2018年6月27日水曜日

あゝ、ビール

東京はいまだ梅雨の最中とは言え、ここのところ連日で夏日が続いている。この季節は、ビールが実にうまい季節であることは異論を待たないであろう。自分は「毎日欠かさない」というほどではないが、そこそこビール好きの部類に入ると思う。そんな私が生まれて初めてビールを飲んだのは、中学生の時である。御代田の従兄の家に遊びに行った時、ちょうどお盆の時期で公民館に集まった大人たちと一緒に飲み食いしていて、「飲むか?」と差し出されたのである。

生まれて初めて飲んだビールの感想は、大抵の者がそうであると思うが、「苦くて飲めたものではない」というものであった。どうして大人たちはこんなものを美味しいと言うのか、まったく理解不能であった。それがその後、少しずつ無理して飲むうちに味に慣れていったのである。高校生の頃には、もうクラスの打ち上げで居酒屋に飲みに行っていたほどである(まだ大らかな時代だったのである)

やがて大学、社会人になると、普通に飲みに行っては「とりあえずビール」の世界に入って行ったが、なんとなく感じていたのは「ビールの味の違いがわからない」ということである。よく、「キレ」だとか「コク」だとか「のどごし」だとか宣伝されているが、今だによくわからない。なんとなくわかったような気がするだけである。それにビールごとの味の違いもわからない。せいぜい、外国産のビールは「なんか違う」という程度である。

スーパードライが世に出て大ヒットしたが、あれもよくわからない。なんとなく「辛口」という感覚は理解できるが、テイスティングをしてこれがスーパードライだと言い当てる自信はない。自分はそんなに酒好きでもないからだろうか、などと好みのビールの味がある人を羨ましく思うことしばしばであった。ただ、発泡酒が出た時は、そしてそれに続く第三のビールが出てきた時は、なんとなく味の違いがわかった。どうも薄くてイマイチだという程度の感覚ではあるが、それでも自分の中では進歩の部類と感じた。

それを打ち破ったのは、サントリーの「プレミアムモルツ」である。これはうまいと心底思った。たぶん、味の傾向が自分の好みにあっているのであろう。そしてその味の違いも区別できる自信がある。なんとなく「ビールならこれ!」という贔屓ができた気がして嬉しく思うところである。と思ったら、最近発売されたキリンの「一番搾り超芳醇」も似たような味で、これもうまいと思った。この2つはちょっと飲んで違いがわかるかどうか自信がないくらい似ている。

ビールは缶でそのまま飲むよりもグラスに注いで飲むのが好みである。なんとなくその方が美味しく感じる(味覚に自信のない私のことだから、それは単なる勘違いかもしれない)。大量に飲むと味覚がボケてしまうようで、缶ビールならせいぜい1本か2本くらいまでが美味しく飲める限度である。まぁガブ飲みしなくて済むからいいのかもしれない。普段は、週末の深夜にバーボンを飲みながら観る映画も、これからはビールに変わる。映画を楽しみつつ、ビールも楽しめる。幸せな瞬間である。

先日読み終えたサントリー創業者の鳥井信治郎を主人公とした『琥珀色の夢』は、サントリーの歴史を綴る物語で、大変面白く読破した。主人公の鳥井信治郎は、主にワインとウィスキーに力を注ぎ、サントリーも「ウィスキー」と「ワイン」というイメージだったが、ここにきて「プレミアムモルツ」の登場で、ビールでもサントリーと個人の中では位置付けが変わった。小説も面白かっただけに当分、この思いは揺るがないだろう。

失われた数十年から抜けきれず、懐の寂しいサラリーマンを相手に、ビール会社は知恵を絞って値段の安い発泡酒や第三のビールを開発してくれたが、私からするとどうもこれらは飲む気がしない。発泡酒を2本飲んだと思ってプレミアムモルツを1本飲む方がいいと感じる。幸い毎晩晩酌をしないとやってられないほどではないので、量より質を追い求めていきたいと思う。

これから夏本番。美味しいビールを飲めるとなれば暑さもまた心地良い。これからの季節を美味しいビールとともに楽しみたいと思うのである・・・




【本日の読書】
 遅刻してくれて、ありがとう(上) 常識が通じない時代の生き方 遅刻してくれて、ありがとう 常識が通じない時代の生き方 (日本経済新聞出版) - トーマス・フリードマン, 伏見威蕃 長く高い壁 The Great Wall (角川文庫) - 浅田 次郎





2018年6月24日日曜日

論語雑感 八佾第三(その4)

林放問禮之本。子曰、大哉問。禮與其奢也寧儉。喪與其易也寧戚。
(りん)(ぽう)(れい)(もと)()う。()(のたま)わく、(だい)なるかな(とい)や。(れい)()(おご)らんよりは(むし)(けん)せよ。(そう)はその(そなわ)らんよりは(むし)(いた)めよ。

【訳】
門人の林放が礼の本質を問うた。孔子は、「これはいい質問だ。礼式は華美にするよりは寧ろ慎ましくやるが良かろう。喪礼の場合も、体裁を整えるよりも寧ろ心から哀悼の誠を捧げるようにしなさい。形よりも心を尽くすこと、これが礼というものの本質だ」と答えた。
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以前より自分は「形式より実態(実質)」だと強く思ってきた。葬儀の時などに強く感じることが多かったためであるが、論語にもまさに同じことが書いてあるので、「我が意を得たり」の感がある。ただ、葬儀のやり方が形式的だからいけないというものでもないとは思う。みんな悼む気持ちはあると思うが、要はその表し方だ。「こうすることだ」と形式を示されれば、そういうものかと従っているのが大半だと思う。

例えば、焼香などの場合、私などは今だにその作法が気になってしまい、先にやっている人のやり方を密かにチェックしている。孔子によればそんな作法などより、哀悼の気持ちの方が大事だということだろうし、私もそれは強くそう思う。ただ、仏教で決められた作法があるなら、それに従って気持ちを表すのも一つの方法である。みんな同じだと思う。ただ、なぜそうするのかをあまり理解していないのが大半だと思う。

形式より中身が大事だとは言うものの、「では各自、自由にやって下さい」と言われてもまた困るかもしれない。その場合、なんとなくみんな目をつぶって手を合わせるだろうが、それとて「形式」と言えなくもない。そこまで「形式にこだわるな」と言われると、逆にどうして良いかわからなくなってしまうだろう。ある程度の形式はあってもいいかもしれないが、形式を真似ることに一生懸命になり過ぎて、肝心な故人に対し心の中で気持ちを伝えると言うことを忘れてはいけないと言うことだろう。

形式を大事にしすぎると、困るのはその意味を忘れてしまうこと(あるいは意味を考えないこと)だろう。サラリーマンなど特に仕事でその傾向がある。昨日、レゴランド東京が聴覚障害者に対し入場を拒否した問題が報じられていた。なんでも聴覚障害者だけで入場しようとしたところ、「避難誘導が困難(案内が聞こえない)」から安全のため入場を認められないと言うことらしい。これなんかは形式主義の最たるものだろう。対応した職員に多分悪気はなく、形式(ルール)に従っただけだったのだと思う。

こういうことは、サラリーマン組織の中では溢れかえっている。形式的には正しいかもしれないが、実態として合っていない場合、そこで「これはダメだろう」と疑問に思うことがないといけないが、形式を優先させてしまう。レゴランドであれば、感覚的に入場拒絶はまずいと思わなければならない。ルールという形式を変えられないのであれば、上司に相談して対処するとか、それでもダメなら私だったら「自分が付添人になります」ぐらいの機転を利かすだろう。あとでルール違反が社内で問題にされたとしても、(まともな組織なら)ルールの方が問題だとなるだろう。

結局、「真面目にルールに従ってしまう」のは、何も考えずに「形式(ルール)に従うことこそが正しいこと」と思い込んでいるからであるし、そう考える方が楽だからだろう。だってルールに従っていれば間違っていると言われることはないから。レゴランドの問題にしても、ルール上は社員の対応は間違ってはいなかったのだろう。だから運営会社は(社員に)誤解を与える表現をサイト上から削除したのだろう。でも経営層から見れば、一方で「おかしいと思えよ」と言いたくなるだろう。「そんなことまで一々指示されなきゃできないのか」と。こういう対応しかできないのであれば、それはやがてAIに取って代わられる仕事ぶりだと言えるだろう。

表面上の体裁よりも中身を重んじるのが「礼」の本質であるならば、それはあらゆることに応用が効くだろう。要は「大事なことはなんなのか」を理解する力である。いたずらに形式に流れることなく、大事なことは何かを常に正しく理解して行動する。そんな当たり前のことを当たり前として行動したいと思うのである・・・




【今週の読書】
 琥珀の夢 下 小説 鳥井信治郎 (集英社文庫) - 伊集院 静  ハーバード日本史教室 (中公新書ラクレ 599) - 佐藤 智恵, アンドルー・ゴードン, デビッド・ハウエル, アルバート・クレイグ, イアン・ジャレッド・ミラー, エズラ・ヴォーゲル, ジェフリー・ジョーンズ, サンドラ・サッチャー, テオドル・ベスター, ジョセフ・ナイ, アマルティア・セン





2018年6月20日水曜日

映画『ミッション・ワイルド』に見る西部開拓

いつも週末の深夜は1人映画を観るのを趣味にしているが、先週末に観たのは2014年の映画『ミッション・ワイルド』であった。西部開拓時代のネブラスカを舞台とした西部劇である(と言ってもドンパチはない)。映画の感想は別として、観ていて西部開拓時代の生活振りから感じたことをまとめてみたい。

3人の精神障害を負った女たちを連れて400マイル(650キロ)の旅をすることになったブリッグスとメアリーの2人。と言ってもそれは何もない荒野を馬車で何日もかけての旅となる。まず考えなければならないのは「食べ物」。クーラーボックスがあるわけでもない時代、何日分もの保存可能な食糧を持ち運んでいたのであろう。途中で1人はぐれてしまったメアリーが、馬の背に乗り放浪するものの、食べ物がなくて野草を口にするシーンが出てくる。しかし、たちまち吐きそうになる。隣で馬が同じ草を無表情に食む。この時代、食糧を持たずにはぐれてしまうと下手をすると餓死ものだ。

一行はさらに途中で原住民(インディアン)と遭遇する。ブリッグスは襲われる危険性を前に、馬を一頭与えることで難を逃れる。西部劇と言えばかつてはインディアンは悪役であったが、考えてみればインディアンも突然やってきた白人たちに次々と土地を奪われていったわけである。その白人もヨーロッパの圧政を逃れて新世界にやってきて、何もない荒野を開拓しなければ生きていけなかったわけで、それぞれ事情を抱えた中で随分多くの血が流されたのだろうと思う。ブリッグスの機転にほっと安堵を覚える。

何日もの旅の間、宿などないから基本的に野宿である。焚火を焚き、その周りで毛布をかぶって寝る。風呂もないから川で体を洗う。季節によってはできないだろうから、何日も風呂に入らないことになる(もっとも、町に住んでいた人たちが毎日風呂に入っていたのかはわからないが・・・)。メアリーは途中で狼に荒らされた少女の墓を見つける(これを直すために1人残ってはぐれてしまう)が、道中で無念にも亡くなれば「そこら辺」に穴を掘って埋葬するしかない。当然、後で墓参りなんてできないだろう。

何気なく描かれているが、考えてみれば当時はまだまだ随分過酷な状況だったわけである。今となれば、400マイルと言っても航空機から鉄道、マイカーとどれを選んでも1(あるいは数時間)あれば十分であり、何日分もの食糧を持ち歩く必要もない。車で移動したとしても、道中にはモーテルもあるだろうし、ホテルもある。1日でつけばそれすら必要ない。たとえ道中で亡くなる事態になっても、そこらに埋めて旅を続けるという必要もない。人類の進歩といってしまえばそれまでであるが、映画の表面だけ観ていてもわからない当時の苦労が伺えてくる。

さらにメアリーは31歳の独身。現代でこそ31歳で独身も珍しくないしおかしくもないが、当時は結婚適齢期をはるかに過ぎていたのだろう。メアリーも焦ってか身近な男に積極的にプロポーズして断られる。最後は老人の域に達しているブリッグスにすらプロポーズし、これも断られると自ら裸になって誘う。それでも目的を果たせず、絶望のあまりの行動をとる。現代とは異なる価値観であろう。今の時代ならメアリーも諦めて独身でも楽しく人生を送れたかもしれない。

今はつくづく幸せな時代だと思う。それなりに問題はあるのかもしれないが、少なくともかつての祖先が晒されていた危険は克服し、メアリーの苦労も過去のものであり、映画でわざわざ思い起こさないと考えることすら難しい。祖先の苦労の蓄積の上に現代の生活は成り立っているわけであり、問題があったとしても、祖先の味わった苦労からすれば大したことはないのかもしれない。そう考えると、少しは苦労があった方がむしろちょうどいいのだろう。

映画を観ながらそんなことを考えた。そんなことを考えさせてくれるのもまた映画の魅力。ストーリーだけではなく、様々な思いも含めて、これからも映画を楽しみたいと思うのである・・・




【本日の読書】
 5年後に笑う不動産 - 長嶋修 琥珀の夢 下 小説 鳥井信治郎 (集英社文庫) - 伊集院 静





2018年6月18日月曜日

金融の知識とは

 「投資は自己責任」であることは、前回述べた通りなのであるが、それにしても「銀行の審査」を一つの判断材料にしている人は多いように思う。「銀行が大丈夫だと判断して融資するのだから大丈夫だろう」と言うのは、一見もっともに思えるかもしれないが、「銀行の大丈夫」は借りる方の「大丈夫」とはちょっと意味が異なるのである。

銀行がお金を貸すに当たって審査をする時、重視するのはズバリ「お金が返ってくるか否か」である。例えば賃貸物件を建てる(または購入する)プロジェクトである場合、「計画」を審査するのは当然であるが、「お金が返ってくるか」という視点からは、「計画通りに行かなかった場合」も当然検討する。その場合、例えば「担保を売れば返済できる」と考えれば審査は通るのである。

「銀行が大丈夫と判断して融資したから大丈夫」と誤解している人は、このことを理解していない。銀行は、「計画がうまく行くか」と同時に「うまく行かなかったらどうするか」も同時に考えるのである。担保物権(賃貸物件)を売って返せれば良し、さらに足りなければ「(返済に充てられる)預金はあるか」、「自宅(不動産)も売れば返せるか」をも考えるのである。だから(いざとなったら売らせられるように)担保を取るのだし、(預金や自宅を差し押さえるために必要ならば)保証人を取るのである。「大丈夫」なのは「銀行にとって」であり、借り手にとってではない。

大学を卒業し、今はもう(合併で)名前の消えてしまった都市銀行に就職したのは、自分なりに考えたつもりではあったものの、結局は正解だったと思っている。25年ちょっと勤めて退職したが、その間主として融資畑を歩み、数多くの中小企業の担当をさせてもらい、自分なりにも勉強した結果、金融リテラシーは基礎体力として身についたと思う。その一方で感じるのは、金融についてあまりにも疎い人が多いということ。簡単に保証人になったり、簡単に億単位のお金を借りたり、借りる事ばかり考えて返済のことはほとんど考えず、挙句に胡散臭い投資話に簡単に乗ってしまう・・・

日本人は、基本的にお人好しだと思う。それは決して悪いことではないし、美徳だと思うが、こと金融に関してはマイナスに働く場合が多い。「迷惑はかけないから」という言葉を信じて保証人になったり、相手の言うことを何の疑いもなく鵜呑みにして億単位の投資をしたりするのは、基本的に「相手を疑う」ということをしないからである(悪くて断れないというのもあるだろう)。「相手を疑え」と言うのは世知辛い気がするし、日本人の美徳が失われても困るし、難しいところである。

何の漫画だったか忘れてしまったが、その昔読んだ松本零士の漫画で、(「銀河鉄道999」だったかもしれない)お人好しばかりが住む惑星の話が出てくる。一見、いい星だという気がするが、相手を疑う事を知らない人というのは簡単に騙されるのだと説明されていて、子供心になるほどと思った記憶がある。自分の中に悪の心があるからこそ、相手の悪意を感知できるのだと。それは詐欺などの悪意ある犯罪の場合だが、自分の中で「うまくいかなかったら」と反射的にリスクを考える考え方は銀行員時代の賜物だろう。

そういう感覚が身についているからこそ、疑いもなく相手の言うことを鵜呑みにする人の考え方はよくわからない。これだけ世間的にオレオレ詐欺が報じられているのに、まだ引っ掛かる人がいるのも然り。騙されたり思いもかけずに損失を出したりする人には気の毒であるが、せめて金融リテラシーについてはもっと関心をもって身につける必要は誰にでもあると思う。と言ってもそんなに難しいことではない。考えるべき問いはたった一つ、「計画通りにいかない場合はどうするのか?」だけである。

その問いに答えられなかったら「やらない」。これだけで大きなリスクは避けられると思うのである・・・




【本日の読書】
 琥珀の夢 下 小説 鳥井信治郎 (集英社文庫) - 伊集院 静  5年後に笑う不動産 - 長嶋修





2018年6月14日木曜日

「投資は自己責任」の意味

「かぼちゃの馬車」という女性向けのシェアハウスを運営していた㈱スマートデイズが破綻した問題は、やはり同じ不動産業界に身を置く者として関心を持たざるを得ない。なんでも「確定利回り8%」、「30年完全家賃保証」などを謳い文句に投資家を集めていたらしい。そしてそれに対し、購入資金をスルガ銀行が融資していたが、自己資金がないのにあるかのように装って不正に融資したと問題になっている。売却価格も裏で多額のキックバックがなされていたとかの話もあり、投資家はかなり割高で買わされたようである。

 当初は民事再生を狙っていたようであるが、怒り狂ったオーナーからの反発もあり、破産処理となったようである。約700人のオーナーはみな1億以上の投資(=借入)をしているようだし、この後どうするんだという不安と怒りがあるのだろう。その気持ちはわからなくもない。しかし、この問題を考えてみるに、投資した人には気の毒であるが、やはり「投資は自己責任」の世界であり、いまさら感がある。債権者集会で、「8%を保証するって言ったじゃないか」という怒号が飛び交っていたが、「騙された」と怒っている人に対しては、それは「騙される方が悪い」としか言いようがない。

 スマートデイズは、「確定利回り8%」、「30年完全家賃保証」を謳い文句にしていたらしいが、そもそもであるが、それを何で無邪気に信じたのかと問いたくなる。子供ではあるまいし、言われたから信じたというのであれば、それはあまりにもお粗末だ。オレオレ詐欺は最初から相手を騙すつもりで実態のないことを言うが、スマートデイズは言ってみれば不可能とは言えないスキームなわけで、それは詐欺とは言えない。本当にそれでうまくいくかどうかを見極めるのは投資家の責任である。相手の言うことをそのまま信用するのではなく、自分で考えるなり第三者の意見を聞くなりいくらでも手は打てたはずである。

 例えば裏でキックバックを得ていたという話がある。その分、投資家は高い買い物をしていたわけである。ただし、不動産は自分の目で見て確かめられる。土地の値段、建築価格のおおよその値段は不動産屋にでも飛び込んで聞いてみれば素人でもわかる。自分でわからなくても、わかる人を探して意見を聞けばいいし、そもそも確信が持てなければ「やらなければ良い」。1億もの投資をするならそのくらいの手間暇は当たり前ではないだろうか。たぶんそれだけでも「随分高い」という感触は「簡単に」得られたはずである。
 
 また。スルガ銀行に対する批判もあるが、これもお門違いである。そもそもスルガ銀行としては、「申し込み通りに融資した」わけであり、非難されるものではない。自己資金があるように装ったというが、それは銀行内部の問題であり、外部の人間が「不正融資」というのは筋違いである。スルガ銀行の責任を問うのは間違いである。返済されないリスクのある融資をしてしまった責任は銀行自身が自分自身に対して負うものであり、借りた方が文句を言うのはおかしい。

 よくある架空の投資話やオレオレ詐欺は最初から騙す目的の詐欺であるが、今回の一件は純粋な投資話である。「30年完全家賃保証」と言われても、「相手が倒産したらどうなるのか?」という疑問はちょっと考えれば浮かんでくる。「確定利回り8%」とあっても、「その通りにいかない場合は?」ぐらいは考えるべきだろう。「いざとなったら売って返せるのか?」ぐらいはバブルを経験した我々なら当然考えてしかるべきことである。すべて怠って相手の言うことを全部鵜呑みにして、「騙された」はないんではないだろうか。それはもう怠慢以外の何物でもない。

 今は不動産市況も好調で、市場に売りに出ている物件はみな強気の価格設定である。我々はプロなので、日々採算を検討して選別して購入している。我々が高いと判断して見送ったものでもどこかの誰かが買っていく。お金があるならいいのだが、「借りて買う」のであるなら大丈夫なのかと思わざるを得ない。もちろん、それらは詐欺商品ではない。買うのは自由、買わないのも自由。すべて自己責任である。勧められても「買わない選択肢」を持っている以上、買う責任は買った人だけのものである。

 スマートデイズに投資した投資家700人がどんな人たちなのかは知る由もないが、改めて「自己責任」の意味をよくよく理解するべきである。そうでないのなら、投資そのものを「資格制度」にして、資格のないものにはさせないようにするしかない。スマートデイズに対して怒り狂っている投資家を見ていると、そんな子供扱いも仕方ないのかもしれないと思うのである・・・




【本日の読書】
 神になりたかった男 回想の父・大川隆法 (幻冬舎単行本) - 宏洋 琥珀の夢 小説 鳥井信治郎 上 (集英社文庫) - 伊集院静




2018年6月11日月曜日

論語雑感 八佾第三(その3)

子曰、人而不仁、如禮何。人而不仁、如樂何。
()(のたま)わく、(ひと)にして(じん)ならずんば、(れい)如何(いか)にせん(ひと)にして(じん)ならずんば、(がく)如何(いか)にせん。
【訳】
孔子云う、「思いやりのかけらもない者が、上辺だけ礼に叶っていたとしても、そんなものが何になろう。愛情のかけらもない者が、技巧(テクニック)だけで音楽を奏でたとしても、そんなものが何になろう」と。
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私は常々、上辺の形式よりも本質が大事だと思っている。それゆえにこの孔子の言葉はすんなりと心に落ちてくる。例えばそれは葬儀や法事の時などに、仏教のしきたりをみていて強く思うところである。先日の法要でもやはりそれを感じた。親戚の一周忌の法要で、みんなで仏前に座り僧侶の読経に合わせて読経をしたが、ありがたいはずの「真言」なんてちんぷんかん。般若心教はなんとなく意味のわかる部分があるといった程度である。多分、その場にいたほとんど全員がそうだったと思う。

そもそもなんで死者を弔い、あるいは悼む時にお経を上げるのか。お経の意味のわかる人は、死んだ者も含めてほとんどいないと言うのに。「南無妙法蓮華教」とはどういう意味で、なぜそれを唱えることがいいのか。学校で習ったのは、その昔布教に際し、無知な農民でもこれだけ唱えれば浄土に行けるのだという簡単さが良かったのだということだったが、意味のわからない呪文を唱えて何になると、私などは思ってしまう。

死者を悼むのに大事なのは、僧侶の読経でもなく、文字数の多い戒名でもなく、高い棺桶や骨壷でもなく、「悼む心」だと思う。その気持ちがあれば、極端な話、僧侶による読経などいらないと私は思う。神妙な顔をして手を合わせていても、心の中で考えていることは早く済ませて帰りたいと思っていたら何にもならない。まさに孔子の言う通り。だから、自分が死ぬ際は、形式に流れて良しとしないように仏教式の葬式を拒否する遺言を残そうと考えている。義理で来てもらう必要はないし、たとえ葬儀に来てくれなくても遠くで悼んでくれればそれで満足である。

顧客サービスでも、そういうものを感じる時が多々ある。マニュアルに従って言葉遣いは丁寧であるが、結局はこちらの困った状況には対応できないという時などである。本当にすまなそうな顔で対応してくれる人と、言葉だけは丁寧であるが、さっさと済ませたいという人とがいる。その違いは、言葉には現れないが、表情とかにはっきりと現れる。心がこもっていれば、こちらも仕方ないと諦められるし気分も救われるが、上辺だけの対応だと不満が残る。サービスとはたとえ要望に応えられなくとも、相手に満足感を与えられることだと思う。

当たり前と言えば当たり前であるが、実はその当たり前が当たり前でなかったりすることも多いと思う。「気持ちが大事」ということに異を唱える人は少ないとは思うが、実戦となると形式に流れてしまっていたりするケースが多いのではないだろうか。たとえば印刷だけの年賀状を出して良しとしたり、お中元やお歳暮だけ送って義務は果たしたと思っていたりすることはあるのではないだろうか。年賀状なんかは、やっぱりたとえ一言でもそれぞれ相手を思って書き加えたいと思うし、それでなくても味気ない印刷だけの年賀状はやめたいと、そういう年賀状を受け取るたびに思う。

結局、孔子の時代から2,500年を経ても、不変の真理というものはあるものである。そしてこれはおよそ人間関係においては今後もずっと変わらない真理であろうと思う。音楽などの芸術に関しても、何よりもテクニックに負うところが大きいと思うが、テクニックの裏に「想い」というものが大事な要素としてあるのだろう。私は芸術に疎い人間であるが、それもまた真理だと思いたい。

形式よりも中身が大事なのはこれまでもそう考えてきた通り。今後も論語にもある真理として、自信をもって維持していきたい考え方だと思うのである・・・




【本日の読書】
 神になりたかった男 回想の父・大川隆法 (幻冬舎単行本) - 宏洋 琥珀の夢 小説 鳥井信治郎 上 (集英社文庫) - 伊集院静





2018年6月6日水曜日

富士見にて

先週末、法事で父の実家のある長野県富士見町へ行ってきた。両親も年老いているし、車も廃止しているので、私が運転手兼用である。今は中央道を使えば片道2時間半ほどで行き来できる。父が15の春に上京した時は汽車で6時間ほどかかったというから、今は随分故郷も近くなっているわけである。

そんな富士見ではその名の通り、祖父母宅からちょっと行った畑に出ると富士山が実に美しく眺められる。今回は拝めなかったが、かつてその美しさに感動したのを記憶している。全国各地に「富士見」の名がつく地はあると思うが、この富士見も本物だと思う。一方で、ここは何といっても八ヶ岳のおひざ元。よく晴れた先週末は八ヶ岳も鮮やかであった。

法要は若くして亡くなった従兄の連れ合い。実家は真言宗であることから、僧侶がきて読経していただく。変わったことと言えば、事前に経文を渡され、一緒に読経したことだろうか。調べてみたら唱えさせられたお経こそが「真言」であり、23文字の短いものながら、一心に唱えるとすべてのわざわいを取り除くことができるというものらしい。
「おん あぼきゃ べいろしゃのう
まかぼだら まにはんどま
じんばら はらばりたや うん」
読んでいて何がなにやらわからないシロモノである。さらに卒塔婆には不思議な文字が描かれていて、気になって調べたらこれも梵字(サンスクリット語)であるとわかった。

 もともと理屈を大事にする私にとっては、「唱えるだけですべてのわざわいを取り除くことができる」なんて眉唾以外の何物でもない。やはり宗教って怪しいと思うのは、仏教という世界的宗教でも変わらないと思う。お釈迦様ももしかしたら今の日本における仏教の現状を見たらびっくりされるかもしれない。

 法要は一周忌であったが、お坊さんによると来年は三回忌だという。なぜ一周忌の翌年が三回忌かと言うと、「周忌」は普通に数えるが、「回忌」は「数え」と一緒で亡くなった時を「一回忌」と考えることによるものらしい。あまりにも来年の三回忌の話をするので、伯父たちも「来年もやって自分を呼べ」ということなんじゃないかと囁き合っていたが、たぶんそれは間違っていないと思う。この数え方は、年齢の「数え年」と同じである。数え年は生まれた時を一歳とするわけで、まさかゼロの概念がなかった故ではあるまいなと思ったりする。インドからゼロの概念がいつ伝わって来たかはわからないが、とても興味深い。

 法要の最後は墓参りをして終わり。祖父母も眠る墓地にはいつの間にか墓石が建てられていた。祖父母の記憶はあるものの曾祖父母となるともう写真でしか見たことがない。合間合間に父がいろいろな思い出話を語ってくれたが、貧しかった子供の頃の話がやはり印象的だ。田を借りて米を作っていたが、地代と年貢で手元にはほとんど残らず、米の飯を食べられたのは年に一度、大晦日だけだったとか。祖父母はどんな思いで子育てをしていたのであろう。今はもう聞くこともできない様々な人生がこの地に埋まっている。間違いなく、自分のルーツの地なのである。

近くなら頻繁に訪れたいと思うが、こういう機会でもないとわざわざ来るのも億劫である。自分もいずれはこの地にという思いがなくもないが、次男の父は本家筋ではなくこの墓に入る予定はない。しかしその本家も一人っ子の従兄に子はなく、跡を継ぐ者はいない。いずれ訪れる者のない寂れるばかりの墓地となることは確実であることを考えると残念な気もする。

 翌日は両親とともに蕗を取りに行く。「スポット」があるということで、林の中に入っていき、自生している蕗取りをした。今は農家でもない限りこんなことはしないだろうが、昔は当たり前のようにしていたという。考えてみれば、人間はみなこうして自然の恵みを「直接」得ていたわけであり、そんな自然の行為からかけ離れてしまった現代人の生活が果たして良いのか悪いのか。かつてない「いい時代」に生まれた自分には良くわからない。

 年老いた両親とこうして両親それぞれの故郷を訪れる機会もそう多くは残されていないだろう。時間の許す限り、できるだけ時間を割いて付き合いたいと思う。本当にいい季節を迎えている富士見の地で、改めてそう思ったのである・・・


曾祖父母からの祖先が眠る墓地と八ヶ岳


【本日の読書】
 トヨタ物語 (強さとは「自分で考え、動く現場」を育てることだ) - 野地秩嘉 幸運な男――伊藤智仁 悲運のエースの幸福な人生 - 長谷川 晶一





2018年6月2日土曜日

誕生日に思うこと

今年もまた誕生日を迎えた。もはや誕生日だからと言って何か格別な思いがあるわけではないが、それでも人生の1つの節目であるという思いは持っている。このタイミングで、自分自身を振り返ってみるのもいい機会である。そんな54年目の誕生日は、一言で言えば、「今年も穏やかに迎えられて何より」である。それを強く感じる。

4年前の50歳の誕生日は騒動の渦中であった。仕事を辞めるか否かという中で、とてもではないが穏やかとは言えない試練の波の中にあり、ずっと続けていたブログも休止した。気持ちの余裕もなく、とてもではないがブログなどやっている場合ではなかったのである。今でも20145月から1年間がスッポリと抜けている。気持ちの余裕を取り戻し、再開するまでそれだけかかったわけである。

誕生日当日の昨日朝、仕事をしていると高校3年の娘からLINEが入った。誕生日祝いのスタンプであるが、このスタンプ1つでも嬉しいと感じる。娘も年頃になると父親とは口をきかなくなるとよく聞いていたが、何となく自分は大丈夫だと根拠のない実感を持ってきたが、それはその通りであったと改めて思う。夜はみんなでお祝いの堂島ロールを食べた。私の誕生日を祝うものだったか、単に堂島ロールを食べる口実だったかは定かではないが、とりあえず家族行事には入っているようだと安心した。

楽しみは仕事とラグビーと映画と読書と、人と飲みに行くことだろうか。ラグビーでは長年こなしてきたフランカーのポジションを離れ、今はスタンドオフにチャレンジしている。フォワードとバックスの違いは、頭では理解しているが、やるのはまた別。幸い今はYouTubeでいろいろと学べるし、本の手助けを借りて1から修行中である。これがまた楽しい。新たな気づきもあり、いい刺激である。ラグビーを始めて37年目の新人のつもりである。

人間関係では、やはり人との議論が難しい。自分は自分の考えをきちんとロジックを組み立てて説明できる。だから大抵議論では優位に立つことが多い。会社でもそれで割と自分の意見を通し、思う方向に会社を進めていると考えている。それはそれで心地良いしやりがいもあるのであるが、逆に危なさも感じている。相手がそれで深く納得すればいいものの、ロジックと感情はしばし別物。自分の意見は大概正論だし筋が通っているし(そういう風に心掛けている)、それゆえに反対し難いものがあると自分でも感じる。

言ってみれば自分の意見の強さが相手を凌駕する時、それで良しとすぐに考えるのは危険な気がするのである。そういう時は加減も必要ではないだろうかと思うのである。つい先日も、そんな必要性を感じて意見を飲み込んだが、イメージとしては、相手を打ちのめすよりも「わずかに勝る」感じがいいのかもしれない。それでも会社は間違いなくいい方向に向かっているし、それぞれやり甲斐も出てきているように見受けられる人もいる。自分でトライを取るより、仲間にその都度トライを取れるボールをパスするようにしたいと思うのである。

54年目の新たな一年のスタート。今年も良い夫であり、良い息子、良い父親、良い同僚、良い友人であることができるように、日々精進し穏やかに過ごしていきたいと思うのである・・・




【今週の読書】
 トヨタ物語 (強さとは「自分で考え、動く現場」を育てることだ) - 野地秩嘉 幸運な男――伊藤智仁 悲運のエースの幸福な人生 - 長谷川 晶一