2019年7月31日水曜日

勉強すべき時

我が家では私と妻との間で子どもの教育方針について意見の相違がある。妻はとにかく将来に備えて「何よりも勉強が大事」と教育に力を入れる。現在中学2年の息子に対しても、小学生の頃からベネッセの通信教育をやらせ、中学に入って以降は比較的不得意な理科系科目について塾に通わせている。それに加え、英語塾にも通わせている。それはもちろん、受験を意識したもので、事実「良い高校に入れば良い大学に行けるし、良い大学に行ければ良い会社に就職できて将来も困らないだろう」という考えである。その路線を歩んでいれば、たとえその通りでなくても「選択肢が広がる」と考えているようである。

その考えはわからなくもないが、受験がすべてというのは親としての「思考停止」に他ならないと思う。「いい学校へ行かせれば何とかなる」という我々が学生時代であった30年以上前から変わらない思考方法である。ところが人生山あり谷あり。いい学校に行っても馴染めずにドロップアウトすることもあるし、東証一部上場企業に入社したって会社が潰れるかもしれないし、鬱で出社できなくなるかもしれない。勉強も大事だが、精神的なタフさも必要であり、そうしたことも視野に入れておかなければいけない。それに勉強はマラソン同様の長距離走だという視点も忘れてはならない。

小学生の頃、クラスに「天才」と言われる友人G君がいた。学校の成績は飛び抜けて良くて、とても足元にも及ばないとみんな思っていた。ある時、G君の家に遊びに行ったところ、本棚に並ぶ参考書に圧倒されてしまった。それに刺激を受け、家に帰って親に同じ参考書を1冊だけ買ってもらったが、悲しいかな三日坊主であった。G君は私立の中学に進学し、我々とは違う世界へ行ってしまった。その後、風の便りにG君の話を聞いたが、大学は東大ではなく、普通の私立大学であった。

偏差値レベルだけが大学の価値を決めるわけではもちろんない。しかしながら、G君の進学した大学なら「天才」でなくても行けるのである。要はいくら小中学生の頃に塾に通って成績が良くても、それがずっと続くとは限らないわけである。私のように小学校から中学、高校と少しずつ力をつけて最後は1年間死に物狂いに勉強して塾にも予備校にも通うことなく難関を突破した立場からすると、小中学生の頃から塾に通わせるのは誠にバカげているとしか思えない。妻よりも私の方が、「受験実績」という点でははるかに上にあるのであるが、そんな「経験者」の話に聴く耳持たない我が妻が、何も考えず我が子を塾へ通わせているのを見るのには忸怩たる思いがある。

息子は中学1年生の間、学年でトップクラスの成績を誇り、成績表にはずらりと「5」(5段階評価)が並んでいたが、この1学期の成績表には異変が生じ、何と「5」と「4」が半々となった。妻は逆上して息子に「取り戻せ」と言っているが、私は密かに自分の中学3年間の通知表(「5」と「4」が半々+「3」も少々)を見せて、「今は勉強などそこそこやっていればいい」と告げた。勉強はマラソンであり、今はトップで走る必要はないと。G君の話もしたし、勉強より今は野球をやるべきであり、本を読めと。「家に帰って勉強する暇があったら素振りしろ」と伝えた。それがかつての受験戦争勝者のアドバイスである。

この夏、妻は息子の尻を叩くことに余念がないだろうが、これから息子が大好きな高校野球が始まるし、私は私で息子を勉強から遠ざけようと企んでいる。場合によっては宿題なんてやる必要がないとさえ思う。勉強は長く続くマラソンであり、大学を卒業してそこで終わりではない。社会人になってもその時々で必要な勉強というものがある。仕事で疲れて帰って来たからと言ってやらなくていいというものではない。その時、必要なのは無理なく勉強を継続できる力であり、今飛ばしてG君のように失速してしまっては何にもならないのは言うまでもないことである。

塾へ行かせればいいとだけ考えている妻の目を盗みながら、息子には自分が大事だと思うことをしっかり伝えよう、そして自分で考えて行動させようと思うのである・・・


Erik LindstromによるPixabayからの画像 


【本日の読書】
 直感と論理をつなぐ思考法 VISION DRIVEN - 佐宗 邦威 堕落論 (280円文庫) - 坂口安吾





2019年7月28日日曜日

後悔もまた人生

幸せになりたいならば、「あの時ああしていれば」と言う代わりに、 「この次はこうしよう」と言うことだ。
スマイリー・ブラントン(精神科医)
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【大学進学に関する調査~大学受験をやり直せるなら、志望校選択でチェックすること】
 1位:学べる内容・目指せる資格 64.9%
 2位:学校の立地・周辺環境 64.4%
 2位:学内の雰囲気 55.0%
 4位:就職率・就職先 48.3%
 5位:偏差値 37.7%
 6位:カリキュラム・授業科目 31.5%
 6位:学費・奨学金制度 31.5%
 8位:知名度 30.5%
ディスコ社調査201812

人生「あの時ああしていれば」ということは多々あるもの。何事も一度経験してみればこそいろいろとわかることもある。上記は20193月卒業予定の大学4年生835人に行なった調査だというが、65%の学生が「学べる内容・目指せる資格」をチェックしていれば良かったと思っているらしい。入る前にはわからなかったということなのだろう。あるいは、そういう意識がなかったのかもしれない。人は振り返ってみてこそ、選ばなかった道が、あるいは歩き方が見えるものである。

自分自身を振り返ってみると、大学を選んだ理由は、「都内の国公立法学部」という点で探した結果であった。親に経済的な負担を掛けたくなかったので、「自宅から通える学費の安い大学=都内の国公立大学」という基準は絶対であり、これでほとんど選択肢はなくなってしまった。法学部にしたのは、映画『ジャスティス』を観て将来は弁護士になろうと何となく思ったからである。今から思えば、当時は自分なりに考え抜いた結果であり、それはそれで良かったと思う。

結果的に弁護士になることなく普通に就職したが、それは法律の世界は自分の性格にマッチしていないことがわかったというもので、それは実際に勉強してみて初めて法律というものがどういうものかわかったもので、「やってみてわかる」ものである以上、後悔しても仕方がない。むしろそれを後悔するような思考回路は私にはない。ただ一方で、純粋に制約条件を考えずに大学で学びたかったことは何かと問われれば、それは「文学か哲学」というのは迷いなく答えられるところである。

なぜ文学か哲学かと問われれば、両方とも純粋に好きだからと答えるところである。文学については、もともと小説が好きというところが大きいが、そういう小説などを題材としてどんな事を学ぶのか、は大いに興味のあるところである。ただ本を読むだけでなく、専門家ならではの着眼点や研究材料があるのかもしれないし、上辺のストーリーだけでなく、深く幅広く扱うならそれに触れてみたいと思ったのである(今でも思う)。哲学は哲学者の著作は読んでもチンプンカンプンなことが多いが、それが理解できる方法を学べるなら是非学びたいと思ったのである(今でも思う)。

なぜ、そういう思いがあったのに法学部を選んだのかと問われれば、それは「食っていけない」という話をされたことがやっぱり大きいだろう。実際、文学部(哲学科も文学部に含まれるようである)を出ても就職はないなんて噂も聞こえてきていたし、社会人になってからの事を見据えた学部を選ぶべきだという空気があったからである。今から思えばそんな空気なんか無視していれば良かったと思うが、それこそ「振り返ってみればわかる道」なのだろう。

今、もしも自分の子供が大学進学を控えて相談に来たら何と答えるだろう。例えば文学部のような学部と就職に良さそうな経済学部のような学部とである。その時は多分明確な答えは言わないと思う。なぜならそれこそ自分で決めるべき道であり、後から振り返ってみた時に「あの時別の道を選んでいたら」と思わないようにしっかりと判断すべきことである。ただし、無下に突き放すのではなく、自分の体験談を語って聞かせることはしたいと思う。それを自分の判断の参考にしてもらいたいのである。

考えてみれば、先人にもたくさん後悔や気づきはあるはずで、それらを自分の選択に活かせたら随分と後悔の少ない人生になりそうであるが、それでもやっぱりそれなりに人は「あの時ああしていれば」と思うものなのかもしれない。それはそれで仕方がないものの、「この次はこうしよう」と切り替えたいものである。後悔もまた人生の一部なのかもしれないと思うのである・・・




【本日の読書】
 マンションを買うなら60㎡にしなさい - 後藤 一仁 罪の声 (講談社文庫) - 塩田武士






2019年7月21日日曜日

2019年参院選雑感

今回は何となく盛り上がりに欠けるような気がしていた参議院選挙であるが、例によってきっちり投票を済ませてきた。前回はきちんと初投票を済ませた我が娘だが、今回はもう興味をなくして、ママ同様に棄権してしまった。18歳になって手にした選挙権ももう興味の対象から外れてしまったらしい。あるのが当たり前になると、人間はもう大事にしなくなるものであるなと改めて思う。

しかし、娘の立場に立ってみると、「誰に投票したらいいのかわからない」「面倒臭い」という理由があるようである。たとえ行ったとしても、選挙会場に行ってその場で目についた候補者や政党に行き当たりばったりで投票することになるが、それが果たしていいのかどうか。そんなのでも「行った方がいい」と言えるのだろうか。今回の投票率はわからないが、おそらくそんなに高くはないだろう。高ければ高いほどいいのか、やはりみんなもっと選挙に行くべきだとは思うが、行かない人を非難できるのだろうか。なかなか難しい問題だと思う。

私の場合、一応各候補の主張には目を通す。たとえそれが絶対に投票しない共産党であってもである。それぞれの主張は考えるネタになる。共産党は「最低賃金時給を1,500円に」と主張する。だが、中小企業には人件費の上昇はかなりイタイ。そこは支援金を抜本的に増やすというが、すべての中小企業に支給されるのか、そのための財源は、と疑問がわく。「減らない年金」と耳当たりだけは心地よいが、裏付けは大丈夫なのかと思う。

消費税増税反対は各党主張しているが、それでも財源に言及しているのは(選挙公報上では)共産党だけ。増税反対は確かに魅力的だが、財源を確認しないと後で(年金生活に入ってから)ツケを回されても困る。主張にある程度筋が通っているという意味ではいいと思うが、もう少し深い考察が必要な気がする。例えば財源として大企業に対する課税強化について挙げているが、企業の国際競争力、海外企業に対する投資誘致という点ではマイナスになるわけで、その点をどう考えているのかは興味深い。

娘のような「誰に投票していいかわからない」人たちがみんな選挙に行くようになると、選挙結果は毎回コロコロ変わる気がする。各政党ともますますポピュリズムに走り、目先の心地よい主張しか掲げなくなるのではないだろうか。今回で言えば、「年金増額」「消費税増税反対」のような。その結果、「長期的視点に立った政策」が取られなくなる懸念が出てくると思う。あたかも四半期決算の導入によって、アメリカの企業が短期的な株価上昇施策しかやらなくなっているように。

低投票率は何とも嘆かわしいと思うが、本当のところはどうなのだろうか。よく考えた少数の人の意見で国を動かすべきなのか、なぁんにも考えない人たちも含めてとにかく高投票率をよしとするのか、果たしてどちらがいいのだろうかはこの頃よくわからない。安倍政権を倒したい人は、選挙に行かない人たちは安倍政権を利するだけだと嘆いているが、果たしてそうなのだろうか。投票率が低くても、選挙に行く人だけで政治家を選んでいけば、それはそれでいいような気もする(現実それしかないのであるが)。今日のところは、選挙に行かない我が家の妻と娘を「代表して」私が投票してきたのだと思うことにしようと思う。私の票は3票分なのである。

その安倍政権であるが、今回の結果も安泰そうである。いろいろと批判はあるが、安倍総理は外交面ではかなりの成果を挙げていると思う。あまりニュースでその意義が説明されていないが、どうしてあまり評価の声を聞かないのか不思議な気がする。批判すべき点もあると思うが、総じて自民党に変わりうる野党がないというのが現状である。当面はこれでいいと思う。ただし、個人的にはもっと対抗しうる政党が育って欲しいと思うゆえに、今回はあえて自民党には投票しなかった。私の1票など、丸川珠代さんにも自民党にも不要だろうからである。

 自分の1票を何に投じるか。全体的にはちっぽけな1票であり、影響力は極めて極小である。しかしながら、「3票分」であるし、何より自分の大事な1票なので、そこはこだわりたい。というわけで、某政党とその候補者に投じてきた。幸い、新聞の各候補の獲得投票「数」は1票単位まできちんと表示される。そこに自分の1票を見出して満足したいと思うのである・・・






2019年7月20日土曜日

論語雑感 里仁第四(その1)

〔 原文 〕
子曰。里仁爲美。擇不處仁。焉得知。
〔 読み下し 〕
()()わく、()(じん)なるを()しと()す。(えら)んで(じん)()らずんば、(いずく)んぞ()なるを()ん。
【訳】
隣保生活には何よりも親切心が第一である。親切気のないところに居所をえらぶのは、賢明だとはいえない
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 論語において、「仁」は重要な概念である。その「仁」であるが、住むところ(ご近所)には必要であるということであり、そういう地域、近所を選んで住みなさいということである。「仁」とは、「人を思いやる気持ち」という意味であると説明されることがあるが、まぁそういう人たちが近所に住んでいるところであれば喜んで住みたいと誰もが思うだろう。

 さて、我が身を振り返ってみると、どうであろうか。今は練馬区に住んでいるが、ここに住もうと思ったのは、「仁」なるところであるからというわけではもちろんない。そもそもそういう観点で住むところを選んでいる人がどれだけいるかと言われれば、そんなにいないだろう。近所に住んでいる人たちがどんな人かなんて、住んでみなければわからない話である。せいぜい、家族や友人知人が住んでいて、勧められて引っ越すようなケースが当てはまるかもしれない程度だろう。

 私の場合、結婚を機にそれまで住んでいた千葉から練馬区に引っ越してきたのであるが、ここを選んだのは、「23区内かつなるべく郊外」という視点から探した結果であった。それまで行き来する機会があり、なんとなくこの沿線がいいなと思っていたこともあり、最初は隣の駅で探したのである。ところがこれといったものが見つからず、不動産屋の薦めるまま今の最寄り駅まで足を延ばしていくつか見に行ったところ、いいマンションを見つけたというわけである。

 それから9年間の借家暮らしを経て、そろそろ家を買おうかという時に、近所で7区画の土地の売り出しがあり、残っていた最後の1区画を買って家を建てた次第である。もちろん、その時は7区画の土地はすべて更地であり、当然どんな人が住んでいるかなどわからない。逆に言えば、その時の7軒はすべて「同期」入居という関係であり、今もその7軒で町内会の同じ班を形成している。

 7軒ともみんな家族構成は子供も含めて同じような年代。まぁ家を買おうというタイミングとしてはみんな同じようになるからかもしれない。みんな一斉に住み始めたので、変な習慣等もなく、その点では特段、変な気を使うこともなくまずまず問題のないご近所関係を築いている。既に出来上がっているご近所関係に後から参入するような場合では何かと気を使うかもしれないが、そういうのがないのが良いかもしれない。

 そんな近所関係が「仁」なるかと問われれば、まぁそれに近いものがあると言っていいだろう。男はどうしても仕事で日中いないので、奥様同士に比べたら「あいさつ程度の付き合い」なのかもしれない。ただ、何かあれば気軽に話ができるし、これまで近所付き合いで悩まされた経験はなく、住み心地の良いご近所さんと言える。「親切気のないところに居所をえら」んだのではないが、結果良ければすべて良しなのかもしれない。

 考えてみれば近所で揉めるほど厄介なものはないだろう。なにせ四六時中顔を合わせるわけであり、逃げるわけにはいかない。私の知人も隣人と敷地の境界線を巡り、わずか数センチで争っているが、傍で愚痴を聞いていても「大変だな」と思う。こんなことでストレスを抱えたくはないとつくづく思うし、それに引き換え我が家のご近所関係は良好であり、孔子の言うことも実感できる。

 田舎のように濃密な人間関係も煩わしいし、かと言って都会のマンションのように隣人すらどんな人かわからない(まぁみんながみんなそうではないと思うが)というのも味気ない。適度に付き合いがあって、適度に距離があるのがいいのではないかと思う。我がご近所さんも親父同士はもうちょっと付き合いがあってもいい気がする。男同士であればどこかで飲み会でもと思わなくもないが、わざわざ幹事を買って出るのも面倒で頭の中だけに留めている。

「里は仁なるをよしとする」という言葉は、そう考えてみると、やっぱり実にその通りだと思うのである・・・




【今週の読書】
 日本が売られる (幻冬舎新書) - 堤 未果 罪の声 (講談社文庫) - 塩田武士





2019年7月15日月曜日

オヤカク

ヤフーニュースを見ていたら、たまたま「オヤカク」なる言葉とその説明があった(【我が子の就活、オヤカクしますか 望む仕事と親の思い】7/14() 7:47配信)。「オヤカク」とは、記事によれば「内定者の親に企業が入社意向を確認することを指す造語だ」そうである。内定者の方でも、希望の就職先から内々定をもらったが、親に意見を求めたところ反対されて内定をキャンセルしたという例もあるという。個人的には「いい年こいて親はないだろう」と思わずにはいられない。

親に意見を聞くこと自体否定はしないが、問題はそのスタンスだ。自分で判断をするにあたり、どうしても判断材料に乏しいということはある。人生経験も短い中で、(ひょっとしたら)一生に関わる決断を下さないといけないわけであり、人生経験豊富な親に意見を求めるというのは悪くないし、むしろ好ましいかもしれない。ただ、それはあくまでも判断主体が「自分」というのが前提である。親の意見はあくまでも参考意見であり、自分で良しと思えば親が反対しようがやるだけの意思がないといけない。

記事だけでは個々の具体的なケースの実情はわからないからなんとも言えない。ただ、親に反対されて素直に「親がそう言うなら」という理由で従うなら問題である。要は「自分で決断できない子」であることの証であるからである。小学生の頃から親の言われるまま塾に行って勉強し、言われるがままの高校を受験し、大学もその調子で行ったような様子だといつまで経っても大事な決断はできないままになってしまう。そんな有様だと結婚相手も親の意見に左右される情けない人間になるだろう。

それに人生経験豊富といっても、親の経験は過去のものであり、あくまでも過去(にはうまくいった)の成功体験な訳で、たとえれば30年くらい前のOSで動いているパソコンなわけである。人によっては最新アプリを搭載しているかもしれないが、そのあたりは聞く側も意識しないといけない。それに子供の性格は親の性格とはまた異なる。親にはできても子供にはできないかもしれないし、その逆もまた然り。それに加え、将来のことはわからないという決定的な要因もある。JAL(実質的な)倒産するなんて30年前に我々が就職するときには誰も想像もしなかったことである。

そんなわけで、例えば自分が就活を迎えた時に子供から意見を求められたとしても、いいアドバイスができる自信がない。どこの企業にしろ「ここに入れば大丈夫」なんて企業はないし、「これがあれば大丈夫」なんていう資格があるわけでもない。まぁ医師免許くらいなら大丈夫かもしれないが、弁護士だってそれだけで大丈夫とは言い切れない。弁護士資格「も」あれば大丈夫とは言えるかもしれないが、弁護士だって食えない人はいるのである。

あえて言えば、「どんな状況においても生きていけるだけの力をつけよ」ということだろうか。それは何も資格を取るということではない。むしろ資格なんて「あれば何かの足しにはなる(ないよりマシ)」という程度である。一生懸命資格を取る勉強をしている人は多いが、そういう視点を持っていないと、残念な「勘違い君」になってしまう。資格を取ったらそれを「どう生かしていくか」を考えないと、社内での昇進になど欠片の役にも立たないだろう。

我が身を振り返ってみると、やっぱり「長期的視点」に決定的に欠けていたと思う。「今目の前のこと」をそれなりに一生懸命やってはいたが、「5年後の自分を想定して今何をやるべきか」といった視点はまったく持っていなかった。銀行の中で、さらにはもっと広い世界でうまくできなかったのはそんなところがあったかもしれない。考えてみれば、そんなアドバイスをもらえそうな先輩はたくさんいたわけであり、つくづくぼんやりしていたものだと反省するところ。それは我が子にはアドバイスしてあげたいところである。

それをしっかりと伝えられたなら、どこに就職しようがあまり大差ないとも言える。そのアドバイスが正しいかどうか、可能なら自分で若返って実践してみたいところである。親に意見を求めるなら、そうした「社会での生き方」のところでの参考意見だろうと思う。「どこの企業がいいか」なんて親に聞いてまともな意見が返ってくるわけがない。ましてや、記事中にあるような「近くに住んでほしい」なんて理由は尚更である。その企業が潰れたり、あるいは子どもが鬱になって出社できなくなったりということだってありうるわけである。

少子化で気になるのは、いつまでも子離れできない親、親離れできない子の組み合わせかもしれない。オヤカクで内定辞退するような子は、逆に企業にとっては採用しなくてよかったのかもしれない。何やら情けない風潮に思えてならない。我が子はつくづく、自分の足でしっかり大地を踏みしめられるような人間になるようにしたいと思うのである・・・





【今週の読書】
 ビッグ・クエスチョン 〈人類の難問〉に答えよう - スティーヴン・ホーキング, 青木 薫 下町ロケット ヤタガラス (小学館文庫) - 池井戸潤






2019年7月10日水曜日

視力

先日、毎年恒例の健康診断で視力検査があった。両目とも0.2というのがその結果。いいのか悪いのか、このところ微妙である。思い返せば小学生の頃は1.0あったのを覚えている。それから高校にかけて1.5になってそれを維持していたが、艱難辛苦の宅浪時代に一気に視力は衰え、二十歳の時に車の免許をとった時、初めて手にした免許証には見事に「眼鏡条件」の文字があった。それでも眼鏡をかけるのは運転時と授業を受ける時だけ。それ以外は裸眼でも困ることはなかった。

社会人になってさらに視力は衰え、遠くを見つめたりマッサージをしたりと努力をしたが回復することはなく、やがてコンタクトレンズを使うようになった。どうも長時間眼鏡をかけるということが心地良くなかったのである。誘われて始めたゴルフの時などは、やはり眼鏡よりコンタクトの方が良かった。なにせどこに飛んでいくかわからない小さなボールを追うのに裸眼ではどうにもならなかったのである。

40代になって眼鏡に切替えたが、その理由は「老眼」。手元の文字が見えなくなったのである。「遠近両用」という手もあったが、私の場合、老眼といっても裸眼で十分よく見えていたため老眼鏡は不要であり、手元を見る時にはすぐ外せる眼鏡の方が便利になり、コンタクトを卒業したというわけである。と言っても、週末のラグビーではやっぱりコンタクトが必要で、これは使い捨てのタイプを利用している。コンタクトもかつてから比べると随分使い勝手が良くなっている。

それにしても不思議なのは老眼。その昔、近視が老眼になるとそれぞれのデメリット(「遠くが見えない」と「手元が見えない」)が相殺されてかえって目が良くなるんじゃないかと思っていたものである。ところが、あに図らんや実際になってみれば眼鏡やコンタクトをすると、「遠くは見えるが手元は見えない」、裸眼だと「遠くは見えないが手元は見える」といった症状である。したがって、今は本を読む時やスマホを見る時は裸眼、パソコンやテレビを見る時は眼鏡と使い分けている。

結局のところ、近視と老眼とに同時になった場合、やっぱり手元が見える(=老眼が打ち消される)という効果はあるようである。コンタクトや眼鏡をした場合、手元が見えなくなるのがその証拠だろう。そう考えると、長い事煩わされてきた近視もメリットがあるじゃないかということになる。どちらがいいかと考えると、手元の文字を読むのに老眼鏡をかける苦労を考えれば、まだ今の状態の方がいいと思う。

それにしても、最近困るのは視力がどうやらコロコロ変わる事。ちょっと前までパソコンを使う時は眼鏡を使用していたが、それだと見にくくなってきた。度が合わなくなってきたのかと思うが、どうやら老眼の変化らしい。今は裸眼でパソコンを使う方が楽になってきている。それも加減が1週間おきくらいに微妙に変化する。その微妙な差はパソコンと顔の距離とで調整しているが、なんとも不便である。つくづく、目は大事だと思う。

これから体の老化も進んでいく。それはそれで仕方がないことではあるが、やっぱり視力と脳の働きだけはなんとか最後までもってもらいたいという気持ちは強い。足腰が不自由になって旅行になど行けなくなったとしても、目が見えて頭がはっきりしていれば、本も読めるし映画も観られる。ブログも続けられるし、物理的には狭い世界でも精神的には広い世界で過ごすことができるというもの。これは大事だと思う。

これから体の方もいろいろと衰えてくるのだろう。筋肉や視力、聴力等々。男の場合は自信の源となる大事な機能も衰える。どれも衰えれば不便であり、衰えに伴って気持ちもなえていきそうに思う。避けられないものだとしても、1日でも先送りできるように、大事にそして(効果があるなら)鍛えていきたいと思う。若い頃には感じもしなかったことであるが、諦めることなく意識していきたいと思うのである・・・




【本日の読書】
 世界のセレブが夢中になる 究極の瞑想 - ボブ・ロス, 大嶋 祥誉(監訳), 桜田 直美 苦しかったときの話をしようか - 森岡 毅





2019年7月7日日曜日

年金について思う

参議院選挙が告示され、選挙戦がスタートした。今回は個人的にはあまり興味がわかない(と言っても投票に行くのは当然である)。争点となっていることにあまり興味を持てないというのが正直なところである。唯一、年金問題については、我が事として関心を持っている。と言っても例の「2,000万円けしからん」という話ではなく、「自分は大丈夫か」という観点である。

金融庁の金融審議会が「高齢社会における資産形成・管理」という報告書を公表した問題。そこでは高齢夫婦無職世帯(夫65歳以上、妻60歳以上の夫婦のみの無職世帯)について、公的年金の受給があっても定年後に夫婦で95歳まで生きる場合には約2,000万円の貯蓄が必要となると指摘したのは、国民に意識を持たせるいいヒントになったと思う。野党がなんで噛み付いているのかは理解不能であるが、自分はどうなのだろうとまず思う。

試算では、月額19万円の公的年金を受け取る前提としているようであるが、住宅ローンの返済が終わった家があって、病気等が何もなければまず生活していけるレベルではないだろうかと思う。試算では毎月50,000円の赤字が出る想定であるが、どういう計算根拠なのかちょっと興味深い。自分の場合は、サラリーマンなので厚生年金がもう少し出る計算である。とは言え、この先ずっと夫婦生活を続けるとは限らないし、独り身になった時のことを考えると安心はできない。今後のことだから真剣に考えようと思っても、実は不確定要素が多過ぎてなかなか考えられないというのが正直なところである。

今後の収支については、給料を中心とした日常の収支はともかくとして、それ以外での大きなお金の問題がまず不確定要素としてある。親がいくら残してくれるの(これはプラスマイナス0ならありがたいが、介護費用等のマイナス資産となるのが心配なところ)があるし、夫婦生活を解消した場合の自分が住む家の確保(買うならその資金、借りるなら家賃)の問題がある。日々の生活費だとか旅行くらいにはいけるのかという細かい問題はともかく、大きなお金の不確定要素が将来予測のネックになる。

大きなお金の不安を除いたところでは、やはり「いつまで稼げるのか」「いつまで生きるのか」という不確定要素が大きい。実際、「いくら必要か」は、「いつまで生きるのか」「それまで健康で生きるのか」によって大きく変わってくる。それは個々人によって異なるので、一律に試算していくらとできるものではない。ならどうするか。答えは1つ。「できるだけ収入を増やす」しかない。

「収入を増やす」には、「稼ぐ」と「増やす」がある。「稼ぐ」については、幸い自分の場合、仕事では定年退職がないので、健康さえ維持できればとりあえず働き続けられる。肉体労働ではないし、(土日のテレワークはあるが)定時勤務が普通なので体が動くうちは働ける。これでいけるところまで行く。「増やす」は、投資に少し力を入れて資産形成をすることである(裏目に出るリスクもあるが、そこは元銀行員の状況判断だ)。そして働けなくなる日までにその両輪で蓄えておくのである。

思えば、大学を出て就職した時、定年の60歳まで36年も「働かないといけない」のかと気が遠くなる感じがした。それでも一浪だったからストレートの学生より1年短く済んだなどとお気楽に考えていたものである。今思えば共産党的な思考である。おそらく、当時今の「2,000万円問題」が発生していたら、「国民に2,000万円貯めろという政府の言いぐさは無責任だ」「年金の破綻をまず謝れ」という野党のピントの外れた言いがかりに大いに賛同していたに違いない。

以前はいち早くリタイアして悠々自適の生活をと考えていたが(それは現実的な自分の稼ぐ力からして無理であることは別として)、今ではより長く働きたいとの考えに変わっている。それはやっぱり会社に行って仲間と交流するのはいい刺激になるし、あれこれと会社の業績向上を考えて動くのは楽しいし、家にいて暇を持て余すよりもはるかにいい。当然、いろいろとトラブルや困難はありうるだろうが、それすらも克服した時の快感を思えば何という事もない。労働があるからこそ週末が楽しいし、楽しい週末があるからこそ日曜日の夜も翌日のことを考えて楽しく寝られる。

結局のところ公的年金制度がどの程度機能しているのかはわからないが、考えるべきはまず自助努力であろう。外資系企業に勤める友人は「自分には年金(厚生年金も企業年金も)がない」と語っていた。たぶんその分もらっているのだろうが、そういう人もいるわけであり、「年金頼み」というのも情けない気がする。外資系の知人のようにもらっていなくとも、気概だけは持っていたいものである。老後のことは確かに心配ではあるものの、それは自助努力で何とかしたい。自分で稼ぎ、貯蓄をするなりして備えたいと思う。イタズラに年金制度に頼ったり、ましてや2,000万円不足だからといって文句を言うのはお門違いだろう。

もともと自立心が強くて高校生になってから親に小遣いをもらわなかったくらいである。その精神で最後まで(金銭面だけでも)人に頼らずに生きていきたいと思うのである・・・




【今週の読書】
 世界のセレブが夢中になる 究極の瞑想 - ボブ・ロス, 大嶋 祥誉(監訳), 桜田 直美 苦しかったときの話をしようか - 森岡 毅






2019年7月3日水曜日

論語雑感 八佾第三(その26)

〔 原文 〕
子曰。居上不寛。爲禮不敬。臨喪不哀。吾何以觀之哉。
〔 読み下し 〕
()()わく、(かみ)()(かん)ならず、(れい)()して(けい)せず、()(のぞ)んで(かな)しまずんば、(われ)(なに)(もっ)てか(これ)()んや。
【訳】
人の上に立って寛容でなく、礼を行なうのに敬意をかき、葬儀に参列しても悲しい気持になれない人間は、始末におえない人間だ
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 論語の言葉も当たり前すぎる言葉が出てくることが多いが、この言葉もその一つ。当たり前すぎて何のコメントも出てこない。人の上に立つには寛容であるべきだし、「礼」とはわかりにくいが人に対する態度のようなものとすれば、敬意を欠いた態度はもってのほかだし、葬儀に参加するに際しては故人に対する悼みの気持ちがあるのは当然だろう。そうでない人間は始末に負えないというのも当然。そんな当たり前のことに何の意味があるのだろうかと思う。

 しかし、よくよく考えてみれば本当にそうだろうかと思う。会社の上司はみんな寛容だろうか。人には敬意を持って対しているだろうか。葬儀に参列するにあたり、悼みの気持ちを持っているだろうか。答えは考えるまでもなくNOである。会社員をしていれば、寛容でない上司などうようよいるし、と言うかむしろ寛容な上司は珍しいくらいかもしれないと思うほどである。

 銀行員時代は、やはりそんな上司に悩まされることは多かった。忙しい最中に大して急ぎでも重要でもなさそうな仕事を命じられたり、事前にリスクを説明したのにそれを無視して強行し、結果懸念する事態になり、にもかかわらず人にその責任を押し付けたり。起こりうべくして起こったミスをクドクドと咎めたてたり。とかくサラリーマンは理不尽との戦いであったりするが、その中で上司の果たす役割は大きい。

 当然、そんな上司に対しては敬意などは抱けない。「礼」とは他人に対する思いやりなどが態度や行動として現れたものだとするが、当然言葉ではおだてても腹の中では舌を出すことになる。飲みに行こうと誘われれば(私は結構平気で断っていたがそれでも)、いやいやながらも「これも付き合いだから仕方がない」と応じたりしたものである。なのに当の上司本人は、自分は寛容な上司であり、たまには部下も慰労しないといけないなどと考えて誘ってきたりするから最悪だったりする。

 葬儀に関しては身内のものならともかく、義理で参列する場合などは、悼む気持ちなど持ちようがない。それに葬儀はタイミングを選ばないから、予定をやりくりして渋々参列したりする時などは余計である。悲しい気持ちと言っても、せいぜいが身内や親しい友人知人までだろう。友人の身内などまでならまだしもその友人の気持ちを慮ることはあれども、仕事関係などになるとよほど親しい関係でなければ100%義務になる。「参列した」という実績作りのための参列になってしまう。

 およそ人間社会で人間関係を円滑に生きていくためには、こうしたことはグッと腹に飲み込んでいかなければならない。それを「始末に負えない」と言われてしまうとなかなか辛いものがある。悼む気持ちがなくとも、義理だけで葬儀に参列するのはしょっちゅうだし、腹の中では反発しても、表面上は波風を立てないようにするのも然り。人の上に立つのに寛容でなくても良いとは思わないが、少なくとも二つは、我々の社会で人間関係をスムーズにするのには欠かせないと気遣いだと言える。

 孔子の言いたかったことは、そんなことではなく、もっとシンプルなのだろう。人に対しては敬意を持って接したいし、葬儀には悲しい気持ちで参加したい。されどそうは言っても我が国の文化として、「お付き合い」は人間関係の円滑化には欠かせないことである。せめて、「人の上に立つに寛容であるか」くらいはしっかり意識したいところである。「実るほど頭が下がる稲穂かな」を実践していきたいと思うのである・・・




【本日の読書】
 PIXAR <ピクサー> 世界一のアニメーション企業の今まで語られなかったお金の話 - ローレンス・レビー, 井口耕二 天皇の日本史 (角川文庫) - 井沢 元彦