2018年4月29日日曜日

論語雑感 為政第二(その24)

子曰。非其鬼而祭之。諂也。見義不爲。無勇也。
()()わく、()()(あら)ずして(これ)(まつ)るは(へつら)いなり。()()()さざるは(ゆう)()きなり。
【訳】
自分の祭るべき霊でもないものを祭るのは、へつらいだ。行なうべき正義を眼前にしながら、それを行なわないのは勇気がないのだ
************************************************************************************

今回は2つの言葉が出てくるが、前半よりも後半の方が日本では有名である。それはまさに我が国の国民性の表れのように思える。前半は死者に対する態度だが、我が国では死者は敬うという方向である。故に自分の祖先と関係なくても一定の敬意は払う。「バチが当たる」という感覚かもしれない。「祭る」程度にもよるだろうが、「へつらい」とまで言わなくてもいいのではないかという気がする。

それに対して、後半の言葉はとても有名である。寺子屋で武士の子供が一生懸命暗唱しているイメージがあるが、武士道の精神にマッチしていると思う。そしてそれは武士道のみならず、現代に至るまで共感できる感覚である。おそらく、この言葉に反対する人はいないのではないかと思うくらいである。ただ、「実践」となると必ずしもそうではないと思う。

何を持って「義」とするかは議論の余地があるかもしれない。何もいじめられている子を助けるとか、チンピラに絡まれている女性を助けるとか、そういう英雄的なものでなくても、例えば電車の中で席をゆずるようなことも当てはまると思う。身近なところでは、いつも話を聞いてあきれるのは、子供の学校での役員決めである。誰も手を挙げなくて、なかなか決まらないらしい。自分の子供が通う学校なのだから、私ができるものなら喜んで手を挙げるのだが、「面倒だ」と思うのだろう。「勇」は何も勇気の意味だけでなく、「心意気」の意味もあると解したいのである。

また、仕事でいつも感じることだが、「自分の意見を言う」というのもこれに当たると思う。会社全体での動きについて、人は誰でも多少なりとも自分の意見は持っているだろう。社長が、あるいは上司がやろうとしていることに対し、「違うのではないか」と思ったらそれをきちんと言うのもこれに当たると思う。現に中小企業ながら我が社でも自分の意見を言わない(言えない)人がいる。たとえ反対でもそれに対して意見は言わず、黙って従うのである。そして後で、「自分はいかがかと思う」とこそっと呟くのである。そう思うのなら、なぜその時言わないのか。まさに「勇なきなり」ではないかと思う。

あるいは、先の役員決めと一緒で、「面倒だ」と思うのかもしれない。社長の出した方針に対し、反対意見を出せばまず議論となる。自分なりの意見をまとめて話すのは結構大変だし、その結果意見が通っても、「ではお前がやれ」と言われたらそれを受けないといけない。私はいつもそう言う覚悟を持って発言しているし、別にそれが苦になるわけではないのであるが(まぁたまにめんどくさい時はあえて黙っている)、人によってはそれが苦になると言うのかもしれない。

「めんどくさい」と思うから言わないというのも、ある意味やむを得ないケースもある。人によって仕事に対する姿勢は様々だし、「ほどほどにやっていたい」という人もそれはいるだろう。責任のある地位についていればそう言うことは許されないが、地位によっては仕方ない人もいるだろう。社長に近い人であれば、そういう意識を持っていたいものであるし、それこそ「勇」なのかもしれない。

自分の身の回りでは、「義」と呼べるのは、仕事ぐらいなものかもしれない。それと「誰かがやらなければならない何か」というイメージだろうか。あえてわざわざ面倒に思う心を克服してやることこそが、私にとっての「義」であるという気がする。何も眦を決して死にそうな覚悟で臨むような大げさなことではなく、ほんの身近な日常にある小さな「義」を見て為すようでありたいと思うのである・・・




【今週の読書】
 日本ラグビーの戦術・システムを教えましょう - 斉藤健仁 問題児 三木谷浩史の育ち方 (幻冬舎文庫) - 山川健一 江副浩正 - 馬場 マコト, 土屋 洋




2018年4月25日水曜日

不動産投資は安全か?

仕事で不動産賃貸業に携わっているのであるが、最近、ちょっと気になっていることがある。それは個人投資家の市場参入である。と言っても別に今始まったわけではない。主だったところでは、地主が相続対策としてアパートを建てるのは私が大学を出て銀行に就職した30年前から一般的になっていたし、それは今でも変わらない。もっとも最近では海外の投資家が国内の不動産に投資したり、 J-REIT などの登場により不動産投資の間口はかなり広がっている。

それはそれでいいのであるが、最近気になるのは地主ではない個人投資家によるアパート建築である。それらの個人投資家は、土地建物一体で新規に購入するパターンで市場に参入している。すべてを把握しているわけではないが、仕事は別に持っていてその傍らで不動産投資するというパターンである。それ以外にも「サラリーマン大家さん」という言葉が持てはやされ(かつて職場にもそんな電話が随分かかって来たし)、それに乗って投資している人もいるようである。

みな最終的に自己判断でやっているのだからとやかくいう事ではないのだが、本業としての立場からすると、どうも危うい気がする。最近、一棟アパートの新築案件に立て続けに接したが、狭い敷地内に目一杯建物を建て(もちろん建築基準法には違反していない)、その中にまた目一杯区分して部屋を取っている。一つの部屋の面積は10㎡ちょっとである。はっきり言って狭い。同じ面積ならいかようにも設計できると思うが、より採算を重視し、部屋の数を多く取るという考え方である。

もちろん、それで当面は入居者も確保できるだろうし、大家さんとしては満足いく投資だろう。何より不動産投資は入居者さえ確保できれば安定した収入が得られる。だが、それはあくまでも向こう10年くらいの話である。人口減少が確実なこのご時世、10年後も大丈夫かは、私自身も常に意識している。どの物件なら大丈夫という保証はないが、人よりも部屋が多くなったら、選ぶ方が断然有利になる。同じ家賃ならより広く、より駅に近くとなるだろう。果たしてそんな狭い部屋にわざわざ住もうと思ってもらえるだろうかという疑問である。

新築ならまだしも、中古になると同じ条件なら広い部屋が好まれるだろう。広い部屋なら時流に合わせて改装によって雰囲気を変えるバリエーションにも幅が出てくるが、狭い部屋では難しい。どうしたって不利である。対抗しようとしたら家賃を下げるしかないが、下げて入ればまだいい方で、最悪の場合空室が常態化する可能性もある。もちろん、それを見越して余裕のある資金計画であれば問題ないが、借入依存度が高いと下手をすると毎月持ち出しになりかねないし、そういうケースでは売ろうと思っても買い叩かれるのが常である。

我々が事業として考える時、投資採算はもちろんだが、「住み心地」も意識している。自分たちが住む場合、ここを選ぶだろうかという視点である。我々であれば、同じ面積でももう少し各部屋を広くするだろう。当然、トータルでの家賃収入は低くなるだろうが、目先の事を考えるか長期的な視点を持つかとなれば迷う余地はない。そんな我々からすると、明らかに電卓ばかり叩いている計画にどうにも危ういように思えてならないのである。もちろん、あくまでも我々の見方であって、絶対ではないからバラ色の未来も十分可能性はあるのではあるが・・・

世間では「かぼちゃの馬車」事件が世を騒がせている。引っ掛かったオーナーさんには気の毒だが、これもオーナーはただ言われるがままその通りだと受け入れて実行したのだろうと思う。問題は運営側であるのは事実だが、投資する側としてはやはりこういう事態を防がないといけない。そのためには投資する人もただ提案を鵜呑みにするだけでなく、自分自身勉強しないといけない。何もせずに寝ていて儲かるほど世の中は甘くはない。それは不動産投資に限らず、株式投資でもそうだし、それ以外にも投資にはすべて当てはまることだと思う。

何でもそうだが、知的に汗をかく事を厭わないようにしないといけないと思うのである・・・




【本日の読書】
 荒くれ漁師をたばねる力 ド素人だった24歳の専業主婦が業界に革命 - 坪内知佳 サピエンス全史 下 文明の構造と人類の幸福 (河出文庫) - ユヴァル・ノア・ハラリ, 柴田裕之






2018年4月22日日曜日

自分の葬式

叔父の葬儀の時、喪主を務めた従兄弟にいろいろと葬儀にまつわる苦労話を聞いた。どこの寺からお坊さんを呼ぶから始まり、そもそも宗派は何なのか、戒名はどうするのか(値段によって違うが何を基準に選んだら良いのか)、誰を呼ぶか(漏れはないか)等々。葬儀屋さんが手伝ってくれる部分は良いとして、喪主が判断しなければならないことは多く、聞いていてこれじゃあおちおち悲しんでもいられないと思ったものである。

考えたくはないが、自分も高齢の両親がいるし、いずれ同じような問題に直面するのだと思う。ただそうは言っても、ではその時に備えて今から準備しようかと言うと、ビジネスとは違って心情的にはそんなことはしたくない。日本人的には共通の感覚ではないかと思う。それはやっぱりその時になって対応しようと、息子としては思う。

ただ、ではその先と考えると、これは別の問題。つまり自分の葬式である。これはあらかじめ考えておけば、自分の子供たちも困らないだろうと思う。素直に育ってくれれば、同じように親の葬儀のことなんて事前に準備などしたいと思わないだろう(たぶん)。それゆえに今から自分で考えておけば、子供たちも楽というものである。そんなわけで、自分の葬儀について考えてみたい。

まず、方式としては、仏教にこだわりがない。そもそも檀家でもないし、菩提寺があるわけでもない。先の従兄弟だってずっと浄土真宗だと思っていたら、調べてみたら曹洞宗だったらしい。そんなものである。では、神道かというと、これは馴染みがない。やってはくれるかもしれないが、無宗教スタイルでもいいような気がするし、どちらかだろう。まああえて選ぶのなら神道形式だろうか。

仏教は、一説によると、「死者を弔う」方法に長けているから日本に浸透したらしい。それゆえに葬式というと、お坊さんがお経を上げるというのが一般的だが、昔ならいざ知らず、ほとんど寺にも縁のない生活を送っていて、死んだ時だけお願いしますというのもムシがいいように思う。それに親にもらった名前があるので戒名なんていらない。ましてやお金でランクが決まるなんて、バカにされているような気もする。やはり仏様の手を煩わせるのは気がひける。

となると、仏様に頼らない以上、神様を相手にする神道かそれとも無宗教にするかしかなくなる。はっきり言って、死んでしまえば本人はわからないので、どうでも好きなようにしてくれというのが本音である。葬式は死者を弔う儀式だが、大事なのは形ではなく心だと思っているので、悼んでくれるのであれば、極端な話、居酒屋で酒を飲む形でもいいとさえ思う。生きている身で聞いてもよくわからないお経を、死んだ後にあげてもらってもありがたいとは思えない。それより酒を飲みながら、そう言えばこんな事があったとみんなで語り合ってくれた方が嬉しいと思う。

長生きできたら、葬儀に来てくれる友達も数少なくなっているかもしれない(生きていたってボケていたり歩けなくなっていたりして来られないこともあるだろう)。その時は身内だけでさっさと焼いて居酒屋へ繰り出してくれたらいい。「カタチより心」は何においても覚えておいて欲しいと思う。

こんなへそ曲がりなリクエストだが、その時までにきちんと子供達には言い遺したいと思うのである・・・




【今週の読書】
 サピエンス全史 下 文明の構造と人類の幸福 (河出文庫) - ユヴァル・ノア・ハラリ, 柴田裕之 江副浩正 - 馬場 マコト, 土屋 洋






2018年4月18日水曜日

夢は何かと問われたら・・・

早いもので、我が家の娘もこの春で高校3年生。高3と言えば、受験である。私も人並みに大学を受験し、高3の年には志望校1校に絞って受験したものの、残念ながら不合格。そして1年間の宅浪生活を送り、2度目のチャレンジでリベンジを果たした。そしてそのまま人並みに4年間の大学生活を送ったのである。我が子はどうなるのだろうと思っていたが、まずは進路として「文系」を選択したようである。

なぜ文系かと言えば、「理科系の科目は得意ではないから」という消極的な理由。それで将来何かしたいものはあるのかと尋ねると、今のところはこれといったものはないようである。小さい頃は、将来何になりたいかと尋ねるといろいろと答えてくれていたものであるが、高校生ともなって現実がわかってくると、だんだんと答えに窮してきて、今将来の夢は何かと尋ねても本人もわからない状態である。

それが嘆かわしいかと言えば、そうは思わない。そもそもであるが、自分も高3の頃はそうであったし、実をいうとそれ以降も夢など持ったことはない。高3の時は、それなりに進路を考え、映画『ジャスティス』の影響もあって何となく弁護士になりたいなと思って法学部を目指した程度である。それも強い希望というほどでもなかったから、大学で法律を専門的に学んだ結果、「自分には合わない」と思ってあっさり変更してしまった。

「夢がない」と言えば、何だか寂しいようなつまらない人間のような気もするが、ではつまらない生活、つまらない人生を送って来たのか、今も送っているのかというとそうでもない。仕事は楽しいし、週末にラグビーをやったり、好きな映画を観たり、本を読んだりとそれなりに充実している。「夢は何ですか?」と問われると、「何もない」としか答えようがないが、「人生の目的は何ですか?」と尋ねられたら、今のような「充実した毎日を送ること」と答えるだろう。もっとも現状パーフェクトには程遠く、まだまだ「ああしたい、こうしたい」といった類のことは多々ある。

自分がそうだからかもしれないが、「夢がない」、「将来何になりたいかわからない」と語る娘に対して、「情けない」とは思わないし、心配にもならない。あればあるに越したことはないが、その程度である。「何となく受験する」というムードだが、それでもいいと思う。受験もそれなりに大変であるし、それを乗り越えるのも何らかの成長につながる試練になるだろう。4年間で次の方向を決めればそれでいいと思う。

就職だって「どんな仕事をしたいか」なんて、なければないでも良いと思う。自分のことを振り返ってみても、銀行員になりたくてなったわけではないし、かといってつまらない銀行員生活を送ったわけでもない。それなりに仕事は楽しかったし、そこで得た「経営マインド」は、中小企業に転職した現在、自分の強力な強みになっている。すべて「結果論」だ。もちろん、やりたいことがあればそれに越したことはないが、ないからと言って悲観することもない。目の前の仕事を前向きにこなすだけで、会社にも十分貢献できるし、生活だってしていける。趣味が見つかれば、そちらに人生の楽しみを求めたって十分だと思う。

そもそも大事なのは、夢ややりたいことなどの以前に、「しっかりと生きていける力」である。それは現代では「職業」に他ならない。特にこだわりがなければ、何でもいいと思う。江戸時代は生まれた時にもう職業は決められていた。農家の子は農業をやるしかなく、武士の子は武士の子で、(長男であれば)お城での父親のお役目がそのまま自身のお役目になったのである。それに比べると、現代社会では(採用戦線を勝ち抜く必要はあるが)何でも好きな仕事が選べる。たとえ不本意な就職だろうと、その仕事で創意工夫して熱意を持って働けば、働き甲斐とより多くの給料をもらえるようになるだろう。そういう風に頑張ればいいと思う。

「どこの大学に入らないとダメ」だとか、「どのレベルの就職先でないとダメ」だとかいう事はない。勉強なら勉強、仕事なら仕事と目の前のものにしっかり取り組むだけで十分だと思う。大事なのはしっかりと自分の人生を生きていくことであって、夢を追う事ではない(もちろん、追う夢があるならそれが一番だ)。最低限、そこをしっかり理解しておいてほしいと思う。

もしも娘に(あるいはその先息子に)、将来について相談されたなら、そんな風に答えてあげたいと思うのである・・・




【本日の読書】
 成功している人は、なぜ神社に行くのか? - 八木 龍平 サピエンス全史 下 文明の構造と人類の幸福 (河出文庫) - ユヴァル・ノア・ハラリ, 柴田裕之





2018年4月15日日曜日

論語雑感 為政第二(その23)

子張問。十世可知也。子曰。殷因於夏禮。所損益可知也。周因於殷禮。所損益可知也。其或繼周者。雖百世可知也。
()(ちょう)()う、十世(じゅっせい)()()きや。()()わく、(いん)()(れい)()る。損益(そんえき)する(ところ)()()きなり。(しゅう)(いん)(れい)()る。損益(そんえき)する(ところ)()()きなり。()(ある)いは(しゅう)()(もの)は、百世(ひゃくせい)(いえど)()()きなり。
【訳】
子張がたずねた。
「十代も後のことが果してわかるものでございましょうか」
先師がこたえられた。
「わかるとも。殷の時代は夏の時代の礼制を踏襲して、いくらか改変したところもあるが、根本は変っていない。周の時代は殷の時代の礼制を踏襲して、いくらか改変したところがあるが、やはり根本は変っていない。今後周についで新しい時代がくるかも知れないが、礼の根本は変らないだろう。真理というものは、このように過現未を通ずるものだ。従って十代はおろか百代の後も予見できるのだ」
************************************************************************************

この会話において、孔子の意図したところはよくわからない。「真理は変わらない」と言われれば、その通りかなとも思うし「制度」のことであれば、十代どころか一代で終わってしまうものもあるだろう。質問の趣旨からすると、十代もあとのことは(少なくとも変化の激しい現代においては)分かるはずがないとも思う。なにせ自分の子供の頃と比べたって、今はだいぶ違う。とてもではないが、十代あとの世の中の様子なんてわからないと思う。

そもそもであるが、私は「世の中は変化するもの」と考えている。孔子の時代であってもそうだったはずで、違うとしたらそのスピードだったかもしれない。『サピエンス全史』によると、人類は250万年前にホモ属として進化し、ネアンデルタール人が進化したのは200万年前、そして我々ホモ・サピエンスが進化したのは7万年前だそうである。現代とは桁違いの時間がかかって変化している。そしてそれから加速度的にスピードアップしている。

自分の若い頃と比べてもそうだ。大学の入学祝いに親戚から分厚い広辞苑をもらったが、今はもう使うこともない。国語辞典、英語辞典、和英辞典、英英辞典、古語辞典と随分学生時代にはお世話になったが、子供達は電子辞書1つで済んでいる。社会人となった自分も、何かあればグーグル先生に直接話しかければ教えてくれる、ページをめくる時間もかからないので、かつてお世話になった辞典類はもう本棚の飾りでしかない。孔子も今の時代に生まれていたら、ひょっとしたらこの会話はなかったかもしれない。

最近読んだ小池真理子の小説『望みは何と訊かれたら』には、1970年代の学生の生活が描かれている。地方から上京してきた学生が住むアパートは、木造二階建て、風呂はなくトイレと洗面は共同だ。私の最も古い記憶の中で住んでいたアパートもおんなじようなものだった。今の学生は、家賃の安いアパートだといわゆる三点セットと呼ばれるバス・トイレ・洗面がセットになったユニットになるが、それでも各部屋内に独立してついている。その三点セットももはや不人気で、バス・トイレ別が好まれる傾向にあり、いずれ廃れるだろうと思う。

それは世の中の進化であり、好ましいものだと思う。自分の子供が大人になった世界は想像できるが、孫やひ孫の時代はSFといい勝負な気がする。十代先のことなどわかりようがない。表面的な生活ぶりはともかく、価値観はどうだろうかと思う。ただ、これも変化の波は容赦ない気がする。例えば、「夜中に爪を切らない」ということも、私などは「親の死に目に会えなくなる」と言われて禁じられてきたが、妻は「風呂上がりは血行がよくなって切りやすくなる」と言って夜しか切っていない。母親の影響を受ける我が家の子供達も然りである。

ただ、それもまた表面的なものとも言え、大事な考え方は教え諭してあげられるかもしれないとは思う。ここで、論語の言葉を定期的に採り上げて自分の意見をまとめているのも、今なお真理として通ずるものが多いからに他ならない。だとすれば、それはしっかり語り継がないといけないのかもしれない。最近、食事の時に子供たちと意識的に話すようにしているが、それはテレビ番組を題材に知識的なことが多い。もっと深く突っ込んだ根本的な真理についても話をした方がいいのかもしれない気がする。

十代あとの世の中がどうなっているのかは、まぁどうでもいいような気がする。所詮SFの世界である。価値観の伝承もどうでもいいと思う。極論を言えば、真理だってそうである。ただ、自分の血を分けた子供達には、「親父はこんなことを考えていた」と知ってもらいたいとは思う。このブログもそんな意味で綴っていきたいと思うのである・・・




【今週の読書】
 サピエンス全史 上 文明の構造と人類の幸福 (河出文庫) - ユヴァル・ノア・ハラリ, 柴田裕之 死の島(下)(新潮文庫) - 福永 武彦





2018年4月11日水曜日

相手の立場に立って考えるということ

先日の事、職場にかかってきた電話を受けた(銀行員時代の習慣で電話は今でも真っ先に取っているのである)のであるが、聞こえてきたのは録音された音声。どうやらセールスのようであった。瞬間的にカチンときて切ってしまったが、実はこの手の機械音声の電話は時折かかってくる。セールスだけではなく、アンケートのようなものもあったと記憶している。そこでふと思った。「きちんと聞く人っているのだろうか」と。

職場には様々なセールスの電話がかかってくる。大概は営業担当の人が架けてくるのだと思うが、それなりに丁寧である。中には詐欺まがいのものがあって、最近は怪しいなと思う勘も鋭くなってきて、社名を聞き直すとすぐに切られたりするが、そういうのは例外的である。セールスの電話がすべて煩わしいかというと、それはそうでもなく、実はその中から今はお付き合いに発展している先もあるから、こういうセールスも効果があると思う。

ただ、それはあくまでも人間の場合である。機械だと瞬間的に切ってしまうからセールスも何もない。人間であればとりあえず話を聞こうと思うが、機械だと不快な気分になってその場で切ってしまう。人それぞれだとは思うが、大抵の人は同じではないかと思うのである。何より「失礼だろう」という感情が先走ってしまう。ホリエモンなどは、そもそも「電話は自分の時間を奪うもの」として一切電話には出ないそうである(『多動力』)。それは極端だとしても、機械に相手をさせるのはいかがなものかと思わざるを得ない。

機械に相手をさせると言えば、最近はどこも自動音声案内を導入している。これも腹立たしいが、こちらから架けているという弱みもあって甘んじている。しかし、自分の都合で人に電話をかけるのに手間暇を惜しんで機械にランダムでやらせるという神経が知れない。そういう音声セールスを実施している企業が、「人手がいらないですよ」なんてセールストークで売り込んでいるのかもしれない。だが、「それは便利だ」と導入する方もする方だろう。

そういう音声セールスを導入する企業は、ただ便利(営業マンにやらせればコストが高い)ということをのみ考えていて、「その電話を受ける人の気持ち」を考えていない。これは何より最大の欠点であろう。営業マンでも昼休みに訪問するなど「相手の事を考えてないなぁ」と思える人がいるが、これも同じだと思う。たとえ頑張って最後まで音声セールスの内容を聞いたとしても、そういう根本的なところで信用できない企業のサービスを使いたいとは思わない。

仕事で効率を求めるのは当然のことである。よく日本の企業は生産性が低いと言われるが、そんな中にあっては、営業もよけい効率化していく必要があることは理解できる。ただ、それが「機械音声」でないことは確かではないだろうか。営業は、自分たちの製品なりサービスなりを売り込んでいくことであるが、そもそもであるがどんなにいい製品だろうがいいサービスであろうが、「信頼のおけないセールスマンから買いたいと思うか」である。胸に手を当ててそう問うてみれば答えは出ると思うのだが、案外効率化という考えに入り込んでしまうと大事なことが見えなくなってしまうものなのかもしれない。

それにしても、今にして思えばきちんと最後まで聞けば良かったと反省している。もちろん、そんなサービスは利用するつもりは毛頭ないが、どんな内容なのか、どういう会社のどんなサービスなのか、聞いてみれば何らかのヒントが得られるかもしれないという気がするのである。仕事中に無駄な時間を過ごすことになるかもしれないが、そういうヒントがつかめれば無駄にはならないというもの。そう思うと、逆に「早く架かってこないかな」と楽しみに思ったりするのである・・・




【本日の読書】
 サピエンス全史 上 文明の構造と人類の幸福 (河出文庫) - ユヴァル・ノア・ハラリ, 柴田裕之 死の島(下)(新潮文庫) - 福永 武彦




2018年4月9日月曜日

憲法第9条はやっぱり改正すべきなのだろうか?

安倍総理就任以来、憲法第9条改正の動きが濃くなってきている。個人的には憲法改正論者だし、その動きは歓迎である。世の中も以前から比べると「改正すべし」という意見が増えているようである。基本的に憲法は国の一番大元の法律であるわけであるから、義務教育を終えた人が読んで理解できる内容であるべきだと思うし、「解釈改憲」などという動きはむしろ危険だと思う。自衛隊は我が国にとって必要である以上、憲法は改正すべきなのである。

そんな憲法改正に反対する人たちは、どうも反論の根拠に乏しく、感情論だけで反対しているだけに思える。改正した途端、戦争が始まるかのような勢いで、どうもいただけない。説得力のある冷静な議論はこれまで聞こえてこない。結局のところ、反対の根拠は「何となく嫌だ」という感情にしか過ぎないと思っている。もちろん、そうした「感情反対論」に与することはできない。

ただ、一方で「改正しても大丈夫だろうか」という思いは私自身の気持ちの中にある。それはやっぱり「アメリカに対する不信感」であろう。アメリカは何と言っても自国益最優先のわがまま超大国である。今でもそうなのに、改正した途端、自衛隊をいいように利用されるのではないかという心配は大いにある。特に反対論者も多いに声を上げている「アメリカの戦争に巻き込まれる」という懸念である。

第二次大戦後の大きな国際紛争・戦争はいくつもあるが、特徴的なのはアメリカ単独のものがほとんどないことだろう(アメリカ合衆国が関与した戦争一覧)。朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、ボスニアヘルツェゴビナ・コソボ紛争、アフガニスタン紛争、イラク戦争等々である。このうち正当化できる(我が国が参加してもよかった)のは湾岸戦争くらいではないかと思っている。みんなアメリカが主導して参加を促したと思うし、我が国も憲法第9条がなければ間違いなく参加させられていたと思うからである。

9条はアメリカが押し付けてきたものであるし、その後都合が悪くなったものの、我が国の国民がしっかりと受け入れて頑なに守ってきたため、アメリカも変えさせられないでいるという見方もできる。「押し付け憲法」だから改正すべきという意見もあるが(私は押し付けであろうが何だろうがいいものはいいと考える方である)、「自分が押し付けたから文句が言えない」という見方もある。そう考えれば、「第9条が我が国を(アメリカから)守ってきた」というのは真実かもしれない。

「平和憲法を守ってさえいれば平和でいられる」というのは、根拠のない空想である。「カエルの楽園」で批判されていた通りだと思う。だが、実は違った意味で「アメリカの国益」から守られてきたのかもしれないと言えるのではないかと思う。アメリカは自国の利益のために他国に武力介入してきている。しかし、世界一の大国とは言えそこには「大義名分」が必要であり、より多くの国の支持(参戦)を錦の御旗としているのかもしれない。我が国が単独でそんなアメリカの国益紛争介入に「No!」と言えれば問題ないが、どうも怪しい現状を見れば「盾」が必要な気もする。

本当は我が国は米中露等距離外交が一番望ましいと思う。日米同盟がなければロシアも安心して北方領土を返してくれるかもしれないし、経済協力関係も進展するだろう。だが、それには何より中国の協力が必要だし、今の現状を見ているとそれもはかない理想に思えてならない。アメリカの傘の下にいなければならない以上、アメリカから身を守る「盾」も持っていた方がいいのかもしれない。「盾」がなくなった途端、「みかじめ料」に加えて「勤労奉仕」までさせられることになったら大変である。

今まで「平和憲法」というのは、改憲反対派の人たちの「日本の日本による日本のための」平和憲法という気がしてならなかったが、「アメリカから身を守る」平和憲法という見方もかなり真実だと思う。トランプ大統領を見るまでもなく、映画『スノーデン』でも描かれていたが、アメリカを心から信用するのはやっぱり危険だと思う。

改憲すべきだが、「周りをよく見回すことも必要」である。ここは無邪気な憲法改正反対派の方が、結果的に我が国にとっていいのかもしれないという気がしてならないのである・・・


      


今週の読書】
  サピエンス全史 上 文明の構造と人類の幸福 (河出文庫) - ユヴァル・ノア・ハラリ, 柴田裕之 死の島(下)(新潮文庫) - 福永 武彦






2018年4月4日水曜日

裁量労働制

昨今、「働き方改革」が叫ばれ、一方で裁量労働制について法整備が行われようとしているが、個人的にはどうなんだろうと思うところがある。今は小さい企業とは言え、一応「役員」なので私には時間外労働という概念がない。言ってみれば、「裁量労働制」と言えないこともない。会社の業績を上げることが職務であり、「何時間働いた」かが問われるのではない。したがって働き方の自由度は高く、場合によっては土日も「テレワーク」しているが、一方で平日でも私用で職場を離れることもある。まぁ、いまのところ結果を出しているので、気楽にやらせてもらっている。

それに対し、前職の銀行員時代はそういうわけにはいかなかった。銀行員も一応ある程度出世すると、いわゆる「経営層」になる。支店で言えば支店長、副支店長といったレベルで、こうなると「働かせる立場」となるので何時間働いても時間外手当はなくなる。そこに至る前の段階では当然「従業員=働かされる立場」なので、時間外勤務をすれば「時間外手当」がつくことになる。この時間外手当の存在が実は大きかった。何せ銀行は長時間労働の職場だ(今はだいぶ削減されてきているようではある)。時間外手当も年収の2割程度を占めていたので、かなり重要な収入であった。

「時間外手当」の占める割合は大きかったが、青天井ではない。私もかなり稼いでいたが、いわゆる「36協定」という労使間協定があったため、これを超過しないようにうるさく言われていたものである。その昔は時間外手当は「申告制」だったから、私は新人時代などほとんど時間外勤務を「していなかった」が、咋今はパソコンの起動時間でバレてしまうから正直に申告しないといけなくなり、働く立場的には好ましくなっている。その分、「絶妙な調整」が必要で、私も年間時間外勤務の制限時間より5分少なく終わらせることで、その「手腕」を発揮していたものである。

申告制の時代は随分「安く働かされていた」と思うが、オンライン管理時代になると、結構「調整」が必要だった。それは「少なく収める調整」というよりも「ギリギリまで増やす調整」である。仕事もベテランになれば効率よく終えられる。しかしそれで早く帰れば時間外手当が減って収入も減る。したがって効率的にやるのもほどほどにしないといけない。日立時代の大前研一氏は効率よくやって5時に帰って反感を受けていたらしいが、私はそんな度胸もなかったから、うまく調整して周囲と協調しつつしっかり稼いでいた。同じ仕事でも5時までに終わらせるのと8時までに終わらせるのとを比べた時に、8時までやった方が収入が多いとなれば当然そうするだろう。

本来、仕事の成果に対して報酬が払われるのであれば、こういう事態は起こらない。収入が同じであれば、当然短い方がもらう方としては得だからである。だが、言葉で言うほどこれは簡単ではない。似たような職場は日本全国至る所にあるだろうし、一方でやってもやっても終わらない過酷な職場もあるだろう。「働き方改革」も悪くはないが、後者では歓迎されても前者では歓迎されないだろうし、難しい問題である。

企業側は、当然やることをやって早く帰ってもらいたいと思うだろうし、働く方としては、なるべくのんびりやって沢山収入を得たいと思うだろう。「働き方改革」が本当に必要な職場と余計なお世話な職場とがあるわけである。裁量労働制も聞こえはいいが、結局のところは時間外を抑えたいという企業の要求が根底にあるのだと思う。働く方には働く方の事情もあるし、いろいろな思惑が入り混じってなかなか正解は難しいと思う。

世の中的にはどうであれ、自分は自分の働き方を進めていくだけ。今の働き方は極めて心地良いし、自分だけではなく一緒に働く人にもそうあって欲しいと思う。残り少ないサラリーマン生活、楽しく働きたいと思うのである・・・




【本日の読書】
 笑う奴ほどよく眠る 吉本興業社長・大崎洋物語 - 常松 裕明 死の島(下)(新潮文庫) - 福永 武彦





2018年4月1日日曜日

論語雑感 為政第二(その22)

子曰。人而無信。不知其可也。大車無輗。小車無軏。其何以行之哉。
()()わく、(ひと)にして(しん)()くんば、()()なるを()らざるなり。大車(たいしゃ)(げい)()く、小車(しょうしゃ)(げつ)()くんば、()(なに)(もっ)てか(これ)()らんや。
【訳】
人間に信がなくては、どうにもならない。大車に牛をつなぐながえの横木がなく、小車に馬をつなぐながえの横木がなくては、どうして前進ができよう。人間における信もそのとおりだ
************************************************************************************

ここで言う「信」とは、素直に「信用」という意味でいいのだろう。「人は信用が大事」というのは、今更ながら当たり前過ぎて何も言えない感がある。だが、時としてその信用が簡単に扱われているような気がする。よく「裏切られた」とか「あんな奴だと思わなかった」といった類の言葉を聞くが、それは裏を返せば「安易に信用し過ぎた」とも言える。人は簡単に信用してもいいのかという問題である。

私は、「もしも自分が犯罪を犯すとしたら、どんな犯罪をどうやって実行するか」についてよく妄想(あるいはシミュレーション)する。そういう時に、一番大事なのはやはり「仲間」だと思う。それも「○○のプロ」といった類の仲間ではなく、文字通り「信用できる」仲間である。安心して背中を任せられる仲間でなければ、懲役のリスクを冒して犯罪などできないだろう。

例えば先日観た映画『クライム・スピード』では銀行強盗をする一団が登場するが、現場でちょっとした計画外の行動から警官隊が到着してしまうシーンで、見張り役が真っ先に逃げてしまった。これで残された仲間の逃走が難しくなる。そしていざ車に乗り込みスタートする直前、主人公は兄が逃げ遅れているのを知って危険な店内に1人戻って行った(他のメンバーは当然そのまま逃げた)。兄弟だからこその絆ゆえの行動であるが、ここで簡単に見捨てるようなメンバーとは、既に組んだ時点で失敗と言える(映画では仲間入りを断れなかったのであるが・・・)

また、昨夜観た映画『ザ・タウン』では、やはり警官隊に囲まれて絶体絶命の中、メンバーの1人は囮を申し出た。仲間の1人は既に前科二犯であり、捕まれば「三振アウト法」で終身刑確定であった。囮を申し出た男はまだ大丈夫。仲間を逃がすための囮で、「口は割らないから安心しろ」と言い残して飛び出していく。逆に言えば仲間のためにこうした行動が取れるかというのが重要だと思う。

こういう仲間となら犯罪も安心してできるというものだが、それはあくまでも妄想の話。しかし、現実においてもそういう「仲間意識」はある。古くは就職の時。いろいろとある選択肢のなかで、まだ甘ちゃん学生だった私には判断が難しかった。最終的には、当時都銀の中でも順位の低かった銀行に決めたのだが(ランクの高い住友銀行や三菱銀行の選択肢もあった)、その決め手になったのが、大学の先輩の存在だ。「この人と一緒ならいいや」と思ったのである。

こういう意識はやっぱり常に持っていて、銀行員時代はもし独立するなら「信頼のおける仲間と」と考えていた。そして4年前に転職した時は、吹けば飛ぶような中小企業に迷いはしたものの、最終的には「今の社長となら心中してもいいか」と思えたから思い切ったということができる。財務内容がどうだとか、事業の将来性がどうかと考えていたらとても今の会社などに転職できなかっただろう。こちらは妄想ではなく、現実である。

考えてみると、「信用」とはこの割り切りとも言える。「この相手を信じて失敗したら仕方がない」と思えるかどうかである。そういう人とならあれこれ悩むこともなく付き合うことができる。逆に言えば、そういう信頼感のない相手であれば、常に「万が一」「想定外」を想定しておかないといけない。「裏切られた」と嘆くのはバカで、初めから裏切られる可能性も考慮に入れておかないといけない。当然ながら、そういう相手とは末長い損得抜きの付き合いなどできはしない。

仕事上では仲良くお付き合いしている相手でも、そのレベルまで信頼できる相手となるとほとんどいない。そういう相手は、仕事では得られないということだろう(元同僚には何人かいるか・・・)。そういう信頼・信用できる友人は大事にしていきたいと思う。人には信用が大事というよりも、信用できる人は大事にしたいと、むしろ思うのである・・・




【今週の読書】
 多動力 (NewsPicks Book) - 堀江 貴文 黄色いバスの奇跡 十勝バスの再生物語 - 吉田 理宏 死の島(下)(新潮文庫) - 福永 武彦