2017年1月29日日曜日

雇用機会均等法時代の若者たち

先日のこと、我が社の賃貸物件にある方から申し込みをいただいた。世界に冠たる商社マンにお勤めのその若者は、結婚こそしているものの、同じ商社にお勤めの奥様は現在海外赴任中とのことであった。聞けば結婚当時は逆にご主人が海外赴任しており、結婚以来数年、いまだ一緒に住んだことがないと言う。かつては、結婚すれば女性は仕事を辞めるものとされていて、そう言う我が妻も結婚と同時に退職して家庭に入っている。ほんの20年ほど前はそれが普通であったのである。

翻って現代は、女性の総合職も当たり前となっている。家庭でも職場でも「女が男を支える」と言う図式は崩れ(もっとも我が家のように家庭では事実上女性の独裁状態にあるところも多いだろう)、男であろうが女であろうが(いろいろと問題はまだあるのだろうが)、ひとまずスタートラインは一緒になってきているようだし、そうなると結婚や出産を機に「女性が仕事を辞める」と言うかつての方程式もなくなり、この若者のような夫婦の姿も珍しくはなくなるのだろう。

そんな時代に生きる彼らのことを人ごとながらあれこれと考えてしまった。
1.        子供ができたらどうするのだろう?
2.        今は同期でいいが、いずれ昇進で差がついて奥様の方が偉くなったら?
子供ができたら、共働きはいいとして、少なくとも一緒に住むと言う状態は維持したいところなのではないだろうか。商社マンであれば、「夫がアメリカ、奥様は香港」などというケースもありうるだろうし、そうなると日中は実家の両親に子供の面倒を見てもらうと言うのも難しくなる。会社が配慮してくれるのだろうかと心配になってしまう。

 また、特に昇進の場合はもっと深刻な気もする。夫が偉くなれば問題はないが、奥様が偉くなってしまった場合、男には変なプライドと言うものがあるから、職場や友人知人などの周りの目や子供ができた場合の子供の目など、自分の場合に当てはめて想像すると怖いものがある。男同士でさえ、同期が自分より昇進するのは心中穏やかではいられないのである。妻が偉くなるだけでなく、自分の昇進が止まり、「妻の大学時代の後輩の部下」などになってしまったらと想像の翼を広げると背筋が寒くなる。

もっともこう言う「怖い」と言う感覚は、我々旧世代の意識かもしれない。今や「専業主夫」も珍しくない現代の若者の感覚からしたら、別にどうと言うことはないのかもしれない。多分この「感覚」は男だけのものだろうし、女性からして見たらそんなことをウジウジ気にするなんてと思われるかもしれない。おそらく、いまだに不十分な職場における男女の平等が解消されない限りは、男にはこの感覚が付きまとうような気がする。男には相手を罵倒する言葉として、「女の腐ったような奴」と言うものがある。女の下になっている男に対する男の視線は冷たいだろう。

スポーツの世界では、すでに「なでしこ」がいろいろな「男子が勝てない分野」で世界を制している。ビジネスの世界にもその流れは押し寄せてくるのかもしれない。それはそれでいいと思うし、むしろ早くそうなるべきなのだろう。どちらかといえば企業戦士となって「家庭を顧みな」くなるのは男の性質で、女性は逆にうまくバランスをとる気もする。男中心の世界は確実に終焉し、そうなると女の生き方に学ぶことも増えてくるのかもしれない。

最近妻がパートに出るようになった我が家が、そう言う状態になることはもはやない。だが、子供たちの生きる未来は確実にそう言う世界だし、親としても意識を柔軟に保つ必要があるだろう。いつの時代も変化はつきもの。こういう世の中の変化にも順応していきたいと改めて思うのである・・・






【今週の読書】
  
   




2017年1月25日水曜日

論語(学而第一の11)

子曰。父在觀其志。父沒觀其行。三年無改於父之道。可謂孝矣。
()(いわ)く、(ちち)(いま)せば()(こころざし)()(ちち)(ぼっ)すれば()(おこない)()る。三年(さんねん)(ちち)(みち)(あらた)むること()きは、(こう)()()し。

【訳】先生がいわれた。父のあるうちはその人の志しを観察し、父の死後ではその人の行為を観察する。三年の間、父のやり方を改めないのは、孝行だといえる。(岩波文庫)
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論語については、祖先崇拝、長幼の序重視など先人に対する敬意に溢れている。それはそれで一つの確たる信念ということで、理解できるところである。この部分もそれを表していて、父親の存命中はその志を敬い、死後はその功績を敬うとする。そしてさらに3年間(服喪期間)は、父親のやってきたことを踏襲するのが真の孝行息子ということである。

 基本的に反対する内容ではないと思うが、現代との時代背景の違いによる考え方の違いを感じる部分だと思う。そもそもであるが、「父親の志」とは何だろうかと考えてみる。パッと思うのは、親の仕事を継いだ場合の経営方針、経営理念であるが、そうでない日常生活におけるそれと言われれば困ってしまう。孔子も父親の職業をイメージしていたのだろうか(わざわざ「父」としていることでもあるし・・・)。

翻って、現代は親の職業を継ぐということが、かつてよりなくなっている。江戸時代は身分固定の時代ゆえ、少なくとも長男は父親の跡を継いでいたし、論語の教えもそのまま通用したのだろう。だが、サラリーマンとして企業勤めが一般的となった現代社会は当時と様相が異なる。多くのサラリーマンにとって見るべきものは「父親の背」ではなく、「上司の背」であろう。となると、父の志に触れるとしたら家庭内ということになる。

さらに家庭内となると、父親の権威が低下しているという問題もある。例えば我が家に当てはめて考えてみると、子供たちは日々母親に小言を言われている父親の姿を目の当たりにしているわけである(T-T)。そういう中で育って、果たして我が家の子供たちが「その志」を(たとえ示したとしても)見てくれるだろうかと思わざるをえない。

さて、そうした個別の心もとない状況はともかくとして、ではいわゆる「親の背を見て育つ」ということはどうだろうかと考えてみる。自分の場合は、父親から何を見て学んだであろうか。一番大きいのは、真面目にコツコツと働く姿だろう。自営業だった父は印刷業を営んでおり、小さい頃から父の働く工場に顔を出す機会がそれなりにあった。ある程度成長したあとは、紙積みなどを手伝ったものだし、そこで働く姿を目にし、そして時折話すことを聞いていた。今も私の中にある、何かやるとすると毎日コツコツやることが苦にならないという性分もその影響かもしれない。

孔子の言う「志」とは違うかもしれないが、それなら3年どころか、たぶん生涯改めることはないであろう。では、我が家の子供たちはどうであろうかと考えると、サラリーマン家庭の我が家では働く姿を見せるということができない。となれば、日頃の言動ということになる。そういう意味では、息子とはよくいろいろな話をしている。先日は、アパホテルのニュースに絡んで「南京大虐殺」の話をした。こういう語らいが大事な気がする。

「志」などという大それたものはないし、仮にあったとしてもそれを後生大事に守ってほしいとは思わない。ただ、生きていく上で自分自身が考えてきたことを語って聞かせ、参考にしてもらいたいと思うだけである。我が息子に望むとすれば、父の考えに盲目的に従うのではなく、むしろ批判するのを厭わずに受け止めてほしいと思うところである。

この変化の激しい時代、論語の時代とは明らかに異なり、当時は立派に通用していた考え方も、現代ではそうはいかないということも多い。「父の志」が何かによっても違うが、ただ孝行の為だけに、3年間盲目的に敬うことは難しい気がする。その精神は大事にしつつ、折々にあわせた対応というものが必要となるだろう。

孔子の言葉は、子の立場からのものであるが、親の自分の立場から言うと違うものとなる。もしも孔子の言うように黙って従う志を残すとしたら、自分は何を示すだろうかと考えてみる。それは間違いなく、「考え方」だ。
「常に考えよ- COGITO ERGO SUM!
これこそ、我が子たちに残したい「志」である・・・





【本日の読書】