2022年11月27日日曜日

企業が業績を追求するのは何のためか

 仕事柄、某上場企業とお付き合いがあり、そこの内部事情に関わるお話をよく伺っている。中期経営計画で売上高100億円を掲げ、社内にも大号令がかかっているらしい。上場企業は何より株主の目があるし、四半期決算で動いているしで、トップの号令も朝令暮改は珍しくないという。そのためか、トップの指令を受ける役員の方もプレッシャーが大変らしい。まぁ、それに見合う報酬ももらっているのだろうから、ある程度は仕方ないのだろうと思う。

 翻って我が社は未上場企業ゆえ、それほど株主の目は気にしなくても良い(と言ってもやはり外部株主がいるので意識はしている)。同じように中期経営計画は掲げたが、達成目標のレベルは、簡単ではないがそれほど無謀なものではない。しかし、これまで数字を意識せずに来てしまっていたためか、急に業績目標を言い出したので、一部役員には戸惑いが生じている。それはあたかも、これからは業績がすべてなのだと言っているかのようである。議論をするにも土台となる意識が同じでないと議論が噛み合わない。そのあたりのギャップをこの頃感じている。

 そもそも我が社は、ピーク時から比べると、売上高は半分になっている。その数字は緩やかな右肩下がりであり、はっきり言って「衰退」している。このままではいずれ立ち行かなくなる。残念ながら役員間にそういう危機感がなく、今回大幅にテコ入れをする事になり、作られたのが中期経営計画である。これによって毎年15%の成長を目指す事にした。そこで出てきたのが、「これからは売り上げが大事なんですよね」という某役員の発言。それは一部の部署で超過労働が生じていて、その改善を話し合っていた時のものであった。

 超過労働は一時的なものであるが、若手社員が1人疲弊してしまっている。担当役員は、「これでやっていけないのならこの先もやって行けないから早く見切りをつけた方がいい」と言う。「辞めるのも仕方ない」という事である。しかし、それはどうかと思う。そもそも、なぜ業績を追求するのかと言えば、それは社員みんながハッピーになれるようにである(我が社の企業理念である)。衰退死するのを座して待つのではなく、長く反映できるように業績改善するのである。その役員の理解は本末転倒というわけである。

 そもそも企業が業績を追求するのは、当たり前の事である。個人でもそうであるが、目標を立てて努力する人と、ただ毎日流されて生きる人とでは自ずと違ってくる。社員の人生を預かる企業であれば、「行き当たりばったり」の事業展開ではなく、目標を立てその達成を目指す活動をするのは当然の事である。今までそれをやってこなかったのが問題なのである。それは人であれば食事をするようなもので、食べなければ生きてはいけないが、食べるために何をやってもいいかと言えばそうではない。より良く生きることが必要であり、それは食べることとはまた別のことである。

 企業は業績を上げて社員に給料を払い、その生活を支えていく。逆に言えば、社員の生活を支えて行くために企業は業績を上げる。だから、社員もそういう意識を持つ必要がある。ただし、だからと言って過重労働をしてでもやれというのではないのは当然である。かの役員は今まで業績ということを気にせずにきていたので、突然業績目標を掲げて毎月PDCAを回すという事になり、過剰反応を起こしたのだと思うが、本来は業績は業績できっちり追求し、その上で企業理念の実現を図るものなのである。

 別のある中小企業の話であるが、そこは社長が高齢により代替わりしたのであるが、新社長は業績低迷の状況を鑑み、この冬のボーナスを大幅にカットする事にしたそうである。ところが、社員がこれに反発。ひと騒動起きているらしい。社員からすれば、おそらく会社の業績など気にもしていないのであろう、同じように働いたのだからボーナスも同じようにもらえるものと考えているのだろう。経営目線で考えることのできる人であれば問題点はわかると思うが、自分のボーナスのことしか見えていないと、いずれ大きなしっぺ返しがくる事になる。

 企業が業績を追求するのは、極めて当たり前の事であり、むしろそうしなければならない。それは、翻ってそこで働く人のためでもある。ただ、その意味をきちんと理解していないと、みんなが不幸になりかねない。我が社も役職員を含めて、その意味を浸透させていきたいと思うのである・・・


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【本日の読書】
 


2022年11月23日水曜日

私のラグビー観

 高校に入学してラグビーを始めて42年。始めた頃は、こんなに長く続けるとは思ってもみなかった。「若い頃しかできないスポーツ」という認識であったし、そんな意識を持っている人がほとんどではないだろうか。ラグビーをやっている人間でさえそうだろうと思う。それなのに今もこうして続けているのは考え方の変化もある。やってみると意外にできるものだということもある。実際、私のように50代の人間ばかりでなく、60代、70代、そして80代の人もやっている。もちろん、だんだんと激しさは薄れているが、それでもぶつかり合いに違いはない。試合が終われば体も痛い。

 高校生の時、指導してくれたOBの方が、「ラグビーは格闘技だ」と語っていた。しかし、ラグビーは相手を倒しても勝てないし、点を取らなければ勝てないという点で球技である。ただ、激しいボールの奪い合いがあるので、格闘技だと言いたくなる気持ちもよくわかる。実際、学生時代は「相手を怪我(退場)させたら気分がいい」という気持ちを持っていたのは事実。公式戦の前などは1週間も前から体調管理に気を使い、試合に向けて気持ちを高めていったものである。今はもうそういう感覚はない。

 出身母校のOBチームは某私立高校のOBチームと毎年定期戦をやっている。参加者は30代から80代までいて和やかな交流である。わが母校のOBはチームとしては活動しておらず、個々人が分散してやっている。自分のチームの練習がない時には、某私立高校のチームに参加させてもらって練習しているため、お互い顔見知りになっている。それもあって「相手を怪我させてやろう」などという気持ちは起きない。それどころか、試合の時に「怪我のないようにやりましょう」などと一見、矛盾したようなことを言い合っているくらいである。

 そういう私も普段は自分のチームに参加しているが、考えてみれば所属するチームがあるというのはありがたいこと。仲間がいるから練習もできるし、試合もできる。ポジションを任せてもらえて、試合ができるからこそ楽しめている。そういう意味で、基本的に練習や試合には欠かさず出席している。好きな時、都合の良い時だけ参加するというのでは、人数が必要なスポーツゆえに練習すらままならない。天気が悪い時などは休みたくなるが、自分の都合だけで休むわけにはいかないと考えている。

 その延長は相手チームにも言える。相手があって初めて試合ができる。そう考えれば、相手チームの人たちは「敵」ではなく、「同志」と言える。だからと言って試合でタックルを加減するなんて事はしないが、試合が終わればたとえ負けても気持ちよく握手する。レフリーも当然「同志」の1人。だから試合中に相手の反則を取ってくれなくても、「見てなかったんだな」と納得する(結構みんな文句を言うのである)。反則もレフリーが認めてこそ反則なのである。そして基本的にレフリーは中立であると信頼している。

 若い頃との違いを感じるのは肉体のダメージである。すぐに筋肉痛になるし、試合などで痛めたところはなかなか治らない。治ってから試合に出ようなんて考えていたらいつまでも出られないことになりそうである。最近では首は1年以上おかしいままだし、膝は2ヶ月近く痛みを抱えている。週末はなんとか走れても月曜日はびっこを引いて歩いている。その繰り返し。そしてそれに腰の痛みが加わっている。どちらも試合に出なければ自然と治りそうなのだが、出ているので治らない。どちらを選ぶかと考えると、試合というのが回答である。

 スポーツはなんでもそうだが、万全な体調でやるのが一番であるが、得てしてそうはいかない時が多々ある。特にラグビーなどでは常に怪我と隣り合わせだし、学生時代からテーピングなどで誤魔化しながら練習や試合をこなしていたものである。その感覚が今でもあるので、多少痛いところがあろうと基本的にやるという考えは揺るがない。「どうすれば動けるか」考えるだけである。歯を食いしばって無理してやっているのではなく、それが自然のスタンスである。

 フルバックというポジションは、試合で自分が一番やりたいポジション。今のチームではそのポジションを任せてもらっているのが大いなる喜びである。人数が多ければ前後半のうち半分だけとなるが、昔と違って今はそれで不満もない。逆に人数がギリギリの時は、交代要員がいないというプレッシャーがかかる。15人いないとできないスポーツであり、1/15の責任は常に持つようにしている。ただ、責任感だけでやっているのではもちろんない。突き詰めればそれは「楽しいから」に他ならない。

 若い頃、将来はテニスでもやろうかと考えていた。女性と一緒に楽しめるし、体にもいい。その昔、付き合っていた女性と軽井沢のホテルに泊まってテニスをしたことがある。その時は、「やっぱりテニスっていいな」と思ったし、その女性と結婚していたらテニスの道に進んでいたのかもしれない。それはそれで良かったかもしれないが、今は結果としてラグビーにどっぷりと浸かっている。もうテニスの道に進むこともないのだろう。仲間との交流も楽しいし、自分はこれでいいと思う。

 思わぬ生涯スポーツと巡り合ってしまったが、これからもずっと楽しんで行きたいと思うのである・・・

victordernitzによるPixabayからの画像 

【今週の読書】

   





2022年11月20日日曜日

迷路

 今読んでいる62歳の社長が23歳の新人社員と本気で対話したら、会社がスゴイことになった。』という本に、円盤型問題というのが出題されていた。これは人材教育を専門とする著者の会社で開発したものだが、「解答のない問題」の一種でありとても興味深い。その問題の一つに「あなたの人生を発明してください」というのがあって興味を惹かれた。著者の会社の入社試験に必ず出題されているものだそうである。正解はもちろんない。その人それぞれの考え方が表れてくるものである。自分だったらどう回答するだろうかとしばし考えてみた。

 「発明」という言葉の解釈は難しいが、自分の生き方のイメージそのものだと考えることにする。するとどうだろうか。考えてみるに、それは「迷路を乗り越えていく」ということになると思う。人生は自分にとっては迷路そのもの。どこに辿り着くのか、目的地はどこにあって、そこに到達するとどうなるのか、どうやってそこに行くのか、何となく漠然としていてよくわからない。そして目の前の通路は、どっちにいけば良いのかわからない。正解だと思った道はすぐ行き止まりになることも珍しくない。

 何となくの方向感を頼りにここは右だろうと当たりをつけて行くが、また行き止まりだったりする。そこでやっぱり「あそこは左だったか」と思う。できることなら戻ってやり直したいと頻繁に思う。そこで役に立つのは外にいる人のアドバイス。的確なアドバイスがもらえればスムーズに進めるが、頼り過ぎてもいけない。外の人とは言えすべてが見通せているわけではないし、何より自分で迷路を抜ける達成感は得られない。

 かつて『ブラックジャックによろしく』という漫画に出ていた言葉であるが、「君が当たっている大きな壁は重いけど扉なのかもしれないよ」というのがあって、気に入ってメモして残してある。実に気力が湧いてくる言葉であるが、迷路をすすんで行き止まりに突きあたったら、頑張って押してみるという解決策もあると思う。何も通路の通り黙って従う必要はない。それがどうしても行きたい方向であるならば、押してみるのも一つの手である。もちろん引いてみるのもいいし、最悪の場合、登って越えるという手もある。

 人生という迷路にルールはない。定められた通路の通りに歩かなければならないというルールはない。もちろん、法律や人の道といったルールはあるが、それは迷路の外の話。そこから出なければ、自分の思うがまま、熱意と創意工夫で乗り切って行くしかない。「そんなのずるい」と言われるかもしれないが、そもそも自分が行きたい方向に行くにはどうしたら良いかと考えて、「真面目に通路を歩く」という方法に盲目的に従うだけではなく、いろいろな方法を考える必要があるのである。現実の人生はまさにその通りだと思う。

 それにしても、自分の人生は本当に迷路だなと思う。常に迷いと不安があり、この先どうなるかなどわからずにうろうろしてきた感がある。その時々で自信を持って選択したのに、後悔することしばしばだし、逆に自信がなかったのに好結果になったり。選択肢があるよりもない方がかえって迷いがなくていいようにも思う。壁を乗り越えると言っても、これまで強引に乗り越えて意志を貫いたのは受験くらいかもしれない。他の選択肢が嫌だったから死に物狂いだったのが良かったのかもしれない。そう考えると、もっと壁を乗り越えても良かったのかもしれない。

 最近、トイレを探す夢をよく見る。パターンはだいたい決まっていて、夢の中でトイレを探すのだがなかなか見つからない。ようやく見つけて中に入ったとしても便器がなかったりする。ないなら他に代わるところと思うも、そういうところが見つからない。人目があるところではしたない真似もできない。焦るうちに目が覚めてトイレに行くというものである。現実だったら恐ろしいが、夢だからまだいい。しかし、似たようなことは現実の世界でよくあるように思う(トイレならたいていすぐ見つかるが・・・)

 これからも迷路は否応なく続く。それは仕方ないが、考えずに本能で判断するのは避けたいと思う。そして、時には強引に壁を乗り越えるのもいいと思う。まだ老け込むのは早いし、力が残っているうちに、と思う。それで後悔するならそれもまた迷路の人生だと思うのである・・・


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【今週の読書】

 



2022年11月17日木曜日

論語雑感 雍也第六(その28)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感。

【原文】

子見南子。子路不說。夫子矢之曰、「予所否者、天厭之。天厭之。」

【読み下し】

南子なんしまみゆ。子路しろよろこ

夫子ふうしこれちかうていはく、

われいなめるところものは、あめこれいとはん、あめこれいとはん。

【訳】

先師が南子に謁見された。子路がそのことについて遺憾の意を表した。先師は、すると、誓言するようにいわれた。

「私のやったことが、もし道にかなわなかったとしたら、天がゆるしてはおかれない。天がゆるしてはおかれない。」

『論語』全文・現代語訳

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 前職では、赤字会社を立て直し、業績改善・向上に力を尽くしていたが、最後は社長が知らぬ間に会社を売却してしまい、役職員はわずかな退職金だけで全員解雇の憂き目にあった。中には20年近く勤めた社員もいたのに、よくもまぁそういう非情なことができるものだと逆に感心したほどである。自分の評判より、長年自分のために働いてきた社員より、自分が引退して左うちわの生活を送るために会社を売ったお金を独り占めすることが大事だったわけである。それは自分にはない感覚である。


 それはともかく、人によって善悪の感情は様々である。大抵の場合、人は悪い事はしないようにしようとして日々行動していると思う。それを支えるのは、内的な要因と外的な要因とがあると思う。内的な要因とは自分の良心、そして外的な要因とは警察を含めて「他人の目」全般である。道を歩いていて、1万円札が落ちているのを見つけた時どうするか。人がたくさんいれば交番に届けるかもしれないが、誰もいない深夜の路上だったらどうだろう。


 誰も見ていないところで、悪い事、ずるい事をしないでいられるか、はその人の心次第となる。誰も見ていないし、責められることもない。そんな中で、いかにしたら正しい振る舞いができるであろうか。昔の人は、「お天道さまが見ている」と子供の頃から教え諭した。そういう「外の目」を作り出したことで、正しい行動を導いたと言える。ただ、それとて結局「外の目」があるから正しい行動が取れたわけで、己の心が導いたものとは言い難い。


 私などは、深夜の路上であれば、誰も見ていないのを確認して1万円札をポケットに入れるだろう(残念ながらまで実際に拾った事はないが・・・)。深夜であればお天道さまも見ていないというわけではないが、「そのくらいいいだろう」的な考えはすると思う。それでもポケットに入れないという人はいると思うが、よっぽど自制心の強い人だろう。そういう自制心の強い人でも、なぜそういう自制心を保てるのかと言えば、やはりそれは自分を客観視して、「自分を見ている自分の目」を意識できるからではないかと思う。


 また、人は自らの行動を正当化するものである。「盗人にも三分の理」と言われるのもその意味で、たとえ人からは「おかしい」と言われても、当の本人は一生懸命それを正当化する。だからお天道さまにも顔向けできる。先の社長も最初は退職金を払おうとしなかったが、その理由は「退職金規定がないから」。どうやら自己都合退職と会社都合退職との違いを知らなかったらしい。そしてそれを責められて、自己弁護も限界を覚えて渋々雀の涙の退職金を認めたのである。雀の涙でも出したことになる。今度はそれで胸を張っている。


 そこまで自分の行動を無理やり正当化しなくても、人は大抵自分の行動は正しいと信じている。「人がなんと言おうが、初志貫徹する」というのは立派なことである。そしてその行動が、信念に基づく行動なのか、無理やりの自己正当化なのか、判断の主体は結局本人である。決して外部の多数決ではない。取締役全員が反対した起死回生の施策を社長が独断で実行し、大成功させたなんてクロネコヤマトの例もある。そこに何を言われてもやり抜くという信念があれば、それが本人の行動を支えることになる。


 そういう信念の行動の結果が良ければ大いに胸を張るだろうし、悪ければその結果もその身が引き受けることになる。それが「天がゆるしてはおかれない」ということなのだろう。先の社長がこの先どういう人生を歩むかはわからないが、一つ言えることは、「金のために平気で社員を切り捨てることができる男」というレッテルを貼られたことであろう。もっとも、それを気にしなければどうという事もない。


 お天道さまが見ていなくても、自分が見ていることは確か。深夜の路上に落ちていた1万円札をポケットに入れても、仲間を裏切る事はしたくはない。会社の売却に際しては、仲介に入った日本M&Aセンターの担当者から、「他の社員をうまく取りなしてくれたらお礼はする」と買収を持ちかけられたが、即座に拒否した。迷いがなかったのは、他人の目というより自分の目があったから。金を積まれても、「そういう自分にはなりたくない」という思いが自分にはある(もっとも、億の金を積まれたら話は別である。後でみんなで分ければいいだけの事だから喜んで買収に応じただろう)


 お天道さまが見ていなくても、自分が見ている。自分で自分が嫌になるような行動はとりたくないと思い。今のところそれが一番自分には効果的な自制心だと思うのである・・・



JoeによるPixabayからの画像 

【本日の読書】 

  



2022年11月13日日曜日

会社は何のために売上を追求するのだろうか

 経営者というのは、どんな人物が望ましいのだろうかとこの頃よく考える。会社の業績を上げられる人か、それとも社員を大事にして働きやすい職場を提供できる人か。もちろん、その両方を両立できるのであればそれに越したことはない。会社も業績が悪ければ社員に満足のいく給料を払えないし、給料が良くても業績必達のプレッシャーが凄くて休みの日も満足に休めないという状態だったら、何のために働くのだろうかと思ってしまう。

 会社を経営して行くには、業績目標というのを掲げてその達成を目指して行くというのは当然の事である。目標の売上高があり、利益がある。それを達成すべく日々工夫を重ねて行くのが経営であり、役員は社長をサポートしながらその実現に向けて努力するものである。だが、だからと言って部下の尻を叩けば良いというものでもない。「数字にこだわればどうしてもギスギスしてくるのは避けられない」とある役員は言う。そうだろうかと思う。

 数字にこだわるのは、役員としては当たり前だと思う。それなくしてただ漠然と業務をこなしているだけでは、気がつけば会社はなんら成長もしていないということになるだろう。ただ、毎日目の前の仕事をこなしているだけで安定して給料がもらえるという事は、大抵の場合あり得ない。そもそも会社が成長しなければ、理論的にも給料は増えない。去年よりも給料を増やしてもらいたいと思うのであれば、去年よりも会社の収入を増やさなければならない。それを計画的に行うのが経営であり、役員の仕事である。

 月々の計画があり、毎月その結果をトレースする。目標を達成していれば良し。達成していなければ、原因はなんなのか、それに対して今月はどういう手を打つのか。いわゆるPDCAというやつであるが、そうやって月々の目標の達成度を確認していく。「売上を追求すれば、社内はギスギスする」というのは言い訳でしかないように思える。それはただ、部下に対して鞭を振る事だけしか考えていないのかと思ってしまう。

 売上を達成できない原因はなんなのか。それをきちんと掴めば対策も見えてくる。であればその対策を部下に指示すれば良いわけである。相手ピッチャーの速球に振り遅れるなら、「バットを短く持ってコンパクトに振り抜け」というアドバイスをするべきであり、「なんで打てないんだ!」となじっても打てるようになるわけもないし、互いにギスギスするだけである。そういうアドバイスができない上司が、「売上を追求すれば、社内はギスギスする」などと言うのだと思う。

 目標を立てる時に大事なのは、目標を達成するとどうなるのかを示すことではないかと思う。「給料がこれだけ増える」などとなると、社員もやる気が出るだろう。大抵の社員は(意識の高い社員は違うだろうが)、会社の売上目標などにあまり興味は持たないものだと思う。だから、「給料がこれだけ増える」ために売上を追求するとした方が、社員も売上の追求を我が事として考えてくれるだろう。「我が物と思えば軽し傘の雪」である。社長の給料を上げるために一生懸命働いてくれる社員はそういないと思う。

 売上及び利益の目標を追求するという事は、会社の成長を求める事で、その果実を社員にきちんと還元すれば、社員も頑張って働いてくれると思う。役員の役割とは、そうやって社員にやる気を出させて目標必達に導くことであり、ただ鞭打つことだけではない。「社内がギスギスする」という役員は、そこのところを理解していない。目の前にきちんと人参をぶら下げる工夫をしなければならない。

 上場企業であれば、経営目標の必達は株主からの要求であり、日々の株価が露骨に経営者の成績として現れる。成績が悪ければ簡単に首を切られてしまう。されど未上場の企業であれば、ましてや大株主が社長自身であったりすれば、そうしたプレッシャーはない。我が社は未上場であるが、一部に「モノ言う株主」がいるから、それなりにプレッシャーはあるが、上場企業ほどではない。割と自由にできるのが未上場企業のいいところである。

 何のために会社は成長を追い求めるのか。そこには社長の自己満足だけではなく、そこで働く社員の幸せにつながるモノでなければならない。もちろん、社員の中には頑張る者もいればそうでない者もいる。そこに差がつくのはやむを得ないことであるが、大事なのは頑張る社員に頑張る理由を与えることである。頑張る理由を与えつつ、成果をもたらすために目標を達成しなければならない。それが役員の役割であり、役員が正しく仕事をするのであれば、「社内がギスギスする」などということにはならないだろう。

 休日はリラックスして過ごしているが、休日だからこそ、そんなことをツラツラと思うのである・・・


Artturi MäntysaariによるPixabayからの画像 

【今週の読書】

 


2022年11月10日木曜日

人事部にて

 今の勤務先には財務面での貢献を期待されて入社した。役職は総務部長。しかし、中小企業ゆえにその役割は多岐にわたる。財務はもちろん、人事部門も純総務部門も兼ねた総務部である。日常の経理や財務だけやっていればいいというわけではなく、最近は人事部門の役割も忙しい。それも新卒・中途の採用に既存社員の面談等、気がつけばいろいろと手を広げてしまっている。まぁ、やることが多いという事は、それだけ存在感を示せるわけであるし、そういう気持ちで前向きに取り組んでいる。


 一人一人の社員をよく知ろうとして始めた面談では、知らずと人生相談的なことになることがしばしある。最近何気なく気づいたのであるが、若い人と話す時にいつの間にか親の気持ちになって話している事が多くある。精神科に通っている若手女性には、「お母さんと話したか」と尋ねた。実家を離れて一人暮らしであり、家に帰ってから誰かと話をしているのか気になったのである。「母親には話せていない」との答え。その理由は「親に心配をかけたくない」と。


 その気持ちはよくわかる。誰もが持つ感情だと思う。だが、逆に親が困っていて、「子供に心配をかけたくないから」と知らせてくれないケースを考えたらどう思うだろうか。話をすれば、親としては当然心配するだろうが、その反面、話すことによって安心感を与えるのも事実。「自分の子供は何か困った事があれば話してくれる」というのは、大いなる安心感だろう。そう話したら、その若手女性は納得してくれてさっそく故郷の母親と電話で話をしたと言う。自分自身、自分の子供が同じ状況に陥ったのなら、遠慮なく話してほしいと思うから、それを聞いて大いに安堵した。


 別の若手は、人生の岐路とも言うべきところで悩んでいる。今後、どうするのか。「考える時間がほしい」と漏らす。ただ、考える時間があれば答えが出てくるものでもない。同じ場所に立ち止まっていても見える景色は変わらない。変えるためには自ら動かないといけない。彼には誰かと話をすることを勧めた。彼の場合、特にいいのは父親だと判断した。男の場合、父親は話しにくい存在である。されど、父親には社会の一戦で働いてきた人生経験がある。息子に相談されれば悪い気はしないはずである。


 私にも娘がいて息子がいる。いずれ2人も社会に出ていく。そしてそこでさまざまな壁に行き当たることだろう。その時、できればそばに寄り添っていて適宜アドバイスできたらと思う。だが、たとえ一緒に暮らしていたとしても話してくれるだろうか、とも思う。「親に心配かけたくない」と話さないでおかれる方が心配するよりも辛いと思う。身近にいるのに、人生の岐路での悩み事を打ち明けてもらえないのは切ない気がする。若手に対するアドバイスには、私のそんな思いもある。


 中途採用(今は「経験者採用」と言うらしい)の現場では、明確にやりたいものがある人の方が光って見える。転職するには理由があるはず。採用する方としてはその理由が気になる。まだ20代前半で転職歴が3回を超えると、警戒感が強くなる。「なぜ長続きしないのだろうか」と。本人に何か問題があるのかもしれないと考えるのが自然である。特に大きく職種を変える場合は、よほどもっともな理由がないと採用を躊躇してしまう。適応障害等の精神疾患の病歴があれば慎重になる。「再発するかもしれない」と。書類からはわからない人物像をあれこれと想像してしまう。


 そんな採用戦線にいると、将来息子に相談された時に何て答えるかも決まってくる。転職する時は「前向きな」転職にするべき(少なくともそう装うべき)。「○○がやりたい」というものを前面に出した方が説得力は高まる。その前に最初の就職先は大企業がいいだろう。最初にしっかりとした社員教育を受けられるし、会社員というものを学べる。何より最初に名の通った大企業に就業経験があれば、その後無名の中小企業に行っても起業してもそれが自らの評価の助けになる。「実力がある」と思ってもらえるのである。


 いつの間にか自分も人生の後半戦。それなりに経験を積んできたが、その経験を誰かの役に立てられるなら嬉しいと思う。まず2人の子供たちに役立ててもらいたいと思うが、一緒に働く若手社員にも役立てられたらと思う。そう考えると、「人事部」の仕事も悪くない。大きな企業では、とても財務も人事も何て両立はできないが、それができるのは中小企業ならではと言える。仕事としては実に面白い。世の中には仕事がつまらないという人が多いようであるが、私の場合は楽しく仕事ができているので幸せだと言える。


 給料も大事であるが、やり甲斐も大事。そんなやり甲斐も持てて面白い仕事ができる幸せ。それを若手の人に役立てられるのであれば、なお一層喜ばしい。これからも誰かの役に立てるように、楽しく働いていきたいと思うのである・・・


Sasin TipchaiによるPixabayからの画像 

【本日の読書】

  



2022年11月7日月曜日

ラグビーは生涯スポーツか

  週末ともなれば、いそいそとグラウンドへ向かう。シニアのラグビーを初めてもう何年になるだろうか。その昔、シニアの試合を観た時に思ったことは、「こんなのラグビーとは言えない」というものであった。確かにラグビーの試合はしているが、動きも遅いしタックルは曖昧だし、プレーにピリッとした締まりがなく、ダラダラとやっているイメージで、「自分はこんなラグビーはやりたくない」と思ったのである。こんなラグビーをやるくらいなら、スッパリ足を洗ってテニスなりゴルフなりシニアでもそれなりにできるものにしようと。

 しかしながら、「ちょっとランニング代わりに走る程度」と思って始めたら、「もうちょっと、もうちょっと」と、だんだんと頻度が上がっていき、気がついたら試合に出ている有様である。今加入しているチームは、毎試合ビデオ撮影をしていて、それはすぐにYouTubeにアップされるようになっている。試合後にそれを観ていつも自分のプレーに愕然としている。パスのスピードは遅いし、パスだけでなく、走るのも含めて全体的にゆっくりである。いつも学生の試合を観ているので、その違いは歴然としている。何のことはない。いつか自分が批判した締まりのないラグビーそのものである。

 もっとも、実際の試合ではそんな感覚はない。自分なりに現役時代と変わらぬスピードで走っている感覚だし、パスも然り。相手のスピードも同様である。それがビデオで観るとそうではない。おそらく相対性理論が働いていて、グラウンドの中で流れている時間と、それを外で見ている時間の流れとが異なっているのだろう。私が属しているのは、4050代の試合だが、6070代の試合の時間の流れもまた違う。グラウンドの中で流れる時間は変わらないから、昔のように試合をしている感覚なのである。

 「生涯スポーツ」という言葉がある。文字通り歳を取っても楽しめるスポーツのことであり、イメージとしてはゴルフやランニングやテニスもそうだろうと思うが、ラグビーは間違いなく違うと思っていた(というより思っている)。一体、何歳までできるのが生涯スポーツの定義なのだろうかと考えてみるも、70代の人が試合をしているのを観ると、ラグビーも立派な生涯スポーツではないかと思ってしまう。そうは言っても、どこかでそれを否定したいという気持ちが拭えないのは、やっぱり幾つになってもできるスポーツではないと思いたいからかもしれない。

 先日は、試合の予定だったが、あいにくの雨。試合は雨中のものになった。思えば高校生になってラグビーを始めた時、「ラグビーの試合は雨でも中止にならない」と言われた。ラグビーはイギリス発祥の「紳士のスポーツ」。「紳士は一度試合をすると約束したら雨ぐらいではやめないから」と説明されたように思う。真偽は定かではないが、事実、雨中の試合は多々あった。だが、学生ならともかく、社会人になってもまだ雨の中やるんだと自分でも呆れたが、雨でもやるのである(ちなみに、雨でグラウンド管理者が使用を認めないため中止になるということはある)

 4050代の試合は普通のルールでやる。60代以上になると、「スクラムは押さない」など安全に配慮したルールを適用することはある。したがって遅いとは言え、普通にぶつかり合いがあるので怪我もする。それは仕方がないのであるが、若い時と違ってこれがなかなか治らない。治癒力も確実に落ちていくのだろうから仕方ないのであろう。学生時代は連日トレーニングをして体もできていたが、今はそうではない。はっきり言って練習不足であるから余計である。

 それなのになぜそんなに痛い思いをしてまでやるのだろうか。自問自答するまでもなく、それは「楽しいから」に他ならない。試合が終われば反省点だらけ。ならどうするかと考えて練習する。それで次の試合に上手くできれば満足であるし、できなければまた練習する。その繰り返し。良いプレーができれば気分がいい。その充実感こそが醍醐味であると言える。

 試合の翌日は、重い体を引きずって仕事に向かう。ラグビーだけをしていられた学生時代とはそこが違う。されど、重い体とは裏腹の充実感が仕事にも生きる。仕事とラグビーと、どちらの引退が先になるかはわからないが、どちらも生涯現役とまではいかないが、少しでも長く続けられるよう頑張りたいと思うのである・・・

Pete CurcioによるPixabayからの画像 

【本日の読書】

 


2022年11月3日木曜日

論語雑感 雍也第六(その27)

 論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感。

【原文】

子曰、「君子博於文、約之以禮、亦可以弗之畔矣夫。」

【読み下し】

いはく、君子ていしらふみひろくして、

これぶるによきつねもちゐば、おほいこれそむるをもちてすかな

【訳】

先師がいわれた。

「君子は博く典籍を学んで知見をゆたかにすると共に、実践の軌範を礼に求めてその知見にしめくくりをつけて行かなければならない。それでこそはじめて学問の道にそむかないといえるであろう。」

『論語』全文・現代語訳

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 昔から読書は好きで本は読む方であったが、社会人になっていわゆるビジネス書を読むようになって読書の目的も変化した。小説もいいのであるが、やはりビジネス書はそのまま社会で生きていく上での指標になる。先人の知恵を拝借できるのであり、それは実に有効である。柳井正とか丹羽宇一郎とか鈴木敏文とか小倉昌男とか、普通に暮らしていたら話を聞くことすらできない名経営者の話もその著書を通じてなら聞くことができるのである。こんなにありがたいものはない。


 私も特定の知識を求めて本を読むこともあるが、大抵は乱読である。そうして気がつけばそれらがビジネスの上で大いに役立っていることに気がついた。取締役として会社の経営に携わっていく上で、人とは多少なりとも違った考え方が適切にできるのも、思い当たるものと言えば読書ぐらいしかない。日々湧き起こるさまざまな問題に対し、的確に解決策を提案できるのはやはり読書の効能だとしか言いようがない。もっとも、読むだけでは単なる物知りでしかない。実践で活かして初めて意味があると思う。


 最近、若手にいろいろと話をする機会がある。説教をするわけではないが、気になったことなどをそのままにする事なく、自分の考えを伝えている。若手にしてみれば新鮮に聞こえるらしく、ありがたがってくれる(ゴマスリかもしれないが・・・)。昔は自分も先輩や上司から教え諭されてきたが、いつの間にか自分が教え諭す方に回っている。報連相が大事だと知識としては知っているが、実践ができていない若手。具体例を挙げてわかりやすく説明する。大人しい若手に性格にあったリーダーシップの行使の仕方を教える。いかにしたら聞き入れやすくなるようかと工夫して話をする。みんな何かの本で読んだ知識のように思う。


 部下も増えたし、役員だからほとんどの社員よりも立場は上であるが、だからと言って威張っても尊敬は集められないし、わからないことはわからないと正直に言って若手にも教えを請う。会議で議論が堂々巡りし、あるいは論点がずれると、適切に議論をコントロールして解に向かうようにする。昔、随分と読んだロジカルシンキング系の本の知識が生きているのかもしれない。そしてそれが実践で役立っている感覚が心地良く感じられる。成功譚ばかりでなく、他人の失敗も学べたりする。こうなると、日々の読書は欠かせなくなる。


 社会人の勉強とは、資格を取ったりすることばかりではない。幅広く本を読むのも大いなる学びだし、得られた知識を実践で使えばいつの間にか問題解決力を身につけられたりする。振り返ればこの13年間に読んできた本は1,400冊にならんとする。ビジネス書ばかりではなく、小説や哲学や物理化学の本もあるが、それらもみな何かしらか得るところがある。もはや趣味と言ってもいいし、実践でも役立っているし、これからもまだまだ読み続けていけば、それほど大きく道を外して失敗することもないのではないかと思うのである・・・

 

GerhardによるPixabayからの画像 

【本日の読書】