2024年11月21日木曜日

講演会に出席して

 取引先から講演会に招かれた。講演者はデーブ大久保氏。元ジャイアンツの捕手である。昨年も招かれたのであるが、昨年は河野景子氏。ふだん話を聞く機会のない人の話を聞くというのもなかなか面白いものである。著名人となると、どうしてもその世界の話が多くなる。実は別のところで元プロ野球選手の講演会に行ったのであるが、その時は裏話ばかりで、面白くないとは言わないが、あまり後に残るものでもないというものであった。主催者側は当然費用を払っていると思うのだが、それに見合うものであったかどうかは疑問である。その点、今回は同じ元プロ野球選手でもビジネスに通じるところがあり、為になったところでもある。

 昔話の中で、デーブ大久保氏は小学生の頃に周りにおだてられてプロ野球選手になるという夢を掲げ、毎日素振りを500回かかさずやったと言う。普通の子供にはできないと思う。ちなみにその話をニューヨークで松井秀喜に話したところ、松井は1,000回だったらしい。その差が2人の差だとデーブ氏は笑っていた。さらに後日イチローに同じ話をしたところ、イチローは2,000回だったらしい。実際はどうかはわからないが、やはり名を残す選手というのは、そういう影の努力が凄いのだろうと思う。

 いわゆる「1万時間の法則」とよく言われるが、何か事を始めてそれなりの成果を出すには1万時間のトレーニングが必要だというものである。生まれついての天才などというものはなく、ただ、「毎日素振り500回」といった誰でも簡単にはできるものの、誰にも簡単には継続できないような事を継続できる人が、「天才」と呼ばれるようになっていくのだろう。「毎日素振り500回」は確かにすごいし、だから高校生でも騒がれてドラフト1位指名になるのだろう。それでもさらに上がいるわけであり、凄いなぁと改めて思う。

 私はラグビーをやっているが、それでも高校生で始めて普通にしか練習しなかった。高校・大学・銀行とラグビーを続けたが、ざっと計算しても1万時間に満たないどころか半分もいかないかもしれない。時間だけではなく質もあるから何とも言えないが、普通のレベルであるのも当然である。息子が生まれた時、ラグビーをやらせたいとは思ったが強制はしなかった。小さい頃からテレビ観戦は一緒にしていて、それなりに興味を持ったようだが「痛そう」というところが大きく記憶に残ったようである。

 子供にラグビーをさせている友人・知人は多いが、だいたい訳もわからぬうちからラグビー・スクールなどに入れてしまっているようである。そのまま素直に興味を持って続ければ良しだが、例えばそこで辛い思いをしてしまうと辞めてしまうという弊害もある。あまり熱心に指導したりすると危ないかもしれない。高校でさえ、私の同期で大学に進学したあとも続けたのは11人中、私を入れて2〜3人だった(体育会で続けたのは私のみ)。「ラグビーは練習がきついのでもういい」と思ったようである。

 そんな事もある一方で、誰に言われたわけでもなく、毎日素振り500回を続ける意思の力は凄いと思う。言われて強制されてできるものでもない(やったとしても私の高校の同期みたいにいずれやめてしまうだろう)。あくまでも本人の意思のみが続ける原動力であり、親の立場からすると、それはどうしたら子供の心に芽生えさせる事ができるのだろうと思ってしまう。デーブ氏の子供は野球の道には進まなかったようで(それはデーブ氏が意図したかどうかは聞けなかった)、そのあたりの考え方は聞いてみたかったところである。

 それにしても現役を引退してから各球団の監督・コーチ、野球解説などで活躍し、講演会などにもよく呼ばれているそうである。ある程度の著名人でないと講演会にも呼ばれないだろうが、ただ内輪ネタだけだといずれ呼ばれなくなるだろうし、話の内容も工夫しているのだろう。ネタも意識して仕入れているのかもしれない。そもそも「デーブ」という現役時代の「デブ」からきたニックネームをうまく芸名のように取り入れているところがうまいなと思う。本名ではわからない人も多いだろうと思うが、デーブとつく事で認知度は上がると思う。

 そんな自分ブランディングも、講演の内容も、飲食店を経営しているとさり気なくPRしているところも、現役引退後に野球以外の生きていく道をうまく作っているように思う。いろいろと参考になるところが多い講演会であった。来年もまた呼ばれるだろうが、次はどんな人か楽しみにしたいと思うのである・・・


【本日の読書】

「食」が動かした人類250万年史 (PHP新書) - 新谷 隆史  砂漠と異人たち/宇野常寛(著者)





2024年11月17日日曜日

色眼鏡

ハマスの実像 (集英社新書) - 川上泰徳

 『ハマスの実像』という本を読んだ。中東では昨年の10月にハマスがイスラエルに越境攻撃を仕掛け、民間人を多数殺害して人質を取るというテロ行為を起こしている。それにイスラエルが反撃し、ハマスの殲滅を宣言して1年以上戦争状態が続いている。もともと中東の紛争には興味があったこともあり、なんとなく「ハマス寄りのハマスに同情的な本」であるというイメージはしていたが、あえて手にした次第である。

 著者は中東専門のジャーナリストであり、「元朝日新聞記者」という肩書きを見て、そして内容を読んでやっぱりハマス寄りの内容であった。「イスラエルの軍事占領という暴力の元に」、「特にガザは被人道的な封鎖下におかれ、『天井のない牢獄』と呼ばれる状況に閉じ込められてきた」ことを考えれば、「何もないところから暴力が生まれるわけではない」とする。著者によれば、「だからハマスの攻撃も止むを得ない」というものであるが、多くのハマスに同情的な意見は、多分同じであろう。

 私はと言えば、イスラエルの置かれてきた環境を考えれば、ガザの封鎖や入植地の拡大といった施策は、「好ましくはないが止むを得ない」と考えている。だからハマスに同情的な意見には与する事ができない。それにどういう解決策が望ましいかと考えれば、「平和的な話し合いによる解決」であり、それにはハマスによる攻撃を「仕方ない」とは思えない。まずは暴力行為を停止するところからがスタートだと思う。お互いに話し合いのテーブルにつけば、国際世論もハマスやパレスチナ側にもっと支持が集まるだろうと思う。

 それはともかく、人には自分の寄って立つ「視点」というものがある。著者のようにハマスに同情的な立場だと、「原因はイスラエルにある」となる。しかし、私からすると、紛争は過激派のハマスが支配するガザでばかり起こっていて、穏健派のファタハが支配するヨルダン川西岸地区では(あまり)起こっていない事を考えれば、「諸悪の根源はハマス」となる。たぶん、私が著者と議論してもこの「視点」が異なる限り、合意には至らないと思う。言ってみればこの「視点」は色眼鏡である。

 私も自分の意見こそ絶対とは思わず、イスラエル寄りの色眼鏡で見ている事は事実である。そしてそれが正しいと思っているので、訂正するつもりは今のところない。ただし、そこは柔軟でありたいと思うので、自分と反対意見の人の話はきちんと聞きたいと思う。この本をハマス寄りだと思いながらもあえて手に取ったのもそういう次第である。イスラエルも100%正義だとは思わない。特に現在は強硬派のネタニヤフ首相が強力な指導力を発揮している環境であるから尚更である。それでもまだハマスよりはイスラエルの肩を持ってしまう。

 一つの同じ事実も「視点」が異なれば解釈も異なる。色眼鏡の色によって同じ世界も見え方が異なる。「イスラエルの軍事占領に対する抵抗」と言うか「テロ」と言うかによって事実が変わるものではない。ただ「抵抗」と美化しても平和的な解決策には至らない。これは間違いないと思う。会社でも色眼鏡の違いによって意見が相違する事が多々ある。こちらの意見を丁寧に説明してもわかってもらえないのは、色眼鏡は簡単に変えられないという事を意味している。

 常に自分の色眼鏡が正しいと言うつもりはない。できる限り相手の色眼鏡を理解しようと思うし、自分の色はできるだけ丁寧に説明しようと思うが、それが精一杯である。どうしてこうも違うのだろうか。考えてみれば面白い。自分の色眼鏡はどうしたら変わるのだろうかと考えてみると、それは相手の意見の説得力に他ならない。という事は、相手の色眼鏡が変わらないのは、自分の説明に説得力が足りないからと言える。相手の色を理解しつつ、説得力のある説明を試みる他はないだろう。

 歳を取ると頑固になるとはよく言われるが、自分も思考の柔軟性は保っていたいと思う。相手の主張をよく理解し、そこで自分の考えときちんと照らし合わせるようにしようと思う。そう思うものの、今回のこの本の主張にはやっぱり同意できない。平和的解決には、「抵抗」などとテロ行為を正当化する考えはダメだという考えは変えられない。相手の意見はきちんと聞いたうえでのことなので、これはこれでいいと思うのである・・・


Satheesh SankaranによるPixabayからの画像

【本日の読書】
三体2 黒暗森林 上 (ハヤカワ文庫SF) - 劉 慈欣, 大森 望, 立原 透耶, 上原 かおり, 泊 功





2024年11月15日金曜日

論語雑感 泰伯第八 (その12)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感
【原文】
子曰、三年學、不至於穀、不易得也。
【読み下し】
子(し)曰(いわ)く、三年(さんねん)学(まな)びて、穀(こく)に至(いた)らざるは、得(え)易(やす)からざるなり。
【訳】
先師がいわれた。「三年も学問をして、俸禄に野心のない人は得がたい人物だ」

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 ちょうど30歳になった頃だったが、銀行で中堅行員のための短期集中研修に参加したのだが、その時一緒に参加していた1年上の先輩が研修を終えるとともに退職した。なんでもアメリカに行ってMBAを取るという事であった。当時、アメリカでMBAを取得する事は「稼げるサラリーマン」への登竜門的なところがあった。いろいろと考えている人は要領よく準備してタイミングを図り、銀行の募集に応募していた。

 私もできる事ならチャレンジしたいと思っていたが、のんびりしていたところもあり、しかもそれはなかなか競争率も高いもので、タイミング(転勤直後などは認められない)もあって私はとうとう行けずじまいであった。高額な費用がかかる事から、自費で行くのは無理であり、行くとしたら銀行の制度を利用するしかなかった。その先輩は自費で行くとの事で、実家が裕福だと聞いていたので、私は羨ましく思いつつ見送った。

 その先輩がその後どうしたのかは知らない。ただ、普通に真面目に勤めているだけではダメだという考えは、当時の身の回りにはあったのである。MBAを取ったから稼げるというわけではないだろうが、普通にやっていてはダメというのも確かであろう。稼ぐためには「何か」をしなければならないものであり、そしてそれはたいてい「勉強」を意味すると思う。もちろん、「営業で全国1位」などの実績も有用だろうが、そういう地位にいない人にとっては「勉強」だろう。

 中にはそういう野心はなく、ただ趣味のために勉強する人もいるだろう。私の甥も何やら随分資格を取得してマニアのようになっていると聞く(ただそれは「何かの役に立つだろう」というやっぱり野心からのようである)。資格も取ったからといってすぐに評価されるというものでもないだろう。しかし、社会人になって、忙しい合間に趣味の時間を削って勉強するというのは、たいてい「将来のため」という目的があるからだろう。資格もないよりあった方がいいのは当然である。

 我が社でも若手には資格を取れと言っている。特定の国家資格には奨励金も出している。それは、資格そのものよりもその過程で勉強し、努力するスタンスを身につけてほしいと思うところがあるからで、そのスタンスほどSEとしての技術向上に役に立つもの(=会社にも有益)だからである。逆に趣味で勉強していて「給料には興味ない」と言われてしまうと物足りなさを感じてしまう。「もっとたくさん給料が欲しい」という思いこそ、能力向上の原動力のように思う。

 「もっとたくさん給料が欲しい」というのは、人の自然な感情であると思う。それによって家族によりいい暮らしをさせられるし、自分の望みも叶えられる。そしてそのために人は頑張って働こうと思う。逆にそうやって頑張ろうという人は何より「信頼できる」と思ってしまう。「給料(俸禄)に興味がない」という人に対しては、いざとなったら簡単に仕事を放り出して辞めてしまうのではという疑心がどこかに生じる。

 私の前職の社長は、会社を上場させた金持ちの父親の下に生まれ育ち、父親の庇護の下、30代で上場会社の役員になっていたが、経営というものをまったく学んでこなかった人であった。その必要もなかったのであろう。それが事情があって父親とともに会社を出て、中小企業の経営者に座らせてもらってからそれが露呈。私が入った時は、会社はかなり傾いていた。それを私が6年で立て直したところで、社長は会社を売却し、わずかな退職金で全社員を解雇し、売ったお金は独り占めした。欲望だけで学ばぬ人間の姿だと思う。

 孔子の生きていた時代とも環境とも違うので、単純に孔子の言葉を否定するつもりはないが、俸禄に興味があり過ぎてもなくてもどちらもダメなように思う。人間は目的があってこそ頑張るものであり、会社というところは何より俸禄をもらうところである。ゆえにそのために学ぼうとする人間こそ信頼できると私は思うのである・・・


【本日の読書】

ハマスの実像 (集英社新書) - 川上泰徳 三体2 黒暗森林 上 (ハヤカワ文庫SF) - 劉 慈欣, 大森 望, 立原 透耶, 上原 かおり, 泊 功




2024年11月9日土曜日

『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』

なぜ働いていると本が読めなくなるのか (集英社新書) - 三宅香帆

 『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』という本を読んだ。この本、最近売れているらしい。私はもともと著者のように本の虫とまではいかないが、まあまあ本が好きだった事もあり、今でも月に6〜7冊は本を読んでいるので、比較的読んでいる方ではないかと思う。それも読むペースが加速したのはむしろ働くようになってからであり、著者の主張には違和感を禁じ得ない。それはともかくとして、読みながらいろいろと考えるヒントに溢れていた本であるのは確かである。

 「若者の読書離れ」はよく言われるが、なんとそれは80年代からすでに言われていたらしい。読書のピークは79年としているが、その根拠は1世帯あたりの書籍購入金額だとする。しかし、である。40年前と現代では単純比較できないようにも思う。書籍購入金額が定価なのかそれとも中古も含むのかわからないからなんとも言えないが、現代の方が確実に中古市場は広がっているわけであり、中古で買えば値段は下がる。単純に「本を読んだかどうか」は書籍購入金額ではわからない。それに電子書籍の金額は入っているのだろうかと疑問に思った。

 また、図書館を利用した場合、そもそも書籍購入金額に影響はしない。人気の本など図書館の予約数のすごさを見れば、「買わずに読む」人もかなりいる。特に日本経済は「失われた30年」を過ごしているわけであり、安く本を読もうとする傾向は強いはず。よって書籍購入金額だけをもって「本を読まなくなっている」と結論付けるのはいかがなものかと思ってしまう。他に指標がなかったのか(ならばそういう主張は控えた方がいい)、それでいいと考えたのか(根拠薄弱な主張は底を見透かされる)、いずれにせよ主張としては弱い。

 また、著者は明治時代からの読書史を振り返る。著者なりの考えはあったのだろうが、なぜ読書史を長々と連ねる必要があったのだろうか疑問である(単なるトレビアとしては面白い)。日本人の読書史と働いていると本が読めなくなる関連性がよくわからないのである。そして著者の言う「読書」とは、ノイズ(余計な知識)の含まれている小説などのことで、自己啓発書などは含まれない。映画『花束みたいな恋をした』の主人公が働くようになってから疲弊して本を読めなくなることを例に挙げるが、その主人公も自己啓発書は読めているのである。

 著者は結論として働き過ぎの社会の変革を訴えるが、それが実現できたからといって娯楽としての読書が可能になるのだろうかという疑問も残る。今の時代、映画もドラマもスマホで簡単に観られるし、若者はそれ以上にゲームを楽しんでいる。そもそも自己啓発書なら読めるという事は、必要性を感じるものには時間をかけるという事で、仕事で疲れている時は、むしろ自己啓発書よりも娯楽としての小説の方が読めるのではないかとも思う。著者と私の感覚の違いなのかもしれない。

 この本は、今売れているらしいが、「売れている」=「共感されている」という事でもないだろう(事実、私も共感できないでいる)。自分なりの一つの意見を書籍という形で世に問う事は素晴らしいと思うが、どうも私には説得力に欠ける意見であるように思えた。それでもこうして感じた雑感をまとめる契機にはなったので、読んで損はなかったと思う。これからも好き嫌いせずにいろいろな本を読んでいきたいと思うのである・・・


Jose Antonio AlbaによるPixabayからの画像

【今週の読書】
ハマスの実像 (集英社新書) - 川上泰徳  三体2 黒暗森林 上 (ハヤカワ文庫SF) - 劉 慈欣, 大森 望, 立原 透耶, 上原 かおり, 泊 功






2024年11月6日水曜日

息子に語りたいこと

 息子が生まれた時、将来いろいろと自らの経験から得た事を教えたいと思った。父親というものはみんなそうではないかと思う。子供の頃は教えと言ってもそれほど大したものではないが、大人になるにつれだんだんと世の中を渡って行くのに必要な事になると思う。人間関係の事やお金の事、結婚や住まいの事や、その他その時々の悩み事の相談などである。自分はと言えば、そういう事を父親とはほとんど話などしてこなかった。それは父も昭和の人間として多忙で余裕がなかった事もあるが、仮に時間があったとしても知識等の面で難しかったかもしれない。

 息子もこの春からいよいよ大学生になった。それなりに自分の考えというものを持っているが、なにせ「経験」という点では圧倒的に足りない。人生始めてまだ19年とちょっと。そのうち少しは大人の思考となると4〜5年程度である。社会人経験37年の私からすればヒヨッコレベルである。いろいろと自分で失敗しながら人生経験を積んでいくところはあると思うが、一度の失敗が取り返しのつかない事になる可能性もある。例えば今気になるのは闇バイトだろうか。

 息子を見ていて病みバイトなどを迷わずにやるような事はないと思うが、何やら興味をもって接近し、住所を教えたところ、「断れば家族に危害を加える」と言われたら言いなりになってしまうように思う。そういう時はどうするのか。そんな時に相談してくれればいいが、たぶん1人で悩むと思う。また、今、自動車の教習所に通い始めたばかりが、車を運転していて事故を起こし、相手に脅されたらどうするか。普通の事故なら対応は教習所でも習うだろう。しかし、世の中には常にイレギュラーが伴う。そんな時、どう判断するのか。

 お金に関してはしっかり教えたいと思う。お金を貸してほしいと頼まれたらどうするのか。今はそんなに持っていないからいいだろうとは思うが、怪しげな取引に誘われたら?そこで知らぬ間に借金を負わされたら?私も学生時代に何かの会員に勧誘され、いい条件だけ聞かされて「これはいいな」と思ったが、最終的になんかおかしいと思ってやめた事がある。世の中、すべてのリスクを網羅して備える事はできない。たいていは話を聞いて自分で判断しないといけない。その時に生きるのが知識を含めた経験値だろう。

 息子は、私よりも人あたりはいいようで、人間関係にさんざん苦労した私などがあれこれアドバイスする事はないような気もする。父親の経験をすべて伝えることはできないかもしれないが、理想的なのは「辞書的」な役割だろう。困った時にその都度辞書を引くようにアドバイスを求めてくれれば役に立てるだろう。ただ、「考え方」などは事前にインストールしておきたいところが大きい。お金も学生のうちはいいが、社会人になれば手にするお金も増えるのでリスクは高まる。私の弟などは50代になってつまらない詐欺にあって大損している

 そんな叔父の失敗はすぐに娘と息子に教えたが、それと言うのも早くからそういう身近な例を教えるのも将来の身を守ることになるかもしれないと考えたからである。騙されるのは仕方がないかもしれない。騙す方も巧妙であるし、私自身絶対騙されないという自信はないが、騙されても被害を最小化する事はできると思う。実際、弟と同じ立場で騙されたとしても、私ならかなり被害額を軽減できたと思う。それは基本的なお金に関する考え方であるので、そういう考え方さえ身につけていれば我が息子も致命的な被害は受けなくて済むと思う。

 いつ、どういうタイミングで伝授しようかと思うも、一度で済ますのではなく、たまに誘い出して一緒にビールでも飲みながら、語って聞かせたいと思っている。息子は嫌がるかもしれないが、そういう親父の人生経験を聞くのもいいと思うし、聞かせたいと思う。今度うまく誘い出してみたいと思う。大学1年ではあるが、もう就職を意識しているようである。それなら少し本を読んだ方がいいと思うし、そのあたりの話もしてみたい。親父よりも少しでも失敗経験の少ない人生を歩んでもらえたらと思う(失敗経験もそれなりに必要だとは思うが・・・)。

 まずは話をする機会をつくる事だろうか。部活にバイトに授業に教習所にと忙しそうな息子だが、うまく誘ってみたいと思うのである・・・



【本日の読書】

ハマスの実像 (集英社新書) - 川上泰徳  アルプス席の母 - 早見和真




2024年11月3日日曜日

男とは

 先日、高校の同期会があり、久々に元クラスメイトらと懐かしい話をした。卒業から42年、みんなそれぞれの人生でいろいろな経験をしているものである。1人の女性から何とはなしに、過去にDVを受けた経験があるということを聞いた。骨折をともなう怪我をして、子供とシェルターに避難したというのである。その昔は縁切寺などいうものがあったと聞くが(映画『駆込み女と駆出し男』にも描かれている)、現代でもそういう施設があるのは知っていたが、実際に利用した人の話を聞くのは初めてである。

 相手の男がどんな男かは知る由もない(聞くつもりもなかったが)。それにしてもありきたりながら「暴力はいかんよな」と思う。夫婦だから喧嘩をすることもあるだろう。我が家もたまに私が我慢しきれなくなると喧嘩になる。だが、そこで妻に手を上げた事はもちろんない。逆に「手を上げられた」事ならあるが、その時も反撃はじっと我慢した。そんな事は当たり前の事で自慢する事でもわざわざ言う事でもないと思うのだが、世の中には感情の赴くまま手が出る男もいるのだろう。

 男の場合、相手を殴るのは大抵「相手が自分より弱い」と思っているケースである。相手が女の場合はもちろん、男同士でも「相手に勝てる」と思うから強気になって殴るのであり、「相手に勝てない」と思えば手控える。「ずるい」と言えばその通り。しかし、そういうものである。そういう男は実に情けない。相手が弱ければ高飛車になり、強ければ卑屈になる。みっともない事この上ない。「ついカッとなって」という言い訳も虚しい。カッとなっても強い相手には手を上げないだけの冷静さはあるのである。

 私の場合は、妻と口論になっても常にどこか冷静になっているところがある。だからコントロールが効く。それは子供が小さかった時もそうで、わがままを言っていうことを聞かなくて腹が立った時もどこか冷静な部分があって、「ここは体罰を加えた方がいい」という判断をして、利き腕とは逆の左手で、頬を張ったものである。何も利き手で思いっきり引っ叩かなくても、子供にインパクトを与える効果は十分得られる。そしてそれで十分である。

 そう考えると、感情的になって体罰を加えた事はない。なんか立派な大黒柱のように思われるかもしれないが、電車の中で理不尽な振る舞いをする男に対しては躊躇なく蹴りを入れたりするからとても立派とは言えない。ただ、明らかに体力的に劣る女に手を上げるのとは違うと考えている(立派な考えとは言い難いかもしれないが・・・)。DV男が目の前にいたら、そういう話をして一度私に喧嘩を売る度胸があるか試してみたい気もする。

 最近は女も強くなり、それはそれでいいと思うが、逆に男が軟弱化している。それはムダ毛の脱毛をしたり髪の毛の手入れをしたり、化粧水で顔を洗ったりする事も含めてではあるが、それならDVも減りそうなものだが、統計値では年々増加しているそうである。ただ、結局、「弱い相手にしか暴力を振るえない」と考えるのであれば、「男が軟弱化している」という私の感覚は間違っていないと思う。

 女に手を上げるのではなく、自分とは意見の異なる会社の上司に自分の意見を堂々と言えるかを問う。自分より弱い者ではなく、強い者にどう振る舞えるか。きちんと自分を通せるかどうか。男にはそういう事が大事だろうと思う。妻の限りのないどうでもいい小言にジッと堪えるのも男の甲斐性なのだろう。こういう時代だからこそ、「男」というものに拘りたいと思うのである・・・

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【今週の読書】
なぜ働いていると本が読めなくなるのか (集英社新書) - 三宅香帆  アルプス席の母 - 早見和真





2024年10月30日水曜日

論語雑感 泰伯第八 (その11)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感
【原文】
子曰、如有周公之才之美、使驕且吝、其餘不足觀也已。
【読み下し】
子(し)曰(いわ)く、如(も)し周(しゅう)公(こう)の才(さい)の美(び)有(あ)るも、驕(おご)り且(か)つ吝(やぶさ)かならしめば、其(そ)の余(よ)は観(み)るに足(た)らざるのみ。
【訳】
先師がいわれた。「かりに周公ほどの完璧な才能がそなわっていても、その才能にほこり、他人の長所を認めないような人であるならば、もう見どころのない人物だ」
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 今回の孔子の言葉は、「才能」という言葉を使っているが、「才能にほこる」とは自信にあふれるという事であり、それは過信と紙一重とも言える。自分が一番であり、他の人間は自分よりも劣ると考える事は、まさに過信である。それはある特定の人物の話ではなく、誰でもが持ち得る要素であり、「過信」と考えればそれに当てはまる人物はかなりいるように思う。人間は誰でも自分が人生の主人公であり、したがって常に自分が正義である。そこに過信が生じるものであると思う。

 本当に正義であればまだしも、時にたとえ悪事を働く場合であっても、そこに社会が悪いとか相手が悪いとかという正当化理由を設けている事がほとんどだろうと思う。それは例えば自分の意見こそが絶対と過信することもその一つだと言える。戦前は間違っている相手であれば殺しても良いという風潮があり、2・26事件では世の中を「正そうとした」青年将校らが政府の要人を殺害したのもその好例である。それはさすがに極端であるが、ネット社会の現在では、容赦のない誹謗中傷に歪んだ正義が溢れているように思う。

 自分に自信があるのは悪い事ではない。自信を持てばその言葉には説得力が増すし、さらに努力してもっと高みに上ろうという事にもなるだろう。ただ、そこに「他人の長所を認めない」というものが加わると、それはダメだと孔子は言う。それはその通りだと思う。誰もがそう思うだろう。しかし、よく考えてみると、それはなぜダメなのだろうか。才能がそなわっていれば、その才能にほこり、他人の長所など認めなくてもその才能が枯れる事はない。せいぜい「嫌な奴だ」と思われるだけだろう。

 「憎まれっ子世に憚る」という言葉があるが、人に好かれなくても溢れる才能を発揮して世の中に貢献している例はいくらでもありそうな気がする(知らんけど)。別に本人が他人からの悪評を気にしないでいられる強心臓の持ち主なら、別にかまわない気がする。ただ、ここでは「見どころがない」と言っている。正確な訳なのかどうかはわからないが、この意味を「今後を期待できる優れた点。将来性。」という日本語の意味と同じと考えるなら、「将来性がない」という事は当たっているかもしれない。

 「他人の長所」には、時として「自分にない」ものである事がある。そうだとすると、自分にないものを認められないというのは、自分の才能をさらに伸ばす上でマイナスになる。なぜなら、自分にない「他人の長所」を取り入れられれば、それは自分の才能をさらに伸ばす事につながるであろうからである。スポーツなどでは、他人の優れたプレーをマネする事によって自分の力が伸びるということは当たり前の事である。世阿弥の「守破離」も同じ理屈であるように思う。

 つまり、「他人の長所」は自らの才能を脅かす危険なものではなく、その逆に自らの才能をさらに伸ばすヒントである。それを認めて自分の中に取り入れ、さらに自分なりの工夫を加えれば、自分の実力もさらに伸びていく。他人の意見を斬って捨てるのではなく、そこにも考えるべき点がないかどうか考え、時にはそれについて議論をし、受け入れる事によって自分の意見が補完されるかもしれない。そして他人の長所を素直に認められるスタンスは他人の好感を呼び、それがさらに周りからのアドバイスにつながるかもしれない。

 そういう人物は、さらに自分の能力を伸ばしていけるが、他人の長所を認められない人間は自分のその才能の範囲から抜け出せない。だから「見どころがない」、「将来性がない」のではないだろうか。単に謙虚さがないとダメという話ではなく、自分の才能を伸ばしていくためには、自分以外の者の才能、長所をどんどん取り入れられないといけない。そういう事のように思う。

 そう考え、自分はどうだろうかと考えてみる。幸い、それほど人に誇れる才能がないため、常に他人の良い点を取り入れる事を考えている。自分の意見と違う他人の意見でも、「ひょっとして自分が間違えていたら後で笑い者になる」という恐怖心から謙虚に耳を傾けている。才能のない人間はそのようなスタンスが必要だろう。その良し悪しは別として、そういう謙虚さをこれからも持ち続けたいと思うのである・・・


Saurabh SarkarによるPixabayからの画像

【本日の読書】

孤闘 三浦瑠麗裁判1345日 - 西脇 亨輔  なぜ働いていると本が読めなくなるのか (集英社新書) - 三宅香帆  アルプス席の母 - 早見和真





2024年10月27日日曜日

人の記憶

 この週末、久しぶりに高校の同期会があった。前回から8年ぶりとのことだったが、そう言われればそういう気もするし、それよりも前回はどこでやったのかと考えてみると思い出すのに時間がかかってしまった。約120人の出席者だったが、時間にもゆとりがあり、じっくりといろいろな友人たちと話ができた。それにしても、当たり前であるが、人の記憶というものは人それぞれであり、同じ経験をしているはずなのに覚えている人と覚えていない人がいる。自分には鮮明に残っている記憶が相手にないというのも意外な気がする。

 1人の友人と久しぶりに再会した。彼は実は中学校からの同級生であるが、高校時代は同じクラスになったことがない。特に同じクラブにいたこともないし、趣味が合うこともなく、会えば親しく話をするくらいである。会場でぽつんと立っているのを見かけて話しかけた。実はその時、名前を忘れてしまっていたが、幹事の心遣いでみんな名札をつけており、それで名前で話しかけることができた。いつ以来だろうと考え、「前回来ていたっけ?」と聞いたところ、「中学の集まり以来だね」と答えが返ってきた。

 そう言えば、中学の時の集まりがあって、それは2017年の事であった。つまり7年前である。衝撃的だったのが、その場に彼がいた事、彼が中学以来の同級生だったという事をすっかり忘れていた事である。彼はその集まりでの私との会話に言及してくれたが、私は狐につままれたように相槌を打つことしかできなかった。確かに彼はあまり社交的な性格ではなく、目立つ存在ではなかったが、それなりに好意を持って接してきたつもりである。なのにまったく私の記憶から抜け落ちていたのである。

 彼のことを蔑ろにするつもりはないし、これからも仲良くしていきたいと思っている。なぜ忘れてしまったのかと考えると、会えば話をするし、中学校以来の友人だし(忘れていたが)、しかし逆に言えば会わなければ思い出す事もない。人間の脳の記憶容量には限界があるだろうし、そんな脳が彼のことを忘れたのも当然かもしれない。申し訳ないなと思う気持ちが生じた。その他、声をかけてくれた何人かは名前も覚えていなかった(名札が大いに役に立った)。

 覚えていない言い訳としては、もともと一度も同じクラスになった事がなく、高校時代も話をした事があっただろうかと思うくらいであるが、向こうは私を覚えている。幾つかのエピソードを挙げて「まだやってるの?」と聞かれて内心面食らった。なぜ知っているのだろうか、と。相手は自分のことを覚えてくれているのにこちらにはその記憶がない。何だか不義理を働いているような気分になる。私が全校的な有名人であればそういう事もあるだろう。しかし、残念ながら謙遜するまでもなくそんな事はない。

 話をした中には、高校時代とはまるで人相が変わってしまった者もいる。あまりの別人化に話ていてもやっぱり狐につままれた気分だったが、記憶が残っていればそれを頼りに話ができる。話しかけてくれるという事は、ある程度好意を持ってくれているという事である。ありがたいと素直に思う。覚えていないのは、思い出さないからに他ならない。普段会わずに、思い出しもしなければ、脳だって記憶容量に限界がある以上、deleteするだろう。たまに思い出して記憶の維持をする事が必要なのかもしれない。

 好意を持って話しかけてくれた友人はやはり大事にしたいと思う。ただでさえ友人は少ないし(いたずらに数を増やしたいとも思わないが)、せめて自分に好意を持って話しかけてくれる同級生は友人として大事にしたいと思う。次の同期会は4年後の予定だが、その時は今回の事をしっかりと覚えておいて、自分から話しかけるようにしたいと思うのである・・・



【今週の読書】

孤闘 三浦瑠麗裁判1345日 - 西脇 亨輔  三体2 黒暗森林 上 (ハヤカワ文庫SF) - 劉 慈欣, 大森 望, 立原 透耶, 上原 かおり, 泊 功






2024年10月23日水曜日

投資かギャンブルか

 先日、採用活動でとある学生さんと話をした。大学では「なぜ日本人が投資下手なのか」について論文を書いているのだと言う。テーマとしてはベタなのではないかと思ったが、「そもそも金融教育が十分にされていない」とか、「額に汗して稼ぐことを良しとする文化」だとか、そんな意見があることを聞いた。あちこちで聞いたような話である。それはその通りなのだろう。お金にお金を稼がせるのを良しとしない。むしろ楽してお金を稼ごうとするのは罪悪のような感覚が日本人にはあるように思う。

 一方で、定期預金しかしていない人を小馬鹿にするような風潮もある。政府ももう十分な年金を支給できないと判断したのであろう、今やNISAだ何だと税制優遇して投資を煽っている。しかし、多くの人が投資などあまり考えた事もなく、せいぜいが銀行や証券会社に勧められるがまま投資信託を買ったりしているのが関の山のような気がする。私はと言えば、とりあえず今は株式投資をしている。過去に株の信用取引では大損をしたが、現物株投資では投資額はほぼ20倍くらいになっており、まずまずの成績である。

 銀行や証券会社の勧める投資信託は、「購入者にとって」いい商品ではなく、「売り手にとって」いい商品(すなわち儲かる商品)である事が多い。よくわからないまま銀行員や証券マンに勧められて元本保証なしの自己責任投資を行う事が、果たして投資なのだろうか。私の場合、配当(わずかだがちょっとしたお小遣いになる)と株主優待(ちょっとしたお得気分になれる)という点で定期預金よりはいいだろうと考えて現物株投資を行っているが、それで大成功している(今のところは)。

 ただ、短期売買を狙った株式投資では大失敗して大きな借金を負って大変な目にあった。短期で上がるかどうかに賭ける投資は、投資というよりほとんどギャンブルである。一方で有効な投資は、一方では危険なギャンブルでもある。銀行員時代、競馬好きな同僚がいた。毎週競馬場に行っていたが、馬券を買うのは1万円までと決めていた。それだと損をしても最大月4万円。独身者のお小遣いではちょっと贅沢な遊びのレベルである。そこには「ギャンブル」という危険なニオイはなかった。

 考えてみれば、言われるがままに訳のわからない投資信託を買うのと、「これが来る」と信じてお金を突っ込む競馬やパチンコとどこが違うのだろうか。私の株式投資は、成功した「投資」なのか、借金の山を作ってしまった「ギャンブル」なのか。やっている事は同じである。そう考えていくと、日本人に必要な金融教育とは、「何に投資するか」ではなく、「お金をどう投資するか」であるのだろうと思う。余裕資金の一部(しばらく使わなくてもいいお金)を「失っても困らない範囲で」行うという事ができれば何をやっても怖くはない。

 (将来のために)「貯めるお金」と、多少のリスクを取ってでも「増やすお金」とを区別し、限度を守って投資するなら、パチンコや競馬でも立派な投資と言えるように思う。日本でもカジノ建設をという話があるが、反対派の主張することは「ギャンブル依存症を増やす」という事のようである。昔からの博打もそうであるが、大きなお金を賭けさせて払えなければ借金を負わせて追い込むといった事が暴力団などによって行われていたが、「身の丈」にあった範囲内であれば問題は起こりようもない。

 考えてみれば、友達にお金を貸すのも他人の借金の保証人になるのも、みんな「身の丈」の範囲内であればまったく問題はない。身の丈を超えるから悲劇になるのである。日本人の投資下手を解消するなら、そういう「身の丈」教育がまずは必要であるように思う。あるものにお金を投入する際、それが「投資」なのか「ギャンブル」なのか。それは「対象」ではなく、「お金の使い方」の問題であると思うのである・・・


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【本日の読書】
講談で身につく ビジネスに役立つ話術の極意 - 神田山緑 三体2 黒暗森林 上 (ハヤカワ文庫SF) - 劉 慈欣, 大森 望, 立原 透耶, 上原 かおり, 泊 功




2024年10月20日日曜日

袴田事件雑感

袴田巌さん無罪確定へ 事件から58年 検察が控訴しない方針
2024年10月8日 22時03分 
58年前、静岡県で一家4人が殺害された事件の再審=やり直しの裁判で、袴田巌さんに無罪を言い渡した判決について、検察トップの検事総長は8日、控訴しないことを明らかにしました。これにより一度、死刑が確定した袴田さんの無罪が確定することになりました。
NHK WEB
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 袴田事件が起こったのは今から58年前。私が2歳の時であるから当時の事件の記憶などない。それにしても、無実の罪で逮捕され、死刑判決を受け、長い期間拘束されていた心境はいかばかりかと思う。事件の真相を知る者は、袴田さんご本人と真犯人しかいないわけで、それを第三者が犯行を認定していくというのは難しい事である。本人が素直に自供すればいいが、そうでなければきちんと証拠固めをして公開の法廷で犯行を認定していかないといけないわけである。証拠がなければ有罪にはできないのである。

 ニュースによれば、捜査機関がその証拠の捏造を行ったという。その真偽はわからないが、認定の通りだとすると、とんでもない事である。なぜ、証拠の捏造などという事を行なったのだろうか。悪意的に罪に陥れようとしたものではないだろうから、たぶん当時の捜査担当者の強い思い入れから行き過ぎた行為に走ったのだろう。すなわち、「犯人はこいつで間違いない」という強い思いと、「だから証拠を捏造しても構わないだろう」という考えだったのだろう。犯罪を犯したのは間違いないのだから、その罪を償わせるためには証拠の捏造もやむをえないと考えたのだろうと思う。

 日本の法律では証拠の捏造がダメなのは当然として、確かな証拠であったとしても違法に収集されたものだと裁判では使えないことになっている。そうでなければ人権侵害が起こるという過去の歴史の経験から決められたルールであるが、「正義であれば何をしてもいい」という考え方への否定である。それが捜査機関の足枷になることもあるのだろうが、そうしたルールを守ってもらわないと、ある日突然無実の罪に問われるなどという事が起こりかねないことになる。「刑事の勘」で犯人にされてはかなわない。

 当時捜査にあたった警察では、内部でどんなやり取りがあったのだろう。被害者の身近な人物の中では、確かに袴田さんに怪しいところはあったのだろう。「こいつに違いない」と思い込んだ人たちがいて、「なんとか自供させろ」という動きになったのだろう。そういう中で、ひょっとしたら他に犯人がいるかもしれないと疑った刑事もいたかもしれない。しかし、組織が「袴田犯人説」で動く中で、それに反した行動は取れなかったのかもしれない。ましてや起訴した後に真犯人を捜査するなどという自己否定的な行動は許されなかっただろう。

 事件は日々起こっているし、起訴してしまえば警察の役割も終わりであり、あとは起訴した以上なんとしてでも有罪にしなければならない検察が、死刑判決に満足して終わりである。後でいくら無罪を訴えても、素人に犯罪捜査は不可能だろうし、その結果長い法廷闘争となる。そしてその間、恐ろしい事に(警察の捜査は終了しているので)残虐な事件を起こした真犯人は捕まる心配もなく安堵して生活していたわけである。考えてみるになんともやり切れない思いがする。

 警察も当然、善意の下で行動していると思うが、本当に真犯人を逮捕するという大前提の下、「刑事の勘」などに頼ることなく、さまざまな可能性を考慮してしっかり捜査してほしいと思う。今はいろいろと「可視化」されて冤罪を防ぐ仕組みができているが、人間の考え方はなかなか変えられるものではない。硬直的な考え方で思い込み捜査をやられては、仕組みの裏をかく事を今度は考えるようになるだろう。「裁判で有罪にする」ためだけに尽力してほしくはないと思う。一方で、捜査の手足を縛れば犯人が逃げ延びる可能性は高くなるわけで、なかなか難しい事だと思う。

 「法でさばけない悪を退治する仕事人」が映画や漫画などで持て囃されるのは、ある意味厳格なルールで縛られた捜査の裏返しであるかもしれない。それはそれで我々市民にとっても、映画の関係者にとってもいいことかもしれない。幸い、これまで犯罪関係とは無縁の生活を送ってこられたが、これからも犯罪とは無縁に暮らしたいと、袴田さんに深く同情すると共に思うのである・・・

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【本日の読書】
世界をよくする現代思想入門 (ちくま新書) - 高田明典  逆説の日本史: 大正混迷編 南北朝正閏論とシーメンス事件の謎 (28) - 井沢 元彦






2024年10月16日水曜日

論語雑感 泰伯第八 (その10)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感
【原文】
子曰、好勇疾貧亂也。人而不仁、疾之已甚亂也。
【読み下し】
曰(いわ)く、勇(ゆう)を好(この)みて貧(ひん)を疾(にく)むは乱(らん)す。人(ひと)にして不(ふ)仁(じん)なる、之(これ)を疾(にく)むこと已甚(はなはだ)しきは乱(らん)す。
【訳】
先師がいわれた。「社会秩序の破壊は、勇を好んで貧に苦しむ者によってひきおこされがちなものである。しかしまた、道にはずれた人を憎み過ぎることによってひきおこされることも、忘れてはならない」

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 歴史好きの私が今現在買い続けているのが『逆説の日本史』シリーズである。これは著者が独自の観点から日本の歴史学者の「常識」にとらわれずに歴史を語っているもので、非常に面白い。おそらく歴史学者からは批判のあるところもあるのだろうが、私自身のモノの考え方や日本社会に対する見方に影響を受けているところもあり、今のところやめられずに読み続けている。最新刊は28巻『大正混迷編』で、サブタイトルにある通り大正時代の話であるが、その時代の影響として五・一五事件の事も少し語られる。

 五・一五事件は現役の海軍将校が時の総理大臣を射殺するという大事件だが、新聞に煽られた民衆が熱狂的に犯人の海軍将校を支持し、減刑(助命)歎願をその数100万通も寄せたという。それはのちの二・二六事件にもつながると思うが、背景には農村の貧困問題もあったようである。力で世の中を変えようとするのは実に乱暴であるが、農村の貧困というのはこの時代酷かったらしいから心情的にはわからなくもない。しかし、孔子の時代の話が昭和初期の日本にも当てはまる真実だったのかと思わなくもない。

 時の総理大臣を暗殺するというのは、過去の過激な時代の話ではなく、今もなお現存する危険であり、日本のみならずアメリカでも行われている(未遂も含めてではあるが)。それが個人の単独犯行であれば、捕らえられて終わりであるが、集団となるとそれこそ社会秩序の破壊にまで及ぶのだろう。先日観たNHKの『映像の世紀』という番組で、9.11のあとイスラム系の住民を射殺した白人の事を取り上げていたが、9.11テロに腹を立てた事による犯行であった。日本でもアメリカでも大きく変わらない。

 当然ではあるが、動機(道を外れた人を許しがたいと思う気持ち)は間違っていなくても、だからなんでもやっていいというわけではない。目的(道を外れた人を正す)を達成するためには当然、手段に制限がある。目的のために手段を選ばずという事は許されることではない。いくら正義があろうとも、「行き過ぎた正義感」は「過ぎたるは及ばざるが如し」である。それ自体がすでに道を外れてしまっている。そんな当然の事を得てして自らの正義感に酔う者にはわからなかったりする。

 今は実際に過激な犯罪に走る者はそうそういないだろうと思う。しかし、現代社会ではもっと軽度なケースは数多いと思う。それは不倫が発覚したり、不適切発言をした芸能人などを袋叩きにするところにそれを感じる。確かに不倫や不適切発言は好ましい事ではないが、だからと言って罵詈雑言を浴びせてもいいという事ではない。そこには「匿名」という気楽さがあるのかもしれないが、「行き過ぎた正義感」であることは間違いないだろう。当の本人がそれに気づいていない事も確かであろう。

 この「行き過ぎた正義感」は非常に厄介である。元が正義感である以上、それを否定する事はできない。ただし、それをどう表現するかにおいて、やってはいけない領域に入ることは許されないという当たり前のルールが守られなければならない。五・一五事件も二・二六事件もともに国を憂いた軍の将校が、原因となっている悪漢を排除しようとしたもので、その心情、正義感は否定すべきものではないが、だから「殺してしまえ」となれば、それは「行き過ぎ」なのである。

 さらに「正義」も人によって違っていたりする。同じ目的であったとしても、そこに至る優先順位が違うことはざらにあり、何を優先するかによって正義が異なるかもしれない。そんな人によって異なる正義を絶対として振り回されてはかなわない。古くは学生運動などもそうだし、「熱狂的な正義感」が社会に混乱をもたらし、最後は単なるテロ行為になっていった。現代社会で起こっている戦争もそれぞれの正義の対立の結果である。正義とはそういうものであり、それを忘れると行き過ぎれば犯罪になり、社会秩序の崩壊につながるのであろう。

 いつも思うのだが、孔子の時代から変わっていない真理は多い。論語を読むたびにそう思うことしばしばであるが、これもまたそんな一つであると思うのである・・・


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【本日の読書】


世界をよくする現代思想入門 (ちくま新書) - 高田明典 逆説の日本史: 大正混迷編 南北朝正閏論とシーメンス事件の謎 (28) - 井沢 元彦

2024年10月13日日曜日

叔父の葬儀

 父方の叔父が亡くなった。昨年、長男の伯父が亡くなったばかりだが、今度は三男の叔父が父よりも早くこの世を去った。人間も生物であるので時間がくれば自動的にというわけにはいかない。叔父の方が父よりもずっと早くに認知症になり、そして先に行ったのである。父も自分よりも早いとは、と呟いていた。もともとそれほど交流が密だったわけではなく、認知症になったと聞いていた事もあり、最近はずっと会っていなかった。私の弟と確認したら、最近というより、叔父とは30年くらい会っていなかったかもしれない。

 通夜に行き、棺の中で眠る叔父の顔を見たが、昔の面影はまったくなく、「これ誰なのか」と思うくらい変わっていた。しかし、数年会っていなかった伯父でさえ本人とわからないくらい変わっていたので、30年くらい会っていなかった叔父が別人のごとく変わっていたのも不思議ではない。叔父は私の父よりも背が高く、昔からカメラが趣味で、いつもカメラを手にしていた印象がある。それは8ミリカメラにも及び、まだ私が子供の頃、部屋を暗くして映写会を開いてくれたのを覚えている。

 当時は8ミリカメラは珍しく、カタカタという音とともにスクリーンに白黒の動画が映し出される。今ではスマホで簡単に撮れる動画が、撮るのも見るのも手間をかけないといけなかったが、叔父が得意気に解説しながら撮影した動画を見せてくれたのを覚えている。通夜の会食の場でそんな思い出話をしていたが、たまたま会話の流れで叔母が叔父とは8歳違いだと初めて知った。よく会っていたのは小学生から中学生の頃で、数えてみるとその頃叔母は30歳前後だったとわかる。記憶の中の叔母はとてもそんなに若く見えず、本人には言えないが、密かに衝撃を受けたのである。

 その叔母が一枚の写真を見せてくれた。それは叔父と2人でマイク片手に歌っている姿。叔父はカラオケが大好きだったという事で、よく叔母と歌いに行っていたらしい。記憶の中にある叔父よりも髪の毛が後退し、それ相応に歳を取っていた。記憶の中の叔父と棺の中の叔父とを結ぶ姿であり、なるほどと思わせてくれた。改めて写真はその時々を捉えて残す貴重なものなのだと思わされた。父方の親戚付き合いは母方に比べると密度が薄い。頻繁にとは言わなくても、年に一度くらいは挨拶を交わす関係であってもよかったかもしれない。

 しかし、実は父は叔父についてあまりいい話はしない。どうも2歳年上の父を批判する言動をしばしばしていたらしい。それが父には面白くなく、「あいつは俺を馬鹿にしている」としばしこぼしていた。客観的に見れば、2歳しか歳の離れていない兄弟である。弟として兄に対抗心を持っていたのかもしれない。晩年は認知症になり、施設に入っていた事もあって、遺族は身内だけの家族葬を選択。本格的な葬儀ともなれば遺族の負担も大きく、それはそれでいいのではないかと思う。

 叔父の骨を拾って葬儀は終わった。こっそり従姉妹に聞いたところ墓はまだ決まっていないという。東京ではなかなか悩ましいところである。一人娘の従姉妹には子供はなく、墓を決めたところでそこもいずれ苔むす事になりそうである。諸行無常。叔父の墓がどうなるのかはわからないが、同じ祖父の血を引く者同士として、改めて従姉妹とはもう少し連絡を取り合っていきたいと思うのである・・・


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【本日の読書】
ただしさに殺されないために~声なき者への社会論 - 御田寺圭  逆説の日本史: 大正混迷編 南北朝正閏論とシーメンス事件の謎 (28) - 井沢 元彦






2024年10月9日水曜日

「仕事」と書いて「もんだい」と読む

 仕事をしていると日々問題がいろいろと発生する。今、目先で発生している問題としては、  
 新人が会社に来なくなってしまった
 一部プロジェクトが高稼働となり、社員が疲弊して悲鳴を上げている
 休職社員が複数発生し、きめ細かい対応が必要 
 売上は計画通りだが、利益が計画を大きく下回って赤字寸前 
 新卒・中途採用苦戦
というのがあり、また、恒常的に
 中堅社員(プロジェクトリーダー人材)の不足
 管理職不足人材育成困難
という問題を抱えている。こういう中で長期的なビジョンを掲げ、社員のエンゲージメントを高め、売上を上げて利益を出していくという問題がある。

 それ以外にも細かい問題は日々発生しており、その都度対応の手間を取られている。さながらそれはモグラたたきのようであるが、叩いても叩いてもモグラは次々と顔を出す。顔を出してくるならその都度叩けばいいわけであり、七転び八起きではないが、顔を出した分はすべて叩ききってしまえばいい。そういう精神でやっている。しかし、日々やる事は問題ばかりではなく、むしろ問題以外の仕事は仕事であるわけである。それをこなしながらというのが大変なところである。

 以前は、こうした状況に「なぜこんなに問題ばかりが起きるのか」と嘆きが入っていたのであるが、嘆いていても始まらないし、1担当者の時代から社内での役割が上がるにつれて問題は増えていく。今は取締役という立場上、社内の問題は「担当外」として見て見ぬふりをするわけにはいかなくなっている。現場で問題が起こっていて、それが耳に入った場合、担当者なり管理職なりが対応に当たるとして、それが適切にできるかどうかは気にしていないといけない。困っていそうであれば手を差し伸べなければならない。そうなるとそれはもう「自分の担当する問題」となる。

 問題はこうして増えていく。それを嘆いていても仕方ない。逃げられないものであれば正面から向き合うしかない。何事もそうであるが、意識の違いは大きい。問題を嘆いてもなくならないし、ストレスは溜まるし、いい事はない。普段の自分の仕事に加わる「厄介事」は精神的にも重くのしかかってくる。しかし、考え方をかえて、「問題を解決するのが自分の仕事」と捉えると、問題が生じるのは店頭にお客さんがくるのと同じで、それで商売が成り立つと考えれば愚痴も出てくる余地はない。

 人気のラーメン店は開店と同時に長蛇の列で、それが閉店まで続く。それを嘆く事は(少なくともオーナーの立場であれば)あり得ないわけで、むしろホクホク顔で笑いが止まらないだろう。「問題解決担当」と考えれば、社内でも頼られる存在になるし、自分の存在価値になる。社内で存在感を確保するという事は極めて重要であり、おかげで世間では定年退職年齢にあるにもかかわらず、給与もそのままで定年とは無縁で仕事ができる立場になっている。問題こそが自分を支えてくれているとさえ思えば愚痴も出てこない。

 最近は、「仕事と書いてもんだいと読む」は社内でも使われるようになってきている。いい事だと思う。何事も気の持ちようであると思うが、正面から向き合う事でメンタルのダメージも軽減される。管理職が対応すべき問題でも「何かあれば声をかけて」と言っておけば管理職の心の負担も軽減されるし、自分の存在価値も上がる。考えてみれば、仕事で生じる問題は人気ラーメン店の店頭に並ぶ長蛇の列であるかもしれない。そう考えれば、問題も悪いものではない。

 何事も気の持ちようだとすれば、問題もそんな風に考えて受け止めたいと思うのである・・・


【本日の読書】

言語の本質 ことばはどう生まれ、進化したか (中公新書) - 今井むつみ, 秋田喜美  逆説の日本史: 大正混迷編 南北朝正閏論とシーメンス事件の謎 (28) - 井沢 元彦





2024年10月7日月曜日

隠れた事情

 Netflixのドラマ『極悪女王』が面白い。何でもそうだが、知られざる舞台裏を知るというのはまったくもって興味深いものである。ドラマは一時代を席巻した女子プロレスのヒールであったダンプ松本を主人公にしたものであるが、デビュー前は気の優しい女の子で、後にライバルとして熾烈な争いを展開する長与千種とは同期入門で、互いに恵まれない家庭環境の中から女子プロ入りし、共に励まし合いながら新人時代を過ごす。後の対決からはまったく想像のできないものであった。

 もちろん、対決というのはあくまでもリングの上だけでの話はわかっているが、2人の新人時代のエピソードは心温まるものがある。かくして物事は外側だけ見ていてもわからないものだという事がわかる。おかしいと思う事であってもその裏側には外側からは窺い知れない事情があったりするものである。裏側の事情を知らないのは仕方ないとしても、外側の事情だけをもって一方的に人を批判するのは避けた方がいいと改めて思う。

 一方、これとは対照的に自分の見えている事実がすべてという人たちがいる。ある程度は致し方ないのであるが、世界は自分が見えているところだけで成り立っているわけではない。「視野が狭い」という言い方もあるが、物事の裏側を想像してみるという事ができる人とできない人がいる。人間は神様ではないので、見えていない部分を見ることはできない。ただ想像してみる事はできる。

 今日、父の弟である叔父が亡くなったと従姉妹から私に連絡があった。いつものように週末に実家に帰っていたところだったので、私は両親にそれを告げた。両親ともに突然の訃報に驚いていたが、母は自分のところでなくなぜ私のところに連絡が来るのだと文句を言い出した。「筋が違う」と言いたいのかもしれない。しかし、相手の事情を想像してみれば、叔母も高齢だし、動揺しているかもしれない。その中で一人娘の従姉妹が悲しみの中で手続きに奮闘していたのだろうと想像できる。

 昼に亡くなったにも関わらず、夜には通夜と告別式の日程が送られてきた。葬儀屋が手際よく手配したのであろうが、遺族もゆっくり悲しんではいられない。そんな中で、中心になって仕切ったのは従姉妹だろうし、我が母の言う「筋を通して」我が父か母に電話するなどというゆとりもなく、手っ取り早くLINEで連絡が取れる私に連絡してきたのだろうと想像できる。

 母にしてみれば自分たちが後回しにされた事が面白くないのかもしれないが、例えそうだとしても「寛容」の精神があれば流せる話であるし、私のように相手の事情を想像してみれば何も気にならないと思う。それはいろいろな場面で当てはまるように思う。仕事でも同様で、「なぜこんな事をしたのか」と怒り半分、あきれる事半分の時があるが、じっとこらえてよくよく事情を聞くとその人なりに考えていたのだとわかったりする。それは考えが足りないとしても、ただ腹を立てるのではなく、まだまだだと思って根気よく教え諭して指導するしかない。

 ドラマはこれから後半戦。世の中では「一気見」などする人も多いようだが、私はあえてじっくり1話1話楽しんで観ていくタイプである。他にも観ているものはあるし、1週間で1話くらいのペースだろうか。もともと女子プロには興味などなかったが、それでも極悪同盟の存在は知らず知らずのうちに視野に入ってきていたし、チラ見もしていたりした。それだけの人気だったという事であるが、出演陣の熱演も凄いし、時間をかけてゆっくり楽しみたいと思う。

 それにしても『サンクチュアリ』もかなり面白かったし、Netflixのドラマはこれからも要注目であると思うのである・・・

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【本日の読書】
言語の本質 ことばはどう生まれ、進化したか (中公新書) - 今井むつみ, 秋田喜美  逆説の日本史: 大正混迷編 南北朝正閏論とシーメンス事件の謎 (28) - 井沢 元彦





2024年10月2日水曜日

論語雑感 泰伯第八 (その9)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感
【原文】
子曰、民可使由之。不可使知之。
【読み下し】
子(し)曰(いわ)く、民(たみ)は之(これ)に由(よ)らしむ可(べ)し。之(これ)を知(し)らしむ可(べ)からず。
【訳】
先師がいわれた。「民衆というものは、範を示してそれによらせることはできるが、道理を示してそれを理解させることはむずかしいものだ」
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 コロナ禍以来、社会にテレワークが浸透している。我が社も例外ではなく、テレワーク社員がいる。しかし、テレワークに伴ってコミュニケーション不足の問題も生じており、我が社では先日、「新入社員にはテレワークをさせず、出社して教育しながら仕事をさせよう」という事になった。役員会での正式決定である。そういう大方針が決まれば、あとは個々の社員についてうまくやるだけとなる。当然、それに伴って問題は生じるのかもしれないが、それは言ってみれば「小問題」であって、根本方針を変えなければならないような「大問題」ではない。

 ところが、いざ現場に方針を示達すると、まず管理職から疑問が呈された。「〇〇の場合はどうするのか?」といった類の問題である。新入社員に出社させるとしても1人だけ出社させても意味はない。上司なり先輩なりも出社して指導する必要がある。さらに対象を2〜3年目の若手に拡大させようとなったら、「在宅勤務の者を出社させるにあたって生じる問題」が出てきた。それらの問題を列挙しつつ、疑問を呈してくる。そこでその管理職に「若手に在宅勤務をさせる事に反対の理由を述べよ」と告げたところ、「反対ではない」と言う。むしろ賛成だと。

 その答えを聞いて何とも脱力感に見舞われてしまった。基本的な大方針に反対でないならあとは実行のみである。現場を預かる管理職であれば、現場で生じる細々とした「小問題」については自力で解決すべきである。少なくとも私はそう考えるし、そう考えてきた。それが自分の裁量であり、自分の責任で決定、解決できる範囲である。一々上司にお伺いを立てるとなると、それは自分の決定権を放棄する事になり、そんな状況で仕事をしても面白くないだろうと思う。仕事は自己決定権の範囲が大きいほど面白いものである。

 私はもともと自立心が強かったためか、自己決定権をとにかく広げたいと思う方であった。だから推進すべき大方針が決まったならば、それに沿って進む中で生じる小問題は自分で決定、解決するのが当然だと思うし、そのくらいの裁量すらもらえないのであればやる気も出ないタイプである。なので件の管理職の問題提起には唖然とさせられたのである。もちろん、人によって考え方は異なるであろうが、管理職であれば小問題は自分の裁量で解決してもらいたいと思わざるを得ない。

 一つ一つ「この場合はこうせよ」と範を示して教える事は可能であるが、忙しい中ではそのくらいは権限移譲してやってもらいたいと思う。範を示すことは可能であるが、「考え方」を理解してもらいたいと思わざるを得ない。「考え方」はなかなか指導が難しい。まさに先師の言われる通りである。確かに範を示してもらえれば、理解は早い。スポーツの世界でもそれは顕著である。お手本となる人が目の前でプレーを見せてくれると、理解も早い(それを上手に真似できるかという問題はあるが・・・)。

 私も10年ほど前にラグビーを再開させた時、若い頃やっていたフォワードからバックスへとポジションを転向した。今も日々是改善である。チームにはコーチがいるわけでもなく、自分でスキルを身につけないといけない。ワールドカップや国内の一流チームの試合を観ては参考にしているが、難しいのは表面的に真似しても根本的な考えが理解できていた方が応用がきくというところである。ちょっとしたプレーであればコツがわかれば何とかなるが、大局的な考え方が理解できていると判断も早くなっていいのにと思う(なかなか難しい)。

 道理が理解できれば自分で判断できるようになる。一々「ここはこうする」と教えなくてもできるようになる。いわゆる阿吽の呼吸というのもこれにあたると思う。同じ役員間でも、共通の考え方ができている役員とは話も早い。まず目指すべきは考え方(=道理)の理解というところであるのは、現代でも変わらぬ真理なのかもしれない。先の管理職については、考え方の理解に及ぶまで根気強く範を示さないといけないのかもしれない。それならそれで、根気強くやりたいと思うのである・・・


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【本日の読書】
言語の本質 ことばはどう生まれ、進化したか (中公新書) - 今井むつみ, 秋田喜美  逆説の日本史: 大正混迷編 南北朝正閏論とシーメンス事件の謎 (28) - 井沢 元彦






2024年9月29日日曜日

相手の視点

イェール大学集中講義 思考の穴──わかっていても間違える全人類のための思考法 - アン・ウーキョン, 花塚 恵 先日、『イェール大学集中講義 思考の穴──わかっていても間違える全人類のための思考法』という本を読んだ。著者はイェール大学の心理学の教授。もともと心理学には興味を持っており、この手の本は迷わず読むのであるが、人間の持っている様々なバイアスに焦点を当て、よくある人間の行動を理論的に解説してくれるなかなか面白い本であった。自分のことを平均より上だと思ってしまう「流暢性効果」とか、自分が正しいと思う証拠ばかり集めてしまう「確証バイアス」など、「なるほど」と思ってしまうものばかりであった。

 その中でも私の目を引いたのが、「自己中心性バイアス」というもの。これは自分の持っている情報で考えてしまうというもので、人は全然相手の視点から考えないというものである。読んで真っ先に頭に浮かんだのは母親である。毎週末に実家に通って年老いた母の衰えた家事を手伝っているのだが、同時によく話も聞くようにしている。最近、繰り返し話すのは(年寄りの常で同じ話を何度もするのである)義妹の「許せない態度」である。弟の誘いで弟の家に行ったそうであるが、看護師をしている義妹は夜勤明けとかで寝ていて顔を出さなかったというのである。

 それは母の常識ではあり得ないことで、「義母がわざわざ来ているのに寝ているというのは何事か」と言うのである。それだけを聞くとその通りだと思うが、それこそまさに一面的な見方だと私は思うのである。夜勤明けで帰宅したら寝たいと思うのは普通の事。もしかしたらその次の夜も夜勤のシフトが入っていたのかもしれない。そうなれば睡眠を確保するというのは当然であり、むしろそういう時には誰にも来てほしくないと思うだろう。弟が夫婦でどんな会話をしたのかは知らない。弟は自分の都合で考えるから、「それなら寝ていていい」と言って強引に母を連れて行ったのかもしれない。

 義妹もそれならと寝ていたのかもしれない。そんな状況を想像すれば、私なら寝ていて顔を出さなくても気にしないし、むしろそんな時に訪問してしまった事を後でLINEでもして謝るかもしれない。しかし、母は自分の常識で義妹の態度を批判する。おそらく近所でも吹聴しているかもしれない。我が母であるが、私の妻とは嫁姑の冷戦を通り越してすでに「国交断絶状態」であり、義妹との関係もいいとは言えないだろう。その原因は明らかであり、もしも私だったら2人の息子の嫁と仲の良い嫁姑になっていただろう。それはこの本で言う「相手の視点から考える」という一言に尽きると思う。

 以前からもそういう事はしばしばあった。私は子供の頃、母親から「相手の気持ちになって考えなさい」と叱られた事を覚えている。「そんなのわかるわけがない」と子供の私は反論していたが、わからなくても想像はできる。そして私を叱った母は、そんな事はすっかり忘れて相手の気持ちなどまったく斟酌しない。嫁姑の争いは女の不寛容のなせる技であると思うが、その不寛容は「自己中心性バイアス」の賜物なのだろろうと思う。「相手には相手の都合がある、考えがある」と想像する事で、自分の感情を害することなく寛容になれる。もう年老いた母には無理であるが、自分はそういう寛容の精神を身につけたいと思う。

 考えてみれば、みんながみんな「自己中心性バイアス」から抜け出し、寛容の精神を身につけたなら、嫁姑の争いを始めとしてこの世からかなりの争いは無くなるのではないかと思う。しかしながら、妻を見ているとそう簡単にはいかないのだろうなと思わざるを得ない。わかってはいても、手も足も出ない。考えれば考えるほどそんなもどかしさを改めて感じざるを得ない。つくづく、難しいものだと思うのである・・・

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【本日の読書】
言語の本質 ことばはどう生まれ、進化したか (中公新書) - 今井むつみ, 秋田喜美  逆説の日本史: 大正混迷編 南北朝正閏論とシーメンス事件の謎 (28) - 井沢 元彦




2024年9月27日金曜日

女性の美

 その昔、3㎏も痩せるほど恋煩いをした経験がある。誰にでもある経験かもしれないが、相手の女性の事を思うと胸が焦がれ、食事も仕事も手につかない状況であった。そんな中にあって、私の中のもう一人の冷静な自分が問うてきた。「果たしてお前は彼女のどこがそんなにいいのだ」と。顔か体か性格か。またはそのすべてか。顔は確かに美人であった。体型は標準、性格は穏やかで優しい。そしてさらに問われた。「顔が変わっても思いは変わらないか?」。「体型は?」「性格は?」。いろいろと考えてみて、やっぱり「トータルだろう」とその時は思ったのである。

 最近、二つの恋愛映画を観た。『君への誓い』と『ビューティー・インサイド』である。『君への誓い』は実話を基にした映画で、事故で夫の記憶を失ってしまった新婚女性の話であり、『ビューティー・インサイド』は毎朝起きるたびに外見が別人に代わってしまう男のファンタジーロマンスである。いつもそうだが、映画を観るたびに自分と重ね合わせて観るのが私の常である。この時もこの2本の映画を観ながら自分に置き換えていた。果たして自分は相手の記憶を失っても、もう一度同じように相手に恋をするだろうか、相手の外見が変わっても同じように好きになるだろうかと。

 恋煩いをするほど恋した女性については、たとえ記憶を失っても何度でも好きになっただろう。それは外見も性格も私の好みに適していたからであり、どういうタイミングで出会っても同じように恋に落ちていただろうと思う。映画では現在の夫の記憶がないのに結婚前に付き合っていた男の記憶は残っていた。しかも別れた記憶はない。こういうパターンはなかなか危ない。どちらも自分が惹かれる要素を持っているわけであり、映画のストーリーもその点で波乱がある。まぁ、私など記憶があってもかつての思いは残っており、きっかけがあれば簡単に再燃すると思うが・・・

 それよりも「外見が変わっても同じように相手を愛せるか」というのはどうだろうかと思う。私も先の彼女が映画みたいにおじさんの姿で現れたらどうするだろう。最初は戸惑うだろうが、中身が彼女だと確信できたなら外見に関わらず同じように接するだろうと思う。彼女の穏やかな性格がそのままなのであれば話をしていても楽しいだろう。さすがに手をつないで歩くのは世間体もあって憚られるが、ずっと一緒にいて話をしていたいと思うに違いない。そう考えれば、外見だけで惹かれていたわけではないと改めて思う。

 しかし、では中身だけが大事で外見はどうでもいいのかと言うと、どうだろうか。映画のようにおじさんとなれば別であるが、女性であればたぶん気にならないと思う。ただ、最初は外見から入ったのは事実であり、初めから違う外見であれば惹かれるまで接することはなかったかもしれない。たとえば同じ職場で毎日顔を合わせ、意識せずとも話をしていくうちにだんだん中身に惹かれていくというのならあると思うが、そうでなければ中身に気付くところまでは行かないかもしれない。そういう意味では、外見も大事である。

 逆に外見に惹かれても、話していくうちにこれは違うというパターンもかなりある。百田尚樹の小説『モンスター』は、絶世の不美人である主人公が整形手術によって超美人に変わる話であった。中身は同じなのに周囲の対応が180度変わる。小説とは言え、実際も「美人は得」なのは事実だろう。ただ、恋愛対象となると、「それだけでは」と私は思う。やはり「愛とは、お互いに見つめ合うことではなく、一緒に同じ方向を見つめることである」(サン=テグジュペリ)であり、同じ方向を見つめる中身も重要であろうと思う。

 若い頃と現在とでは私自身の考え方も変化してきているところがある。人生経験を積んできて、結婚して「現実」に気付き、そういう経験を経て今の考え方に至っている。人間は年を取る。美しい女性も老いれば美しさを失う。しかし、人間の中身は変わらない。逆に言えば中身の美しさが外に現れてくると言えるのかもしれない。彼女もそういう意味で今も美しいと思う。映画のようにハッピーエンドにはならなかったが、自分も益々内面に磨きをかけたいと思うのである・・・

Công Đức NguyễnによるPixabayからの画像

【本日の読書】
言語の本質 ことばはどう生まれ、進化したか (中公新書) - 今井むつみ, 秋田喜美 逆説の日本史: 大正混迷編 南北朝正閏論とシーメンス事件の謎 (28) - 井沢 元彦