2008年12月31日水曜日

自助自励

 
「さなぎを醜いと嘲り笑う者はさなぎから生まれ出る蝶の美しさを知らない」
(松本零士の漫画より)
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私はけっこう人を励ますのが得意ではないかと思う時がある。
そんなに励ます機会が多いわけではないのだが、折に触れそう思うのだ。
何でだろうかと考えるまでもなく、理由は自分自身よくわかっている。
それは昔から自分で自分をよく慰め、励ましてきたからだ。

冒頭の言葉は例によって漫画で知った言葉だ。
もともとのオリジナルはどこかはわからない。
松本零士の漫画は、主人公が成長過程にある青少年というものが多い。
(「銀河鉄道999」「男おいどん」他多数)
その多くは「いつか必ずや」という思いを胸に、歯を食いしばって明日を夢見て今日を耐えるというパターンであり、必然的にそんな思いが私の心の中の思考パターンとして形成されていったのかもしれない。

実際中学・高校の頃は心密かに劣等感を抱く事も多く、そんな時はいつも「自分はさなぎだ」と思いこんできた。その後「美しい蝶」になれたかどうかは別として、いつも明日を夢見て自分に渇を入れてきた。だからこそ、落ち込んでいる人などには自分でも「良いこと言うなぁ」と思えるような言葉をかけてたりするのだろう。

人を励ますのはよしとして自分自身はもういいのかというと、これがそうでもない。
今でもけっこう辛いと思う事がある。
そんな時には「辛いという字がある、もう少しで幸せになれそうな字である」(星野富弘)などという言葉を引っ張りだしてきては、顔だけは上げていようと思うのである。

七転び八起きとはいうけれど、転ぶ回数は7回どころではない。
あと何回で済むかもわからない。
今日も、そしてたぶん明日も自分を励ます日々は続いていきそうだ。
いつの日か常にゆったりと構えていられる心境に到達する日がくる事を夢見る毎日なのである・・・

 

2008年12月28日日曜日

アンコール

 
先日家族でファミリーコンサートへ行ってきた。
動物に扮して馴染みの曲を演奏してくれるのだ。
子供向けであるが、プログラムの演奏がすべて終わると拍手。
一旦引っ込んだメンバーがすぐに出てきて、アンコールとなった。
こんな子供向けのコンサートでもアンコールをやるのかとちょっと意外だった。

たまにサントリーホールなどに音楽を聞きに行くが、この時は本格的だから最後のアンコールもきちんとやる。それはそれでいいのだが、どうもこのアンコールというものには違和感を覚える。
そもそものアンコールとは、本編の演奏をすべて終了した後、感激したお客さんの拍手が鳴り止まず、それに感謝した演奏家が拍手へのお礼として当初は予定していなかった演奏をアドリブでやるというものだと思う。
だが今ははじめからアンコールが予定に入っている。

おかしくないか?
誰がアンコールなど望んだというのだ。
少なくとも先日のファミリーコンサートでは私は腰を浮かしかけていたし、観客の拍手だって一応の礼儀程度でスタンディングオベーションなどほど遠かった。
まあお金を払っている以上やってくれるのはかまわないが、であれば最初から曲目をプログラムに載せてきちっとやってほしいと思う。
アンコールなど不要だ。
おかしな習慣だ。

ミュージカルではさすがにアンコールはないが、それでも延々と続く拍手に出演者たちが何度も何度も引っ込んだり出てきたり忙しい。
もちろんすごく良かった時は一緒に拍手しているが、それでも限度というものはある。
劇団四季のそれなどはコアなファンが狂ったように拍手していて、気の小さい私としてはそれを無視して帰るのは気が引けてしまうので最後まで付き合ってしまう・・・

映画でもミュージカルでも音楽でも良いものを鑑賞したあとは余韻に浸りたいものである。
その気持ちは誰もがそうだと思うが、それは自然発生的であるべきだと思うのだ。
今は大半が「お約束」でやっているようにしか見えない。
鳴り止まない拍手にアーティストが感謝して予定外の演奏をする、そういう本来のアンコールこそが求められるものだ。

形式的なアンコールには興醒めするへそまがりな男の意見なのである・・・


(とは言え、劇団四季のミュージカル「ウィキッド」は良かった。あれは自然に大拍手だった。機会があればお勧めだし、もう一度観たいと思うのである・・・)

   

2008年12月27日土曜日

批判

Sは同じ会社の知人である。
かつて同じ職場で仕事をした事もある。
人は良いと思うのだが、一点だけどうしても好きになれないところがある。
それは他人を批判する事だ。

批判自体誰でもするだろうし、それだけで取り立ててどうこう言うつもりもない。
赤提灯で一杯やりながら上司批判するのはサラリーマンの特権だ。
ただ、Sの場合は「口を開けば」という状態なのである。
今の職場だからかというとそうでもない。
我々の職場は数年おきに異動があるが、新しい職場に異動すればしたで新しいターゲットがその都度出てくるのである。

Sに会うたびにその時々の批判を聞かされる。
大体は上司の批判が多い。
最近ではもううんざりしてきて会うのも自然と減ってきた。
批判精神は大事であるが、批判をする前に考えないといけない事が3点ある。

1つはマイナスの言葉を使う事のデメリットだ。
どんな言葉を使うかは重要だ。
言葉は自らの考え方を表し、それはすわち己自身を表す。
マイナスの言葉を使う人間はすでにマイナス人間であると宣言しているようなものだ。
いくらフェラーリがいい車だとしても、騒音と黒煙を撒き散らして走るとしたら今のようにみんなの憧れを集められるだろうか。プラスの言葉を使う事によって自らもまたプラス思考に染まっていく。それは聞くものにも前向きの気持ちをもたらす。
そう常々思っている。

2つ目は上司との情報格差だ。
いくら自分の考えが正しいと思っても、それは「自分自身の知っている限りの世界で」という条件がつく場合が多い。上司にはいろいろな情報が集まる。
部分的にはSの言い分が正しくても、全体では優先順位が下がるという事だってある。
全体最適の立場からすれば、いくらSが部分最適を主張してもはじまらない。
自分の考えが全体の中でどう位置づけられるのか、残念ながらSの言い分を聞いているとどうも怪しい。

3つ目は上司もまた自分の人生で主役を演じているという事である。
自分が主役の自分の人生では、自分の意見こそが正義である。
上司からすれば、Sが批判したとしてもその判断は自分にとって常に正しい判断なのだ。
例えば非常に慎重なタイプの人は、石橋を叩いて渡らない事もあるかもしれない。
(実際私もこのタイプの上司に仕えた事がある)

ホームランを狙って三振するよりも、コツコツとヒットを重ねて点をとる事が確実なケースだってある。ホームランはいらないけど確実にヒットが欲しい場面では、慎重なタイプの人の判断が求められるのだ。その人自身の考え方を知り理解する事がまず何より大切だと思うのだが、Sにはそういうスタンスはない。

常に残念だと思う一方、自分自身への自戒としたいSの姿なのである・・・
    


2008年12月23日火曜日

サンタクロース




「サンタさんてほんとにいるの?」
8才になる娘からそう聞かれた。
どうやら学校で「サンタさんの正体はお父さん」と言う友達が出てきたらしい。一方でまだ存在を信じている友達もいて、娘は揺れ動いているようである。

かねてからサンタクロースについてはいろいろと考えていたから、その考えを語って聞かせた。
「サンタクロースはね、子供のところにしか来ないんだよ。でも毎年たくさんの赤ちゃんが生まれてくるだろう。そうするとその赤ちゃんが増えた分、プレゼントを届ける子供を減らしていくんだ。誰から減らすかと言うと『サンタさんを信じなくなった子』からなんだよ。」
次の日に友達と何をサンタさんにもらうか話したと報告しにきたから、どうやら今回は信じたらしい。

だが、そういう説明をしたからといって娘に無理やり夢を信じさせようと考えているわけではない。サンタクロースとはそういう存在で、まさに語った通りだと自分自身考えているからだ。

例えば神様を信じている人がいる。
次の日どうしても晴れて欲しいが、天気予報は無情にも雨だったとする。
そこで神様に一心不乱に祈ったところ、翌日奇跡的にも晴れたとしよう。
その時、その人にとっては神様は確かに存在していることになる。
信じない者は天気図を引っ張り出してきて予報が外れた原因の説明をするだろう。
だが、「祈った」という事実と「願いがかなった」という事実だけを捉えれば、確かに神様は存在しているのだ。

サンタクロースも同じだ。
プレゼントを買ってきて枕元に置いたのは確かに親かもしれない。
しかし寝ている子供にはその事実はわからない。
「朝目が覚めて枕元にプレゼントが置いてあった」という事実だけをみれば、その存在を信じる限り確かにサンタクロースは存在しているのだ。
その存在を信じなくなった時、サンタクロースはもはやその子にとって存在しないものになる。まさに「信仰」そのものである。

神を信じる者は無条件で信じるであろう。
それが信仰というものだ。
そういう信仰をバカにする事はできない。

もう遠い昔となってしまったが、サンタさんに消防車をもらったことがある。
大きな袋をかついで消防車を届けにきてくれた姿を想像し、とても幸せな気分だった事を今でも覚えている。あの時確かにサンタクロースは存在していたのだ。
そして今でもあの時の事を思い出すと心が温かくなる。
そのぬくもりが残っている以上、今でもまだサンタクロースは存在していると思うのである・・・

2008年12月20日土曜日

進化




「お前のプレーは教科書通りだ」
当時のコーチにそう言われたのは、高校2年の夏合宿での事だ。

私は高校に入ってからラグビーを始めた。
「ラグビーは紳士のスポーツです」という勧誘文句が、「紳士」という言葉に弱かった私の心にヒットしたのだ。もともと「楕円のボールを使う競技」という程度の知識しかなかった私は、コーチや先輩の教えをよく守り、またもともとの真面目な性格が相俟って、「教えられた通り」にプレーをマスターしていった。
そんなわけだから、私のプレーは教えられた通りのプレーとなり、冒頭のコーチの言葉となったのである。

冒頭の言葉も批判ではなく、むしろ褒め言葉として言われたのであるが、しかし、「教科書通り」という言葉がどうしようもなく私の心に澱のように残ったのである。結局、高校3年間で私のプレースタイルは変わらなかった。

その後大学へと進学し、ラグビー部の門を叩いた私を待っていたのは、「自主性」を重んじる合理主義のラグビー部の先輩たちであった。
高校時代は、夏場の練習では「水を飲んではいけない」と教えられてきた。
ところが大学の練習では、夏場は10分置きに給水する。
はじめは「水を飲むなんて、なんていい加減なんだ」と面食らった。
(もちろん今では給水が当たり前だ、苦しみに耐えてこその練習だという精神論重視の高校時代であったのだ)

もともと専門のコーチなどいないから、自分たちで考える。OBコーチがアドバイスするものの、自分たちの弱いところを自分たちで考えた練習で補強していくやり方だ。それまで教えられた通りにやるスタイルの私も否が応でも自分で考え、仲間と議論しトレーニングに打ち込んだ。いつのまにかK高校で培ったスタイルは、H大学流のやり方にアップデートされていった。

タックルも高校で教わったやり方は捨てた。もっと有効な方法を自分で見つけたのだ。「殴られたら激しいタックルで返せ」と教えられた私だが、「殴られたら殴り返せ!」と後輩には指導した。紳士ぶった精神論など役に立たない、殴り返せないようなやわな奴はレギュラーにはなれないと諭す自分がいた。(勿論、殴ったら重いペナルテイーが待っている。当然かくあるべしという精神論であるが、実際殴られたら殴り返すのである。私もそうしてきた。)

そして高校のOB戦。
昔の高校流のやり方の世界に自分流のアップデートを加えたスタイルで参加した。
高校を卒業してラグビーをやめてしまった仲間たちは昔の伝統的スタイルを守っていた。
だが、進化した私のスタイルはもはや「教科書通り」とはほど遠いものであった。
その時、私は本当の意味で高校のラグビー部を卒業したのだ。

高校の先輩たちには申し訳ないが、今の私のスタイルは「K高校流」ではなく「H大学流」なのであると自負しているのである・・・

 

2008年12月19日金曜日

あざなえる縄の如し

 
「幸せとは気づくこと」
とはいえどうしても幸せとは思えない事が出てくるかもしれない。
それはそれで仕方がない。
なぜならこの世はすべからく善と悪、幸と不幸とが互いに交じり合い両者のバランスの上に成り立っているからである。
ことわざにあるように「禍福は糾える縄の如し」なのである。

人によってはその割合は5:5だったり、8:2だったりするかもしれない。
だが、10:0になる事はない。
どんな人でもきっとそうだろう。
「お金持ちになれたら幸せだろうな」と誰もが思う。
だが、金持ちには金持ちの悩みがあるのはこういうわけだからだ。
だから何か不幸・不運があったとしても嘆く事はない。
それはそれで幸せの対価なのだ。

もしもたくさんの幸せに囲まれていて不幸な事は何もないと思ったら、気をつけた方がいい。
どうしてもという時は世の中に幸せを還元するべきだ。
そうしてバランスを取った方がいいだろう。

そんな考えでこれまでやってきた。
だから例えば私はくじ運が悪い。
ここまでひどいかというくらい悪い。
(商店街の福引では14回連続で外れたし、TDLのショーの抽選にだって外れたし、当たったと思って喜んだらショーそのものが強風で中止になった事もある。
トーストを落としたら間違いなくバターを塗った方が下になると思っている。)

だが、それでいいと思っている。
くじ運が悪い事で禍福のバランスがとれているのならこんな結構な事はない。
なに、宝くじで大当たりする事が一生ないというだけの事だ。
「抽選で・・・」なんて言葉があったら、「あなた以外の方に・・・」と読み替えればいいだけの事だ。
そんな程度で済むならお安い御用だ。

だが最近はそんな私の考えが神様に見透かされたのか、大きな悩み事ができてしまった。
誰にも相談できず(相談してもどうしようもないのだ)、一人で抱え込んでいる。
時折どうしようもないくらい不安に押しつぶされそうになる。
そんな時思うのだ。
これが幸せの対価か、と。
ならば仕方ないと思って受け入れている。
(家族の病気なんて事よりは当然ながらはるかにましだ)

だが当分は解決しそうにないし、心穏やかになる事もない。
ただこんな考え方ができるせいか、誰を恨む事もなくなんとか過ごしていられる。
だからいいと言えばいいのだが、さすがに来年あたり何とか目処をつけたいが難しいかもしれないと密かに悩ましく思うのである・・・

  

2008年12月18日木曜日

幸せとは

  
「幸せとは気づくこと」
この言葉を知った時いろいろと考えた。
確かにそうだ。

人は誰でもみな「幸せになりたい」と願う。
しかし、よくよく考えるとすでに十分幸せだったりする。
特に日本に生まれて育っている人ならそうだ。
ただそれと意識していないだけなのだ。

例えば毎日通勤電車に揺られて会社に行く。
寒いこの時期は嫌なものだ。
だが、まず健康だから通勤できるという事実がある。
病気で病院の天井を眺めて暮らすのでは、例え寒空の下会社に向かわなければならないとしても、その方がはるかにいい。
まさに「我が物と思えば軽し傘の雪」である。

それに何より職があるという事は生活も維持できるしローンも返せる。
これだけでもかなり幸せだ。
また家族が健康だからこそ安心して家を出られる。
お金を出せば食べ物が買える。
本も買えるし映画も観られる。
何気ない日常生活は幸せに溢れているのだ。

冒頭の言葉はそれに気づかせてくれた。
誰の言葉かわからないが、教えてくれて感謝だ。
そんな事はない、自分は不幸だと思う人もいるかもしれない。
だがよく考えてみる事だ。

数年前に娘が肺炎で入院した事がある。
完全看護の子供病院だから親は9時になると帰らなければならない。
幼いわが子は行かないでと泣く。
後ろ髪引かれるなんてものではない。
9時になると帰りのエレベータでは涙を拭うお母さんと何度も一緒になった。
厄年だったから「何て不幸なんだ」と思った。

しかしある時ナースステーション横の病室から出てきたお父さんを見てショックを受けた。
ナースステーションの横という事は「すぐにナースが駆けつけられる」という意味がある病室だ。
そのお父さんは泣いていた。
お母さんではない、お父さんが、である。
その時、そのお父さんには悪いが自分は幸せだと思った。
その病院に通うのもせいぜいあと数日だったからだ。
数日で娘も退院できるからだ。
少しでも不幸だと思った事が恥ずかしかった。

そんな幸せを理解した上で、人間である以上更なる幸福を求めるのもまたその性。
チャレンジするのもまたよしだ。
仮に失敗したところでゼロではない。
すでにかなり幸せに包まれた現在の状態に戻るだけだからだ。
それはそれで大いに心掛けたい。

良い言葉に出会ったとつくづく思うのである・・・
  

2008年12月14日日曜日

漫画の効能Ⅱ

漫画は今や世界的にも日本のものは有名だ。
日本製品といえばずっと優秀な工業製品ばかりであったが、最近はゲームや漫画も立派に世界の一流品だ。
世の親たちの認識はどうであろうとそれは動かせない事実だ。

例えばメジャーで大成功しているイチローや松坂は、小学生の頃から野球選手を夢見て練習していたらしい。
小学生の頃から、「将来プロ野球の選手になりたい」と言って外で泥んこになっている子供に対して、顔をしかめる親は少ないだろう。
だが、「将来漫画家になりたい」と言って朝から漫画ばかり読んでいたら、その子は何と言われるだろう?
野球の例で考えれば、今や世界に誇る日本のカルチャーである漫画の世界で成功するためにはそのぐらい必要かもしれないのに、だ。

もし本当に成功したら、その人はサラリーマンでは絶対に手にする事のできない富や名声を手にする事ができるかもしれない。イチローや松坂のように、である。であれば小学生から毎日漫画ばっかり読んでいたって、ひょっとしたらそれは良い事なのかもしれない。でもたぶんそんな考え方をする親はほとんどいない気がする。

まだまだ漫画は認知されていないという事だ。
自分の子供たちもいずれもう少し大きくなったら漫画を読み始めるだろう。
そしたら何を読んでいるのか、まずはじっくり見てみたい。
そしてどんなところが好きなのか、読んでどう思うのか話をしてみたい。
さらに自分でも漫画を読み続けて、いい漫画があったら「これを読め」と言ってやれるようになりたい。

今だったら何だろう?
さしずめ、「バガボンド」とか「医龍」とか「リアル」なんかもいいかもしれない。
今からリストでも作っておこうかと思うのである・・・

★ 表紙は「バガボンド」
変わったタイトルだが英語で"vagabond"=漂流者という意味らしい。
宮本武蔵と佐々木小次郎の物語だ。
面白くてけっこうハマっている。
著者はあの「スラムダンク」の井上雄彦。
「スラムダンク」も大興奮のバスケ漫画でこれもお勧めだ。
手に汗握る展開は一見の価値ありだ。
    
     

2008年12月13日土曜日

漫画の効能Ⅰ

「漫画ばっかり読んでないで~」
と怒られた記憶は誰にでもあるのではないだろうか。
私は昔から漫画少年であったから、漫画は大好きであった。今でも好きで、毎週金曜日には1週間の労働のご褒美と称して、漫画喫茶に寄って漫画を1~2時間読んで帰るのを楽しみの一つとしているくらいだ。だから冒頭のセリフを聞くといまだに反発を感じてしまう。
漫画の何が悪いと言うのだ。

その意見の背景には、漫画=低俗なものというイメージがあるのだろう。それも否定はしない。かく言う自分も通勤電車で漫画を読んでいる若いサラリーマンを見ると、「他に読むものあるだろう」と思ってしまうし、いくら好きでも自分では絶対にしない。

でも漫画=悪という意見には徹底的に反論する。
漫画といっても、最近では「漫画でわかる日本国憲法」などのように、難しいものをわかりやすく理解させる手段として漫画を利用している例もある。(個人的にはこっちの方が問題だと思う、漫画でしか理解できなくなるのではないかと思うからだ)それに「はだしのゲン」などは文部省のお墨付きだ。要は漫画そのものというよりも中味の問題だろう。 

だが、その中味でさえけちをつけるのいかがなものか。
およそ「物語り」としては漫画だろうが、小説だろうが映画だろうが同じである。
ただその表現方法が違うだけだ。
小説だってそもそも低俗な読み物とされていたから「小」説なのだ。
すぐれたストーリーであれば、漫画でも感動や興奮を映画や小説と同じように味わえるし、たくさんの影響を受ける事だってある。

例をあげよう。
「コブラ」という漫画がある。
私の中では数ある漫画の中で最高傑作と思っている漫画である。
中学の時から読み始め、今でも手放せずに新刊がでるたびに買い揃えている。
宇宙海賊コブラのアクションアドベンチャーなのだが、少年誌には似合わない大人のストーリーなのだ。 

ある時、場末の惑星のさらに場末の酒場にコブラがやってくる。
砂埃とたばこの煙が充満し、荒くれ異星人たちの喧騒に満ちた昔の西部劇にでてくるような店内で、一人の美女がピアノを弾いている。
その美女に向かってコブラが話しかける。

「こんなところでショパンが聞けるとは思わなかったな」
それに対する美女の答えがイケている。
「それをわかる人がいるとも思わなかったわ」
なんて大人な会話なのだろうと、その時思春期の多感な私は思ったのである。

以来、そんな「大人な会話」ができるようになりたいと、ショパンを聞くようになった。
いざそんな機会があった時に、ショパンがわからなかったらシャレにならないからだ。
さらにもしもその時弾いている曲がドビッシーだったらと考え、ドビッシーも聞くようになった。
まさか「ショパンにしてくれ」とリクエストもできまい。
そうして、親に言われても絶対聞かないショパンやドビッシーを聞きまくったのである。
(残念ながらその成果を試せる機会にはいまのところ『まだ』巡り合っていない)
これぞ漫画の効能である。

子供の頃、数多く買いためていた漫画本も、大半を処分してしまった。
だが、この『コブラ』はいまでも大事に手元に置いてある。
たかが漫画であるが、ピンチにあっても余裕の笑みを浮かべていられるコブラの姿は、今でも私の理想像の一つなのである・・・
    

2008年12月9日火曜日

アフガンの男

フレデリック・フォーサイスの最新刊『アフガンの男』 を読んだ。
フレデリック・フォーサイスといえば、高校生の頃初めて「ジャッカルの日」を読んで虜になった作家である。
それまでこんなに面白いストーリーには出会った事がなかったからだ。

読み始めたはいいが止める事ができない。
朝起きてすぐ読む。
朝食はそこそこにかき込んで、学校へ行って着くが早いか読み始め、もちろん授業中も隠れて読んだ。
500ページもの大作だが読み終わってしばし脱力した。

その後、第2作「オデッサ・ファイル」を読んで衝撃のラストに圧倒された。
第3作「戦争の犬たち」も間髪入れずに購入した。
とにかくそれまでのスリラーものがまったく陳腐化したのだ。

以来フォーサイスの作品は欠かさず読んでいる。
最初の衝撃ほどのものはなかったが、その後に続いた「悪魔の選択」以後の作品も十分なエンターテイメントだった。
そして久しぶりに読んだのがこれ。

これはなかなかの作品だ。
初期の頃に漂っていた緊迫感が全編に溢れ、思わず読み耽ってしまった。
なんといってもストーリーの面白さに尽きるのだが、綿密な取材に基づいているからなのだろう、圧倒的なリアリティが凄いのだ。
この一冊を読むとアラブテロ一派の思考回路が理解できるのだ。
へたな新聞などまったく読む必要がない。
ニュースも教科書も必要ない。
現代史の問題を考えたければこの本があればいい。

ハリウッド映画の陳腐なハッピーエンドものとは違うイギリス風味のストーリー。
フォーサイスを読まずして何を読むのか、知らない人は人生を確実に損していると思わざるを得ないのである・・・

   

2008年12月4日木曜日

北風と太陽

北風と太陽のお話は誰もがよく知っている。
童話というより教訓として使われる事の方が多いような気がする。

「どっちが強いか」で争った北風と太陽。
ならばとそれを決める事になった。
結果はご存知の通り。
 
なぜ北風は負けたのか?
「太陽の方が強かったから」ではない。
北風の戦略ミスだ。
闘うフィールドを間違えたのだ。
 
教訓を聞いた人は誰もが自分は北風ではないと思う。
しかし、闘うフィールドを間違えたが為に実力を発揮できないで負ける人は沢山いる。
北風の事を笑えない人はたくさんいるのである。
 
では北風はどうすればよかったのか?
答えは簡単だ。
私なら太陽に一敗地まみれた後、すかさずリターンマッチを申し入れる。
「もう一回やろう!今度はあの旅人に上着を着させる勝負だ!」
 
太陽はバカの一つ覚えで燦燦と照りつけるが、旅人は上着どころか下着一枚になる。
次に北風がさっと吹きつけると旅人は身震いして上着を着込む。
これで1勝1敗だ。
 
最後の勝負も当然北風から仕掛ける。
最後はあの帽子を脱がした方が勝ちだ。
日差しが強くなれば帽子は脱がない。
そして一瞬にして帽子を吹き飛ばせば北風は勝つ事ができる。
 
そう、相手に勝つにはきちんと戦略を立てて臨まないといけない。
「敵を知り己を知れば百戦危うからず」(孫子)なのである。
いや、実に大事な教訓だと思うのである・・・