2025年11月2日日曜日

論語雑感 子罕第九 (その15)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感
【原文】
子曰、出則事公卿、入則事父兄。喪事不敢不勉。不爲酒困。何有於我哉。
【読み下し】
いわく、でてはすなわ公卿こうけいつかえ、りてはすなわけいつかう。そうえてつとめずんばあらず。さけみだれをさず。われいてなにらんや。
【訳】
先師がいわれた。
「出でては国君上長に仕える。家庭にあっては父母兄姉に仕える。死者に対する礼は誠意のかぎりをつくして行なう。酒は飲んでもみだれない。私にできることは、まずこのくらいなことであろうか」
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 一読してなんとなく自分の事であるように感じたのである。外に出ては会社で社長に仕え、家庭にあっては父母に仕え、祖父母の仏壇には一日一回手を合わせ、酒は飲みに行っても生ビールとハイボール一杯くらいでやめてしまうし、当然酔い乱れることはない。ごく普通の人間であると思う。考えてみれば、大半の人がそうではないかと思う。もっとも、人によって微妙な違いはあるだろう。会社経営者であれば会社で仕える人はなく、独身者であれば両親とは別居だし、仏壇もないのが普通だろう。酒を飲んで失敗するのは若いうちにはありがちである。

 そう考えると、会社勤めで家族持ちで、ほどほどに身内に鬼籍に入った人がいて、酒に飲まれることもなくなるような人となると、ある程度年齢のいった人ということになるのではないだろうか。上記は孔子がいくつの時のものかはわからないが、若かりし頃の言葉ではないように思える。ある程度年齢がいってさまざまな経験を積んでくると、大体の人は「落ち着いてくる」し、そうすると先の孔子のような境地に立てるのではないかと思う。

 若い頃はそれなりに野心のようなものはあったと思う。銀行に入って頭取になろうとは思わなかったが、そこそこ恥ずかしくない程度に(可能な限り)出世はしたいと思っていた。涎を垂らすほどではないが、垂らさないほどにはと思っていた。ただ、それを目的に上司に媚を売るようなことはしなかったし、己を貫いていたからあまり覚えめでたくはなかったと思う。それは今も基本的に変わっていないと思う。仕えると言っても、奴隷ではないし、上司の顔色ばかりを伺うようなことは決してなかった。

 「仕える」というのは、隷属を意味しない。高校生の頃、将来はサラリーマンになりたくはないと漠然と思っていた。それはサラリーマン=社畜というイメージがあったからで、実際に就職してみると、時代もあって最初は滅私奉公を強いられた。それに対して必死に抗ってきた20代であった。実際には周りはみんな隷従していたように思う。休みの日の行事にも面従腹背で参加していた。日本的と言えば日本的。今は極めて仕事を楽しんでいるし、形の上では社長に仕えているが、自分は「いないと困る存在」であることを自覚しているから、隷属ではない。

 両親と同居しているが、それはむしろ老いて危なっかしくなった両親の生活を支える意味合いが強く、それは日々の食事や週末の掃除、洗濯、買い物といった「世話」的なものであり、「仕える」と言っても従属的なものではない。毎日、仏壇に向かって手を合わせるが、おそらく祖父母のことをそうやって思うのは私までで、祖父母を知らない私の子供たちは何も思わないだろう。死んだ人はその人たちを思い出す人がいなくなると、本当に世の中から存在しなくなるように思う。数少ない思い出と共に、祖父母を思い出すのが私にできる誠意である。

 「仕える」のも「死者に対する礼」も従属的なものではなく、主体的なものである。孔子がどんなことを念頭に置いて語ったのかはわからないが、そこにあるのは自分なりの生き方であるように思う。人間もある程度の年齢になれば自分なりの生き方に対するこだわりのようなものができてくると思う。人に誇るようなものである必要はないが、自分にとって居心地の良い、それでいて卑屈になることなく、胸を張って人に語れるような生き方である。孔子にとって、それがここで挙げていることなのだったのだろうと思う。

 自分も主体的に「仕える」ことによって、誰かの役に立てるような存在であればいいと思う。自分のできることの範囲内で、自分のありたいようでいられたらと思うのである・・・


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【今週の読書】
 全体主義の起原 新版(1) ハンナ・アーレント  一度読んだら絶対に忘れない生物の教科書 - 山川 喜輝  黛家の兄弟 (講談社文庫) - 砂原浩太朗




2025年10月30日木曜日

企業で働くとは

 現在、若手の社員の扱いに頭を悩ませている。勤務は真面目で特に問題はないのであるが、問題なのは「休みが多い」ことである。体調不良と言われると文句は言えない。しかし、その日数が多いのは問題である。有給休暇を使い切ると、あとは欠勤になる。欠勤になれば給与もカットになる。「働かざる者食うべからず」ではないが、働かない以上、給料を払わない(欠勤分を減額する)のは当然である。社労士さん曰く、❝No work,No pay❞の原則らしい。給料を減らすのであれば問題ないかと言うと、そうでもない。休めば当然周りに負担をかけることになる。

 休む本人はいいかもしれないが、その本人が本来やるべき仕事は周りの者がやらないといけない。1日、2日ならいいが、1週間となると先送りできない仕事もある。月末月初等で限られた期限の中でやらないといけない仕事は、本人が出てくるまで待っているわけにもいかない。誰でもできる仕事であればまだしも、特定の人しか精通していない場合、その人の負担は過大になる。取引先との折衝があるような場合は、取引先との信頼関係にも支障をきたすから、担当にもつけられなくなる。

 そもそもであるが、会社と社員は「雇用関係」にあり、入社時に「雇用契約」を取り交わしている。会社と社員は契約関係にあるわけである。平たく言えば、「これだけ働けばこれだけ払う」というものである。「これだけ払う」は給料であるが、「これだけ働く」のは(日本の場合=我が社の場合も)明確にはなっていない。基本的に「土日祝日を除く平日に働く」のが原則で、せいぜい年間付与される有給休暇の日数が「休んでよい範囲」と解釈できる程度であろう。つまり、有給休暇(それ以外に特別休暇があればそれも含めて)の日数が休む事が認められる範囲だろう。

 有給休暇を超える日数を休むということは、すなわち「契約違反」であり、したがってその分給料を減らす事になる。契約違反は契約解除につながるものである。さすがに1日でも欠勤があったら契約解除ということはないが、「度を過ぎれば」当然ありうる話である。今の時代、会社は簡単に社員を首にすることはできない。それはそれで良いことだと思っているが、社員もそれに甘えていて良いということもない。契約という形で働く約束をした以上、社員の方も意識を持って働かないといけない。

 入社前には社員に健康診断を義務付けている。普通、あまりその意味を考えていないかもしれないが、健康であることの証はすなわち、決められた日数働けるということの裏付けである。もちろん、健康面で会社が配慮するべきことがあるかどうかという確認もあるかもしれないが、基本はそうであろう。件の若手社員は欠勤日数の合計が2か月近くにもなる。それだけ休まれると少しでも責任のある仕事は任せられなくなる。結局、行き場を失って私の下(人事・経理・総務部門)に来たが、勤怠状況は変わらず、今や完全に「お荷物くん」になってしまっている。

 そのお荷物くんであるが、根底には「甘え」があるように思う。「契約」関係を意識せず、体調不良であればいくら休んでも仕方のないことという「甘え」。欠勤があれば給料をその分減らされるが、それさえ我慢すればいいことという「甘え」。今の時代、「這ってでも出てこい」という事はできないが、「這ってでも出ていく」という気構えはあってもいい。否、ないといけない。もしも業務で重要な仕事があり、休めばお客様に迷惑がかかるという状況になったらどうするのか。もしも、「這ってでも行けない」くらいであれば、せめて全力で誰かに代わりを依頼しないといけない。

 彼はそういう部分での信頼性を失っていることにも気づいていない。その昔、野生に近い原始社会では、人は狩猟や農耕の労働をしなければその日の食べ物を得られなかったはず。体調が悪いと言って何もしなければ空腹を我慢するしかない。それは人間の、というより生物の宿命であり、大原則である。人類は高度に発達した社会を築き上げ、相互扶助の仕組みもあって働けなくても生きてはいけるが、大原則を忘れてはいけない。理由はともあれ、(決められた日数を)働けないのであれば、退場するしかない。

 会社は働かなくてもサポートしてくれる組織ではない。お金のために働くという契約を交わした集団であるから、働かない(働けない)のであれば、組織から退出しないといけない。そこが家族とは違うのである。件の彼にもそんな話をしてきたが、いよいよ最終的な話をする段階にきている。残念ながら、みんなの稼いだお金を無駄に使うわけにはいかない。お荷物くんを食べさせていくわけにはいかない。厳しいようであるが、レッドカードを出すべき時が来ている。これもお役目と心得てその役を果たさなければならないと思うのである・・・


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【本日の読書】

全体主義の起原 新版(1) ハンナ・アーレント  一度読んだら絶対に忘れない生物の教科書 - 山川 喜輝  黛家の兄弟 (講談社文庫) - 砂原浩太朗





2025年10月26日日曜日

管理職合宿

 何かを集中してやるという時に、合宿はよくやる手段である。スポーツでは一般的で、私も小学生の時には野球で、高校でラグビーを始めてからはやはり山中湖や菅平で合宿を行った。小学生の時は野球の合宿というよりは、プールタイムもあったりしてどちらかと言えば遊びみたいなもので、辛いということはなかった。しかし、高校の時の山中湖の合宿はもう2度と行きたくないと思うほど辛いものであった。菅平は逆に楽しい思い出ばかりで、今でも学生時代に戻ったら行きたいとさえ思う。その違いは「自主性」のように思う。

 合宿に限らず何事もそうであるが、「やらされている」ものは面白くはない。高校の合宿がその際たるもので、キツイ練習だけで何も楽しみもなかった。しかし、大学に入ってからはガラリと変わり、自主性を重んじる伝統から自分たちで考えて全てをやる仕組みであり、私も上手くなるために何が必要か常に考えて練習していた。ラグビーそのものも楽しかったし、合宿でも1日の練習や試合が終わったると、外へ行ったりするのも楽しみであった。それは学年を上がるごとに(個人からチームへと責任範囲が広が流ごとに)充実していった。

 それは仕事においてでも同じである。今年に入り、役員だけでの合宿をやり、金曜日から土曜日にかけては管理職で合宿に行った。今や取締役として「主催」側であることもあるが、なかなか内容の充実した満足度の高いものであった。社会人になってからの銀行員時代も泊まりではなかったが、週末に終日かけての合宿のような会議があった。対象は総合職のみ。一般職の女性は対象外だったのも「時代」である(今回の管理職合宿には女性管理職も参加した)。若い時のそれは苦痛でしかなかった。

 会議の目的は、期初にあたっての事業計画の策定であるが、下っ端はほとんど訳がわかっていない。休みの日に強制参加ということもあってモチベーションなど上がるはずもなく、幹部だけでやればいいものをなぜ下っ端も参加しなければならないのかと不満であった。支店の成績によってボーナスの額が左右されることはわかっていたものの、下っ端のそれは変動幅も少なく、そもそもそれほど支店に忠誠心もない。今考えてみても、やっぱりある程度の幹部だけでやるべきだったのではないかと思えてならない。

 そういう意味で今回は管理職のみ。場所は温泉地のホテル。日常を離れた空間でさまざまな議論をし、演習などをやったりして普段使わない脳みそを使ってもらった。共に夕食を食べ、軽く飲みながら仕事以外の話もし、結束が強まったのではないかと思う。やはり管理職ともなると責任感もあるし、昔の私みたいなイヤイヤながら参加している者は皆無に見えた。管理職から経営は始まるものであり、それまで指示される立場であったのが、これからは指示する側に回る。そういう意識を強く持ってもらえたのではないかと思う。

 管理職はもはや指示される者ではない。もちろん指示もされるが、それ以上に全体方針を理解し、自ら考えて動いていかないといけない。全体方針に基づいて自分の課をどう運営していくかは、それぞれの管理職が考えていくべきもの。部下に指示をし、場合によっては経営層に意見具申をし、会社を動かしていく。中間管理職と言えば、一般に「悲哀」とともに語られる事が多いが、本来は会社の中心になって動かしていく面白い立場であるのである。

 新しい期の始まりにあたってこのような合宿をやれたのは良かったと思う。みんなの反応も好評であり、これから定期的にやっていこうという流れである。学生時代、菅平で合宿を行い、来るべきシーズンに備えて準備した。それは決して辛いものではなく、楽しみでもあり、内容については緊張感のあるものであった。今回の管理職合宿も同様であった。若い頃には苦痛であったものが、今は楽しめるものでもある。それを有意義なものにするためにも、今期はいい成績を収めたいと思うのである・・・


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【今週の読書】
全体主義の起原 新版(1) ハンナ・アーレント  一度読んだら絶対に忘れない生物の教科書 - 山川 喜輝  黛家の兄弟 (講談社文庫) - 砂原浩太朗



2025年10月22日水曜日

ワークライフバランスとは無縁の仕事

 日本初の女性総理大臣として高市早苗自民党総裁が選出された。私は自民党の支持者ではないが、女性先進国のアメリカとフランスでもまだ女性の大統領が誕生していないことを鑑みると喜ばしいことであると思う。それに先立ち、自民党総裁に選出された際のスピーチで「ワークライフバランスを捨てる」と発言したことについて賛否が分かれているという。とある調査では「ポジティブに受け止めた53%、ネガティブに受け止めた29%」となったようである。この時代にあって概ね好評だったのは好ましいことだと思う。

 ただし、ダイヤモンドオンラインには『「働いて働いて働きまくるリーダー」が部下を不幸にする決定的な理由』というネガティブな意見が表明されていた。いろいろな意見があっていいと思うが、その違いはどこからくるのだろうかと考えてみた。私自身は総理大臣たる者は、国のために働くということを全国民から付託されているわけであり、「24時間働く」のは当たり前だと考えている。そこにはワークライフバランスなど入る余地はなく、それを堂々と表明した高市新総理には拍手を送りたいと思う。

 しかし、先の記事を読んでいくと、それをネガティブにとらえる理由は「誰か(特に影響力のある上司など)が長時間労働をすることは、周囲の部下や同僚の労働時間を長くし、彼らの幸福度を下げてしまう可能性がある」ということのようである。つまり、本人はいいけど部下が長時間労働を強いられるということが否定の理由であるようである。もっともな意見であると思うが、これも考え方だと思う。国民全体のことと部下のこととを比較してどちらを優先すべきかという問題で、著者は部下を選択しているだけであり、そういう考え方もあると思う。

 ただ、こういう場合、私は可能性の話で反対するのではなく、メリットデメリットを考慮し、メリットの方が大きければデメリットを最小化する方法で乗り切ればいいのではないかと考えるタイプである。つまり、部下が長時間労働に苦しまなくて済む方法を考えればいいのではないかと思うのである。これは何事であれ同じであるが、目的(メリット)とリスク(デメリット)を比較し、メリットが大きければデメリットを最小化してやる方法を考えればいいだけのことだと思う。「デメリットがあるからやらない」というスタンスでは、当たり前だが何事もなしえない。

 そもそもであるが、考え方の違いには「見えている景色の違い」もあると思う。ワークライフバランスは主として「従業員目線」の考え方である。もちろん、それ自体悪くはなく、むしろ大事なことである。しかし、一方で経営者目線で考えると、そこにあるのは24時間働く覚悟の有無である。経営者であれば(特に社員を雇っていれば)、会社を存続・成長させるためには全精力を傾けるものであり、そこにワークライフバランスという概念はない。もちろん、だからといって社員に長時間労働を強いるのは違う。総理大臣は会社経営者よりはるかに大きな責任を負っているのでなおさらである。

 おそらくダイヤモンドオンラインの記事を書いた方は従業員目線での意見を述べたのだろう。日頃から何をどう考えるかというところには、普段からの「目線」が影響する。従業員目線で見ている人は、必然的に物事をそういう目線から見て判断する。高市総理の発言を聞いて、従業員目線で重要なワークライフバランスを脇に除けるような発言を危ういものと判断したのであろう。私はと言えば、先にも述べた通り総理大臣の辞書にはワークライフバランスという言葉は載っていないと考えるので、まったく問題を感じないし、むしろ当然だと考える。それはどちらが正しいという問題ではなく、「目線」の違いと言えるだろう。

 一般的に何かを考える時に、メリット・デメリットの比較と代替案の発想は大事だと思う。メリットよりもデメリットの方が大きい時はそれをやる意味はないだろう。また、代替案の発想も大事だと思う。ただ、「〇〇だからダメ」で終わってしまうと、やはり物事をなしえないという結果に終わってしまう。「どうしたらできるだろうか」という創意工夫の発想でデメリットを最小化することができないかという思考が、なしえる何事かにつながっていくと思う。ダイヤモンドオンラインの記事は、デメリットに気づかせてくれるという意味では大いに意味のある内容であった(私もその視点には気づかなかった)。自分と異なる意見にはそういう気づきも含まれていたりする。

 それにしてもダイヤモンドオンラインがこういう記事を掲載するということは、こういう視点で物事を考えるスタンスだということなのだろうと思う。賛否両論が掲載されていると、それぞれの意見がわかって思考訓練になると思う。しかし、残念ながら新聞も含めてメディアは自らの意見を押し付けるところがあり、常々そこは残念に思う。まぁ、自分で考えるトレーニングになるという意味ではいいのかもしれないし、そう思うことで納得するようにはしている。高市新総理は特技が徹夜だという。それはどうかと思うが、女性ということだけが話題で終わるのではなく、国民のために大いに成果を挙げていただきたいと思うのである・・・


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【本日の読書】

全体主義の起原 新版(1) ハンナ・アーレント  一度読んだら絶対に忘れない生物の教科書 - 山川 喜輝  黛家の兄弟 (講談社文庫) - 砂原浩太朗




2025年10月19日日曜日

論語雑感 子罕第九 (その14)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感
【原文】
子曰、吾自衞反魯、然後樂正、雅頌各得其所。
【読み下し】
いわく、われえいよりかえりて、しかのちがくただしく、しょう各〻おのおのところたり。
【訳】
先師がいわれた。「わしが衛から魯に帰り、そのあと音楽も立ちなおり、雅楽も納まるところに納まった。」

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 まだ10代の頃、テレビで歌謡番組をやっていると、それを見ていた母親がキャンディーズやピンクレディーなどの当時のアイドル歌手の歌を聴きながら、「こんなのどこがいいのかねぇ」と言っていたのを思い出す。母は美空ひばりのファンであり、歌と言えば「演歌」という感じであった。おそらく、母にとっては演歌こそが歌であり、じっくり聞かせるものであり、フリフリキャビキャビしながら愛だの恋だのと歌う歌謡曲などは歌のうちには入らないという思いだったのだろう。しかし、演歌も歴史は浅く、その前の世代が美空ひばりをどう捉えていたのだろうかと興味深い。

 「こんなのどこがいいのかねぇ」と言っていた母の気持ちもよくわかる。「歌とはこういうものだ」という思いがあって、当時のアイドル歌手による流行歌は母の「基準」からは外れていたのだろう。私も共感する部分はあって、当時はアイドルよりもフォークソングの方がいいなと思っていたし、高校生になるとRCサクセションの方向に向かったし、アイドル歌手は遠くから眺めているかたちであった(それは今に至るまで変わらない)。私の音楽の趣味はみな母の「基準」からは外れるだろうが、それが私の「基準」なのである。

 孔子が衛から魯に帰り、音楽を「立ち直らせた」とするのはいったいどういう意味なのか、この訳だけではよくわからない。正しい基準があって、そこから外れていたものをあるべきところに戻したということなのだろうか。しかし、正しい基準がいったい何をもって正しいとするのかは疑問である。それは生物が突然変異によって進化するように、基準から外れることによって新しい基準となることは音楽に限らずよくあることだと思うからである。何より自分がいいと思うものこそが何よりの「基準」だろう。

 もっとも「伝統」というものも大事だということも理解できる。歌会始で読まれるのは伝統的な短歌であり、川柳が読まれることはないだろう。孔子が正したものがそういう宮中の伝統行事的なものであれば、それはそれでいいのであろう。そういう伝統の良さというのも理解できる。しかし、あまり正しい基準にばかり囚われていては、新しい文化が生まれてくることはない。新しい基準は得てして既存の基準に慣れた人にとっては異質で受け入れ難く感じるかもしれない。しかし、「変化」はそこからしか生まれてこないのも確かだろう。

 私は比較的柔軟なつもりではあるが、そうはいうもののラップが出てきたときには「なんじゃこりゃ」と思ったものである(今でもそう思う)。娘がいつからか嵐や関ジャニ∞(今はSUPER EIGHTか)に夢中になりだした頃、心掛けていたのは、決して「こんなのどこがいいのかねぇ」と言わないことであった。それはもちろん、自分の経験則からしてそんな事を言っても娘に嫌われるだけだとわかっていたからである。それに一緒に聴いているとそれなりにいいなと思うようになったのも確かである。人それぞれいいなと思う基準はさまざまであり、他人がとやかく言うものではないのだろう。

 そういえば最近はフォークソングという言葉をほとんど聞かない。といっても実は何がポップスで何がフォークなのか厳密な定義はわからないので、私が知らないだけかもしれない。J-POPだK-POPだとか言われるが、何がどう違うのかよくわからない(さすがにJとKの違いくらいはわかるが・・・)。いろいろと派生して変化していくうちに、音楽の姿もその時代の人たちの心をどう捕らえるかで変わってくるのだろう。そこに正しさを求めても仕方ないことかもしれない。

 最近、昔聞いていた歌をお気に入りに入れてYouTubeで聴いている。いろいろと変化していっても、聴きなれたものはやはり耳に心地よい。人の趣味にとやかく言うことはせず、自分の趣味だけ追及していくのがいいのだろう。せいぜいその趣味の範囲を柔軟に広げつつ、「自分の基準」で楽しみたいと思うのである・・・


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【今週の読書】
 全体主義の起原 新版(1) ハンナ・アーレント 戦争の思想史: 哲学者は戦うことをどう考えてきたのか - 中山元 黛家の兄弟 (講談社文庫) - 砂原浩太朗 頭に来てもアホとは戦うな! 賢者の反撃編 - 田村 耕太郎





2025年10月16日木曜日

映画『首』の鑑賞雑感

 先日、ビートたけし監督・主演の『首』という映画を観た(監督のクレジットは北野武であった)。たけし自身は羽柴秀吉を演じ、織田信長や明智光秀、荒木村重などの戦国武将が入り乱れる群像劇で、アレンジの効いた時代劇であった。タイトルにある通り、その中でしばしば出てきたのが、敵の武将を倒した際、その証として首を切り落とすこと。褒賞に際し、それを提示して手柄として認めてもらっていたようである。現代の感覚からすると極めて残虐である。何年か前に中東でISがジャーナリストなどを斬首して殺害し、その動画を公開するという事件があり、世界に衝撃を与えたが、かつては我が国でもそれが当たり前に行われていたのである。

 当時の人の感覚ではなんともなかったのだろう。あるいは、現代でも動物の屠殺が行われているが、慣れた人ならなんともなくても普通の人は目を背けてしまったりするが、同じようなものなのかもしれない。考えてみれば、武士の世ではカメラというものはなく、敵味方入り乱れる戦場などで敵を倒したという証は首以外になかったから、いつからか首を斬り落として手柄の証とするようになったのだろう。昔の刀の切れ味がどのくらいだったかはわからないが、スパッと斬り落とすわけにはいかなかっただろうと推測する。

 スパッと斬り落とすのは、切腹における介錯のようなケース(あるいは処刑における斬首)以外には難しかったのではないかと思う。映画では有名な備中高松城攻めにおいて、高松城主清水宗治が和睦の条件として切腹する様子が描かれる。船の上で舞を舞い切腹する様は有名であるが、長々とした儀式に秀吉がまだかとイライラする様子が描かれる。1人は人生の終わりに際し、ゆっくりと名残を惜しむかのようで、さっさと中国大返しに転じたい秀吉との対比がなされていたが、そんな中で最後に介錯人が首を斬り落としていた。

 切腹における介錯では、「首の皮一枚」を残すようにしたそうであるが、経験則の中から築き上げられたやり方だったのであろう。人間は腹を切ってもすぐには死なない。死ぬまでに苦しまなければならないから、苦しまないように首を斬って楽にする。残酷なのかそうではないのか、現代人の感覚からは判断が難しい。映画『最後の忠臣蔵』では、主人公が最後に腹を切るが、介錯人はおらず、自ら喉を突いていた。自己介錯とも言えるが、当時は武士の作法だったのであろうが、やれと言われてもとてもできるものではない。

 そういう時代だったと言えばそれまでであるが、『首』では、手柄の首を主君に届けて褒賞をもらう。斬り落とすだけではなく、それを持ち歩くこともできるものではない。ラストで山中に逃れた明智光秀が首を落とされ、その首が秀吉の前に持ち込まれる。じっくりと首実験をするが、人相が変わっていてそれとはわからない。伯父が亡くなった時、その死に顔を見たが別人のようだった事が脳裏をよぎる。こういうこともあったのだろうと思う。昔は写真などないからこういうこともよくあったのだろうと思う。

 それにしても、戦では命を賭けて斬り合い、負ければ首を落とされる。勝ったとしても相手の首を斬り落として持ち帰り、手柄として誇示する。大きな責任を取らなければならない時は腹を切り、介錯人になれば首の皮一枚を残すように首を斬らなければならない。首を斬れば出血も激しいだろうし、返り血まみれにもなっただろう。武士の世は死と隣り合わせであり、その血にまみれた感覚はなんとなく想像はしてみるものの、現代人の理解を超えるものがある。それはそれでいいとは思う。

 先日、秋の味覚さんまを食べたが、スーパーではさばいてもらえず、自分ではらわたをさばいた。見よう見まねであるが、なんとかできるものなのだと思ったが、それでも気持ちいいものではなかった。魚でさえそうなのであるから、人間では言わずもがなである。現代人で良かったとつくづく思う。理解などできない方が幸せなのだと改めて思うのである・・・




【本日の読書】
 全体主義の起原 新版(1) ハンナ・アーレント  戦争の思想史: 哲学者は戦うことをどう考えてきたのか - 中山元  黛家の兄弟 (講談社文庫) - 砂原浩太朗





2025年10月13日月曜日

アンケートに思う

公益財団法人「新聞通信調査会」は11日、メディアに関する全国世論調査の結果を公表した。 日本の防衛費の増額について「賛成」と答えた人は54・5%で、「反対」の42・8%を上回った。米国のトランプ大統領が「世界に悪い影響を与えている」と答えた人は79・4%だった。
2025/10/12

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 二者択一の質問に際し、答えは二つのうちの一つを選ぶだけなのであるから一見簡単そうに見える。しかし、私はこのような二者択一の質問に際し、戸惑ってなかなか答えられないケースが多い。それは質問がシンプルであればあるほどその傾向は高くなる。なぜなら質問について掘り下げて考えていくと、行き着いた先のケースバイケースで答えが異なるからである。つまり、「YES」の場合も「NO」の場合も出てきてしまうのである。質問がシンプルであれば、「◯◯だったらYES」、「□□だったらNO」という具合に答えが前提条件付きになってしまうのである。

 例えば上記の「防衛費の増額」についてであるが、そもそもなぜ増額の必要性があるのかという背景を知りたい。中国の脅威なんかは容易に想像がつくが、脅威があるからといって金だけかければいいというものではないだろう。装備の劣化によって最新兵器に代替していく必要があるのかもしれない。あるいはただ単にアメリカの圧力に抗しきれないだけかもしれない。装備も最新兵器になれば同じ目的でも価格が高くなることは容易に理解できるから、一概にダメとも言い難い。

 アメリカとの付き合いもあるから、単に圧力に負けるということではなく、駆け引きから「あちらを譲ってこちらを譲らせる」的なところがあるかもしれない。とにかく最新兵器を導入したくて必要もない更新をしているためとなるといかがなものかと思えてしまう。また、防衛費を増額する場合、その財源をどうするのかも大事な判断要因である。既存の税収の範囲内でやりくりするというのであれば構わない気もするが、それで削られる公共サービスの内容によっては「ちょっと待った!」というケースもあるかもしれない。

 また、基本的に増税は勘弁してくれよと思うが、その金額によっては目くじらを立てることもあるまいと思うだろう。例えば5円の増税と言われれば「まぁいいか」となるが、1,000円となるといい顔はできない。「防衛費の増額に賛成か反対か」と聞かれた時、私ならこういうふうに考えてしまう。そして一体どういう風に増額するのか、それが明らかにならないと答えようがない。このアンケートに答えた人たちはどういう状況で答えたのかわからないが、何を根拠に答えたのか気になってしまう。

 「トランプ大統領が世界に悪い影響を与えている」と答えた人は79・4%だったということについても、当然歴代の大統領はみな世界にいい影響も悪い影響も与えていると思う。トランプ大統領のイメージだけで判断しているように思えてならない。関税戦争についても世界に緊張感を与えたのは事実であるが、本当に悪いかどうかは私には判断できない。ノーベル平和賞狙いだろうと名誉欲からであろうと、戦争終結への努力は認められて然るべきである。

 また、こういうアンケート結果を見た時、ついつい目が行ってしまうのは、悪い影響を与えていると答えた79・4%の人ではなく、いい影響を与えた(設問に「どちらとも言えない」があったかは知らない)と答えた21・6%の人である。どういう考え方だったのだろうかと興味深い。単純に「いい影響を与えた」と考えているとしたら、その人たちは世間一般の(マスコミによって作られた)イメージに左右されることなく、人が目を向けないところに目を向けているということであり、なんとなくたくましさのようなものを感じる。

 そもそもこれがバイデン前大統領だったり、オバマ元大統領だったらこんな設問を用意しただろうかと考えてみると、その設問の根底にある意図は明らかだろう。アンケートと称して、その裏にはトランプ大統領に対する批判が含まれているのは明らかである。そんな意図に塗れたアンケートに答えるとしたら、天邪鬼な私は間違いなく21・6%に入る答えを書いていただろう。いずれにせよ、二者択一のアンケートに答えるのは、私には難しいことであると思うのである・・・


Fathromi RamdlonによるPixabayからの画像


【今週の読書】
全体主義の起原 新版(1) ハンナ・アーレント  戦争の思想史: 哲学者は戦うことをどう考えてきたのか - 中山元  夜更けより静かな場所 (幻冬舎単行本) - 岩井圭也






2025年10月8日水曜日

老親と暮らす

たはむれに母を背負ひて
  そのあまり軽きに泣きて  
    三歩あゆまず 
石川啄木「一握の砂」
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 妻と別居して実家に戻ってもうじき1か月である。本来、息子が大学を卒業するまであと2年半我慢していようと思っていたが、繰り上げたのは実家の両親がそろそろ2人だけで生活させておくのが危なっかしいと思ったためである。両親とも短期記憶が劇的に劣化しており、一晩寝るとみんな忘れる状態である。家事もままならぬ様子で、食事もあるものを食べている状態。一度平日の夜に行ったらその日の夕食はコンビニのおにぎりという状態であった。実家に戻って取り急ぎ改善をしたのは食事である。

 食事といっても、私も「男子厨房に入らず」の世代である。そうもいっていられないので、数年前からスマホアプリ片手に見よう見まねで包丁を握っている。今までは週に1度実家に通って料理を作っていたが、それが今度は1週間に1度ではなく毎日である。これが思ったより大変である。とりあえず週末は良しとして、平日は食事の宅配に頼ることにした。ところがこれも簡単ではない。まず午前中に食材が届くが、お昼にそれを食べてしまう。夕食用だから食べないようにと言いおいても忘れて食べてしまう。それも連日にわたってである。

 怒っても嘆いても、次の日には忘れて食べてしまう。やむなく最初の週は毎晩弁当を買う羽目になってしまった。食事の宅配を頼んだのは週3日。家計費の節約も考えないといけない。しかし、始めてみるとこれがなかなか大変。週末に週4日分の献立を考え、食材を買う。土日は当日作って食べ、月曜日の分は日曜日に作り、金曜日の分は前日に作り置きする。届けてもらった食材を食べられてしまうのは昼食がないから。したがって両親だけの昼食も考えないといけない。そうなると、常時食事のことが頭の中を占拠する。

 考えてみると、共働きの主婦はこれを毎日やっているのである。調理の手間暇はそれほどではないが、それよりも献立や食材の調達やらと食事のことを考えることが何より重荷になる。慣れてくればもう少し負担も減るのかもしれないが、今は頭の中を食事が占める割合が多くなって大変である。昼食を用意し、朝、届いた食材を食べないように母に伝え、昼に電話をして食材が届いたことを確認し、食べないように再度念を押す。そしてようやく夕食を確保できたのである。

 仕事が終わって帰宅前に電話をし、ご飯を炊いておくことを頼む。せめてそのくらいの家事はやらないと何もできなくなる気がする。しかし、帰宅してみればご飯が炊けていないということもあった。それすら忘れてしまうのかと絶望的な気分になったが、さいわい温めれば食べられるご飯パックを買っておいたので、それで代用する。怒っても何にもならない。それよりも頼んだことができていない場合を想定して動くしかない。「自分が源泉」の精神を思い出して対応するしかない。

 もはや母親も昔の母親ではない。昔の写真と比べるとだいぶ痩せて背中も曲がっている。できないことを責めても意味はない。できないことを前提にこちらが動けばいいのである。食べてはいけないと怒るのではなく、どうしたら食べられないで済むのか。食べてしまうのは昼食がないからであり、昼食を用意する。忘れるなら面倒でも注意喚起する。それでも食べられてしまうケースを想定して代替案を考えておく。「自分が源泉」に立てばやれることはある。そうしてついに配達された食材で夕食を囲むことができた。ご飯を炊くのは忘れられたが、プランBで対応した。

 『子ども叱るな来た道だもの 年寄り笑うな行く道だもの』という言葉がある。自分自身、若い頃と比べれば力が衰えている。ラグビーをやっていれば否が応でもそれを実感させられる。両親の今の姿は27年後の自分の姿かもしれない(35年後くらいだと思うが・・・)。そう思えば、できないことを怒るのではなく、できないことを前提に「どうするか」を考えるしかない。それでできなければそれは親が悪いのではなく自分が悪いということになる。そう考えればイライラすることもない。

 考えてみれば、もう両親と一緒に過ごす時間も残り少ない。それであれば、せめてその間楽しく過ごしてもらいたいと思う。それにできないことを前提に考える「自分が源泉」の考え方をトレーニングするいい機会でもあり、自分自身の修養のためにもいい機会であると言える。両親との限られた残り時間を穏やかに、そして有意義に過ごしたいと思うのである・・・




【本日の読書】
 全体主義の起原 新版(1) ハンナ・アーレント  戦争の思想史: 哲学者は戦うことをどう考えてきたのか - 中山元  夜更けより静かな場所 (幻冬舎単行本) - 岩井圭也




2025年10月5日日曜日

論語雑感 子罕第九 (その13)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感
【原文】
子欲居九夷。或曰、陋、如之何。子曰、君子居之、何陋之有。
【読み下し】
きゅうらんとほっす。あるひといわく、ろうなり、これ如何いかんせん。いわく、くんこれらば、なんろうらん。
【訳】
先師が道の行われないのを嘆じて九夷の地(東方の未開の地)に居をうつしたいといわれたことがあった。ある人がそれをきいて先師にいった。「野蛮なところでございます。あんなところに、どうしてお住居ができましょう」すると先師はいわれた。「君子が行って住めば、いつまでも野蛮なこともあるまい」

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 この短い言葉にはいろいろと考えるべき点が含まれている。孔子が1人道を説いても周りに受け入れられず、未開の僻地に行こうという心境になっている事がひとつ。未開の地など行っても野蛮で何があるかわからないと案じる弟子に、孔子は自分が行けば状況は改善できると語るのがもうひとつ。でもそれならなぜ居を移したいと思ったのか。未開の地を切り開くと思えば、根気強く道を説けばいいではないかという気がしないでもない。また、自分が行けば野蛮な人たちも啓蒙できるという自信。まぁ孔子だからそう言えるのだろう。

 日本はもう先進国であり、国内に未開な地はないと言っていい。田舎で何もないところは至る所にあるだろうが、野蛮な人たちが住む場所などないだろう。今はそんなこともないが、その昔、1つ年上の従兄弟が住む長野県にある御代田というところに毎年遊びに行っていたが、特に教育環境という点では東京とずいぶん差があった。大学進学率は東京より低く、従兄弟も高卒で就職した。それは父方の同じ長野県の富士見に住む同い年の従兄弟も同様で、当然のように大学を受験して進学した私に対し、2人とも高卒で就職した。

 1つ年上の従兄弟とは友達も私と遊んでくれていたが、みんな高卒で就職した。そもそも進学などしないから高校時代もそれほど勉強しない。だからバカだという事ではなく、やはり受験を意識してそれなりに鍛えられている東京の同級生たちと比べるとそもそもの話題も興味の対象も違っていた。私が東京の同級生たちからではなく、従兄弟とその友達との付き合いで酒とタバコと女(の子とのませた話題)を学んだことからもそれはわかる(実にありがたい教えであった)。それはおそらく「教育レベルの差」なのだと思う。

 当時の私にとって、御代田で休みの間過ごした経験は、言ってみれば「二つの世界の体験」であり、実にいい経験だったと思っている。孔子の時代の中国は、今の日本とは比べ物にならないくらい都市と地方との差はあっただろう。それこそ都会の人間から見れば地方の未開の地に住んでいる人は野蛮人のように思えたのかもしれない。そんな中で、孔子は自分が行けば大丈夫だと語ったのは、自分がその地の人を啓蒙できるという自信があったからなのだろう。その根拠はよくわからないが、人は自分の知らないことを知っている人には一目置く傾向があるから、それで啓蒙できるという自信と経験があったのかもしれない。

 私も今の会社に転職してきた時、取締役会がどうもおかしいと気がついた。それは当時2人いた取締役の考え方が、取締役の本来のそれとはズレていたのである。そこであれこれと工夫を凝らし、本来取締役としての考え方などに気づいてもらえるように仕向けてきたが叶わず、私も入社して同じ取締役になり、慣れてきたこともあって最後は直接ストレートに伝えてきたが、それで限界を感じたのか、最後は自ら退任した。とうとう最後まで考え方を変えさせることはできなかった。人は考え方をなかなか変えられるものではないのである。

 孔子が未開の地の人たちをなぜ啓蒙できると自信を持っていたのかはわからないが、人の心を動かす何かがあったのかもしれない。人の心を動かすものがあれば、自らの考え方を広めていくことができる。それが世界的な宗教が広まっていった理由でもあるし、そういうものは(私にないだけで)確かにあるのだろう。そういう影響力を自分も持ちたいと思う。それには他人の心を理解し、相手の立場や考え方を尊重しながらも自分の意見をわかりやすく伝えられるようでないとダメなのであろう。

 どんな人の間に入っていっても、自分の考えをしっかりと相手に伝わるようにして一定の影響力を持つことができるように私もなりたいと思う。まだまだ発展途上であると謙虚に認識し、そんな自分になれるように努力していきたいと思うのである・・・


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【今週の読書】
 全体主義の起原 新版(1) ハンナ・アーレント  戦争の思想史: 哲学者は戦うことをどう考えてきたのか - 中山元  星を編む - 凪良ゆう  夜更けより静かな場所 (幻冬舎単行本) - 岩井圭也




2025年10月2日木曜日

たばこの効能

 健康診断を受けたが、なんと3項目で「要再検査」とされてしまった。ご丁寧に紹介状も3通送られてきた。実に手厚く手回しがいい。便潜血はもう毎年要再検査であり、昨年と今年内視鏡検査を受けて異常なしだったので、もう慣れっこである。腸は何かあっても時間がかかるので、2年に1度内視鏡検査を受けていれば大丈夫とは再検査を受けた専門医のお話。したがって無視する事にした。そのうち初めて指摘されたのが「肺の影」。肺の影と聞くと、すぐに肺がんをイメージする。さすがにこれは急いで再検査を受けに行った。

 職場近くの総合病院に予約を取り、さっそく向かう。最近では総合病院に紹介状なしで行くとそれだけでお金を取られる(この病院は7,000円)。混雑緩和と町医者の支援等の意味合いがあるのだろう。初診受付で診察カードを作成する。今はどこの病院もこのカードを使って受付や支払いを行うようになっている。人手不足の解消にも役立っているのだろう。そして再検査のCT検査の結果、肺の影は薄れていて癌ではないだろうという事になった。一応、念のために2か月後に追加検査して様子を見ましょうとなった。

 実は検診で指摘されて以来、一応タバコは「休煙」している。私も「自分は大丈夫」という根拠のない自惚れをするほど愚かではない。年齢的には気がつかないところで細胞レベルの劣化が進んでいる事だろうし、そういう考えもあって万が一に備えて休煙する事にしたのである。そうして診察に臨んだが、担当医からは案の定、禁煙を勧められた。最初の問診でタバコの履歴を詳しく聞かれた。それこそ17歳の時に遡ってである(回答はうやむやにしたが・・・)。長い休煙期間を経て再開したのが4年前である。

 再開したと言っても、健康意識はあるし、何より世の中は30年前よりタバコを吸い難くなっている。社内も禁煙であり、道路も歩きタバコは良識的に控えたい。結果、会社から歩いて3分の喫煙所に通っている。その結果、吸いたくても「わざわざ」吸いに行くのが大変で、喫煙本数も1日数本になっている。言ってみればライトスモーカーであり、健康的にも問題ないと考えていた。診察していただいた担当医の「今も吸っていますか?」という質問に、「今回の結果が出るまで休煙中です」と回答したところ、案の定、禁煙を勧めてくる。

 まぁ、医者というものはとにかく禁煙しろと言うものだろう。「タバコは百害あって一利なし」と言ってくる。しかしながら、私からすれば「一利なし」とは言えない。現に私が再開したのは、それまで傾いた会社を立て直し、これからさらに業務を拡大しようとしていたところでいきなり社長に会社を売ると言われ、退職を要求された時期である。自分では何もせずに見ていただけなのに(まぁ私に全権を預けるという決断はしてくれた)、会社が立ち直って価値を生み出したところで「引退するから会社を売る」と言われて頭にきていた時である。

 怒りとその後どうするかという不安。住宅ローンは残っているし、息子はこれからまだまだ教育資金がかかる。そんなストレスの中でタバコが吸いたくなったのである。バカバカ吸っている人にとってはどうかはかわらないが、私の場合は吸うときは歩きタバコなどせずきちんと味わって吸う。紫煙を燻らせる瞬間、神経が弛緩してリラックスできる。要はストレス緩和である。少なくともそれは間違いのない効果であり、「一利」である。リラックス効果は人によって違う。そのリラックス効果は間違いだとは他人に言うことはできない。

 人によってはそれが酒だったりするのかもしれない。ドラマかもしれないし、ケーキかもしれない。何でもそうだが、過剰摂取はなんであれよくないが、適度であれば問題はないだろう。しかし、担当医は「1本でもダメ」と言う。それが医学的に正しい答えである事は素人でもわかる。ただし、ヘビースモーカーがすべて癌になるわけではないし、タバコを吸わなければ癌にならないわけではない。人それぞれの体質次第だろう。私がどうかはわからないが、実際に悪くならない限りは「1本でもダメ」とは言い切れないというのが私の考えである。

 医者としては「1本でもダメ」と言っておけば間違いはないのだろうが、そういう「全部ダメ」スタイルだともう意見を聞こうとは思わなくなる。担当医と話ながら、議論しても無駄と感じた。私にとってはリラックス効果もバカにできないところがある。健康第一であるが、だからと言って禁欲生活をしてまでとは思わない。そのあたりのバランスを考えたいと思うが、医師が相談相手にならない以上、自己判断でやるしかない。どうしてもこの手の「〇か×」思考に嫌気がさす。

 もしも担当医が「1日数本に抑え、3カ月に1度検査を受けながら吸ってみたら」と言うのであれば、私はその医者を心から信頼するだろう。まぁ、CT検査は時間も取られるし、費用も取られるからそう言われても実際は面倒である。ただ、「〇か×」思考の医師よりも信頼できるという話である。医学的に正しい事を言うだけでなく、患者の言い分を聞いて、そこに一定の気持ちを認め、ではどうしましょうと一緒に考えてくれる医師であれば大いに信頼したい。再検査で医師と話しながらそんな事を考えた。

 医者としては一々そんな手間暇などかけていられないのだろうとは思うが、今回の対応を通じて理想の医者ってどんな人なのだろうと考えたのである・・・


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【本日の読書】
全体主義の起原 新版(1) ハンナ・アーレント  戦争の思想史: 哲学者は戦うことをどう考えてきたのか - 中山元  星を編む - 凪良ゆう







2025年9月29日月曜日

不倫報道に思う(その2)

 以前から不倫報道には疑問を抱いていたが、今度は芸能人ではなく群馬県の前橋市長がつるし上げられている。しかも今度は女性市長である。何でもお相手は部下の既婚男性社員だという事で、個人的には「なかなかやるなぁ」と思うのだが、世間の清らかな人たちはどうにも許せない事のようで、市役所には抗議の電話が殺到しているらしい。ニュースでもご丁寧に町中の人たちにインタビューをして、一様に「いかがなものか」「辞めるべき」だという声を拾っている。もともと不倫は当人たちの問題であり周りの人が批判するのはおかしいと思っているので、今回の報道も違和感しか感じない。

 そもそも不倫がダメなのは、「配偶者に対する裏切り」だからである。第三者には関係のない話である。配偶者が怒るのは当然であるが、第三者が怒るのはおかしな話である。芸能人なども不倫報道で「お騒がせして申し訳ございません」と謝罪するのを目にするが、世間を騒がせているのはマスコミであって本人ではない。週刊誌を売らんがために他人に知られたくない秘密を暴いて販売部数を伸ばそうとして騒いでいるだけで、本人とすればいい迷惑である。芸能人であればイメージが大切であり、スポンサーに迷惑をかけたりするのだろうが、政治家はどうなのだろうと思う。

 政治家もクリーンなイメージで売っている人は有権者に対する裏切りという面もあるだろう。自民党の小泉進次郎議員などは、政治家としては若くてイケメンだから女性層に人気がありそうで、もしも不倫騒動ともなれば「裏切られた」と思う女性有権者は多いかもしれない。しかし、それは「政治家に何を期待しているのか」という点で大きな間違いであり、その批判は的外れである。不倫をしない事がいい政治家の条件かというとそんな事はない。政治手腕と不倫をしない事とは何の関係もない。むしろ「英雄色を好む」的なところがあるくらいだろう。

 「誰と誰が不倫している」という話は、ゴシップとして人の興味を引く。かく言う私も(知っている人物であれば)知りたいと思う。週刊誌はそういう人間の欲望を手に取って販売部数を伸ばそうとする商売なのであり、興味深く読むのは構わないが、興味深く読んで終わりにするべきであり、役所に抗議の電話をかけたり、「辞めろ」と騒ぐようなものではない。役所に抗議の電話が殺到などと聞くと、「みんな暇なんだな」と感心してしまう。どちらが積極的だったのかはわからないが、「英雄」は男だけではないという事なのかもしれない。

 しかし、それにしても釈明会見でラブホテルに行った事を認めた上で「男女の関係はない」と言い切ったのにはなかなか感心させられた。誰もが嘘だとわかる言い訳を公共の場で言い切る度胸は私にはない(だから政治家になれないのかもしれない)。私だったらむしろ下手に釈明するより、「妻に対して申し訳ない」と言って終わらせるだろう。不倫といっても結局は相互の同意であり、第三者にとやかく言われることではない。配偶者とその家族、あるいは友人に責められるのであればわかるが、いくら公人だとしてもプライベートの恋愛に関して批判するのは筋違いとしか思えない。

 私は別に不倫を許容するわけでも擁護するわけでもない。不倫は配偶者に対する裏切り行為であり、やってはいけない事には変わりない。だが、不倫の本質は「恋愛」である。好きになってはいけない相手を好きになったという事だけであり(もっとも感情はなく、ただ行為だけの場合もあるかもしれない)、許されざる恋などこの世には当たり前にある。それを止める事は不可能であるし、それは誰の心にも起こり得ることである。要はまったく関係のない第三者がしたり顔をしてとやかく言うことではないという事である。

 不倫は古い罪である。モーゼの十戒にも「汝、姦淫するなかれ」とあるくらいである。キリスト教も基本的にそれを踏襲しているが、一方でイエスは「情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである」(マタイ5:28)と語っている。また、姦淫の罪で民衆の前に引きずり出された女に対し石打の刑を求められた際、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」」(ヨハネ8:7)と語っている。いずれも肯定はしていないが、罪には問うていない。しかし、現代では鬼の首を取ったかの如くの集中砲火である。

 人間だから秘められた恋愛に興味をそそられるのは仕方がない。しかしながら、それは個人の胸の内で知られざる事を知った喜びで満足させていけばいい事であり、正義の味方ぶって批判するのは単なる偽善行為にしか思えない。もうそろそろ赤の他人の不倫に己の狭量な正義を振り回すのはやめた方がいいのではないかと思う。この世に100%清廉潔白な人間などいない。大事なのは市民に対して政治家としての責任を果たせるかどうかである。陰で不倫をしていようが人には言えない性癖があろうが、市民のための仕事ができるかどうかで判断すればいいのではないかと思うのである・・・


VictoriaによるPixabayからの画像

【本日の読書】
全体主義の起原 新版(1) ハンナ・アーレント  数学の世界史 (角川書店単行本) - 加藤 文元  星を編む - 凪良ゆう








2025年9月27日土曜日

日本は多民族化するのか

 最近、身の回りに外国人が増えてきた。外出すれば大きなスーツケースを持った観光客に会わない事はない。勤務先は新大久保に近く、店舗を構えている韓国系の人はもちろん、その他の国の方もいて、(英語はもちろん、韓国語、中国語系、フランス語、ロシア語は意味は分からなくともそれとわかるが)聞いてもどこの国の言葉かわからない外国語が飛び交っている。我が社の今年の新入社員5名のうち1名は外国籍だし、中途採用でも2名の外国籍の社員を採用している。さらに来春入社予定の内定者7名のうち3名は外国籍である。中途採用においては人材紹介会社に斡旋を頼んでいるが、紹介される人材の8割は外国籍である。

 我が社は国内オンリーのドメステ企業であり、大手企業のように社内公用語が英語などという事はなく、日本語オンリーである。したがって、外国人の採用に際しては日本語能力を必須としている。しかも、日本語のレベルとして「N1」、「N2」、「N3」とあるうちの、最低でも「N2」というレベルを要求している。採用に至る外国人はみなこのレベルをクリアしている。そして採用に至る外国人はみな優秀である。通常のエンジニアとしての能力の他に日本語も習得しているわけであり、その努力には頭が下がる思いがする。

 翻って我が社の社員を見てみると(優秀な社員ももちろんいるのだが)、なんとなくのんびりしている者が多い。エンジニアは技術者であり、勉強が必要ではあるが、この勉強をあまりしていない者が多い。必要な範囲内ではしているのだろうが、貪欲にさらなる向上を目指してというほどではない。「資格にチャレンジします」と言っても、それは「取れれば取ります」という感じで、「何が何でも取ってみせます」という覚悟のほどではない。勉強に向き合う姿勢が違うのである。いわゆる「ハングリー精神」というものが顕著に違うのである。

 考えてみればそれも当然の事で、そもそも我が社の外国籍社員には「外国へ行って仕事をしよう」という強い意思があるわけである。何となく学校を卒業して、働かないといけないので就職して、というレベルとは次元が違う。「外国人だから優秀」というわけではなく、「優秀な外国人」が来日しているのである。それはミャンマーのように国内の政情不安から逃れて少しでも明るい未来を目指してという人もいれば、韓国や中国もそれぞれ自国に限界を感じての国外脱出であろう。言葉に不自由しない自国を出て、単身外国に行こうという決断は、考えれば大変だと思う。我が社に入社したメンバーには幸福をつかんでほしいと思う。

 日本の労働力不足も新聞で読むだけの現象ではなく、身の回りの現実である。そしてそれを外国人が埋めている。我が社の例だけではなく、飲食店やコンビニに行けば当たり前のように外国人が働いている。温泉地の旅館に泊まればそこにも外国人の仲居さんがいる。政府もそんな現実を踏まえ、移民政策の転換というのではなく、現行の制度内で門戸を開放しているように思える。私もかつては外国人が増えれば日本の繊細な文化が破壊されると思って移民には反対していたが、目にする外国人はみな日本の繊細な文化に馴染もうとしているように思える。何となく以前感じていた移民に対する考えは杞憂だったのかもしれないと思える。

 もちろん、例外もいる。交通法規がわからなかったのか、事故を起こす外国人のニュースはちょくちょく目にするし、刑法犯罪でも然り。しかし、だから外国人はダメというのもおかしなもの。日本人だろうが外国人だろうが人が増えれば事故も犯罪も増える。それをもって外国人はけしからんというのもおかしいだろう。ただ、物価の上昇に与える影響については歯がゆいものがある。都内の地価上昇には海外からの投資マネーが影響しているという。高値でもポンポン買うからマンションなども値上がりする。必然的に普通の庶民が手を出せなくなってしまっている。

 聞くところによると、ニューヨークではラーメンが一杯3,000円だと言う。日本に来れば半額以下で食べられる。となれば1,500円のラーメンを食べるのに躊躇しないわけであり、昼食費をいかに減らすかと頭を悩ませるサラリーマンには脅威である。インバウンド価格が浸透したら、とても昼飯を外では食べられなくなる。外国人には大いに来てほしいと思うが、物価高を連れてこられるのには閉口してしまう。日経新聞では中古マンションで億ションが話題に上がっていた。観光客には我が国で大いに気前よく消費していただきたいが、国内向けの価格転嫁はほどほどにしてほしいと思う。

 子供の頃のうっすらとした記憶では、外国人を見かけると「外人だ!」と思うくらい外国人は珍しい存在だったと思う。今はそれは遠い過去の話で、まわりで飛び交う言葉も英語だけではなくなっている。映画『ブレードランナー』ではどこの国かわからない文化がごっちゃになった街が出てきた。SFの世界と思っていたが、いずれ遠くない未来の東京の姿なのかもしれないとふと思う。ラグビーの日本代表チームはおよそ半分が海外にルーツを持つ選手が占めている。いずれ「日本人」が外見ではわからなくなる日がくるのかもしれない。

 そうなっていくのは構わないが、今の日本の居心地の良い文化だけは変わってほしくないと思う。自己主張の文化に謙譲の文化は脇へ押しやられてしまうと思っていたが、踏ん張ってくれるのならどこの国から来た人であろうと気にはならない。今の良き文化を守った「日本人」がこれから先も日本に住み続けてほしいと思う。ついでにきな臭い国際情勢も共存の精神であふれるのが理想的である。残りの人生で、そんな世の中を見られたらと思うのである・・・


Rupert Kittinger-SereinigによるPixabayからの画像

【今週の読書】

  全体主義の起原 新版(1) ハンナ・アーレント  数学の世界史 (角川書店単行本) - 加藤 文元  星を編む - 凪良ゆう