2025年1月29日水曜日

会社の魅力を語る

先日、転職者向けのイベントに参加した。我々も業容拡大のためには転職者の受け入れが必須である。転職者との面談は現場のリーダーにやってもらった。会社説明をし、相手の話を聞き、次につなげるかどうかを判断してもらったのである。事前に会社の方では説明用のあんちょこを用意した。いわゆるマニュアルである。現場のリーダーたちにはそのあんちょこを片手に熱心に対応してもらった。そうした姿には頼もしいものを感じたが、一方で何となくマニュアルが必要なのかなとも感じた。

マニュアルは便利な存在であり、その通りにやれば会社として統一の行動が取れる。やる方も自分で考えなくていいので楽である。ただ、転職者にとってみれば、そうした説明ももちろん大事だが、目の前の現場のリーダーが自分のやっている仕事について遣り甲斐や苦労を語った方が響くのではないかと思ったのである。リーダーであれば、そういう「語る言葉」をもってしかるべきだと思うし、持って欲しいと思う。初めてであれば参考にするものとしてある程度のマニュアルはあっていいと思うが、それをベースに自由にやってほしいというのが素直な私の気持であった。

自由というのは言葉の響きがいいし、私も好きである。しかしながら、時として自由は不自由でもある。ルールがあるから楽という事もある。法律があって規制があるから社会は安心・安全という事もある。自由といわれて自由に振る舞える人もいれば、型にはめてもらった方が楽だという人もいる。そこは理解できるが本当は規制されなくとも秩序を乱さないように自由に振る舞えるのが最上なのであるが、理想通りにはいかないのも事実である。線路をしっかりと引いてあげる事も必要なのかもしれない。

会社説明会でいつも思うのであるが、確かに自分たちの会社がどういう会社かというちょっとお堅い説明は必要だろうと思う。しかし、そこから具体的に実際に働く現場での語る言葉があれば説得力は増すように思う。それはお見合いの場で自己紹介をし、「趣味は映画です」と答えるのはいいが、そこから自分がいかに映画を愛しているかという事を語れれば、それはすなわちその人の魅力になるのではないかと思う(ただし、オタク趣味だと引かれる危険性は極めて高そうではあるが・・・)。

仕事に限れば、現場のリーダークラスの人材には、自分の仕事を魅力的に語れるようであってほしいと思う。そしてそのためには、嫌々ながら働いていたのでは言葉に説得力も生まれないだろうし、生き生きと働いてほしいと思う。世の中には仕事を楽しめる人と楽しめない人とがいる。私は楽しめる方なので、今の自分の仕事(財務・人事を含む総務)に来る人にならいろいろと語れるが、現場のエンジニアに関しては経験がないだけに難しい。楽しめていないリーダーには楽しめるヒントを与えられるといいのだが、そこがもどかしい。

最近はよく「自社の魅力」について考えている。グループ合わせて社員100名程度の規模の中小企業であると、大手のような福利厚生や給料などは難しい。しかしながら、「鶏口となるも牛後となるなかれ」と考える人にとっては、やる気次第で経営幹部になれる可能性は高く、単なる1つのネジに終わる事がないという点ではいいと思う。提案も通り安いし、実際、社員から提案のあったユニークな「休暇+報奨金」の制度も作ってしまった。そういう機動性も魅力ではないかと思う。

考えてみれば就職も恋愛も似たようなもので、相手を惹きつけるには自分に魅力がないといけない。外面だけ装ってみても、いずれメッキははがれる。人によって企業に求めるものはさまざまであるが、給料だけで比較されるとなかなか厳しい。だからそれ以外に何かPRできるものがほしい(もちろん、給料も大手との比較であり、中小との比較であれば見劣りするわけではない)。女性も「高給」だけで選択するわけではないであろう。最終的にはその人の人間性なのであろうし、企業も同じだろうと思う。

そうしたものをいかに作っていくか。恋愛でもさんざん苦労した身に何ができると思わなくもないが、幸い企業は複数人で考えられる。疑問を投げかけ、複数の頭を使って考える事ができる。そのあたりが救いだろうか。「いい会社とはどんな会社か」。このテーマはずっと追及していきたいと思うのである・・・

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【本日の読書】

「戦後」を読み直す 同時代史の試み (中公選書) - 有馬学   戦略文化 脅威と社会の鏡像としての軍 (日本経済新聞出版) - 坂口大作





2025年1月27日月曜日

批判する人

どこにでも他人を批判する人というのはいる。我が社にもご意見番的立場の方がいるが、やはり常に人を批判している。その批判は間違っているとは思わないが、いつもいつも批判ばかりだと聞かされる方は辟易してくる。間違っているとは思わないが、正しいとも思わない。それは、ご意見番の批判を聞いて批判の対象となっている人に事実確認をしてみると、そこには止むを得ない事情があったりするのである。物事は一面的に見ても正しくは見えない。円柱も上から見れば円だし、横から見れば長方形だ。だが、円柱の形を円だとか長方形だとか言っても(間違ってはいないが)正しくはない。それと同じである。

私が尊敬する福川先輩が、常々「複眼的思考」ということを仰っていた。物事を多角的に見るという事で、一つの見方だけではなく、いろいろな人の意見を聞き、自分の知らなかった面を含めて総合的に物事を捉える事によって、偏りのないものの見方をしようという事である。我が社のご意見番の意見を聞いていると、本当に複眼的思考の重要性に気付かされる。ただ、役に立たないかというとそうではない。ご意見番の批判はそのままでは受け取れないが、「問題の存在」に気づかさせてくれるという意味では大いに大事だと考えている。問題がある事すらわからない事から比べたら、よほどマシであるからである。

そうした問題についてどうするか。できればご意見番には批判だけではなく、「どうしたらその批判対象を正せるか」まで考えて行動してくれるとありがたいのであるが、そこまではしてくれない。「あいつはダメだ」で終わってしまう。そこまでやってくれたらもう拝むしかなくなるのであるが、そうではないところがご意見番の限界なのかもしれない。そこまでやる方であれば、今頃副社長くらいにはなっていたかもしれない。私も貴重な「ご意見」を聞いた以上、聞き流すわけにはいかない。密かに本人に意見を聞き、改善に動くようにしている。

「批判する人」ほ「批判する」だけでは自分も同じ穴のムジナになってしまう。「批判」それ自体は悪いことではない。ただ、そこに「改善提案」があった方がいい。そしてビジネスの現場では、実際に自分で改善に動かないなら批判すらするべきではないと思う。なぜなら「批判だけの批判」は害にしかないからである。ご意見番の批判を毎日横で聞かされていて、私の精神的健康が害されているように、それは誰かに悪影響を与えるかもしれないからである。

私の友人にも常に自分の職場の同僚や上司を常に批判する者がいる。毎回会うたびに他人批判を聞かされるので、私も会うのが億劫になって(最近はほとんど会っていない)しまったが、人によってはそういう反応を招いてしまうだろう。他人を批判したくなる気持ちはよくわかる。ただ、私も人を批判して批判だけで終わるようにしないようにしたいと思う。特にビジネスの現場では下の人たちからの視線もある。そこは「人の振り見て我が振り直」したいと思う。

考えてみれば、他人批判をする人を見れば自分のなすべき事がわかる。その良くない所が自分がなすべき事になる。そういう意味で、「批判する人」は自分の反面教師になってくれているとも言える。モノは考え方一つという部分もある。他人批判から自分も大いに学んで自分の改善に役立てたいと思うのである・・・


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【本日の読書】
「戦後」を読み直す 同時代史の試み (中公選書) - 有馬学  戦略文化 脅威と社会の鏡像としての軍 (日本経済新聞出版) - 坂口大作





2025年1月22日水曜日

論語雑感 泰伯第八 (その16)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感
【原文】
子曰、狂而不直、侗而不愿、悾悾而不信、吾不知之矣。
【読み下し】
子(し)曰(いわ)く、狂(きょう)にして直(ちょく)ならず、侗(とう)にして愿(げん)ならず、悾悾(こうこう)として信(しん)ならざるは、吾(われ)之(これ)を知(し)らず。
【訳】
先師がいわれた。「熱狂的な人は正直なものだが、その正直さがなく、無知な人は律義なものだが、その律義さがなく、才能のない人は信実なものだが、その信実さがないとすれば、もう全く手がつけられない」
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論語も訳によっては微妙な違いがあったりする。今回の言葉については、「気位が高いくせに不正直であったり、ばかなくせにずるかったり、無能な上に不まじめだったりしては、わしも手がつけられぬわい」という訳もある。言わんとするところは、1つでも痛い欠点に付け加えてもう1つ痛い欠点があるという事だろうか。「できが悪いけど頑張っている」となれば、人は見捨てにくいが、「できが悪いのに努力もしない」となれば誰も助けようとは思わない。当たり前と言えば当たり前の人の世の理屈である。

でもそれはなぜなのだろうか。どうして人は「できが悪いけど頑張っている」人を助けたいと思うのであろうか。そしてどうして「できが悪いのに努力もしない」人を助けたいと思わないのだろうか。比較してみると、「できが悪い」というのは、「助けたい」と思う事に影響する要素ではないようである。同じように「熱狂的(気位が高い)」「無知(ばか)」「才能のない(無能)」というのも同様である。影響するのは「努力」「正直」「律儀(正直)」「信実(真面目)」である。

なぜ、人は努力をする人に心を動かされるのであろうか。「できが悪い」人を捨てる事ができても(できの悪い我が子は別)、「努力をする人」を捨てる事はできないのはなぜだろうか。もちろん、「努力よりも結果」と言って努力を認めない人もいる(特にビジネスの現場で、あるいは外資系企業とかで、)が、そういう考え方に対して、理解はできても心の中ですんなりと納得しかねるしこりが残ったりするのではないだろうか。

努力をする事に関して否定する者はいないだろうと思う。努力をする姿を良いものと思うのは、人間の本能に近いものなのかもしれないと思う。だから、その姿を見ると心を動かされる。それを否定したくないし、されたくない。自分の努力は当然認めてもらいたいし、人の努力も認めたい(何かその人に悪意でもあれば別であるが)。そういう気持ちが、どこか人の心の根底にあるのかもしれない。

その昔、初めてもった部下は正直言ってできの悪い部下だった。当時、総合職として採用された銀行員であれば、融資、取引先係といった部署に配属されるのが常で、預金の窓口に配属される事はない。それは預金の窓口が一段低く見られていたからにほかならないが、その部下はあまりにもできが悪くて、最後には預金係に転属させられたほどである。そんなできの悪い部下に、新米上司の私はさんざん苦労させられた。

ある時、やはりいろいろと指導していた時の事、その部下は開き直ったのか、堂々と私に主張してきた。「でも私も真面目に頑張っていますから!」と。当時の私はそれを聞いて体の力が抜けていった。真面目に頑張るのは給料をもらう以上当たり前の事で、それは「毎日会社に来ています」という事と同じである。それは大前提で、その上でどれだけ実績を出すのかが問われているのである。それでも家に帰って仕事に役立つ勉強でもしていればともかく、そういう事もなく、「当たり前」の事の主張は、幼稚園児でもあるまいし、評価の以前の問題である。

学生時代、ラグビー部に高校時代ほとんど運動をしていなかった者が入部してきた。軽い練習ですぐに息が上がり、見るも辛そうで、きっとすぐに辞めるだろうと思っていた。しかし、彼は頑張って練習に通い、ドンケツだったが何とか練習についてきた。夏合宿が過ぎてもうまくはならなかったが、やがて普通に練習についてこられるようになった。そして4年間を過ごし、レギュラーにはなれなかったが、きちんと卒業した。私は今でも彼の頑張りは評価している。レギュラーになるという結果は残せなかったが、辞めなかったのは彼の誇るべき勲章だと思う。

同じ頑張りでもラグビー部の後輩には「努力」が伴う。だから評価ができる。しかし、毎日出勤して仕事をするのは「努力」とは言い難い。そこが2人の違いである。同じ「頑張る」でもそこに「努力」という要素が入っているかどうかが重要であると言える。そういう「努力」を人は否定できない。逆に言えば、「できが悪いならせめて努力しろ」という事になる。それすらしないとなれば、人はもう認めてはくれない。寛大なイメージのある孔子ですらお手上げなのである。それが人の正直な感情なのだと改めて思うのである・・・


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【本日の読書】

わが投資術 市場は誰に微笑むか - 清原達郎  戦略文化 脅威と社会の鏡像としての軍 (日本経済新聞出版) - 坂口大作





2025年1月19日日曜日

サプライズ!

先日の事、我が社で若手社員が「やらかして」しまった。本人は一応反省しているとの弁だったが、罰を与える事にした。毎朝、我々総務でやっている簡単な設備のメンテナンスを申し付けたのである。「始業15分前に来てやれ」と。本人はしおらしく了承して翌日から作業をする事になった。翌朝、彼は私が申し付けた時間の30分前(つまり始業時間の45分前)に「おはようございます!」と言う挨拶と共に出社してきて作業に取り掛かった。15分程度で終わる作業をそのまま彼は教えた通りにしっかりやり終えた。

私は「いいな」と思った。言われた通りに始業の15分前に来てやっても別に文句はなかった。ただ、それだと「驚き」はない。ただ「言われた事」を「言われた通り」にやっただけである。しかし、言われた時間より30分も早く来てやるというのは、相手の予想を超えているわけで、それは相手に「驚き」をもたらす。この「驚き」は大事だと思う。相手の期待値を超える事によって相手に「驚き」をもたらす。それはその人自身の評価を高めるのに役に立つと思う。

私も本多静六の「天才が1時間かかってやるところを2時間やって追いつき、3時間やって追い越す」という言葉が好きであるが、「1時間やれ」と言われたら2時間やるタイプである。スポーツでも勉強でも、もちろん仕事でも同じである。言われた事をやるだけであれば、それは普通である。相手の記憶に残る事もない。言われた事以上にやって初めて相手に「驚き」をもたらし、評価もされるし記憶にも残る。「評価されるために」という目的が先に来ると嫌らしいが、そういう行動が未来の自分を変えていくと思う。

木下藤吉郎が織田信長の草履を温めたのは有名な逸話であるが、「下足番を命じられたら日本一の下足番になってみろ。そしたら誰も君を下足番にしておかぬ」(小林一三:阪急・東宝グループ創業者)なのである。常に相手の期待値を上回る事を意識していたら、ずいぶんと仕事ができるサラリーマンになれると思うが、最近そういう話を若い人に意識的にしている。それは自分もいろいろと経験を積んできたし、それを自分だけで終わらせるのではなく、若い人にも知ってもらえたら会社の業績向上にも繋がると思うからである。

我が社には、見事に言われた事しかやらないロートル社員がいる。言えばそれなりにきちんとやってくれるので重宝しているのだが、そのかわり言わないとやってくれない。最近はビルの管理会社から防火上の指摘をされ、すぐにその対応をした。しかし、それはそれでいいのだが、「今後それを誰が管理していくか」という事までは考えない。それを考えると、別の対応もありうるのだが、そこまで考えない。「その場でやっておしまい」なのである(それも別の意味で驚きではあるのであるが・・・)。

これ「金曜日までにやっておいて」と言われたなら、私であれば遅くとも木曜日までにはやり終える。他に優先する仕事がないのであれば、とりあえず最優先でやって終わらせれば、「期限」という意味で相手の期待値は超えられる(もちろん、ただ早ければいいということではない)。やれと言われそうだとわかっていたなら、言われる前にやっておく。「やれと言われていない事をやるのは損」などと考えていたら、それは自分自身を「期待以下」の存在にしてしまう事になる。

仕事はやっぱり楽しくやりたいし、楽しくやるためには自分で仕事をコントロールできないといけないし、さらに言えば相手を驚かせたい。「サプライズ!」は仕事であっても相手を驚かせる楽しさがある。相手を驚かせて自分も認められればこんなに面白い事はない。私もまだまだ相手を驚かせていきたいと思うし、それを若手にも伝えていきたい。そういう存在になりたいと思うのである・・・


raffaella cerutiによるPixabayからの画像

【本日の読書】
わが投資術 市場は誰に微笑むか - 清原達郎  春の雪 (新潮文庫) - 三島 由紀夫





2025年1月16日木曜日

言葉について

人間は言葉によって互いに意思疎通を図る事ができる。しかし、ほんのささいな言葉遣いによって誤解を招く事は日常茶飯事である。いったい我々は言葉をうまく使いこなしているのだろうかと考えてみる。その前にそもそも言葉は世界を十分に表現できるのだろうか。きちんと伝えられないのは、その人のボキャブラリーや表現力によるせいだろうか、それとも言葉自体のせいであろうか。言葉自体に限界がある事も事実だと思う。それが証拠に、我々は「体験」を伝える事ができない。

たとえば「匂い」。バラの香りと言われればわかるが、それはバラの香りを嗅いだ経験があるからで、「体験」を伝えたわけではない。たとえば世界最大の花であるラフレシアの臭いと言われても普通の人にはわからない。それはほとんどの人にラフレシアの臭いを嗅いだ経験がないからである。その臭いは「動物の死骸が腐った臭い、トイレの悪臭のような臭い」だそうで、そう言われれば何となく想像はつく(もっともトイレの悪臭なら想像はつくが、動物の死骸が腐った臭いは経験していないとわからない)。ただ、それは厳密に「体験」を伝えたわけではない。

「頭が痛い」と言われた場合、人はたいてい、過去の自分の体験を元に想像するのであるが、厳密に目の前の人が経験している頭痛がそれと同じかどうかはわからない。もしかしたら、自分が想像している以上のものかもしれないし、以下かもしれない。生まれた時から目が見えない人に「赤」と言ってもわからないだろう。「ランナーズハイ」という言葉があるが、長距離走が嫌いな私にとって、多分一生わからない感覚だろうと思う。

最近は「推し」という言葉が使われているが、娘が夢中になっているSUPER EIGHTの魅力だが、娘がいくらそれを言葉で私に伝えようとしても伝える事はできない。同じファン同士なら可能だろうと思うが、それは「体験」を共有しているからである。だからトラキチの気持ちはわからないし、私がいかにラグビーが面白いかと力説しても、すべての人にそれを伝える事は困難である。「面白いと思う気持ち」を伝える事はできないのである。

言葉もいろいろあって、世界には7,000もの言語があるらしいが、そうなると通訳がいないと互いに意思疎通はできない。しかし、その通訳が正しいかという問題もある。その昔、夏目漱石は“I love you”を「月がきれいですね」と訳したと言う。“I love you”は一般的には「愛してる」であるが、夏目漱石は「月がきれいですね」と訳している。それは時代背景や状況もあるのだろう。明治の日本では「愛している」などと面と向かって言うのは憚られたのだろうし、そういう環境下では適訳だったのだろう。

文字通りに解釈すると、「月がきれいですね」という言葉のどこにも「愛している」という意味はない。しかし、男女2人で夜空の月を見上げながらのシチュエーションを想像すると、明治の日本人的には十分「愛している」という意味として適切であるように思えてくる。これに対して、「2人で見ているからではないですか」と返せば、それは“Me、too”なんて表現よりもはるかに味わいのあるやり取りのように思える。

そう考えてみると、言葉では伝えられないものもあれば、言葉によってさらに伝わるものもあるのかもしれない。私の好きな名言・格言の類もそうと言える。過去の人が経験した考え方を伝えるのはどうしても言葉によらなければならない。ただ、それも表現によっては伝わり具合が違うのも当然だろう。小説を読んで感動するのも、人の心にそういう感動を呼び起こすからであり、それが言葉の効能である。100%伝えられないものもあれば、120%伝わるものもあるというところかもしれない。

ビジネスの現場では、やはり「月がきれいですね」では通じない場合が多いだろう。ビジネスの現場では「体験」よりも「考え方」を伝える事の方が多いだろうし、そのためには言葉も有効なはずである。相手にいかに自分の考えを伝え、自分と同じ考え方に立ってもらえるか。なかなか簡単ではないが、効果的なのは「たとえ」かもしれない。「トイレの悪臭のような臭い」のようなものである。これによって言葉は多くのものを伝えられ、理解も促進されうると思う。言葉自体の伝える力もそうだが、たとえによってこれを補うというのも有効である。

何はさておき、ビジネスでは伝わらなければ始まらない。言葉に限界はあるにしても、伝わらないと嘆くのではなく、たとえを駆使してでも伝える努力をしないといけないと思う。そう思いつつも、最近悩ましいのが言葉が出てこない現実。どうしても「あれ」とか「それ」とかが多くなってきている。悲しいかな年齢による「言葉が出てこない」である。これがさらにコミュニケーションに支障をもたらさないようにしないといけない。もっとも、最近それを先回りして部下も優しく接してくれる。やっぱりコミュニケーションは言葉の前に気持ちかもしれないと思うのである・・・


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【本日の読書】

わが投資術 市場は誰に微笑むか - 清原達郎  春の雪 (新潮文庫) - 三島 由紀夫






2025年1月13日月曜日

言葉のキャッチボール

先日、テレビで津軽弁がまったくわからないという事をやっていた。現地で高齢の方にインタビューするのだが、その答えを聞いても確かに何を喋っているのかわからない。同じ地元の若い人にそれを聞いてもらい、解説してもらってようやく理解できた。聞いただけでは日本語なのかすらわからなかったが、解説を聞けば確かに日本語だった。世界には7,000もの言語があるという(『昨日までの世界』読書日記№377)。俄には信じ難いが、日本語でも方言によってこれほど違う事を考えると、確かにあまり交流のない地域ではその地域独自に言語が発展し、違う言語のようになるのだろう。

しかし、同じ標準語でも言葉が通じないかのように言いたい事が伝わらないという事がある。あるいは何を言っているかわからないという事がある。哲学などは普通の人が読んでも理解が難しいことからよくわかる。同じ言葉のキャッチボールなのに相手の投げたボールが取れない。キャッチボールの基本は相手の胸を目がけて投げるのが基本である。相手が取れる様に投げるものである。暴投なら当然取れない。中には運動神経が良くて取れる人もいる。哲学で言えばそれなりの勉強をした人だろう。

いつも思うのであるが、カントやヘーゲルなど難解な哲学でも、研究者による解説書でわかる場合がある。カントが投げた難解なボールを研究者がジャンピングキャッチし、それを取りやすく投げてくれるので一般の人にも理解できる様になる。研究者にできる事がなぜ、大哲学者にはできないのであろうかといつも不思議に思う。考える事とそれを表現する事はまた別の事と言えるのであろうか。あるいは哲学者にとっては取りにくいボールを投げているという自覚がないのかもしれない。

ボールはきちんと投げたが、相手が落球するという事もある。きちんと伝わらないという事である。それは投げた方が拙いという事もあるし、受け取る方が理解できないという事もあるし、その両方である事もある。コミュニケーション不足は日常でよくある。「そんなつもりはなかった」という類である。また、日本人は割と直接モノを言い難い、言わないという傾向がある。間接的な表現で気づいてもらおうというのは、相手に対する心遣いであるが、一方で伝わらなければ言葉のキャッチボールができていないという事になる。

『エレガントな毒の吐き方 脳科学と京都人に学ぶ「言いにくいことを賢く伝える」技術』(読書日記№1516) によれば、京都人は相手に直接批判的な事は言わないらしい。ピアノがうるさい場合は、「ピアノが上手にならはって」などと遠回しに言うそうである。鈍感な私には絶対その意図に気づかない自信がある。それが故に、私は相手にとって耳が痛い事でも直接言う主義である。それで嫌われたなら仕方ないと腹を括っている。ただし、言い方には気をつけている。豪速球を投げ込むのではなく、取ることを意識した緩やかなボールである。

最近、我が社の取締役の同僚にもそのような感じで意見を言った。彼の行動が社長以下、他の取締役の考え方からズレているのである。もうずっと間接的に言ってきたが、埒開かず、直接言う事にしたのである。「こういうケースではこうした方がいい」と。ただ、「私にはそう思えるのですが、どう思いますか?」というマイルドな表現にした。それが良かったのか、彼も何とかして社長の信頼を得たいともがいているところだったからか、私の意見は素直に受け取ってもらえた様である。

人類は言葉という武器を使って発展してきた。ただ、その使い方は人によって巧拙がある。野球のキャッチボールと同様、言葉のキャッチボールも相手が「キャッチできるか」が重要である。独りよがりは良くない。「適切に伝わったか」を常に意識していたいと思う。そして伝わっていない時は、ボールを取れない相手の責任ではなく、「取れるボールを投げられない」自分の責任である。ビジネスの成果に直結する言葉のキャッチボール。より上手くできるように意識したいと思うのである・・・


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【先週の読書】
こころの処方箋(新潮文庫) - 河合 隼雄  三体2 黒暗森林 下 (ハヤカワ文庫SF) - 劉 慈欣, 大森 望, 立原 透耶, 上原 かおり, 泊 功  春の雪 (新潮文庫) - 三島 由紀夫




2025年1月8日水曜日

論語雑感 泰伯第八 (その15)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感
【原文】
子曰、師摯之始、關雎之亂、洋洋乎盈耳哉。
【読み下し】
子(し)曰(いわ)く、師摯(しし)の始(はじ)め、関雎(かんしょ)の乱(おわ)りは、洋洋(ようよう)乎(こ)として耳(みみ)に盈(み)てるかな。
【訳】
先師がいわれた。
「楽師の摯がはじめて演奏した時にきいた関雎の終曲は、洋々として耳にみちあふれる感があったのだが」

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論語と言えば、孔子の言葉を伝えたものであり、それは人生訓のような固い話という感覚があったが、よくよく見ていくと今回の言葉のようにその時々の感想のようなものもかなり含まれている。そして音楽に関して言及するものも多いように感じる。当時の中国音楽がどのようなものだったのかわからないが、今も中国独自の琴によるものだったのかもしれないと思ってみる。中国の音楽と言えば、今でも映画『ラスト・エンペラー』を観た時に背景に流れていたテーマ曲が脳裏に流れる。そんな感じであったのであればここに書かれている孔子の気持ちも何となくわかる気がする。

音楽によって気分が変わるのはよくある事。その昔、小学校時代は運動会で『天国と地獄』の曲が流れると妙な緊張感に包まれたものである。それは強烈な思い出だったらしく、今でもこの曲を聞くと、徒競走で順番を待つ間のあの緊張感が蘇ってくるほどである。プロレスでは、レスラーごとに入場曲が決まっており、その曲とともにその選手が入場してくると高揚感に包まれる。特にビッグマッチとなるほどその高揚感は大きくなる。映画やドラマでも背景に音楽があるのとないのとでは大違いである。

その昔、父親が映画音楽やムード音楽が好きでよくレコードを聞いていた。私も何となくそれを聞いていたので、今でも映画音楽は好きなジャンルである。哀愁のこもった『ゴッド・ファーザー』や雄大な砂漠を背景とした『アラビアのロレンス』、『ドクトル・ジバコ』、『太陽がいっぱい』、『パピヨン』、『荒野の七人』、『大脱走』など70年代の名画の音楽が入ったレコードをよく聞いていた記憶が今でもある(まだ実家にあるかもしれない)。考えてみれば、私の映画好きの原点はそこにあるのかもしれない。

小学校5年生の時に初めて映画館で洋画を観た。それまでは「東映漫画祭り」という子供向け映画専門であったが、そこから本格的に映画デビューしたと言える。記念すべき第一作は『ジョーズ』だったが、ジョン・ウィリアムスによるテーマ曲も強く印象に残った。ジョン・ウィリアムスはその他にも『スター・ウォーズ』、『スーパーマン』、『未知との遭遇』、『インディ・ジョーンズ』、『ジュラシック・パーク』、『E.T』など、私が夢中になって観た映画音楽をことごとく作曲していて、好きな作曲家の筆頭である。

今はハンス・ジマーだろうか。意識したのは 『パイレーツ・オブ・カリビアン』だったが、『ダークナイト』シリーズや『インセプション』、『インターステラー』など、音楽が印象的だった映画のエンディングで作曲者をチェックしていて気づいたのである。その後、調べてみたら 気がつかなかっただけで、『レインマン』や『ブラック・レイン』、『クリムゾン・タイド』、『シン・レッドライン』、『グラディエーター』、『ブラック・ホーク・ダウン』など強く印象に残っている映画も手がけているとわかり、ファンになっている。

学生時代、ラグビーの試合(特に公式戦などの大事な試合)前にアントニオ猪木の入場曲『イノキ・ボンバイエ』を聞いてから家を出ていた。戦意高揚と言えば大げさであるが、こういう勇ましい系の音楽を聴くと確かに気持ちは上がる。スポーツ選手でも試合前に音楽を聴くというのはよくあるみたいで、それが戦意高揚なのか平常心の維持なのかはよくわからないが、目的によってそれにあった曲を聴くのだろう。片思いに苦しんでいた時は、毎晩寝る前にブライアン・アダムスの『アイ・ドゥ・イット・フォー・ユー』を聴いていたのを思い出す。

自分の結婚式では打合せの時にキャンドル・サービスで入場の時から流す曲を自由にできると聞いて、入場曲だけリクエストした(残りは妻の選曲である)。ありきたりのウェディング・マーチだけは絶対に嫌だったので、いろいろ考えてエルガーの『威風堂々』にした。あれは今でもベスト・チョイスだったと思う。式に列席いただいた方がどう思ったかは知らないが、1人の友人からは「リクエストしたのか?」と聞かれた。好意的な質問と捉えたが、何より当の本人はいい気分で臨めたのは確かである。

最近は、家の周りの雑草取りや大掃除の際に音楽を聴きながらやっている。それは気分高揚というものではなく、「嫌な作業をやる時間」を「好きな音楽を聴く時間」に変えていると言える。それはもっぱら「歌」系であるが、それも音楽の効能かもしれない。孔子の時代からは音楽(楽器)もだいぶ進化しているし、孔子が今の音楽を聴いたらどんな感想を持つのだろうかとちょっと想像してみた。『スター・ウォーズ』のテーマ曲を聞かせたらさぞ驚くであろう。音楽という面でも今はいい時代だと改めて思うのである・・・

javier dumontによるPixabayからの画像

【本日の読書】
こころの処方箋(新潮文庫) - 河合 隼雄 三体2 黒暗森林 下 (ハヤカワ文庫SF) - 劉 慈欣, 大森 望, 立原 透耶, 上原 かおり, 泊 功





2025年1月5日日曜日

2025新春雑感

ここ数年、年末年始の我が家の光景は同じになってきた。元旦に1人起きて近所の氏神様に初詣に行く。心改め、神様には昨年のお礼と今年も見守っていただけるようにお願いする。基本的に神頼みはしない主義だが、このくらいは良いだろうと思う。そして破魔矢を買って帰る。朝も早めの時間だと参拝客も少ない。列に並ぶ時間は心を鎮めていろいろと物事を考える時間には良いが、列も短い方が良い。家族で参拝に来ている人を見ると羨ましく思うが、思い通りに行かないのがこの世の常と考えている。

往復の道すがら、今年の目標を考える。よその家族を羨む気持ちを思うに、我が家に足りない事をあれこれ思うのはやめようと思うと、自然に「知足」という言葉が浮かんだ。その後、実家へ向かう電車の中で読んだ本に「知足安分」という言葉が出ていた。偶然ではあるが、導きのように感じたので、今年はこれにしようと強く思う。さらには「自責」。今ある自分は自分の行動・考え方の結果。改めて「自分が源泉」の考え方を意識しようと思う。

そしてもう一つ「内省」。「自分が源泉」であるとするならそこに至る深い内省が必要だと思う。他人を批判する気持ちが湧いてきたなら、そこでまずはじっくりと考えてみたい。己にその批判をするだけの資格があるかどうか。自分に改善点はないのか。ただ批判するのではなく、それを改善する事はできないのか。じっくりと内省を経てからにしたいと思う。「知足・自責・内省」を1年間心掛けたいと思う。これは毎日の日記の冒頭に掲げているので、否が応でも目に付く。しっかりと意識したいと思う。

三が日は実家で両親と過ごす。毎朝雑煮を作り、夕食の支度をする。頼んでおいたおせちは意外にも量が少なく、2日でなくなってしまった。スーパーは開いていない。それでも冷蔵庫の中を見て、最後は親父を無理やり散歩に連れ出したついでに戸越銀座商店街で夕食のおかずになるものを見つけて何とかする。老いた母は食事の支度をしなくて済むと喜んでくれたが、やっぱり家事は大変である。改めてやってくれる人には感謝しないといけない。

両親とも短期記憶がますますなくなってきている。同じ会話を繰り返すのは当然だが、一晩寝るともう忘れてしまう。年末にビールを買わなければという親父に、「充分あるから不要」と伝えていたが、やっぱりそれを忘れて買っていた。さらに私のためにとウイスキーを買ってくれていた(同じウイスキーの封を切っていないものが棚に入っているのに・・・)。何も言わず、感謝してハイボールにして夜の映画のお供にした。嘆くのではなく、こういう時間も今のうちに大事にしたいと思う。

三が日は実家でのんびりとというわけにはいかなかったが、今年もまた一緒に過ごせたことは良かったと思う。母の家事負担を軽減し、話し相手になり、昔のように上げ膳据え膳ではなくなったが、それはそれで良いと思う。もう還暦の息子は勝手知ったる実家で何でもできるのだが、母はまだ「寝る時に寒くはないか」と何くれとなく世話を焼こうとする。煩わしい気持ちの方が強いのだが、ありがたく受け取る。もうこういう時間を後どれくらい過ごせるだろうか。母親というものはいくつになっても母親であろうとするものなのかもしれない。

こうして私の新たな年は始まった。1日1日を貴重な時間として、今年も過ごしていきたい。過ぎてしまえばまた「時の経つのは早い」と思うが、過ぎる前はたっぷりと時間があることがわかる。今年も4日が過ぎただけであと361日もある。この過ぎゆく時を大切に満喫して過ごしたいと思うのである・・・


Annette MeyerによるPixabayからの画像

【今週の読書】
迷ったら、ゆずってみるとうまくいく - 枡野俊明  三体2 黒暗森林 下 (ハヤカワ文庫SF) - 劉 慈欣, 大森 望, 立原 透耶, 上原 かおり, 泊 功