運勢のようなものは本当に当てになるのだろうかと、この頃ふと思う。人生においてはいい時ばかりではなく、悪い時もある。何をしてもうまくいかない時というのもあるだろう。最近、私はそんな人生のトンネルに入ってしまっているような気がする。妻と別居して実家に戻って以来、仕事においても主として社内の人間関係で思うようにいかず、何となくこれでいいのだろうかというモヤモヤ感に包まれている。順調に行っている時には感じない焦燥感のようなものと言えるだろうか。
もともと私は占いのようなものは信じていない。まぁ、何か迷った時の参考にはなると思う。ただ、それは信じるというよりも、迷った時にコインの裏表で決めるのと同じ扱いである。生年月日や星座や血液型や手相やカードなどで人間の何がわかるのかと思う。長い年月の間に、そういうものに何らかの関連性を見出して生まれてきたものではあるのだろうが、何か根拠があるようなものではなく、「当たるも八卦」の世界であると思っている。したがって、いわゆる「運勢」のようなものも信じてはいない。
人生にいい時もあれば悪い時もあるのは事実だろう。だけどそれは運勢ではなく、「たまたま」である。いい事と悪い事がバランスよく起こるというものではなく、たまたま好ましくない事が続いただけである。しかし、我々はそこにどうしても意味を見出したくなる。何か好ましからざる事をした報いではないかとか、何かの祟りではないかとか。あるいは運勢が悪いとか。そういうもののせいにすれば、「仕方がない」と諦められるし、あるいはお祓いをしようという事になるかもしれない。
今、不運の渦中にあるとしたら、それは過去の「選択」の結果によるものだろう。例えば私の場合、それは別居という選択をした事によるものかもしれない。しかし、そうだとしてもその選択以外にあり得なかったので、その選択をしなければ良かったとは思わない。その選択の結果だとするならば、甘んじて受け入れるしかない。会社内の人間関係のゴタゴタにしても、それは私の行動という選択の結果であるが、それは意図的に相手と対立するためのものではなく、意識せざる結果であり防ぎようがない。
私も常日頃、いい上司であり、いい部下であり、いい同僚でありたいと考えている。だから言葉遣いも部下に対してでさえ丁寧にしているし、ハラスメントには特に意識して避けているからその問題はない。しかし、それでもモノの言い方であったり、やり方であったり、報連相が足りていないと思われたりするところから批判を受けている。知らず知らずのうちに信頼度が下がってしまったのである。残念であるが、起こってしまった事はどうにもならない。この後、もっと注意深く行動して信頼回復に努めるしかない。
病気に関しては意外中の意外であったが、人間である以上ずっと完全な健康体というわけにもいかず、これもまた仕方がない。同僚の中には私より若いのに癌の再発を繰り返している者もいる。神はサイコロを振らないとアインシュタインは言ったが、サイコロを振っているとしか思えないこともある。人間それぞれの持って生まれた細胞の抵抗力なのかはわからないが、彼に比べればまだまだマシである。考えてみれば、そこもすべて運勢などという者ではなく、己の考え方、心の持ち方次第なのかもしれない。
「人は不幸を数え上げる事を好み、喜びを数え上げる事をしない」とはドストエフスキーの言葉であるが、今回続いている不運の中にも気が付けば幸運も含まれている。例えればトーストを床に落としてしまったが、バターを塗っている部分が上になって落ちたようなものかもしれない。落とした事を嘆くよりも、バターを塗った部分が上になった事を喜べるようにしたい。そうした心の持ち方が、不運の渦中を耐え抜く力なのかもしれない。悪い運勢を嘆くのではなく、「やまない雨はない」と考えるようにしたい。そういう考え方で、今を頑張りたいと思うのである・・・
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| Ben KerckxによるPixabayからの画像 |







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