2016年8月31日水曜日

サバイバルに必要なもの

先週末、『オデッセイ』という映画を観た。マット・デイモン主演のSF映画で、火星探査メンバーの主人公が、アクシデントで一人火星に取り残されるというドラマである。映画は映画で大変面白く、満足いくものであったが、さて、自分だったらどうするだろうとふと考えてみた。

物語の舞台は火星。そこにたった一人取り残されてしまった主人公。置かれた状況は以下の通り。
1.      食料の残りは1か月分
2.      NASAとの連絡は取れない
3.      宇宙へ飛び出せるロケットは3,200キロの彼方にある
4.      次の火星探査計画は4年後

 サバイバルに必要なのは何だろうと考えてみた。まずは「生き残ろう」とする強い意思だろう。何はともあれ、困難に立ち向かうのに必要なのは強い意思だ。これなくしては何事もなしえない。そして2つ目に知識だろう。「知は力なり」と言われるが、知識の補完なくして気合だけで成し遂げられるというものではない。どう頑張っても竹やりでB-29は落とせないのである。

 その昔、勤めていた銀行の研修でサバイバルを題材にしたものがあった。乗っていた飛行機が墜落し、砂漠に不時着した。その時、生き残るのに必要なものを考えるというものであった。その研修はグループで話し合うことに重点を置いたもので、サバイバルは単なる題材だったのであるが、その時ほとんどの者が「水」を一番に上げたのであるが、講師の解説で教えられた答えは「鏡」であった。砂漠で遭難した場合、動いても助かる可能性は低く、この場合は「救助を待つ」というのが最善の策で、「鏡」は捜索機に合図を送るために必要という内容だった。その意外な内容と説得力の強さで今でも印象に残っている。

 『オデッセイ』でも、地球に帰還するには軌道を離れるロケットだけではダメで、そこから地球までの宇宙船が必要である。となると、主人公は「救助を待つ」しかない。次の火星探査計画は4年後なので、主人公は現地で4年間生き残る方法を考えることになる。するとまず問題になるのは水と食料。幸い主人公は植物学者で、備蓄倉庫からジャガイモを見つけ、これを栽培して食つなぐことを思いつく。

 ということは素人でも思いつくが、火星上には水も空気もなく、微生物もいない。穴を掘ってジャガイモを埋めれば、自然と芽が出るというものではない。植物学者であり化学の知識もあった主人公は、土は火星の土を使うものの、水素と酸素から水を生成し、施設のトイレから人糞を取り出して肥料にする。そして見事に栽培に成功するのだが、一見簡単そうなことであるが、知識なくしては到底なしえないことである。私だったら、というか普通の人だったらまずこんなことできないし、となると1か月かせいぜい2か月でアウトだろう。まさに、「知は力なり」である。

 さらに主人公のみならず、救助するNASAにも困難が山積する。火星まで行く宇宙船をどうするかもあるし、主人公の機転で何とか連絡が取れるようになるが、救助にあたりどのような手段を取るか。最終的に火星軌道上へと主人公を誘導するのだが、重量問題も生じる。そしてそこで重要なのは、「常識にとらわれない発想」である。打ち上げロケットから軽量化のため窓を取り外してしまうなど、普通の考えからは出てこない。

 自分はまず間違っても火星に取り残されるようなことはないだろうが、裏を返せば今後どんな困難に出会おうとも火星に取り残されるほど酷くはないとも言える。強い意思と知恵と常識にとらわれない発想とがあれば、大抵は乗り越えられるだろう。そんなことを考えてみたのであるが、そうしてみると、この映画は面白くてそしてタメになる映画だと言える。たとえ娯楽の映画であろうと、こんな風に何かのヒントを得られれば、何かの役に立つかもしれない。娯楽も「真剣に」楽しみたいと思うのである・・・




















【本日の読書】 


 
     

2016年8月28日日曜日

電子書籍

 世の中日々進歩していて、スマホが当たり前のように日常生活に溢れている光景は、10年前にはなかったものである。そんな中で書籍の世界も「電子書籍」が登場し、かなり普及してきている。普段通勤途中で本を読む私だが、年間100冊以上読むとはいえ、まだこれに手を出してはいない。

それにはいろいろ理由があって、読みにくそうだとか、本の方が後からページを戻って読み返すのが便利だとかであるが、それが本当の理由かというと、実はそうでもない。「もうちょっと便利になってからでもいいだろう」という軽い程度である。『ガラケーにこだわる』スタンスを批判する以上、電子書籍を否定するわけにはいかない。

ではいつからかと問われると、「そのうち」と答えていたが、昨日ついに手を出した。キンドルのアプリをとりあえずiPhoneにインストールし、記念すべき最初の電子書籍を購入した。『老子-もう一つの道』である。なぜ電子書籍に手を出したのかというと、答えは簡単で、「電子書籍でしか手に入らないから」である。本屋に行ってもこの本は売っていないし、そもそも形すらこの世に存在しないのである。

そして衝撃的だったのが、何よりもこの本の著者が先輩Hであったということである。先輩Hも、私と同様というか私以上の読書家であり、先輩Hの読む本は常に私の関心事である。その先輩がいつの間にか本を書いていたという事実に、私は衝撃を受けたのである。そして「本を書く」ということが、かつては遠い世界だったものが、手を伸ばせばすぐ届く現実の世界のものになったと意識させられたのである。

およそ、本好きの人間なら、「いつか自分も本を書いてみたい」と多少なりとも思うだろう。私も例外ではない。そしてそう思いつつ、日々の忙しさを理由に先送りしている人が大半だろうと思う。もちろん、「何を書くか」という問題もあるが、たとえ書けたとしても、どこの出版社に原稿を持ち込もうかとか、現実の行動もまたハードルが高い。

高校時代、やはり本好きの友人は、自ら原稿を書き出版社に送付した。後日それは本人も読めないほど達筆な手紙とともに、真っ赤になって返ってきた。なんでも出版社の方で手直しをすれば、出版も考えるというような内容であった。私も「すごいな」とその何が書いてあるか判読できない手紙を見ながら思いつつ、しかし原型をとどめないほど修正されて果たして著者と言えるのか、という疑問も同時に感じたものである。結局、その友人はそれ以上の行動はとらずに終わったが、必ずしも自分の書いた通り出版されるわけではないという事実に気がついたエピソードである。

我々一般人にとって、本を出すとなると、そんな覚悟をして出版社に認めてもらえるように頑張るか、あるいは自費出版という方法しか今まではなかった。自費出版も『夢を売る男』のような本を読むと、お金もかかるし、それで商売されるかもしれない可能性もあるわけで、そうなると躊躇するところがある。しかし、電子出版となると、それらの紙の本にまつわるハードルは一気になくなってしまう。

もちろん、出版のハードルが低くなっても、売れるかどうかはまた別の問題である。出版社はまずこの売れるかどうかを考えるので、売れそうな内容かどうかは当然として、本のタイトルなどのようなことも出版社の意向で決まるという。書店でちょっと売れた本が出ると、二番煎じの内容や関連やタイトルの本が溢れるのも、出版社のプライドのない営業方針の表れだとよくわかる(さしずめ今は田中角栄がブームである)。電子書籍は、そうした出版社の邪念から自由になれるが、その代わり売れるという保証はまったくない。むしろよほど著者が著名人でない限り、売れる数は限られることになるだろう。

しかし、先輩Hの出版にはいろいろな可能性を感じさせるものがある。印税で儲けようという考えでもない限り、出版のハードルが低いことはもっと自由に本を書くことを考えられることになる。今は紙の本に強いこだわりを持つ人たちが多いかもしれないが、やがてそれも少数派になるだろう。「やっぱり紙でなきゃ」といつまでも言わないようにしないといけない。そして「いつか書こう」ではなく、「とりあえず書いてみよう」と考え方も切り替えないといけないだろう。

まずは先輩Hの処女作を読んでみて、考えたいと思うのである・・・