2019年11月25日月曜日

論語雑感 里仁第四(その9)

〔 原文 〕
子曰。士志於道。而恥惡衣惡食者。未足與議也。
〔 読み下し 〕
(いわ)く、()(みち)(こころざ)して、悪衣(あくい)悪食(あくしょく)()ずる(もの)は、(いま)(とも)(はか)るに()らざるなり。
【訳】
先師がいわれた。
「いやしくも道に志すものが、粗衣粗食を恥じるようでは、話相手とするに足りない」
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 「朝(あした)に道を聞かば、夕に死すとも可なり」という程真理の探究に情熱を傾ける孔子にとって、何を着るか何を食べるかという問題なんて些末なことで、大事の前の小事であって、そんなことに気を取られていてどうするということなのであろう。実際、そういう考え方はよく理解できる。今は大学ラグビーも最盛期であるが、私も学生時代、公式戦の前に合コンに行くのは「不謹慎」とされていた。精神を集中して臨まないといけない時に、そんな「チャラチャラ」したことをしている場合ではないという考え方である。

 たとえとしては適切ではないかもしれないが、いやしくも道を極めるという大事を成し遂げようとしている身であれば、それ以外のことに気を取られていてはいけないという意味では同じようなものだと言える。割と日本人は真面目でストイックなところがあるから、こういう考え方はしっくりとくるのではないかと思う。その一方で、「悪衣悪食を恥じる」ことがそんなに悪いことだろうかという考えもある。道を極めるという大事も重要だと思うが、だからと言って小事を気にしたっていいんじゃないかとも思う。

最初の大学受験に失敗し、高校を卒業したあと家で宅浪生活に入った私は、「110時間(ただし日曜日は5時間)」の勉強ノルマを決め、規則正しくストイックな浪人生活を送った。それこそ「脇目もふらず」である。受験が終わった瞬間、「もう同じ生活はこれ以上できない」と思うほどやり尽くした。そんな生活を送った身からすると、今現在同じ浪人生活を送っている娘の勉強ぶりは優雅である。好きなアイドルのコンサートにも行っている。目指しているところが違うというところもあるが、それでもいいと思っている。考えてみれば、自分だって行こうと思えばコンサートにだって行けたのである。心にそんなゆとりがなかっただけで、時間的なゆとりは捻出しようと思えば十分捻出できたと思う。

1つのことを集中してやるというのももちろん望ましいが、それはその人の性格にもよるだろうし、むしろ私は今はそういう考え方に近い。道を極めるのも大事だが、1日は24時間もあるし、そのすべてを道につぎ込むことは困難なわけで、食事もすれば睡眠もとる。風呂にも入るし、トイレにもこもる。どうせ食べるなら美味しいものを食べたっていいわけであり、裸で過ごすわけにはいかないから服を選んだっていいだろう。「あれもこれも」求めたって必ずしも「二兎を追うもの」にはならないと思う。

今も休みの時に仕事のことを考えるのはしょっちゅうあるし、仕事中にプライベートなことを考えたりしたりすることもまた然り。仕事の面白いアイディアが思い浮かぶのはたいてい風呂の中である。ファッションには興味がないし、それほどグルメでもないから悪衣悪食を気にしないところはあるかもしれないが、週末の映画やラグビーなどについては熱意を持っている。孔子が道を目指すスタンスには及ばないだろうが、仕事は下手をすれば生活が崩壊するリスクもあり、真剣に携わっている気概は持っている。一意専心もいいがあれこれ並行するのもいいのではないかと思う。

聖徳太子は一度に10人の話を聞いたという。そんな芸当はとてもではないが無理としても、一度に1人ずつなら十分可能である。ならば時間を工夫して11人の話を聞くようにすれば聖徳太子に追いつける。道を極めるのは登山のようなものだとしたら、ひたすら歯を食いしばって頂上を目指すやり方もいいかもしれないが、途中で立ち止まって景色を楽しむゆとりがあってもいいじゃないかと思う。道を定めたらそれを見失うことなく、されど道中の景色も楽しむ。そんな道の目指し方があってもいいと思うのである・・・


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【本日の読書】
 日本人の勝算―人口減少×高齢化×資本主義 - デービッド・アトキンソン かがみの孤城 - 辻村深月




2019年11月21日木曜日

今朝の思考

人間はいつもいろいろなことを考えているとよく思う。今朝もそんなことを実感した。いつもは朝からあれこれと考えなくてもいいように、同じ時間に家を出て、同じ電車に乗り、同じ時間に会社に着くようにしている。なんでも哲学者のカントも毎日決まった時間に決まったコースの散歩を欠かさず、時に周囲の人はそれを時計代わりにしていたという。大哲学者と同じというつもりはないが、ルーティーンワークは考えなくてもこなせるという利点があり、私も通勤に関しては何も考えずに機械的に移動し、思考はその分読書に集中している。

しかし、今朝は人身事故があって読書に集中できなくなってしまった。最寄駅からターミナル駅までどう行くか。そこから先どうするかを突然考えなければならなくなったのである。そんな時、助かるのは鉄道会社のしっかりとした案内である。今朝は復旧時間がすぐ迫っていたのでそれを参考にした。振替輸送の手続きもJRと連動出来ていて、定期券を機械にタッチするのは乗換駅ではなく、降りる駅でするようにとスムーズに開札を通らせていた。一部手抜かりはあったが、まぁ今朝は合格点だと思う。

鉄道会社もこれだけ人身事故が多いのだからもう少しスムーズにできないものだろうかといつも感じている。何よりとにかく早目の情報提供。その場に着いて人だかりの改札付近で情報を求めてうろうろするのは最悪である。付近の鉄道各社で電車の中から早めに放送して案内してほしいものである。復旧の見通し、振替輸送の案内、今朝みたいにJRと私鉄の枠を超えた連携など、素人目から見ても工夫の余地は大いにある。それにそもそも人身事故を防ぐ工夫である。

最近は、ホームドアの設置が進んでいるが、これは偶然の「事故」には効果的だと思うが、自殺は防げないと思う。自殺を防ぐ一番の方法は、家族に多額の賠償金を請求すると声高らかに宣言することだと思う。天涯孤独の人には効果がないかもしれないが、大抵の人は家族には迷惑を掛けたくないと思っているだろうし、せめて保険金を残したいと思っている人には効果的だろう。もちろん自殺そのものは防げないが、少なくとも電車への「飛び込み」は防げる。それで人身事故が減れば利用者としてはありがたい。鉄道会社の人たちだって嫌な思いをしなくて済むだろう。

こんな事を書くと不謹慎に思われるかもしれないが、私は自殺を否定しない。死にたい人は死ねばいいと思っている。その人の人生だし、その人の苦悩を知らない周りがとやかく正議論を振りかざすべきではない。もっともそれが家族や親せきや友人だったら思いとどまるように説得はするだろう。世の中、考え方1つで見方も変わるものである。それで考え方が変わって生きる方向で考えられるなら、そういう手助けは積極的にしたいと思う。だが、どこの誰とも知らない人ならそこまでする義務はない。せめて人に迷惑をかけないような方法を考えてほしいだけである。
 
 1つのアイディアとしては、国として自殺希望者に場所を提供したらどうだろうかと思う。希望者はそこへ行って申し込みをする。するとまず専門のカウンセラーが出てきて事情を聞く。その上で、生きていた場合のメリットを説き、まずは生きて問題を解決する方法を一緒に考える。23回通ってそれでもやむなしと判断したら「安楽死」を提供する。不治の病で回復の望みはなく、医療技術でただ生かされているだけのような人には朗報だろう(自分もその立場になったら利用したい)。いじめや借金問題程度なら解決策が十分提案できそうである。

 単に「自殺はよくない」と正義を振りかざすのは無責任である。中には自分のためではなく、自分が死んだ方が家族は幸せになれるのではないかということも実際にある。それを赤の他人が無責任に「生きていればいいことがありますよ」なんて言うことはできない。ならば周りの人に迷惑をかけず、スムーズに望みを叶える仕組みがあった方が、「三方良し」ということもある。いいアイデアだと思うが、実現は憲法改正より難しいだろうと思う。

 朝のひと時、人身事故で読書に集中できなくて、あれこれそんなことを考えたのである・・・




【本日の読書】
 GACKTの勝ち方 - GACKT かがみの孤城 - 辻村深月





2019年11月19日火曜日

数字の意味するところ

 先日読んだ『偏差値37なのに就職率9割の大学』という本で、「就職率」についての話が載っていた。普通の大学では、「就職率」は「就職者数」/「就職希望者数」で算出しているとのこと。ところがこの本で採り上げられている金沢星稜大学では、「就職者数」/「卒業者数」で算出しているという。当然ながら卒業生の中には「就職を希望しない人」もいるわけであるから、金沢星稜大学の算出方法の方が一見、就職率が良いように思える。実際、この本の著者(金沢星稜大学就職課課長)の立場からいけば、それを大いにPRしているわけである。

 それを否定するつもりはないのだが、ふと「本当に就職率が高いのはどちらなんだろう」と考えた。普通に考えれば、全卒業生を分母にした方がいいように思える。「就職希望者数」とすると、分母が「就職希望者数」<「卒業者数」であるから、当然「就職希望者数」を分母にした方が「就職率」は高くなる。大学の一つの売りである就職率を高くするには、この方法が選択されるのもよくわかる。だが、「就職を希望しない人」を無理に分母に含める意味はあるのだろうかと思う。

 就職を希望しない人とは、たとえば家業を継ぐことが決まっていたり、大学院へ進学したり、海外留学やアーティスト志望などいろいろいるだろう。それはその人の人生であって、「就職だけがすべてではない」。そう考えると、「就職を希望する学生がどれだけ就職できたか」がむしろ大学としての「就職率」と言えるのではないかと思う。たとえば自分が就職率の良し悪しで大学を選ぶとしたら(あくまで「喩え」であって、自分はこんな基準では大学を選ばないが、その議論は置いておく)、「就職者数」/「就職希望者数」で就職率を算出している方を良しとするだろう。

数字を提示された場合、それを無条件に鵜呑みにするのではなく、その数字が何を意味しているのかを深く考えるようにしたいと思う。たとえば、日本の刑事裁判では「有罪率」が99.9%だと言われる。これをもって日本では刑事裁判で無罪を勝ち取るのはかなり難しいことであるという風に説明されることがある。日本の刑事裁判の有罪率が高いのをまるで大問題であるかのように語る論調があるが、これもよく考えればおかしな意見であると思う。

刑事事件で警察に逮捕されると、そのあと検察に送られて検察が起訴するかどうかを決める。当然、裁判で争って有罪にできるかどうかを判断して起訴するわけである。司法には「疑わしきは罰せず」という大原則があり、「疑わしい」というだけでは刑罰を受けることはない。「確実に(疑う余地なく)有罪である」と立証しなければいけないわけである。そうすると、当然証拠の収集等はきっちりやって、大丈夫と判断して起訴するわけで、それが有罪になるのは当然で、むしろ100%であるべきとも言える。やたらめったらとりあえず起訴されて裁判になれば、それは有罪率は下がるかもしれないが、起訴された方はたまったものではない。むしろ有罪率が100%でないことを問題視すべきだと思う。

また、我が国は欧米などから比べて失業率が低いとされているが、そこで使われる「完全失業率」とは、「労働力人口に占める完全失業者の割合」であるが、ここでもそれを鵜呑みにはできない。というのも、各国で調査の定義がさまざまであるらしく、たとえばアメリカでは、就職が決まって自宅待機中や一時解雇者も失業者に含み、イギリスなどでは、家族従業者、自営業主を労働力人口に含めないという。さらに、国際労働機関ILO基準では、就職内定者を失業者に含むが、日本は含まないらしい。となれば、単純に数字だけ比較をしても意味はない。

私は仕事で不動産の賃貸管理をしているが、空室が少ないという意味で「稼働率」を出してPRしている。しかし、自分で出しながら疑問を抱いている。というのも、稼働率は「月末時点」での「入居室数/全賃貸室数」で算出しているが、中には16日に退去したが、すぐに次の申し込みが入って翌月10日に入居したというケースもよくある。この場合、「月末基準」にすれば「空室1」であるが、「月央(15日)基準」にすれば「空室0」である。切り口によって数字が変わるのである。

また、同じ稼働でも「質」の問題はある。たとえば相場の家賃が911万円のところで、9万円で募集すればすぐに申し込みは入るが、11万円で募集すればちょっと時間がかかるのが普通である。9万円ですぐに入ってもらうのと、11万円で入ってもらうのにたとえば3か月かかるのとを比べると長いスパンで考えれば後者の方がいい。単純に稼働率が高いからといって、それだけで管理会社の実力を測るのは難しい。

金沢星稜大学が全卒業生に対する「就職率9割」を誇るといっても、「質」という意味での就職先は曖昧である。上場企業に就職する学生も多いらしいが、たとえば東大あたりでは就職するのはほとんど上場企業かそれに準じるところだろう。就職を希望しないといっても、大学院や留学などかもしれない。その結果、全卒業生に対する就職率が7割だったとしても、「就職率9割を誇る」金沢星稜大学とはその「質」においては比較にすらならないだろう。

刑事裁判においての有罪率99.9%についても、「求刑」と「判決」のギャップも興味深いところである。たとえば「求刑懲役10年」が、「判決」で「懲役7年」とかなる場合のギャップである。求刑する検察官も、たとえば必ず求刑より30%程度減刑されるのを見越して、本来求刑したい刑期の3割増しで求刑したりするような水面下の動きがあったりするのだろうかと想像してみたりする。

いずれにせよ、表面上の「〇〇率〇%」といった数字は、それが意味するところをよく考えないといけないと思う。いろいろなところでそういう数字を見かけるが、見かけの数字を単純に信じてはいけない。その裏にある意味を考えないといけない。そんなことをつらつらと読後に考えたのである・・・




【本日の読書】
 オールブラックス 圧倒的勝利のマインドセット - 今泉清 【ビジネス書大賞特別賞受賞作】哲学と宗教全史 - 出口 治明




2019年11月15日金曜日

スポーツマンの引退

いつだったか、元プロレスラーの馳浩(現衆議院議員)が、「スポーツマンに引退はない」と語っていたのを覚えている。たしか、議員転出にあたって「プロレスは引退するのか」と問われての答えだったように思う。その状況はともかく、「スポーツマンに引退はない」という言葉だけが妙に印象に残ったのである。というのも、その頃ちょうど私も30を越え、ラグビーの引退を考えていたからである。

妙に共感するところもあり、自分の中では「引退」という区切りをつけることなく、なんとなくラグビーからフェイドアウトしていった。それはいまだにたばこは普段吸わないものの、「禁煙」したわけではないのと同じである。35歳くらいまでは勤務先の銀行のチームで試合に出ていたが、その後自然に試合から遠ざかっていった。子どもが生まれ、一応子育てにも参加していたし、時間的にも肉体的にも続けるのが難しくなっていったからである。

ラグビーは肉体と肉体がぶつかり合う激しいスポーツである。試合をするからにはそれに備えてトレーニングをしないといけない。当時も大先輩が年齢に合わせたゆるやかなシニアラグビーをやっていたが、当時の私の感覚ではそんなのは邪道で、激しいぶつかりあいのないラグビーはラグビーではなく、そんな「みっともない」ラグビーなどするべきではないと思っていた。当然、そんなラグビーを自分も続けようとは思わなかったからそれでいいと思っていた。

自然とグラウンドから遠ざかり、何となく振り返ってみれば、「自分の最後の試合」はあの試合だったなぁと思うようになっていた。それは、銀行で年に一回恒例として行われていた東西対抗戦であった。その時は「引退試合」という意識はなく、振り返ってみればそうだったという感じである。だから、その時は特別な感慨も抱かなかった。人生の折り返し地点と一緒で、気がつけば過ぎていたという感じである。

それが、大学のシニアチームに誘われ、練習に参加するようになった。その時は、運動不足の解消というのがテーマで、試合までやりたいとは思わなかったが、やりだせば誘われる。断るわけにもいかずに久し振りに試合に参加したのは4年前。見事に肩を負傷した。しかしながら、やってみれば面白い。体力は衰えていたが、周りはみんな自分より年上だったし、それなりにできたのである。たぶん、傍から見れば自分が「みっともないラグビー」と思っていたような試合だったと思うが、試合に出ている立場からすると以前と変わらぬ感覚であった。「面白い」と素直に思った。

以来、高校の先輩の伝手を辿り、某他大学のシニアチームに所属し、毎週練習に参加している。試合にも声がかかれば参加している。残念ながら所属チームは60代以上が中心で、50代の私はなかなか出ることができない。しかし、いろいろなところから声がかかり、試合には折に触れて出場している。試合が終わればあちこち痛いし、打撲、擦り傷は絶えない。タックルも現役時代と同じ様に(と言っても実際には衰えているだろうが)できる。ラグビー自体、ルールも変わって進化しているので、アップデートのための研鑽は欠かせない。気がつけば、35歳の時の試合は「引退試合」ではなくなっていた。

では本当の引退試合はいつだろうか。チームの先輩は、70代の方が頑張っている。仲の良いチームには80代の方がいる。シニアの試合はパンツの色が年代で決まっている。40代以下は白、50代は紺、60代は赤、70代は黄色、80代は紫である。やろうと思えば、まだまだ先は長い。たぶん、若い人から見たらスピードも遅いし、「みっともない」と映るに違いない。特に60代以上の「赤黄の試合」になればその傾向は顕著である。だが、「いいじゃないか」と最近は思う。人から見てみっともなくても、自分が楽しいのだから。

ラグビーは肉体と肉体がぶつかり合う激しいスポーツである。しかし、人間の肉体は年齢と共に衰えていく。だから、今の自分が20代の若手と対等に試合をするのは無謀である。だが、同年代ならそうとも言えない。十分、身の丈に合った試合ができる。それに意識も変わってきている。以前は相手チームの選手に対しては、「倒すべき敵」という風に考えていたが、今は「試合をする仲間」とでも言うべき感覚である。何より相手がいないと試合にならない。時に人が足りなくて苦労することもあることを考えると、相手チームの選手であっても「仲間」なのである。

そんなわけで、当分「引退」とは無縁でいられそうである。「ラグビーができなくなったら、テニスかゴルフをゆっくり覚えよう」と思っていたが、どうやらそういう日は来そうもない。だが、それでいいと思う。16歳で出会ったスポーツを生涯のスポーツとして、これからも楽しみたいと思う。「スポーツマンに引退はない」と改めて強く思うのである・・・




【本日の読書】
 1秒でつかむ――「見たことないおもしろさ」で最後まで飽きさせない32の技術 - 高橋 弘樹 【ビジネス書大賞特別賞受賞作】哲学と宗教全史 - 出口 治明




2019年11月11日月曜日

論語雑感 里仁第四(その8)

〔 原文 〕
子曰。朝聞道。夕死可矣。
〔 読み下し 〕
()()わく、(あした)(みち)()かば、(ゆうべ)()すとも()なり。
【訳】
先師がいわれた。
「朝に真実の道をきき得たら、夕には死んでも思い残すことはない」
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 論語の中でもこれは最も有名な言葉の1つであろう。孔子にとっては、「道(=真理?)」こそが人生をかけて追及していたもので、それがわかるのであれば、死んでも悔いはないという覚悟というか心意気を表した言葉なのであろう。果たして孔子がその目的を達成したのか否かはわからないが、そういうものってあると思う。

 さて、自分にとってそういう人生をかけて追い求めるようなものって何だろうと考えてみる。もちろん、人によってそれは異なると思うが、自分のように「夢を持たないできた人間」にとっては、ハードルの高いものであることは間違いない。ただし、何となく自分で「こんな人生を歩みたい」と思っているものはある。それが生涯をかけて追い求めるようなものかと言われればよくわからないが、あえて問われればそう答えるというレベルである。私にとって歩みたい人生とは、一言で言えば「満足のいく人生」である。

たとえば自分の子供にどんな人生を送らせたいかと問われれば、やはり「(本人の)満足のいく人生」と答えるだろう。では「満足のいく人生」とはどんな人生だろうか。「何でも望むものが手に入り、何でも望むものが自由にできて・・・」と言い始めればキリがないし、現実離れした夢物語を語っても仕方がない。現実的に考えていけば、「今より少し背伸びするレベル」を目指すといったところであろうか。仕事でも家庭でも趣味の世界でも、である。

仕事でいけば、5年前に大企業を辞して中小企業に転職し、安定性という点ではまったく不安定になった。大きな客船からヨットに乗り移ったようなものと言えるだろう。嵐が来ればひとたまりもないが、その代り自分で舵取りができるので、嵐さえ凌げればエキサイティングに自由に航行できる。収入は以前から比べれば減ったが、絶対額としては悪くはない。銀行員時代とは比べ物ならないくらい自由に働けているが、会社の先行きには不安もある。これからどうなるかは、自分の腕次第である。

週末になれば、参加しているシニアチームでラグビーの練習に汗を流し、時々試合にも出る。激しいコンタクトプレーは無理だろうと思っていたが、意外と同年齢のレベルではそこそこできる。まぁ満足と言えば満足であるが、やりはじめれば今さらながらもう少し技術面でのレベルアップを図りたいと思っている。ルールも変わっているし、今のラグビーにアップデートしたいのである。できればそのあたりの指導ができる人にコーチをお願いしたいと思っているが、それがままならない。そこがもどかしいと言えばもどかしい。

贅沢を言えばキリがないが、どれもこれも今一歩の飢餓感はある。だが、それはそれでいいように思う。「これでいいや」と思えばそれ以上の進歩はない。「もうちょっと」と思っていれば、それを追い求めて少しずつ進歩できる。人から見て羨ましい人生でなくても、自分で最後に「良かった」と思える人生にしたい。できれば最後の瞬間までボケることなく意識を保っていてそう思いたい。その最後の瞬間まで「あとちょっと」を追い求め続けたい。それが折り返し地点をどこかで過ぎた自分自身の人生で追い求めたいものである。

孔子が最後に「道」を聞いたかどうかはわからないが、たぶん人生最後の瞬間まで「道」を求め続けたような気がする。「夕に死すとも可なり」という覚悟は、それほど追い求めても簡単には手に入らないものという自覚があってのものではないかと思う。自分もまだ「あとちょっと」があるし、たぶんそれがずっと続く。一歩先に行きたいと願い、一歩すすめばまたもう一歩。それを飽くことなく追及していきたい。そうして満足いくレベルに達した時、「夕に死すとも可なり」と思うのかもしれない。それは多分、人生最後の瞬間ではないかと思う。

孔子が追求した「道」は、自分にとっては「生き方」なのかもしれないと思う。昨日よりも今日、今日より明日がちょっとずつ良くなっているような生き方。しかし、言うは易しのような気もする。しかし、そういうものなのかもしれないとも思う。手に入れられそうでいて、なかなか手に入らない。それを生涯にわたって求め続けて行く。だから手に入れば、「夕に死すとも可なり」なのかもしれない。まぁ、いろいろとあるが、試練すらも楽しみつつ、自分の「道」を追求していければいいなと思うのである・・・




【本日の読書】
 1秒でつかむ――「見たことないおもしろさ」で最後まで飽きさせない32の技術 - 高橋 弘樹 【ビジネス書大賞特別賞受賞作】哲学と宗教全史 - 出口 治明





2019年11月7日木曜日

働く意味

下足番を命じられたら日本一の下足番になってみろ。そしたら誰も君を下足番にしておかぬ
小林一三(阪急・東宝グループ創業者)
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我が家の子供たちもいずれ社会に出ていく。就職するにあたって自分は一体どんなアドバイスをしてあげられるだろうか。たまにふとそんな事を考えてみる。自分は、と言えば、社会人デビューはいきなり試練と失敗の日々であった。今から思えばもっと違う心構えで臨んでいればと後悔の念が強い。子供達には、そんな失敗をしてほしくはないと思う。スムーズに社会人デビューできれば余計な苦労もしなくて済むだろうと思う。

何のために働くか、と問われれば、それは第一に生活のためである。給料がもらえなければ仕事はできない。一生食べていくことができるお金があって、暇つぶしの趣味で働くという人でない限りこれは同じだろう。だが、だからと言って「お金のためだけ」に働くのはちょっと寂しい。プライベートライフももちろん大事だが、仕事で得られる達成感や満足感、充実感といったものがあれば、なお人生は楽しいと思う。

私の場合、大学を卒業して銀行に入った時は、仕事の目的とはすなわち「お金100%」という考え方であった。だから昔気質の強い八王子という郊外店に配属され、連日8時までサービス残業を強いられ、毎日不満たらたらであった。疲れて独身寮に帰ってきて遅い夕食を食べていると、5時に仕事を終えた都心店の同期の面々が一杯飲んで帰ってくる。同じ同期なのにこの違いは何なのかと、こぶしを握り締めていた。しかし、今から思うと、そんなつまらない感情は捨て、支店にいる時間をたっぷり使っていろいろと学べただろうにと思う。

少しずつ変わっていったのは、先輩が「俺は常に自分のいた支店に自分がいたという証を残したい」と語っていたのを聞いてからだろうか。その先輩は、たとえ資料庫の整理のようなことだろうと、自分がいたことによって何かが変わったという証を残すようにしているということであった。大学のラグビー部の先輩でもあったし、自分も何かそんな形を残したいと思うようになったのである。それは今に至っても変わらぬ考え方である。

この「考え方」はとても大事だと思う。どんな仕事であれ、人より優れた結果を残してやろうとすれば、「創意工夫」が生まれる。それを「熱意」を持ってやれば、たいがいの事はうまくいくだろう。織田信長の草履持ちは何人もいたと思う。しかし、豊臣秀吉だけが懐に入れて温めるということをした。「日本一の下足番になるには」と常に考え続けていれば、「寒い日に温かい草履を履けたらいいだろう」という思いに至り、「では懐に入れて温めよう」となったに違いない。

会社に入れば、コピー取りなどの雑用ばかりだろう。それを嫌々ながらやるか、それとも「この資料はどういうシチュエーションで使うのか」と考えて工夫して取るのかによって結果は随分違うだろう。自分も今の会社に来て以来、あらゆるものをことごとく変えてきている。それもただ変えればいいというものではなく、効率化や収益化につながるように、働き方が楽になるように、である。それでお客さんや一緒に働く同僚に喜んでもらえれば、「給料+α」のものが得られる。これこそが仕事の醍醐味ではないかと思う。

おそらく学生の感覚では、「仕事は楽で、働く時間が短く、給料は高い」方がいいと考えるのかもしれない(かつての自分のように)。もちろん、給料が高いのならそれに越したことはないが、どんな仕事であれ、自分が関わったことで他の人がやるのとはちょっと違った結果となり、それでお客さんや周りの人がちょっとハッピーになる。そんな働き方をしてみれば、仕事も単なる生活手段にとどまらず、人生をより豊かにするものになるだろう。まさに、今の自分のように・・・

そんなことを我が子に説明できるだろうか。まずは自分が毎日楽しく働く姿を見せるところから始めてみようかと思うのである・・・




【本日の読書】
 ビジネスの限界はアートで超えろ! - 増村 岳史 ソビエト・ミルク: ラトヴィア母娘の記憶 - ノラ・イクステナ, 黒沢 歩




2019年11月4日月曜日

監視社会の是非

 先日、『正義の教室 善く生きるための哲学入門』と言う本を読んだ。哲学をわかりやすく解説してくれることで気に入っている著者の本である。この本の中で、主人公の通う高校には、「見守り君」と言う監視ロボットがおかれていることが説明されている。かつていじめが発生し、その対策として導入されたもので、これにより生徒は四六時中監視下にあるのである。

 これはもともと、功利主義の提唱者ベンサムの提唱した刑務所のアイデアだそうである(最も当時監視カメラなんてなかったから監視体制である)が、そう言えば最近は町中至る所に監視カメラが設置されている。かつては監視カメラなどと言えば、特別に警備を要する所に設置されるという感じであったが、今や一般のマンションのエントランスや商業施設を始め、至る所にある。さらに車にはドライブレコーダーが搭載され、世の中うっかり何かやってもしっかり記録されるようになりつつある。

 先日閉幕したラグビーのW杯では、微妙な判定になるとTMOというビデオ判定が行われる。あらゆる角度から問題のプレーが再現され、人間のレフリーが捉えきれないところまで細かく判定される。これは公正という意味では間違いがなく、レフリーの微妙な判定によって不満が残るという後味の悪さを解消する役に立っていると思う。今はSF映画の中でしかないが、いずれ世の中はあらゆるところで映像が撮られるようになるかもしれない。こういう「監視社会」は、果たして善か悪かどちらだろうか。

 例えばある場所で犯罪が起こったとする。すると、現場での様子がきっちりと映像に残され、それどころか犯人の逃走する様もすべてトレースされ、その結果、犯人はあっという間に捕まる。こうなると、未解決事件や犯罪そのものも激減する気がする。実際、ボストンマラソンの爆破テロでは、現場の様々な映像解析の結果、犯人が特定されているし、あながち荒唐無稽な話ではない。監視されていると聞くと、なんとなく気持ち悪い気がするし、大々的に導入しようとすると共産党あたりは真っ先に反対するだろう(なんでも反対するからなぁ)

 しかし、よくよく考えて見ると、犯罪のない社会の実現という意味ではこの方法が一番かもしれない。例えば、憎い相手ができて殺してやりたいと思っても、大抵の理性のある人は思いとどまる。それは、本当にやってしまったらそのあとの刑事的・社会的制裁を考えられるからであるが、それがなければどうだろうか。「やっちまえ」となるかもしれない。また、例えば道端で10万円拾った時、周りに人がいたら交番に届けるだろうが、誰もいない夜道だったらどうするだろうか。自分自身に問いかけてみても、「交番に届ける」と断言する自信はない。

 監視されていなければ正しい行動が取れないというのも問題がありそうであるが、では監視されていなくても人は正しい行動が取れるのだろうか。一見、「取れる」と答えたいが、自分自身に当てはめてみると心もとない。そもそも誰が見ていなくても正しい行動が取れるかどうかは、よほどしっかりとした芯(考え方)がないと難しいと思う。昔の人は、「誰も見ていなくてもお天道様が見ている」と教え諭した。これも考えてみれば「監視」である。「神様が見ている」という「監視システム」によって正しいことをさせようとしたものと言える。

 私の例で言えば、これまで痴漢をしたことがない(当然のことで別に威張れることではない)。今後もすることはまずない(たぶん)。それはなぜかと言うと、痴漢をしている自分の姿というのを想像してみると、これがみっともないからである。その昔、「ジエームズ・ボンドのような男になりたい」とずっと思っていた(今でも思っている)。少しでも理想に近づきたいと思うが、ジェームス・ボンドはまず痴漢をしない。となれば、自分もそんな格好の悪いことはできない。痴漢をするくらいなら堂々と口説けばいいと思っている。そういう「心の中の基準」があると正しい行動は取れるかもしれない。

 道端の10万円の例でいけば、これはまた違う理由がある。まず道端に10万円が落ちているという事態はありえない。そのありえないことがあるのは何か裏があるかもしれないとついつい考えてしまう。例えば陰でドッキリカメラが様子を撮影しているかもしれない。ポケットに入れたところをお茶の間に流されたら格好悪いことこの上ない。美女が笑顔で寄ってきたら心の中で警戒警報を最大限に鳴らすのも同じだが、ありえないことが起こった時は用心すべきなのである。世の中悪趣味な行為が横行しているし、十分気をつけないといけない。

 結局のところ、自分は心の中から正しい人間とは程遠く、人から見た自分の姿を想像して正しい行動をとろうとしていると思う。そういう意味では、「監視されないと正しい行動が取れない」と言えるのかもしれない。そうならないようにするためにはもっと修行が必要だし、今から修行していたら完成する頃には人生が終わってしまうだろう。いずれ監視カメラのネットワークが張り巡らされた世界が到来するのかもしれない。それで秩序が保たれるのであれば、あえて受け入れたいと思う。「誰かが見ている」という力を借りてでも正しい行動が取れるのであれば、それもいいかもしれない。

 人は他人の目がなければ正しい行動が取れないのか。そうではないと思いたいが、もしも他人の目がなくても大丈夫であるならば、他人の目があっても尚大丈夫だとも言える。結局、他人の目が必要な人は必要ということなのかもしれない。SF映画のような監視カメラのネットワークが張り巡らされた社会になったとしても、身を正して行動できればいいだけであると言える。まぁ、せめて格好つけて常に正しい行動を取るようにするだけはしていきたいと思うのである・・・




【今週の読書】
 異端者たちが時代をつくる(諦めばかりの現代社会を変えた6つの勇気の物語) - 松井 清人 ソビエト・ミルク: ラトヴィア母娘の記憶 - ノラ・イクステナ, 黒沢 歩