2017年1月29日日曜日

雇用機会均等法時代の若者たち

先日のこと、我が社の賃貸物件にある方から申し込みをいただいた。世界に冠たる商社マンにお勤めのその若者は、結婚こそしているものの、同じ商社にお勤めの奥様は現在海外赴任中とのことであった。聞けば結婚当時は逆にご主人が海外赴任しており、結婚以来数年、いまだ一緒に住んだことがないと言う。かつては、結婚すれば女性は仕事を辞めるものとされていて、そう言う我が妻も結婚と同時に退職して家庭に入っている。ほんの20年ほど前はそれが普通であったのである。

翻って現代は、女性の総合職も当たり前となっている。家庭でも職場でも「女が男を支える」と言う図式は崩れ(もっとも我が家のように家庭では事実上女性の独裁状態にあるところも多いだろう)、男であろうが女であろうが(いろいろと問題はまだあるのだろうが)、ひとまずスタートラインは一緒になってきているようだし、そうなると結婚や出産を機に「女性が仕事を辞める」というかつての方程式もなくなり、この若者のような夫婦の姿も珍しくはなくなるのだろう。

そんな時代に生きる彼らのことを人ごとながらあれこれと考えてしまった。
1.        子供ができたらどうするのだろう?
2.        今は同期でいいが、いずれ昇進で差がついて奥様の方が偉くなったら?
子供ができたら、共働きはいいとして、少なくとも一緒に住むという状態は維持したいところなのではないだろうか。商社マンであれば、「夫がアメリカ、奥様は香港」などというケースもありうるだろうし、そうなると日中は実家の両親に子供の面倒を見てもらうというのも難しくなる。会社が配慮してくれるのだろうかと心配になってしまう。

 また、特に昇進の場合はもっと深刻な気もする。夫が偉くなれば問題はないが、奥様が偉くなってしまった場合、男には変なプライドというものがあるから、職場や友人知人などの周りの目や子供ができた場合の子供の目など、自分の場合に当てはめて想像すると怖いものがある。男同士でさえ、同期が自分より昇進するのは心中穏やかではいられないのである。妻が偉くなるだけでなく、自分の昇進が止まり、「妻の大学時代の後輩の部下」などになってしまったらと想像の翼を広げると背筋が寒くなる。

もっともこういう「怖い」という感覚は、我々旧世代の意識かもしれない。今や「専業主夫」も珍しくない現代の若者の感覚からしたら、別にどうということはないのかもしれない。多分この「感覚」は男だけのものだろうし、女性からして見たらそんなことをウジウジ気にするなんてと思われるかもしれない。おそらく、いまだに不十分な職場における男女の平等が解消されない限りは、男にはこの感覚が付きまとうような気がする。男には相手を罵倒する言葉として、「女の腐ったような奴」というものがある。女の下になっている男に対する男の視線は冷たいだろう。

スポーツの世界では、すでに「なでしこ」がいろいろな「男子が勝てない分野」で世界を制している。ビジネスの世界にもその流れは押し寄せてくるのかもしれない。それはそれでいいと思うし、むしろ早くそうなるべきなのだろう。どちらかといえば企業戦士となって「家庭を顧みな」くなるのは男の性質で、女性は逆にうまくバランスをとる気もする。男中心の世界は確実に終焉し、そうなると女の生き方に学ぶことも増えてくるのかもしれない。

最近妻がパートに出るようになった我が家が、そういう状態になることはもはやない。だが、子供たちの生きる未来は確実にそういう世界だし、親としても意識を柔軟に保つ必要があるだろう。いつの時代も変化はつきもの。こういう世の中の変化にも順応していきたいと改めて思うのである・・・


【今週の読書】
 さらば価格競争 - 坂本光司&坂本光司研究室 潮騒 (新潮文庫) - 三島 由紀夫 えんとつ町のプペル - にしの あきひろ






2017年1月25日水曜日

論語(学而第一の11)

子曰。父在觀其志。父沒觀其行。三年無改於父之道。可謂孝矣。
()(いわ)く、(ちち)(いま)せば()(こころざし)()(ちち)(ぼっ)すれば()(おこない)()る。三年(さんねん)(ちち)(みち)(あらた)むること()きは、(こう)()()し。

【訳】先生がいわれた。父のあるうちはその人の志しを観察し、父の死後ではその人の行為を観察する。三年の間、父のやり方を改めないのは、孝行だといえる。(岩波文庫)
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論語については、祖先崇拝、長幼の序重視など先人に対する敬意に溢れている。それはそれで一つの確たる信念ということで、理解できるところである。この部分もそれを表していて、父親の存命中はその志を敬い、死後はその功績を敬うとする。そしてさらに3年間(服喪期間)は、父親のやってきたことを踏襲するのが真の孝行息子ということである。

 基本的に反対する内容ではないと思うが、現代との時代背景の違いによる考え方の違いを感じる部分だと思う。そもそもであるが、「父親の志」とは何だろうかと考えてみる。パッと思うのは、親の仕事を継いだ場合の経営方針、経営理念であるが、そうでない日常生活におけるそれと言われれば困ってしまう。孔子も父親の職業をイメージしていたのだろうか(わざわざ「父」としていることでもあるし・・・)。

翻って、現代は親の職業を継ぐということが、かつてよりなくなっている。江戸時代は身分固定の時代ゆえ、少なくとも長男は父親の跡を継いでいたし、論語の教えもそのまま通用したのだろう。だが、サラリーマンとして企業勤めが一般的となった現代社会は当時と様相が異なる。多くのサラリーマンにとって見るべきものは「父親の背」ではなく、「上司の背」であろう。となると、父の志に触れるとしたら家庭内ということになる。

さらに家庭内となると、父親の権威が低下しているという問題もある。例えば我が家に当てはめて考えてみると、子供たちは日々母親に小言を言われている父親の姿を目の当たりにしているわけである(T-T)。そういう中で育って、果たして我が家の子供たちが「その志」を(たとえ示したとしても)見てくれるだろうかと思わざるをえない。

さて、そうした個別の心もとない状況はともかくとして、ではいわゆる「親の背を見て育つ」ということはどうだろうかと考えてみる。自分の場合は、父親から何を見て学んだであろうか。一番大きいのは、真面目にコツコツと働く姿だろう。自営業だった父は印刷業を営んでおり、小さい頃から父の働く工場に顔を出す機会がそれなりにあった。ある程度成長したあとは、紙積みなどを手伝ったものだし、そこで働く姿を目にし、そして時折話すことを聞いていた。今も私の中にある、何かやるとすると毎日コツコツやることが苦にならないという性分もその影響かもしれない。

孔子の言う「志」とは違うかもしれないが、それなら3年どころか、たぶん生涯改めることはないであろう。では、我が家の子供たちはどうであろうかと考えると、サラリーマン家庭の我が家では働く姿を見せるということができない。となれば、日頃の言動ということになる。そういう意味では、息子とはよくいろいろな話をしている。先日は、アパホテルのニュースに絡んで「南京大虐殺」の話をした。こういう語らいが大事な気がする。

「志」などという大それたものはないし、仮にあったとしてもそれを後生大事に守ってほしいとは思わない。ただ、生きていく上で自分自身が考えてきたことを語って聞かせ、参考にしてもらいたいと思うだけである。我が息子に望むとすれば、父の考えに盲目的に従うのではなく、むしろ批判するのを厭わずに受け止めてほしいと思うところである。

この変化の激しい時代、論語の時代とは明らかに異なり、当時は立派に通用していた考え方も、現代ではそうはいかないということも多い。「父の志」が何かによっても違うが、ただ孝行の為だけに、3年間盲目的に敬うことは難しい気がする。その精神は大事にしつつ、折々にあわせた対応というものが必要となるだろう。

孔子の言葉は、子の立場からのものであるが、親の自分の立場から言うと違うものとなる。もしも孔子の言うように黙って従う志を残すとしたら、自分は何を示すだろうかと考えてみる。それは間違いなく、「考え方」だ。
「常に考えよ- COGITO ERGO SUM!
これこそ、我が子たちに残したい「志」である・・・


【本日の読書】
 Q思考 - ウォーレン・バーガー, 鈴木 立哉 さらば価格競争 - 坂本光司&坂本光司研究室





2017年1月22日日曜日

天下りを考える

文科省の組織的天下り認定

内閣府の再就職等監視委員会は20日、文部科学省が2015年、吉田大輔元高等教育局長に早稲田大教授への天下りをあっせんし、国家公務員法に違反したと認定する調査報告書を公表した。組織的なあっせん行為や、職員が監視委の調査に虚偽報告をし、隠蔽工作をしたことも明らかにした。ほかにあっせんが37件あり、うち前川喜平事務次官自身が関わった2件を含め9件は同法違反の疑いがあると確認。文科省は前川次官ら7人の懲戒処分を発表した。政府は他府省庁も調査する。
共同通信
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 今週は文部科学省の天下りがニュースになっていた。法律に違反している以上、厳正に対応してもらいたいと思うが、天下り自体はわからなくもない。実は天下りは民間でも行われている。例えばそれは私がかつて在籍していた銀行業界でも一般的である。銀行はだいたい50代前半で退職し、関連会社か民間企業に「転籍」するのが慣わしである。それが当たり前で、現役も40代半ばになると研修を受けて準備を促されるのである。適宜人を入れ替えて新陳代謝を計ろうと思ったら、こういうことも必要だろう。

銀行の場合、一旦「退職」するのでその時点で退職金をもらう。そして新しい給与体系となるのであるが、それは銀行員時代に比べて6割程度に下がるものである(銀行に残る道もあるが、所得に関しては同じ扱いだ)。関連会社はともかく、民間企業は銀行とは関係のない、主として取引先である。然るべきポジションを用意してもらって受け入れてもらうのである。形としては官僚と同じで、立派な天下りである。

どこでもいいというわけにはいかないから、銀行の各支店は日頃付き合いのある取引先の中から業績等を勘案し、問題ないと判断した先を選んで受け入れを交渉する。そういう「受け入れ先確保」も業績評価に反映されるから支店長も一生懸命やる。取引先もそれぞれの事情や思惑からこれを受け入れる。うまくマッチすれば、中小企業は一般的に人材が不足しているから、土台がしっかりしている社員を確保したい中小企業としてはメリットもある。

ただ大概は受け入れるのは「思惑」からだろうと思う。受け入れに伴い「恩を売れば困った時にお金を借りられる」と考えるのは、自然だろう。銀行も社員を受け入れてもらっている以上無下にはできない。ただ、そういう思惑だけだと、転籍した銀行員も歓迎はされず、居心地悪くなって銀行に戻ってくるというパターンも実は多い。このあたりは元銀行員の作家池井戸潤の『オレたち花のバブル組』にも詳しく描かれている。

今回の天下り問題は、送り出す官僚だけの問題ではないと思う。当然、受け入れる側があっての話であるからである。今回は、天下の早稲田大学が受け入れ先であった。どういう思惑があったかはわからないが、早稲田大学ともあれば人材確保に困ってということはないだろうから、当然「思惑」があっての受け入れであろう。許認可なのか交付金なのかはわからないが、早稲田大学は私立大学で全国第2位の「私立大学等経費補助金」(平成27年度実績90億円)をもらっているから、何か関係があるのかもしれない。「魚心あれば水心」である。

こうした天下りが悪いのかと言われれば、やはり国家公務員は公平性の観点から良くないだろう。それに過去、出向していた特殊法人では、元官僚が天下りしてきていて、数年でまた退職して別のところに天下りしてという実例を目にした。退職金も一千万円単位であると聞き、驚いたものである。中小企業であれば定年まで真面目に勤めてようやくもらえる金額を数年の「腰掛け」でもらえるのである。資本主義の理不尽さであるが、批判され規制されるのも感情的には当然である。

これを法律で規制しようとする考えは悪くはないと思う。当の官僚たちも泣く泣く制度を作ったのに違いない。だが、本当に効果的たらしめようと思ったら、受け入れ先にも罰則規定(例えば1年間の補助金交付停止とか)が必要だろう。人間のやることには漏れがあり、工夫次第で簡単に網の目を潜れるものだからである。一方だけでは網の目も縮まらないだろう。

銀行員もそうだが、関連会社ではなく、民間企業に行こうと思えば実力が必要である。もともといた社員と違うという実力が示せなければ、単なる「資金調達手段」でしかない。受け入れる企業も「頼まれて仕方なく(断っていざという時に支障があっても困る)」とか、「お金を借りやすくなるだろう」とかの思惑から受け入れたとしても、実際来た人間が優秀であれば大歓迎されるはず。自分はそう思って銀行員時代には力をつけるべく意識していたものである。

今、それは実際に実を結んでいる。会社の方針に影響を与えられれば仕事も楽しいし、給料以上のやりがいもある。自分の考え、やってきたことは間違いなかったと実感している。天下りもナァナァの世界ではなく、実力で引っ張られるようにならないとと思う。送り出す方も受け入れる方も、そして当の本人も「実力」だけで判断されれば何の問題もないだろう。「一人天下りを受け入れたら、前年比補助金は10%減額、減額分は受け入れた本人が貢献する」とすれば面白いのではないかと思う。それで天下りが減るなら、やっぱり「お土産」目当てだったということである。

まぁ人のことである。自分は自分。恥ずかしくない力をこれからも磨き続けようと思うのである・・・



【今週の読書】
 Q思考 - ウォーレン・バーガー, 鈴木 立哉 これ、いったいどうやったら売れるんですか? 身近な疑問からはじめるマーケティング (SB新書) - 永井 孝尚





2017年1月18日水曜日

頭を下げさせるもの

 先日、元銀行員だったというあるお方にお会いした。某銀行のニューヨーク支店で支店長をやられていたという立派なご経歴の方である。その方が某銀行の出身ということはお聞きしていたが、「ニューヨーク支店長」だったという肩書までは存じなかった。なぜわかったかというと、その方が自ら語ったからである。

 元銀行員で支店長経験者は、必ずといっていいほど(と言っても私もそれほどたくさんの方とお会いしているわけではないのだが・・・)出てくるセリフがある。それは、
「私が〇〇で支店長をやっていました時に~」
というセリフである。冒頭の元ニューヨーク支店長も、見事に「私がニューヨークで支店長をやっていました時に~」と語っていただいたのである。

 何がおかしいのかと言えば、「支店長やっていました」という部分である。「私が〇〇支店にいました時に~」と言えば済むものをわざわざ「支店長をしていた」という事実を付与する意図は何なのかと思う。それは一言で言ってしまえば「自慢」、「自負」以外の何物でもない。意図してか否かは別として、ご本人に誇らしい気持ちがあることは間違いない。

 銀行で支店長をやるということは、今は昔に比べてだいぶステイタスが下がっているが、それでもまだ一国一城の主である。それなりに出世しないとなれないし、そこは大したものだと思う。ましてやひと昔前の支店長は尚更である。本人も自身のキャリアに鼻の高さを感じているのも事実であろうと思う。そうした誇らしさが、思わず言わずもがなの「私が〇〇で支店長していました時に~」という言葉になって表れるのであろう。

 そうしたことを気にする人と気にしない人がいるだろう。私はやはり気になる方である。会社内の地位は世間の地位とは関係ない。「支店長をしていた」という事実は、銀行内では大したものだと思うが、世間でそうとは限らない。だから業務では肩書を言う必要があっても、業務外の第三者に言う必要性は何もない。言いたいのだろうとは思うが、言われたところで、「へぇぇ」と思いながらも聞き流すしかない。

 そもそもであるが、人間は関西弁でいうところの「自慢しい」だと思う。つまり「自慢したがり」である。かく言う私もそういう気持ちは強く持っている。あまり露骨なものは自分でも嫌になるが、例えばの実例で自分の実績を持ち出すことはよくある。わかりやすい実例を挙げたい場合は、「仕方なく」自分の実績を持ち出すのであるが、その時の肩書きには当然触れていない。まぁ、「人の振り見て我が振り直せ」で、ほどほどに自制したいと思うのではあるが・・・

 「実るほど首を垂れる稲穂かな」という言葉がある。私の普段尊敬している方も、八十を越えてもまだまだお元気で、しかも誰もが認める大組織のトップを歴任された経歴を持っているのに、それでいて自慢めいた話はまったく出てこない。よくよく聞いてみると、総理大臣と関わり合ったりしているのだが、そんなことは聞かねば教えてくれぬほど謙虚な方である。実績においては真似すべくもないが、その姿勢だけは真似できるし、真似したいと思うのである。

 私もこれから年を取り、ますます実りゆくであろう。その時にいつまでも過去の自分を誇っているだけではありたくないものである。首を垂れる稲穂であるべく、心掛けていたきたいと思うのである・・・


【本日の読書】
 組織サバイバルの教科書 韓非子 (日本経済新聞出版) - 守屋淳  つまをめとらば (文春文庫) - 青山 文平






2017年1月15日日曜日

ワンマン化する理由

 先日のこと、社長と会話していて、ある大企業の役員を歴任した方の話になった。(我々の共通の知人である)その方は、確かにすごい人なのだろうが、態度が横柄でありさらに物事をすべて自分でポンポン決めていくというタイプであった。決断力に優れているとも言えるが、典型的な「ワンマン」タイプである。ちなみに「社長なんてみんなワンマンだろう」と語る我が社の社長は、しかしワンマンタイプではない。

考えてみれば、ワンマンになるのも当然だろうと思う。強い思いがあって創業した社長であれば、「これをやりたい」というものがあるだろうし、それに向けてあれこれ指示を出すだろう。例えば従業員から違う提案がなされても、自分の趣向に合わなければ却下するだろう。部下に意見を募り、たとえ全員反対しても、社長は「鶴の一声」で決めてしまえる。

部下の立場からすると、あれこれ意見を言っても最終的に却下されればがっかりする。心の中では憤慨するかもしれない。そしてそれが続けば、いずれ「言うだけ無駄」という感情が沸き起こってくる。そうすると、あとは「言われたことだけやってればいいや」という気持ちになり、積極的な気持ちは失せてしまう。そうなるともう立派な「指示待ち族」の出来上がりである。

そのような過程で「指示待ち族」になってしまうと、もう脱皮は難しい。そして社長の目からすると、そういう指示待ち族の部下はあてにならない。あてにならないから意見を求めるようなことはしない。頼りにならないからすべて自分で決めないといけないとなる。さらに一層「ワンマン」に拍車がかかるというわけである。

そういうワンマンがいいか悪いかと言えば、それはなんとも言えない。クロネコヤマトの小倉元社長は、低迷する事業を打開するため宅急便事業へのシフトを考えた時、役員はみんな反対したと言う。役員の意見を聞いていたら、ヤマト運輸と宅急便事業はこの世になかったかもしれない。また、以前銀行員時代に担当していた不動産会社は、役員の反対を押し切って社長が単独で不動産を買い進め、バブルの崩壊で一気に倒産の瀬戸際に追いやられた。

部下の立場であれば、煮え切らないリーダーほどイライラさせられるものはない。「リスクを取れないならそこをどけよ」と言いたくなる。臆病と慎重、勇敢と無鉄砲は紙一重。どちらに転ぶのかは、受け止め方次第かもしれないし、あるいは実績がモノを言うのかもしれない。みんなの反対を押し切って進めた結果、成功すればカリスマとして誰もが崇めるようになるだろうし、失敗すればバカ社長だ。ではもし自分だったらと考えると、果たしてどうするだろう。

結果はともかく、プロセスについてはやっぱり説明をきちんとするだろうと思う。なぜ自分はこうするのか。その理由と考え方を部下に説明するだろう。部下に意見を求めた上で、それに反した自分の意思を通すのであればなおさらである。納得するかしないかは重要ではない。自分がどういう考えでそうするのかを示すことが大事だと思う。

中小企業であれば、社長は銀行からの借入金の連帯保証人になっていることがほとんどであろう。それだけ事業にリスクを背負っているのであり、人の意見で失敗したくはないだろう。最終的にすべて自分で決めるとしても、「指示待ち族」を作り出すことは避けたいところである。そのためにはやはり部下との対話と、その意思の尊重は大切である。その上であれば、部下も社長の独断に文句も言うまいと思うのである。

先の役員は、下の意見は「形だけ聞く」と言うタイプである。もう結論ありきであり、それがわかっているからこちらも言う気が失せる。まぁ同じ会社でないのが幸いであるが、自分はああなりたくはないと思わせる方である。人の振り見てではないが、反面教師は立派なお手本。自分のなりたいリーダー像が明確になると言う効果もある。そう考えて、良いように参考にさせていただこうと思うのである・・・


【今週の読書】
 日経テクノロジー展望2017 世界を変える100の技術 - 日経BP社 ロケット・ササキ―ジョブズが憧れた伝説のエンジニア・佐々木正―(新潮文庫) - 大西康之







2017年1月12日木曜日

前例踏襲の安易な道

年が明け、仕事始めの5日、我が社では社長以下全員で近所の神社に参拝した。昨年から始めたのであるが、ある事について担当者に確認したところ、「昨年と同じにした」との答えであった。なぜ、昨年と同様にしたのかと問うたところ、口ごもってしまった。何も考えずに、ただ「昨年もそうしたから」そうしたというわけである。つまり、「前例踏襲」である。

 昨年までボランティアでやっていた財団の勉強会も、はじめこそあれこれ考えるものの、2回目からは「前回と同様」となりがちだった。まぁ一度やって問題がないことはわかっており、「確実」という意味でも「前例踏襲」はよくあることである。そうした例は身の回りに溢れていて、一々挙げていたらキリがないところである。

 以前、笑い話として聞いたのであるが、ある銀行の頭取が、ある決断を迫られた時、部下に以下の3つを確認したという。
 1.   金融庁は何と言っているのか
 2.   他行はどうしているのか
 3.   過去はどうだったのか
この話の本質はもちろん笑い話ではなく、銀行頭取ともあろう人物がこの程度の判断しかできないことを揶揄しているわけである。ここでも「前例」は大事にされている。

なぜ、みんな「前例」にこだわるのかといえば、それは実に簡単で、「問題がないことが証明されているから」である。何か初めてのことをやろうとすれば、そこには当然「うまくいかなかったら」というリスクが伴う。そのリスクは軽減はできるかもしれないが、(初めてである以上)ゼロにはできない。最後は「えいやっ!」しかないのである。

これを組織の上司(責任者)の立場から見ると、ダメだったら自分の評価が下がるわけで、組織の中で少しでも減点を減らしたいと考える人であれば、少しでもリスクのあることは我慢ならないのである。「どうしてそれを許可したのか」と問われた時、「既に答えの出ているやり方=前例」は誠に良い言い訳になるのである。お役所や銀行など大きな組織ほど、リスクに対する許容度は小さくなり、よって「前例」が幅を利かせることになるのである。いわゆる「キン○○が小さい」というやつである。

今一つは、部下の立場からの「面倒な事の回避」だ。「昨年もそうしたから」、「前回もそうやったから」という理由で同じやり方にすれば、何も考えなくとも良いわけで、実に簡単である。今回はどうしようかと、また一から考えるのは普通に考えても面倒であろう。上司から詰められた時にどう答えるかとあれこれ考えるのも大変な事。「前回同様です」と答えれば実に簡単である。だから面倒を嫌がる組織の末端の担当者ほど、安きに流れるのである。

こうして上司も部下も考えることを放棄して前例踏襲に走るわけである。これでいいという人はいいのであろうが、それだと当然「考える力」はつかないし、度胸もつかない。それでいて、言葉では「チャレンジ精神」なんて言うものだから本当に片腹痛くなる。面倒であっても、考える力をつけるためには必死になって、「前回と違う事」を考えないといけない。私はそういう意識でこれまで来たので、冒頭の担当者の「前年と同じ」という言葉にピクリと反応したのである(そんな私の考え方を知っているその担当者はバツが悪そうであったが・・・)。

「前例がない」となれば、「なら自分が前例を作ればいい」のだし、「前例がないからダメ」と上司に言われたら、「俺は判断能力がないから判断できない」と脳内で翻訳して理解すればよい。そういう判断能力のない人に判断させる工夫をあれこれ考えていれば、たとえダメでも自分の考える力はつくだろう。何よりも自分のために、「前例踏襲」の考え方は捨てたいと思うのである・・・


【本日の読書】
 日経テクノロジー展望2017 世界を変える100の技術 - 日経BP社 ロケット・ササキ―ジョブズが憧れた伝説のエンジニア・佐々木正―(新潮文庫) - 大西康之





2017年1月8日日曜日

論語雑感(学而第一の10)

子禽問於子貢曰。夫子至於是邦也。必聞其政。求之與。抑與之與。子貢曰。夫子温良恭儉譲以得之。夫子之求之也。其諸異乎人之求之與。

子禽しきん子貢しこういていわく、夫子ふうしくにいたるや、かならまつりごとく。これもとめたるか、そもそもこれあたえたるか。子貢しこういわく、夫子ふうしおんりょうきょうけんじょうもっこれたり。夫子ふうしこれもとむるや、ひとこれもとむるとことなるか。

【訳】
弟子の子禽が先輩の子貢に問うた、「先生(孔子)はどの邦に行かれても、必ず政治の話がメインテーマになりますが、これは先生から持ち掛けたものでしょうか?それとも先方から持ち掛けられたものでしょうか?」と。
子貢はこれに答えて、「それは、先生がおだやかで・すなおで・うやうやしくて・つつましやかで・へりくだるお人柄であるから、自然に先方から持ち掛けられたのだよ。時には先生の方から話しを持ち掛けることもあるが、それは他の人がやるような自己PRとは全く違っていたね」と。

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孔子の弟子同士の会話であるが、孔子はどこへ行ってもその国の政治のことを聞かれるという。それは自らそうするのか、それとも相手から尋ねられるのかと問うているのである。そしてそれに対し、孔子は五つの徳を有しているため、自然とそうなるのだという答えである。もっとも、孔子自身にそうした考えがないわけではないが、それは他の人とは違うものであると付け加えている。

孔子がなぜ訪れる地でその国の政治のことを聞かれたのかと想像してみる。一つには、孔子の説く政治のあり方の評判が良かったこともあるだろう。現代でも我々は、その道に秀でた人にはその道に関して問うものである。プロ野球の選手には野球のこと、有名な経営者には経営のこと。私も孫正義さんにお話を伺う機会があるなら、ぜひ経営に関したことを聞いてみたいと思う。

なぜそうした政治のあり方を解くことができたのかというと、弟子は五つの徳だというが、それだけだったのだろうかと考えてみる。五つの徳とは、「温・良・恭・倹・譲」であり、岩波文庫版の訳によるとおだやかすなお恭々うやうやしくてつつましくてへりくだりだという。確かにこういうイメージの人にはなんでも相談してみたいと思うかもしれない。
それに、やっぱりある程度の(政治に関する)知識もあったろうと思う。

例えば経営コンサルタントの大前研一も、専門である経営のことだけでなく、国のあり方や税制や様々な制度のアイデア等々広く語っている。当然、前提となるべき知識があって、だからこそ語る内容に迫力・説得力があるのだと思う。もっとも、孔子の時代はもっと世の中もシンプルであっただろうから、徳だけでもよかったのかもしれない。

何れにしても、意見を求められるということは、徳にしろ知識にしろ人に「意見を聞いてみたい」と思わせるものがあったということであろう。実はここがキモではないかと思う。自分は何かと教え好きな性分があり、聞かれれば持っているものを教えたい、考えを伝えたいという思いがある(でも普段あまりそういうものを求められることはない)。いろいろと失敗を経て身につけたことなど、人の役に立てそうなことは多少なりともあったりするのである。

そういうものを知らしめるためにはどうするべきであろうか。見知らぬ人に広く一般的にというものではなく、身近な人にと考えると、それはやはり日頃の言動かもしれない。日頃何を語り、どんな行動をとるか。それによってそれを見ていた人が、「この人に話を聞いたみたい」と思うのかもしれない。となると、やっぱりそれは知識もあるだろうけども、それ以前に「人間性」という部分も大きいかもしれない。

さらに「人間性」とは何かと問われれば、そこはあまり言葉では説明が難しいところかもしれない。おだやかすなお恭々うやうやしくてつつましくてへりくだり」な人物であれば、それは該当するのかもしれない。となると、やはり孔子が意見を求められたのもそんなところなのかもしれないと思うのである。これから年齢をどんどん経ていくと、体力はますます衰えていく。そうした時に、何を持って誇るかといえば、それは知識であり経験であり徳なのであろう。そういうものを兼ね備えた人に、私はなっていきたいと思うのである・・・