないから)ちょっと行きにくくなっているが、それがなければ電話くらいは毎週し、2週間に一度は実家に顔を出したいと考えている。

 今回の孔子の言葉は、時代背景も大きいと思う。2,500年前の世界は、地球もまだまだ広く、遠い旅行などと言えばそれこそ一ヶ月単位の時間がかかったのかもしれない。何があるかわからないし、連絡手段も乏しい中、場合によっては今生の別れになるかもしれない。そんな帰ってこられるかわからないほど遠くへの旅行などするべきではないし、やむを得ず旅行する場合は、行き先を明らかにせよという説明も頷ける。だが、今は日本全国、いや世界のどこにいてもスマホで連絡が取れる時代であり、もはや孔子の指導も意味をなさなくなっている。

 しかしながら、母親とちょくちょく話をしていて、よく話題に出るのは弟のこと。長く連絡がないのはしょっちゅうであり、母も気になるようである。「便りのないのは良い便り」とはいうものの、やはり「毎日が日曜日」の母親としては、子供たちの様子が気になるのであろう。そういう姿を見ていると、余計自分としては連絡を密にしようという気になる。それは今生の別れとなった昔の遠くへの旅行とは異なり、「日々の安心」だろう。元気でやっているということがわかるだけでも違うと思う。

 今は世界のどこにいてもスマホで連絡が取れる時代。だからどこへ行こうとわざわざ連絡する必要はないかもしれないが、簡単に連絡が取れるからこそ、離れていても近くにいる存在感は出せると言える。それこそが孔子の言葉を現代に翻訳したものになるのではないだろうか。せっかく親にもスマホを持たせたし、電話のみならず、メールやLineなんかを通じても近くにいる存在感を出していきたいと思うのである・・・


Erik TangheによるPixabayからの画像 


【今週の読書】

2020年4月15日水曜日

母親と息子

実家の両親も80の大台を超え、離れて暮らしているので何かと心配なこともあり、ちょくちょく顔を出している。一緒に食事をし、スマホの使い方をレクチャーし(親父は最近paypayを始めた)、母親とは他愛もない会話をしている。行けば母親は何くれとなく世話を焼いてくれ、フルーツやスイーツやビールやコーヒーなどを次々に出してくれる。陰で親父に対する不満を聞かされるが、親父に対する態度とは違い、誠に居心地がいい。実家に行くたびに母親のありがたさを実感している。

翻って家ではそうはいかない。一応生活費を稼いでいるという立場であり、建前ではそれなりの立場を維持しているが、妻の態度は冷ややかで、娘とは友達のように会話をし、息子には何くれとなく世話を焼いているが、私には素っ気ない。食事の時にそれは顕著で、息子にはおかずを取ったり足りなければいろいろと出してきたりするが、私にはそんなことはしてくれない。まぁ、甲斐甲斐しく世話して欲しいなどとは思わないからいいのであるが、「お金をもらっているから最低限のことはするけど・・・」という態度はいかがなものかと思わなくもない。

しかし、ふと気がついたのであるが、息子に対する妻の態度は、まさに実家へ行った時の母親の私に対する態度と同じである。母も父親には冷たい。妻の私に対する態度と同じである。親である以上、子どもはかわいい。それはそれで不満はない。しかし、そんな母親の、特に息子に対する態度を見ていると、ふと閃くものがあった。その愛情こそが嫁姑戦争の元凶ではないだろうかと。つまり母親からしてみれば、それまで愛情を注いできた息子に対し、妻となる女性の「貢献度」はどうしても物足りなく感じるのではないだろうか。「もっとちゃんとやれ」という不満があるのではないだろうか。

いつだったか、我が家に両親を呼んだ時、私が珈琲を入れて出したのであるが、どうも母はそれが気に入らなかったらしい。「息子にそんなことをやらせて」というわけである。もちろん、私にすればその時すでに夫婦で珈琲を入れるのは私の役割だったし、「嫁が働かないから」やっていたわけではない。後でそれを聞いた時は、「嫁の粗探し」かと思っていたが、今から思えば自分自身の「息子に甲斐甲斐しく世話する」意識から「物足りない」と感じたのだろうと思う。「息子に尽くす自分の役割」を妻に求めたのかもしれない。

その時、母に「物足りない」と思う事を夫(私の父)にやっているかと問うならば、「そんなことやるわけない」と即答しただろうと思う。今の妻も息子に甲斐甲斐しく尽くすように私にするかと問われれば、「そんなことやるわけない」と即答するだろう。つまり、息子に対する自分の役割を嫁に求めても無駄であろう。実家に帰れば、母はいろいろと私に良くしてくれる。父にはやらない。母親の役割と妻の役割を分けているのであり、母親の役割は今でも果たすが、妻の役割はもういいだろうというのだろう。

そう考えれば、いずれ息子が結婚した時に、「息子を取られた」妻の厳しい視線が息子の結婚相手に向かうのは想像に難くない。妻の息子に対する愛情を目の当たりにしていると、将来息子と結婚する相手は大変な思いをすることになるのは間違いない。間に挟まれた息子は、たぶん私以上に苦労するだろう。まったくもってご愁傷様である。どうしたらいいのかは難しいところである。夫婦円満のために黒川伊保子さんのトリセツシリーズ(『妻のトリセツ』『夫のトリセツ』)を息子夫婦にプレゼントしようと思っているが、それだけでは足りない。ここはひとつ、ファンレターでも書いて『母親のトリセツ』を書いて欲しいとお願いしようかと思う。息子のために。

 世の中、晩婚化・未婚化が進んでいるが、我が家の娘と息子はどうなるだろう。結婚するか(できるか)しないか(できないか)という心配とともに、結婚してもそれはそれで幸せと同じくらいの苦労が待っている。せめて、散々苦労した自分の経験をうまく伝えて生かしてほしいと2人には思う。それとあわせて、子育てが一段落したら、自分は自分で1人自立して生きていくことを考えたいところである。今からそんな将来像を真剣に考えておこうかと思うのである・・・


Vânia RaposoによるPixabayからの画像
【本日の読書】
 



2020年4月12日日曜日

コロナ騒動雑感(その2)

通勤者の7割減、首相要請 「接客飲食店の利用自粛」全国に拡大 政府対策本部
政府は11日、新型コロナウイルス感染症対策本部会合を首相官邸で開き、クラスター(感染者集団)の発生が懸念される「繁華街の接客を伴う飲食店」の利用自粛要請を全国に拡大することを決めた。安倍晋三首相はまた、緊急事態宣言の対象の7都府県の全事業者に対し、通勤者を最低7割減らすよう求めた。
毎日新聞2020411 2049
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 緊急事態宣言が出され、身の回りが一気に閑散とした感がある。通勤電車はいつも以上に座れるようになっているし、休業するところも多く職場の最寄りのショッピングモールも閉店している。図書館もいきなり休館だし、普段は賑やかな飲み屋も閑散としているか臨時休業だし、月曜からは休業も増えるのだろう。個人でもマスクしないで街中を歩いたり電車に乗ったりするのは憚られる雰囲気である。

「不要不急」と言ってもなかなか難しいかもしれない。店を開けているところも、医療食品関係であれば堂々と開店していられるだろうが、「不要不急」と考えると、理美容院や時計店などはどうなんだろうと考えてしまう。開ける方は開けたいだろうが、行く方も「行っていいのか」と脳裏をよぎる。時計店など「不要不急」ではないが、電池交換などできないと不便だし、髪を切るのだって然りである。開ける方も行く方も「おっかなびっくり」かもしれない。

 政府が「通勤者を最低7割減らせ」というのも考え方はよくわかるが、社員総勢10名の我が社ではなかなか難しい。テレワークの環境など整えようがないし、せいぜい交代で「在宅勤務」という名の休暇を取らせるくらいである。それでも工事関係者は休みを取れないし、私も立場上は出社せざるを得ない。最低限の機能を残すとしても、3割減がいいところである。

 マスクの供給不足も困っもので、ちょっと買おうにも手に入らない。世の中のみんなはどうしているのだろうと不思議に思う。会社で購入して支給することになり、ネットで買うことにしたが、なんと50枚で5,000円であったという。妻によれば「暴利を貪っている」ということであるが、モノによってはいろいろあるようである。仮にいくら性能が良くてもマスクに5,000円を出す気にはなれない。個人としては絶対に買わない。

ただし、会社の経費であれば5,000円は痛くもかゆくもない。50枚だと社員10人で1人あたり5枚分。とりあえず1週間分である。給料は増やせないが、こういう時にマスクぐらい気前よく供給してもバチは当たらないだろうと、当初はストックする予定だったが、提案してすべて社員に配布した。あと3箱も買えば当面みんなの通勤用マスクは確保できる。こういう気軽にいろいろ決められるのが中小企業のいいところである。

年老いた両親が離れて暮らしているのも案じられるところ。日々の買い物はどうしているのかと思わなくもない。遠くもないので会社帰りに尋ねることは簡単だが、訪ねていいものかどうか迷わなくもない。ウィルスは自分自身だけならいいが、無症状の保菌者になっていて、人にうつしてもいけない。なにせ今だにどこか「自分は(うつっても)大丈夫」と変な自信を持っている。感染症は自分は良くても、というところがあるので、誠に厄介な代物だと思う。

 世の中、これだけ人の動きが少なくなり、接点が減れば自然とウィルスの蔓延も減るだろう。そういう意味ではどこかで転換点がやってくるはず。不自由ではあるものの、土日は終日溜まった録画やNetflixなどで映画を堪能できるいい機会だろう。世のため人の為、大手を振って巣ごもりを楽しみたいと思うのである・・・


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【今週の読書】
  



2020年4月8日水曜日

頼れるサラリーマン

30年以上もサラリーマンをやっていると、いろいろな同僚と一緒に仕事をしてきたものである。人それぞれであるが、優秀であるか否かは別として、「頼りになる」と感じられる人がいる。それはどういう人かと言えば、「自分の仕事の範囲を決めない人」である。いわゆる「指示待ち族」と言われる人とは対極にいる人である。サラリーマンであれば、たいてい部なり課なりで仕事の範囲は決まっていると思われがちだが、実はそうではない。仕事はやりようによってはいろいろとできるものである。

たとえば、今の会社にもそういう人はいる。前職の伝手を辿って仕事を受注してくる。会社で指示した仕事だけをこなしていれば楽だろうし、評価もされる。されど、誰にも言われないのに勝手に話を決めてきて受注してしまう。もちろん、会社としては売り上げにプラスになるだけであり、大歓迎である。その分、忙しくなって休みもおちおち取れないのに、涼しい顔をして仕事を取ってくる。こういう人がいると、会社としては誠にありがたい。さらに他の係の仕事でも気がつくと意見を言ってくる。

やる事をやって、時間が来たら帰るというのも悪くはない。会社から命じられた仕事をきちんとこなしているわけであり、それに何か問題があるというわけではない。みんなそれのどこに問題があるのかと思うかもしれない。問題はない。仕事を指示すればきちんとやってくれるわけであり、期待通りに、あるいは期待以上にやってくれる人もいて、それはそれで立派である。ただ、「頼んだ仕事をやってくれる」のと、「頼んでもいないのにやってくれる」のとでは大きく違う。

会社が成長していくには、どこかで仕事を生み出さないといけない。10の仕事が1112と増えていくには、誰かが増やしていかないといけない。ただし、営業が仕事をとってくるのはこれにあたらない。「仕事を取る」のが自分の仕事の範囲だからである。要は、求められている範囲を超えて自分の仕事を増やしているかどうかである。たとえば、自分の仕事でなくても、「こうしたらどうか」という意見を言ったりする。場合によってはわざわざ調べてみたりする。これが「範囲外の仕事」である。

「仕事の範囲を決めない」というのは、人の仕事を取るということではない。それぞれの領分は守らないといけない。その上で「範囲を決めない」ということである。後藤田五訓にも「自分の仕事でないと言うなかれ」というのがあったが、要はそういうことである。部でも課でも係の中でも時としてぽっかりと空白に仕事が生じる時がある。その時、「では自分がやる」と言えるかどうか。黙っていて、「運悪く」上司に指示されたらやむなくやるという人は「範囲内」の人である。

そうして具体的に見てみると、実は指示待ち族に該当する人はかなり多いのではないかと感じる。「あなたは指示待ち族ですか?」と問えば、ほとんどの人は「違う」と答えるだろう。しかし、具体的な行動ベースで見てみれば、「実質的な指示待ち族」はかなりの割合に昇るのではないかと思う。小さいながらも中小企業に身を置いてみると、そんなことによく気がつく。それが悪いというわけではない。人それぞれ、働き方もそれぞれ。指示待ち族が良ければそれでいいだろう。

 ここで言いたいのは、指示待ち族が良いか悪いかではなく、「仕事で頼りになるのはどういう人か」ということである。周囲をよく見ているし、気付けば動いてくれるし、自分の意見を持って(評論家ではなく)実践的な(いざとなったらやってくれる)意見を言ってくれる。そんな人物なら、大いに頼りになるというもの。自分自身がそうであるつもりではいるが、あらためて自分自身のこととして意識したいと思うのである・・・


Hans BraxmeierによるPixabayからの画像 
【本日の読書】
 
   
    

2020年4月5日日曜日

論語雑感 里仁第四(その18)

論語を読んで感じたこと。あくまでも解釈ではなく雑感。
〔 原文 〕
子曰。事父母幾諫。見志不從。又敬不違。勞而不怨。
〔 読み下し 〕
いわく、父母ふぼつかうるにはかんす。こころざししたがわざるをては、またけいしてたがわず、ろうしてうらみず。
【訳】
先師がいわれた。――
「父母に仕えて、その悪を黙過するのは子の道ではない。言葉をやわらげてそれをいさめるがいい。もし父母がきかなかったら、いっそう敬愛の誠をつくして、根気よくいさめることだ。苦しいこともあるだろうが、決して親をうらんではならない」
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 2,500年も前の孔子の言葉が残されているのも凄いなと思うが、一体どういうシチュエーションで語られた言葉なのか興味が沸くものがしばしある。この言葉もまさにそんな例である。孔子自身の親なのか、あるいは誰かの相談を受けてのものなのか。子供も本当に子供のうちは善悪などわからない。親の悪いところがわかるのは、それなりに分別がつくようになってからだろう。自分もそれなりに成長して経験を積んでくると、親のアラというものも見えてくる。そんな中で、親の悪行に対していかにすべきかと悩んだのかもしれない。

 親も人間だし、それぞれ1人の個性を持っている。考え方もそれぞれである。当然、善行ばかりということもないだろうし、時には人知れず何かやっているかも知れない。孔子は「悪」と言っているが、親が何か悪事を働いているという事ばかりとは限らない。もしかしたら石油ショックの時にトイレットペーパーを買い占めたりという類のことはあったのかもしれない。さらにもっと広く、「考え方の違い」ということまで含めると、それは多々あるだろう。

私が生まれたのは、両親がともに27歳の時である。つまり、常に私より27歳年上なわけである。幾つになっても自分より27歳年上なわけであるが、それは両親が今の私の年齢の時には、すでに私は28歳であったことを意味する。当然小・中・高校、そして大学時代は、両親は今の私よりも若かったことになる。その時々の親の様子を覚えているが、今の自分より若かった両親は、今の私より未熟だったかもしれない。「あの時あんなことを言われた」という記憶も、今の自分より未熟な夫婦だと考えれば、また見方も違ってくる。

今でもよく母親とは議論をする。母親の意見に対して、「それは違うよ」ということはよくある。年の功では27年の差があるとしても、こちらも人生を積み重ねて広く学んできている。知識も知恵もそれなりに備わっていれば、年の功以上のものもある。私の方が教えることもあるし、それなりに判断できることもある。自然と「言い負かす」ことが多くなっている。ただ、それで気分がいいかと言うとそうではない。どうしても不満が残っているように思えることもある。

孔子の言葉は、そんな時の自分に当てはまるものなのかもしれない。「言葉をやわらげてそれをいさめるがいい。もし父母がきかなかったら、いっそう敬愛の誠をつくして、根気よくいさめること」。すなわち、ただ己の正しさを前面に出して親の意見を押しつぶすのではなく、優しく噛み砕いて説明する態度である。親には親なりの価値観があるわけであり、時に知識が不足していることもあるだろうが、そういう価値観は尊重しなければならいと改めて思う。

幸いなことに我が両親は、犯罪行為はもとより、道徳的に如何なものかと思うようなことはしていない。このコロナウィルス騒動下にあっても、マスクやトイレットペーパーやその他の日常品の買い占めをすることもなく、穏やかに暮らしている。もちろん、聖人君子というわけではないだろうが、子の立場からして諌めるようなことはない。それがありがたいことである一方、自分も子供に諌められるようなことはないようにしないといけないと思う。

 孔子が2,500年前に語った趣旨とは違うのかもしれないが、現代流に己の事情に鑑みてみれば、そんなことを思ったりするのである・・・



Sasin TipchaiによるPixabayからの画像 
【今週の読書】
  




2020年4月2日木曜日

コロナ騒動雑感

コロナウィルス騒動は、まだまだ収まる気配がない。あっという間に全世界に広がってしまい(すばらしいことに北朝鮮は感染者ゼロらしいが・・・)、著名人が罹患し、さらには志村けんがお亡くなりになるに至り、さすがに危機感が共有されつつあるように思う。中小企業ゆえに、会社は通常営業を続けざるを得ないが、もともと時差出勤(朝6時の電車に乗っているのである)していることもあって、今のところ日々の仕事にはあまり大きな影響もなく過ごせている。

巷では非常事態宣言を出すの出さないのとやっているが、東京都では既に不要不急の外出、夜の繁華街の利用等自粛要請が出ている。個人的には素直に従い、先週末は自宅にこもっていた。シニアラグビーの練習も当面中止になり、あえて外出する理由もない。実家の両親のもとを訪ねようと思っていたが、それも取りやめることにした。特に買いだめもしていないし、冷静に対処していると思うが、それゆえかマスクが枯渇しているのだけが悩ましいところである。

東京都では、毎日新たな感染者が60人出た、70人出たとやっているが、考えてみれば潜伏期間を考えると、新たな感染者が感染したのは少し前であり、自粛効果が出るとしても今しばらくはかかるのかもしれない。政府の対応について批判意見もあるが、結果から見た後付け批判というのは、個人的には好きではない。このような情勢になってこそ、「自粛要請」も「非常事態宣言」も当然のように受け入れられるだろうが、もっと早い段階でできたかと言えば、それはかなりの抵抗を受けたことだろう。転んではじめて杖が受け入れられるというところはあるだろう。

会社の同僚がこんなLINEが来たと言って見せてくれたのは、薬に関する注意喚起。何でもある薬はコロナウィルスに罹患しているとリスクがあるというもの。ホントか嘘かはわからない。そう言えば震災の時も放射能に関する注意として知人がメールを転送してきたことがあった。たぶん、善意で回してくれたのだとは思うが、こういうものに懐疑的な私としてはいい気がしない。たとえ親切であろうと、真偽のわからない情報は拡散すべきではないと思う。もしも事実であるなら、出元(権威ある人物あるいは専門家)を明示して拡散すべきだろうと思う。無知の善意は時には害になるものであると思う。

 先週末は、恒例の週末シネマにそなえておつまみを買いにスーパーに寄った。会社帰りの時間だったが、スーパーの棚はガラガラ。買占めとは言わないが、巣籠りに備えて皆さん買い込んだ結果なのかもしれない。人の心理としてガラガラの棚を見ると、必要がなくても買っておかなければという気になるのかもしれない(実際、私もわずかに残っている商品を買った方がいいのかもと思ったくらいである)。一家の主婦ではないからそのあたりは余裕で観察できるのかもしれない。

 こうした状況下、ジタバタしても始まらない。都の自粛要請にはきちんと応じるべきだろうから今週末も家で大人しくしている予定。この機会に撮り溜めした録画番組をせっせと見て、一方でNETFLIXでもAmazonPrimeでも観たいビデオは山積しているし、暇を持て余すどころか、時間が足りないくらいである。世のため人のためと思って巣籠りしたいと思う。見えないところで不眠不休の努力をしてくれている人たちがいるのだろうし、今はただ自分の出来ることをしたいと思う。

 感染者にならないことが個人にできる最大限の貢献だろうから、今週末もせっせと巣籠もりに励みたいと思うのである・・・




【本日の読書】