2024年11月30日土曜日

論語雑感 泰伯第八 (その13)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感
【原文】
子曰、篤信好學、守死善道。危邦不入、亂邦不居。天下有道則見、無道則隱。邦有道、貧且賤焉、恥也。邦無道、富且貴焉、恥也。
【読み下し】
曰(いわ)く、篤(あつ)く信(しん)じて学(がく)を好(この)み、死(し)を守(まも)りて道(みち)を善(よ)くす。危(き)邦(ほう)には入(い)らず、乱邦(らんぼう)には居(お)らず。天(てん)下(か)道(みち)有(あ)れば則(すなわ)ち見(あらわ)れ、道(みち)無(な)ければ則(すなわ)ち隠(かく)る。邦(くに)に道(みち)有(あ)るに、貧(まず)しく且(か)つ賤(いや)しきは、恥(はじ)なり。邦(くに)に道(みち)無(な)きに、富(と)み且(か)つ貴(たっと)きは、恥(はじ)なり。
【訳】
先師がいわれた。「篤く信じて学問を愛せよ。生死をかけて道を育てよ。乱れるきざしのある国にははいらぬがよい。すでに乱れた国にはとどまらぬがよい。天下に道が行われている時には、出でて働け。道がすたれている時には、退いて身を守れ。国に道が行われていて、貧賤であるのは恥だ。国に道が行われないで、富貴であるのも恥だ」
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道とは何であろうか。ここでは「人の道」という意味であろうか。人の道とは何であろうか。それはおよそ人間社会で他人と関わり合って生きて行く上で守るべき倫理的なものという感じがする。人はみな我が身大事だと思う。まず自分の幸せがあって、それから他人の幸せという順序だろう。我が身の中には家族も含まれる。唯一、我が身より優先するのは家族かもしれない。

そんな中にあって、それでも自分より他人を優先する事、時として自らの欲望よりも他人に対する思いやりを発揮する事が望ましいであろうが、そう理想通りにできるかは難しい事だと思う。自分はそんな理想通りの行動がその時になってできるだろうかと考えてみる。そんな機会は3年半前に突然前職を失職した時に訪れた。社長が会社をM&Aで突如売却し、役職員全員に首が宣告されたのである。青天の霹靂とはまさにこの事。退職金は1人一律50万円。社長は会社を売却し、億の資金を手にし、悠然とリタイアした。

とりあえず、知り合いの会社(一応上場企業だ)に職の斡旋をしてくれたが、勤務条件は一人一人の交渉で給与の補償はなかった。そこに就職した社員もいたが、中には大幅な減収となった者もいた。私もその1人であった(副社長としてそこそこの報酬をもらっていたからである)。自分の事もさることながら社員も途方にくれる者もいたので、そちらのケアもやらないといけなかった。当然、このやり方に副社長として異議を唱えた。この事態に、M&Aを仲介した日本M&Aセンターの担当者は厄介な事になるのを防ぐため、私を懐柔しにかかってきた。曰く、「みんなをうまく取りまとめてくれたら退職金を上乗せする」と。

日本M&Aセンターの担当者としては、何とかこの取引をまとめたかったのだろう。成果報酬もかかっていたようである。億単位の取引であり、成果報酬もそこそこ大きかったのであろう。私はと言えば、退職金50万円など冗談ではないと思っていた(他の役職員も皆そう思っていた)。何せ赤字会社に入社して、社長がこしらえた億を超える赤字を一掃するべく戦略を考えたのはこの私だし、実行したのは社員である。社長が社員を食わせていたのなら仕方ないが、社長を食わせていたのは我々である。

そういう状況であるにも関わらず、用済みでポイと言うのは腹立たしい。しかし、私には他のみんなを出し抜いて1人みんなより多く退職金をもらおうという考えは起こらなかった。子供もまだ学生であり、住宅ローンも残っている身で次の仕事も探さないといけないし、内心の動揺は激しかったが、自分の事だけ考えるというわけにもいくまい。日本M&Aセンターの担当者の提案はその場で断り、対抗策を考えた。1人抜け駆けするよりも、何とか一矢報いようと作戦を考えたのである。

結局、子会社を合法的にいただく事で、みんなと共にそれなりの退職金相当額を確保した。みんなには感謝された。おそらく抜け駆けするよりも多くのお金を手にできたし、みんなとの良好な関係も維持できて、その後も集まって飲みに行ったりしている。今振り返ってみても、先行きの不安が大きい中で、自分の事だけを考える事はせず、みんなの事も考えて私なりに人の道を外れないように良くできたなと思う。

億の金を手にして悠々自適のリタイアをした元社長は、金の苦労をせずに正直言って羨ましく思う。「道が行われないで、富貴であるのも恥だ」と言っても、所詮負け犬の遠吠えであろう。「道がすたれている時には、退いて身を守れ」と言うが、「攻めて身を守った」と言えるのではないかと思う。人はどこかで理屈をつけて自分を納得させないと心に傷を負うものである。さしずめ「道を守った」という事で、自分を納得させたいと思うのである・・・

Pete LinforthによるPixabayからの画像

【本日の読書】
「食」が動かした人類250万年史 (PHP新書) - 新谷 隆史  砂漠と異人たち/宇野常寛(著者)





2024年11月24日日曜日

主体性を持って働く

会社で話をしている中で最近目につくのは「主体性」である。すなわち、「自分から動こう」という姿勢である。会社に務めるという事は、そこで求められる仕事をするという事であり、必然的に「言われた事をやる」という事になる。「指示命令」に従うという原則の中で仕事をする事を求められるわけであるから、それがサラリーマンの基本的な働き方である。それはそれで当然というところはあるが、それが高じて「言われた事しかやらない」という事になったりする。指示する立場としては忸怩たる思いがするところである。

しかし、そんな中にあっても、言われた事をただやるのではなく、自分なりに創意工夫をしてみたり、あるいは別のもっといい方法を提案したりという形で、「自分から動く」という事も当然できる。私などは高校生の時に「サラリーマンにはなりたくない」と公言していたが、それは「サラリーマン」=「言われた事をやるだけの人」というイメージがあったからであり、今ではそれが間違ったイメージであった事がわかっている。サラリーマンであっても、「言われた事をやるだけ」ではないのである。

もともと「言われた事をただやる」という事に反発心を持っていたから、銀行に入ってからも常に自分なりのアレンジを考えていた。一番いいやり方を自分なりに考え、それと異なる指示が上司から来れば、自ら改善提案をしていた。そんな性分だったから、今でも「言われた事しかやらない」というスタンスの人には違和感を抱く。しかし、これが実に心地良いのであろう。見事に「指示待ち人間」に徹している人は社内にもいる。「言われなくてもやってくれよ」と心の中で溜息をつく。

それは何も下の人間に限ったことではなく、管理職の中でもそういう言動が目につく。さすがに「指示待ち族」とは言わないが、「会社が・・・」とか、「会社のルールだから」とか言って部下から上がってきた問題を簡単に封殺してしまう。確かにルールは理由があって決められている。しかし、それは絶対ではない。時代の流れや環境の変化の中でルールも変えていかないといけない事がある。そうした時に、せめて管理職レベルの者であるならば、そこで立ち止まって考えて欲しいと思うのである。

場合によっては会社のルールを変えるべき時なのかもしれない。そうしたらそういう声を上げて議論して欲しいのである。しかし、「会社のルールだから」とそこで思考停止してしまい、現場の問題を封印してしまう。問題提起した部下は、「言っても無駄」と思ってそこで終わってしまう。内容によっては、ルールにも変えない方がいい理由があって、結果的には変えられないで終わるものもあるが、それはその理由をしっかり説明すれば部下も納得するだろう。別のやり方を考えるかもしれない。

せめて管理職くらいの者であれば、主体的にものを考え、変えるべきものは柔軟に変えていこうという発想力は持って欲しいと思う。「会社を動かそうと思えば新入社員であっても動かせる」というのが私の持論。自分が主体的に動き、「これをやりましょう」「ここは変えましょう」という提案は誰にでもできる。それが経営陣にまで届いて合意が取れれば会社はその通りに動くのである。しかし、「ルールだから」で終わってしまうとそこで終わりである。この意識の違いは大きい。

「ルールはどうなっていますか?」という質問がたまに管理職から寄せられる事がある。それは何かルールを確認しないといけない事象が起きているという事である。まずはルールを教える事は当然であるが、そこで何が起こっているのかを確認する。そうしてその管理職がどう対応するのかを見届ける。考えて動くのであればいいが、安易にルールを盾にして終わりにしてしまうのであれば私も介入しないといけない。管理職と言っても中小企業では専門のトレーニングを受けているわけではない。そのあたりは教育も必要である。

主体的に動けば変わるという体験も必要だろうと思う。ただ嘆くだけではなく、そういう体験ができるように、普段からの啓蒙と合わせてみんなが主体的に動く組織を目標にして行動していきたいと思うのである・・・

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【今週の読書】
「食」が動かした人類250万年史 (PHP新書) - 新谷 隆史  砂漠と異人たち/宇野常寛(著者)






2024年11月21日木曜日

講演会に出席して

 取引先から講演会に招かれた。講演者はデーブ大久保氏。元ジャイアンツの捕手である。昨年も招かれたのであるが、昨年は河野景子氏。ふだん話を聞く機会のない人の話を聞くというのもなかなか面白いものである。著名人となると、どうしてもその世界の話が多くなる。実は別のところで元プロ野球選手の講演会に行ったのであるが、その時は裏話ばかりで、面白くないとは言わないが、あまり後に残るものでもないというものであった。主催者側は当然費用を払っていると思うのだが、それに見合うものであったかどうかは疑問である。その点、今回は同じ元プロ野球選手でもビジネスに通じるところがあり、為になったところでもある。

 昔話の中で、デーブ大久保氏は小学生の頃に周りにおだてられてプロ野球選手になるという夢を掲げ、毎日素振りを500回かかさずやったと言う。普通の子供にはできないと思う。ちなみにその話をニューヨークで松井秀喜に話したところ、松井は1,000回だったらしい。その差が2人の差だとデーブ氏は笑っていた。さらに後日イチローに同じ話をしたところ、イチローは2,000回だったらしい。実際はどうかはわからないが、やはり名を残す選手というのは、そういう影の努力が凄いのだろうと思う。

 いわゆる「1万時間の法則」とよく言われるが、何か事を始めてそれなりの成果を出すには1万時間のトレーニングが必要だというものである。生まれついての天才などというものはなく、ただ、「毎日素振り500回」といった誰でも簡単にはできるものの、誰にも簡単には継続できないような事を継続できる人が、「天才」と呼ばれるようになっていくのだろう。「毎日素振り500回」は確かにすごいし、だから高校生でも騒がれてドラフト1位指名になるのだろう。それでもさらに上がいるわけであり、凄いなぁと改めて思う。

 私はラグビーをやっているが、それでも高校生で始めて普通にしか練習しなかった。高校・大学・銀行とラグビーを続けたが、ざっと計算しても1万時間に満たないどころか半分もいかないかもしれない。時間だけではなく質もあるから何とも言えないが、普通のレベルであるのも当然である。息子が生まれた時、ラグビーをやらせたいとは思ったが強制はしなかった。小さい頃からテレビ観戦は一緒にしていて、それなりに興味を持ったようだが「痛そう」というところが大きく記憶に残ったようである。

 子供にラグビーをさせている友人・知人は多いが、だいたい訳もわからぬうちからラグビー・スクールなどに入れてしまっているようである。そのまま素直に興味を持って続ければ良しだが、例えばそこで辛い思いをしてしまうと辞めてしまうという弊害もある。あまり熱心に指導したりすると危ないかもしれない。高校でさえ、私の同期で大学に進学したあとも続けたのは11人中、私を入れて2〜3人だった(体育会で続けたのは私のみ)。「ラグビーは練習がきついのでもういい」と思ったようである。

 そんな事もある一方で、誰に言われたわけでもなく、毎日素振り500回を続ける意思の力は凄いと思う。言われて強制されてできるものでもない(やったとしても私の高校の同期みたいにいずれやめてしまうだろう)。あくまでも本人の意思のみが続ける原動力であり、親の立場からすると、それはどうしたら子供の心に芽生えさせる事ができるのだろうと思ってしまう。デーブ氏の子供は野球の道には進まなかったようで(それはデーブ氏が意図したかどうかは聞けなかった)、そのあたりの考え方は聞いてみたかったところである。

 それにしても現役を引退してから各球団の監督・コーチ、野球解説などで活躍し、講演会などにもよく呼ばれているそうである。ある程度の著名人でないと講演会にも呼ばれないだろうが、ただ内輪ネタだけだといずれ呼ばれなくなるだろうし、話の内容も工夫しているのだろう。ネタも意識して仕入れているのかもしれない。そもそも「デーブ」という現役時代の「デブ」からきたニックネームをうまく芸名のように取り入れているところがうまいなと思う。本名ではわからない人も多いだろうと思うが、デーブとつく事で認知度は上がると思う。

 そんな自分ブランディングも、講演の内容も、飲食店を経営しているとさり気なくPRしているところも、現役引退後に野球以外の生きていく道をうまく作っているように思う。いろいろと参考になるところが多い講演会であった。来年もまた呼ばれるだろうが、次はどんな人か楽しみにしたいと思うのである・・・


【本日の読書】

「食」が動かした人類250万年史 (PHP新書) - 新谷 隆史  砂漠と異人たち/宇野常寛(著者)





2024年11月17日日曜日

色眼鏡

ハマスの実像 (集英社新書) - 川上泰徳

 『ハマスの実像』という本を読んだ。中東では昨年の10月にハマスがイスラエルに越境攻撃を仕掛け、民間人を多数殺害して人質を取るというテロ行為を起こしている。それにイスラエルが反撃し、ハマスの殲滅を宣言して1年以上戦争状態が続いている。もともと中東の紛争には興味があったこともあり、なんとなく「ハマス寄りのハマスに同情的な本」であるというイメージはしていたが、あえて手にした次第である。

 著者は中東専門のジャーナリストであり、「元朝日新聞記者」という肩書きを見て、そして内容を読んでやっぱりハマス寄りの内容であった。「イスラエルの軍事占領という暴力の元に」、「特にガザは被人道的な封鎖下におかれ、『天井のない牢獄』と呼ばれる状況に閉じ込められてきた」ことを考えれば、「何もないところから暴力が生まれるわけではない」とする。著者によれば、「だからハマスの攻撃も止むを得ない」というものであるが、多くのハマスに同情的な意見は、多分同じであろう。

 私はと言えば、イスラエルの置かれてきた環境を考えれば、ガザの封鎖や入植地の拡大といった施策は、「好ましくはないが止むを得ない」と考えている。だからハマスに同情的な意見には与する事ができない。それにどういう解決策が望ましいかと考えれば、「平和的な話し合いによる解決」であり、それにはハマスによる攻撃を「仕方ない」とは思えない。まずは暴力行為を停止するところからがスタートだと思う。お互いに話し合いのテーブルにつけば、国際世論もハマスやパレスチナ側にもっと支持が集まるだろうと思う。

 それはともかく、人には自分の寄って立つ「視点」というものがある。著者のようにハマスに同情的な立場だと、「原因はイスラエルにある」となる。しかし、私からすると、紛争は過激派のハマスが支配するガザでばかり起こっていて、穏健派のファタハが支配するヨルダン川西岸地区では(あまり)起こっていない事を考えれば、「諸悪の根源はハマス」となる。たぶん、私が著者と議論してもこの「視点」が異なる限り、合意には至らないと思う。言ってみればこの「視点」は色眼鏡である。

 私も自分の意見こそ絶対とは思わず、イスラエル寄りの色眼鏡で見ている事は事実である。そしてそれが正しいと思っているので、訂正するつもりは今のところない。ただし、そこは柔軟でありたいと思うので、自分と反対意見の人の話はきちんと聞きたいと思う。この本をハマス寄りだと思いながらもあえて手に取ったのもそういう次第である。イスラエルも100%正義だとは思わない。特に現在は強硬派のネタニヤフ首相が強力な指導力を発揮している環境であるから尚更である。それでもまだハマスよりはイスラエルの肩を持ってしまう。

 一つの同じ事実も「視点」が異なれば解釈も異なる。色眼鏡の色によって同じ世界も見え方が異なる。「イスラエルの軍事占領に対する抵抗」と言うか「テロ」と言うかによって事実が変わるものではない。ただ「抵抗」と美化しても平和的な解決策には至らない。これは間違いないと思う。会社でも色眼鏡の違いによって意見が相違する事が多々ある。こちらの意見を丁寧に説明してもわかってもらえないのは、色眼鏡は簡単に変えられないという事を意味している。

 常に自分の色眼鏡が正しいと言うつもりはない。できる限り相手の色眼鏡を理解しようと思うし、自分の色はできるだけ丁寧に説明しようと思うが、それが精一杯である。どうしてこうも違うのだろうか。考えてみれば面白い。自分の色眼鏡はどうしたら変わるのだろうかと考えてみると、それは相手の意見の説得力に他ならない。という事は、相手の色眼鏡が変わらないのは、自分の説明に説得力が足りないからと言える。相手の色を理解しつつ、説得力のある説明を試みる他はないだろう。

 歳を取ると頑固になるとはよく言われるが、自分も思考の柔軟性は保っていたいと思う。相手の主張をよく理解し、そこで自分の考えときちんと照らし合わせるようにしようと思う。そう思うものの、今回のこの本の主張にはやっぱり同意できない。平和的解決には、「抵抗」などとテロ行為を正当化する考えはダメだという考えは変えられない。相手の意見はきちんと聞いたうえでのことなので、これはこれでいいと思うのである・・・


Satheesh SankaranによるPixabayからの画像

【本日の読書】
三体2 黒暗森林 上 (ハヤカワ文庫SF) - 劉 慈欣, 大森 望, 立原 透耶, 上原 かおり, 泊 功





2024年11月15日金曜日

論語雑感 泰伯第八 (その12)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感
【原文】
子曰、三年學、不至於穀、不易得也。
【読み下し】
子(し)曰(いわ)く、三年(さんねん)学(まな)びて、穀(こく)に至(いた)らざるは、得(え)易(やす)からざるなり。
【訳】
先師がいわれた。「三年も学問をして、俸禄に野心のない人は得がたい人物だ」

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 ちょうど30歳になった頃だったが、銀行で中堅行員のための短期集中研修に参加したのだが、その時一緒に参加していた1年上の先輩が研修を終えるとともに退職した。なんでもアメリカに行ってMBAを取るという事であった。当時、アメリカでMBAを取得する事は「稼げるサラリーマン」への登竜門的なところがあった。いろいろと考えている人は要領よく準備してタイミングを図り、銀行の募集に応募していた。

 私もできる事ならチャレンジしたいと思っていたが、のんびりしていたところもあり、しかもそれはなかなか競争率も高いもので、タイミング(転勤直後などは認められない)もあって私はとうとう行けずじまいであった。高額な費用がかかる事から、自費で行くのは無理であり、行くとしたら銀行の制度を利用するしかなかった。その先輩は自費で行くとの事で、実家が裕福だと聞いていたので、私は羨ましく思いつつ見送った。

 その先輩がその後どうしたのかは知らない。ただ、普通に真面目に勤めているだけではダメだという考えは、当時の身の回りにはあったのである。MBAを取ったから稼げるというわけではないだろうが、普通にやっていてはダメというのも確かであろう。稼ぐためには「何か」をしなければならないものであり、そしてそれはたいてい「勉強」を意味すると思う。もちろん、「営業で全国1位」などの実績も有用だろうが、そういう地位にいない人にとっては「勉強」だろう。

 中にはそういう野心はなく、ただ趣味のために勉強する人もいるだろう。私の甥も何やら随分資格を取得してマニアのようになっていると聞く(ただそれは「何かの役に立つだろう」というやっぱり野心からのようである)。資格も取ったからといってすぐに評価されるというものでもないだろう。しかし、社会人になって、忙しい合間に趣味の時間を削って勉強するというのは、たいてい「将来のため」という目的があるからだろう。資格もないよりあった方がいいのは当然である。

 我が社でも若手には資格を取れと言っている。特定の国家資格には奨励金も出している。それは、資格そのものよりもその過程で勉強し、努力するスタンスを身につけてほしいと思うところがあるからで、そのスタンスほどSEとしての技術向上に役に立つもの(=会社にも有益)だからである。逆に趣味で勉強していて「給料には興味ない」と言われてしまうと物足りなさを感じてしまう。「もっとたくさん給料が欲しい」という思いこそ、能力向上の原動力のように思う。

 「もっとたくさん給料が欲しい」というのは、人の自然な感情であると思う。それによって家族によりいい暮らしをさせられるし、自分の望みも叶えられる。そしてそのために人は頑張って働こうと思う。逆にそうやって頑張ろうという人は何より「信頼できる」と思ってしまう。「給料(俸禄)に興味がない」という人に対しては、いざとなったら簡単に仕事を放り出して辞めてしまうのではという疑心がどこかに生じる。

 私の前職の社長は、会社を上場させた金持ちの父親の下に生まれ育ち、父親の庇護の下、30代で上場会社の役員になっていたが、経営というものをまったく学んでこなかった人であった。その必要もなかったのであろう。それが事情があって父親とともに会社を出て、中小企業の経営者に座らせてもらってからそれが露呈。私が入った時は、会社はかなり傾いていた。それを私が6年で立て直したところで、社長は会社を売却し、わずかな退職金で全社員を解雇し、売ったお金は独り占めした。欲望だけで学ばぬ人間の姿だと思う。

 孔子の生きていた時代とも環境とも違うので、単純に孔子の言葉を否定するつもりはないが、俸禄に興味があり過ぎてもなくてもどちらもダメなように思う。人間は目的があってこそ頑張るものであり、会社というところは何より俸禄をもらうところである。ゆえにそのために学ぼうとする人間こそ信頼できると私は思うのである・・・


【本日の読書】

ハマスの実像 (集英社新書) - 川上泰徳 三体2 黒暗森林 上 (ハヤカワ文庫SF) - 劉 慈欣, 大森 望, 立原 透耶, 上原 かおり, 泊 功




2024年11月9日土曜日

『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』

なぜ働いていると本が読めなくなるのか (集英社新書) - 三宅香帆

 『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』という本を読んだ。この本、最近売れているらしい。私はもともと著者のように本の虫とまではいかないが、まあまあ本が好きだった事もあり、今でも月に6〜7冊は本を読んでいるので、比較的読んでいる方ではないかと思う。それも読むペースが加速したのはむしろ働くようになってからであり、著者の主張には違和感を禁じ得ない。それはともかくとして、読みながらいろいろと考えるヒントに溢れていた本であるのは確かである。

 「若者の読書離れ」はよく言われるが、なんとそれは80年代からすでに言われていたらしい。読書のピークは79年としているが、その根拠は1世帯あたりの書籍購入金額だとする。しかし、である。40年前と現代では単純比較できないようにも思う。書籍購入金額が定価なのかそれとも中古も含むのかわからないからなんとも言えないが、現代の方が確実に中古市場は広がっているわけであり、中古で買えば値段は下がる。単純に「本を読んだかどうか」は書籍購入金額ではわからない。それに電子書籍の金額は入っているのだろうかと疑問に思った。

 また、図書館を利用した場合、そもそも書籍購入金額に影響はしない。人気の本など図書館の予約数のすごさを見れば、「買わずに読む」人もかなりいる。特に日本経済は「失われた30年」を過ごしているわけであり、安く本を読もうとする傾向は強いはず。よって書籍購入金額だけをもって「本を読まなくなっている」と結論付けるのはいかがなものかと思ってしまう。他に指標がなかったのか(ならばそういう主張は控えた方がいい)、それでいいと考えたのか(根拠薄弱な主張は底を見透かされる)、いずれにせよ主張としては弱い。

 また、著者は明治時代からの読書史を振り返る。著者なりの考えはあったのだろうが、なぜ読書史を長々と連ねる必要があったのだろうか疑問である(単なるトレビアとしては面白い)。日本人の読書史と働いていると本が読めなくなる関連性がよくわからないのである。そして著者の言う「読書」とは、ノイズ(余計な知識)の含まれている小説などのことで、自己啓発書などは含まれない。映画『花束みたいな恋をした』の主人公が働くようになってから疲弊して本を読めなくなることを例に挙げるが、その主人公も自己啓発書は読めているのである。

 著者は結論として働き過ぎの社会の変革を訴えるが、それが実現できたからといって娯楽としての読書が可能になるのだろうかという疑問も残る。今の時代、映画もドラマもスマホで簡単に観られるし、若者はそれ以上にゲームを楽しんでいる。そもそも自己啓発書なら読めるという事は、必要性を感じるものには時間をかけるという事で、仕事で疲れている時は、むしろ自己啓発書よりも娯楽としての小説の方が読めるのではないかとも思う。著者と私の感覚の違いなのかもしれない。

 この本は、今売れているらしいが、「売れている」=「共感されている」という事でもないだろう(事実、私も共感できないでいる)。自分なりの一つの意見を書籍という形で世に問う事は素晴らしいと思うが、どうも私には説得力に欠ける意見であるように思えた。それでもこうして感じた雑感をまとめる契機にはなったので、読んで損はなかったと思う。これからも好き嫌いせずにいろいろな本を読んでいきたいと思うのである・・・


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【今週の読書】
ハマスの実像 (集英社新書) - 川上泰徳  三体2 黒暗森林 上 (ハヤカワ文庫SF) - 劉 慈欣, 大森 望, 立原 透耶, 上原 かおり, 泊 功






2024年11月6日水曜日

息子に語りたいこと

 息子が生まれた時、将来いろいろと自らの経験から得た事を教えたいと思った。父親というものはみんなそうではないかと思う。子供の頃は教えと言ってもそれほど大したものではないが、大人になるにつれだんだんと世の中を渡って行くのに必要な事になると思う。人間関係の事やお金の事、結婚や住まいの事や、その他その時々の悩み事の相談などである。自分はと言えば、そういう事を父親とはほとんど話などしてこなかった。それは父も昭和の人間として多忙で余裕がなかった事もあるが、仮に時間があったとしても知識等の面で難しかったかもしれない。

 息子もこの春からいよいよ大学生になった。それなりに自分の考えというものを持っているが、なにせ「経験」という点では圧倒的に足りない。人生始めてまだ19年とちょっと。そのうち少しは大人の思考となると4〜5年程度である。社会人経験37年の私からすればヒヨッコレベルである。いろいろと自分で失敗しながら人生経験を積んでいくところはあると思うが、一度の失敗が取り返しのつかない事になる可能性もある。例えば今気になるのは闇バイトだろうか。

 息子を見ていて病みバイトなどを迷わずにやるような事はないと思うが、何やら興味をもって接近し、住所を教えたところ、「断れば家族に危害を加える」と言われたら言いなりになってしまうように思う。そういう時はどうするのか。そんな時に相談してくれればいいが、たぶん1人で悩むと思う。また、今、自動車の教習所に通い始めたばかりが、車を運転していて事故を起こし、相手に脅されたらどうするか。普通の事故なら対応は教習所でも習うだろう。しかし、世の中には常にイレギュラーが伴う。そんな時、どう判断するのか。

 お金に関してはしっかり教えたいと思う。お金を貸してほしいと頼まれたらどうするのか。今はそんなに持っていないからいいだろうとは思うが、怪しげな取引に誘われたら?そこで知らぬ間に借金を負わされたら?私も学生時代に何かの会員に勧誘され、いい条件だけ聞かされて「これはいいな」と思ったが、最終的になんかおかしいと思ってやめた事がある。世の中、すべてのリスクを網羅して備える事はできない。たいていは話を聞いて自分で判断しないといけない。その時に生きるのが知識を含めた経験値だろう。

 息子は、私よりも人あたりはいいようで、人間関係にさんざん苦労した私などがあれこれアドバイスする事はないような気もする。父親の経験をすべて伝えることはできないかもしれないが、理想的なのは「辞書的」な役割だろう。困った時にその都度辞書を引くようにアドバイスを求めてくれれば役に立てるだろう。ただ、「考え方」などは事前にインストールしておきたいところが大きい。お金も学生のうちはいいが、社会人になれば手にするお金も増えるのでリスクは高まる。私の弟などは50代になってつまらない詐欺にあって大損している

 そんな叔父の失敗はすぐに娘と息子に教えたが、それと言うのも早くからそういう身近な例を教えるのも将来の身を守ることになるかもしれないと考えたからである。騙されるのは仕方がないかもしれない。騙す方も巧妙であるし、私自身絶対騙されないという自信はないが、騙されても被害を最小化する事はできると思う。実際、弟と同じ立場で騙されたとしても、私ならかなり被害額を軽減できたと思う。それは基本的なお金に関する考え方であるので、そういう考え方さえ身につけていれば我が息子も致命的な被害は受けなくて済むと思う。

 いつ、どういうタイミングで伝授しようかと思うも、一度で済ますのではなく、たまに誘い出して一緒にビールでも飲みながら、語って聞かせたいと思っている。息子は嫌がるかもしれないが、そういう親父の人生経験を聞くのもいいと思うし、聞かせたいと思う。今度うまく誘い出してみたいと思う。大学1年ではあるが、もう就職を意識しているようである。それなら少し本を読んだ方がいいと思うし、そのあたりの話もしてみたい。親父よりも少しでも失敗経験の少ない人生を歩んでもらえたらと思う(失敗経験もそれなりに必要だとは思うが・・・)。

 まずは話をする機会をつくる事だろうか。部活にバイトに授業に教習所にと忙しそうな息子だが、うまく誘ってみたいと思うのである・・・



【本日の読書】

ハマスの実像 (集英社新書) - 川上泰徳  アルプス席の母 - 早見和真




2024年11月3日日曜日

男とは

 先日、高校の同期会があり、久々に元クラスメイトらと懐かしい話をした。卒業から42年、みんなそれぞれの人生でいろいろな経験をしているものである。1人の女性から何とはなしに、過去にDVを受けた経験があるということを聞いた。骨折をともなう怪我をして、子供とシェルターに避難したというのである。その昔は縁切寺などいうものがあったと聞くが(映画『駆込み女と駆出し男』にも描かれている)、現代でもそういう施設があるのは知っていたが、実際に利用した人の話を聞くのは初めてである。

 相手の男がどんな男かは知る由もない(聞くつもりもなかったが)。それにしてもありきたりながら「暴力はいかんよな」と思う。夫婦だから喧嘩をすることもあるだろう。我が家もたまに私が我慢しきれなくなると喧嘩になる。だが、そこで妻に手を上げた事はもちろんない。逆に「手を上げられた」事ならあるが、その時も反撃はじっと我慢した。そんな事は当たり前の事で自慢する事でもわざわざ言う事でもないと思うのだが、世の中には感情の赴くまま手が出る男もいるのだろう。

 男の場合、相手を殴るのは大抵「相手が自分より弱い」と思っているケースである。相手が女の場合はもちろん、男同士でも「相手に勝てる」と思うから強気になって殴るのであり、「相手に勝てない」と思えば手控える。「ずるい」と言えばその通り。しかし、そういうものである。そういう男は実に情けない。相手が弱ければ高飛車になり、強ければ卑屈になる。みっともない事この上ない。「ついカッとなって」という言い訳も虚しい。カッとなっても強い相手には手を上げないだけの冷静さはあるのである。

 私の場合は、妻と口論になっても常にどこか冷静になっているところがある。だからコントロールが効く。それは子供が小さかった時もそうで、わがままを言っていうことを聞かなくて腹が立った時もどこか冷静な部分があって、「ここは体罰を加えた方がいい」という判断をして、利き腕とは逆の左手で、頬を張ったものである。何も利き手で思いっきり引っ叩かなくても、子供にインパクトを与える効果は十分得られる。そしてそれで十分である。

 そう考えると、感情的になって体罰を加えた事はない。なんか立派な大黒柱のように思われるかもしれないが、電車の中で理不尽な振る舞いをする男に対しては躊躇なく蹴りを入れたりするからとても立派とは言えない。ただ、明らかに体力的に劣る女に手を上げるのとは違うと考えている(立派な考えとは言い難いかもしれないが・・・)。DV男が目の前にいたら、そういう話をして一度私に喧嘩を売る度胸があるか試してみたい気もする。

 最近は女も強くなり、それはそれでいいと思うが、逆に男が軟弱化している。それはムダ毛の脱毛をしたり髪の毛の手入れをしたり、化粧水で顔を洗ったりする事も含めてではあるが、それならDVも減りそうなものだが、統計値では年々増加しているそうである。ただ、結局、「弱い相手にしか暴力を振るえない」と考えるのであれば、「男が軟弱化している」という私の感覚は間違っていないと思う。

 女に手を上げるのではなく、自分とは意見の異なる会社の上司に自分の意見を堂々と言えるかを問う。自分より弱い者ではなく、強い者にどう振る舞えるか。きちんと自分を通せるかどうか。男にはそういう事が大事だろうと思う。妻の限りのないどうでもいい小言にジッと堪えるのも男の甲斐性なのだろう。こういう時代だからこそ、「男」というものに拘りたいと思うのである・・・

maturikaによるPixabayからの画像

【今週の読書】
なぜ働いていると本が読めなくなるのか (集英社新書) - 三宅香帆  アルプス席の母 - 早見和真