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ちょうど30歳になった頃だったが、銀行で中堅行員のための短期集中研修に参加したのだが、その時一緒に参加していた1年上の先輩が研修を終えるとともに退職した。なんでもアメリカに行ってMBAを取るという事であった。当時、アメリカでMBAを取得する事は「稼げるサラリーマン」への登竜門的なところがあった。いろいろと考えている人は要領よく準備してタイミングを図り、銀行の募集に応募していた。
私もできる事ならチャレンジしたいと思っていたが、のんびりしていたところもあり、しかもそれはなかなか競争率も高いもので、タイミング(転勤直後などは認められない)もあって私はとうとう行けずじまいであった。高額な費用がかかる事から、自費で行くのは無理であり、行くとしたら銀行の制度を利用するしかなかった。その先輩は自費で行くとの事で、実家が裕福だと聞いていたので、私は羨ましく思いつつ見送った。
その先輩がその後どうしたのかは知らない。ただ、普通に真面目に勤めているだけではダメだという考えは、当時の身の回りにはあったのである。MBAを取ったから稼げるというわけではないだろうが、普通にやっていてはダメというのも確かであろう。稼ぐためには「何か」をしなければならないものであり、そしてそれはたいてい「勉強」を意味すると思う。もちろん、「営業で全国1位」などの実績も有用だろうが、そういう地位にいない人にとっては「勉強」だろう。
中にはそういう野心はなく、ただ趣味のために勉強する人もいるだろう。私の甥も何やら随分資格を取得してマニアのようになっていると聞く(ただそれは「何かの役に立つだろう」というやっぱり野心からのようである)。資格も取ったからといってすぐに評価されるというものでもないだろう。しかし、社会人になって、忙しい合間に趣味の時間を削って勉強するというのは、たいてい「将来のため」という目的があるからだろう。資格もないよりあった方がいいのは当然である。
我が社でも若手には資格を取れと言っている。特定の国家資格には奨励金も出している。それは、資格そのものよりもその過程で勉強し、努力するスタンスを身につけてほしいと思うところがあるからで、そのスタンスほどSEとしての技術向上に役に立つもの(=会社にも有益)だからである。逆に趣味で勉強していて「給料には興味ない」と言われてしまうと物足りなさを感じてしまう。「もっとたくさん給料が欲しい」という思いこそ、能力向上の原動力のように思う。
「もっとたくさん給料が欲しい」というのは、人の自然な感情であると思う。それによって家族によりいい暮らしをさせられるし、自分の望みも叶えられる。そしてそのために人は頑張って働こうと思う。逆にそうやって頑張ろうという人は何より「信頼できる」と思ってしまう。「給料(俸禄)に興味がない」という人に対しては、いざとなったら簡単に仕事を放り出して辞めてしまうのではという疑心がどこかに生じる。
私の前職の社長は、会社を上場させた金持ちの父親の下に生まれ育ち、父親の庇護の下、30代で上場会社の役員になっていたが、経営というものをまったく学んでこなかった人であった。その必要もなかったのであろう。それが事情があって父親とともに会社を出て、中小企業の経営者に座らせてもらってからそれが露呈。私が入った時は、会社はかなり傾いていた。それを私が6年で立て直したところで、社長は会社を売却し、わずかな退職金で全社員を解雇し、売ったお金は独り占めした。欲望だけで学ばぬ人間の姿だと思う。
孔子の生きていた時代とも環境とも違うので、単純に孔子の言葉を否定するつもりはないが、俸禄に興味があり過ぎてもなくてもどちらもダメなように思う。人間は目的があってこそ頑張るものであり、会社というところは何より俸禄をもらうところである。ゆえにそのために学ぼうとする人間こそ信頼できると私は思うのである・・・
【本日の読書】
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