2015年6月27日土曜日

派遣法改正の意味がわからない

 今はすっかり「安全保障関連法案」一色になっている感のある国会だが、実は派遣法の改正というのが着々と審議されている。以前、派遣切りが話題になっていたが、あれ以来、法律も変わっている。今回、また何が変わるのかはよくわからないが、この問題の本質を理解していないところで政治家が議論しているような気がしてならない。

 そもそもは、「派遣」というのは、「正社員」と「アルバイト・パート」の中間のような存在だ。それは企業にとって「都合の良い」存在だと思う。「正社員のように働き」、「アルバイトのように解雇できる」という点で、だ。ただそうは言っても、企業を批判するのは簡単ではない。

 なぜなら我が国は、ありがたいことに簡単に社員をクビにできない社会である。だから、業績が悪化しても簡単に整理解雇はできない。となると、雇う時は慎重になる。「今10人必要だからといって、10人雇ってしまって将来市場の需要が減った時に大丈夫か?」となるのである。そこで、たとえば「10人必要だが、5人に抑えておこう」となるのである。

 そうなると、10人の求職者のうち、職を得られるのは5人だけとなる。求職者とすれば、残る5人は他をあたらないといけないし、なければバイトで食いつなぐしかない。ところが、派遣だと企業も万が一の時は雇い止めできるとなれば、「5人は正社員、5人は派遣」として10人採用できる。イメージとしては、そんなところだろう。

 この派遣制度を敵視している人たちがいて、そのために法律がコロコロと改正されているのだろう。何とか「派遣」などという制度は廃止して、「全員正社員」という方向にもっていきたいのだろう。反対派の意見を見ると、「生涯派遣に陥るリスク」などというのがある。「雇い止め」で職を失ったり、「生涯派遣社員」で安く使われて終わることがないようにしようという意図だろう。

 それはそれで悪くはないと思うが、それだと「派遣」という働き方の意味がなくなってしまう気がする。無理やり正社員の方向に行かせるべく法律で縛ろうとしているのが、国会でのこれまでの派遣を巡る動きだと理解している。だから、何となくおかしなものになっている。3年ごとに職場を変える」というルールもそうだと思う。

 しかし、我が国には「職業選択の自由」がある。派遣が嫌なら派遣にならなければいいだけの話である。生涯派遣が嫌なら、正社員になればいいだけのことだ。政治家(特に反対派の人たち)があれこれ口をはさむことではない。ただ、正社員やアルバイトと同様、不当・違法な扱いをされないように枠組みをつくるだけで十分ではないかと思う。

 そもそも先に挙げた通り、派遣がなければ「職」そのものがなかったかもしれないものである。失業しているよりマシと考えれば、派遣だって悪くない。同じ職場に長年派遣されて、それでも正社員より給料が安くても仕方ないではないか。嫌なら正社員になるか、失業を選ぶしかない。そう言うと、「正社員になれない」という意見が聞こえてきそうだが、それは「仕方ない」。我が国は全員雇用が保証される社会主義国家ではないのである。

 そういう思いがあるから、国会での議論を聞いていてもピンとこない(というか議論の内容を詳しく知ろうという気になれない)。政治家も、弱い労働者の味方をして票を得ようと思っているのか、はたまた経済の仕組みを理解できず何でも保護しようという博愛精神なのか、もっと本質を理解しないといけないのではないかと思えてならない。

 派遣で働く人にもいろいろな事情があるだろう。全員が嫌々ながら働いているとも思えないし、満足している人もいるだろう。働き方も人それぞれだ。政治家が最低限の労働者の権利を守る以外に口を出すことはないと思う。「派遣が嫌なら正社員になればいい。そのために必要なら必要以上の努力をすればいい。」

 ただそれだけのことなのに、無駄な時間を使っているような気がしてならないのである・・・


【今週の読書】
比較ケースから学ぶ戦略経営 (中経出版) - 松田 久一 カラマーゾフの兄弟(中)(新潮文庫) - ドストエフスキー, 原 卓也 未来予測の超プロが教える本質を見極める勉強法 - 中原 圭介







 
 
 

2015年6月21日日曜日

そもそも論をしないと・・・

 このところ、安全保障法案の議論が新聞紙上等を賑わしている。個人的には政治には興味を持っているし、しかも自分たちの国のことだし、いいかげな気持ちではいたくないので、常にマスコミの報道はウォッチしている。反対派は、「日本がアメリカの戦争に巻き込まれる」として、これを「戦争法案」と呼んでいる。街頭でもよく目にし、耳にする意見である。だが、どうもどちらの考え方、やり方もしっくりとこない。

 そもそも、自衛隊は憲法第9条に違反している。それは成り立ちからして、日本に再軍備させまいとしたアメリカの意向によるものだ。それが日本が危険な存在でなくなり、かつ冷戦構造の中で、「友軍」としてアメリカが日本軍を必要としたため、自衛隊を発足させたのである。この時、本当なら憲法も改正すべきだったと個人的には思う。

 そして自衛隊が憲法違反かどうか問われ、最高裁に判断が委ねられた時、最高裁は判断を避けている。なぜ避けたかと言うと、法律的には違憲であるが、政治的に違憲と言ってしまうと大問題となるから、判断を避けたのである。簡単に考えても、法律的に合憲だったら、そう判断しているだろう。

 従って、今の自衛隊も安保条約も、関連法制もすべて本質的な問題を覆い隠し、解釈改憲という都合のいい理屈で自衛隊を合憲とし、その後の関連法案も合憲としてきているのである。だからそもそも自衛隊が必要か否かという議論から始め、「必要なら憲法を改正する」というのが、一番正しいやり方なのである。

 憲法改正に反対する人も、その多くが「自衛隊は必要」だと思っているだろう。国民の意識も戦後から変わってきている。だから、「解釈改憲」というやり方で、その時代にあった自衛隊のあり方を認めてきているのである。なので今さら「ここまではいいけどここまではダメ」というのはおかしいのだ。「解釈」は人によって異なるもの。それを認めている以上、「今回の安全保障法案が憲法違反である」という主張を聞いても、ちっとも心に響いてこない。

 それに、湾岸戦争のような事態が発生したら、我が国はどう行動するのかという問題もある。イラクによって一方的に軍事侵攻されてしまったクゥエートを、世界が救おうとアメリカを中心に多国籍軍が編成された。日本は「平和憲法」があるから、当然自衛隊を派遣しなかった。それで良かったのかと、今でも疑問に思う。

 他国の軍事進攻により、占領されてしまった国を助けるために軍事力を使うことは悪なのだろうか。「平和憲法」の「平和」とは、「日本の平和」という意味で、「世界の平和」ではないということだろうか。湾岸戦争後、クゥエート政府は多国籍軍に参加した国々に対する感謝の新聞広告を出したが、その中に世界で一番お金を出した我が国の名前はなかった。お金だけ出して、汗もかかず血も流さず、遠く離れたところで見ていた金持ちの国が、「平和国家」として、世界の尊敬を集められるのだろうか。

 結局、軍隊をどういう目的でもって保有し、どういう時に使用するかをきちんと憲法で決めることこそが、一番だと思う。小手先の解釈改憲でごり押ししようとする政府も、「戦争法案」とレッテル貼りして、自ら矛盾を抱えつつ憲法違反だと叫ぶ反対派も、どちらの主張にも与し難い気がする。

 そろそろ本質的な議論をすべき時なのではないかと、思えてならないのである・・・





2015年6月18日木曜日

健全なる猜疑心

 先日、『会社勤めでお金持ちになる人の考え方・投資のやり方』という本を読んでいた時のことだ。バブル期の土地の高騰の話が出てきた。当時東京都23区の土地の値段とアメリカ合衆国丸ごとの土地の値段が同じになり、当時は誰もそれを異常だと思わなかったという説明がなされていた。確かにその説明を聞くと、その通りだと思う。当時のことはよく覚えているが、確かに異常だったと思う。

 著者は、「小学生でもおかしいと思うことを当時は誰も疑わなかった」と語っていた。確かにその通りであるが、そうであってもそうした説明を聞かされると、どうも私は「なるほど」と思うより「そうだろうか」と思う方が多い気がする。何か根拠があるわけではない。直観的にそう反応してしまうのである。一見、もっともそうに聞こえるほど、そうである。まぁもともと天の邪鬼だからかもしれない。

 当然、この説明を読んだ時も「そうだろうか」と思ってしまった。別にそういうことだってありうるのではないか、と思ってしまったのである。そこで簡単に調べてみる。東京23区の面積は621平方キロ。一方アメリカ合衆国の面積は9,628,000平方キロ。その差15,500倍である。

 価格の比較で、銀座一丁目の土地の値段は、ある場所で現在坪当たり約920万円。北海道阿寒湖周辺の某場所だと坪当たり3千円。その差実に3,067倍である。土地の値段はその利用価値にある。銀座一丁目の土地と阿寒湖周辺の土地とでは当然大きな差があって然るべき。その差3,000倍が妥当とするなら、先の23区の土地がアメリカ合衆国の土地の値段の15,500倍となったのは、やっぱり開き過ぎなのだろう。ここまで比較すれば、「異常だ」というのも納得できる。

 こういう考え方は、自分ではいいと思っている。たぶん、こうした考え方をしていると、詐欺被害には遭わない気がする。「オレオレ詐欺」のニュースを聞いて、よくこんなのにいまだに引っ掛かるものだと言う声を聞くが、年寄りでなくても、人の話を素直に鵜呑みにする人は、多かれ少なかれ詐欺被害に遭う可能性は高いと思う。だが、自分はたぶん大丈夫だという気がするのは、こういう考え方をするからなのである。

 ではそれが良いかというと、人間関係ではそうとも言えない。というのも、人と議論していると、しばしば「それは本当か」と反応してしまうのである。当然、相手はいい気がしないだろう。自分の意見の根拠をつかれ、しかも確信をもって答えられず、その上自分の主張の根拠をぐらつかせられたら、良い気分はしないものだろう。自分の意見を否定されるほど気分の悪いことはない。下手にやり込めてしまうと、相手の反発を招いてしまう。

 よく、会話の基本として、「Yes,but~」ということが言われる。相手の意見を一旦受け入れ、同意して認めた上で、「でもね~」とやれというわけである。こうすると言われた方は素直に自分の考え方を見直してみようとするという。なるほどその通りだと思うし、そうした「モノの言い方」を併用しないとかなり危険だと自覚はしている。ただ、できているかどうかは不安なところだ。

 まぁそれでも一応ここまでの自覚はあるので、救いようはあるのではないかと思わなくもない。意識するかしないかは大きな違いがあるからである。人と議論する時は、常にブレーキを意識する。これを心がけようと思うのである。自分では健全だと思っている猜疑心は、内に秘めたるものにしようと思うのである・・・

 【本日の読書】
これから日本で起こること―雇用、賃金、消費はどうなるのか - 中原 圭介 思考力を鍛える50の哲学問題 - 小川 仁志





   
 
 

2015年6月13日土曜日

救急車の有料化

 昨日の産経新聞に救急車の有料化議論が載っていて、興味深く読んだ。そもそもは、救急車の出動件数が増加していて過去最多を記録し、その稼働状況は限界に来ているという問題が発端らしい。そして搬送者の半分が搬送の必要のない軽症者だという。中には「救急車で搬送されると待たされずに診てもらえるから」という不届き者もいるらしい。こうした背景から、救急車の有料化案が出てきており、賛否両論が併記されていた。

 話はそれるが、この討論はいいと思う。賛成反対それぞれの意見が併記されていて、読者はそれぞれ比較できる。これこそが新聞の役割だと思う。と当たり前のことをわざわざ言うのも、新聞の実態はそうではないからである。例えば、産経新聞は原発推進派だから、原発稼働に関する記事は「賛成目線」で書かれている。反対論によっていかに国益が削がれているかが、事あるごとに強調されている。何も考えずに読む人はそういうものかと思うだろう。こういう世論のリードはけしからんと、常々思っているから、こうした公平な議論は好ましい限りである。

 さて有料化に対する反対論は、「弱者切り捨てに繋がる」とするわかりやすい理屈で、必要のない利用をどう防ぐかは課題だとしつつ、
・搬送後に医師の判断で応分の負担を求めるのはいい(追加罰金という形だろう)
・無料は日本が世界に誇る制度(有料の国も多いらしい)
・不必要な利用者には他者の命を脅かしていることを伝える(要は市民教育だ)
といった方法を主張している。わからなくもないが、説得力十分とはとても言えない。

 よくよく考えてみれば、この問題を解決する方法は2つしかない。すなわち、「救急車を増やす」か、「利用を減らす」かだ。反対者は前者を主張しており、賛成者は後者の具体案として有料化を主張している。だが、「この国家の財政難下で、救急車を増やす」という選択肢は安易に取れないだろう。となれば、「利用を減らす」という観点から考えないといけなさそうである。そうなると、やっぱり有料化案しかないのだろうかと思うも、それについてはちょっと気になることがある。

 それはかつてマイケル・サンデル教授が、『それをお金で買いますか』で採りあげていたイスラエルの保育園の例である。その保育園では、親が子どもの迎えの時間に遅れるのに困り、これを防ごうと罰金制度(有料化案だ)を導入したという。ところがふたを開けてみれば、それが効果を発揮するどころか、逆に遅れる親が増えてしまったという。「お金を払えば遅れてもいい」という風に解釈されてしまったのである。たぶん、遅れないように必死に頑張っていた親たちは、「お金を払えば頑張らなくても遅れていける」と考えたのだろう。こうした危険性はないだろうかと思うのである。

 つまり、「お金を払えば(軽症でも)救急車を呼んでいい」と思われてしまわないかということである。そもそも「タクシーで来ると待たされる」という理由で救急車を呼ぶような不届き者である。タクシー代だと思ってお金を払うつもりなら、有料化も効果はない。何せ救急車は信号待ちもなく、確実にタクシーより早く病院に着く。さらに救急扱いで優先的に診てもらえるから、少しぐらい割高でもその方がいいと思う人が出てきても不思議ではない。安易な有料化は、実は逆効果かもしれないと思う。

 ならどうするか。個人的には、「軽症と判断した段階で搬送拒否」というのがいいような気がする。新聞では、その方法は「判断が難しい」とされていたが、そうだろうかとも思う。迷ったら運べばいいだけだし、そもそもタクシー代わりに使おうとする輩なら、救急隊員にも十分見分けられるだろうと思うのである。一度拒絶されれば、「日に2度も救急車で来る」ということはなくなるだろう。

 あれこれと考えてみると、なかなかいい思考トレーニングになった。これは良いコーナーだと思う。願わくば、第1面からすべてにわたってこうした公平な観点からニュースを伝えてもらいたいと思うのだが、たぶん期待はできないのだろう。

 残念だがそんな期待は無理な以上、(偏った意見の記事は)自分の見る目を養えていいと、前向きに思っていこうと思うのである・・・


   

2015年6月7日日曜日

汗を流す快感

昨年から大学のラグビー部のシニアチームに加わって練習に参加している。
その昔は、「タックルができなくなったら、ラグビーなんてやるものではない」と考えていた。今も基本的にはその考えは変わっていないが、若干の修正が入っている。
それは、「試合はやるべきではない」に変えたのである。

小学生の頃からスポーツには親しんでおり、野球やバスケットボールなど、チームに所属してそれなりにしっかりやった。高校から始めたラグビーは、結局社会人になるまで続け、子供が生まれるまで「タックルができる」体力を維持していた。されど、織田信長も生きられなかった年齢となると、体力の衰え=運動不足は如何ともし難くなっている。

それでも、スポーツマンの本能というべきだろうか、「体が動かなくなる=体力が衰える」事に対する危機感から、平日は帰宅すると腕立て伏せ、スクワット、腹筋をして何とか体力維持に励んでいる。そこにもう一つ「走る」という行動を加えたいのだが、ただ淡々と走るという行為がどうも好きではない。マラソンは昔から嫌いなのである。

そんな自分にとって、シニアチームの練習はちょっとした気付きであった。
「年を取って動けなくなったのに、昔を懐かしんで“ラグビーもどき”をやるのはみっともない」と思っていたのであるが、練習は別に年を取っても普通にできる。
ボールを持って走り、ボールを蹴り、パスをしたりという動きは、昔のままできるのである。
「ただ走る」よりも、ボールを扱いながらの方が遥かに楽しい。
「まだできる部分」だけでも、十分楽しく動けるのである。

そんなシニアチームの、本日は月に一度の練習日。
昨年購入した練習用のジャージに袖を通し、人工芝グラウンドに立つ。
芝生の匂いは漂ってはこないが、かつて馴染んだ土よりも、やっぱり感触がいい。
十分なストレッチは、衰えた肉体には欠かせない。

走り始めると、すぐに息が上がる。
昔は涼しい顔をして、息一つ乱さずに動いていたであろうレベルの軽い動きですらそうである。ただ、無理は禁物。なにせ頭の中の自分は、今も現役時代そのまま。
いやむしろワールドカップなんぞ観過ぎて、現役時代以上に動けるつもりになっているから、とっても危険である。体の軋みと悲鳴に素直に耳を傾けつつ、無理なく動くように心掛ける。

一通り汗を流すと、心地良い疲労感が出てくる。
木陰に入れば、風が汗を運び去って行く。
7月、8月は休みとマネージャーからの通知。
少々不満も残るが、60代以上のメンバーが過半数を占めているから仕方ないのかもしれない。
個人的には、毎週でもいいくらいなのだが・・・

「健全な精神は健全な肉体に宿る」ではないが、自分にとって体が動くということは、気力の充実にも繋がっている。それは仕事にも通じるエネルギーである。
80歳を超えて、いよいよ走る事さえできなくなったら、この気力はどうなるのだろうと思ってみたりする。

まぁ、そんな先の心配までしたところで始まらない。
今のチームでの練習を楽しみながら、少しずつ運動量を増やしていきたいとも思う。
無理しない程度に無理をしつつ、体を動かす楽しさを味わい続けたい。
せっかく身につけた“本能”を失わずにいたい。
それが自分自身の自信を維持することになるような気がする。

走って汗を流す快感をいつまでも味わいたいと思うのである・・・
     

2015年6月3日水曜日

責任感

 「仕事ができる」とは、何をもってそういうのだろうと、ふと考えてみた。いろいろと表面的には言えるだろう。ただ、「仕事ができるようになるために必要なもの」は、となれば、それは間違いなく「責任感」だろう。

 ボランティアで参加している集まりで、先日腹立たしいことがあった。ホームページを作成しようということで、一番詳しい人に担当してもらうことになった。そして一応半分完成し、運用をスタート。1年ほど前のことである。されど残りの半分がなかなか完成しない。「○○が足りない」というから、それを用意した。なのにいつまでたっても完成の兆しがない。そしてとうとう、先日その担当者は作業を投げ出した。

 メンバーもわからないから、全部彼に「お任せ」だったのは事実。されど、いろいろと人に作業をさせておいて、挙句の果てに放り出したのは、どうにもいただけない。しかもそのことに関しては、表面的なお詫びの言葉はあったものの、「メンバーの利用が少ない」、「メンバーで話し合いがなされていない」などという問題点の“客観的な”指摘が続き、さも「自分も悪いがその他の大きな要因が・・・」と言いたげである。

 よくある「できないくせにへ理屈だけは一人前」のデキナイ君の典型である。自分の部下なら、指導して考え方を叩き直すところだが、ボランティアではそうもいかない。
『苦しいこともあるだろう 言いたいこともあるだろう 不満なこともあるだろう 腹の立つこともあるだろう 泣きたいこともあるだろう これらをじっとこらえていくのが、男の修業である』(山本五十六)
何と厳しい修業だろう・・・

 自分だったらどうするだろうと考えてみる。まずは初めに全体像からだろう。メンバーに意見を聞いて、目指すものの方向性を統一する。各人に割り振る作業があれば、協力を要請する。極端に各人間の負担が偏らないように調整する。「チームワーク」を意識してやれば、問題点が出てきてもすぐみんなで対処できる。そして、最後どうにもならなくなったら、自分一人で徹夜してでもやり遂げるだろう。彼は土壇場まで一人で抱え込み、そして放り出した。

 メンバーの利用が少ないのなら、メンバーみんなに意見を聞いて回って改善点を議論する。話し合いが必要なら、自分で日程調整して、みんなを招集して必要な意見を引き出す。作業が大変なら、手伝ってもらうことを考える。「問題点がある」と他人事のように言うのではなく、どうやったら解決できるのか我が事として考える。もちろん、「期限」も意識する。自ら主体的に動けば、自ずから道は開けるというものである。

 そうしたものは、積み上げたノウハウ的な要素もあるが、何よりベースは「責任感」だ。「他人事」ではなく、「我が事」としてとらえられているかどうか。そして「自分がやらないといけない」という意識を持てるかどうかである。何事であれ、そういう意識を持って取り組めれば、いずれ大きく成長できるだろう。もはや「成長」などと言っていられない年齢であっても、だ。

 スポーツであれ、仕事であれ、意識の差は重要だ。どんな気持ちをもって取り組むかで、己自身に跳ね返ってくる結果は大きく異なる。自分自身、そういう気持ちでもって取り組んできただけに、今回の彼の残念なスタンスがよけい目についてしまうのかもしれない。改めてどういう意識で物事に取り組むかが、いかに大事かということがよくわかった出来事である・・・


【本日の読書】
0ベース思考---どんな難問もシンプルに解決できる - スティーヴン・レヴィット, スティーヴン・ダブナー, 櫻井祐子 千日のマリア (講談社文庫) - 小池真理子