2023年2月26日日曜日

どこのポジションでもやる

 先日、所属しているシニアラグビーのチームで新キャプテンからアンケートを頼まれた。新チームの運営の参考にするのだと言う。いくつかある質問の中で、これぞ自分の信念の特徴だと思えるものがあった。それは「試合で出場可能なポジション」という質問であった。私の回答は、「やれと言われればどこでも」というものである。ラグビーの場合15のポジションがあるが、私は割と器用な方で、これまで13のポジションは経験がある。そういう経験があるからということもあるが、だからというわけではない。未経験のポジションは私には難しいが、それでもやれと言われればやる。

 そもそも誰でもそうであると思うが、やりたいポジションというのは誰でもあると思う。不得意なポジションをやっても面白くはないかもしれない。どうせやるならやって面白いポジションでやりたいだろう。だが、人数が足りない場合、誰かが空いているポジションをやらなければならない。キャプテンがメンバーを決める際、誰かにそのポジションを頼まないといけない。その時、快諾してくれればキャプテンの負担も減るというもの。嫌だと言われればやってくれる人を探さないといけない。

 ラグビーのようなスポーツはメンバーが揃わないと試合ができない。きちんとメンバーが揃って活動しているチームなら問題はないが、そうでないチームでは誰かがやらないといけない。そんな時、「自分にはできない」、「自分はやりたくない」と断るのではなく、たとえ不得意なポジションであっても自分はやる人間でありたいと考えている。もちろん、やり慣れないポジションであればうまくできないのは当然であるが、そこは勘弁してもらうしかない。自分がやることで試合が成立するわけであるからそれがチームに対する貢献である。

 それは割と他のことでも当てはまる。仕事でも「これが自分の領域」と決めることはあまりなく、必要があれば「領域外」でもやることを厭わないようにしている。もちろん、技術が必要でやる気だけではできないものもあるからそういうのは別であるが、そうでなければやることは厭わない。それで会社として何かが進むのであればそれが自分の存在価値になると考えている。今の会社では総務担当であるが、必要があれば営業だってやるだろう。そういう「穴を埋められるプレーヤー」たらんと思うのである。

 学生時代、三年時に私は先輩人とポジション争いをしていた。右と左のフランカーという2つのポジションを3人が競う構図である。熾烈な争いだったので(何せ先輩2人は最後の年である)、キャプテンとしてもなかなか決めにくかったのだと思う。そこでキャプテンが出した結論は、私の別のポジションへのコンバートであった。隣のロックのポジションがどうにも弱く、そこで私を代わりに、となったのである。もちろん、私としてはポジション争いを制する自信もあったし、フランカーのポジションにこだわりたかったのであるが、そこは折れることにした。

 学生時代はとことん勝ちにこだわる試合をしていたし、そのためには自分も一番得意なポジションで出たいという思いが強かった。しかし、他の先輩2人と比べ、私が唯一上回っていたのが、器用なところであった。他の2人の先輩にはロックは無理だとキャプテンに言われてしまった。それもあるが、そもそも私にはチームのためであれば我を通すというところはない。ましてやキャプテンが私にいう前にいろいろと考えたであろうことはわかったし、それゆえに私には断るという選択肢はなかった。その年、天下の早稲田大学と公式戦を戦ったが、唯一残念だったのはフランカーで出られなかったということである。

 不動産業だった前職では、新たに室内清掃事業を内製化しようということになった。私にルームクリーニングの経験はない。しかしながら、人数も少ないため言い出しっぺの私もやらざるを得なかったのでやること自体に抵抗はなかった。そして記念すべき第一号案件は、見事に汚れ切った部屋だった。10年くらい掃除していないのではないかというほどであった。特にひどかったのがユニットバスに付属しているトイレ。自分で内製化を提案した手前もあるが、他の人にトイレを掃除しろというのが憚られ、自らやることにした。

 結局、それ以降もバス・トイレは私の担当になったが、おかげでバス・トイレの掃除は上手くなったと思う。人によっては掃除なんかと思うかもしれない。ましてやトイレ掃除となるとよけい抵抗感があるかもしれない。中にはひどく汚れたトイレもあるわけであるから尚更である。その経験を通じて改めて実感した事は、私は割となんでもできるという事である。よく、「こんな仕事をやるために入社したわけではない」と言ったりする人の話を聞く事があるが、自分がやれる事をやるというのも大事であると思う。

 人によってそれぞれであると思うが、「やりたい仕事をやる」というのも大事であるが、「必要とされる事をやる」というのも大事であると思う。何よりそういう「必要とする仕事をやってくれる人」は組織にとって大事にされるし、それがその組織における自分の存在価値になるだろう。もちろん、便利屋になってしまうこともあるかもしれないが、私はそれでも「必要とされる事」に喜びを感じるタイプである。便利屋で大いにいいじゃないかと思う。

 これからも「どこのポジションでもやる」というスタンスは維持していきたいと思うのである・・・

Simona RobováによるPixabayからの画像 

【今週の読書】

 




2023年2月23日木曜日

妻が口をきいてくれません

 何ともグサリと胸に突き刺さるタイトルを目にして思わず手にしたこの一冊。中身を見れば、実は漫画。漫画だろうが小説だろうがノンフィクションだろうが、本質を押さえているなら変わりはない。そのものズバリのタイトルに反応したのは、「思い当たる節があるから」に他ならない。我が家も口こそきいてくれるものの、どうもどこかよそよそしく、おおよそ他人行儀である。いかに鈍感な私でも、妻が不満を抱えていることぐらいはわかる。そんなところから中を読み進めていく。

 登場するのは、妻、娘、息子という家族を持つ夫、誠。どこにでもいる、まさに我が家と家族構成まで同じ一家である。まずは「夫誠の章」から始まる。ある日突然、妻が口をきいてくれなくなる。「行ってきます」と言っても「ただいま」と帰ってきても妻は口をきいてくれない。喧嘩をした記憶もない誠には理由がわからない。口をきいてくれなくてもお弁当を作ってくれるし、夕飯も用意される。されど会話だけがない。幸い子供がいるので誠は子供と話す事でとりあえず救いがある。

 何とか口をきいてもらえるよう誠は努力する。お弁当のお礼を言ったり、積極的に家事を手伝ったり、花とケーキを買って帰ったりする。思いつくことはやってみるが、状況は変わらない。そして3ヶ月、4ヶ月と経過し、やがてそれが5年、6年となる。誠はついに「家に帰りたくない」と思うようになり、あの二文字が脳裏を過ぎる。家はもはや誠にとって安らぎの場所ではなくなり、生き地獄と感じるようになる。そしてとうとう「離婚したい」と妻に告げる。

 ひどい奥さんだとここまで読んできて思う。「我が家と同様だ」と。しかし、続く「妻美咲の章」では、奥さんの視点から描かれる。何気ない夫の一言一言が、子育てに追われる妻の「小さなイラっ」を誘う。それはもののありかだったり、やり方だったり、思いやりのない一言だったりする。妻の言うことを関心なさげに聞き流す。挙句に妻のぞんざいな対応に対し「愛はあるのか」と無邪気に問う夫。美咲は「ああ、今妻は大変なんだなあ」と察する愛はないくせにと、キレて言う。ごもっとも。そしてついに妻は限界に達する。

 相手の立場に立ってみれば、それは至極もっとも。夫の章を読むと、奥さんが悪いと思うものの、妻の賞を読むとその切ない気持ちがよくわかる。いかに夫が心無い言動を取っているか。夫に罪はあるかと問われると難しいところがあるが、強いて言うなら、「鈍感こそが罪」と言えるかもしれない。無言を貫く妻に夫は何かを感じて行動に移す。それを見ていた妻は思う。「あんなに何度も口に出してお願いしてもしてくれなかったのに、口にしなくなったら私がしてもらいたかったことをどんどんしてくれる」。

 人は他人の考えを読むことはできない。だから相手が何を感じているのかもよほど意識しないとわからない。ここに出てくる夫は100%自分思考で、妻が何を感じているのか考えようとも感じようともしない。しかし、口をきいてくれなくなった事でようやくその意識を妻に向ける。「あんなに何度も口に出してお願いしてもしてくれなかったのに、口にしなくなったら私がしてもらいたかったことをどんどんしてくれる」という妻の思いは身に堪えるものがある。

 しかし、と思う。我が家も妻は私に対してかなり不満を抱えていると思う。そしてその原因は鈍感な私にあるのだと思う。だが、家事に関する妻の細かいマイルールにはついていけない部分も大きい。人一倍きれい好きの妻に対し、男は1〜2週間くらい掃除しなくても何ともないという感覚がある。そこにはどうしても相容れない感性の違いがある。「いちいち言わないとわからないのか」という妻の感覚と「いちいち言われなければわからないし、察するなんて煩わしい」という私の感覚は真っ向から対立する。

 勢い、妻の小言が重なれば、それがやがて私の心にダメージとなって蓄積されていく。「家に帰りたくない」と思う夫、誠の気持ちはよくわかる。私も妻がいると家にいて寛げないのも事実である。そんな家にいる必要ってあるのだろうかと思う事、しばしばである。漫画は、ちょっと漫画チックな展開があって無事夫婦仲が改善して終わる。羨ましいが、漫画のお話だからゆえに現実的にはなかなか難しい。身につまされるが参考にはならない。妻を理解したいとは思うが、自分なりの限界も感じている。

 夫婦とは言え、男と女の感性の違いもあれば、互いに育ってきた環境の違いもある。当然、価値観も違う。うまくやっていくにはどちらかが、あるいは互いに譲り合う必要がある。初めのうちは愛でカバーできても、やがて「いい加減にしろよ」と思うようになる。言わなくてもわかればいいのだが、生憎と人は言葉にしなければ互いの感情はわからない。どうすればいいのだろうかと思うも、何とかしようと思うのなら諦めずにできることからやるしかない。

 とりあえず言われたことはきちんとやる。なるべく気を使って過ごす。1人になるという選択肢は、いろいろやってダメなら最後に選べばいい。まずはできることからやってみようか。漫画を読んでそんなことを考えたのである・


Victoria_WatercolorによるPixabayからの画像 


【今週の読書】

  






2023年2月19日日曜日

論語雑感 述而篇第七(その4)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感。

【原文】

子之燕居、申申如也、夭夭如也。

【読み下し】

くつろたるたり申申如のびやかたり沃沃如ゆたかたり

【訳】

先師が家にくつろいでいられる時は、いつものびのびとして、うれしそうな顔をしていられた。

『論語』全文・現代語訳

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 家とは本来、くつろぐ場所である。誰に気を遣うこともなく、自分のあるがままの姿でいられ、思うままの行動を取れる場所である。素っ裸でいても誰にも咎められる事はないし、無防備に惰眠を貪る事もできる。心身の疲れを癒し、リフレッシュし、そしてまた外の労働等へと出向く元気を養う場所である。また、家でなくても、仕事がオフの時は同様である。そのはずである。本来は・・・


 ところが必ずしもそうではない。家にいてもくつろげるかと言われると、妻がいれば自然と気を使う。それどころかモノの置きっぱなしを指摘されたり、使用方法、利用方法について事細かく言われるので、とてもではないがリラックスなどできない。さらに妻は過度とも言えるきれい好きのところがあり、微に入り細を穿つ「指導」にはとてもついていけるものではない。勢い、「いないとホッとする」のが正直なところである。


 そんな妻だから、私が休日に家でリラックスしようとすれば最大の脅威となる。と言っても、妻には妻の考えがあり、言い分があるだろう。おそらく私の行動の一つ一つが妻の神経を逆撫でているのだろうことは想像に難くない。しかしながら、同じ事をやっても、私と息子とでは妻の態度が異なる。そこは腹を痛めた我が子が可愛いのだろう、私よりも対応はソフトである。それを嘆いても仕方がない。


 そもそもであるが、別々の環境で育った2人が一緒に暮らすとなると、どうしても価値観の衝突はおきる。さらに男は1週間や2週間掃除をしなくてもへっちゃらだが、女はそうではない(一般的に、ではあるが)。そのあたりの感性の違いもある。付き合っている時はそんな違いも大目に見られるが、一緒に暮らす期間が長くなると、「いいかげんにしろよ」となる。私も多少ならなんとか合わせられるが、あまりにも細かい妻の「マイルール」に最近ではついて行くのを諦めている。


 また、家の外でもそれはある。シニアラグビーのチームに加わっていれば、土日のどちらかは練習だし、試合も入る。試合などは月に2回程度にして欲しいと思うが、毎週末に入ったりする事もある。それは様々な都合があり、チームでやる以上、個人の都合で決めるわけにもいかないから仕方がない。雨の日は試合をしたくはないが、そうも言えない時がある。好きでやっている事とは言え、そういう思い通りにならない事はある。


 最近の週末はのびのびのんびりと言うよりも、やらなければならない予定で埋まって、「たまにはのんびりしたいなぁ」と思わず独りごちてしまう事もある。のびのびして家でくつろげる週末なんて、年に何回あるだろうか。孔子が当時どんな生活を送っていたのかはわからないが、いつものびのびとくつろいでいたのであれば、それはかなり幸せな事だと思う。もしかすると、亭主関白の時代であれば(少なくとも夫は)、可能だったのかもしれない。


 およそ人との関わり合いの中で生きている以上、自分の思い通りにいかないことは多々あるだろう。聞かれれば今晩何を食べたいかは答えるが、聞かれなければ出されたものを美味しくいただく。不満はグッと堪える。先日の夕食時、ふと見ると息子の前には私の前にないおかずがある。食べ盛りだし、特別なのかと思って黙っていたら、どうやら私に出し忘れていたらしい。「なぜ言わないのか」と問い詰められたが、言って「息子だけ特別」と言われても傷つくだけである。家庭では、「言わぬが花」が己の心の安寧には大事である。


 最近では、妻に小言を言われないのが、家でくつろぐためには欠かせない。その為には細心の注意と、仮に小言を言われても心にダメージを残さず受け流すことが必要である。妻のマイルールを一つ一つ覚えようなどと思わず、自然と頭に残るものだけを残す。小言は無我の境地でやり過ごすことがコツである。考えれば、世の中は人と人とが関わり合って生きているのであり、思い通りになるということがそもそもの勘違い。家でくつろぎたいのであれば、あらゆる関係を断ち切って一人暮らしをするしかない。


 考えようによっては、年に数度ある家で1人くつろぐひと時。それは妻が帰省したり、娘とジャニーズの地方コンサートに泊まりで行った時などの何もやることがないひと時。たとえわずかでもあるだけいいし、その時は心からリラックスして楽しめる。そんな至福のひと時は毎週でなくてもいいではないかと自分に言い聞かせる。たまにだからありがたみも増す。逆に家族と共に暮らす幸せはそれはそれとしてある。孔子は羨ましいが、いつものびのびくつろげなくてもいいではないかと1人思うのである・・ 

 


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【本日の読書】

 




2023年2月15日水曜日

うさぎとカメに思う

 今年は卯年とあって、いろいろなところでうさぎをたとえに出す例を見かける。最近目にしたのは、あるエクササイズ系のサービス。「カメさんとの勝負に負けた日からグダグタしてきたが、今年は卯年でもあり再びジャンプしようと思う」とし、一緒に跳びませんかとお客さんを誘う。なるほど、単なるありきたりの勧誘文と比べると、ちょっとクスッとさせるところもある一種物語風のテイストは感じが良い。うまく干支とかけているなと思う。

 うさぎとカメの昔話はあまりにも有名であるが、話はどうしても「才能があっても怠けたうさぎ」と「才能はなくても地道に努力したカメ」という対比で語られる。コツコツと真面目に努力することを教えるという意味では、子供に対する教訓として適切な昔話ではあると思う。されど、どうしても素直にその教訓を受け取れないところが私にはある。それはカメには絶対に勝てないうさぎの持っている「才能」である。

 確かにうさぎはカメを舐めて、途中で昼寝をする(そして寝過ごす)という過ちをする。しかし、もう一度やったらどうなるだろうか。普通に考えれば、さすがに今度はうさぎも油断しないだろう。そしてうさぎは油断しさえしなければカメに負けることは絶対にない。そこには圧倒的な差がある。そして一度油断して負けたうさぎは二度と油断はしないだろう。そして亀はどんなに努力しても油断しないうさぎには勝てない。

 力のはるかに勝る相手と戦う時、最初から諦めるのではなく、相手の油断という奇跡のような可能性もあると信じて全力を尽くすことは大事である。しかし、勝てたとしても1回のみである。うさぎだから油断はしたと言えるが、うさぎを狩るにも全力を尽くす獅子が相手であれば万に一つの勝ち目もない。これは才能のない者から見ると、悲しいまでの真実である。うさぎは獅子のように油断さえしなければいいわけである。負けた経験を持つうさぎの強さは圧倒的である。カメの勝利に溜飲を下げる子供たちは、どこまでこの冷徹な現実に気づいているだろうか。

 私がもしカメであったら、そもそも不利な陸上でのかけっこ競争などしないだろうと思う。もしも仮にしなければならないとしたとしたら、やはり全力を尽くすだろう。そしてうまく油断すれば良し。油断しなくて圧倒的な差で負けてもそれはそれで仕方ないと割り切る。そしてまた挑戦されれば受ける。何度負けても「負けるから嫌だ」と逃げることはしないだろう。逃げさえしなければ、勢い余ったうさぎが途中で足を挫いてリタイアするという幸運にあずかれるかもしれない。やる以上は勝つつもりで諦めずにやる。

 ただ、その前に自分の得意なフィールドでの戦いに持ち込むことは考えるだろう。負けたうさぎが悔しがってリターンマッチを申し出てきたら、「今度はあの島まで泳ぐ競争をしよう」と切り返す。チャンピオンには選ぶ権利がある。戦うフィールドを選ぶことは北風にも言えることだったが、カメにもまた然りである。「敵を知り、己を知り、そして地の利を知れば百戦危うからず」である。自分が勝てるフィールドを選ぶことは重要である。

 しかし、フィールドが選べなければ見るも無残。神様に元旦に山頂に集まれと言われた動物たちが競って山頂を目指し、巧みに牛の背に乗ったネズミが干支の1番を飾った。うさぎがなぜ4位だったのかはわからないが、馬や犬や猪といった強力なライバルを抑えての4位だからやはり実力はあるわけである。そしてカメは干支に入っていない。その他の動物たちと共に圏外だったのである。これが現実である。

 うさぎとカメのどちらがいいかと言われたら、私は迷いなくうさぎを選ぶ。油断さえしなれば実力を遺憾なく発揮できるわけであるからその方がはるかにいい。カメも相手の油断という偶然の産物に頼って勝ったはいいが、得意分野で戦うという工夫をしなければいつまで経っても勝つことはできない。競争時の状況は知らないが、何も考えずに勝負に臨んだとしたら、努力はすべて無駄に終わることになる。陸上でうさぎとかけっこをするという事は、どんなに努力しても報われる可能性は低い。努力の方向も大事である。

 考えてみれば、子供向けのたわいない昔話ではあるが、いろいろと示唆に富んでいる。常にそこからどんな事を学べるのか、あるいは考えられるのか。つまらないことのようだが、そういうつまらないことを大事に考えたいと思うのである・・・

Franz W.によるPixabayからの画像 

【本日の読書】

 



2023年2月12日日曜日

人目を気にしたくない

 日中、外出すると、この頃マスクをしていない人をちらほら見かけるようになってきた。ほぼ3年にわたって我々を苦しめてきたコロナ禍も58日には季節性インフルエンザと同じ「5類」へ移行されるという。既にマスクについては、「原則として屋外では不要、屋内では着用を推奨」とされているから、道を歩く人がマスクをしていなくてもいいわけであるが、まだまだマスクをしていない人を見ると、思わず目が行ってしまうのは、やはり慣れてしまったからだろうと思う。

 新型コロナ対策としてのマスクの着用について、政府は来月13日から屋内・屋外を問わず個人の判断に委ねる方針を決定した。政府の指針では、全員が着席できる新幹線や高速バス内でのマスクを不要とする一方、混雑する通勤電車やバスでは引き続き着用を勧めている。58日を待たずとも、マスクをしなくてもいい環境に戻っていくのだろう。自分はそれに対してどうするだろうかと思うに、多分しばらくはマスクをしているだろうと思う。

 日本人は割と周りを見て行動するところがある。「赤信号みんなで渡れば怖くない」という精神が行き渡っている。だからたぶん来月13日になっても一気にマスク姿を見かけなくなるということはないのではないかと思う。ただ、私がしばらくマスクをし続けるであろうという意味は、これとはちょっと違う。周りの目というより、気を使うのが面倒だという理由である。外を歩く時は外し、通勤電車に乗る時はつけ、降りて歩く時はまた外し、なんて面倒この上ない。

 特に通勤時間帯は私にとって読書タイムである。いつも読んでいる本の世界に集中するため、同じ時間の電車の同じ車両に乗り、意識を本に集中させたままでも乗り換え等間違いなくできるようにしている。ゆえにマスクになどに意識を取られたくはない。つけるかつけないかのどちらかしかない。そして混雑した通勤電車内では引き続き「推奨」されるというのであれば、付けっぱなしでいる方が「考えなくて済む」。人目を気にしなくて済む方法に合わせるのが一番楽である。

 もともと私としては、「人目を気にする」事が大の苦手である。人が何をどう思うかなんてわかるわけがないと考える私は、昔から空気を読んだり合わせたりするのが大の苦手であった。よほど恥ずかしい行為であれば別であるが、そうでなければ人がどう思おうと気にしないのが私の基本的な考えである。だからファッションなんかは特に困惑する。人がどう思おうと、着たいものを着ればいいではないかと考える。だから「それ変!」と言われると戸惑ってしまう。

 その昔、結婚した当時だが、妻に持っている服をことごとくダメ出しされたなんでダメなのか自分ではまったくわからなかった。機能的に問題なければいいじゃないかと思うが、流行遅れなのかどうなのか、着るなという。まだ着られるものを着ないのはもったいない。今で言うエコ精神であるが、よほどみすぼらしい格好でなければ構わないと(今でも)思う。たとえみすぼらしくても、今では穴の空いたジーンズだってファッションだと言うのだから(私はそんなジーンズを履く気はサラサラない)、それもファッションだと言えてしまいそうな気もする。

 そんなの気にしていたら表は歩けなくなる。だから、ドレスコードがゆるい今の会社でも何も考えなくていいスーツを着て毎日出勤している(私服で出勤となったら苦痛である)。マスクもしたがってしている限りは何も考えなくてもいいだろうから、当分はつけたまま過ごすと思う。そして世の中の大半がマスクを取るようになり、何も考えずにマスクなしで歩けるようになってからマスクを取ると思う。

 ただ、すべてがこうだとは限らない。自分が信念を持ってやるものであれば、人が何と思おうと、世の中で自分1人であろうとやると決めたらやるだろう。それもまた違う意味で「人目を気にしない」と言えるのかもしれない。何にせよ、「マスクをつけるかつけないか」などという些細なことで人目を気にしたくはない。そんなことをマスクなしで歩く人を眺めながら、つらつら思ったのである・・・


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【本日の読書】

  


2023年2月9日木曜日

理想的な会議

 「やってみなはれ」とは、サントリーの創業者鳥井信治郎の言葉として有名である。何でもうまくいくかどうかはやってみないとわからない。だからやってみたらいいというのはその通りであるが、そう簡単に思う人と思わない人がいる。私は簡単に思う方である。あれこれと議論するより、やってみた方が早いとすぐに考えてしまう。うまくいけば良し、いかなければ反省して次に繋げれば良い。実に簡単な理屈である。ところが世の中にはそうは思わない人がいて、時折意見が合わずに精神的疲労感に苛まれることがある。

 私は現在の会社では取締役であり、会社の行末をいろいろと考えないといけない立場である。足元の事業が安泰であれば問題はないが、残念なことにそうではない。緩やかな下のエレベーターに乗っているかの如くであり、それを駆け上っていかなければ未来はない。当然、昨日と同じことをしていては明日はない。そういう危機感があれば、新しいことにチャレンジしていこうという発想は自然と出てくるだろうと思う。だが、そうは思わない人がやはりいる。

 新しいことをやろうとすれば、そこには当然リスクがある。思い通りに行けばいいが、必ずしもそうはいかない、あるいは予想外の事態が起こるリスクである。それを一々あげつらって、「だからやるべきではない」と言われてしまうと、そこから先には進めなくなってしまう。ならどうするのか。昨日と同じことをやり続けるのか。それだと緩やかな衰退に身を任せることになるのではないのか。そう思うのであるが、反対する人からはそれに対する回答はない。

 世の中には、「問題の中に解決策を見出す人」と「解決策の中に問題を見出す人」がいると言われる。確かに言い得て妙だと思う。問題があって、それを解決するために解決策を考える人がいる一方、その解決策の中にはこんな問題があると指摘する人がいる。指摘するのはいいが、「ではどうするのか」だ。問題をそのまま放置するのか。反対するのであれば代替案を出すべきであるが、そういう人は大概反対だけして代替案は出さない。それだと解決されない問題が残るだけである。

 そう言えば、何か物事に反対する場合、私は代替案を出すべきだと考える方である。世の中には「代替案を出さなければ反対もできないのか」という意見を言う人がいるが、私はその通りだと思う。そもそも解決しないといけない問題があって、その解決策を提示した人に対し、反対するなら「それならどうするべきか」を提示するのは当然だろう。それをせずに反対するだけなら極めて無責任である。反対だけして無責任に放置するから、解決されない問題が放置されてしまう。その危うさを「代替案を出さないといけないのか」とのたまう人は考えていない。

 特に会社の会議などでこの手の人がいると、議論は停滞して何も進まなくなる。よく言われる「決められない会議」である。すると会社全体が旧態依然のまま、ゆるま湯のゆでガエルになってしまう。代替案がないなら反対するべきではない。黙っていた方がまだマシだと言える。「反対だけ」の人は実に厄介である。「代替案がなければ反対できないのか」と言う人は、そもそも何も考えていない人だと言える。そういう人と建設的な議論をするのは難しいというより不可能だと言える。

 とは言え、何でもやってみればいいというものでもないのは事実である。当然、そこにはリスク管理が必要になる。うまくいけばいいが、うまくいかなければどうするのか。そこは考えないと単なる「無謀」になってしまう。「何もしなければ会社が潰れる」という状況なら、一か八かという割り切りもあるかもしれないが、そうでないなら考えうるリスクに対する備えは必要だろう。「ダメならどうするか」、というリスクを考えた上でチャレンジするというのが正しいスタンスだと思う。

 会議で議論が収束しないのは、一番大きな原因は見ている景色が違うからとも言える。会社全体を見ている人と、自分の部署だけを見ている人とでは自ずと意見も違ってくる。立場が異なれば意見も異なるのである。まずは同じ土俵に乗って、同じ景色を見た上で、反対意見があれば代替案を出して議論する。それでこそ健全な議論になると思う。そして最後は「やってみなはれ」。それが理想的な会議だと思うのである・・・


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【本日の読書】

2023年2月5日日曜日

論語雑感 述而篇第七(その3)

 論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感。

【原文】

子曰、「德之不脩、學之不講、聞義不能徙、不善不能改、是吾憂也。」

【読み下し】

いはく、とくをさまらまなびたかまらただしきをいてうつあた

からるをあらたむるあたうれ

【訳】

先師がいわれた。

「道徳が身につかないこと、学問が進まないこと、正義を聞きながら実行できないこと、善くない事柄を改められないこと。これらが私の心配事である。」

論語(全文全訳) - 学ぶ・教える.COM

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 さすが、というのだろう。孔子は道徳や学問、正義といった実践に心を砕いていたようである。普通の人はなかなかできるものではないし、そもそも実践しようなどと思うだろうかと考えてしまう。誰もが身につけないといけないということは理解していると思うが、そのように実践している人は少ないと思う。学問にしても正義にしても然り、である。ただ、時折、ふとした時にそんなことを実践している人たちを目にする。


 先日のこと、通勤電車の中で例によって本を読んでいた私は、目の前の席が空いたので何も考えずに(意識は読んでいる本に集中しているのである)座ろうとした。すると何やら脇腹を突いてくる人がいる。見れば隣の隣に立っていたおじさん(私よりも年上のようだった)が、私とおじさんの間に立っていた女性のバッグを指差すのである。つられてバッグを見た私は、そこにマタニティーマークのバッジを認めた。「あぁ、そういうことか」とわかった私は、その女性に席を譲った。


 言い訳ではないが、読書に気を取られていた私は隣に立っていた女性になど、ましてやバッグのマタニティーバッジになど気づくはずもなかったが、おじさんはそれに気づいていて、たぶん気にしていたのだろう。改めて見てみると、その女性の前には私よりも若いサラリーマンが座っていたし、その隣には若い女性が座っていた。私よりもその人たちの方が席を譲るに相応しいが、たぶん気づいていなかったのだろう、席をゆずる気配すらなかった。朝の通勤電車は寝ている人も多い。ほんのちょっとした譲り合いの気持ちもあまりないように思う(ちなみにそこは優先席であった)。


 社会人になれば勉強などする必要もないし、する気持ちもないという若者が多いような気がしている。若者に限った話ではないが、勉強はもう学生時代に(というより受験の時に)やったからいいと考えしまっているのだろうか。資格を取る人などは勉強をするのだろうが、そうでもない人は自己研鑽で勉強するのだろうか。私も資格取得では勉強もしたが、最近では特に何か勉強をするということもない。しかし、そもそも社会人の勉強とは何だろうかということにもよると思う。


 私のもっぱらの関心事のひとつは仕事である。自分たちの会社をどのように発展させていくべきか。そんなヒントに対しては常にアンテナを張っている。欠かさず見ているテレビ東京の「カンプリア宮殿」や「ガイアの夜明け」はそんなヒントに溢れている。事業の苦しい時期を乗り切った話などは結構好きで、自分たちの会社にも当てはまるのではないか、応用は効かないかなどと考えてしまう。ビジネス書などもそんなヒントに溢れている。それらも勉強と言えば勉強である。


 何かを体系的に学ぶという意味での勉強はしていないが、仕事に有益な考え方を身につける努力というものは絶え間なくやっているという自負はある。また、哲学や心理学などには興味があり、読書やネットでの講座などは見ている。これも勉強と言えば言えるのかもしれないが、趣味の世界の話を勉強というのかどうかは判別が難しい。さらに正義となると、これは実践しているという自負すらない。悪いことをしているつもりはないが、良いこともまた然り、である。


 そもそも人が正義を振りかざすようになったら危ういという基本的な考え方が私にはある。正義とは微妙なもので、ある人にとっての正義が万人にとっての正義とは限らない。何が正義かは人によって違うとすら考えている。テロリストだってテロリストたちの正義がある。十字軍を筆頭に神の御名においてなされてきた戦争が歴史には数多ある。小さな会社の中ですら、正義は人の数だけある。今も新しい事に積極的にチャレンジしていこうとする考え方と、無謀な事はするべきではないという考え方とがある。どちらが正解か、正義かについての答えはない。


 また、良くない事柄は改められないのが人間というもの。それは酒やタバコであったり、間食であったりするのかもしれない。私の場合、割と意思は固いので、やめようと思えばやめられる。ただ、やめようと思わないだけである。それでも法律に違反したり、人の道に反したりするような事は今のところない。これも何が良くて何が悪いというのを決めるのは難しい。その判断基準は人によって違っていたりする。


 前勤務先の社長は、自分の都合で突然会社を売ってしまい、私を含む8名の役職員に退職金なしで解雇を申し渡した。会社を売った億単位のお金があったにも関わらず、である。これも酷い話ではあるが、元社長にとってはそれは「良くないこと」ではなく、「正義」に反することでもなかったわけであり、「モラル(道徳)」に反する意識があったかどうかはわからないが、少なくとも平然とそういうことをやれた訳である。


 孔子のような人だから道徳や学問や正義の問題を真剣に捉え、それが心配事なっていたのだろうと思う。ただ、私のような崇高な理念もない凡人にとっては心を患うほどのことでもない。道徳心はせめて目の前に席を譲るべき人がいたら快く勇気を持って譲れる程度でいいと思うし、勉強も自分なりに必要な程度でいいと思うし、正義は自分なりにあっても人に振りかざすようなことをせず、良くない事柄はやめようと思うならやめればいいと思う程度にとどめたいと思う。無理せず自然体でそんな実践ができればいいなと思うのである・・・

 

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【今週の読書】
  




2023年2月2日木曜日

弁護士

詐欺被害に遭った我が弟。騙した相手に対してどうするかという問題もあるが、足元では火を吹いている。後先構わず借りてお金を渡したはいいが、気がつけば月々の返済額は給料の額を超えている。もうまともには返せない状況で、何らかの法的手続きを取るか、借金を踏み倒すしかない。踏み倒すと言っても、相手も金融機関だから自宅や給料を差し押さえるという手段に出てこられたら厄介である。そこでまずは弁護士に相談するべしとなり、付き添って無料相談に行ってきた。

 そこは某市営の法律相談センター。持ち回り輪番で弁護士が出張してきて相談に乗ってくれる。相談した弁護士は話を聞くなり、「自己破産」という言葉を持ち出してきた。最初に「自宅を残したい」と言っているにも関わらずの言葉に、「これはハズレたかな」と心の中で思う。やむなく、事前に調べておいた「民事再生」を持ち出すと、そちらの方に説明が及ぶ。わかりにくい「任意整理」との違いはきちんと説明してくれたから、とりあえずはわかっているのだろうと考えた(弁護士だからわかっているのは当たり前なのだが)

 弁護士と言えども得意分野はあるだろうと思う。そう思って専門を聞いてみると、「家庭内のこと」とのこと。一応、債務問題も入るのだろうが、口ぶりからすると離婚などの方面ではないかと感じる。ただ、民事再生の具体的な進め方(相手の範囲をどうするか、友人も含めるのか等)に関しては歯切れが悪く、予定の30分もそこで過ぎてしまった。終了間際に名刺を出してきて、良ければ受託するとの申し出をいただいたが、実際の依頼は別の弁護士に頼むことにした。私は弁護士とは仕事柄いろいろと付き合いもあって何となく頼りなさを感じたその弁護士さんだが、まったく縁のない弟も頼むのは別の人にするべきだと感じたと言う。

想像してみるに、無料相談だから事務所でもまだ経験の浅い弁護士に白羽の矢が立つのではないだろうか。弁護士も司法試験に受かれば一人前というわけではなく、実践経験を通じて腕を磨いていくのだろうと思う。ある程度の方向性を考えるのにはいいと思うが、実際に依頼するのは、やはりもう少ししっかりした人がいいと考えた。一般的に弁護士は皆歯切れが悪い。それはいろいろな可能性がある中で、はっきりと断定しにくいという事情もあるだろう。それに六法全書がすべて頭に入っているわけだはない。判例や法令を紐解いてみないと答えられないということもあるだろう。それも無理のないことだと思う。

 しかしながら、そうは言っても断定的に話してくれる弁護士もいる。かつて一緒に仕事をした外資系金融機関の専属弁護士さんは、こちらの相談に対しては常に断言してくれる人だった。年下だったが、ニューヨーク州の弁護士資格も持っているという方で、それまでお会いしたどんな弁護士さんよりも優秀だと感じた。その方は別格だったが、私の知人もある程度断定的に答えてくれる。そういう人はやはり安心感がある。何件も経験しているような専門分野だとそういう事も可能だろうと思う。故に弁護士に依頼する時はなるべくその分野の経験を積んだ人がいいと思う。

 無料相談の弁護士さんは、帰り際に名刺を渡しながら、良ければ連絡をくれと言ってくれた。事務所には何人かの弁護士がいるから指名してくれと。もしかしたら、自分の顧客開拓も兼ねての無料相談なのかとも思った。弁護士事務所に所属しているからと言って、口を開けていればお客さんを回してくれるというのではないのかもしれない。士業は基本的に個人事業なので、事務所の看板だけ使っているのかもしれない。そんなことをつらつらと考えての帰り道であった。

 考えてみれば弁護士もいろいろである。私は仕事では会社の総務に在籍しているので、どうしても会社法や労働法などの問題に直面したりする。中小企業ゆえに顧問弁護士などいないが、やっぱり契約した方がいいなと感じている。そんな企業の弁護士は、離婚問題を扱うのとはわけが違うので、やはり専門性が必要だろうと思う。医者だって内科、外科といろいろと分かれているわけであるから、弁護士だってそうだろうと思う。ただ、医者と違って看板にはっきり書いているわけではないところがわかりにくいところである。

 かつて弁護士を目指して大学は法学部を選んだが、法律は自分に向いていないと悟って方向転換した。その選択は間違っていなかったと思う。今でも弁護士になりたいとは思わないが、弁護士とおつき合いせずにやっていくのも難しい。元勤務先の社長との法廷バトル第三弾もまもなく始まる。こちらはアドバイスだけで、委任はせずに自分1人で法廷に立つつもりである。そうは言っても核心部分はやっぱり教えてもらわないとできないので、弁護士さんなしではとてもやれない。

 幸い、友人弁護士には助けられている。土曜日も働いているほど忙しい様子なので弟の面倒を見てもらうのは憚られるところ。何とか自力でいい弁護士さんを探してほしいと思うのである・・・

LEANDRO AGUILARによるPixabayからの画像 


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