2011年10月30日日曜日
これもボランティア
2011年10月27日木曜日
押すべきか押さざるべきか
2011年10月25日火曜日
我が家のテレビ事情
2011年10月23日日曜日
息子と・・・
闘球(ラグビー)/蹴球(サッカー)/鎧球(アメリカンフットボール)/杖球(ホッケー)/門球(ゲートボール)/避球(ドッジボール)/庭球(テニス)/籠球(バスケットボール)/羽球(バドミントン)/排球(バレーボール)
別に子供を騙すわけではない。
2011年10月20日木曜日
松屋にて
2011年10月15日土曜日
明学戦
2011年10月14日金曜日
この頃思う事
朝の通勤電車。
池袋から乗る丸ノ内線は始発だから、みんな並んで座ろうとする。
前の人たちはいいが、後ろの方の人たちは残りの席をめがけて殺到する。
その姿は浅ましく、そんな真似をするくらいなら立った方がマシだから、いつも立っている。
こんな人間にはなりたくないなと思うような例は街でよく見かける。
どうしても好きになれない人間はいるし、軽蔑したくなるような人間もいる。
どうしてそんな立ち居振る舞いをするのか、理解に苦しむ事も多いが、考えてみればその人にとってみればそれが普通の事。その人にとってみれば、それが当然の考え方なわけだし、もしかしたら私の事を軽蔑すべき人間と思っているかもしれない。
価値観は人それぞれだとよく思う。
私は親に幾度となく、「常識がない」と言われてきた。
ただ、私にはそんなつもりは毛頭ない。
いつも言い争うと、言い負かすのは私の方だ。
なぜ言い負かせる事ができるかというと、私の言い分の方が「筋が通っている」からだと思うし、常識外れはどっちだという思いもある。
しかしながらどっちもどっちなのだろう。
アインシュタインの言葉は実に的を射ていると思う。
みんな自分こそが正しいのだ。
そしてその「正しい目を通して」世界を見ているのだ。
外出する時に、一生懸命姿見を見てチェックしている人は、自分の基準に照らして、人からおかしく見えないかをチェックしている。
私は姿見こそチェックしないが、これでいいやと選んだ服装で外出しようとすると、「その恰好は一人で出掛ける時にして」と妻に冷たく言われる時がある。
その原因は大概わからないが、従っておく方が無難だという事だけはわかる。
しかし、行動についてはそれを映す鏡はない。
だからみんな自分の行動がどう世間に映っているかわからない。
内側から見る自分は常に正しい。
しかし、外側から同じように見えているかは難しい。
そこに大きなギャップがある。
野村監督は、「評価は人が下したものこそ正しい」と本に書いている。
自分の偏見というフィルターを通していない、外側から見た自分の姿だからなのだろう。
褒められれば嬉しいし、批判されれば腹も立つ。
悲しいかな、自分もそんな典型的な人間だ。
いつも外側から見える自分の姿を意識していたいと思うが、心の中の思いにかき消される事しばしば。言うは易しなのだ。
口は一つだが耳は二つ。
親に対する反論もだが、「2つ聞いて1つ話す」のがちょうどいいそうだ。
そんな事をあらためて意識したいと、この頃思うのである・・・
【本日の読書】
2011年10月12日水曜日
ラグビーはタックルだ
タックルはラグビーの象徴的なプレーだ。豪快に決まれば観ている方もやっている方も気持ちが良い(やられた方はたまらない)。しかし、ラグビーをやっていれば、誰でもがタックルがうまくなるかというと、実はそうでもない。苦手としている人もかなりいると思う。
大概の者は、ボールを持って突進していくプレーは好むが、タックルには初めは抵抗感を持つもの。何せボールを持って勢いよく突っ込んでくる敵に、飛び込んでいくのだから躊躇もしようというもの。特に「守り=受身」と感じてしまうと、よけいである。かく言う私も高校時代はタックルが好きではなく、自分は「アタック型」の人間だと自分に言い聞かせていたものである。
それでも大学へ進むと、ポジション争いも激しくなり、そんな事を言っていられなくなった。
必然的にタックルの練習にも身が入り、いつのまにか抵抗感はなくなった。むしろタックルが好きになり、トライを取るよりもタックルで相手を倒す方に生きがいを感じるようになって今に至る。
しかし、特に体の大きなプレーヤーはこの過程を経ないままの者も多い。
体の小さな者は低いタックルをしないと大きな者を倒せない。
しかし逆は真ならず、体が大きければ捕まえるだけでも相手を倒せる。
身をかがめるのも大変だし、勢い腰の高い「抱きつくスタイルのタックル」になりやすい。
これは体が自分と同等か、あるいは自分よりも小さい相手にしか通用しないが、日本人同士だと体の大きい者はこれでやっていけてしまう。
ワールドカップでJapanの試合を観ていて、タックルが悪いなと感じていた。
タックル好きゆえにそういうところに目が行くのかもしれない。
しかし、何せJapanの選手は国内一流のプレーヤー。
私のような二流レベルが批判するのは、おこがましいというもの。
きっとグラウンドで実際にプレーしてみないとわからないものがあるのだろうと思っていた。
しかし先週末のウェールズvsアイルランド戦を観ていて、その考えは間違いだと気がついた。
予選でランキング3位の南アフリカに敗れたウェールズと2位のオーストラリアに勝ったアイルランドの準々決勝。アイルランドが勝つかと思っていたが、ウェールズの大きな選手が低いタックルでアイルランドの選手に襲いかかる。激しいプレーの連続で、アイルランドの攻撃を阻む。タックル好きの私が、画面に釘付けになってしまった。
結果はウェールズの勝利。
あの低くて激しいタックルが勝利を呼び込んだと言える。
それに比べるとJapanのタックルは情けない。
一流チームの大男があれだけ低いタックルをしているのに、格下のJapanがあのタックルでは勝てない。
思うに彼らは国内では一流で、低いタックルなどしなくともみんな格下だし通用してしまうのだ。アタックは一流だから、そこばかりが強調される。必死になって低いタックルをしなくても、「国内やせいぜいアジアでは」十分に通じる。かたやウェールズは国内で激しい競争があり、代表になってもアイルランド・イングランド・スコットランド・フランス・イタリアとの6カ国対抗戦で揉まれている。大男だって必死の低いタックルを必然的に繰り返すようになる。その差が出たのだと思う。
ワールドカップだって、国内の片隅で行われている草ラグビーだって、ラグビーはラグビーだ。低く激しいタックルはどんな試合だって大きな武器だ。「ボールを持っている選手」を「持っていない選手」が攻撃する方法がタックルだ。それが出来ないチームは格下相手でないと勝てない。Japanがワールドカップで勝てない理由がそこにあると思う。ウェールズのようなタックルをしていたら、少なくとも最終戦のカナダ戦は勝っていたはずだ。
あんなタックルではワールドカップでは勝てない。
Japanと言って威張るのなら、一流らしい低くて激しいタックルの見本を見せてもらいたいものだと思うのである・・・
2011年10月9日日曜日
最後の運動会
幼稚園に通う長男の、幼稚園最後の運動会があった。
当日朝の手伝いをすると、優先的に席を確保できるとあって、妻の指令でお手伝いに応募。
朝も早くからテントの組み立てを手伝い、パイプいすを運び、ロープを張ってとそれだけで一汗かく。その甲斐あって最前列に場所を確保する。
運動会は国家斉唱で始る。
「あの歌わけわかんない」とぼやいていた長男だが、幼稚園の時から訳がわからなくても歌わせるという事は大事な事。国旗・国家について「わけのわからない」反対をする輩は、長男の通う幼稚園にも長女の通う小学校にもいなくて幸いだ。
長男には「かけっこ一等賞」を義務付けていた。
私は9月から週末指導を繰り返してきたし、妻は「2等以下だったらお寿司を食べに行ってもおいなりさんしか食べさせない」と脅していた。
そのかけっこが始まる。あれだけ練習したのに、一人がフライングしてペースを崩し、スタートで出遅れる。4人中4位のスタート。「あちゃ~」と思ったのも束の間、二人を押しのけるようにして抜き去ると、カーブで先頭に追い付き、直線で抜き去りみごと一等賞。二人を押しのけるシーンのビデオは、後世の話題になりそうである。
毎年恒例の親子競技は、「おんぶ騎馬戦」。
親が子供をおんぶして、相手の帽子を奪い合う騎馬戦である。
妻がビデオを構える前を「戦闘区域」に決め、そこを中心に積極果敢に攻める。
混戦の中で周囲に気を配り、油断している騎馬に急接近して帽子を奪う「一撃離脱」作戦で、1回戦では2個、2回戦では3個の帽子をゲット。2回戦とも我がクラス連覇に貢献。私自身、「たかが幼稚園の競技」でも負けるのはプライドが許さないクチである。
最後の選抜リレーにも長男は出場。8人中7番手走者。
6番目がバトンタッチで転倒し、3組中最下位に転落して長男はバトンを受け取る。
最初の10メートルで2位の組を抜き、カーブから直線で追いついてアンカーにバトンを渡す。
アンカーの子は最後引き離して見事チーム優勝。8人の走る順番は各クラスの先生がそれぞれ研究して考えたらしいが、担任の先生も飛びあがって喜んでいた。
私も運動会は大好きだったし、かけっこはいつも一番だったし、リレーの選手にも当然のように選ばれていた。それゆえに楽しかったし、長男にもそれを求めたかったし、結果は上々で本人も大満足だったようである。まあその代りダンス系の競技は、隣の子が間違えると大変な事になるという有り様で、そんなところまで私の血を引いたようであるが・・・
かくして幼稚園の運動会はこれでもうお終い。
親子競技なんて小学校はないし、これが私自身参加する最後の運動会だろう。
いつか懐かしく思いだすのだろうなと、感慨深いものが残ったのである・・・
2011年10月6日木曜日
幸せはお金で買えるか
2011年10月2日日曜日
神経衰弱
きっとあの時の大人たちも同じようだったのだ。