2019年7月31日水曜日

勉強すべき時


我が家では私と妻との間で子どもの教育方針について意見の相違がある。妻はとにかく将来に備えて「何よりも勉強が大事」と教育に力を入れる。現在中学2年の息子に対しても、小学生の頃からベネッセの通信教育をやらせ、中学に入って以降は比較的不得意な理科系科目について塾に通わせている。それに加え、英語塾にも通わせている。それはもちろん、受験を意識したもので、事実「良い高校に入れば良い大学に行けるし、良い大学に行ければ良い会社に就職できて将来も困らないだろう」という考えである。その路線を歩んでいれば、たとえその通りでなくても「選択肢が広がる」と考えているようである。

その考えはわからなくもないが、受験がすべてというのは親としての「思考停止」に他ならないと思う。「いい学校へ行かせれば何とかなる」という我々が学生時代であった30年以上前から変わらない思考方法である。ところが人生山あり谷あり。いい学校に行っても馴染めずにドロップアウトすることもあるし、東証一部上場企業に入社したって会社が潰れるかもしれないし、鬱で出社できなくなるかもしれない。勉強も大事だが、精神的なタフさも必要であり、そうしたことも視野に入れておかなければいけない。それに勉強はマラソン同様の長距離走だという視点も忘れてはならない。

小学生の頃、クラスに「天才」と言われる友人G君がいた。学校の成績は飛び抜けて良くて、とても足元にも及ばないとみんな思っていた。ある時、G君の家に遊びに行ったところ、本棚に並ぶ参考書に圧倒されてしまった。それに刺激を受け、家に帰って親に同じ参考書を1冊だけ買ってもらったが、悲しいかな三日坊主であった。G君は私立の中学に進学し、我々とは違う世界へ行ってしまった。その後、風の便りにG君の話を聞いたが、大学は東大ではなく、普通の私立大学であった。

偏差値レベルだけが大学の価値を決めるわけではもちろんない。しかしながら、G君の進学した大学なら「天才」でなくても行けるのである。要はいくら小中学生の頃に塾に通って成績が良くても、それがずっと続くとは限らないわけである。私のように小学校から中学、高校と少しずつ力をつけて最後は1年間死に物狂いに勉強して塾にも予備校にも通うことなく難関を突破した立場からすると、小中学生の頃から塾に通わせるのは誠にバカげているとしか思えない。妻よりも私の方が、「受験実績」という点でははるかに上にあるのであるが、そんな「経験者」の話に聴く耳持たない我が妻が、何も考えず我が子を塾へ通わせているのを見るのには忸怩たる思いがある。

息子は中学1年生の間、学年でトップクラスの成績を誇り、成績表にはずらりと「5」(5段階評価)が並んでいたが、この1学期の成績表には異変が生じ、何と「5」と「4」が半々となった。妻は逆上して息子に「取り戻せ」と言っているが、私は密かに自分の中学3年間の通知表(「5」と「4」が半々+「3」も少々)を見せて、「今は勉強などそこそこやっていればいい」と告げた。勉強はマラソンであり、今はトップで走る必要はないと。G君の話もしたし、勉強より今は野球をやるべきであり、本を読めと。「家に帰って勉強する暇があったら素振りしろ」と伝えた。それがかつての受験戦争勝者のアドバイスである。

この夏、妻は息子の尻を叩くことに余念がないだろうが、これから息子が大好きな高校野球が始まるし、私は私で息子を勉強から遠ざけようと企んでいる。場合によっては宿題なんてやる必要がないとさえ思う。勉強は長く続くマラソンであり、大学を卒業してそこで終わりではない。社会人になってもその時々で必要な勉強というものがある。仕事で疲れて帰って来たからと言ってやらなくていいというものではない。その時、必要なのは無理なく勉強を継続できる力であり、今飛ばしてG君のように失速してしまっては何にもならないのは言うまでもないことである。

塾へ行かせればいいとだけ考えている妻の目を盗みながら、息子には自分が大事だと思うことをしっかり伝えよう、そして自分で考えて行動させようと思うのである・・・

Erik LindstromによるPixabayからの画像 


【本日の読書】
 
   
   

2019年7月28日日曜日

後悔もまた人生


幸せになりたいならば、「あの時ああしていれば」と言う代わりに、 「この次はこうしよう」と言うことだ。
スマイリー・ブラントン(精神科医)
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【大学進学に関する調査~大学受験をやり直せるなら、志望校選択でチェックすること】
 1位:学べる内容・目指せる資格 64.9%
 2位:学校の立地・周辺環境 64.4%
 2位:学内の雰囲気 55.0%
 4位:就職率・就職先 48.3%
 5位:偏差値 37.7%
 6位:カリキュラム・授業科目 31.5%
 6位:学費・奨学金制度 31.5%
 8位:知名度 30.5%
ディスコ社調査201812

人生「あの時ああしていれば」ということは多々あるもの。何事も一度経験してみればこそいろいろとわかることもある。上記は20193月卒業予定の大学4年生835人に行なった調査だというが、65%の学生が「学べる内容・目指せる資格」をチェックしていれば良かったと思っているらしい。入る前にはわからなかったということなのだろう。あるいは、そういう意識がなかったのかもしれない。人は振り返ってみてこそ、選ばなかった道が、あるいは歩き方が見えるものである。

自分自身を振り返ってみると、大学を選んだ理由は、「都内の国公立法学部」という点で探した結果であった。親に経済的な負担を掛けたくなかったので、「自宅から通える学費の安い大学=都内の国公立大学」という基準は絶対であり、これでほとんど選択肢はなくなってしまった。法学部にしたのは、映画『ジャスティス』を観て将来は弁護士になろうと何となく思ったからである。今から思えば、当時は自分なりに考え抜いた結果であり、それはそれで良かったと思う。

結果的に弁護士になることなく普通に就職したが、それは法律の世界は自分の性格にマッチしていないことがわかったというもので、それは実際に勉強してみて初めて法律というものがどういうものかわかったもので、「やってみてわかる」ものである以上、後悔しても仕方がない。むしろそれを後悔するような思考回路は私にはない。ただ一方で、純粋に制約条件を考えずに大学で学びたかったことは何かと問われれば、それは「文学か哲学」というのは迷いなく答えられるところである。

なぜ文学か哲学かと問われれば、両方とも純粋に好きだからと答えるところである。文学については、もともと小説が好きというところが大きいが、そういう小説などを題材としてどんな事を学ぶのか、は大いに興味のあるところである。ただ本を読むだけでなく、専門家ならではの着眼点や研究材料があるのかもしれないし、上辺のストーリーだけでなく、深く幅広く扱うならそれに触れてみたいと思ったのである(今でも思う)。哲学は哲学者の著作は読んでもチンプンカンプンなことが多いが、それが理解できる方法を学べるなら是非学びたいと思ったのである(今でも思う)。

なぜ、そういう思いがあったのに法学部を選んだのかと問われれば、それは「食っていけない」という話をされたことがやっぱり大きいだろう。実際、文学部(哲学科も文学部に含まれるようである)を出ても就職はないなんて噂も聞こえてきていたし、社会人になってからの事を見据えた学部を選ぶべきだという空気があったからである。今から思えばそんな空気なんか無視していれば良かったと思うが、それこそ「振り返ってみればわかる道」なのだろう。

今、もしも自分の子供が大学進学を控えて相談に来たら何と答えるだろう。例えば文学部のような学部と就職に良さそうな経済学部のような学部とである。その時は多分明確な答えは言わないと思う。なぜならそれこそ自分で決めるべき道であり、後から振り返ってみた時に「あの時別の道を選んでいたら」と思わないようにしっかりと判断すべきことである。ただし、無下に突き放すのではなく、自分の体験談を語って聞かせることはしたいと思う。それを自分の判断の参考にしてもらいたいのである。

考えてみれば、先人にもたくさん後悔や気づきはあるはずで、それらを自分の選択に活かせたら随分と後悔の少ない人生になりそうであるが、それでもやっぱりそれなりに人は「あの時ああしていれば」と思うものなのかもしれない。それはそれで仕方がないものの、「この次はこうしよう」と切り替えたいものである。後悔もまた人生の一部なのかもしれないと思うのである・・・



【本日の読書】
 
   
   

2019年7月21日日曜日

2019年参院選雑感

今回は何となく盛り上がりに欠けるような気がしていた参議院選挙であるが、例によってきっちり投票を済ませてきた。前回はきちんと初投票を済ませた我が娘だが、今回はもう興味をなくして、ママ同様に棄権してしまった。18歳になって手にした選挙権ももう興味の対象から外れてしまったらしい。あるのが当たり前になると、人間はもう大事にしなくなるものであるなと改めて思う。

しかし、娘の立場に立ってみると、「誰に投票したらいいのかわからない」「面倒臭い」という理由があるようである。たとえ行ったとしても、選挙会場に行ってその場で目についた候補者や政党に行き当たりばったりで投票することになるが、それが果たしていいのかどうか。そんなのでも「行った方がいい」と言えるのだろうか。今回の投票率はわからないが、おそらくそんなに高くはないだろう。高ければ高いほどいいのか、やはりみんなもっと選挙に行くべきだとは思うが、行かない人を非難できるのだろうか。なかなか難しい問題だと思う。

私の場合、一応各候補の主張には目を通す。たとえそれが絶対に投票しない共産党であってもである。それぞれの主張は考えるネタになる。共産党は「最低賃金時給を1,500円に」と主張する。だが、中小企業には人件費の上昇はかなりイタイ。そこは支援金を抜本的に増やすというが、すべての中小企業に支給されるのか、そのための財源は、と疑問がわく。「減らない年金」と耳当たりだけは心地よいが、裏付けは大丈夫なのかと思う。

消費税増税反対は各党主張しているが、それでも財源に言及しているのは(選挙公報上では)共産党だけ。増税反対は確かに魅力的だが、財源を確認しないと後で(年金生活に入ってから)ツケを回されても困る。主張にある程度筋が通っているという意味ではいいと思うが、もう少し深い考察が必要な気がする。例えば財源として大企業に対する課税強化について挙げているが、企業の国際競争力、海外企業に対する投資誘致という点ではマイナスになるわけで、その点をどう考えているのかは興味深い。

娘のような「誰に投票していいかわからない」人たちがみんな選挙に行くようになると、選挙結果は毎回コロコロ変わる気がする。各政党ともますますポピュリズムに走り、目先の心地よい主張しか掲げなくなるのではないだろうか。今回で言えば、「年金増額」「消費税増税反対」のような。その結果、「長期的視点に立った政策」が取られなくなる懸念が出てくると思う。あたかも四半期決算の導入によって、アメリカの企業が短期的な株価上昇施策しかやらなくなっているように。

低投票率は何とも嘆かわしいと思うが、本当のところはどうなのだろうか。よく考えた少数の人の意見で国を動かすべきなのか、なぁんにも考えない人たちも含めてとにかく高投票率をよしとするのか、果たしてどちらがいいのだろうかはこの頃よくわからない。安倍政権を倒したい人は、選挙に行かない人たちは安倍政権を利するだけだと嘆いているが、果たしてそうなのだろうか。投票率が低くても、選挙に行く人だけで政治家を選んでいけば、それはそれでいいような気もする(現実それしかないのであるが)。今日のところは、選挙に行かない我が家の妻と娘を「代表して」私が投票してきたのだと思うことにしようと思う。私の票は3票分なのである。

その安倍政権であるが、今回の結果も安泰そうである。いろいろと批判はあるが、安倍総理は外交面ではかなりの成果を挙げていると思う。あまりニュースでその意義が説明されていないが、どうしてあまり評価の声を聞かないのか不思議な気がする。批判すべき点もあると思うが、総じて自民党に変わりうる野党がないというのが現状である。当面はこれでいいと思う。ただし、個人的にはもっと対抗しうる政党が育って欲しいと思うゆえに、今回はあえて自民党には投票しなかった。私の1票など、丸川珠代さんにも自民党にも不要だろうからである。

 自分の1票を何に投じるか。全体的にはちっぽけな1票であり、影響力は極めて極小である。しかしながら、「3票分」であるし、何より自分の大事な1票なので、そこはこだわりたい。というわけで、某政党とその候補者に投じてきた。幸い、新聞の各候補の獲得投票「数」は1票単位まできちんと表示される。そこに自分の1票を見出して満足したいと思うのである・・・