2020年1月29日水曜日

学生時代はロシア語を学んでいた

先日のこと、ふとした会話の流れで、「大学では第二外国語は何を選択していたか」という話になった。ドイツ語やフランス語という回答が多かったが、私の回答はロシア語であった。「なんでまたロシア語?」とちょっと驚かれたが、私としてはごく自然な選択としてロシア語を選んだのである。そもそもは二次試験の願書を出願するときに選ぶようになっていたのであるが、そこには「ドイツ語」、「フランス語」、「中国語」、そして「ロシア語」となっていたのである。

大学の学部は法学部であったが、学部生として法律の勉強も楽しみな一方、もう1つ楽しみだったのが「第二外国語」である。それまで英語の授業はあったが、それ以外の言語についてはほとんど知らず(「ジュテーム」“Je t'aime”くらい程度だっただろうか)、英語以外の言語はどんなものだろうかと、それだけでも興味津々であったのである。選択肢は4つしかなかったから「ロシア語」を選択したのであるが、もしなんでもいいとなっていたら、たぶんアラビア語を選んでいたと思う。それはやっぱり映画『アラビウのロレンス』の影響である。

それでもなぜ4つの中からロシア語だったのか。深い意味はなかったが、当時は英語以外というと、ドイツ語かフランス語がメジャーで、中国語とロシア語がマイナーという感じであった(今であれば中国語を選択する学生も結構増えているかもしれない)。そんな雰囲気の中でロシア語を選択したのは、やっぱりアマノジャッキーな性格から「人の行かない道」を選んだと言える。当時(1985)は、まだ東西冷戦下のソ連の時代。そんな中でロシア語を選ぶ学生は超マイナーな存在であった。

始まったロシア語の授業は二種類。一つは文法系で日本人の講師、もう一つは会話系でロシア人が講師であった。ロシア語は、文字がアルファベットと同じものを使うものもあるが、基本的には異なる。“Спасибо”(スパシーバ=ありがとう)のようにアルファベットではない文字を使うので、まずはその文字を覚えないといけない。さらには同じでも読み方が違ったりする。ロシア語のСは、アルファベットではSといった具合である。「おはよう」とか「こんにちは」とか基本的な挨拶があり、やっぱり語学はこんな感じで学び始めるんだなと新鮮に思えてものである。

日本人の講師の方には、一度ロシア料理の店に連れて行ってもらったことがある。ピロシキなんかを食べたが、語学を学ぶことは文化を学ぶことでもあり、文化を学ぶには食は一つの手段である。ドイツ語やフランス語だったら、多分学生数も多かっただろうから、こんなことはなかっただろう。また、ロシア人講師の時は、しばし喫茶店に場所を移したものである。ただでさえ少ないのに、授業に出てこない者も多かったのでそんなこともできたのだろうと思う。

ロシア人講師は年配の女性。どういう背景があるのか、授業ではほとんど日本語を話さず、したがって雑談もできなかったからよくわからなかったが、今でも興味がある。もう名前も忘れてしまったが、恰幅のいい女性だったのは覚えている。ちなみに誰かが言っていたが、ロシアの女性は若い頃はみんな細くて美人だが、年を取るとみんな関取のようになるとか。あの講師の女性も若い頃はどんなだったのか、とクラスメイトと想像していたものである。

そんなロシア語の授業は面白かったが、一般教養課程の2年間でおしまい。授業には真面目に出席していたから、3歳児くらいのレベルにはなったと思うが、いかんせんその後全くやっていないので、今となって1歳児くらいになってしまっていると思う。それでも聞けばそれがロシア語だというのはわかるし、映画を観ていればロシア訛りの英語だというくらいはわかる。語学は使えるようになるには、ある程度集中して覚え込まないとダメだと思うが、週1、2回のレッスンではそんなものかもしれない。

 言葉は英語でもそうだが、わかれば楽しい。未知のものを学ぶにしても、言語はそれによって意思の疎通もできるわけであるし、ただ学んで終わりというものではなく、そこから始まるものと言える。そう考えてみると、なんだかもう一度学び直してみたくなった。まだ当時のテキストやなんかが物置の奥にあると思う。今度の休みにでも引っ張り出してみようか。でもその前に英語か。それもまだ中途半端である。資格試験の勉強も終わり、時間もできたことなので、改めて挑戦してみるのもいいかもしれないなどと思うのである・・・




【本日の読書】
 
   


2020年1月26日日曜日

論語雑感 里仁第四(その13)

〔 原文 〕
子曰。能以禮讓爲國乎。何有。不能以禮讓爲國。如禮何。
〔 読み下し 〕
(いわ)く、()礼譲(れいじょう)(もっ)(くに)(おさ)めんか、(なに)()らん。()礼譲(れいじょう)(もっ)(くに)(おさ)めずんば、(れい)如何(いかん)せん。
【訳】
先師がいわれた。――
「礼の道にかなった懇切さで国を治めるならば、なんの困難があろう。もし国を治めるのに、そうした懇切さを欠くなら、いったい礼制はなんのためのものか」
************************************************************************************

 論語の言葉を考える上で、国家なんて大きなことを考えるとよくわからないが、もっと小さな組織、例えば会社とかスポーツのチームとかにたとえて考えるとイメージできることが多い。「礼譲」とは、現在の日本語の意味でいうと「礼儀をつくして謙虚な態度を示すこと」となるようである。組織には上下関係があり、そこにはリーダーがいる。そのリーダーがどのように組織をまとめるかで組織の結束は変わってくるだろう。

 最近の言葉で言うと「パワハラ」であるが、職場でも上司が「パワハラ」をしているようではメンバーの組織に対するロイヤリティなど望むべくもないだろう。組織は作るよりも維持する方が難しい。スポーツの場合、練習がキツイというのは当たり前にある。そこに合理性があればみんな頑張って耐えるかもしれないが、単なる根拠のないシゴキだったりすれば辞めてしまうかもしれない。

これが仕事となると、生活がかかっているから辞めるのは簡単ではないからそうはいかないかもしれない。ただ鬱になったりそれで休んだりするかもしれないし、そこまでいかなくても能率は落ちるだろう。やっぱり人は気持ちよく働いた方が能率も上がるだろうし、前向きに仕事に取り組むだろうから組織としてのパフォーマンスも上がるだろうと思う。組織のパフォーマンスの結果に責任持つリーダーとしては、当然そういうことを考えないといけない。

最近は「セクハラ」や「パワハラ」という言葉が浸透してきていることからも分かる通り、随分上下関係は良くなってきているのではないかと想像できる。今思い返してみると、私が大学を卒業して社会人になった30年前は酷かったと思う。一年目は何時まで居残りしようと残業などつかないのは当たり前。当然、帰る時間はみんなと同じである。仕事もできない一年坊主が何を残業などすることがあるのかということである。でも出来ないなりに早く仕事ができるように勉強するべきで、当然「勉強」だから「残業ではない」わけである。

職場の先輩も上司に怒られ、隣で半日立たされていたことがあった。女の子はお尻を撫でられるのは当たり前。それはむしろ仕事を円滑に進める上で必要な「スキンシップ」だとうそぶく人もいた(当然私は今日に至るまでやったことがない)。土日も職場の行事があれば優先されるのは当然。私も「レクリエーション係」をやらされたが、何が悲しくて土日まで職場の人と会わなければいけないんだと反発を覚えていた。最初に配属された支店では特に酷くて、毎日不満を爆発させそうになりながら仕事に行っていたのである。

今はどうであろうか。立場的には「上司」の立場になったが、自分の意識としては「礼譲」を持って周りの人と接しているつもりではいる。職場の人は皆会社の仕事をやってもらう仲間であり、いかに効率よく、そしてより大きな収益をもたらす仕事をしてもらうかを考えないといけない。それなのに上司ヅラをして威張り、セクハラ・パワハラで辞められでもしたら大きな損害であり、辞めなくても仕事のパフォーマンスは劣るだろう。そうなれば困るのは自分である。

考えてみれば、昔の職場は「丁稚奉公」の感覚が強く残っていたのだろうと思う。部下はこき使って当たり前という雰囲気であった。「仕事」という大義名分が何にも増して優先されていた。飲み会に行くのですら「仕事」であった。今でも覚えているが、レクリエーション係の仕事がバカらしく、ある時、準備はするが当日は参加しないと宣言したことがあった。レクリエーション担当の人(当然職位は上である)から「仕事だぞ」と言われたが、「だったら休日出勤手当は出るんですね」と返してしまった。私もいい度胸していたのである。

その後、まともにぶつかり合うと精神的に疲弊するだけなので、休日の行事はすべて「友人の結婚式」と言って不参加にした。嘘であってもそれでわだかまりが生じないならそれこそ「方便」である。今は仕事の後の飲み会もほとんどなく、もちろん、休みの日の仕事はないし、あってもきちんと代休か手当が出る。同じ職場を離れても、集まって旧交を温めるのは、いい関係が築かれていた職場である。上司であっても、部下には丁寧に接するのは、もはや「イロハのイ」だろう。

 孔子の上記の言葉は、今においても真実であり、組織を束ねるリーダーなら強く意識しておかないといけない原理だと改めて思うのである・・・


Peggy und Marco Lachmann-AnkeによるPixabayからの画像


【今週の読書】