2013年12月31日火曜日

2013年年末雑感

 2013年も最後の一日となってしまった。例年通り我が家はこの日最後の大掃除。大した家でもないのだが、大掃除は例年4日間に分けて行っている。今日は玄関周りと洗車だった。

 始めの頃は、デッキブラシでゴシゴシこすっていたからかなりの重労働だった。今は、高圧洗浄機があるからかなり便利。みるみる汚れが落ちていくのはなかなかの快感である。


 終わって昼間に年越しそばも恒例。夕食はいつもすき焼きでお腹いっぱいになってしまうから、昼間に年越しそばを食べるのである。そして紅白を見ながらすき焼きを食べて、あっという間に新年になる。

 今年は娘が小学校を卒業。残念ながら、都立の中高一貫校受験は失敗。今は地元の公立中学に元気に通っている。失敗と言ってもそれは一時の事。長い目で見た時に、それが失敗なのかどうかはわからない。むしろそれが何かに至るための道だったりする事もあるから、失敗かどうかはわからない。

 自分はどうだろう。体を動かそうと大学のラグビー部のシニアチームに参加したものの、初回で足を痛めてリタイア。後半はお手伝いしている『寺子屋小山台』のスケジュールと重なってほとんど行けなかった。来年はもう一度やり直しだ。

 家族でスキーに行けたし、夏にはサイパンにも行けた。贅沢を言えばキリがないが、個人的には十分満足している(家族は物足りないかもしれない)。ブログはすっかり更新頻度が落ちてしまっているが、フェイス・ブックもあるし、映画を観て本を読んで、それらのブログも更新して、合間に勉強もしてとなるとさすがに限界だ。せめて来年はこのペースを維持したいと思う。

 いろいろと抱えこんでいた問題は、いまだ解決の兆しはない。ただ、底にコツンと当たったような感じがする。ここが底で、これから少しずつ浮上するのだとしたら、今の苦労も悪くはない。物事は考え方一つ。この程度の悩みと苦労で済むなら、大いに背負おうという心意気で行きたいものである。

 さて、明日から新しい一日、新しい月、新しい年が始る。昨日よりもより良い今日、そして今日よりもより良い明日と考えるなら、今年よりももう一歩進化したい。仕事でもそれ以外でも何かの、誰かの役に立てるようにしたいものだ。世の為、人の為と大言壮語するつもりはないから、誰かとは自分と関わり合う身の回りの誰かで良いと思う。

 それは親であり妻であり、子供たち、そして親戚・友人・知人だろうか。顔を上げ、前を向き、常に前傾姿勢で倒れる時も前に倒れる。今年もそんな気持ちでやってきたが、来年も続けてその姿勢を保ちたい。より良き明日に備えて、2013年の完了キーを、今年も押したいと思うのである・・・


【先週の読書】
ソロモンの偽証 第I部 事件 - 宮部 みゆき







2013年12月27日金曜日

フィギュアスケート

 先週末、我が家の夕食の席では珍しくテレビがついていた。基本的に我が家では、食事の時はテレビをつけないのがルールである。だが、たまに例外もある。どうしても見たい番組がある場合で、先週末はそれが妻の希望する「フィギュア・スケート」であった。ソチオリンピックの選考会も兼ねた全日本選手権が開催され、妻はそれに夢中になっていたのである。

 何となくその場の雰囲気でみんなで観ていたが、考えてみればこの“スポーツ”も不思議だと思う。そもそも“スポーツ”なのだろうか。まぁ、オリンピック種目だし、採点をして点数を競うので、やっぱり“スポーツ”なのだろう。“スポーツ”には違いないのだろうが、ただ観ている立場からすると、氷上バレエという気がする。だが、バレエは“スポーツ”ではない。見せて楽しませる“芸術”であり、採点をして点数を競うというものではない。まさに「似て非なるもの」と言えるだろう。

 さて、“スポーツ”と言ってはみたものの、このスポーツはわかりやすくて実にわかりにくい。何がわかりにくいかと言えば、優勝劣敗だ。素人目には、誰が勝ったか負けたかはわからない。終わって採点の結果が表示されて、はじめて結果がわかる。こういうスポーツも珍しい。

 我がラグビーも、よく人から「ルールがわかりにくい」と言われる。だが、「ボールを前に投げてはいけない」というルールはよく知られているし、難しい反則はレフリーを見ていれば「何か反則があった」とわかるだけで十分だし、何よりトライという明らかな結果は素人でもよくわかる。

 されど、フィギュアの場合、ジャンプやスピンや一時有名になった「イナバウアー」などが技術として採点されるのだろうということはわかっても、では「今のが何点か」となったらわからない。さらにショートプログラムとフリーとに分かれているが、何がどう違うのかわからない。いきなりテレビをつけて、フィギュアをやっていたとして、それを見てそれがショートかフリーかを果たしてみんなわかるのだろうか。

 こんなにわかりにくいスポーツのどこがいいのだろうか。その答えは、観ていればわかる。やっぱり観ていて、特に女子の演技は優雅でいいなぁと素直に思う。特に浅田真央は、トリプルアクセルがどうのこうのと言われているが、個人的にはくるくる回るスピン系の演技に見惚れてしまう。バレエでは表現できない“美しさ”のようなものを感じる。いつの間にか、つられて観入ってしまっていた。

 そうして振り返ってみると、いいなぁと思ったのは華麗かつ優雅な氷上の演技であり、ジャンプの技術がうんぬんではない。スポーツなのに、スポーツの要素では心が動かず、見事な舞いという芸術的な要素にテレビの前に釘付けになっていた。
まぁスポーツであろうがなかろうが、あまり観るのには関係がない。ソチの大舞台では、日本勢の活躍はどうだろうか。ちょっと冬季オリンピックに楽しみができたなと思うのである・・・





2013年12月19日木曜日

娘の誕生日

 今日は娘の13回目の誕生日。
娘が生まれたのは、20世紀最後の年、西暦2000年。
したがって、西暦の下二けたがそのまま年齢となる。
わかりやすくて良い。

 初めての我が子。何となく男よりも女の子の方がいいなと思っていた。そして思い通り生まれてきた我が娘。初めて抱いた時は、落としそうで怖かった。夜泣きをした時など、妻よりも私が抱いた時の方が泣きやむ事が多かった。今となっては懐かしい。

 娘が生まれてしばらくは、ずっと我が子が一番可愛いと思っていた。親バカではなく、客観的に見てそうだと思っていた。小学校に入ってしばらくまでは、他所のどの子を見ても、我が子より可愛いと思える子は稀だった。そのうち、だんだん娘よりも可愛い子を見かけるようになり、中学一年になった今では、“普通”レベルになってしまった。そうは言ってもやっぱりそこは我が子。可愛い事には変わりない。

 そんな娘は、特に仕向けたわけではないのだが、勉強については「好き」と言ってよくしている。テストも5教科の平均はいつも90点以上。前回の試験でも学年3位内に入ったらしい。中学受験は地元都立の中高一貫校に落ちてしまったものの、そのあとは大したものだと思う。

 そんな我が子の勉強に対し、気をつけている事は、自分自身の経験から来る事。私も娘ほどではないが、そこそこの成績を納めていたが、特に世の中の常識的な事についてよく親から注意された。「勉強ばかりできたってそういう事ができなければダメなんだぞ」と決めゼリフのように言われたものだが、それが何より嫌だった。

 今から思えば親の言いたい事はよくわかるが、言われた方は、「じゃあそういう事がわかれば勉強なんてしなくて良いんだな、ならそれを勉強するから学校のテストは0点でも文句を言わないでくれ」と反発したものである。そんなわけで娘には、「勉強はよくやっているからそれでいいけど、もう一つ平行して・・・」と伝えるようにしている。反面教師として、我が父には感謝しているところだ。

 実際、世の中勉強は大事だが、それだけでは片手落ち。やっぱり人とのコミュニケーションがもう一つの柱だ。私自身もこれで随分と苦労したし、今でも母親と妻との間で苦労している。これがそこそこスムーズにできたら、まずまずの人生を歩めるのではないかと思う。

 将来はどうなるのだろう。やっぱり誰かと結婚してほしいし、子供も産んでほしい。かと言ってこれからの世の中、専業主婦はどうだろう。本人が望むのなら別だが、仕事を持てるならその方が良いと思う。結婚相手には、協力的な人を選ばないといけない。

 もはや自分には何もできないだろうし、それを前提に自立型に育つようにしたいと思ってこれまでやってきた。男だって何人か付き合ってみないと、良い悪いの目は養えない気がする。家に連れてくれば、男の目から見た品評をしてあげてもいいと思うが、それを娘が望むかどうかわからない。

 今は、色気よりも完全に食い気。鏡の前に長時間向かうなんて事はないし、先日家族で行ったしゃぶしゃぶ食べ放題では、家族で一番食べていた。今は妻もうらやむ細身だからいいが、将来太り出したらその時は真剣に注意しようと思う。

 もはや抱っこなどできなくなってしまったが、その存在自体が私の生きる支えとも言える。
妻に冷たくされるたびに、「離婚」の文字が脳裏をよぎるが、それを打ち消してくれるのが娘とそして息子だ。「子はかすがい」とは良く言ったものである。

 もうそろそろパパの前で服を脱ぐのはやめてもいいような気がするが、どうだろう。ちょっと前まで嵐に夢中になっていたが、今は関ジャニに変わったらしい。目の前には開けた未来が広がっている。喜怒哀楽をいろいろ経験していくのだろう。その都度、経験談を語ってあげられたらいいなと思う。

 娘が成長していく後姿を、いつまでも見ていたいと思うのである・・・

【本日の読書】

ソロモンの偽証 第I部 事件 - 宮部 みゆき








2013年12月14日土曜日

特定秘密保護法案

 特定秘密保護法案が成立した。特に関心を持っていたというわけではないが、反対意見については予想できる内容だったのは確かである。『秘密保護』という言葉だけで、我が日本人が過剰反応するのは目に見えている。

 それはそれとして、毎朝新聞を読んでいても今一よくわからない。それはやっぱりメディアに問題がある証拠だと思う。普通に新聞を読んでいたら、理解できるように報道するのがメディアの努めだと思う。それでも理解している人は理解しているのだろうか、友人知人の中には反対デモに参加した人もいるようだし、日本版NSCと合わせて「戦争をする国作り」と批判する人もいるし、巷ではかなり反対意見を目にし耳にする。ネットでも同様。だが、それらの反対意見にはどうも何か違和感を覚える。

 改めて反対意見を調べてみたら、日本弁護士連合会が問題点をまとめてくれていた
 1 プライバシーの侵害
 2 「特定秘密」の範囲
 3 マスコミの取材・報道の阻害
 4 国会・国会議員との関係
となっている。相変わらず何か釈然としない。

 よくよく考えてみれば、それは反対論の議論の展開がおかしいところにあるとわかる。なぜなら、まず何か問題があって、それでこの法案が作られたハズ。何となく理解しているところでは、それは欧米のように国家秘密をきちんと守る仕組みが我が国にはなく、よって欧米(とくに米)が我が国と秘密情報の共有ができないと危惧していて、そこから法案整備の要請がきたらしい。

 そう言えば数年前、Youtubeに中国漁船衝突事故の映像が流された事があった。当時民主党政権が非公開としていたものを、一人の自衛官が流したのである。国家の秘密を個人の勝手な判断で暴露するなんて、何という事だと思ったが、ああいう例を見ると、個人的には法案の必要性を感じる。

 それはともかく、まず反対するなら、法案の必要性の元となった事をどうするのか、を論じないといけない。個人的に「対案のない反対論は聞く価値がない」と考えている。反対だけなら誰にでもできるし、それだけなら無責任だ。まずその問題をどうするのか、反対するならその対案を示した上でするべきだろう。

 日弁連の反対意見とか、あるいは「国民の知る権利」の侵害だとか言われているが、それらはこの法律にともなって付随するいわば“副作用”だ。まず病気があって、それに対する特効薬を使おうとしたら、強い副作用があるとわかった。ならどうするか?「副作用が強すぎるから薬を使うな」と反対するなら、肝心の病気をどうするのかという対案を出すべきだろう。

 事は簡単ではない。日本はまだ尖閣諸島一つとってもアメリカを頼らないといけない。それであれば、アメリカの要請にもきちんと応えないといけない。にも関わらず、それに反対するならその結果にどう責任を取るのか。反対論にはそれが欠けている。

 そもそもアメリカにも同様の法律はあるはずだし、どういう運用がなされているかを調べれば、“副作用”だって抑えられるかもしれない。実は副作用と言っても、そんなに大げさなものではないのかもしれないとすら思う。対案が出せないなら、まず“薬を使う”。その上で“副作用”をいかに軽減するか。これが考えるべき手順だろうと思う。

 考えてみれば、企業にだって企業秘密というものがある。社員が勝手な判断でそれを外部に漏洩させたら、罰せられるだろう。それは国だって同じである。国家公務員が自分の信条と合わないからと言って、国家の秘密を暴露する事を放置していたら、いずれ大変な事になるだろう。そういう問題をどうするのか。「国民の知る権利」の前に、考えねばならない事だと思う。

 法案に賛成か反対かと問われたら、今の議論を見ている限り賛成するしかないと思うところである・・・

【今週の読書】

日本人は「経済学」にだまされるな! (中経出版) - 中原 圭介






2013年12月7日土曜日

脱原発のその前に

 立場が違えばモノの見方、考え方も変わる事は、もう随分前から気づいている事だが、先週またそんな経験をした。いつも参加している勉強会で、某原発(も扱っている)メーカーの方に原発についての意見を伺ったのである。最近は、小泉元総理が脱原発を唱えて世論を沸かせている。日本の各地の原発も停止したままであるが、原発擁護の声も根強いものがある。そんな擁護側の意見を聞く機会に恵まれた、というわけである。

 まずは、「原子炉は安全ではない」との説明がなされる。「安全神話」とよく言われるが、実は「原子炉は安全なものではなく、危険なものである」との説明。そしてその上で、「それをいかに安全に利用するか」が重要なのだという。なるほど、言われてみればその通りでわかりやすい。

 原発の事故に際しては、「止める・冷やす・閉じ込める」の工程が重要。福島第一では、安全に「止まった」ものの、電源喪失という事態に「冷やす」事ができなくなった。それが重大事故の原因。しかし、もっと新しい設計の福島第二はほぼ同じ状況下で「冷やす」機能が働いたため、大事に至らなかった。最新技術では、「電気で冷やす」から「勝手に冷える」レベルに来ているのだとか。いたずらに福島の事故だけをもって、今後も同様な事故が起こる危険があるという事でもないらしい。

そして肝心な、「原発が必要な理由」であるが、
 ① 資源のない日本は、現在燃料購入費として以前より4兆円も余分に支出している
 ② 異常気象が話題になっているが、従来型エネルギーは、その原因となる環境負荷が大きい
 ③ 脱原発を宣言する事で原子力産業が斜陽産業となり、その結果若手の技術者が集まらなくなり、技術が継承されなくなる
 ④ 技術が喪失した場合、中国等日本に影響のある隣国で事故が起こった場合、対応できなくなる。
 ⑤ 技術が喪失すれば、日本にある核兵器数千発分のプルトニウムの管理処理や、日米原子力協定が改定できなくなる事で、アメリカの技術協力が得られなくなる
などが挙げられるのだとか。

 ①については、昨年の日本の貿易赤字が6.9兆円とか言っていたので、その大半が燃料関係と言う事になる。この影響はバカにならない。ただ、原発の危険性との比較でみれば、理由としては弱いと思う。②については、福島の環境汚染はもはやPM2.5がどうのと言うレベルを超越している。「どちらが環境に悪いか」と考えたら、比較にならない。
問題は③~⑤の技術の継承だろう。

 原発に反対するなら、この問題に対する回答を用意しないといけない。将来有望な産業に進もうと考えるのは、若者として当然。将来性のない業界となってしまったら、若者が集まらなくなり技術が継承されないという指摘ももっとも。銀行員としては、すぐ「では国費で年収を高くして魅力をPRすれば」と考えてしまうが、それについてはどんな反論があるのだろう。

 原発の一番の問題は、最新技術が進んでいる原子炉はではなく、むしろ使用済燃料棒だと思う。その問題は深刻で、いまだ最終処分場もない状況だ。オンカロのような施設も日本では難しいらしい。プールに沈めているだけというお寒い状況こそ恐ろしい。使用後も50年くらい冷やさないといけないというし、ここは今後も技術開発は継続していかないといけない事は事実だろう。

 技術継承の重要性は理解できるが、そのために原子炉を動かし続けないといけないのかどうかは、ちょっと疑問だ。コスト的には、シェールガスが普及すれば、よりクリーンなガス発電が安いコストで実現できると言われているし、技術の継承という目的のために原子炉そのものを動かす必要性があるとは思えないが、その点は今後興味のあるところだ。

 話をしてくれた方も、「業界としてもっと積極的に意見を言うべきだ」と仰っていた。説明責任という点からも、うやむやなまま推進を主張するのではなく、「ただ安全だ」だけでなく、必要性をもっと訴えるべきだろう。そして反対派も、それに対して正面から感情ではなく理論で反論すべきだ。健全な議論こそが、正しい方向へと導いてくれるに違いないと思う。
そんな考えを持ちながら、脱原発の考え方を維持していきたいと思うのである・・・

【今週の読書】

警視庁似顔絵捜査官001号 - 戸島 国雄  逆説の日本史 20 幕末年代史編3 西郷隆盛と薩英戦争の謎 (小学館文庫 い 1-35) - 井沢 元彦





   

2013年12月1日日曜日

ニュースより

 尖閣諸島を巡る中国の挑発は相変わらず続いている。先日はついに防空識別圏まで設定してきた。防空識別圏は領空とは違う。領空近くに設定し、ここに無届けの航空機が接近してくると、領空侵犯を警戒して防空戦闘機がスクランブルをかけてくる。それは、「ここは俺の縄張りだ」という威嚇行為である。

 中国がそれを設置してきたという事は、今後日本の航空機が近づいたらスクランブルをかけられて、場合によっては追い払われるという事になる。それが嫌ならあらかじめ飛行計画を提出しなければならないが、それは中国の権利を認めた事になる。尖閣諸島も今回の防空識別圏に入っているから、自ずと「ここには中国の権利がある」と認める事になる。我が国としては、到底看過できないわけである。

 どうなるのだろうと思っていたら、CNNでデカデカと米軍機のアクションを報じていた。グアムの基地から飛び立ったB52爆撃機が、この防空識別圏を飛行したという。“爆撃機”というところが、米軍もいやらしい。というのも、「足の速い」戦闘機ならいざとなったらすぐ逃げられるが、「足の遅い」爆撃機だとそうはいかない。という事は、初めから逃げるつもりなどないわけで、「やれるならやってみろ」という挑発に他ならない。スリルある「ピンポンダッシュ」ならぬ、悠然たる「ピンポンウォーキング」である。

 これに続いて自衛隊機も飛行したらしいが、果たして米軍がいなくてもやるだろうかと思うと、「挑発に挑発で応える」ような行為はやらない我が国のやり方からすると、答えは簡単だ。となると、やっぱり米軍のプレゼンスは大きいと思わざるを得ない。実際、米軍がいなければ尖閣諸島はあっと言う間に中国に取られているだろう。上陸されて居座られたら、抗議などカエルの面に何とやら。竹島が良い例である。

 沖縄の米軍の重要性もわかるというもので、基地を県外になどと言っている場合ではない事になる。「それはそれ、これはこれ」では、あまりにも虫がよすぎる。そうなると、安倍政権にも強気で行けという感情も出てくるのかもしれない。ただでさえ「右傾化」と批判されているのに、呼応していたらよけいそうなるのだろう。

 と思っていたら、突然の如く出てきた「秘密保護法案」がここに来て衆院を通過し、さらに日本版NSCが表面化している。憲法改正の主張も従来通りだし、たぶん安定政権の座を手に入れたからこそ、今まで出来なかった事を一気にやろうとしているのだろうが、どうだろう。

 それらに対しては、当然ながら「戦争をする国になる」と危機を煽る声が出てくる。だが、それはあり得ない不安だろう。20世紀初頭とは明らかに世界情勢も違う。戦争が国家間の紛争解決の一手段だった当時と、今やそれをやるのは世界でアメリカだけという現代とを同じに論じるのはナンセンスというものである。いたずらに危機感を煽っているだけで、本当の問題点をきちんと議論できていない。

 ただそうは言っても、こうしたニュースが続くのは気分的には良くない。アベノミクスと言っても、当分個人の財布にはマイナスの影響しかないだろう。物価が上昇していって、インフレが続けば借金の価値も減る。そんな「借金解消」方法を狙っているという主張もあるが、あながち的外れとも言えない。

 議員定数削減とか、国家公務員の削減とか、一時威勢の良かった意見はもうどこかへ消失してしまった。尖閣諸島問題では、米軍頼み。基地問題はとにかく沖縄に押し付けて終わり。支出の議論をしないまま、消費税を上げて済まそうとする。そこには、自分が痛みを耐えて何とかしようとする意思が感じられない。

 何だかなぁ、と思うものの、妙案はない。それよりももうすぐ支給されるボーナスを心待ちにしている自分がいる。実に小市民的であるが、何ができるかと考えてみれば何もできないのだから仕方ない。そう言い切ってしまうのも無責任な気がするから、当面はこうしたニュースに興味を持っていようと思う。

 それがせめて自分に出来る事だと思うのである・・・

【今週の読書】
警視庁似顔絵捜査官001号 - 戸島 国雄 逆説の日本史 20 幕末年代史編3 西郷隆盛と薩英戦争の謎 (小学館文庫 い 1-35) - 井沢 元彦








2013年11月24日日曜日

銀行員の転勤

同僚が一人、夕礼で最後の挨拶をし、転勤していった。
銀行員にとっては、日常の光景である。
私も銀行に入って25年。
この間、9回転勤した。
大体、3年が一つの目安である。

 銀行によって、パターンは違うのかもしれないが、我が銀行は、だいたい金曜日に辞令が出る。そして3~4日間の引き継ぎ期間を経て、次の任地に赴く。もっとも早いパターンだと、翌週の金曜日には、もう次の職場にいる事になる。銀行に入ってからこれが当たり前だったから、特に何も思わなかったのだが、いつだったか、知人から辞令が下りてから次の職場に行くまで1ヶ月ほどあると聞いて驚いたものである。なぜ銀行員はこんなに慌ただしく転勤するのか。

 その理由を知ったのは、銀行に入ってだいぶ経ってからだったと思う。それは「不正防止」である。何せ人間の欲望を満たす、最も手っ取り早い道具であるのが、「お金」。そんなお金を日常的に、(しかも大金を)扱っているわけで、良からぬ行為に走る人間も出てきてしまうというもの。転勤に際しては、万が一の場合、証拠隠滅を図る余裕を与えないというのが狙いなのだろう。

 不正にも、横領や取引先との癒着などいろいろある。本人にその気がなくとも、取引先から接待攻撃を受け、知らず知らず、あるいは断り切れず、受けられない頼みを聞いてしまう事もある。先輩たちの悲惨な例を、事あるごとに聞かされていたが、実際自分の身近でもそういう例が過去にはあった。

 その人は、かなり年配の(と言っても今の私より若かったと思う)預金課の人だった。それは、その人の転勤の辞令がおりて間もなくのことだった。何だか支店長・次長の姿が見えず、役席者もこそこそそわそわしている。我々若手は、「何かあったの?」と囁き合っていた。そこへいつも利用している司法書士さんが、「頼まれていた登記簿謄本をお持ちしました」とやってきた。

 司法書士さんからいつものように謄本を受け取って、ふと所有者の欄を見ると、その預金課の人の自宅の謄本だった。その瞬間、すべてわかってしまった。普通、行員同士で自宅の登記簿謄本を取ったりはしない。互いのプライバシーでもあるからだが、「謄本を取る」とはすなわち「資産状態を調べる」という事に他ならず、「資産状態を調べるような事が起こった」事にほかならなかった。

 後で判明したのであるが、その人はお客さんから入金を頼まれて預かったお金を横領していたのである。自分がいる間は、うまく何らかのやりくりをして発覚しないようにしていたらしいが、転勤となって万事休すとなったようである。詳しい事情までは聞けなかった(その人は発覚後すぐに別の銀行の施設に軟禁され、一切の接触を断たれて事情聴取を受けたらしい)が、いずれわかる事を何でやっていたのか、それほど追い詰められていたのかと思ったものである。

 間違いなく、懲戒免職になっただろうし、当然その後損害金は弁償させられただろうし、家族に何て言ったのだろうかとか、いろいろと考えさせられたものである。転勤で発覚というのも多いらしいから、辞令を出して有無を言わせずすぐに異動させるのも、経験則から来る知恵なのかもしれない。

 同じ理由で、在任期間が長くなると、強制的に一週間の休暇を取らされる制度もある。何もやましい事がなければ、ありがたい話であるが、そうは問屋が下ろさず、私もこの休暇を目前にして辞令をもらった事がある。その時は滅茶苦茶忙しく、「転勤(で引き継ぐの)も休暇もどっちも不可能だ!」と叫んだのを覚えている。

 顧客の接待もかなり誘惑度数は高い。かつて某支店の融資責任者だった時の事、ある取引先から韓国に行こうと誘われた。その取引先は、銀行融資が頼みの綱。私が何かとスピーディーにうまく対応していたから、社長も商売がやりやすくなったと喜んでくれていた。そのお礼という事で、悪意も下心もない純粋なお誘いだった(と思う)。

 韓国ツアーと言っても、観光地を回るわけではなく、ソウルのホテルに泊まって「ガイド付き」で遊ぶというもの。ガイドは24時間フルアテンド。もちろん若い女性である。かなり心が動き、具体的な日程の算段までしたが、寸前でお断りした。今でももったいなかったと思うが、その時は問題なくてもあとで何がどうなるかわからない。今でもそういうツアーあるのだろうかと、ふと思う。


 さすがに今のように問題先担当となると、相手も余裕がなくなるから、そういう“心配”もなくなる。ただ、担当が長くなると休暇を取らなければならないというルールは不変。接待はなくとも、「良からぬ私情」が混じる可能性もあるという事だろうか。そのうちまた異動となるのかもしれない。

 転勤となれば、環境も変わる。仕事も同僚もガラリと変わるわけで、マンネリ防止という意味でも個人的にはありがたいと思う。良い環境だと離れ難い想いが残るが、そうでない時は再スタートの区切りとなる。何にせよ、こういう環境にある以上、それをいい意味でとらえてこれからもやっていきたいと思うのである・・・

【今週の読書】
歪笑小説 (集英社文庫) - 東野 圭吾








2013年11月17日日曜日

ディズニーランド雑感

 昨日は、半年に一度の我が家恒例のディズニーランド。もっとも、春は娘の進学行事で時間が取れずに行けなかったので、一年振りという事になる。8時の開園を目指して家を出るも、非情な首都高の渋滞。結局、早ければ1時間かからないところを2時間以上かかってしまう。

 中に入れば、さっそく“スタンドバイ”と“ファストパス”取りに分かれる。家族が“スタンドバイ”で「ビッグサンダーマウンテン」に並ぶ間、私は「スプラッシュマウンテン」のファストパスを取りに行く。ちなみに、これらの選択はすべてすべて妻と子供たちとの協議の結果である。

 この“ファストパス”のシステムは、いつもながら優れていると思う。人気アトラクションだと平気で2時間前後の待ち時間がかかるから、これによって最低限のアトラクションは時間を合わせれば待ち時間なく乗れる。「一定間隔を空けないと取れない」という制限があるから、始めにかき集めるという事はできないが、ある程度の希望を叶えるという点では助かるものである。

 「カリブの海賊」では、列の少し前に中国人ファミリーがいた。最近は中国人も各地に海外旅行に行っているから珍しくもないのだろうが、国内の消費拡大には確実にプラスになるから、望ましい事だと好ましく思う。ところが、そのうちの一人のおばちゃんが、乗りながらスマホでパシャパシャと撮影している。フラッシュ禁止の場所であるにも関わらず、フラッシュをバシバシ焚いて、である。異例なことに注意のアナウンスまで流れたが、最後までどこ吹く風だった。

 たぶん、禁止を知らなかったのだろうし、注意放送も日本語だったからわからなかったのだろう。園内には中国語の表記があちこちにあるが、あれは北京語か広東語かわからないがすべての中国人に理解できるとも思えないし、わかりやすい絵などを利用するしかないのだろう。それでも以前見かけた大胆な割り込みおばさんと違って、きちんと並んでいたから、日本の「並ぶ文化」を理解してくれていたのだろう。

 今回は、カヌーに初挑戦。体を動かすアトラクションというのも悪くない。ちなみに、私のお気に入りのアトラクションは、「ウエスタンリバー鉄道」と「カリブの海賊」だ。どちらものんびり乗っていられるし、眺めも気に入っているし、何より好きなのは雰囲気だろうか。残念ながら、家族の意向と一致しないと乗れないという欠点がある。

 昨日はけっこう混んでいた。しかしながら、あらかじめ混んでいるのは想定済みだった事もあり、我が家は諦めも早い。いつも利用しているバズライトイヤーのアトラクションは、結局断念。「また今度」という気楽さがあるから、「断腸の思い」などという切実なものはない。だが、途中で「毎年なんて来られるわけないでしょ」とどこかのお母さんが子供に言っていたが、地方の人だとそうもいかないから、我が家はありがたい立場にあると言える。

 “ファストパス”のシステムがあっても、利用に制限があるから、長い“スタンドバイ”の待ち時間は避けられない。されど、それも考え方一つだ。各アトラクションとも、待機スペースに工夫が凝らしてあって、話題に利用できる。中一の娘には英語の勉強にもなったりする。昨日は“mine”という単語を覚えたハズ。学校では、“I,my,me,mine”と習ったというが、ビックサンダーマウンテンでは「掘る」だ。あれこれ単語を指して、話をしているといい時間潰しになった。

 夢と魔法の国でも、食事は“対象外”のようで、どうにも貧弱。ランチは「カレー」という名前のものを食べたが、まあないよりはマシとしないといけないのだろう。ちょっとしたものを買うにも行列。結局、アトラクション優先で動いていたら、夕食を食べそこなってしまった。それでも家族は満足だから、まあいいのだろう。

 早起きして、渋滞の首都高を走り、一日混雑した園中を“ファストパス”を求めて東奔西走し、パレードの場所取りでコンクリートの上に1時間座って待ち、閉園後に子供たちが寝息を立てる中、深夜の首都高をドライブして帰宅。疲れるのも道理であるが、こういう事も子供たちが家族と共に遊びに行く間だけだと思うと、大切にしたい一時と言えるかもしれない。

 子供たちが楽しそうにしている間は、体力維持に努めようと本気で思うのである・・・







2013年11月9日土曜日

ルールは何のために

 最近、仕事において「ルールの運用」で頭を煩わされている。本来ルールとは、何か目的があって、その目的を達成するために設けられているものだと思う。しかし組織になると、「ルールの運用」それ自体が目的となり、肝心の本来の目的がどこかへ飛んでしまうという事が起こるのである。

 例えればわかりやすい。以前北海道で、ニュージーランドから来日していたマオリ族の女性が温泉に入ろうとしたところ、「入れ墨禁止」ルールにより利用を断られたとニュースでやっていた。この女性は民族の伝統的な入れ墨を顔にしていたらしい。

 「入れ墨禁止」のルールは、こういった入浴施設やプールなどで最近よく見かける。その目的は、「暴力団排斥」だ。本来、「暴力団排斥」のために設けたはずの「入れ墨禁止」というルールが、いつのまにか独り歩きし、挙句にまったく関係ない外国人に適用されてしまったのである。本来の目的をきちんと理解していれば、こんなバカな事は起こらない。

 私も組織で働いている以上、ルールを守る事は当然だと考えているが、常にその「ルールの本質」を考えている。
「何のためのルールなのか」
それを見失うと、このニュースのようにおかしな事になるのである。大きな組織になると、こういう事が起きるのである。

 だが、厄介なのは、事はそんなに簡単ではないという事だ。ルールをバカみたいに守る方にも、それなりの理由はあるわけである。例えば「入れ墨禁止ルール」にしても、最近は若い女性でもタトゥーをしていたりする。明らかに暴力団でないとわかる人もいる。そういう“本来はOKな”人でも、このルールではダメとなる。まさに、ニュースのような事が起こってくる。

 ではその都度、「君はOK、あなたはダメ」と現場で判定できるだろうかと言えば無理だろう。ダメと判定された人は当然、「何でだ!」と食ってかかるだろうし、パートやアルバイトさんではそれに対して対応できないだろう。
また、外国人なら良いかと言うと、たとえば映画など観ていていると、アメリカのヒスパニック系のギャングなど、派手なタトゥーをしている人たちが登場したりする。そんな見るからに威圧感たっぷりのタトゥーをした人が近くに来たら、普通の人は安心して利用できないだろう。そんな人たちには、むしろ“No”と言ってもらいたいが、「君はOK、あなたはダメ」を誰がどうやるのか、という問題が出てくる。“一律No”もそれなりに理屈としては正しいのである。

 我が職場でも、ルールの適用を巡ってしばしば議論となっているが、「では誰がOKか否か」を判定するのかという難しさがある。上司が判定するのが一番だが、「人によって判断が分かれる」となれば、当然「ものわかりの悪い」上司の下では不満が生まれるし、その上司自身が「ルール厳格適用者」だったりする事もある。

 「ルール厳格適用者」からすると、それは立派に合理的な判断。いくら「本来の目的と違う」と言われても、ルールに従っている以上、(組織上)批判はされない。冒険を犯してモノわかりの良い上司にならなくとも「無難」であるし、減点もされない。自分で考えなくても良いから楽だし、傍から見てどんなにおかしくても、それは自分の責任ではなく、ルールを作った人の責任である。こうして、「お役所仕事」は出来あがっていくのだろうと日々実感している。

 どうしたら良いのだろうかと考えても、なかなか妙案は浮かばない。ただ、自分としてはどうしたいのかと考えて実践していくしかないだろう。自分が温泉施設の人だったら、かの女性の利用は認めるだろう。もしそれで他の利用客から文句が来たら、受けて立つしかない。なぜ、その客だけルール適用外とするのか、その説明をとことんするだろう。もちろん、それで相手が納得するとは限らないが、だからといって安易にルールの陰に隠れたいとは思わない。

 目を瞑ってルールを守っているのが一番楽だろう。どちらも同じように何か言われるとしたら、「ルールに従っている」のと「ルールの適用外としている」だったら、「ルールに従っている」方が遥かに楽だ。「文句があるならルールを作った奴に言え」と言えるからだ。それに下手に「適用外」として、その判断が間違っていたら、というリスクも負わなくて済む。あれこれ考える必要も手間もない。

 そう考えて行動する人を悪いとは思わないが、自分がそうしたいとは、やはり思わない。ルールの陰に隠れた方が楽だろうが、「そんなのは嫌だ」と思う性格だから仕方ない。と言っても、安易にルールを無視しても構わないと言いたいのではない。そもそも目的さえ外していなければ、ルールから多少外れても問題はないものである。ならば、目的に適うような行動を取りたいと思うのである。

 ルールを曲げて、かの女性の入浴を認めた結果、もしも他の2~3の客やあるいは同僚から批判を浴びたとしても、世間的に批判される事にはならないだろう。それが「目的に適っているかどうか」であると思う。
「常に考えて行動したい」
仕事においても何においても、そうしたいと思うのである・・・

【今週の読書】

55歳からのハローライフ (幻冬舎文庫) - 村上 龍   






2013年11月4日月曜日

女性社会

 最近、世の中は女性を中心に回っているように思う。スポーツの世界では、男子がなかなか活躍できないマラソンやサッカーで世界一を争っているし、身近な例でもそう感じる事が多い。例えば、母校の高校でやっている海外短期留学に応募してくるのは圧倒的に女の子だし、面接で合否を判定する段になると、上からずらりと女の子が並ぶ。

 消費でもグルメ、ファッション、旅行などは女性をターゲットにしないと成り立たない。会社でも、ランチタイムに男は大概社員食堂で済ましているが、女性は結構会社の外に出て行っておいしいランチを楽しんでいる。男同士では、「飲みに行こう」だが、相手が女性になると「おいしいものを食べに行こう」になる。

 男同士で「旅行に行こう」とはあまりならないと思うし、必然的に業界もそれに応じた対応を取るのだろう。そんなのを見ていると、男に比べ女性の方が遥かに人生を楽しんでいるように思える。女性の社会進出も話題になって久しいし、そういう風潮はテレビ番組にも現れている。少し前まで、息子は「戦隊モノ」が好きでよく観ていた。我々の世代では、「ゴレンジャー」などと言っていたやつだ。5人の戦隊の構成は、昔は男4に女1だったが、今は男3に女2となっている。

 さらに38年振りにリメイクされた「宇宙戦艦ヤマト2199」で、新たに追加された新キャラクターは5人ともみな女性だし、以前は「生活班」担当だったヒロインは「船務長」(レーダー、通信、航空管制担当)という戦闘色の強いものに変わっているし、新キャラクターにはパイロットもいる。世の中、男の活躍の場は確実に狭くなっている。

 しかし、そうでない分野も当然ある。女性の社会進出という掛け声はなされており、形の上では雇用機会均等が謳われているが、子育てが絡むとまだまだ壁が厚く、このあたりの負担は今だ女性の負うべきハンディとなっている。それに例えば夫婦共働きで、夫が地方転勤となった時、妻がついていく(つまり自分の仕事を諦める)ケースが、まだ一般的だろう。

 ただ、夫について行ったその地で起業してしまったりとか、ニッチなマーケットを対象に好きな分野で起業したりという女性も身の周りにいる。夫が生活費を稼いでいると、「安心して好きなことができる」というメリットがあり、専業主婦では満足できない女性などには絶好の環境かもしれないと思える。男と比べて会社に縛られていない分、女性には起業というフィールドで活躍する余地が大きいのではないかと思われる。

 女性の活躍それ自体は良い事だと思う。いつまでも「男が主、女が従」という関係がいいとは思わないし、対等は大いに結構だ。ただ気になるのは、男が小さくなっていく事だ。女性の元気に押されて委縮しているような気もしなくもない。下手をすると、「女が主、男が従」となりかねない。それでいいのかと言えば、それは違うだろうと思う。もうそうなってしまっている我が家の事は棚に上げるとして、そこは踏ん張らないといけないだろうと思う。

 先日、「キラキラネームランキング」というのを目にした。それによると、

1位:昊空(そら)
2位:心愛(ここあ)
3位:希空(のあ)
4位:希星(きらら)
5位:姫奈(ぴいな)
6位:七音(どれみ)
7位:夢希(ないき)
8位:愛保(らぶほ)
9位:姫星(きてぃ)
10位:匠音(しょーん)

となっている。

 ちなみに、これはペットの名前でなく、人間の子供の名前だ。「なんじゃこりゃあ!」と、思わず松田優作の古いセリフが蘇ってくる。小学校の頃に、同級生にこんな名前のやつがいたら、絶対いじめていたと思う。このキラキラネームの首謀者は奥さんだと思うのは、疑い過ぎだろうか。

 渋谷や代官山あたりでベビーカーを押しているヤンママなどを見ていると、子育てすらファッション感覚ではないかと思うが、それが名付けにも現れているような気がしてならない。女性が活躍する社会というのは、間違いなく平和な社会であろう。血なまぐさい争いが続出している“腕力の”社会では、そうはいかない。そういう意味では、現代の日本は良い社会を実現できていると言えるのだろう。それでもまだ、女性側からの不満は絶えないだろうし、まだまだ改善の余地は大きいのだろう。

 ただ、気になるのは、それと比例して男がどうなって行くかだ。女性に負けじと人生をエンジョイする方向に行けばよいと思うのだが、おかしな方向に行っても困る。その昔、松本零士の漫画で、「男が化粧をし、ハイヒールを履く」軟弱な男たちばかりとなった未来社会を描くものがあった。当時は奇想天外な空想と笑っていたが、だんだんと笑えなくなってきているのではないだろうか。

 これからの時代、男はどう生きるべきか。女性には不自由なく振舞ってもらえる社会を築く一方、男としての矜持は保たねばならないだろう。まだママの後を追いかけまわしている我が息子は、大丈夫だろうか。取りとめもない事を、あれこれと考えてみた連休の夜である・・・




2013年10月29日火曜日

ラグビー観戦

 週末の日曜日は久しぶりに母校の大学のグラウンドへ足を運び、後輩たちの公式戦の応援に臨んだ。「ラグビーは冬のスポーツ」というイメージが、かつて世間には広まっていたが、実際のところは今がシーズン真っ盛り。4年生にとってみれば、残りあと一ヶ月ちょっとの現役生活。本当は、現役の試合前にOBの試合があったのだが、春先に痛めた足がいまだに調子悪く、今回は参加を断念した。

 スポーツの秋という言葉がぴったりするような好天気。じっと観ていると少し寒いが、試合に出る者にはちょうど良い気候だろう。このところ、ラグビーと言えばテレビ観戦ばかりであったが、グラウンドに足を運んでナマで観戦するのがやっぱり一番。選手たちの息遣いや、テレビには写らない動きなどがよくわかるという利点がある。

 試合前には、相手の実力をあれこれと想像するものである。今シーズンそれぞれ同じ相手と戦ってきており、その結果を見て少しでも有利な点を探そうとするのである。例えば同じグループで、実力一と想定される立教大学に、うちは17-58で負けているが、今回の相手は14-80で負けている。それだけ見れば、うちの方が“理論上は”強いとなるわけである。

 もちろん、そんなのは気休めでしかないのであるが、それでもその気休めが少しの自信となる。やる前は、「絶対勝つ」と強く思うものであるが、ただ思い込むだけでなく、相手より少しでも有利な点を見つけ、勝てるという自信に加えたいものなのである。過去の対戦成績が良くない相手であれば、尚更そう思うのである。

 試合前の軽いアップが終わり、キックオフの瞬間が近づく。選手たちはキャプテンを中心に円陣を組んで、出陣前に気持ちを高める。キャプテンがメンバーにかける言葉に、みんなが絶叫で応える。かつては自分もあの円陣の中にいたのだ。見ているこちらも自然と胸が熱くなる。

 キックオフで試合が始る。最初のうちこそ卒業後にできた観覧席に大人しく座って観ていたが、やっぱり立って観る事にした。その方が随時移動して好きなポジションで観る事ができる。観ているOBたちからも、時折檄が飛ぶ。私の場合、性格もあるのだろう、こういう時は黙ってじっくり観る。

 しかしながら、観るのも苦痛に思う時がある。「自分だったら・・・」ともどかしく思ってしまうのである。もちろん、かつてならともかく、今の自分がグラウンドに出ていっても大した事はできない。頭の中の自分はいまでも最高のプレーヤーだが、哀しいかな肉体は遥か後ろに置いてきぼりだ。

♪同じゼッケン誰かがつけて、また次のシーズンをかけていく♪
ユーミンの「ノーサイド」の歌詞が脳裏に浮かぶ。やっぱり、背番号「6」の選手に目が行く。自分と比べてどうだろう。それにしても、果たして一体今までに何人の選手があの番号をつけたのだろう。そのうち大集合したら面白いかもしれない。

 月に一回、老OBが集まったシニアチームが練習をしている。私もこの春から参加している。かつては、「タックルができなくなったらラグビーはやるものではない」とうそぶいていたが、「まあ、そうカタイ事言わず、ランニングの延長だと思って」やる事にしたのである。でもやっぱり心のどこかで、まだガンガン当たる激しい試合をしたいと思っている自分がいる。

 ハーフタイムに席に戻り、2つ上の先輩と話をする。仕事の事少々、子供の事半分、その他諸々。先輩の子供が、私の母校である都立高校を希望していると聞く。残念ながらラグビーではなく、野球が希望らしい。さすがに、昔みたいに女の話はしない。

 善戦空しく、後輩たちは惜敗。そう言えば、自分達も4年間勝てなかった相手だったと今さらながら思う。負けはしたものの、日頃よく練習しているというのは、試合を観ていればよくわかる。冷静に考えてみて、もしも自分達が現役の頃のチームと今の現役とが試合をしたら、たぶん今の現役の方が強いような気がする。

 いくら練習していても、相手のある話だから仕方がない。また次の試合に期待したいところだ。試合は残念だったが、久しぶりに母校のグラウンドに行き、もはや人工芝グラウンドで懐かしい土の匂いと枯れた芝の匂いを嗅ぐ事はかなわなかったが、何となくあの頃のエネルギーが湧きあがってきた気がする。

 また一週間、「めげず・くじけず・へこたれず」頑張ろうという気になって帰ってきたのである
・・・
    



【本日の読書】
「これから」を生きるための授業 ハーバード・ビジネススクール 昨日までの世界(下)―文明の源流と人類の未来 (日本経済新聞出版) - ジャレド・ダイアモンド, 倉骨彰






       

2013年10月24日木曜日

雑感記録

 日々あれこれと感じている事、考えている事を綴る事にしたこのブログ、最近更新頻度が減ってしまっている。書く事がなくなってしまった訳ではなく、ただ時間がないのである。記録される事なく、消失してしまっている己の雑感が、ちょっともったいない気もする。と言っても、実はそれほど大した内容ではない事が大半である。

 今週は仕事で外出し、某JRの駅前でチラシを配っている白衣の女性を目にした。ついいつもの癖で、チラシはもらわずにスルーしてしまった。通り過ぎながら耳にしたのは、「マッサージ」という言葉。どうやらマッサージ店のPRだったようである。

 駅前でチラシを配っていると言う事は、まだ「お客さんが多くない」という事だとすぐ思う。お客さんが十分来ていれば、チラシなど撒く必要もない。またチラシを配っていたのが、白衣の(中年の)女性だと言う事は、おそらく施術されるご本人。しかも年齢からすると、「雇われている」人というより、オーナーご本人かあるいはその共働きの配偶者なのかもしれない。アルバイトを雇う余裕までないのだろうか、などと想像してみたりする。

 「てもみん」のようなチェーン店なら、アルバイトにやらせるだろうから、恐らくは独立系の個人事業者なのだろう。まだオープンして間もないのだろうか?駅前という事は、すぐ近くに、すなわち駅ビルなどの周辺に店舗があるのだろうか、それとも少し離れた住宅地だろうか。住宅地であれば、この時間(午後3時頃)に配っているのは何か戦略的な意図があるのだろうか、それとも単にお客さんがいなくて暇なのだろうか。どうせならサラリーマンをターゲットにし、朝の通勤時間帯にやっても良いのではないだろうか。この時間だと、お客さんが来たら留守番からすぐコールが来て店に戻るのだろうか。あれこれ想像が膨らむ。

 京浜東北線に乗り込む頃には、「チラシをもらっておくんだった」と後悔していた。そうすれば、あれこれと想像した事に、ある程度の答えが得られたはずである。いつもはゴミになるから受け取らないようにしているチラシ。受け取るのは、ティッシュ入りのものだけ(ティッシュ入りは我が家の奥様に、「とにかくもらえ」と厳命されているから条件反射的にもらっているのである・・・)。今度からもらうようにしようと思う。

 チラシをもらう事の効能は何だろうと次に思い巡らせる。まず上記のような想像の答え合わせができるだろう。それに例えその店に行かなくても、もらうだけでも配っている人は喜ぶかもしれない。長い時間配っていて、手にとってくれる人が少なければ、配る人の精神的な疲労も大きいかもしれない。さり気ないゴミ拾い以外の「一日一善」にしても良いかもしれない。

 そう思うと、よく我が街の駅頭で配っている政治家のチラシも、気になる政党以外にももらう方が良いかもしれない。たとえそれが嫌いな共産党であったとしても。という事を考えていたら、次の日その共産党の方がさっそくチラシを配りながら演説をしていた。「ブラック企業を規制します」というチラシだった。

 「サービス残業代は“倍返し”よっ」と「雇用のヨーコ」という名のキャラクターが宣言している。結構面白い。
「ブラックな実態を公表させる」
「パワハラをやめさせる」
と威勢が良い。
「どうやってブラック企業を見つけるのだろう?」
「生きがいを感じて進んで長時間労働している人はどうするんだろう?」などと思考は広がる。毛嫌いせずにチラシをもらってみたら、案外ちょっとした娯楽になったと気がついた。

 振り返ってみても、「思考の記録」なんて大げさなものではない。タイトルにある通り雑感記録なのであるが、そんな事もあとで読み返してみると、自分でも楽しめたりする。やっぱり、何とか時間を確保して、この「趣味」に没頭する一時を確保したいと思うのである・・・

【本日の読書】

昨日までの世界(下)―文明の源流と人類の未来 (日本経済新聞出版) - ジャレド・ダイアモンド, 倉骨彰




 

2013年10月19日土曜日

好きこそものの上手なれ

 息子は今、ヒップホップダンスを習っている。その始りはまったくの偶然で、たまたま訪れたスポーツクラブでヒップホップをやっているのを見た息子が、「やってみたい」と言ったらしい。これから学校の授業でもやるようになると聞いたため、「それならやらせてみるか」となったのである。

 自分としては、ダンスなどに興味の“き”の字もなく、見るのもやるのも関心が湧かない。されど、だからと言って息子を自分の興味のある分野にだけ向かわせるのもどうかと思うから、まあ反対はしなかったのである。

 さて、そんな息子のヒップホップであるが、先週「発表会」があった。日頃の練習の成果を披露しようというわけである。妻はともかく、自分は普段の練習をまったく見ていない。だから、どんな様子なのかもわからないし、ヒップホップをどんな感じで踊るのかもわからないから、興味深々であった。

 そして当日。
いつもの教室をそのまま舞台にして子供たちが順番に登場する。息子は第一陣として登場。総勢20人くらいで、さらに4つのグループに分かれて順番に踊る。男の子は4人だけ。圧倒的に女子の世界である。目の前で子供たちが踊るヒップホップというのも、何だか微笑ましい。

 第一グループは幼稚園児くらいの女の子二人。息子は第二グループで登場。みんな小学校低学年くらいの男女4名ずつのメンバーである。音楽に合わせて踊りだすも、何だかぎこちない。何となく周りに合わせて体を動かしている感じで、それはほんのコンマ何秒か体の動きがずれている事からそう感じるのである。他の子も見ていると、それぞれでだいぶ印象が違う。

 中には「うまいな」と思わされる子がいる。子供たちは上は中学生くらいまでいるが、さすがに中学生くらいになると、「うまいな」と思わされる子も増えてくる。うまい子とそうでない子。その差は何なのだろうと考えてみた。

 観察していると、その差は「楽しそうか否か」であると感じる。「好きこそものの上手なれ」という言葉がある。好きな事をやっている時、人はその時間が楽しいし、あれこれいろいろやってみようとする。息子もお手伝いはおざなりにやってよくママに怒られているが、好きな怪獣遊びだと、周りにあるあらゆるものを基地や武器やその他もろもろに見たて、独自の世界を作り出していつまでも遊んでいる。

 踊る事が楽しくて、面白くてたまらないから、練習時間以外でも体を動かしているかもしれない。息子などは教室で練習する以外はやらない。その差は歴然。「音楽に合わせ、体が動いてしまう」子と、「音楽に合わせ、教えられた通りに体を動かそうとする」子と、同じダンスでも違うものになる事は容易に想像がつく。

 学生時代、ラグビー部に入っていた私は、いつも練習時間の1時間半前くらいにはグラウンドへ行っていた。全体練習が始まる前に、バーベルを上げたりしていたのだ。それは誰からも強制されたものではなく、自分でやりたかったからに他ならない。そういう事は、他の様々な事に当てはまるのではないだろうか。

 良い悪いではない。
決められた時間に来て、決められた時間に決められた通りに仕事をし、決められた時間に帰るという事が悪い事だとは思わない。ただ、少しでも違う事、プラスアルファの事をしようとして、人より早く来たり、人より遅くまで残っていたりして仕事をする人は、おのずと結果も違ってくるだろうという話である。

 息子は、ヒップホップに対してどう思っているのだろう。普段と違って親たちがたくさんギャラリーに居て、緊張と照れくささもあったかもしれない。あるいはもしかして、勢いで始めたものの、あまり興味が持てなくなってきているのかもしれない。好きになれる事なら続ければ良いし、そうでないなら他に目を向けるのもいいかもしれないとも思う。何せ運動神経自慢のパパでも、まったくアドバイスできない分野であるからである。

 これから折にふれ、コミュニケーションをとって気持ちを確かめながら見守っていきたいと思うのである・・・

【今週の読書】

昨日までの世界(上)―文明の源流と人類の未来 (日本経済新聞出版) - ジャレド・ダイアモンド, 倉骨彰





2013年10月12日土曜日

働く事について考えていること

日雇い派遣、禁止後1年で「解禁」議論なぜ?
 10月4日、政府の規制改革会議は「日雇い派遣」を解禁するよう求める意見書をまとめました。~略~
 日雇い派遣は、労働者と派遣元の契約が30日以内である短期の派遣のこと。仕事があるときだけ派遣会社と雇用契約を結ぶ「登録型」の派遣です。派遣元に常時雇用され、仕事の有無にかかわらず給料が支払われる「常用型」の派遣に比べると、不安定な雇用形態とされています。
 2008年、リーマンショック後の不況により、「派遣切り」「年越し派遣村」などが社会問題化しました。このとき「雇用を不安定にしている」として批判されたのが日雇い派遣でした。その後の「ワーキングプア(働く貧困層)」の増加もあり、労働者保護の観点から、2012年10月の労働者派遣法改正で原則禁止となりました。

THE PAGE 10月10日(木)10時7分配信 
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そう言えば数年前、だいぶ「派遣切り」の事が話題になっていたなと思いだした。
当時から何が問題なのかわからないと、このブログでも書いている。
「派遣斬り」
日本のマスコミは本質的な議論そっちのけで、自分の勝手な思い込みを大々的に拡散し、世論を操作する傾向があるから、ニュースの盲信には気をつけないといけない。
そんなわけで、働く事についていろいろと考えてみた。

働く形態はいろいろあっていいと思う。
例えそれしかなくて渋々就労するのだとしても、「あるだけマシ」という考え方もある。
そもそも「派遣」は、「解雇」を前提とした雇用形態だ。
“切られ”て文句を言うのはおかしいし、企業を批判するのも間違っている。
大企業に勤め、安定した雇用環境にある自分としては言い難い意見だが、それが事実だ。

そもそも人は自分の食い扶持は自分で確保しないといけない。
太古の昔からそうだし、今でも自分で仕事を作るなり見つけるなりしないといけない。
作れなければ見つけるしかないのだが、それには雇い主にうまくPRして仕事をもらわないといけない。雇用主を満足させられなければ、仕事を失う事になる。

日本は、ありがたい事に労働者が強く守られている。
一度雇用されると、企業側の解雇は簡単ではない。
だからいつしか労働者側に“甘え”が生じているのだろう。
その延長上で「派遣」をとらえるから、批判が出てくるのだ。

かつて、外資系の投資銀行の人たちと一緒に仕事をした事がある。彼らは1年ごとに査定があって、そこでダメとされれば即クビになる。求められるパフォーマンスを上げようとする姿は、少々の事ではクビにならない我々とは対照的だった。考えてみれば、プロ野球を始めとするプロの世界も同様だ。収入面での違いはあるだろうが、その精神は見習わないといけないと思う。

よく丸の内界隈で、赤い旗を振ってデモをしているのを時折見かける。外資系の銀行の前で、「不当解雇反対」と看板を掲げている集団を見かけた事もある。詳しい事情は知らないが、「不当解雇反対」と抗議する目的は何なんだろうと思う。解雇を撤回し、再雇用せよというのだろうか。組織から「いらない」と言われた以上、そんな事をしている暇があったら次の仕事を探すべきではないかと考えてしまう。

もしも自分だったらどうするだろう。
業績が悪化して、リストラ対象になってしまったら、その時は潔く辞めるだろう。クビを宣告する人だって辛いかもしれないし、「いらない」と判断されてしまった以上は仕方がないではないか。まぁせめて退職金の上乗せを頼むとか、再就職のため3ヶ月くらいの猶予をくれとか、そのくらいの交渉はすると思うが、基本は辞めるだろう。いきなり海に放り出されるのは大変な事だし、せめてライフジャケットを要求するくらいはしてもいいと思う。

正直言ってその時辛いのは世間体だと思うが、安っぽいプライドは諦めて捨てるしかない。できるのはコンビニのアルバイトなのか日雇いなのか、ひょっとしたら派遣かもしれないし、はたまた雇用の確保に苦しんでいる飲食業界を狙うかもしれないが、そのあたりで一からやり直すしかない。年齢的なハンディは長年培った創意工夫で補い、フリーター如きには負けないくらい働いてみせるくらいの腹積りはある。

まあ思うだけなら誰にでもできると言われそうではあるが、世の中には自営業の人たちがたくさんいる。組織に頼らず、自分の力量で仕事を確保して生活をしている。私の父も一人で印刷屋を経営していたし、そういう友人知人もいる。
そうした人たちに対し、一人世の中に放り出されたからと言って、嘆いたりしがみついたりしているのは実にみっともない。

せめて親父には、「恥ずかしい息子」とは思われないようにしようという心意気くらいはあるから、たぶんそうなっても、掃除でもなんでもやれると思う。
残りどのくらい働けるのかはわからないが、そういう気持ちは常に持っていたいと思うし、そういう気持ちでまた来週からの仕事を頑張ろうと思うのである・・・



【今週の読書】

昨日までの世界(上)―文明の源流と人類の未来 (日本経済新聞出版) - ジャレド・ダイアモンド, 倉骨彰 






2013年10月5日土曜日

ミディアム霊能者アリソン・デュボア



 少し前まで、海外ドラマ『ゴースト~天国からのささやき~』にハマっていたのだが、最近は『ミディアム霊能者アリソン・デュボア』に興味が移っている。

 『ゴースト~天国からのささやき~』の方は最終シーズンの途中まで観たのであるが、何だか話が大きくズレていくように思え、面白くなくなってきたところに、この『ミディアム』を観てしまい、乗り換えたという次第である。

 『ミディアム』も『ゴースト』と同様、霊能力者が主人公の話である
(ちなみにミディアム=Mediumとは霊媒・霊能力者という意味らしい)。主人公のアリソン・デュボアは、死者と話ができるという点では、『ゴースト』の主人公と同じだが、その他に相手の心が読めたり、夢で未来や過去のワンシーンを見たりといろいろな能力を有している。

 アリソンは弁護士を目指して検事局で働いていたが、ふとしたきっかけでその“能力”を検事に認められ、パートタイムの特別“コンサルタント”として検事局で働き始める。夢を元に犯罪者を特定したり、死刑に賛成しそうな陪審員を選ぶのを手伝ったり、犯人が怖くて嘘の目撃証言をしている証人の嘘を見破った上で助けたり、埋められている死体の場所を特定したりと、大活躍する。

 そんなアリソンは3人の娘の母親で、家庭では夫とごく普通の生活を送っている。ただ、“仕事”が忙しくなると、夫に子供たちの世話や家事を丸投げし、時に夫の不満を招いたりして、仕事と家庭の両立に悩んだりしている。ごく普通のオバさんで、体型もちょっとぽっちゃりしていて、『ゴースト』の主人公メリンダが、美人のジェニファー・ラブ・ヒューイットだったのとは対照的である。

 物語は、大概主人公アリソンの見る夢から始る。それは犯罪シーンだったり、何かから逃げたり、あるいは見知らぬ他人の会話だったりする。本人もそれが何を意味するのかわからないのであるが、やがてそれがストーリーと結びついてくる。死者と話をして死体のありかを聞き出したり、夢をヒントに危機を逃れたり、あるいは心に浮かんだ犯罪シーンを克明に語ったりする。普通の人にはできない芸当で、その能力を高く買うデヴァロス検事やスキャンロン刑事から信頼されまくっている。

 私自身、幽霊の類はまったく信じていないのであるが、どうもこの手のドラマには心惹かれてしまうものがある。それは一つには、「こんな事できたらいいな」という願望なのかもしれない。例えばアリソンの娘アリエルもその能力を一部受け継いでいて、相手の心に浮かんだ事を読みとってしまう事ができる。

 航空技術者で数学の得意なパパが、アリエルに算数を教えようとする。出された問題を次々に解くアリエル。小学生レベルをはるかに越え、パパは「天才だ」と狂喜するが、実はアリエルはパパの心に浮かんだ答えを答えただけなのである。こんな事、できたらいいだろう。

 我々は常に予測不能な未来に向かい、心の読めない相手と対峙している。妻の不機嫌の原因が黙っていてもわかれば(特に自分にその原因があれば尚更)、火がつく前に消し止められるし、自分に寄せる好意を読み取れれば、女性を口説くのも簡単だろう(ふられて切ない想いを何度もする事もなかっただろう)。明日の株価がわかればお金持ちになるのも簡単だ。誰もが解決できない事件を解決する快感は、「名探偵」モノがウケル理由でもあると思う。そんな願望を、知らず知らずのうちにドラマを観ながら己の内側に見ているのかもしれない。


 それにしても、じつは主人公のアリソン・デュボアは実在の人物なのだという。そればかりか、ご主人のジョーやアリエルら3姉妹もすべて実在の家族だというから驚いてしまう。架空のお話ならともかく、ここまで大っぴらに実在の人物をドラマ化して大丈夫なんだろうかと思ってしまう。実在のご本人は著作もあり、その身分を隠していない。

 その能力の真偽はともかく、ドラマはドラマで楽しみたいと思う。実際、願望とは言いつつも、自分の能力ならいいが奥様がそうだったら、いろいろと不都合がありそうだ。まぁ、自分に与えられた自然の能力の範囲内で、慎ましく暮らすのが一番なのだろう。まだシーズン1を終えたところだし、最終7シーズンまでしばらくある。途中で軌道修正する事なく、続いてほしいところである。当面は、楽しめそうなドラマである・・・





【今週の読書】
社長は少しバカがいい。~乱世を生き抜くリーダーの鉄則 - 鈴木喬 昨日までの世界(上)―文明の源流と人類の未来 (日本経済新聞出版) - ジャレド・ダイアモンド, 倉骨彰








2013年9月28日土曜日

子供を叱る時・・・

 先週の事である。息子と一緒に入浴中、背中を洗っていない事を指摘し、背中を洗うように注意した。それまでもしばしばあった事であるが、その都度息子は「洗った」と主張していた。こちらも頭を洗っていたりする時に重なったりすると、わからない事もあり、それ以上何も言わなかったのであるが、その時は閃きのようなものもあり、黙って観察していたのである。

 それで洗っていないのを確認して注意したところが、冒頭の対応。
「嘘をつくな!」
「嘘なんてついていない!」
「ちゃんと見ていたぞ」
「洗ったっ!」
「何だその言い方は」
「だって、洗ったって言ってんじゃんか!」
「こっちは背中見て言っているのに、背中の見えないお前がどうして洗えてるとわかる?」
「鏡見たもん!」
「こんなに曇っているのに見えないだろう」
「曇る前に見たもん!」
「曇る前っていう事は洗う前じゃないか!」

 こちらはしっかり見ているのに、嘘に嘘を重ねて強行突破しようとし、しかも最近この手のやりとりでは必ずと言っていいほど、不敵な態度とモノ言いになる。最後はこちらも、「そんな口の利き方をしていいのか」と警告。態度を改めようとしない息子に対し、ついに私のビンタが右頬に炸裂。バランスを崩して湯船に落ちそうになったから、そこそこの威力だったと思う。それでも態度を改めず、さらに2発追撃。息子の右頬は赤くなった。

 娘の時は一度だけ頬を張った事がある。以来2度目は今のところないが、息子に対しては何回かある。そのあたりはさすがに男の子なのだろうか。成長するに従って自我も芽生えてくる。周囲の影響もある。親の言いなりになる事を拒絶し、自らの意志表示を強くする事は、人間の大事な成長過程であると思う。

 ただ世の中には、守るべき道というものがある。自由に伸びる枝が、誤った方向に行こうとした時には、壁となって立ち塞がるものが必要である。それが親の役割というものだろう。ただ、体力に遥かに勝る親が、いくら躾や教育のためとはいえ体罰に及ぶのは注意が必要だと思う。

 まともにやったら、子供は怪我をする。そうなると躾とは言えず、虐待となる。だからひっぱたく時には、「自分は冷静か、怒りにまかせたままでないか」を問うようにしているし、利き腕は使わず、左手で狙いすまして、力の加減も考えてやるようにしている。今回もそのようにできたから、自分としてはうまくできたと思う。

 叩く場所も、お尻という考えもあるが、自分としてはやはりインパクトのあるところがいいと思う。頭は平手だと効果は薄いし、げんこつだと力の加減が難しい。的の小さい頬であれば、狙いすます事によって力のセーブも加えられ、その割に音も衝撃力もあるから、効果もデカイと思っての事である。

 問題はその効果である。当然、本人は「ちきしょう」と思うだろうし、それでもかなわないから大人しくならざるを得ない。「恐怖による支配」と言えばその通りであるが、子供にとっては「怒られるからやらない」という事も必要だろう。やがて成長すれば、「怒られると怖いからやらない」から「やるべきでないからやらない」に変わって行く。親の役割は、大人の判断力が身につくまでの防護壁であるのだろう。

 私に怒られてビンタされた息子。悔しそうな表情をしていたが、それでも泣かなかったのは褒めるべきなのかと複雑なところ。風呂の後、いつもは早く寝なさいと口やかましいママも、この時ばかりは優しく布団へと導く。「両親一緒に怒らない」というのは、妻と決めた夫婦のルールである。

 子供を褒めるのはとても簡単。子供も親もともに気分が良い。だけど叱るのは本当に難しい。特に体罰を伴う時は尚更である。それが本当に必要なのか、単に感情に任せた結果ではないのか、その効果は子供にとって良いものになるのか。自分では正しいと思っているが、結果が出るのはずっと先だ。

 「親父は怖くて、よく外の木に縛り付けられた。近所の人に見られるのが嫌だった」とは、親父が子供の頃祖父に怒られた思い出として、しばしば語ってくれた事である。いつか息子がそんな風に、懐かしそうに語ってくれるだろうか。そしてそうなったならその時初めて、親として「良くできました」となるのだろう。そんな風になるように、愛情と信念とを持って、叱りたいと思うのである・・・

【今週の読書】

コブラ 上 (角川文庫) - フレデリック・フォーサイス, 黒原 敏行






2013年9月23日月曜日

小田原ツアー

 3連休の中日。
やっぱり家でゴロゴロというのも具合が悪い。と言う事で、以前息子が行きたいと言っていた小田原城見学に行く事にした。息子は、今歴史モノにハマっていて、特に戦国時代から江戸時代にかけての歴史に興味があるようである。今年に入ってNHKの「八重の桜」を毎週観ていて、城としては会津城の方に興味を惹かれているようであるが、今回は小田原にした。

 それに対し娘は、城などに興味はない。興味があるのは、グルメ。息子ばかり優先するわけもいかず、食べる方も探さないといけない。と言っても、実は我が家は食べ物に関してはグルメのママが黙っていても探してくるから悩む必要はない。そして選ばれたのが、「かまぼこの里」

 ここはかまぼこの鈴廣が運営しているようで、かまぼこ博物館があったりして、時間を潰せるようになっている。その見学と「えれんなごっそ」というバイキングレストランでのランチで、娘と妻の方は満足。そして息子は小田原城。
そういう段取りであった。

 しかしながら、物事は必ずしも予定通りに運ぶとは限らない。ある程度予想していたとはいえ、それ以上の渋滞が予定を狂わせる。自宅から小田原まで、順調に行けば車で2時間弱。プラス1時間を加えて考えていたら、さらに1時間余分にかかる。さらにレストランはランチのピークタイムで、ここでも待ち時間が発生。結局、これで「見学」タイムは消失してしまった。

 バイキングレストランは、やっぱりかまぼこが豊富。一応地産地消という謳い文句はあるが、あまり意識せずに食べる。あれもこれもといつものように食べる。そしてビュッフェではいつもそうであるように、食べ過ぎてしまう。

 気がつけば、のんびりしていると小田原城も見学が終わってしまうという時間。急いで小田原城へ向かい、天守閣へと登る。と言っても、遥か聳え立つというものとはほど遠く、実にこじんまりしている。かつては難攻不落と言われ、豊臣秀吉も簡単には落城させられず、長期戦覚悟で北条氏討伐を行ったと言われているようなイメージは受けない。
 息子もそんな感覚を持ったようなのであるが、城というものは天守閣だけではない。周りに水を満たした堀があって、門がある。そこから次の門は、向こう側にあったりと入りくり、まっすぐ天守閣には進めないようになっている。いわば、全体が一体となってはじめて防御陣地としての城になるというような事を息子に説明する。

 それでも天守閣に登れば、眺めは格別。足元には新幹線も通る小田原駅があれば、山々も見えるし、太平洋も一望できる。昔の人が今のこの眺めを見たら卒倒するかもしれないと思ってみたりもする。豊臣秀吉がこの城を包囲したのは、天正18年(1590年)。同じ天守閣から時の城主である北条氏直は、包囲する豊臣方の大軍を見ていたのであろう。絶望的な気分だったのかもしれないが、423年後のこの景色は想像もし得なかっただろう。

 肝心の長男は、そんな鑑賞よりも刀などのお土産の方が気になったようである。展示物もいろいろあったのであるが、あまり興味をそそるものはなかったようである。あっという間の閉館時間。本当は、「ヨロイヅカファーム」なるところへスイーツを食べに行く予定だったのであるが、さすがに昼の食べ過ぎが効いて、誰からも希望は出ず、今回は素直に帰路につく。

 それにしても往復の渋滞はさすがにくたびれる。何か対策はないものかと思うが、みんな考える事は一緒だから仕方ない。考えてみれば、グルメも城も家族の楽しみであるが、パパの好みはどこにも入っていないなぁと今さらながら思う。まぁそれも仕方あるまい。
みんなの笑顔がパパの希望。それで我が家が平和なら、それで良しとしようと思うのである・・・
   


2013年9月21日土曜日

ラグビーシーズン到来

 いよいよ今年もラグビーシーズン到来である。全国各地で熱戦が繰り広げられているのであろう。我が母校の大学も夏合宿を終えた現役部員が先日初戦の明治学院大学戦を終えたが、残念ながら敗れてしまった。我々の現役の頃からであったが、明学は選手を集めており、そうなると哀しいかな受験と言う制約のある我々国立大学はなかなか太刀打ちできない。昔は難なく勝てた相手だが、そんなところで差がついてしまうのである。

 そのうち母校の応援に馳せ参じようと思っているが、取りあえずは週末のテレビ観戦だろう。もちろん、我が母校のではなく、もっと上の一流チームの試合である。先週末は慶応vs筑波戦を堪能した。この時期、ケーブルテレビでは、Jスポーツにチャンネルを合わせると、何らかのラグビーの試合を観る事ができる。大学に社会人に海外にと、選り取り見取りという感じである。

 ラグビーの試合なら何でもいいのかというと、確かに大学なら対抗戦グループだし、社会人ならサントリーなどのメジャーチーム、海外なら南半球3カ国や、6か国対抗などの試合が良いのだが、それ以外の試合でもふと見かけると、ついつい観てしまう事がある。要は何でも良いとも言える。今年は大きな大会などはないが、週末はあれこれと試合を楽しみたいと思う。

 国内の試合では、そろそろ昔一緒にラグビーをやっていた先輩や後輩の子息が第一線に出てきている。中学・高校・大学とそれぞれのレベルでラグビーをやっていて、中には花園出場なんていう「鷹が鷹を生んだ」親子もいたりする。我が家も息子にやらせて、せめて「トンビ親子」くらいにはなりたいと思うのだが、小学校2年の息子の反応は今一。

 洗脳作戦として、しばしばテレビ観戦に参加させるのであるが、「痛そう」という感想が一番に来る。どうやらぶつかり合いの格闘系は、苦手意識を持っているらしい。今度母校の試合観戦の際、一緒に連れて行こうかなどと考えているが、誘っても色よい返事が返ってこない。まぁ少しずつ興味を持たせようと思う。

 他の人たちはどうしているのだろうと思ってみたりする。たぶん、小さい頃の訳もわからないうちに始めさせてしまうような気もする。ラグビースクールなどに放り込めば、必然的に「やるのが普通」という感覚になっていくだろう。そうすれば、あとは勝手に伸びて行くのではないかと思う。

 自分の子供時代を振り返ってみても、小学校低学年の時には、親の言うまま習い事に通ったものである。書道もそうだし、水泳もそうだし、野球もそうだった。高学年になると、英語は友達が行くというのでその気になったが、塾は拒否した。そういう自我が出てくると思う。英語は、肝心の友達はすぐ辞めてしまったが、真面目な私は一人で1年くらい通った。ただ、ジャパニーズ・イングリッシュだったので、中学で辞めてしまったが・・・

 訳のわからないうちに始めさせてしまう、というのもいいかもしれないが、やっぱり野球もやらせたいと思うし、どうしても洗脳しようとまでは思わない。自然に興味を持って始めてくれたら嬉しいくらいだろうか。私自身、高校に入った時は、ラグビーなど興味の欠片もなかったのである。興味のない人の気持ちはよくわかる。まぁ焦らず無理せず。

 それより親子のコミュニケーションをしっかりと取りたいと思う。キャッチボールに運動会のかけっこの練習に。季節もいい感じになってきたし、息子とは男同士、一緒の時間を多くとっていこうと思うのである・・・

【今週の読書】

スタンフォードの自分を変える教室 スタンフォード シリーズ - ケリー・マクゴニガル 新装版 風の果て (下) (文春文庫) (文春文庫 ふ 1-56) - 藤沢 周平





2013年9月16日月曜日

『のぼうの城』に学ぶリーダーシップ

 台風到来とあって、家族での予定を入れなかったこの3連休。暇さえあれば映画三昧の身ゆえ、何本かの映画を観たのだが、そのうちの一つが昨年公開された「のぼうの城」。戦国末期の北条氏配下の支城である忍(おし)城の物語。豊臣方と対立した北条氏に味方し、3千の兵でもって2万の大軍と戦って城を守り抜いた成田長親を主人公とした物語である。

 映画そのものも面白かったのであるが、観ている中で気がついたのはリーダーシップ。まずは主人公の“のぼう”(『でくのぼう』からきている)こと成田長親のそれ。リーダーシップは私が参加している社会人向け勉強会『寺子屋小山台』のテーマの一つでもあるから、よけいに目が行ったという事もある。


 長親は、いわゆるリーダーというイメージに相応しい人物ではない。日頃は畑で農民たちと交わり、武芸は苦手で、城主の従兄弟ゆえにみんなは臣下の礼はとるものの、内心困った人だと呆れている。むしろ、家臣の丹波守利英の方が武芸に秀で、将としての器に相応しい。しかし、のぼうはリーダーとしての片鱗を随所で見せつける。

 密かに豊臣側に通じた城主からは、「戦わずに開城せよ」との命を受けていたのにも関わらず、のぼうは石田三成側の使者の横柄な態度に思わず戦いを宣言する。驚く家臣たちであるが、すぐに一致団結してその決定を支持する。よく企業のトップなどが無謀な決定を下し、部下がそれに意見を言えないで失敗するという事が多々ある。ここでも2万の大軍を相手に、農民を入れても3千の兵力で戦うのは無謀だ。だが、違うのは部下が喜んで従った事だ。

 元々開戦派だった者はともかく、冷静かつ慎重な丹波も従っている。丹波自身も戦わずに開城する事に忸怩たる思いを抱いているのだが、お家と城と城主の命とを考え、気持ちを抑えていたのであるから、のぼうの決意がそれを解き放ったのだろう。リーダーには何よりも人の心を動かすモノが求められる。

 ちなみにここで石田側の使者に対し、開戦の返事をするシーンはなかなか良い。降伏するだろうと思っていた相手が戦うと宣言し、驚く使者。そしてその瞬間、のぼう方の武士たちは右側に置いていた刀を一斉に左側に移す。武士は、座る時に右手が効き腕という前提で、刀を右側に置くのがマナーだったそうである。それを左側に置くと言う事は、「いつでも抜ける」という事を意味する。胸の熱くなるシーンである。

 また、この時丹波の態度は、組織の№2としてのフォロワーシップの観点からも優れている。彼があくまでも反対したら、組織はまとまらなかったであろう。

 丹波が農民たちに協力を求めに行った時、農民たちは反感を示したが、戦いがのぼうの意志とわかると一転して協力姿勢を見せる。この影響力に丹波自身も気がついていたのだろう。
「勇気を以て意見具申せよ」
「決定が下ったら従い、命令は実行せよ」
後藤田五訓にある二つを丹波は実行しているが、この姿勢が残りの部下に勇気を与えている。

 そしてリーダーシップが問われるのは、なによりも不利な状況下。水攻めで籠城を余儀なくされ、時間の経過とともに厭戦気分が広がる忍城内。そこでのぼうの取った行動により、みんなの心に再び火がつく。ラグビーでも点差の離れた後半、戦意が落ちる負け試合で最後まで戦意を保てるかは、キャプテンのリードに負うところが大きい。そのまま総崩れとなるか、せめて次に繋がるトライを一本でも取れるか。のぼうは見事にそれをやってのけている。

 また、この時丹波の態度は、組織の№2としてのフォロワーシップの観点からも優れている。 彼があくまでも反対したら、組織はまとまらなかったであろう。

丹波が農民たちに協力を求めに行った時、農民たちは反感を示したが、戦いがのぼうの意志とわかると一転して協力姿勢を見せる。この影響力に丹波自身も気がついていたのだろう。
「勇気を以て意見具申せよ」
「決定が下ったら従い、命令は実行せよ」
後藤田五訓にある二つを丹波は実行しているが、この姿勢が残りの部下に勇気を与えている。

 そしてリーダーシップが問われるのは、なによりも不利な状況下。水攻めで籠城を余儀なくされ、時間の経過とともに厭戦気分が広がる忍城内。そこでのぼうの取った行動により、みんなの心に再び火がつく。ラグビーでも点差の離れた後半、戦意が落ちる負け試合で最後まで戦意を保てるかは、キャプテンのリードに負うところが大きい。そのまま総崩れとなるか、せめて次に繋がるトライを一本でも取れるか。のぼうは見事にそれをやってのけている。

 リーダーとして、組織に影響力を及ぼすには、まず何より人柄だろう。「この人に言われたら」と思ってもらえたら、他には何がいるだろう。のぼうも権力を背景に威張るだけだったら、農民たちを動かす事はできなかっただろう。そして意地というのか、誇りというのか、一本筋の入った信念。これがないと指示もブレて一貫性がなくなる。近年の政治家によく見られるから、わかりやすい事である。史実はともかく、エンターテイメントとして楽しみつつ、そんな事を考えていた。

 「あいつはその点ではダメだ」と言うは易し。自分はどうだろうかと考えてみると、どうだろう。少し意識してみたい、と思うところである・・・



【先週の読書】
「日本の経営」を創る: 社員を熱くする戦略と組織 - 三枝 匡, 伊丹 敬之  新装版 風の果て (下) (文春文庫) (文春文庫 ふ 1-56) - 藤沢 周平




    
   

2013年9月11日水曜日

秋の日雑感2013

 先週末から涼しい日々が続いている。9月と言えばもう秋であるが、それを実感させてくれる。いつのまにやら蝉の声もまばらだし、まだ聞こえてきたりすると、遅れをとってしまった負け組のような気がして、哀れに思えてくる。

 週末は息子の尻を叩いてかけっこの練習。運動会が今月の最終土曜日に迫っているのである。運動会と言えば、なによりかけっこ。自分も大好きな種目だったし、小学校の頃は燃えていた。というか高校生になっても、ラグビー部内で足の速さを競っていたくらいである(残念ながら大したライバルはいなかったが・・・)。息子にも当然、同じモノを求めてしまう。

 準備運動からスタートの練習。そして、本番さながらに走らせる。腕を振って、あごを引いて、前傾姿勢で、と指導。本当は毎日やりたいところだが、平日はこちらも仕事がある。その代わり、残る週末はみっちりやろうと思う。

 娘は期末試験の勉強。この時期に期末試験というのも違和感があるが、娘の中学は2学期制を取っている。3学期制で育った身としては、この2学期制というのはどうもしっくりこない。前期が終わって通知表を持って帰ってきたら、翌日から後期が始るのである。夏休みと正月明けに新学期を迎える3学期制の方が良いのにと思えてならない。

 娘はどうも生真面目だ。我が家系に連綿と続く性格だから仕方ないのかもしれないが、真面目に勉強するたけでまだ感情面での幅がない。勉強と平行してもっと感情面が豊かになるような刺激を与えたいと思っている。映画や漫画や小説や、それらに接して涙するような経験をもっと積ませたいと考えている。あれこれと気にしてはいるものの、まだ中学生には難しいかもしれないと思えたりして、なかなか探すのも難しい。

 日曜日の夜、夕食を終えると息子はまもなく布団に入り、娘は机に向かい、妻はテレビの前で自分の世界に入ってしまう。そこで思い立って映画を観に行く事にする。もともと子供の頃から「映画館のある街に住みたい」と考えていたが、我が町はその点では理想的な街である。車で5分のところに映画館があり、気軽に出掛けていける。

 観に行ったのは、『マン・オブ・スティール』。クリストファー・ノーランが製作に入った「スーパーマン」で、以前から観に行きたいと思っていたものだ。夜の9時15分からのレイトショーは、値段も安いし何より空いている。まばらな観客席は、ほとんど貸切状態。残念ながらレイトショーでは3Dが観られず、それだけが玉に瑕だった。

 すさまじい映像のド迫力に大満足して映画が終わる。それから車に乗り込み、我が家に着いてエンジンを切るまで約10分。深夜で道が空いているという事もあるのだが、15分後には風呂に入っていた。この身近さが「映画館のある街」のメリットだ。会社帰りに銀座や池袋で映画を観ても、こういう芸当はできない。つくづく良い街に住んでいると思っている。

 まだまだ残暑はあるのだろうが、考えてみれば本当の意味の夏は正味1ヶ月半くらいだから、冬に比べると実に短い。もう少し子供たちとプールに行きたかったと思うところである。とはいえ、毎朝大好物の幸水を食べ、さんまもおいしい季節だ。過ぎゆく夏は名残惜しい限りだが、また来年までのお別れだ。もたもたしていると、冬が来てしまうし、その前に秋を楽しまないといけない。

 忙しい期末ではあるが、周りのモノにいろいろと目配りをしながら、日々楽しく過ごしたいと思うのである・・・

2013年9月6日金曜日

祖父のアルバム

 先日、実家に行ったところ、父が田舎から借りてきたというアルバムを見せられた。それは昔、祖父が存命中に見せてもらった従軍アルバムである。祖父の死後、どうなったのだろうと思っていたが、同じ思いだった父が借り受けて来たらしい。さっそく、画像データにしてCDに落としてもらってきた。自分でも20年振りぐらいに見たのだが、懐かしい祖父のとっておきの一枚は、さっそくフェイスブックにアップした。

 さて、もらったCDを見ていくと、昔見た記憶が蘇ってくる。それは祖父が応召し、始めは中国、そして二度目は朝鮮へ出征した時のアルバムである。中には生首の写真もあって衝撃的なのであるが(ちなみに日本軍の仕業ではないそうである)、概ね出征地ののどかな景色とかしこまって写る軍人さんが中心である。

 当時、自分のカメラなど持っていなかった祖父であるが、どうやら記念にと購入したらしい。アルバムの写真は、中国(上海)と朝鮮と、どうやらごっちゃになっているが、現地での軍隊の様子がうかがい知れるものとなっている。初めて見た時は、祖父に「これはどこだ」などと聞いて説明してもらったが、もうすっかり忘れてしまっている。「茂山」などという地名らしきものが出てくるが、今となってはどこなのかわからない。

 果たして祖父のように応召した兵隊がみな写真を手にできたのか、あるいは希望者のみ購入という形で手にできたのかはわからないが、もし後者なら今日子孫がその恩恵に与っていると言う事になる。祖父は二度目の出征時、病気になって除隊した。それはそれで幸運だったのだと思う。

 アルバムには当時の看護婦の写真がある。聞くところによるとかなり重い病気だったらしいが、回復に向かってからは看護婦さんたちと楽しく交流していたらしい。「じいちゃん、もてたの?」と聞いたら、ニコニコしながら「もてたさ」と答えてくれたのを今でも覚えている。

 さらになぜか水着姿の女性の写真まである。当時は水着も、それを写した写真も珍しかったのではないかと思うが、つくづく、生前もっと祖父を「追求」しておけば良かったと思う。今から80年以上も前の世界。今ではそこに写っている人たちは誰もこの世にいないと思うが、そんな写真を眺めているのも不思議な感じがする。

 今では誰もがカメラを持つ現在、自分達も何気なく何枚も撮っている写真は、果たしていつまで残るのだろうかとふと思う。デジタルデータが大半だから、祖父の写真よりは保存が容易いのかもしれない。今は普通に眺めている景色を、「昔はこんなだったんだね」などと言って子孫たちが見るのかもしれないと思うと楽しい気がする。

 そう言えば、旅行に行っても我が家は夫婦で撮るものが違う。妻は家族の写真、私は風景だ。独身の頃から、旅行先では風景を中心にカメラに収めた。それは自分の曖昧な記憶を補う意味もある。自分の足跡を記した場所を記録に残しておきたいと思うからだ。

 レストランに行けば、テーブルの上の料理とそれを食べる家族の写真を撮る妻。そして出てきた後、振り返って店の外観を撮る私。カメラは一台だから、バランスが撮れていていいかもしれない。しかし、撮るだけ撮って全然整理もしていない。これだと子孫も迷惑かもしれない。いずれ時間を作って整理しようかと思うのだが、データになった現代は、どうやって整理すればいいのだろう。

 ゆっくり研究するとしようと思うのである・・・





2013年8月31日土曜日

JRのキャンペーンを斬る!

 最近、JR駅構内を歩いていると、さかんに「エスカレーターみんなで手すりにつかまろうキャンペーン」なるものを宣伝している。なんのこっちゃと思うが、よく聞いていると、「右側に立って」「歩行する事なく」と続き、どうやらエスカレーターでの歩行をやめさせようというものだとわかってくる。

 エスカレーターに乗ると、みんな左側(大阪ではなぜか右側)に立ち、右側(大阪ではなぜか左側)は歩く人に譲っている。ここ10年くらいの間に定着した慣習である。それを変えようというのは至難の業だと思うが、JRもなかなか思い切った事をやるなあと感じた。

 では、このキャンペーンは成功するだろうかと考えると、それはまったくもって不可能だと思う。おおよそ社会の中で自然発生的に生まれた慣習を変えるのは並大抵の事ではなく、相当な力技が必要だ。それなのに、そもそも「エスカレーターでの歩行はやめましょう」と直接訴えるのではなく、「手すりにつかまろう」と遠回しな言い方になっている事からして無理だと思う。私のようなアマノジャッキーは、「歩く時手すりにつかまればいいんだろう」と思ってしまう。

 この企画がJRの中でどのようにして生まれ、そしてどのようなプロセスを経て認められたのか、実に興味深い。トップダウンかボトムアップか。「何かキャンペーン企画はないか」と問われた若手が提案し、他に何もなくてスルスルと認められたのだろうか。

 そもそもであるが、本気でやめさせようとしたら、かなりのエネルギーがいるだろう。少なくとも構内放送で呼び掛けるだけでは、効果などまったく期待できない。エスカレーターごと、とはいかないまでも、主要なエスカレーターのところで駅員さんが立って呼び掛け、注意を促し続ける必要があるだろう。それこそ、今キャンペーンでやっているように、「駅員が右側を立って利用する」事も当然必要だろう。

 ただそれでも問題があって、それは「エスカレーターがあるのはJR駅構内だけではない」という事である。接続する私鉄沿線にもあるし、空港やデパートやショッピングモールなどありとあらゆるところにある。例えJRの駅構内だけ歩かないようにしようとしても、その他で変わらなければその慣習自体を変えるのは難しいだろう。そう考えると、この試みは効果なく終わるだろうと言う事がわかる。

 しかしそれ以前に、なぜエスカレーターの歩行が危ないのだろうかと考えてみる。床が動いている以上不安定だという理屈はわからなくもない。ただある程度動きに合わせて歩けばそれほど危ないとは思えない。お年寄りや子供などは危険度は増すと思うが、それはそういう人は歩行を控えれば良いわけだし、そういう人たちには利用者も配慮するのは当然だ。

 エスカレーターの歩行が危ないというが、例えば事故率とかの根拠があるのだろうか。いや、例えあったとして、そもそも階段でもコケる人はコケるわけで、それが「エスカレーターだったから」コケたのか、階段でもコケたのかはわからない。まあ「ただでさえ」階段は危ないから、エスカレーターならよけいに危ないという事は言えるかもしれない。

 そうであるならば、やはり歩行はやめましょうではなく、まず「手すりにつかまりましょう」と言うべきだという事になる。その上で、「出来ることなら歩行はやめましょう」という事なのかもしれない。そう考えると、このキャンペーンも理屈にあってくるような気がする。
だがなぁ、とも思う。

 人がエスカレーターでコケる事まで心配してくれるというのも、ありがたいものなのだろうか。子供にはよくいろいろな場面で、「危ないよ」と注意するが、大人には言わない。子供並みと思われているのだろうか、それとも「自分が転んだのは、路上の石を放置していた道路管理者である国の責任」と言って訴えるような人もいるかもしれないと考えての事だろうか。

 休みの日に少し酔った頭で、くだらない事をあれこれ考えてみるのも、くだらなくて面白いと思う自分である・・・

2013年8月24日土曜日

消費税は増税するべきか

 参院選で大勝利し、ねじれ国会も解消し、安倍政権もいよいよ本領発揮というところ。そろそろ世間では、来年春に迫った消費税引き上げを巡る議論が始ったようで、いろいろなところで賛否両論を目にする。
「予定通り上げるべきだ」
「いや、ここで上げたら元も子もない」
賛成、反対それぞれ耳を傾けているが、正直自分でもよくわからない。

 消費税率を引き上げることの最大の意義は、財政の健全化を進めること。国の借金残高(国債、借入金、政府短期証券)は6月末で初めて1,000兆円を超え、なお止まる気配はない。GDPの2倍近い水準は先進国では最悪。財政を圧迫する最大の要因は社会保障費の増加で、急速な少子高齢化の進展で、年金・医療費など社会保障費は年1兆円規模で増加しているらしい。これ以上この状態を放置すると、日本の国債の国際的な信認は落ち、金利が上昇し、その負担が覆い被さるのだという。そして消費税率を1%引き上げると、年間で約2兆7,000億円の増収につながるらしい。

 一方で、税率を引き上げた場合の懸念材料は、景気を冷やす恐れだ。黒田日銀総裁は、「消費税を上げても経済成長は続く」と強気だが、大和総研の試算では、夫婦どちらかが働く年収500万円の4人家族の場合、消費税が10%となった後の2016年には、5%の2011年に比べ、消費税負担が年間16万7千円増えるとしている。厚生年金の保険料増加など消費税以外の負担増を含めると年間31万~32万円に達しするというから、相当な負担増である。これだけ増えても経済成長に貢献できるほどの消費生活を送れるかと考えると、我が家に限ればほとんど不可能だ。

 1997年4月に消費税率を3%から5%に上げた際は、同年4~6月のGDPは、個人消費や住宅投資の落ち込みの影響で年率換算で3.7%減と大幅に落ち込んでいる。さらに極め付けは、肝心の税収。1997年の税収は53.9兆円であるが、以後税収はこれを上回っていない。つまり消費税を上げても所得税及び法人税が減ってしまい、トータルでの税収は増えていないのである。

 どちらもそれなりに専門家が主張している事であり、素人の自分がどちらが正しいなどという事はできない。ただ、我々の生活実感からしてみれば、やっぱり上がらない方がいいに決まっている。私の乏しいこずかいがまたまた目減りするのは確実だからだ。国家のためには仕方ないのかと思う反面、何だか相変わらず違和感を覚える議論だ。どうして「入り」の議論ばかり熱心で、「出」を抑える議論が聞こえてこないのだろう。

 身の周りでもおかしな事が多い。その一つが道路の拡張。最近我が家の比較的近所では大きな道路が開通した。さらに娘が通う中学校の真ん中を通る道路の計画がどうやら動き始めた。両親の住む実家は、戦後間もなくの道路事業がいよいよ認可になり、数年後には立ち退きが必要と告知された。いずれも「なくても困らない道路」だ。そんなお金、どこにあるのだろう?

 老朽化が進んでいる首都高の補強とか、トンネル事故の例をだすまでもなく、道路の補修・補強工事は仕方がない。だが、なぜ住民から要望があるわけでもない(娘の中学分断道路などは反対論が出ている)道路を作るのだろう?これこそ「無駄」というものに他ならない。

 東京オリンピックと言って騒いでいるが、これだって景気浮揚効果も一時的だろうし、一体いくらの税金を使うのだろう。現実的に長野オリンピックでは、長野県は莫大な県債を抱え込んだと報じられていた。東京都は豊かだから大丈夫だとかいう話ではない。それだけ豊かなら住民税を還付してもらった方がはるかに良い。「無邪気にオリンピック誘致」などと浮かれている人は、そうしたところを考えているのだろうか。

 個人の生活はいくらでも自助努力するが、こういう社会の問題は自助努力の範囲外だ。だからよりよい判断をして欲しいと思うところだ。新しい道路の建設はすべて凍結し、オリンピックはさっさと辞退し、その分住民税を大幅に下げて都内の景気刺激策とする。まずこれだけでもやる効果はあるだろう。

 その上で消費税だが、やっぱり上げない方が正解な気がする。それが生活者としての実感である・・・

2013年8月17日土曜日

過ちは繰り返せない

 終戦の日を境に、ネットではツイッターを含めて様々な「戦争観」が飛び交っている。自虐史観と言われる「日本がすべて悪い」という考え。靖国史観に代表される「やむを得なかった」という考え。考え方はひとそれぞれ、いろいろあっていいと思う。ただ自分としては、“事実”から冷静に自分の考えを導きたいと常に思っている。

 原爆の慰霊碑には、「安らかに眠って下さい 過ちは繰り返しませぬから」と刻まれているそうである。では、「過ち」って何なのだろう。日本はどこでどう道を誤ったのだろうと考えてみる。

 学校での日本の歴史の勉強は、明治維新から始めるべきだと、個人的には考えている。その方が大事な昭和史をきちんと学べるからである。黒船による開国から、不平等条約の解消を目指していた「坂の上の雲」の時代。日本は先進国に追いつき追い越せと国を挙げて富国強兵に励んでいた。しかし鎖国時代ならともかく、富国強兵に必要なのは石油や鉄などのいわゆる資源。日本には決定的に欠けていたものである。

 当時は先進国はみな帝国主義を掲げ、世界各地に植民地を建設。それが国富の元であった。日本はもともと識字率も高く、勤勉な国民性もあって、アジアで唯一先進国グループの末席に潜りこんだ。しかし、欧米に伍していくには資源が必要。世界中に植民地を建設していた先進国が、最後に残された中国大陸に押し掛ける。

 既にアヘン戦争によってイギリスは香港を奪い、南下策を取るロシアは、日露戦争で一旦は押し返されたものの、すぐにソ連に変わって圧力を増してくる。ぐすぐすしていたら、日本の取り分はなくなってしまう。そして資源を外国から売ってもらうと言う事は、貿易が当たり前の現代ならいざ知らず、当時は「扉を閉ざされたらそれまで」の恐怖を意味する(事実、日本はABCD包囲網でこれをやられ、戦争へと舵を切った)。日本が朝鮮半島、中国大陸へと侵略していったのはこういう背景だ。

 これが過ちの一つだと言えるが、侵略を見送っていたなら、たぶん中国は英米ソら先進国によって分割されていただろう。日本もロンドン海軍軍縮会議で抑え込まれたが、もっと簡単に先進国によって杭打ちされていただろう。アジアでは日本とタイのみが植民地化されていなかったが、これもどうなっていたかわからない。不平等条約のような屈辱に喘いでいたかもしれない。

 だが、我が祖先はそこで先進国に負けじと、先進国と「同じ方法」で富国を図った。日本“も”中国大陸に駒を進めたのである。そして先進国と分捕り合戦を展開。ここで健闘し過ぎてしまった。だからアジアで日本の台頭を心良く思わない欧米を敵に回してしまったのである。

 イギリスやアメリカが正義だったから戦争に勝ち、日本が悪の侵略国だったから戦争に負けたのではない。世界の覇者として影響力のあるイギリスとの同盟を失うような対応を取り、資源を十分に確保しているアメリカと戦争をしたから、負けたのである。そして歴史は勝者によって作られる。「勝てば官軍」である。

 いち早く中国に侵略し、香港を奪い、その後100年にわたって香港を占領していたイギリスに中国が何も文句を言わないのは、「敵の敵は味方」の理屈で支援してくれたアメリカの同盟国だったからだ。単独では日本に勝てなかった中国だから、助けてくれた英米に文句は言えないのである。そして同じ侵略国でありながら、日本だけが敵視されるのは、もちろん日中戦争の相手だからであるが、戦争に負けた「池に落ちた犬」だからに他ならない。

 何が“過ち”だったかと言えば、やっぱり「アメリカを敵に回した事」に尽きるだろう。「喧嘩する相手を見極め、そしてうまく立ち回る」これができなかったのである。日露戦争ではアメリカは日本の側についたし、三国干渉もしなかった。うまくアメリカと歩調を合わせていたら、歴史は違ったものになっていたかもしれない。中国もどうなっていたかわからないし、日本の敗戦を機に一気に独立へと動いたアジアの植民地諸国の独立ももっと遅れていただろう。もっともあまり追随していると、のちにベトナム戦争に参戦した韓国のようになっていたかもしれないから、微妙なところではある。

 今は今。不幸な歴史はこれで良かったとは言えなくとも、仕方のないものなのだろう。戦争反対は結構だし異論はないが、歴史をよく知った上でそれに基づいた意見を語ってほしいと思う。それに歴史の教訓ではないが、中国とはもっと距離を縮めておいた方が良いと思う。昭和史はまだまだ学ぶ余地はありそうだ。これからもライフワークの一つとして興味を持っていきたいと思うところである・・・