2020年5月31日日曜日

論語雑感 里仁第四(その21)

論語を読んで感じたこと。あくまでも解釈ではなく雑感。

〔 原文 〕

子曰。父母之年。不可不知也。一則以喜。一則以懼。

〔 読み下し 〕

いわく、父母ふぼとしは、らざるべからざるなり。いつにはすなわもっよろこび、いつにはすなわもっおそる。

【訳】

先師がいわれた。――

「父母の年齢は忘れてはならない。一つにはその長命を喜ぶために、一つには老い先の短いのをおそれていよいよ孝養をはげむために」

Web漢文大系

************************************************************************************

 

私は両親が27の時に生まれている。私が27の時は、まだ下っ端の銀行員で葛飾の下町を走り回っていた頃である。当たり前だが、私と両親の年の差は常に27であり、その時々の自分の年齢とよく比較してみる。小学校に入学した時は33、中学入学は39、高校は42、大学は4650の時に社会人になり家を出ている。結婚は56、初孫は63。その初孫も今年成人である。自分が結婚した時、両親は今の自分と同じ年だったのかと感慨に浸る。

 

同級生の中にはもう両親が亡くなっている者もいて、もちろん親の年齢もバラバラだからそれも不思議ではないのだが、まだ両親がなんとか健在なのはありがたいと思う。特に母親の無償の愛はいまだ健在で、何があっても自分の味方だという安心感は強い。ただ、もう病院通いは欠かせないし、否応なしに「残り時間」を意識させられる。あとどのくらいの時間こうして過ごせるだろうかと常に意識している。ここ数年、年に二、三回温泉に連れ出しているのもそんな意識からである。

 

「残り時間」には「親と過ごす時間」の他に「自分の人生」という意味もある。親の年齢まではなんとなく自分も生きられるのではないかという根拠のない思いがあって、「27年後」の自分も常に意識するところである。その時、娘は47、息子は42である。多分、2人ともなんとか自立しているだろうし、そうしてもらわないとさすがにいつまでも子供の支えにはなれない。自分がなんとかできるのはやはり両親と自分までだろう。

 

最近、その「残り時間」にも怖さを感じている。長ければ長いほどいいわけであるが、果たして自分は大丈夫なのだろうかと。金銭的な余裕、時間的な余裕、精神的な余裕という意味では、最近すべて少なくなってきている。「もう少しお金があったら」「もう少し時間のゆとりがあったら」、「精神的にもゆとり」が生じて、両親と心穏やかな時間を過ごせると思うが、事は思うに任せない。我が身のことすら不安が過ぎる日々である。

 

かつては二世帯住宅を建てて一緒に住んでと夢見たこともあったが、残念ながら離れて暮らす日々。せめて月に何度か実家に顔を出してと思っているが、そこに今回のコロナ禍。大丈夫だとは思うものの、やはり普段外に出ている身としては気軽に行くのも躊躇せざるを得ない。母親が観戦を楽しみにしていたオリンピックのバレーボールも、せっかくチケットが取れたのに延期である。果たして来年現地に行けるかは、大いなる不安である。

 

自分が何をすれば両親は喜ぶだろうかとよく考える。そのヒントとしては、27年後に子供達に何をしてもらえれば自分は嬉しいだろうかであろう。その答えとしては、やはりそれぞれ家庭を持って自立して暮らしていることだろう。「自分がいなくても大丈夫」だと安心したいのが一番である。そう考えると、両親もそう思うのではないかと思う。ならばせめてそういう姿は意識して見せたいところである。

 

有名人の訃報に接し、両親よりも若かったりすると、「細く長く」ということを考える。有名人はそれなりに稼いで豊かに暮らしていられるだろうが、それでも永遠に生きられるわけではない。格差はあっても死は平等。「短く太い」人生もいいと思うが、ここまでくると「細く長い」人生の方が良くなってくる。両親にもそうあってほしいと思う。ただ、それはあくまでも「日常生活を送れる」という前提条件があることになる。

 

 ラグビーでも前半戦は時間を気にすることなく思い切ったプレーができる。しかし、後半のさらに後半となると、残り時間を意識する。勝っていれば早く逃げ切りたいと思うし、負けていれば一か八かの勝負に出ないといけない。人生は勝ち負けではないから一か八かの勝負を仕掛ける必要はないが、「負けない」展開は意識したいと思うところである。両親と過ごす時間、そして自分の人生の残り時間をそんな意識でもって考えたいと思うのである・・・


Besno PileによるPixabayからの画像 

【今週の読書】

  





2020年5月27日水曜日

わが街思う

ようやく非常事態宣言が解除されたが、それまでの週末は推奨されている通り巣籠りの日々であった。おかげでNetflixのドラマもたくさん観ることになった。それはそれでいいのだが、やはり外にも出たくなる。一応、散歩と買い物は許容されていたので、土日のうち一日はちょっとした買い物を兼ねて散歩に出ていた。もともと街をそぞろ歩きするのは好きな方である。それに賃貸物件をいろいろと見るのは仕事のヒントにもなる。一石二鳥である。

我が家の周辺は戦前は田畑が広がっていたようである。今でも地主の一族があちこちに点在している。子供が複数いればそれだけ一族が増える。その分、同じ名前の一族が近接して住むようになるのは道理である。また、土地もたくさん持っていれば、相続対策も兼ねて賃貸物件を建てる。したがって、同じ苗字の表札や看板が目につき、アパートが林立するのである。持たざる者の立場から見れば羨ましい限りである。

そのアパートも、新しいものもあればだいぶくたびれたものもある。年月を経ればそれは当然のことであるが、古びたアパートを見ると、まだ新築だった頃のことを想像してしまったりする。一般的なイメージのアパートは、どうしても「自分で住むところではない」ことから、ランクを落として造りがちである。そんなところは古くなると空き家になってなかなか埋まらなかったりする。どんな人たちが(入れ代わり立ち代わり)暮らしてきたのだろうと思ってみる。

勝手知ったるご近所でも、ちょっと歩けば見慣れぬ光景があったりする。賃貸物件もそうだが、一軒家やマンションもそれなりに参考になる。ある一画には、ちょうど家一軒分くらいの敷地の墓があった。おそらく、昔は野中にポツンと墓が作られたのだろう。望月にある母の実家の墓もそんな感じだから想像に難くない。そのうち周囲に人が住み始め、人口が増え、いつのまにかポツンと墓が孤立することになったのだろう。今では近所迷惑に違いないと思える。

さらに少し歩けばビニールハウスや畑が点在する。昔の名残りであるが、今でも農業をやっているのは食べていくためだけなのではない気もする。ここでも戦前の農業盛んな頃を想像してみたりする。さらに市民農園になっているところもあるが、これはたぶん税金の関係もあるのだろう(農地は固定資産税が安い)と思ってみたりする。利用者はおそらく近所の人たちで、畳一畳ほどの一区画を年間契約で借りて家族で耕したりしているのだと思う。かつてこの地で農業を営んでいた人たちが見たらどう思うかと想像してみるのもたのしい。

また、わが街には東京では珍しい牧場もある。個人的には好ましいが、臭い等を考えると、これも近所の人たちからしたら嫌悪施設なのかもしれない。その前に流れるのは小さな川だが、近くに源流があって、汲み上げた水を飲ませてくれたりする。子供が小さい頃は、この川に来てはカモや鯉や、時には亀が甲羅干ししているのを一緒に眺めたりしたものである。

古い団地があったところが取り壊されて戸建の分譲住宅として売り出されている。この一画はまた新しい街の一部になる。新しい人たちがやってきて、また新しい歴史が築かれていく。コロナ騒動にも関わらず、行く道をすれ違う人はかなり多い。みんな散歩をしているのだと思うが、実家のある品川区と比べると、ここ練馬区は緑も多くて散歩も楽しい。たまにはいいものである。

 いつまでこの街で暮らすのだろうかとふと思う。いつまではかわからないが、その日までは、こうしてしばしばそぞろ散歩を楽しみたいと思うのである・・・




【本日の読書】
 




2020年5月24日日曜日

部長の仕事

 小さいながらも会社で1つの部を預かっているが、部長の仕事とは何かと考えてみる。ちょうどそれを引き継ぎすることになったため、どんな心得でいてもらったらいいだろうかと考えたのである。よく、転職の笑い話で、「何ができますか?」と問われて「部長ができます」と答えたという話があるが、ではその部長の仕事とはなんであろうかということである。

 簡単に言えば、部長の仕事は「その部で行われるべき仕事すべて」ということになるだろう。「これとこれ」というような「部分」ではなく、「すべて」=「全体」である。まずはこの意識から持ってもらいたいと思う。部の仕事すべてとなると、小さい会社であれば可能かもしれない。実際、個人事業者などは社長がすべて会社の仕事をこなすわけであるから、十分可能である。ただし、大きくなればできなくなる。

 会社が成長するとは、仕事が増えること。だから人を雇うわけである。例えばある人が事業を始めたとする。初めは社長1人で。当然すべての仕事は社長の仕事である。やがて事業が軌道に乗り、仕事が増えてくると人を雇う。増えた仕事を雇った人に「代わりに」やってもらうわけである。「代わりに」やってもらうわけであるが、もともとは社長の仕事である。任せたができないとなれば当然自分でやらなければならない。「○○ができないから、できません」とは言えない。

さらに事業が大きくなれば、仕事の種類によって○○部などと部署を分けることになる。社長もすべてはカバーできなくなるから、各部に責任者を置く。これが部長である。責任者とは、言ってみれば小さな組織の社長であるわけで、その部の仕事はすべて部長が負うことになる。もちろん、部の規模も大きくなれば部長も1人ではできない。ゆえにそれを「自分に変わって」部下にやらせることになる。あくまでも「自分に代わって」というところが大事である。

「自分の代わり」であるから、ミスがあればそれは「自分のミス」になる。部の仕事はすべて部長の仕事であるから当然である。ところがこういう自覚がないと、引き継ぎを受けて部長の仕事は○と△というように「部分」で受けてしまうと、ミスがあっても部下を責めるだけになってしまう。自分のミスであれば、なぜ間違えたのか、どうしたら防げるのかと考えるが、他人の仕事だとそういう責任感も薄くなる。

また、「誰の仕事か決まっていない」仕事が出てきた時にも「他人事」になる。それが部の仕事であれば、担当者のいない仕事であればそれは部長の仕事である。部長がわざわざやるべきことでもなければ、部長が誰か部下に指示してやらせなければならない。しかし、意識の薄い「部分部長」だと、自分の仕事ではないから誰か適当にやれということになる。気の利いた部下が自分から手を挙げればいいが、そうでなければ最悪放置されることになる。実際、こういう「部分部長」はいる。

「部分部長」が発生する要因は簡単である。それまで部下の時代、「自分の仕事」をずっとやってきた人が、「自分の仕事」=「与えられた仕事、指示された仕事」という感覚であれば間違いなくこういう「部分部長」になる。後藤田五訓にあるように、「自分の仕事でないと言うなかれ」と言う感覚を持ってやってきた人ならこうはならないが、指示待ち族の人には無理である。指示はされていないが、これは自分でやってしまおうと言う意識の人なら大丈夫だろうと思う。

大企業になれば、数多の部下の中からこういう意識の者を選んで部長に据えればいいが、中小企業ではそうもいかない。「部分部長」を意識改革から変えていかないといけない。一々これは「あなたが誰かにやらせないと進みませんよ」ということをそれとなく伝えて動かさないといけない。あまり露骨にやると部下に部長の権威を示せなくなるから、配慮も必要である。ある程度根気が必要である。

 「優秀な部下がいない」と嘆く人も多いが、もともと優秀な部下などはなく、「優秀な部下を育てられる上司がいるかどうか」だと思っている。「優秀な部下がいない」と嘆いている人は、「優秀な部下に支えてもらわないと自分はまともな仕事ができない」と言っているのと同じである。それは自分に対する問いかけであり、戒めである。

 「部長の仕事とは何か」改めてそういうことを考え、次の「全体部長」を育てていきたいと思うのである・・・


Free-PhotosによるPixabayからの画像
【今週の読書】
 



2020年5月21日木曜日

クレジットカード

 最近はキャッシュレス決済が幅広く利用できるようになってきた。〇〇ペイなどのQRコード決済は実に便利で、私もペイペイとファミペイをインストールして利用している。ただ、ファミペイの方は「チャージ式」で、どうしても残高が残ってしまう。たとえば1,000円チャージして900円利用すれば残りは100円。このチャージ残がなんとなく残尿感のような心地悪さとして残ってしまう。一方、ペイペイは使った分だけクレジットカードで請求がくるのでこの「残」がない(方法を選べる)。というわけでもっぱらペイペイを利用する日々である。

 ペイペイを利用してもその請求はクレジットカード払いにしている。ペイペイで利用した分の還元がある上に、その代金をクレジットカード請求にしておけばクレジットカードのポイントもつく。一粒で二度美味しいお得感がある。まだまだクレジットカードは終わりではない。そんなクレジッカードだが、気がつけば何枚も財布の中に入っている。財布とは「札入れ」なのか「カードケース」なのかと問われれば、私の場合「カードケース」と答えた方が正解に近い。そう言えば、クレジットカードを始めて作ったのは学生時代であった。

学生時代に初めてクレジットカードを作ったと言っても、もう卒業間近の頃のことである。初めての海外への卒業旅行を前に、旅行会社の勧めで旅行用の一時的なクレジットカードを作成したのである。万が一の時のためで、多額の現金を持ち歩きたくなかったことからだったが、便利なものだとその時思ったものである。そして就職すると、銀行員というのは提携先のクレジットカードをお客様に勧めるものであり、当然自らも作る(作らされる)。そうして作ったのが、今もメインで利用するJCBカードである。

クレジットカードというと、当時は(今でも)「怖い」という人がいる。私には理解できない感覚であるが、初めて作った時から便利なものとして片時も離さず利用している。なにせ現金を持ち歩く必要はないし、後払いで買い物ができるので、薄給の身には欠かせないものであった。それに使えば使っただけポイントが溜まり、後日いろいろなものと交換できる。私はもっぱらギフトカードに交換しているが、半年くらいで5,000円くらいになり、いいおこずかいにしている。そういう意味でもクレジットカードなしの生活はあり得ない。

クレジットカードを「怖い」なんて不思議で仕方がないが、理由を聞けば「使い過ぎるから」という答えが多い。目の前では言えないが、いつもそれを聞くと心の中で「子どもか!」と言っている。大人だったら使った額、使える額ぐらい管理できるだろう。それができないというなら、それは成年後見制度の利用を考えた方がいいというもの。よもやカードに呪いがかかっていて、見ると使いたくなるとでも言うのだろうか。お金の管理ができないなら、そもそも自分で現金すら持たない方がいいだろう。情けない話である。

便利でなくてはならないと言いつつも、難を言えばカードの枚数だろうか。全部一枚のカードに集約できればそれに越したことはないのであるが、いろいろなサービスがあって、それぞれ現金を使うより有利だったりするからその都度作っていたら結構カードが溜まってしまった。メインのJCBカードの他に、Yahooカードや楽天カード、セブンイレブンやファミマ、ローソン、イオン、ガソリンスタンドの出光にSuicaも入れれば、財布はもはやカードケースだ。それ以外にも使用頻度の低いものが机の引き出しに眠っていたりする。枚数が増えてくれば、その管理は確かに大変ではある。

クレジットカードは海外旅行の際には確かに欠かせない。もしもすべて現金で対応しようとなったら、普段とは比較にならないほど多額の現金を持ち歩く羽目になる。そんなのを気にしていたら、楽しむものも楽しめなくなる。そういう意味では、海外旅行でなくてもちょっと高額な買い物にも当てはまる。さらに最近ではネットショッピングには必須である。「怖い」という人は多額の現金を持ち歩き、もちろんAmazonも楽天も利用しないのだろうが、随分と損をした生活だろうなと思わざるを得ない。とは言っても、便利さを知らなければ「損をしている」とも感じないだろう。

今年から長女は大学生になったが、いつからクレジットカードを持つようになるだろうかとこの頃考える。家族カードを渡すと言うことも考えたが、まだそんなに買い物もしないだろうし、とは言え私の頃と違ってネットショッピングとかもあるだろうし、どうしたものだろうかと思案している。家族カードだと私に請求が来るから、変に知恵をつけて支払いだけ回されても困る気もする。笑顔でごまかすこともよくやるから気をつけないといけない。まぁ必要になったら何か言ってくるかもしれない。

しかしながら、QR決済等の決済手段の動向によっては娘たちの世代はクレジットカードにはいかないのかもしれない。QR決済は1台のスマホの中にすべて入るから財布が「カードケース」と化すことはない。その昔は「クレジット(信用)」カードというくらい信用がなければ作れなかったが、今では簡単に発行してもらえる。有り難みが薄れれば、もはや財布の中の場所をとって煩わしいものに成り果てるかもしれない。どうなるのかはわからないが、興味深いところでもある。

 いずれ財布を膨らませるカードが、レトロなコレクションとなるかもしれない。決済手段としてはしがみつくつもりはないが、そんな懐かしいコレクションとなるなら大事にはしたいと思う。お金も貝から貨幣になり、そして紙幣になり、プラスチックのカードとなっていまやスマホの画面。財布もだんだんと軽くなり、そのうち必要もなくなるのかもしれない。どうなるのかはわからないが、時代の流れに合わせ、化石化せずに世の中の動きについていきたいと思うのである・・・


Steve BuissinneによるPixabayからの画像 


【本日の読書】
 




2020年5月17日日曜日

論語雑感 里仁第四(その22)

論語を読んで感じたこと。あくまでも解釈ではなく雑感。
〔 原文 〕
子曰。古者。言之不出。恥躬之不逮也。
〔 読み下し 〕
いわく、古者いにしえげんいださざるは、およばざるをずればなり。
【訳】
先師がいわれた。――
「古人はかろがろしく物をいわなかったが、それは実行のともなわないのを恥じたからだ」
************************************************************************************
 日本人はもともと伝統的に言葉に出すのを良しとしない文化があると思う。天皇をはじめとして高貴な人物の名前を呼ぶのを避けたり、「言霊」信仰があって「縁起でもないこと」を口に出すのを憚られたり。「不言実行」という言葉がある通り、「黙ってやる」ことが美徳とされたり。それに対して、ビジネスの世界では「有言実行」が良しとされることが多い。ビジネスは割と「大勢の人を巻き込んでやる」という意味合いが強く、従って「言葉にする」ことが大事だという面があると思う。

 「有言実行」は確かにカッコいいが、「できなかった」場合も当然あるわけで、できなかった場合には当然恥ずかしい思いをする。「不言実行」という言葉の裏には、「黙ってやる美徳」とともに、「できなかった場合の恥の回避」という意味もあるだろう。「できなかった場合の恥の回避」を消極的ととるか、それもまた美徳ととるかは難しいところかもしれない。「できもしないことを言う」のはホラ吹きも同様であり、それに対する非難もあると思う。

 5年前に転職した際、不動産業なだけに、宅地建物取引士の資格を取るように言われ、2年かけてこれを取った。その次に自ら必要性を感じて「マンション管理士」の資格も取った。こちらは3年かかった。どちらも「取る」と宣言して(宅建は業務命令だったが)取ったので、「有言実行」である。まぁ、取れたからよかったものの、やはり落ちた時はカッコ悪いなぁとバツの悪い思いをした。業務命令の宅建はともかくとして、マンション管理士は自発的にチャレンジしたものであり、宣言する必要性はなかったのは事実である。

 それでもあえて宣言したのは、部下にいろいろとチャレンジ目標を与えている立場上、自分もやっているということをPRする意味もあったが、自らにプレッシャーを与えるという意味もあった。なんとなく落ちたらカッコ悪いときにするよりも、黙って受けて合格して、「実はこっそり勉強していました」という方がカッコ悪い気がしたからである。実は同僚もどうやらこっそりマンション管理士の勉強をしていたようなのだが(本人は明言しない)、合格したとは聞かないから受験を諦めたようである。それもなんだかなぁと思うわけである。

 宣言した時は高揚感にあふれているから気分もいい。しかし、1回落ち、2回落ちると凹んでくる。合格率8%だし、50代で記憶力も減退しているし、と弱気の虫も盛んになってくる。宣言した手前、どうやってやめようかとやめ時を探すようになるし、「たった3回」で諦めるのかという批判も怖い。かと言って受かりそうもないのに勉強するのは苦痛であるし。3回目の受験前にはかなりのネガティブ思考に襲われたものである。受験を黙っていた同僚のスタンスは正解である(でもわかっちゃったりするのであるが・・・)

 考えてみれば、昔からそういうことは人に言う方だったなと我ながら思う。高校受験の時も志望校を聞かれれば隠さず答えていたし、大学受験の時も然り。友人の中には、教えてくれない者もいた。努力は人に見せたいとは思わなかったが、元からそういう目標的なものは隠さない性分だったと言えるのかもしれない。「夢は“口”に出して“十”回言えば“叶”う」という言葉があるが、宣言する効果というのは確かにあると思う。「有言」は「実現できれば」これに越したことはない。

 論語の言葉も「有言」を否定しているわけではない。むしろ有言実行を推奨していると解釈することもできる。「言うだけでやらない(やれない)」ことを戒めているわけであり、「言うならやれよ」ということであろう。「大言壮語」は実際が伴ってこそ凄いのであって、そうでなければただのホラ吹き。ホラ吹きになるなというのは当たり前といえば当たり前である。だが、その境界線は難しいと思う。

 その昔、ソフトバンクの孫さんは、創業期にたった2人の社員の前で段ボール箱に乗り、「将来は売り上げを豆腐のように一丁(一兆)、二丁(二兆)と数えるようになる」と宣言したそうである。当時は「大言壮語」と笑ったかもしれないが、それを実現した今は誰も笑う者などいない。「宣言」したから、否、宣言するような心意気だったから実現できたと言えるかもしれない。

 不言実行がいいか有言実行がいいかは、性格にもよるだろうし、無理をする必要はないと思うが、「恥ずかしいから黙っている」のが健全かと言うとそうではないように思う。ホラ吹きは論外であるが、「躬之不逮」を「恥」て黙するのではなく、「逮」ぶように努力する方が健全であると思うのである・・・



【今週の読書】





2020年5月14日木曜日

妥協について

我が社は地場の小さな不動産業者である。不動産賃貸を主としており、その一環で他のオーナーが所有されている不動産の管理も行っている。事業は何でもそうだが、お客様からお金をいただくことで成り立っている。当然、「顧客志向」があるべきスタンスで、我が社もこれを意識している。ところで不動産賃貸と(賃貸)管理は、やることは似ていてほとんど同じであるにもかかわらず、大きく異なる点がある。それがこの「お客様は誰か」という点である。

「不動産賃貸」のお客様は、当然、入居していただく「賃借人」となる。賃借人から家賃をいただくのが収入となる。必然的に顧客志向を貫くと、「いかに快適に住んでいただくか」を追求していけばいい。ところが、「賃貸管理」の場合、オーナー様から不動産管理のご依頼をいただいてこれを管理する。やることは「不動産賃貸」と同じだが、お金をいただくのは賃借人ではなく、オーナー様である。「顧客志向」の顧客はオーナー様であり、オーナー様の満足を追求しないといけない。

同じことをやるのであり、同じようにやればいいと思うが、「お客様」が違うとそうもいかない。何よりオーナーと賃借人とでは利害関係が異なる。単純に言えば、オーナーから見れば家賃は高い方がいいが、賃借人の立場から言えば家賃は安い方がいい。これが同じことをやっていても大きな違いが出てくる理由である。オーナーのタイプもいろいろで、とにかくリターンの最大化を求めるタイプから、我が社同様、賃借人志向の考えを持ってくれるタイプまである。我が社と同じであれば問題はないが、違えば問題となる。

たとえば室内のエアコンが故障した場合、それはオーナーが交換の義務を負う。それはすなわちオーナーの支出となるわけで、「とにかく安く済ませてくれ」というタイプもいれば、入居期間等を勘案し、「多少高くても機能のいろいろと揃っているのにしてあげて」というタイプもいる。我が社は基本的に「顧客志向」を大事にしているが、考え方の合わないオーナー様とどう付き合うかは悩ましいところである。「顧客志向」を追求するのであれば、自分の勝手な考えよりもお客様たるオーナー様の意向を大事にすべきとなるが、それをどこまで重視すべきだろうか。

基本的に我が社の考え方を説明し、歩調を合わせてしまえばそういう問題は起こらない。ただ、必ずしも同意できるとは限らない。考え方の合わないオーナーとはお付き合いしなければいいという考え方もあるが、そうも言っていられない事情もある。また、どんなオーナー様であろうと、合わせるのがプロという考え方もある。銀行員時代も、上司の指示と自分の考えが合わなくてイライラしたことは随分あった。上司も見方によってはお客様といえる(→『プロフェッショナル・サラリーマン』)であるが、この手の意見の違いはどこにでもあると思う。

意見が異なる場合、議論して同意点を見つけ出せればそれに越したことはないが、対立を解消できなければ、どうしても指示を受ける立場、お金をもらう立場の方が弱い。勢い、自分の考えを殺して仕事をすることになる。サラリーマンの場合、それが赤ちょうちんの酒のつまみとなるのであろう。金のためと割り切ってやるのが大人の対応なのか、それとも信念を貫いて高楊枝を決め込むか。「妥協」という言葉が脳裏を過る時、どうするべきかは実に悩ましい。

起業したあと、資金不足を補うために外部の投資家から資金を入れてもらう場合、お金だけ出して口は出さないという投資家ばかりではないだろう。当然、早く上場しろとか、収益を上げろとかいうプレッシャーが出てくることもある。意見が一致してすべて任せてくれる投資家ばかりならありがたいが、そういう贅沢も言えないケースだって多いだろう。この場合、悪いのは口を出す投資家ではない。それぞれの価値観があって動いているので、意見の相違はあって当たり前であり、要はそれをどうこなすかである。

安易に妥協はしたくないが、オーナーの気持ちにも応えないといけない。収益だって上げないといけない。自分だけならまだしも、社員を抱えていれば贅沢も言っていられない。当面は顧客志向を徹底しつつ、我が社の考え方もPRしていくしかないだろう。そこで揺るぎなき信頼感を得られれば、意見の対立もなくなるかもしれない。「妥協」は諦めではなく、努力目標だと考えたい。己を更なる高見に持ち上げるための。そうして試練を前向きにこなす先に、望ましいゴールがあるのだと考えたい。

 そういう意味で、オーナーの意向に沿うことは、「妥協」ではなく「課題」であると考えたいと思うのである・・・




【本日の読書】

2020年5月10日日曜日

コロナ騒動雑感(その4)

 GWも家にこもり、週末も家にこもりの生活がもう1ヶ月以上。それなりに満喫はしているが、やはりラグビーの練習ができないのが大きなストレスである。世間ではいよいよ10万円の給付金申請受付がスタートし、早速オンラインで手続き。110万円で、我が家は4人家族につき40万円。ありがたいので素直に受け取らせていただくが、「何故に?」という疑問は残る。給料は確保できているし、家ごもりの不自由はあるが、金銭的には困っていない。困っているところに集中すべきだと客観的には思う。

 この騒動で本当に困っているのは、飲食店(特に居酒屋系)をはじめとする小売店や宿泊施設、娯楽施設などの事業主体だろう。休業で収入がなくなるが、従業員に対する給料は払わないといけない。残業代が減る社員もそれなりに大変だろうが、事業主は資金繰りで頭が痛いだろうと思う。行政も支援策を出しているが、内容的にはもう一工夫できるのではないかと思う。資金繰りには「融資」も有効だが返済をしないといけない。むしろかつてのような「返済猶予」を金融機関に要請し、無条件でできるようにした方がお金も使わなくていいように思う。

我が家はルール通りに生活できていると思う。妻も1人で買い物に行っている。ただ、スーパーに買い物に行って帰ってくると、どこかの家族が3人で買い物に来ていたと気色ばむ。「老夫婦ならまだわかるが、子供連れの若い夫婦は信じられん」と言う。「買い物は極力1人で」と呼びかけられており、いろいろと言い分はあるのかもしれないが、ルールからは外れている。なんとなくそこまで真剣にルールを守ろうという意識はないのかもしれない。どこか他人事に考えている人たちも当然いるだろう。

家にいるのも飽きるので、ちょっとした用事も兼ねて散歩に出かける。歩いている人はかなりいる。もちろん、自分もその1人だし、他の人も散歩や日常の買い物なのかもしれない。夫婦2人で、あるいは家族であっても散歩ならいいだろうし、誰がルールを守っているのか、あるいはいないのかはわからない。マスクをしていない人も目につく。店舗に目をやれば開いているところもあるし、休業中のところもある。ショッピングセンター内の店舗の休業はやむを得ないだろうが、路面店などは微妙だ。飲食店など一斉に休業されたら困るし、かと言ってそれが居酒屋である必要はない。

 ネットニュースを見ていると、苦しい中、「ルールを守って」営業している店舗に対し、それを批判して嫌がらせをする「自粛ポリス」なるものが横行しているという。自分で見ていても、この店は開ける必要があるのかと思うものもあるが、小さな店舗なら別にいいようにも思う。自粛ポリスの活動も、わからなくもない。根底にあるのは正義感。「こういう事態なんだからみんなでルールを守って生活するべきだろう」という意見には同意する。ただし、それが行き過ぎるのは当然問題である。

自粛ポリスの標的になった店舗には、「ルールを守っている」ところもあるという。それを知らないのか、あるいは知っていても自粛すべきだと考えているのか。無知な前者はもちろん、勝手にルールを拡大解釈する後者も問題である。自分たちは正義感に溢れているのかもしれないが、歪んだ正義感ほどタチの悪いものはない。「正義であれば何をやってもいい」という大いなる勘違いは是正されないといけない。

戦前は、こうした「歪んだ正義」が陸軍の暴走につながっている。何かあれば「正義の鉄槌」を下しても構わないという理屈は515事件や226事件につながり、やがて怖くて自由にモノが言えなくなる。ルールを守らない人たちには確かに腹立たしいところはあるが、それはソフトにわかってもらう方法を考えないといけない。自粛ポリスも結構だが、抗議をしたいのなら堂々と名乗って意見表明すればいいと思う。そこで実はルール内だということもわかるかもしれない。

そう考えれば、腹立たしくとも家に帰って来てから家族にそれを話している程度であればなんの問題もない。そういう親の態度によって、家族内でも遵法意識が育まれるかもしれない。テレビでも政府の曖昧な対応を批判する意見を聞く。だが、前例のないこの事態にキッチリ決めてなんでもやれるわけがない。事態の推移に合わせて柔軟に対応せざるを得ないところもあるだろうし、何でもかんでも決めて行動できるものでもない。底の浅い批判には、テレビに出るならもう少し勉強すべきだろうにと密かに思う。

食事の時、そんなことを考えてそんな番組を観ていたら、中学3年の息子が「安倍総理はよくやっている」と偉そうに語った。中学3年ともなればそんな意見の1つや2つ持っていてもおかしくはない。安倍総理を支持しようが批判しようが自由だが、そういう意見を持っているということを知ってちょっと嬉しく思う。世の中のことをいろいろと考えるには、今回の事態もいい経験だろうと思う。

 人の振りはともかく、自分にできること、自分が守らねばならないことはきちんとする。それが世の中のためであるし、人を批判するのではなく、自分の行動を正しくしたいと思う。明日も自分の仕事をこなし、会社を維持することに全力を傾け、そして10万円の使い道をゆっくり考えたいと思うのである・・・





2020年5月6日水曜日

幸福について

幸福は人が人生の目標として掲げる1つとして間違いないだろう。人は皆幸福を求めるものだろうし、求めない者などいないだろう。ではその幸福とは一体なんだろうか。コロナ自粛で家にこもっていると、そんなことをつらつら考えてみる。

とりあえず今自分は幸せだろうかと問うてみると、なんとなく幸せのような気がする。はっきり断言しにくいのは、「取り立てて不幸だという理由もないがもっと幸せになる要素があるような気がする」からである。貧困国に生まれて11ドル以下で生活する人に比べたら、我々日本人はそれだけで幸せだと思うが、不景気で失業し住むところも失うかもしれないと言う人にしてみれば、とても幸せなどといえないだろう。そういう意味で、幸福は相対的なものと言える。

しかし、例えば天涯孤独で仕事もアルバイトで食い繋ぎ、細々と一人暮らしをしている人がいたとして、その人が不幸かどうかは傍からは断言できないであろう。その人なりに少ない収入の中でも仲間と交流したり、ささやかな趣味に没頭したりとそれなりに幸せに生きているかもしれない。他人と比較して幸不幸を決めることは当然できない。金持ちで豪邸に住んでいても、不幸を抱えている人はいるだろう。そう考えると、幸福は絶対的なものであるとも言える。

幸福とは自分のものか他人のものか。一見、幸福とは自分の幸福だと思うが、そうでもない。例えば初詣でいつも神様にお願いするのは家族の健康。自分のことはお願いしない。家族が(特に子供が)健康で幸せであればというのが私の変わらぬ願い。幸福が自分のものかと考えてみると、ここにおいては子供や親(他人)のものである。ただ、それで自分が幸せになれるわけであり、そういう意味では幸福は自分のものでもある。

幸福は目に見えるものだろうか、それとも目には見えないものだろうか。なんとなく目に見えるものではないように思うが、子供が喜ぶ姿を見ているとたいていの親は幸せ感に包まれる。子供の喜ぶ顔という形で幸福は目にすることができる。子供に限らず、自分のしたことで誰か他の人が幸せになっているのを見ることは、とてつもない幸せである。そう考えると、幸福は目に見えるものである。

幸福は数えられるものだろうか、それとも数えられるようなものではないだろうか。なんとなく数えられるようなものではない気がするが、例えば結婚しても子宝に恵まれない人はいるもので、子供がいるということは間違いなく「1つの幸福」である。それと同様に、仕事があって収入が安定していること、家族が健康でいること、毎週末になんの気兼ねもなしに映画が観られること、これら1つ1つが幸せと考えれば、幸福は数えられる。

幸福に大きさはあるのだろうかと考えると、実はある。例えば安定した仕事があることは1つの幸福ではあるが、それで人生すべて幸せになれるというものではない。それは「1つの」幸せであり、「小さな幸せ」である。「週末の深夜に1人で映画を観る」というのは、私の幸せを感じる瞬間であるが、それが人生の幸せすべてではない。いわば「小さな幸せ」であり、「大きな幸せ」を構成する1つの要素と言える。そう考えれれば、「幸福には大きさがある」と言える。

幸福は一時的なものか、それとも永続的なものか。今、幸せかと問われてもそうだと答えても、明日には不幸になるかもしれない。禍福は糾える縄の如しで、今日は幸せを感じていても、明日は不幸のどん底に落ちるかもしれない。1つ1つの幸福は永遠のものではないが、その1つ1つが織りなす人生全体で見れば「いい人生」を送れた人は永続的な幸福を満喫できたと言えるかもしれない。そう考えると、幸福は一時的なものであり、永続的なものとも言える。

幸福は「長ければ長いほど良い」のだろうか。例えば交通事故で死ぬことは不幸であるだろう。では94年間幸せに生きてきて、最後に交通事故で死んだ人は不幸なのだろうか。なんとなくそうではない気がする。逆にずっと不幸な人生を送ってきた人が、最後は幸せに包まれて安らかに息を引き取った場合、その人は不幸な人生を送ったことになるのだろうか。これもなんとなくそうではない気がする。幸福は「長ければ良い」と言うものでもなさそうである。

人が幸福かどうかはどうしたらわかるのだろうか。例えばある人が火事で焼死したとしたら、その人は不幸なのだろうか。少なくとも周りの人はそう思うだろう。でももしそれが、子供を助けた末の焼死だったらどうだろうか。周りの人はともかく、(自分だったら)しっかり自分の子供を守っての死であればむしろ幸福だろう(もちろん、自分も死なないのが良いに決まっているが)。人が幸福かどうかは、結局その人でないとわからない。

幸福は量か質かという問題もある。小さな幸福が数多く集まれば大きな幸福になることは間違いないが、「これだけあれば幸せ」というのもあるだろう。そういう意味で、幸福は量でもあり、質でもあると言えるのかもしれない。とりとめもなく考えてみると、幸福はいろいろな角度から眺めることができる。突き詰めると、半分水が入ったコップを「半分しか」入っていないと考えるか、「半分も」入っていると考えるかの例ではないが、「考え方次第」と言うところもあるだろう。

何をもって幸福とするかは、人それぞれだろう。小さな幸福を積み上げる人もいるかもしれないし、今一瞬の幸福を追求するタイプもいるかもしれない。やっぱり幸福な人生を送りたいと思うが、それには何が自分にとって幸福なのかを考えないといけない。ただ漠然と幸福になりたいと思っていても、いつまでも追い求め続けて満足できないかもしれない。逆説的かもしれないが、幸福は「不幸でない」ことであるとも言える。自分が幸福なのかどうかわからなかったら、「不幸かどうか」を考えてみても良いかもしれない。不幸でなければそれでよし。それがすなわち幸福とも言える。

 人生折り返し地点は過ぎたと思うが、残りの人生を幸福に送りたいと思う。されど不安要素はたくさんある。多くは望まないが、不幸をできるだけ回避したいとは強く思う。自分にとっての幸福とは、「不幸でないこと」かもしれない。そんな幸福をこれからもずっと求めてもいってもいいのではないかと、家にこもりつつ思うのである・・・



→ 『幸せはお金で買えるか』



2020年5月3日日曜日

論語雑感 里仁第四(その20)

論語を読んで感じたこと。あくまでも解釈ではなく雑感。
〔 原文 〕
子曰。三年無改於父之道。可謂孝矣。
〔 読み下し 〕
いわく、三年さんねんちちみちあらたむることきは、こううべし。
【訳】
先師がいわれた。――
「もし父の死後三年間そのしきたりを変えなければ、その人は孝子といえるだろう」
************************************************************************************

 人間は言葉によって経験を後世に伝えることができる。それが人間と動物との大きな違いである。誰もが自らの経験や考えを残そうとする。それは自分の子供や事業を継ぐ者への愛情ゆえもあるだろうし、成功体験を広く残したいという思いかもしれない。自分よりも経験を積んだ人たちが残したものを上手に利用できれば、それは受け継ぐ者の成功へとつながるものだろうし、当然重視すべきである。ましてや肉親の自分の父親が大事にしていたしきたりを守ることも、当然意味のあることであり、親の思いを大事にする「孝」という考え方にあっては大事なことであると思う。

 それはそれでその通りであると思うが、それでもどこまでそれを守るかということは考えないといけないことである。まぁ、3年程度であれば問題はないと思うが、長くずっととなるとそうもいかない。それはやはり時代の流れというものがあるからである。その時点では正しいことも、時間が経って環境が変われば時代に合わなくなってくることはある。にも関わらず、後生大事に守り続けると不具合が出てくる。その時にどう対応すべきかは大事である。

 会津藩初代藩主・保科正之は、会津藩の憲法ともいえる家訓を残した。その中には「法を犯す者は宥すべからず」なんて今でも当たり前のこともあるが、「婦人女子の言、一切聞くべからず」なんてのもある。父祖の定めたものであっても、金科玉条の如く大事に守るのではなく、時代に合わせて柔軟に変えていくことも大事である。しかるに、「婦人女子の言、一切聞くべからず」はさすがにもう変えようという意見であれば、異論を唱える人は(少なくとも公には)いないだろうが、もう少し前の過渡期の時代であれば「初代藩主から伝わる家訓を変えるなんて」という意見もあったと思う。

 江戸時代末期、黒船来航で日本の社会は真っ二つに割れる。尊王攘夷運動である。祖法(神君徳川家康公が定めたこと)である鎖国政策(正確には家康ではない)はあくまでも維持すべきという攘夷派と開国派が争うこととなった。今となっては開国は時代の流れであり、誰も異論など挟まないだろうが、時代の過渡期たる当時はどちらの言い分もそれぞれ一理あり、一概にどちらが正しいとは言い難かったと思う。祖法を守るべしというのは、いわゆる前例踏襲で、新しいことには消極的。とにかく今まで通りやって容れば問題ないという今でもお役所や大企業に見られる考え方である。

 それは現代でも同様で、さしづめ今なら憲法改正問題と言えるかもしれない。75年前に制定した憲法を金科玉条のごとく守り、一切変えさせまいとする護憲派と、改正派が長年論争している。特に憲法改正を堂々と掲げる安倍政権の誕生以来、改憲派の声が大きくなってきている。自分はどうかと問われれば、個人的には憲法改正論者ではあると答えるが、では今国民投票があればどちらに投票するかと言えば間違いなく「反対」に投票すると思う。自分自身、そんな風に非常に微妙な考え方をしている( →『憲法第9条はやっぱり改正すべきなのだろうか?)

 何事にせよ大事なことは、「思考停止してはいけない」ということだと思う。なぜそれをやるのかと問われた時に、きちんと説明ができるかである。「父の定めたしきたりだから」では、理由になっていない。それは「思考停止」に他ならない。憲法改正にしても、「戦争に反対だから」改正すべきではないという答えだと「思考浅薄」だと言わざるを得ない。ましてや「安倍総理は戦争をしたがっている」などという意見にいたっては、まったく根拠の乏しい思い込みに過ぎない「思考迷走」と言える。ある意味「停止」より悪いかもしれない。

 今日は憲法記念日。折からのコロナ騒動も相まっていろいろな意見が飛び交っている。それはそれで大いに議論すべきだと思うが、自分自身の考えもしっかりと深めてみたいところである。今もし孔子の言葉に付け足すのであれば、「五年父の道を改むること無きは、愚と謂うべし」であろうか。自ら考える事こそ「孝」だと、我が子には伝えたいと思うのである・・・