2023年9月27日水曜日

伯父の葬儀

 長野県の富士見に住む伯父が亡くなった。敬愛する祖父が亡くなって29年。とうとう、次の世代の順番が回ってきたという事だろう。88歳という年齢は、まだまだという気もするが、平均寿命は上回っており、ここまで生きれば幸せと言っても良いと思う。無口で酒も飲まず、真面目で慎重な性格は、一方で穏やかな人柄でもあった。生まれてから一度も引っ越しを経験することなく、生涯を生まれた家で過ごした人生はいかがなものだったのだろうかと思う。波乱万丈とは正反対の静かな人生だったように思う。

 葬儀となれば、親戚が集まって来る。伯父を含めつい最近会ったと思っていた親戚も、考えてみればコロナ期間の自粛もあり、会うのは4年ぶりである。4年前は伯父も元気だったし、今回の知らせは意外だったが、4年はやはり長いと思う。久しぶりに会った義理の叔父は、いつの間にか小さくなっていた。痩せたせいか顔も変わっていて、おまけに軽度の認知症の症状があるとかで、その行動がどこかおかしなところが多かった。叔母たちも同様に、当たり前だが年を取っていた。

 今回は従妹にも会ったが、いつ以来だろうかと考えてしまった。母方とは違い、父方の方はあまり交流がなく、40年近く会っていなかったかもしれない。そうなると、名前こそ知っているがほとんど「初めまして」の世界である。それでも共通のバックボーンがあるから、まだ話には入っていきやすい。葬儀だからと言って、湿っぽさはなく、どちらかというと楽しいおしゃべり場になってしまった。まぁ、伯父もワイワイやっているのを目を細めて見ていてくれただろうと思う。

 長野県の富士見町の中でも、父方の実家は原村という村にある。標高1,100mの地であり、東京とは気温が違う。日中は半袖でも十分だが、日が落ちると急速に冷えてくる。東京の感覚でいると風邪を引くかもしれない。標高が高いせいだろうか、夜空に輝く星の数も東京とはくらべものにならない。そして街灯がないから、明りは近所の家の窓からもれるものだけ。11時を過ぎるとそれもほとんどなくなるから真っ暗になる。しかし、それでもほんのりと明るいのは月が出ているから。こういう所に来ると、「月明り」という言葉の意味を実感する。

 通夜は本家で行われた。本家もそれなりの広さがあるから可能なのである。そう言えば叔母の結婚式も同じ本家の同じ部屋でやったのを覚えている。昔はみんな家でやったのだろう。もう50年も前の事で、その時しおらしく俯いているだけだった叔母も、今は皺も目立つ田舎のおばあさんだ。通夜では喪主もみんな喪服は着ない。東京の通夜の感覚に慣れていると戸惑うことになる。そしてチラホラやってくる弔問客も近所の人なのだろう、普段着である。私は戸惑いつつも着替えずに済ませた。

 翌日、棺に釘を打ち、火葬場へと移動する。火葬場は隣の茅野市であり、車で30分以上かかる山の中であった。29年前の祖父の葬儀の時は土葬であった。私もかなり驚いたが、今ではさすがに火葬である。しかし、後発だったのだろうか、火葬場が作れなくて隣の市のを利用しているのかと想像した。告別式は真言宗の僧侶が来て執り行われた。斎場はJAのホール。「なんでJAが」と思うが、農家ばかりのこの辺りではそれだけJAが生活に密着しているのだろう。弔問客もみんなJAの担当者と顔見知りのようであった。僧侶も故人のことは良く知っていたそうで、田舎の人間関係の濃さがうかがい知れた。

 亡くなった伯父には私と同じ歳の息子がいる。同じ歳の従弟として会えばよく遊んだが、今は独り身である。やがて我々の番が回ってきた時、誰が従弟の喪主になるのかと考えると、誰もいない。その時、主がいなくなった本家や代々の墓はどうなるのだろうか。我々の後のことだからどうなるのかはわからないが、普通に考えれば国庫に行く事になる。代々の墓も朽ち果てていくのかもしれない。その晩、伯母が従弟のいない所でその胸中を涙ながらに語ってくれた。日本の多くの家でそういう問題がこれから益々増えていくのだろう。

 父方の親戚は昔からあまり付き合いの頻度は高くない。母方の親戚の濃度と比べると大きく異なる。それはやはり母親と行動を共にすることが多かったからに他ならない。自分自身の身を振り返ってみても、子供たちが実家へ行く頻度は妻の方がはるかに多い。男は損だなと改めて思う。従弟も母方の従弟と同じくらい親しければ、墓の話も突っ込んでできたかもしれない。本人のキャラクターにもよるが、伯父に似て真面目で酒も飲まない従弟とは、どうも一歩踏み込んでいけない壁のようなものがあるのを感じる。

 とは言え、次回49日の法要に行くことになるだろうから、じっくりと話をしてみようか。そんなことを考えながら帰路に着いた。昔の賑やかだった本家の様子が今でも目に浮かぶ。飲んべえだった叔父もいつの間にか飲めなくなったとつぶやいていた。「諸行無常」という言葉の意味をつくづくと思うのである・・・


【本日の読書】

明と暗のノモンハン戦史 - 秦 郁彦 世界最先端の研究が教える新事実 心理学BEST100 - 内藤誼人 








2023年9月21日木曜日

読書雑感

 よく「愛読書は何か?」と聞かれて答えている人の記事を読んだりする。その都度、思う。「自分は同じ質問を受けた時に果たしてなんと答えるだろうか」。しかし、その都度、思う。「わからない」と。そもそもであるが、愛読書とは何だろうか。「愛読」なので繰り返し繰り返し何度も読み返すような本という事であろうか。私の場合、月に7~8冊平均の本を読んでいるが、「愛読書」と言われるほど何度も読み返している本はない。せいぜい、2~3回読んだという程度である。愛読書があるという人は、一体どんな読み方をしているのだろうかと疑問に思う。

 月に7~8冊と言っても、半分は「ビジネス系」で、半分は小説や哲学などの「非ビジネス=趣味系」である。だいたい、朝はビジネス系、帰りは趣味系と分けている。鞄は重くなるが、何となく朝と夜とで読み分ける事を長年の習慣にしている。朝は仕事に向かうゆえにビジネス系の方がしっくり来るし、帰りはリラックスモードなので趣味系がいい。何となくの気分である。そうして日々読んでいるが、大概の本は読めばその内容を忘れてしまう。なので、ブログに読書記録としてまとめる事で記憶を整理している。振り返ると、読んだことすら記憶に残っていない本があるので、読書記録としては最適である。

 そうした読書記録をしばしば見返しているが、読んだことすら忘れている本は悲しい気がする。それは、「せっかく読んだのにもったいない」という意味と、「己の記憶力が情けない」という意味と2つある。昔読んだ本ならまだしも、たかだか1年前に読んだ本だと後者の意味合いが強い。ブログには、実は同じ本が取り上げられているのもある。読んだことすら忘れてしまい、もう一度読んでも思い出せず、初めてのようにブログに残しているのである。それに気づいた時は愕然としてしまった。せめて、読んでいて気づきたかったと思う。せっかく読んだのに、何も自分の中に残っていないわけである。

 読み終えてブログにまとめるという行為は、やってみると意外といいなと思わされる。読み終えた段階で、再度ページをパラパラとめくりながら付箋をつけたところを中心に整理する。すると、著者の主張も改めてよく理解できる部分がある。そしてブログ内だと検索機能があるので、過去の著作とか、似たような内容の本を引っ張り出すことができる。ブログも今となっては誰かに読んで欲しいという気持ちはサラサラなくなっていて、想定読者は自分だけである。自分だけの読書記録という意味では、無料で利用できて便利である。

 一方で、複数回読んだ本というと、『狼たちへの伝言』『企業参謀』『自分が源泉』などがある。『狼たちへの伝言』は20代に読んだが、著者の落合信彦の生き方、考え方に共感し、かなり影響を受けた。『企業参謀』は、銀行員としてビジネスの見方、考え方の基礎になるものとして目新しく、刺激的な一冊であった。『自分が源泉』は、40代の頃に読んだが、自責の考え方に深く共感するものがあった。いずれもずっと手元に置いておきたいと思い、今も多少埃を被っているが、本棚に並べている。考えてみれば、記憶から消えてしまうものもあれば、ずっと残るものもある。消えたものを嘆くよりも残っているものを喜びたいと思う。

 また、「愛読書」ならぬ「愛読シリーズ」という意味では『逆説の日本史』シリーズがある。もう第1巻は30年近く前になるが、歴史好きという趣向から何気なく手に取り、その内容に衝撃を受け、以来欠かさず読んでいる。出版されれば迷わず購入しており、まだ読み返しはしていないが、いずれ読み返したいと思っている。これも本棚のかなりのスペースを占めている。「迷わず読む」という意味では、「愛読作家」ならかなりいる。小説家では、小池真理子、東野圭吾、浅田次郎、百田尚樹(小説分野)などがいる。こうした「愛読シリーズ」「愛読作家」という意味であれば、自信をもって答えられる。

 本は読み始めれば、最初から最後まできっちり読む方である。ビジネス書などは、パラパラとめくって興味のあるところだけ読むとか、速読とかを勧める人もいる。本の読み方は人それぞれだから異論をはさむつもりはない。ただ、辞書的に読むより、手っ取り早く読むより、自分のペースでしっかり読む方がよいと考えている。著者なりに意味があって書いていることであろうから、その意図を汲みたいという意味合いがある。ただ、どうしても読む意味を見いだせなくなったら、途中で読むのをやめることもある。

 そうして読んできた本であるが、気がつけばそれなりに身についていると実感している。特に会社の経営に関しては、専門的な教育を受けてはいないが、前職に続き現職でもそれなりにやれている。それについては、銀行員時代の経験を除けば読書くらいしか思い浮かばない。有名な経営者の自伝や考え方などのさまざまなビジネス知識が、知らず知らずのうちに身についているのだと思う。読書は今や趣味であるが、実益も兼ねていたわけで、通勤時間を有効活用できていたわけである。いずれ社会人になる娘と息子にもつけさせたい習慣である。

 これからもいろいろな本を読んでいきたいと考えているが、ビジネスにも活かしたいし、何よりも自分自身を深化させて行きたいとも思う。老いて老害や邪魔者になるのではなく、賢老になるにはやはり読書が大事だろうと思うのである・・・

Marisa SiasによるPixabayからの画像

【本日の読書】

  




2023年9月17日日曜日

世界一の名画とは

 

 今、レオナルド・ダ・ヴィンチの伝記を読んでいる。ルネッサンスの巨人として知ってはいたが、詳しく知れば知るほどかなり多芸な人だったとわかる。とは言え、一番よく知られているのは、やはり「モナリザ」だろう。有名すぎるくらい有名な名画であり、世界一と言われても異論はまったくない。ただ、疑問に思うのは、「世界一の基準」だ。何を持って世界一なのだろうか。ちなみにちょっと検索してみると、「世界の名画ランキング」では、やはり「モナリザ」が堂々の1位である。その他を含め、ランキングは以下のようになっている。

 

1位 ダ・ウインチ「モナ・リザ」

2位 ボッティチェリ「ヴィーナスの誕生」

3位 ミレー「落穂拾い」

4位 ムンク「叫び」

5位 ピカソ「ゲルニカ」

6位 ドラクロワ「民衆を導く自由の女神」

7位 ゴッホ「ひまわり」

8位 フェルメール「真珠の耳飾りの少女」

9位 サルバドール・ダリ「記憶の固執」

10位 ルノワール「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」

 

 順位についてまったく異論はない。ただ、個人的な好みからすると、少々異なる。個人的に好きな絵はと問われると、やはりミレーだろうか。「晩鐘」や「落穂拾い」はいつまでも眺めていたいと思う。ランキング内では、ドラクロワの「民衆を導く自由の女神」とフェルメールの「真珠の耳飾りの少女」がいいと思う。レオナルド・ダ・ヴィンチの作品ではやっぱり「最後の晩餐」が一番いいと思う。いつか多少のお金はかかっても、本物を見に行きたいと思う。一方、ランキングに入っていても、ピカソの「ゲルニカ」は好みではない。極端な話、ただでもわざわざ見に行きたいとは思わない。面白いものである。


 今は、ラグビーのW杯がフランスで開催されている。今回も全試合テレビ観戦しようとしているが、スポーツは世界一の基準は簡単だ。ラグビーは点数ではっきり勝敗が決まる。W杯で全48試合が行われ、最後まで勝ち残ったチームが世界一である。誰からも異論の出ようがない。しかし、芸術作品はそういう基準がない。もちろん、「モナリザ」は輪郭線を描かないでぼかす「スフマート」や空気を描き込むことで奥行き感を出す「空気遠近法」などのテクニックが使われているそうで、玄人を唸らせるものもあるのだろう。ただ素人にはわからない。


 しかし、それはそれでいいのだろうと思う。音楽もそうだが、結局、玄人の評価と素人の評価は違う。芸術作品は、結局のところ、それを鑑賞する人の心をいかに動かすかであって、それがすべてである。玄人がピカソの絵をいかに絶賛しようと、私の心は1ミリも動かない。しかし、ミレーの絵なら1日中眺めていたいと思う。クラッシックで言えば、バッハが好きだし、パッフェルベルの「カノン」のような音楽も好きだし、一方で眠くなるだけというのもある。専門家がいかに絶賛しようが、結局、個人の心をいかに動かすかだ。


 絵画について分析してみると、先に挙げた個人の好みの傾向を探っていくと、なんとなく「物語を含む人物の絵」という傾向が見えてくる。「晩鐘」は、夕方、あたりに鳴り響く鐘の音を聞きながら、夫婦で祈りを捧げている絵である。1日の労働を終え、何を祈っているのだろうか、鐘はどんな風に響き渡っているのだろうか、このあと夫婦でどんな会話をしながら家路に着くのだろうか、いろいろと想像は広がっていく。たぶん、この絵を1日眺めていても飽きないと思う。そういう絵画に心惹かれるのである。ピカソの絵を見ていても頭が痛くなるだけである。


 何が世界一かは、芸術作品に関しては関係ないと思う。「自分で見てどう感じるか」が大事であると思う。たとえそれがどんなに無名の画家の手になるものであろうと、自分の心が動かされるものが一番である。そう言えば、20年以上前になるが、バリ島に行った時にお土産で買った絵がある。当時5,000円くらいし、現地の物価水準からするとバカ高かったが、どうしても欲しくて買ってしまった。妻からはぼったくりだと言われたが、その価値はあると思った。今でも部屋に飾っているが、買ってよかったと思う。そういうものである。


 これから時間をとって美術館巡りをして、そういう知らない画家の作品を探してみようかなと思う。仕事を引退しても、いろいろとやる事は多そうだなと思うのである・・・


バリの無名画家の作品

【本日の読書】

  




2023年9月14日木曜日

最近、よく夢を見る

 最近、よく夢を見る。寝ているときに見る夢である。最近、すばらしい人体 あなたの体をめぐる知的冒険という本を読んで改めて人体の不思議さを思ったのであるが、夢というのも考えれば不思議なものだと思う。起きている時は、夢を見ることはない。夢想することはしばしばあるが、それは自分の意思で展開していく。しかし、寝ている時に見る夢はまったく展開が読めない。出てくる場面も見覚えのある所もあればない所もある。見覚えのない所はいったいどこからその風景が出てきたのかと不思議に思う。

 よく見る夢は、トイレを探す夢である。昔、よく遊びに行った御代田の従妹の家でトイレに入ろうとするが、見当たらない。よく見れば記憶にある御代田の家とはどこか違っている。トイレだと思って入ったが、そこは普通の部屋で、どこかトイレらしくない。なぜかと言えば便器がない。この便器がないというのも共通項で、デパートでトイレに入ったが便器がないというパターンもあったし、どこかの病院でトイレに入ったらやっぱり便器がないという事もあった。やむなくそれらしき所で用を足すのであるが、そのバツの悪さに目が覚めるというパターンが多い。

 フロイトによれば、夢の素材は記憶から引き出されていると言う。そしてそれは意識的なものではなく、無意識的なものだそうで、それゆえに見たこともない風景に思えるのかもしれない。一般的には夢とは潜在的な願望を充足させるものであるらしいが、トイレの夢は「トイレに行きたい」という願望であることは間違いない。実際、便器のない所で用を足すところでたいてい目が覚めるのだが、そこで実際にトイレに行くのである(いつか夢と現実の区別がつかなくなる日がくるのかもしれない・・・)。

 夢はたいてい、目が覚めた時に「夢を見ていた」と意識する(忘れてしまうこともかなり多いが)。つまり過去形なわけであるが、たまに「これは夢だ」と気づく場合もある。その時よくやるのが、空を飛ぶことである。夢なら空を飛べるだろうと飛んでみるのだが、なぜか背の高さほどのところを平泳ぎするというパターンが多い。はたから見たらかなり笑える「飛行」だと思う。それも潜在的な願望と言われればそうなのかもしれない。どうせならスーパーマンのようにさっとひとっ飛びしたいところだが、夢でもそれは叶わないらしい。

 そう言えば子供の頃、初夢に見たいものを枕の下に入れておいたらそれを夢で見られると聞いたことがあった。素直にさっそく試してみようと女性のヌードの絵を描いて枕の下に入れて寝た。下手くそな絵だったから若干の不安があったが、夢でしっかり見られればと願って寝た。すると、翌朝目が覚めてその夢を見られなかったとガッカリするという夢を見た。嘘ではなかったから文句は言えないが、なんだか騙されたような気がしてならなかった。今から思えば可愛いものである。

 20代半ばを過ぎてある女性を好きになった。人生で一番惚れた女性である。もちろん、アタックはしたのだが振り向いてもらえず、随分と切ない思いをした。その時耳にしたのが大瀧詠一の『夢でもし逢えたら』。「♬夢でもし逢えたら 素敵なことね あなたに逢えるまで 眠り続けたい🎶」という歌詞に心惹かれた。本当に夢で逢えるなら眠り続けたいと思った。ずいぶんと純情だったと思う。結局、思いは叶わなかったが、今でもたまにその女性の夢を見たりすると朝から幸せな気分になれる。いつか夢の中で思いが通じるだろうか。

 一方、夢には悪夢というものがある。幸いにして今まで悪夢なるものを見た事がない。悪夢のような現実ならあるが、ひょっとしたら悪夢という夢などないのかもしれないと思ってみたりする。ただ、これも子供のころ、怖い夢ならよく見た。それは足下の大地が大きく割れた所に立っている夢で、その深淵の淵に立ち、引き込まれそうな恐怖の夢である。特別、高所恐怖症というわけではないが、高い所に立てば誰でも怖いと思うだろう。今はもう見ることもないが、現実の世界の苦難からすれば、どうってことはない。

 アラビアのロレンスこと、トーマス・エドワード・ロレンスの言葉に、「両目を開いて夢をみる」というのがある。何かを目指している人には勇気を与える言葉である。夢という言葉には、どうも「現実的ではない」というイメージがある。現実的ではないことを夢想するのではなく、しっかり両目を開いて目指していこうという意味の言葉であり、いいなと思う。しかし、やっぱりかつて憧れた女性に両目を開いて会いに行くのは、妻子持ちとしては問題があり、やっぱり夢の中で逢うのがいいだろうし、そういう事もあると思う。ただ、不安に襲われている時にはこの言葉を思い出すといいかもしれないと思う。

 以前、読んだ漫画に見たい夢を見せてくれるというサービスが出てきた。事前にリクエストを受け(スーパーマンになるとか、海賊として活躍するとか)、それに沿った内容の物語を夢で体験させてくれるというものである。そういう技術が実現したら是非利用したいところだと思う。なんでも思い通りになったら、人生は楽しいだろう。今のところ、思い通りの夢を見ることはできないので、予想もできないストーリーを楽しむしかない。残念なのは、目が覚めて忘れてしまうこと。せっかく見たのに忘れてしまうのは何かもったいない気がする。せめて、見た夢くらい覚えていたいものである。

 夢を見る人体の仕組みはわからないが、そういう不思議な能力は悪くない。今度夢の中で、これは夢だと気づいたら、空中を泳ぐほかに何かもっとないか、なかなか現実ではできないことを試してみようかと思うのである・・・

Stefan KellerによるPixabayからの画像


【本日の読書】

  




2023年9月10日日曜日

論語雑感 述而篇第七(その18)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感。

【原文】

葉公問孔子於子路、子路不對。子曰、「女*奚不曰、其爲人也、發憤忘食、樂以忘憂、不知老之將至*云爾。」

【読み下し】

葉公せふこう孔子こうし子路しろふ。子路しろこたいはく、なんぢなんいはる、ひといきどほりおこしてじきわすれ、たのしんでもつうれひわすれ、おいいたるを云壐しかじか

【訳】
葉公しょうこうが先師のことを子路にたずねた。子路はこたえなかった。先師はそのことを知って、子路にいわれた。
「お前はなぜこういわなかったのか。学問に熱中して食事を忘れ、道を楽んで憂いを忘れ、そろそろ老境に入ろうとするのも知らないような人がらでございます、と。」

『論語』全文・現代語訳

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 孔子が子路に言ったのは、自分がどういう人間かということ。それは自分自身に対する自己評価ということになる。それが正しいかどうかと言うと、「評価は人が下したものが正しい」という野村監督の言葉からすれば「正しくない」という事になるが、自己評価は自己評価として、「正しい」、「正しくない」という観点とは別にして考えるのもいいと思う。自己評価とは、「自分はこういう人間である」という思いと、「こういう人間であると思われたい」という思いが入り混じっていると思う。そういう意味で、孔子の自己評価は興味深い。


 自分自身の自己評価はどうだろうと考えてみる。

仕事は楽しんでやるように意識し、ラグビーを愛して自ら汗を流し、人とつるむよりも孤独を選び、受けた恩は石に刻むが、仇は目には目をと考える。そんなところだろうか。あくまでも自己評価は自己評価であって、他人から見れば必ずしもそうではなく、野村監督の言葉によれば、正しくない評価である。それでもあくまでも自分自身はそう考えているというだけのことである。


 仕事はどんな仕事でも割と楽しんでやる方である。銀行員時代は、同僚などは不平不満に明け暮れ、嫌だ嫌だという者も多かったが、私はそれなりに楽しんでいた。もちろん、人間関係では嫌な上司に不満を持つ事もあったが、自分自身の仕事自体については楽しんでいた。それは不動産業界に移っても、今のシステム開発の会社に移っても同じである。前職では空き部屋になった部屋のルームクリーニングでは、率先してトイレ掃除を行なっていたのもその表れである。


 もともと人見知りのところがあり、他人とはどちらかというと常に距離を置きたい方である。今も会社の同僚とは会社を出たら距離を置きたいと考える。だから電車すら一本遅らせて一緒に乗らないようにしたりする。ラグビーなんてチームスポーツをやっているが、練習後にいつも飲みに行くメンバーを横目に、飲みに行くのは月に1回くらいだ。人のプレーをあれこれアドバイスするよりも、自分のプレーをひたすら磨いている。自分から友達を誘うということも滅多にない。


 お世話になった人には常に一目置く。自分から関係を蔑ろにするようなことは絶対にしない。ただし、裏切られれば必ず報復しないと気が済まない。自分から水に流せるほど寛大ではない。銀行を辞めた時、一緒にやろうと不動産業界に誘ってくれたのは高校の先輩である。以来、6年半にわたり、先輩が赤字まみれにしていた会社を立て直し、6期連続で利益を計上させるまでにした。任せてくれたというのも大きかったが、ほとんど自分で考えてやったので、それなりに自信にはなった。ただ、最後に裏切られた。


 冷静に考えてみれば、その先輩も持病もあって将来も不安だったのだろうから、会社を売却して売却代金を独り占めしたいという気持ちはわからなくもない。ただ、長年働いた社員を首にして、退職金もほとんど支払わないで億単位の金を独り占めするというのはいかがなものかと思う。社員からの要望もあり、私がなんとかしようと、子会社を合法的に手に入れた。自分のものを取られたという思いの先輩とは、現在法廷バトルが続いている。ただ黙って泣き寝入りするほど私も人間はできていない。


 他人と争って意思を通そうというよりも、合わないのなら袂を分つ方を選ぶ。夫婦関係も然り。子供に対しても然り。サラリーマンだから関係ないが、もし医者になっていたとしたら、子供に跡を継がせようなどとは思わなかっただろう。子供は子供で、自分の道を行けばいいと思う。だから息子にも無理にラグビーをやらせなかった。小さい頃からテレビで一緒に試合を観て洗脳しようとはしたが、結局、息子は野球を選んだ。それはそれでいいと思う。将来、娘が結婚相手を連れてきても、どんな相手でも反対はしないだろう。


 孔子は子路を叱ったが、私なら何も言わなかっただろう。子路が自分をどう評価しようがそれは子路の勝手であり、黙っていようと自分の思惑とは違うように言おうと、それは子路の自由だと考える。誹謗中傷でも文句は言わないだろう(ただし、そのあと距離を置くだけである、それも遠い距離を)。人は人、自分は自分。基本的にはそのスタンスであり、他人の考えは尊重するが、自分の考えを無理に合わせることはしない。それで自分が常に居心地良くいたいと考える。


 自己評価は自己評価。他人の評価の方が正しいと思うが、自分自身はこんな人間だという自己評価もある意味大切だと思う。何より自分のことは自分が一番よく知っている。自己評価をいかに高くするか、快適に生きていくためにはそれが必要だろうとも思う。これからもそんなことを大事にしていきたいと思うのである・・・


VĂN HỒNG PHÚC BÙIによるPixabayからの画像

【今週の読書】

  




2023年9月6日水曜日

インボイス制度に思う

 インボイス制度がいよいよ10月1日から始まる。経理を預かる私も税理士と打合せして準備を整えるとともに、子会社で取引のある個人事業者に対する説明等にも追われている。このインボイス制度であるが、一体何のためのものなのか。制度を導入するには必ず目的がある。その目的を理解していると制度に対する理解も一層深まる。その昔、銀行に勤務していた時、しばしば事務のルール変更があった。「何のための変更か」とよく考えた。大概、それはどこかの支店で事務事故か不祥事があったのだろうとわかるもので、ルール自体を考えればそれがどんな事故だったのか推測できたものであった。

 しかし、インボイス制度はそれがよくわからない。国税庁のホームページによると、以下のように説明されている。

【適格請求書(インボイス)とは】

売手が買手に対して、正確な適用税率や消費税額等を伝えるものです。具体的には、現行の「区分記載請求書」に「登録番号」、「適用税率」及び「消費税額等」の記載が追加された書類やデータをいいます。

【インボイス制度とは】

<売手側>

 売手である登録事業者は、買手である取引相手(課税事業者)から求められたときは、インボイスを交付しなければなりません(また、交付したインボイスの写しを保存しておく必要があります)。

<買手側>

 買手は仕入税額控除の適用を受けるために、原則として、取引相手(売手)である登録事業者から交付を受けたインボイスの保存等が必要となります。


 これだけだとわからない。しかし、実務の流れを追うとわかってくる。買手側に立つと、取引相手がインボイスを提示しない場合、支払う消費税は納める消費税から控除されない。企業は売上を上げた場合、消費税を受け取るが、それは後に税務署に納めるものである。その時、支払った消費税をそこから差し引きできる。しかし、インボイスのない取引相手に支払った消費税は差し引きできない。つまり、消費税を二重に支払うことになる。勢い、「インボイスのない相手には消費税を払わない」という選択をするしかない。


 一方、その取引相手は消費税を受け取れないので、実際に受け取る金額が減る。今まで10万円+消費税1万円の合計11万円受け取っていたところ、10万円しか受け取れなくなる。実は、消費税には、免税業者という者がいる。年間の売上が1,000万円未満の事業者は消費税の納税を免除されているのである。免除されているのは納税で、受け取ることはできる。11万円受け取っても1万円の納税が不要なのである。これが「益税」と呼ばれるもので、小規模事業者のメリットであった。インボイス制度がスタートすると、この益税がなくなることがわかる。


 このあたりまでくると、目的が見えてくる。つまり、これまで納税を免除されていた小規模事業者から消費税を巻き上げようというものだ。インボイスの登録事業者となれば受け取った消費税を納税しないといけない。つまり、11万円受け取っていたものを1万円納税しないといけない。どちらに転んでも、これからは10万円しかもらえなくなる。おそらく、「小規模事業者から消費税を徴収する」としたら、共産党を筆頭に大反対の声が起こることは間違いない。だからそれとは知らせず、うまくわかりにくい手続きに包んでごまかしたのだろうと推察される。


 なるほどこれは小規模事業者をターゲットにしたイジメかと思うが、そもそも益税があるのがおかしくて、消費税としてもらったのなら納めるべきだという理屈に立つのであればおかしなことではない。ただ、導入時に小規模事業者を免税とすることで、消費税導入のダメージを緩和するという目的があったような気もする。時間も経ったことだし、ここにきてそれをさりげなく撤廃しようと意図したのかもしれない。そしてさらに考えてみれば、買手からすると、これまで11万円払っていたものを10万円払えばよくなるので、メリットと言えばメリットである。小規模事業者が享受してきた益税が消失し、買手の下に戻ったということだろうか。


 いずれにせよ、支払う企業側から見れば、面倒な手続きはあるものの、経済的なデメリットはない。文句を言われたとしても、「お上の決めたことだから」と答えるしかない。これで税収がどのくらい増えるかは、どれだけ免税事業者が登録をするかによるのだろう。だとすれば、税務署は一生懸命登録を勧めることになるのは当然の流れだろう。それにしても、国家財政難の現在、国税局もあの手この手で税収を上げることに躍起になっている。そしてここまで手順を複雑化させて本来の目的を隠し、「机の下」で税収を増やす手法は凄いの一言である。


 これからも身の回りでルールが変わったりすることは多々あるだろう。そのすべてをというわけにはいかないが、せめて自分に関係のあるルール変更については、「その目的は何か」を読み取るようにしたいと思う。抵抗はできなくても、その意図はしっかりと理解したいと思うのである・・・


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【本日の読書】

  




2023年9月3日日曜日

最低賃金に思う

最低賃金「30年代半ばに1500円」 首相表明

 岸田文雄首相は31日、最低賃金について「2030年代半ばまでに全国平均が1500円となることを目指す」と表明した。最低賃金は10月から平均1004円に上がるものの、主要国に比べ水準はなお低い。物価高で消費は弱含んでおり、賃上げ持続で内需主導の成長を促す。

日本経済新聞2023.8.31

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 政府が2030年代半ばまでに最低賃金の全国平均を1,500円となることを目指すと表明し、それについてさまざまな意見が飛び交っている。例えば「X」では、ちきりん氏が、

《現時点での他の先進国の賃金より低い時給を10年後の達成目標にするなんて、本当に日本て余裕があるというか呑気というかスピード間の欠如した国というか、腰が抜けそう》

と酷評しているほか、批判の意見も多いようである。ちなみに、202314月の為替相場で各国の最低賃金を比較すると、日本は961円で最低レベル。ドイツ・フランス1,386円、イギリス1,131円で、日本は韓国の991円よりも下回っており、オーストラリアは71日から時給2,230円に引き上げているという。


 これに対してどう考えるべきなのであろうか。確かに単純比較ではわが国の賃金の低さが際立っている。ちきりん氏はかなり思考能力が高く、さまざまな情報を元に鋭い意見を表明していて、私も著書を何冊も読んでいるが、果たして公平に比較している意見なのだろうかと思う。例えば、各国の失業率を見ると、日本の2.80に対し、ドイツ3.57、フランス7.86、イギリス4.83、韓国3.64、オーストラリア5.12といずれも日本より高い。いくら最低賃金が高くても、そもそも就職できなかったら意味はない。


 それに気になるのは物価水準。例えば、ロンドンは物価が高いと言われている。ランチ代の平均は、日本の1,118円に対して2,511円だそうである。ニューヨークも似たようなものだと以前テレビでやっていたし、それがすべてとは言わないが、そういう物価も考慮に入れないと本当に日本の賃金が安いのかどうか(安いとしてもそれが問題なのか)は一概に言えないのではないかと思う。外国とだけではなく、国内でも同様。以前、長野県に住む従兄弟と話したが、東京は賃金が高いとは言え、生活コストの高さを考えるとどちらがいいかわからない。

 

 従兄弟は長野県の佐久市で働いている。給料は、たぶん私の方が高い。しかし、土地の単価は東京と佐久市とでは一桁違い、私は30坪の家に住んでいるが、従兄弟の家は100坪で住宅ローンもない。夜な夜なスナックに行くお小遣いも私よりある。まぁ、1,500円は全国平均だから、当然、東京の最低賃金は長野県よりも高いだろう。そこは目をつぶるとしても、賃金と物価とを併せて比較議論しないと公平な議論にはならない。私も給料が上がるのは嬉しいが、今なんとか苦心してワンコインに抑えているランチ代が上がるのならあまり意味はないと考える。


 また、中小企業経営の立場から考えると、ここも苦しいところがある。今年はまた最低賃金が引き上げられ、東京都は1,113円になるが、我が社の初任給の一部がこれに引っ掛かり、来年の専門学校卒の初任給の一部を引き上げざるを得なくなった。社員の給料はなるべく高くと思うが、それには収益力が伴わないといけない。社員を低賃金で働かせるつもりは毛頭ないが、毎年昇給を実施していくためには収益力も上げないといけない。しかし、経営環境は厳しく、それは簡単ではない。一つの指標だけを取り上げてどうこうという議論には違和感を禁じ得ない。


 私が銀行員になった1988年の初任給は確か128,000円だったが、2022年は205,000円である。失われた20年とか言われているが、初任給ほど物価は上がっていないような気がする。若手時代は土日の昼飯はよく吉野家の牛丼の大盛りを食べていたが、当時は確か500円だったように思う。なんとなく、ではあるが、賃金は「相対的に」それなりに伸びているように思えてならない。政府は最低賃金だけを目標にするのではなく、「物価の抑制と併せて」、最低賃金の引き上げを目標にしてもらいたいと思う。その時大事なのは、諸外国と比べてどうかという事ではなく、あくまで国内の生活実感としてどうかである。


 中小企業の経営の立場としては、もちろん、最低賃金以上の給料を払うのは当然の事。少しでも多くなるようにしていきたいところ。最低賃金はあくまで「最低」、業界平均を上回れるよう、頑張っていかないといけないと思うのである・・・



Peter StanicによるPixabayからの画像


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