子曰。父在觀其志。父沒觀其行。三年無改於父之道。可謂孝矣。
子曰く、父在せば其の志を観、父没すれば其の行を観る。三年父の道を改むること無きは、孝と謂う可し。
【訳】先生がいわれた。父のあるうちはその人の志しを観察し、父の死後ではその人の行為を観察する。三年の間、父のやり方を改めないのは、孝行だといえる。(岩波文庫)
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論語については、祖先崇拝、長幼の序重視など先人に対する敬意に溢れている。それはそれで一つの確たる信念ということで、理解できるところである。この部分もそれを表していて、父親の存命中はその志を敬い、死後はその功績を敬うとする。そしてさらに3年間(服喪期間)は、父親のやってきたことを踏襲するのが真の孝行息子ということである。
基本的に反対する内容ではないと思うが、現代との時代背景の違いによる考え方の違いを感じる部分だと思う。そもそもであるが、「父親の志」とは何だろうかと考えてみる。パッと思うのは、親の仕事を継いだ場合の経営方針、経営理念であるが、そうでない日常生活におけるそれと言われれば困ってしまう。孔子も父親の職業をイメージしていたのだろうか(わざわざ「父」としていることでもあるし・・・)。
翻って、現代は親の職業を継ぐということが、かつてよりなくなっている。江戸時代は身分固定の時代ゆえ、少なくとも長男は父親の跡を継いでいたし、論語の教えもそのまま通用したのだろう。だが、サラリーマンとして企業勤めが一般的となった現代社会は当時と様相が異なる。多くのサラリーマンにとって見るべきものは「父親の背」ではなく、「上司の背」であろう。となると、父の志に触れるとしたら家庭内ということになる。
さらに家庭内となると、父親の権威が低下しているという問題もある。例えば我が家に当てはめて考えてみると、子供たちは日々母親に小言を言われている父親の姿を目の当たりにしているわけである(T-T)。そういう中で育って、果たして我が家の子供たちが「その志」を(たとえ示したとしても)見てくれるだろうかと思わざるをえない。
さて、そうした個別の心もとない状況はともかくとして、ではいわゆる「親の背を見て育つ」ということはどうだろうかと考えてみる。自分の場合は、父親から何を見て学んだであろうか。一番大きいのは、真面目にコツコツと働く姿だろう。自営業だった父は印刷業を営んでおり、小さい頃から父の働く工場に顔を出す機会がそれなりにあった。ある程度成長したあとは、紙積みなどを手伝ったものだし、そこで働く姿を目にし、そして時折話すことを聞いていた。今も私の中にある、何かやるとすると毎日コツコツやることが苦にならないという性分もその影響かもしれない。
孔子の言う「志」とは違うかもしれないが、それなら3年どころか、たぶん生涯改めることはないであろう。では、我が家の子供たちはどうであろうかと考えると、サラリーマン家庭の我が家では働く姿を見せるということができない。となれば、日頃の言動ということになる。そういう意味では、息子とはよくいろいろな話をしている。先日は、アパホテルのニュースに絡んで「南京大虐殺」の話をした。こういう語らいが大事な気がする。
「志」などという大それたものはないし、仮にあったとしてもそれを後生大事に守ってほしいとは思わない。ただ、生きていく上で自分自身が考えてきたことを語って聞かせ、参考にしてもらいたいと思うだけである。我が息子に望むとすれば、父の考えに盲目的に従うのではなく、むしろ批判するのを厭わずに受け止めてほしいと思うところである。
この変化の激しい時代、論語の時代とは明らかに異なり、当時は立派に通用していた考え方も、現代ではそうはいかないということも多い。「父の志」が何かによっても違うが、ただ孝行の為だけに、3年間盲目的に敬うことは難しい気がする。その精神は大事にしつつ、折々にあわせた対応というものが必要となるだろう。
孔子の言葉は、子の立場からのものであるが、親の自分の立場から言うと違うものとなる。もしも孔子の言うように黙って従う志を残すとしたら、自分は何を示すだろうかと考えてみる。それは間違いなく、「考え方」だ。
「常に考えよ- COGITO ERGO SUM!」
これこそ、我が子たちに残したい「志」である・・・
【本日の読書】
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