2010年10月30日土曜日

尖閣諸島問題を考えた

「この問題はわれわれと日本の間で論争があり、釣魚島を日本は『尖閣諸島』と呼び、名前からして異なる。この問題はしばらく置いてよいと思う。次の世代はわれわれより賢明で、実際的な解決法を見つけてくれるかもしれない」            
                    鄧小平
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尖閣諸島問題がまだ尾を引いている。
今日は中国が首脳会談を拒否してきたと報じられているし、どうも中国の方が主導権を取っているようである。これに対する世論の大まかな論調としては、「中国はけしからん、政府の対応は弱腰だ」というもののようである。
この問題は実はもう40年以上にわたって紛糾している問題である。

冒頭の言葉は鄧小平がかつて来日した時に、日本人記者に質問されて答えた言葉である。
実はこの時質問した記者は、我が高校の大先輩である。
現在母校の財団で行っている社会人向けの勉強会の席上で、その大先輩がその時の話をいつも披露してくれる。

何でも直前の打ち合わせでは、外務省の役人から尖閣諸島の問題には触れないでくれと釘を刺されていたらしいのだが、そこは大先輩も記者魂を発揮して堂々と質問したという。今の記者ならたぶん言われた通り黙っていて質問などしないだろう。冒頭の回答を引き出したあと、先の外務省の役人が「よくぞ質問してくれた」と言ってお礼を言ってきたらしい。毎年この話を伺えるのは、世話役として参加している役得である。

さて、発言から30年。
鄧小平の期待した“賢明な世代”に、どうやら我々はまだあたりそうもない。
解決どころかまだまだ紛糾している。
「弱腰だ」と批判はするものの、「ではどうすべきか」についての意見はあまり目にしない。
批判をする人たちはどんな解決策を思い描いているのだろうか。

解決方法と言っても、よく考えれば3つしかない。
(穏便に済ませてさらに先送りするのは解決とは考えないとする)
問題は「島自体」というよりも、島を領有する事によって得られる海洋資源の権利だろう。
中国も日本もこの海洋資源がほしいようだ。
であればその3つとは、その資源を「全部取る」か「全部取られる」か「分け合う」かしかない。

中国と将来的にどう付き合うのか。
もしも友好的にやっていこうとするなら、「全部取る」のは難しいだろう。
中国にだってメンツはある。
40年にわたる主張を取り下げるとは思えないし、何より国家としての力=経済力+軍事力は中国の方が上だ。まず無理だろう。強いアニキ(アメリカ)に頼もうとするなら、友好は諦めないといけない。

尖閣諸島は歴史的にみても日本の領土だろう。
チャチャを入れてきているのは中国だ。
であれば、「全部取られる」のも看過できない。
となればあとは「分け合う」しかない。
領有権は日本の領土として認めさせた上で、海洋資源については「分け合いましょう」とするしかないだろう。共同で開発して、管理して、果実を分け合うのだ。

もしも自分の子供がおもちゃで遊んでいるところへ隣の家の子供がやってきて、そのおもちゃで遊ぼうとした。自分の子供は取られまいとして喧嘩になった。親だったらどうするか?
もちろん、どこかの知らない子だったら、その子にダメだと諭すかもしれない。
でも隣の家の、よく知っている子ならどうするだろう。

子供の世界は、現実世界の縮図でもある。同じように考えるしかない。
もっともそこは大人ゆえ、駆け引きはあってもいいだろう。
開発にあたっては、当然日本の技術力は力を発揮する。
対等にシェアする見返りとして、今問題になっているレアアースを優先的に分けてもらえるようにしたっていいし、北朝鮮問題での協力を取りつけたっていい。
アメリカからは得られないメリットを狙えばいい。

100年前であれば、たぶん確実にこれは戦争になっていただろう。
そして核を持たない日本は、中国と喧嘩しても勝てないし、頼みのアニキだって相手が中国だったら日米同盟だってどうなるか信頼はできない。
自国に核攻撃される危険を冒して、我々を守ってくれるだろうか?
ニクソン・ショックの歴史だってある。

幸いにして、100年後の今日ではまず戦争にまではならないだろう。
それは人類が賢くなった証であるが、さらにもう一歩だ。
相手が悪ければぶん殴っても許されるというものではないし、相手の方が強いわけだからそもそもそれも難しい。「全部取ろう」としたら、このままさらに睨みあい続けるしかない。

感情論よりもメンツよりも、もっと戦略的に賢い対応方法を主張する政治家に現れてほしいと思うのだが、まだまだ難しいみたいだ。
生きているうちに、「賢明なる世代」と呼ばれる世代に残れるだろうか。
選択権をもっているのは我々の世代だと思うのである・・・


【昨日の読書】
「サービスの達人たち」野地秩嘉
「存在の美しい哀しみ」小池真理子

    

2010年10月26日火曜日

次はお遊戯会なのだが・・・

5歳の長男の通う幼稚園では、運動会の余韻も冷めやらぬうちにすでにお遊戯会の準備に突入している。長男のクラスでは「おむすびころりん」の劇をやるらしい。
「おむすびころりん」は、私が子供の頃もっとも好きだったお話だ。
(ただ単におむすびが大好きだという単純な理由なのだ)

長男に何の役をやるのか聞いてみたところ、「ねずみ!」という答えが返ってきた。
主役の正直じいさんの役だとは思っていなかったが、まあ妥当なところだと思った。
続けて「で、欲張りじいさんは誰がやるの?」と聞いてみた。
ちょっと考えた長男からは、「いないよ」という答えが返ってきた。
一瞬「えっ?」と思う。よくよく聞くと、どうやら欲張りじいさんは登場しないらしい。

「それでね、○○くんはたぬきで、○○くんはきつねで、○○くんはさるなんだ」と長男は続ける。
たぬきにきつねにさる?おむすびころりんに出てきたかぁと思うも、どうやら幼稚園の先生の配慮だと気がついた。欲張りじいさんはいかにもイメージが悪いし、園児も多いからおじいさんとねずみだけでは役が足りない。たぬきやきつねの友情出演は苦肉の策なんだろう。
それでも欲張りじいさんを何で入れないんだろうという気持ちは拭えない。

そんなところへ妻がとなりのクラスの話を聞き込んで来て教えてくれた。
となりのクラスの出し物は「金のがちょう」。
金のがちょう持つ男の子が、がちょうを触って離れなくなってしまった人たちをぞろぞろ引き連れて、お城へ向かうお話だ。農家の娘と宿屋の娘と王女様役があるのだが、そのお母さんが説明会で火花を散らしたらしい。

農家のお母さんは、子供が役柄からずぼんを履いてくれと言われたのだが、「スカートじゃダメか」と言ったところ、「農家の娘なんだから」と別のお母さんに言われてふくれた。
宿屋の娘のお母さんは王女様のお母さんから、「王女より派手な格好はしないでくれ」と言われてカチンときた。険悪なムードになったらしい。言っている事はまともな事だ。
普通だったら言われなくたって「ふさわしい恰好」をするものだ。

モンスターペアレンツとは言わなくても、そんな親たちを相手にしなければならない先生も大変だ。
欲張りじいさんを引っ込めたのもよくわかる。
それでもやっぱり「おむすびころりん」には欲張りじいさんは必要だ。
もしも、私が説明会に参加していたら、「うちの息子にやらせるから欲張りじいさんを登場させてくれ」と意見していただろう。

欲張りじいさんは確かにイメージがよくない。
だがこの物語には欠かせない。
「欲張りは良くない」というメッセージを伝えるためには、必要なキャラクターだ。
それによくよく考えてみれば、劇ではメリットが大きい。

まず間違いなく後半の主役だ。
正直じいさんの真似をして、ねずみの穴におむすびを投げ込む。
そしてねずみたちの歌が聞こえてくるのも待ちきれず、自ら穴に飛び込んでしまう。
ここらへんは、うまく演じればとてもユーモラスだ。
そしてクライマックスの猫の鳴き真似。
会場すべてが注目する中で「ニャーオ」とやるのだ。
これ以上の見せ場はない。

それに教育的な意味でも、みんながやりたがらない役をやる大切さを教える事もできる。
家庭で励まし、一緒に練習し(場合によってはヤギの鳴き真似のプロであるおじいちゃんにコツを聞きに行ってもいい)、サポート体制は万全だ。すねることなく送り出してあげられる。
考えれば考えるほど魅力的な役柄だけに残念に思う。

これから未来を担う子供たちであるが、何より心配なのはその親たちだとつくづく思うこの頃である・・・


【本日の読書】
「逆境の中にこそ夢がある」蒲島郁夫
「魔王」伊坂幸太郎
     
     

2010年10月24日日曜日

一家に一台

朝から天気も芳しくなく、雲行きも怪しい今日は一日家でのんびりと過ごす。
長女が「一緒に遊ぼう」と声をかけてくる。
「そうだな」と応じる。
そうして長女が選んだのがWiiである。

我が家のゲーム歴はそんなに古くもないが、最初はプレイステーションであった。
夫婦それぞれ別々のゲームにハマって、しばらくは続けていたが、やがて飽きてしまった。
子供も生まれ、しばらくしてWiiが登場。
なんだか家族で楽しめそうだという事で購入した。
子供に買ってやったという位置付けではない。

これがまたなかなかのもの。
前評判通り家族で楽しめるところがいい。
子供たちのお気に入りは『マリオカート』だ。
様々なキャラクターがいろいろなコースでレースを展開するのだ。

これのいいところは複数人数でできるところだ。我が家はコントローラが2台しかないから常に2人までしかプレーできないが、コントローラを買い足せば3人、4人とできるようである。画面が上下に分かれ、それぞれがレースを楽しめる。

子供たちも頻繁にやっているわけではないが、それでも親よりも回数はこなしている。したがって勝負となると、特に小学校4年の長女には負ける事が多い。単純にスピードを競うだけでなく、アイテムを取り込んでそれを利用してより早く進んだり、ライバルプレーヤーの妨害をしたりする。それは裏を返せば、自分もやられるという事を意味する。
ハンドル操作だけではなかなか勝てない。

長女は任天堂DSも持っているのだが、(こちらはねだられて買い与えた)これが一人で黙々と遊ぶのに対して、Wiiは家族で一緒に遊べるという楽しさがある。
しかも大人だから有利という事もない(ただ5歳の長男はさすがに相手にはならない)。
親に勝って得意そうな長女の表情を見ると、それはそれで良いかもしれないと思う。
親に勝つのも一つの自信になるだろう。
    
あとはWiiスポーツだ。
こちらはアーチェリーにバスケット、ボウリング、ゴルフ、剣道などなどがある。
指先だけの操作ではなく、ボウリングなどは実際に投げる動作をしないといけない。
微妙なずれがボールの動きに反映されたりしてなかなかのもの。

ゲームだからハイスコアが出るというわけでもなく、ボウリングは実際のスコアとほぼ同じくらいだったから大したものだと思う(裏を返せばゲームでさえハイスコアが出ないという寂しさもある)。

週末はどこにも行かなかったと言えば何だか寂しい気もするが、子供とワイワイ楽しく過ごせたのでそんなに引け目は感じない。ゲームというとマイナスのイメージを持ちがちであるが、これはなかなか凄いと思う。こうしたゲームを生み出してしまう凄さがまだ日本にはあるのだと思うと、ちょっと誇らしい気もする。

こんな優れたゲームで遊んだ子供たちが大人になって、もっと優れた商品を生み出していけたなら、少子化といえども衰退は食い止められるかもしれない。
未来の日本は少数精鋭の先進国になっているかもしれない、などと思ってしまう。
子供から誘ってもらえるうちは、まだまだムキになって勝敗を競いたいと思うのである・・・


【本日の読書】
なし

     

2010年10月21日木曜日

ラクビーシーズン

ラグビーシーズンに突入した。
お正月の全国大会で一部のチームが脚光を浴びるが、その前段として今は全国各地で社会人から高校生まで熱戦が繰り広げられている。

我が母校のラグビー部は、関東大学対抗戦Bグループに所属している。
昔はA・Bなんてグループ分けはなかった。
対抗戦とは名前の通り大学対抗戦であり、『定期戦』という名目で各大学が年に一度互いに実力を競い合う場であった。そこには順位など存在せず、あくまでも大学間の1対1の交流だったのである。

仮にであるが、もしも早稲田か慶応のどちらかがBグループに転落すると、両校間で対抗戦グループの公式戦はなくなる。しかし両チームは11月23日には必ず『定期戦』を行うだろう。
『定期戦』とはそういうものなのである。

戦後、ラグビー部が各大学に設立されるようになると、やがて新興勢力がリーグ戦グループを形成していった。これに対し、対抗戦グループはあくまでも伝統の『定期戦』重視で、リーグ戦グループとは交わらなかった。しかし、全国大会が開催されるようになると、出場権の関係で必然的に対抗戦グループも順位付けを迫られるようになっていく。
1対1の交流では済まなくなってしまったのである。

それでも当初、私が学生の頃は、『定期戦』の結果を踏まえ便宜的に順位をつけていた。
それが変化していったのは、大学によって『定期戦』の数が違い、平等な順位付けが難しくなっていったからだ。例えば帝京大学などは1シーズンで10数試合の定期戦を組んでいる一方、保守的伝統校の筆頭である慶応大学などは、7試合というあり様だったのだ。試合数の多い帝京大学は不利だし、しかも慶応と帝京は定期戦がないなどの事情により、必ずしも公平な順位付けが難しかったのである。

そして時代の流れに抗えず、対抗戦グループもとうとうその信念を曲げ、試合数の統一と同時にA、Bのグループ分けを実施したのである。リーグ戦のように1部・2部としないでA・Bとしたのはせめてもの意地であろうか。我が大学は、現在その対抗戦Bグループの中堅~下位のあたりをうろうろしている。選手を集められない国立大学としては、Bグループといえども上位の壁は厚いのである。

その上位の筆頭は青山学院大学、そして明治学院大学が続く。
青学は今年大幅に全国レベルの選手を補強。
来年のAグループ復帰を目指して、大学を挙げてのサポートだ。
明学も集める時とそうでない時の波がある様子。
私が4年の時は集めている時で、相手のメンバーを見たらキャプテンを除いて全員1~2年生という事もあった。

それに比べると我が大学の後輩たちは、新入生集めで苦労し、初心者構わず引き入れて1人前にしていくというあり様である。まあそれが大学スポーツの本来のあるべき姿なのだが、自ずとそこには限界もある。幸いそれは我が大学だけに限った事ではない。
先の青学、明学以外は同じ条件だ。
その中で切磋琢磨するのである。

今はグラウンドも人工芝が流行である。
我が母校もそうなっている。
(OBとしてかなりの寄付をさせられた・・・)
9月のシーズンインから秋も深まり、乾いた土と枯れた芝の匂いに包まれ、その年限りのメンバーとともに泣き笑いの数カ月を過ごす。
そんな風景は今は一変しているのだろう。
女の子に縁はなかったが、あの時代は我が人生でも誇りに思える時代である。

今の学生は人工芝で、泥はおろか、埃にまみれる事すらない。
それがいいのか悪いのか。
しかし、今は今の時代の思いがきっとあるだろう。
埃にまみれる事はなくても、誇りある思い出を作ってもらいたいと思う。

現在ここまで2勝2敗。
これから上位陣との対戦であり、次回の相手は強敵青学だから、ちょっと苦しい。
老OBからは負ける事を前提に、「(点差を)50点以内に抑えてほしい」というコメントがあった。
始めから何だという気分だ。
ゲームに負けるのは仕方がないとしても、ハートでは負けてほしくない。
「ロッキー」のように、胸を張ってノーサイドまで闘ってほしいと思うのである・・・


【本日の読書】
「渡邉美樹のシゴト進化論 」渡邉美樹
「アヴェンジャー(下)」フレデリック・フォーサイス
     

2010年10月19日火曜日

ニュースに思う2

先週はチリの落盤事故が話題となった。
そのあまりの報道ぶりに、我が家の5歳の長男までもが、救出カプセルの名前はフェニックスだの33人救出だのとしゃべっている有り様でちょっと驚いた。
そして急速にしぼんだ。

実は毎朝、ネットでCNNのニュースを読んでいるのだが、ここ数カ月のCNNのトップニュースはこのチリの落盤事故だった。1週間に2~3日は必ず報じられていた。
おかげで当初クリスマスまでと言われていた救出作業が11月になり、早ければ10月とピッチが上がっていく様子を、私はリアルタイムで把握していた。

そしていよいよ救出トンネルが開通し、早ければ明日から作業かとなったところで日本のメディアが一斉に報道し始めた。外国の、それもチリという遠い国の事だけに、我が国のマスコミは興味ないのだろうと思っていたからちょっとびっくりした。

アメリカにしても外国のニュースであり、同じ国外ニュースでも関心のあり方が随分違うものだと思っていたのだ。ちなみに今でもCNNは続報を報じ続けている。
我々の目にどんなニュースが触れるのか、はマスコミの思惑次第なのだとあらためて思う。

尖閣諸島を巡っては政府の弱腰外交に批判が続出している。
確かにそうした批判はその通りだと思う。
ただ私が知りたい事を、マスコミは報道してくれていない。
なぜ政府は弱腰と思われかねない対応を取っているのだろう。
菅総理は何を考えているのか、もっと本音レベルの話こそ聞きたいと思うのだ。

そもそもであるが、政治家ともなれば我々よりも遥かに情報量が多いわけだし、専門家のアドバイスだって得られる。そうそう変な判断はしないはずだ。
今回の裏にも、もしかしたら先日の殺人の話の例ではないが、政府には世間からはうかがい知れない事情というものがあるのかもしれない。そして何も知らない世間が、それを弱腰外交と批判しているのではないかと気になってしまう。

一党独裁と言われる中国だって、民衆は共産党の思惑通りに動くわけではないだろうし、尖閣諸島を巡っては軍部も独自の動きがあるようだ。
単純な批判だけはどうにもする気になれない。

マスコミだって尖閣諸島の表示には(中国名:釣魚島)と併記している。
「何で中国名を併記するのだ」という批判を目にしたが、確かにマスコミだって中国には弱腰報道だ。沖縄に中国名があったら注書きするのだろうか。

おなじく政府批判は円高にも当てはまる。
円高で悲鳴を上げる企業に対し、無策の政府を批判する。
しかし、為替に介入しても効果は一瞬だ。
先日の介入以後、一時円安に振れたが、今再び81円台で推移している。
為替市場の動きを政府がコントロールできるわけないのは、私のようなサラリーマンでさえわかる。
なのに暗に介入しない事を批判するのは、どういう根拠あってのものか教えてほしいと思う。

それに円高で悲鳴を上げている企業が多い事は事実だが、嬉しい悲鳴を上げている企業だってある。
円高は輸入にはプラスに働く。
「みんなの意見とは不平不満を抱えているやつらの意見だ。満足している人は意見を言わない」とはいつも見ているブログで語られていた言葉だが、まさにその通り。
少なくとも我が家は夏の海外旅行では大いに恩恵を得られた。我が家は円高歓迎だ。

それに実は今世界のマーケットでは、穀物や原油などが密かに値上がりし続けている。
国内で大して話題にならないのは、円高で値上がりが相殺されている影響もある。
ガソリンだって気にならない価格なのは円高メリットだ。
我が国は資源輸入国であり、そういうメリットもある。
デメリットだけではなくメリットもあわせて比較し、その上での円高批判なら納得できるのだが、マスコミはそれをやった上で報道してほしいと思う。

最近新聞を開いても、安心して読めるところは書評欄とかスポーツ欄とか、だんだんと限られてきている。まあ巨人が勝った試合の裏側まで勘繰らざるをえなくなったら、新聞なんて読みたくなくなるのだろうから、それはそれでいいやと思うのである・・・


【本日の読書】
「渡邉美樹のシゴト進化論 」渡邉美樹
「アヴェンジャー(下)」フレデリック・フォーサイス

       
     

2010年10月16日土曜日

コミュニケーション~2~

我が大学のラグビー部は、数年前からメーリングリストを利用してOB間の相互連絡を図っている。メーリングリストとは、そこに登録しておくことによってメンバー間に一斉にメール配信できるシステムである。試合の連絡を筆頭に、このメーリングリストで各種連絡が飛び交っている。

しばらく前からある老OBが、試合の観戦記なるものを配信し始めた。
得点、ペナルティの数、メンバー、そして試合の経緯。
何せ定年後の毎日が日曜日の身分ゆえ、時間にものを言わせて熱心に配信してくれる。
感心する一方で、私個人はというと、そのメールは得点以外は読まずに削除していた。
たぶん元商社マンと見えて、やたらに不必要な英文等が多く(チームと書けばいいのに、teamとかティームとか書くのだ、そして商社マンはやたらと英単語を使いたがるものなのである)読み難いのと、分かったような分からないような個人の主観による解説が煩わしいからだった。

読まないから気にもしていなかったのだが、先日突然コーチングスタッフからやんわりとそれをたしなめるメールが配信された。形式的にははたしなめるというよりも、説明という形を取っていた。老OBが指摘していたミスプレーは、結果こそ失敗したが、初めから意図してやったチームプレーであって間違ってはいないという説明である。そして末尾に今後技術的な指摘は、メーリングリストではなく、コーチングスタッフに直接メールをいただきたい、と。

これに周辺の老OBが噛みついた。
曰く、言論の自由の封殺はけしからん、功績ある大OBに礼を失している等々である。
実は現役(および現役周辺)からの老OB宛クレームは2度目である。
前回は現役のキャプテンから、「自分たちも一生懸命やっているので過度な批判はやめてほしい」という申し出であった(『見る気もしなくなる』等の言葉がかなりあったのだ)。
まあその内容の是非はともかくとして、結果的に今回が2回目である。

コーチングスタッフからのメールは、OB会役員の承認を得ているとのコメントもあって、さすがに無鉄砲な現役から比べると段取りを踏んでのものだ。
かなり前々から計画してやったのだろうと想像できた。
猫に鈴をつけるのは大変なのだ。

この問題には難しいところがある。
コーチ陣からすれば、周りからいろいろなOBが好き勝手なアドバイスをすれば、現役が混乱する。
今は一応周りのOBは、アドバイスしたい事があればコーチ陣に言うというルールがある。
だが、メールで誰彼ともなく発信している内容は規制しにくい。
私のように読まなければいいと思うのだが、現役(および現役周辺の人たち)からすれば自分たちの試合の批評だけに気になるのだろう。

やめろと言うにも、大先輩が熱心に良かれと思ってやっているだけに言いにくいのも事実。
老後の楽しみでもあるだろうし、好きな事を言う権利はだれにでもある。
ラグビーをやっていた者は、(私も含めて)頭の中では自分が最高のプレーヤーでいるのだ。
「こうやればいい」という信念のようなものをみんな持っている。
そして可愛い後輩たちには、それを余すところなく伝えたい、と。
「余計なお世話」とは言えるものではない。

老OBとその周辺サポーターからの援護射撃で、どうやらコーチ陣は分が悪い。
老OBもやめる気配はなく、平日には自らグラウンドに足を運び、現役の様子をレポートするまでになってきた。さらに現役に「アドバイス」もしてきたらしい。

後輩を、そして伝統あるラグビー部を思う気持ちは双方とも一致している。
だがそれは絵に描いたような同床異夢。
双方をつなぐコミュニケーションはあるのだろうか。
お互い相手の声に耳を傾けて、とも思うがきっとそれは当事者にとってみれば難しい事なのだ。
どうすればいいのか。

明日はまた公式戦。
どんな観戦記が配信されるのだろうか。
試合の結果以上に気になるところなのである・・・

【昨日の読書】
「十歳の君へ」日野原重明
「アヴェンジャー(下)」フレデリック・フォーサイス

    
【昨日の漫画】
「JIN19」三田紀房
「ONE PIECE③」尾田栄一郎

      

2010年10月13日水曜日

コミュニケーション~1~

 人間は判断力の欠如によって結婚し、
   忍耐力の欠如によって離婚し、
     記憶力の欠如によって再婚する。
                    アルマン・サラクルー
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子供たちに教えたい事の一つに「コミュニケーション」がある。
人とのコミュニケーションぐらい痛いほど我が身に染みて重要性を実感しているものはない。
親の失敗を良き教訓として、子の人生に活かしてもらいたいと思うのは誰しもそうだろう。
私にとって「コミュニケーション」は間違いなくその一つだ。

何気ない一言で険悪な雰囲気になり、誤解され、腹が立つ。
表面に出てきていない事もたぶん結構あるだろう。
こちらに悪意もないのに悪く取られたりして唖然とする事もしばしばある。
特に我が家の夫婦間では頻繁に起こる。
一生懸命分かりやすく説明したつもりが、「理屈で言いくるめられた」とはよく親に言われる事だ。
どうしてそんな事が起こるのだろう。

言葉を尽くしたところで、「理屈じゃ負ける」と言われる始末。
「ああ言えばこう言う」程度にしかとってもらえない。
社会人になりたての頃は、何が大変だったかといえばそのすべてが人間関係だった。
仕事で辛い事なんてほとんど皆無だった。
ここ最近、自分を理解してもらうという事には限界があるという事に気がつき始めた。(遅いか)
それよりは相手を理解する努力の方がまだいいだろうと思うようになった。

例えばAがBを殺したという事件が起こる。
Aは当然有罪にすべきだ。
ところがその状況を調べたところ、実はAは会社帰りに家の近所まで来たところで突然刃物を持ったBに襲われ、咄嗟に避け揉み合っているうちにBの持っていた刃物で刺してしまった、と判明したとする。すると一転して、Aは正当防衛で無罪にすべきだと誰でも思うだろう。

今度はまたなぜBはそんな事をしたのか調べてみた。
すると実はBはAに騙され、全財産をだまし取られ、それが元で一家は離散、絶望のあまり犯行に及んだ、とわかった。Aは罪には問われていないものの、同様の余罪がかなり疑われている、という事情が判明したらどうだろう。有罪無罪は別として、感情的にはAに対する同情心はなくなってくる。
つまり表面だけ見ていてもだめだという例だ。
法学部の学生の頃、よくそんな話をし、議論した。

相手も相手の人生の中では主人公。
常に自分は正しいと考えている。
かちんと来る事であっても深呼吸して、なぜそんな言動をするのかと一歩引いてみる事でこちらの怒りの炎も収まり、穏やかに対応できる事がある。
我が家の夫婦間は、そんなトレーニングの絶好の機会を常時提供してくれる。

もっともそんな対応ができるのも、家族や友人、職場などの限られた範囲内だ。
自分から心理的な距離が遠くなる間柄の人ほどそんな対応はしきれなくなる。
街中に出れば腹立たしい人間はたくさんいるし、とてもではないが「相手も自分の人生の主人公」なんて思う気持ちは起きて来ない。
「世の中自分中心で回っているわけではない」と教えてやりたくなる。

ようやく自分でも少しずつ理解してきた事を子供に教えるのはもっと難しい。
「誰とでも仲良くしなさい」と世間の親は簡単に言うが、そういう親自身そんな事は不可能なはず。
それなのに子供にやれと言っても無理がある。
「喧嘩してはいけない」と言っても、親だってするのだから子供にできるわけがない。
だから私などは子供たちには、「仲の良い子とはもっと仲良くしなさい」「喧嘩はしてもいいけど、そのあと自分から謝りなさい」と言うのがせいぜいだと思っている。
中学生・高校生くらいになったら、もう少しましな事を言いたい。

この「相手を理解する」というコミュニケーション・スキルは、およそ世の中で生きていく上では、実は一番重要なスキルであるのかもしれない。
どうやって身につけるかは、親でも難しく思っている事だから教えるのも難しい。
だからどうしたら良いと言いにくいものがあるが、「重要だ」という事だけはしっかりと子供たちに伝えたいと思う。

さしあたっての問題は、我が家の冷戦だ。
どうやったら終わるのか。
理解はできても相手の心は動かせない。
こればっかりはパソコンを叩いても答えは出てこない。
実に悩ましい問題だと思うのである・・・


【本日の読書】
「経済予測脳で人生が変わる!」中原圭介
「アヴェンジャー(上)」フレデリック・フォーサイス

    
     

2010年10月11日月曜日

今年も運動会にて

昨年年少さんとして参加した運動会も今年は年中さんとして参加。
本当は土曜日の予定であったが、雨で順延・順延と延び、とうとう3連休の最後の日となってしまった。その穴埋めをするが如き好天で、逆に暑くて大変なくらいであった。

今年も長男はかけっことお遊戯と、そして選抜リレーに選手として選ばれアンカーとして出場した。
実は先週土日と昨日とかけっこの直前特訓を実施。とりもなおさず、昨年しくじったスタート、そしてバトンの受け取りと、とにかく走る事。家の前で繰り返し練習。

まずはかけっこ。
今年からタイム順に組になって走る。
長男は最終組。
つまり学年でも一番早い組という事になる。
それはそれで誇らしく思うのだが、逆に一番はそれだけ難しいという事になる。

いよいよかけっこがスタートする。
ビデオ片手にこちらもドキドキして順番を待つ。そして最終組。
名前を呼ばれ、「ヨォーイ!」の掛け声でさっとスターティングスタイルを取る長男。
号砲一発、一斉に子供たちがスタートする。
長男は練習通りのスタートで、トップに出る。

ビデオを覗きながら、「よし!」と思うもカーブで団子状態になり、隣の子にコースを譲った格好になり、2位に落ちる。「あれぇ」と思うも、カーブから直線への立ち上がりが勝負。
ぐっと追い上げてトップの子と一緒にゴールテープを切るが、半馬身遅れたようだ。
残念ながらの2位。

しかしながら特訓したスタートと最後の直線の追い上げはよくやった。
学年で2番だから、まあいいだろう。来年はカーブの練習だな。
話によると一緒に走った子の中には、負けず嫌いで人を押しのけんばかりにして走る子がいたらしい。そうした闘争心はとってもいいなぁと思うのだが、我が長男はのほほんとしている。
それがいいのか悪いのか・・・

最後のリレーではチームは断トツの2位。
トップとは差が開き過ぎて、長男も見せ場はなし。ただバトンを待つ時、みんな親指を上にして手を差し出していたのに対し、長男だけは前傾姿勢で、教えた通り手のひらを上に向けて待っていた。スムーズにバトンを受け取り、なめらかな走りを見せてくれた。
素直に教えを吸収してくれるところは親としても気分がいいし、来年も楽しみだ。

それにしても、参加していた人たちはよく見ると当たり前だがみんな幸せそうな表情だった。
こうした運度会という習慣はいいなぁと思うのだが、どこの国にもあるのだろうかとふと思った。
かけっこや玉入れやお遊戯や親子競技など、よくみればいろいろな競技がある。
お遊戯なんて、一歩間違えるとどこかの国のマスゲームだ。
あんまりよその国にはなさそうにも思えるが、どうなのだろう?
いつの頃からどうして始ったのか、興味が湧いた。

今年は突然、冒頭で今までなかった国歌斉唱があった。
いい事だと大賛成なのだが、なんで今年からやるようになったのだろう。
しかしどうせならちゃんと子供たちに意味を教えて歌わせてほしかった。
長男は何の歌か知らなかったからだ。
まあ来年以降も続けてほしいと思う。

来年は、このブログで運動会についてどんな事を書いているだろう。
ちょっと楽しみである・・・

【本日の読書】
「魔王」伊坂幸太郎

       

2010年10月8日金曜日

出張の車窓から

一昨日は久々の出張だった。
出掛けた先は盛岡。
日帰りのとんぼ返り出張だから、あまりのんびりともできなかったが、まあ仕事なのでそれはしかたない。

東北新幹線で「はやて」だと2時間半くらいだから、ちょうど大阪へ行く感覚だ。
だが、東海道新幹線は本数が多いために時間のイメージがつきやすいのに比べ、東北新幹線は本数が少ないため、時刻表がなければ時間のイメージがつきにくい。
事実今回もちょうどいい列車がなく、3時間10分かかる「やまびこ」で行く事になった。
はやてだと早いのだが、ちょうど良い時間がない。
40分新幹線に長く乗るか、現地で1時間ほど時間を潰すかの選択で前者を選んだのだ。

友人のブログ風に写真を決めてみた)
乗り込んだ社内は意外にも満席に近い状態。
ちょっと驚く。もっとも本数が少ないせいかもしれない。不便だが、大量輸送は効率的だ。国鉄の時代ならともかく、今は空気を運んでも儲からない。利便性は確かに大事だが、空気を運んでその分運賃に転嫁される事を考えたら、窮屈な社内もやむをえまい。

駅弁を食べての移動。
本を読み、いつのまにか睡魔の誘惑に負けている。車窓にはいつしか田園風景が広がる。
こういう風景の中で暮らしてみたい、とふと思う。
いつの間にか新幹線は 先輩Hの住む杜の都を通過して行く。

車窓から眺める風景に、長野県の御代田に住む従兄の事を思い出した。
ちょうど家を建てる前、家の話になった時の事だ。我が家は敷地面積が30坪。
都会ではまあそんなものだが、いとこの感覚では普通は70~100坪だったから、お互いの認識の違いにびっくりした。そして坪単価を聞いた従兄は絶句した。
桁が一ケタ違ったからだ。

収入を比較すれば、たぶん私の方がかなり多いと思う。
だが、多額のローンを抱える私に対し、我が家の倍の広さの庭つきの家に、従兄は暮らしている。
生活コストが低い事を考えると、多少収入は少なくともずっと豊かな暮らしのように思える。
その分刺激も少ないし不便が多いのも確かだろうが、どっちが幸せとも判別がつかない。

車窓の田園風景の中に高校生らしきカップルを見つけた。
またそこで従兄に聞いた話を思い出した。
まだお互いに高校生だった頃の話だ。
その時従兄は、当時付き合っていた彼女から聞いた友達の悩みの話をしてくれたのだ。

その友達の彼氏は高校を卒業し、東京の大学に行く事になった。
そうすると二人の付き合いも続かないだろうと彼女は不安になった。
ちょうど彼女の方はその彼氏と初体験をするかどうか迷っていて、でも相手が東京に行ってしまうと、いくら彼女にその気がなくても彼の方から離れていくに違いない。
それならやがて知りあう未来の彼氏のために、“とっておいた”方がいいだろうかと悩んだらしい。

東京と御代田は、今では車でも新幹線でも2時間ほどで行き来できるが、当時は急行で3時間かかった。華やかな都会は今よりもずっと遠くに感じたのかもしれない。
そんな都会に出て行って、可愛い女の子をたくさん目にしたら、故郷に住む私なんか忘れられてしまうと心配したその彼女。結局どうしたのかは知らないが、どうしたのだろう。

今も地方ではそんなドラマがあったりするのだろうか。
あるいはそんな純な感覚は、地方においてさえももう古臭いものなのだろうか。
自分でも女の子の手を握るだけでもドキドキしていたあの頃の感覚が、今となっては懐かしい。
今でも相手が変わればあの感覚は蘇るのだろうか・・・

帰りは2時間半の「はやて」にうまく飛び乗った。
隣のサラリーマンは席に着くなり、ビールのプルトップの音を響かせた。
途中から山登りの帰りと思われるグループがどやどやと乗り込んできた。
帰りもけっこう混んでいた。大いにけっこうな事だ。

暗くなると窓には自分の姿が映る。
それを見て、高校生から見たら確実におじさんに見えるだろうなと思う。
それは仕方ないにしても、気を抜いたらだめだろう。
まだまだ気持ちの上では、20~30代のエネルギーと落ち着きと胸のときめきとを保っていようぜと、窓に映る自分に言い聞かせたのである・・・


【本日の読書】
「経済予測脳で人生が変わる」中原圭介
「アベンジャー(上)」フレデリック・フォーサイス
   

2010年10月5日火曜日

裏があるなら知りたい

民主党の小沢一郎が政治資金規正法違反で強制起訴される事になった。
検察審査会が2度にわたる起訴議決を出したのを受けてのものだ。
正直言って今回こうなるまで、こういう制度があるのを知らなかった。
たぶん大半の人がそうじゃないかと思う。

この事件、あまり熱心に追っかけていないいせもあるが、いまいちよくわからない。
容疑そのものもよくわからない。
「虚偽記載」というのは分かったが、それがどうだったというのか。
まあ責任ある立場の人だからなんでも違反はよくないというのは確かにそうだ。
だが、「虚偽記載」をして何をしたのか?
不正に賄賂を受け取ったのかどうなのか、そこまで示してほしいと思うのだ。
隔靴掻痒の感がぬぐえない。

次に起訴のプロである検察が起訴を断念したのに、強制起訴して大丈夫なのかという気もする。
国民の目も大事だが、何でもかんでも怪しければ起訴というのも怖い気がする。
どこかの大国とは違うんだし・・・
裁判員制度における裁判員は検察・弁護人双方の意見を聞いてジャッジするのが役目だ。
ある程度は素人だってかまわない。しかし、人一人を罪に問うのに素人感覚はどうなんだと思えてならない。

いくら裁判自体がきちんと行われるから、大丈夫だと言ったっていたずらに起訴すればいいというものでもない。国民の目というなら起訴に至った理由も明示してほしい気がする。
「秘書が独断でなしうるとは考えられない」と指摘していただけだと迫力がない。
マスコミもこういうところこそきっちりしてほしいと思う。

今後は、裁判所から指定された弁護士が検察役をするらしい。
だが、プロが断念したものを弁護士ができるのだろうか。
普通に考えれば有罪にもっていけるわけがない。
もしもこれでうまくいって有罪となったら検察官はみんな丸坊主だろう。

この事実を受けて野党は大喜びで批判合戦。
これは致し方ないとして、民主党の中からも離党勧告という声まで聞こえてくる。
先の党首選といい、何だか足の引っ張り合いみたいなものも垣間見えてくる。
表に出ている事情しかわからないから何とも言えないが、水面下でいろいろあるのかもしれない。

ちなみに私は小沢一郎に関してはニュートラルだ。
昔は発言内容などからけっこういいなと思っていたが、最近は外国人参政権や中国へのすり寄りなどで不安な思いをさせられる事が多いから中和されている。
考えてみれば「この人はいい」と思える政治家がいない。
安心して任せられる政治家が見当たらないのはなぜなんだろう。

今度社会人向け勉強会の講師を依頼する政治部記者の人にいろいろと聞いてみようと思う。
無関心こそが国民の最大の罪だと信じているので、少しは興味を持ってみたいと思うのである・・・

【本日の読書】
「野球へのラブレター」長嶋茂雄
「SEX」石田衣良
    

2010年10月2日土曜日

国際貢献

月に一度ある、母校の財団法人が運営している社会人向け勉強会に今日は参加してきた。
受講生としてスタートし、翌年から世話役として参加して今年で5年目。
今日のテーマは「国際貢献」であった。
この講義は個人的に好きである。

普段「国際貢献」などという事は考える事もない。
大切か、と問われれば大切だと答えるが、では何かしているか、と問われれば大半の人は何もしていないし、我が国がしている事も知らないというのが実情だろう。
事実、私も以前はほとんど知らなかった。

敗戦時、焦土と化した我が国は当時の最貧国で、海外から帰還する650万人(軍人350万人+市民300万人)を迎えるにあたり絶望的な状況であったという。
1945年の冬には100万人の餓死者が出ると予想されたそうである。
それを乗り越えられたのは、「ガリオア」、「エロア」という名称のアメリカによる援助、WHO、ユニセフなど国際機関による援助、「ララ」という名称のNPOによる各種援助であったという。

さらに世界銀行による資金援助で、東海道新幹線、東名・名神高速道路、黒部ダム、愛知用水などのインフラ整備が出来た。もちろん、その支援の背景には、常に国益で動くアメリカが、冷戦の中で日本を利用しようとしたという実情があるのだが、支援の事実は事実である。今日はそうした話はでなかったが、受講生には事前にいろいろと調べてきてもらった。

その中で日本ユニセフの「ハッピーバースデー」というプロジェクトが紹介された。
毎年1歳の誕生日を迎えられずに亡くなっている子供たちが世界で600万人いるという。
そうした現実を変えようと180組のアーティストが歌う「ハッピーバースデー」を1曲105円でダウンロードするとそれが寄付になるのだという。

なんて素敵な試みではないか、と感動してさっそく検索してみた。
「日本ユニセフ:ハッピーバースデー」
ずらりと並んだ180組のアーティスト。
しかし、残念ながらほとんど知らないアーティストばかり。
アーティスト情報に疎いゆえかと思うも、そうとばかりではなさそう。
このプロジェクト自体もあまり知られていないし・・・

もっとメジャーどころが入ってくると違うと思うのだが、運営者がもう少しビッグネームに働きかけたらどうかと思う。こういうプロジェクトならみんな喜んで協力してくれるような気もする。そしてそれをダウンロードする人もきっと大勢出てくるに違いない。

参加者からはいろいろな意見が出された。
講師としてお招きした国際協力機構(JICA)の方の話から、 「池上彰×緒方貞子」というサイトも見つけた。忙しい日常から離れてたまにはこうした問題に目を向けてみるのもいいと思う。

我が身を振り返ってみると、世の中には自分の生活しかないというような生活振りだ。
それはある程度は仕方がないと自分に言い訳しているが、時にはこうした問題を考えてみるのもいいものだ。少なくともそうした意識は持っていたいものである・・・


【本日の読書】
「野球へのラブレター」長嶋茂雄
「魔王」伊坂幸太郎