2017年12月31日日曜日

2017年大晦日雑感

2017年もいよいよ最後の1日。毎度のことながら1年が経つのは早い。大晦日は例年、玄関周りの掃除をする。1階、2階、外回りのシャッターに洗車と3日間に分けて行った大掃除の最後の仕上げである。綺麗好きの妻を持つと大掃除も楽ではないが、その分気持ちよく1年を終えられると言えなくもない。昼は恒例の年越しそばを食べ、後は夕食のすき焼きまで好きな時間を過ごすことになる。

今年は映画もかなり時間を作って観たため、今夜観るものを入れると189本となった。特殊要因があって最高を記録した2014年を除けば、過去最高である。ツタヤディスカスの動画配信サービスがあって、これを利用したため本数が増加したのである。昨年比20本増加し、ほぼ2日に1本のペースである。今年最高の1本としては、『ちはやふる』であった。それを聞いた知人は意外そうな顔をしていた。モノによっては自分も観ようと思ったらしいが、躊躇しているようである。

躊躇する知人の気持ちもよくわかる。「高校生モノ」「競技かるた」という内容は、自分もまず抵抗感があったし、何もなければたぶん観なかっただろう。それを覆して観たのは、映画好きの友人が絶賛していたからに他ならない。私は基本的に人が良いと言うものは試してみるタイプである。それが必ずしも自分にとっても同じ評価になるかどうかはわからないが、試して損することはない。それが予想外に心にヒットしたのであるが、やはり食わず嫌いはよくないと思う。このスタンスは維持して行きたい。

読書は、昨年と同じ130冊。数は多いが、なんとなく「片っ端から読む」のも限界感が出てきた。リストは長くなるばかりであるし、急いで読んでも内容はすぐに薄れてしまう。それよりじっくり読むことも大切だと改めて思う。今後は事前に少し内容を吟味して選別してから読むようにしようかとも思う。それに三島由紀夫など一度読んだ本を読み直すこともしていきたいと思う。

今年の大きな出来事は、ラグビーのシニアチームに入ったことだろう。これまでも母校の大学のシニアチームに属していたが、練習が月1回であり、内容も軽いので、もう少し負荷が欲しくなったのである。知人の伝手を頼り、別の大学のシニアチームに入れてもらった。こちらは練習が週1回。練習時間もほどほどに長く、毎週気持ちの良い汗を流している。体も心も鍛え続けなかければすぐに衰えてしまう。来年はもう少し体を作って試合にもチャレンジしたいと思う。

仕事は順調。経営改善三年目となる今期だが、なんとか目標利益を達成できそうな感じである。来期はまた次の段階へとステップアップするための大事な三年となる。しっかり計画を立てて、何より働く仲間がみんなハッピーになる仕組みを作り上げていきたいと思う。その一環として受験したマンション管理士の試験はどうやらあとちょっと届かなかったみたいである。記憶力は年々衰えていくし、得意のコツコツ努力も追いつかない。めげることなく再チャレンジである。

妻との関係や娘の心配など、家庭内は相変わらず不安要因がある。両親も年々衰えていくし、心配のタネは尽きない。こればかりは自分の努力だけでもダメな感じがする。だからと言ってさじを投げるのではなく、何かできないか、それを探る努力は続けていきたいと思う。どこまで何ができるのかはわからないが、諦めることなく出来る限りの事はしたいと思う。

今年は年初の会社の初詣で、新品の靴を間違われ持っていかれると言うアクシデントがあった。しかし、「新年から悪運にあって今年はいいことがあるかもしれない」と考え、起こった事実を受け入れることができた。その通りであったと言えば言えなくもないが、新年から気分を害することなく、心の平穏を維持できた。物は考えようではないが、「禍福は糾える縄の如し」。こういう心の平安も保っていきたいと思う。

来年も映画をたくさん観て、本をたくさん読んで、ラグビーに汗を流し、仕事に邁進し、資格試験に合格し、そして少しでも幸せ感を得たい。しばらく会っていない友人とも会って、これまで築いてきたものを大切に維持したい。さらにもっと言えば、自分の幸せ感と同じだけ人にも幸せ感を得てもらえるようにできたらと思う。

新しい年がもう間もなくスタートする。ゆく年を静かに送り、そして期待を込めて新しい年を迎えたいと思うのである・・・




【今週の読書】
 今こそ、韓国に謝ろう ~そして、「さらば」と言おう~ 【文庫版】 - 百田尚樹 無私の日本人 (文春文庫) - 磯田道史




2017年12月28日木曜日

ベストパートナーになるのは難しい

以前、『ベスト・パートナーになるために-男は火星から、女は金星からやってきた-』という本を読んだ。男と女の精神構造の違いを分かりやすく解説していて、それで思い当たるところ多々あり、大いに膝を打った一冊であった。その中でも特に納得感が高かったのは、「問題に対する態度」である。

『男は女が話す「問題」について、しばし独善的な解決策を押し付けようとする。男は“ミスター・フィクサー(調停屋)”の本領があり、これはこれで男なりの思いやりなのであるが、実は女の方に必要なのは、「解決策」ではなく、「感情移入」であったりする。男には問題をくどくどと並べ立てているだけという状況は理解できない。問題は解決するためにあるからであるが、この認識のズレが男女間のギクシャクになったりする。』

実は以前から、ある知人の女性と会うたびに「職場の問題」とやらを聞かされてきた。なかなかできの悪い上司に仕えているということで、話を聞くにそれはそれはなるほど大変な様子である。大いに同情するところであるし、私も上記の本で学んでいた通り、「それは大変だね~」などと取りあえず相槌を打って聞き役に徹していた。それが功を奏したのか、会うたびに、そして時折やり取りするメールでも彼女はその「苦悩」を訴えてきた。

私の聞き役ぶりも、それはそれで当初はよくできていたと思う。しかしながら回数が重なると、だんだん私もイライラしてくるようになった。何せ私の頭は常に「問題解決志向」的に働いている。「問題」を言われるたびにその解決策が頭に浮かぶ。自分だったらすぐに対処するだろう。私も銀行員時代には、お世辞にも仕事ができるとは言い難い上司に仕えたことがあるが、それでも不平不満を言っているくらいなら、「ではどうするか?」を考えた方が早いと思っていた。

当たり前だが、人は簡単には変えられない。みんな自分が正しいと思って行動している。部長の顔色ばかり窺っている上司もいたが、ある意味上司の意向に沿って仕事を進めるのはサラリーマンとして当然の事である。決断ができないのも慎重な性格ゆえだと思えばあきらめもつく。それならそれで自分がどう動けば上司はより早く決断できるようになるのか。偉そうだが、自分が上になってそれとわからぬようにコントロールしなければならない。それが出来なければ、自分の出来が悪いと思ってあきらめるしかない。

そんな私だから、「こんなへまをした」「こんなことをしでかした」「仕事を握り込んでいた」等々、ああでもないこうでもないと上司の不備をあげつらい、その上の部長に訴えたが聞き入れてもらえないなど、聞いているだけでうんざりしてくる。私の我慢にも限度というものがある。女は取りとめもなく愚にもつかぬことをしゃべってすっきりするのかもしれないが、そんな毒を受け入れるのも体に良くないというものである。

それが男のメンタリティだというのであれば、つくづく男に生まれて良かったと思う。「問題」は常に解決するものであって、「おしゃべりしてうっぷんを晴らしながら長く付き合うもの」ではない。これからもそのスタンスは維持していきたいと思う。かの知人女性とはしばらく距離を置き、どこか他の女同士で(もう既にだいぶあちこちでそうしてる様であるが)、ぺちゃくちゃおしゃべりし合ってもらいたいものである。

男と女がベストパートナーとなるのは、理屈で言うほど容易くはない。いい本だと思っていたが、現実はなかなか理屈通りにはいかないものだと思うのである・・・




【本日の読書】
 今こそ、韓国に謝ろう ~そして、「さらば」と言おう~ 【文庫版】 - 百田尚樹 無私の日本人 (文春文庫) - 磯田道史






2017年12月24日日曜日

論語雑感 為政第二(その15)

子曰。學而不思則罔。思而不學則殆。
()(いわ)く、(まな)びで(おも)わざれば(すなわ)(くら)し。(おも)いて(まな)ばざれば(すなわ)(あや)うし。
【訳】
先師がいわれた。他に学ぶだけで自分で考えなければ、真理の光は見えない。自分で考えるだけで他に学ばなければ独断におちいる危険がある
********************************************************************************
論語の言葉はどれも真理だとは思うが、人によって受け止め方は様々だろう。今回のこの言葉は、個人的にはかなり納得感の高い言葉である。常々「考えること」の重要性を意識している我が身としては、「学ぶ→考える」「考える→学ぶ」というサイクルこそが進歩の礎だと思っているからである。論語の言葉で学んだことではないが、「論語にも書いてあった」ということで「我が意を得たり」と膝を叩かされたのである。

自分自身の性格を顧みると、子供の頃からかなり真面目である。それは父親譲りだと自覚しているのだが、その性格は教えられたことをそのままきちんと覚えるというところに出ている。それを深く意識させられたのは高校時代のことである(【進化】)。高校でラグビーを始めた私は、当然ながら教えられたことを忠実に守り、真面目にその通りに実践していった。その結果、私のプレースタイルは「教科書通り」と評価されるようになっていたのである。

この言葉は「褒め言葉」として言ってもらったのであるが、私にはショッキングな言葉であった。言われてみればなんの面白みもないと気づいたし、決められた線路しか走れない人間であるかのような感覚に囚われたのである。そんな考え方が変わったのは、大学に入ってラグビー部の門を叩き、そこでの自主性を重んじるトレーニングを経てからである。高校時代の私はまさに「教科書通り=学びて思わざる」状態であったのであるが、大学の練習で「考える」ことに気付き、「教えられた通りが必ずしもいいわけではない」ことに遅ればせながら気がついたという次第である。

例えば高校時代、タックルのやり方を習った。そのやり方は皆に徹底されていて、それを外れると練習でも試合でも注意された。もちろんそのやり方は、長年の先輩たちの努力と工夫の積み重ねであり効果的であると思うが、タックルのやり方は当然ながら一つではない。高校時代教えられた二つでもない。そもそもであるが、タックルの目的は「相手を倒すこと」である。相手を倒せば正解なのであって、どんな倒し方であったとしても(ルール違反にならなければ)いいのである。たとえ教えに反していても、である。
「考えてみれば」それは当然である。

では、倒すためにはどうすれば良いか。高校時代に教えられたタックルのやり方はもちろん間違いではない。しかし、シチュエーションや自分の心理(タックルに行くには最初やっぱり恐怖心があったのである)を考えてみると、いろいろなやり方がある。それを実践で試し、そこから得た教訓からまた考える。これを繰り返すうちに、恐怖心もなくなり、「形(教え)にとらわれず」「倒せば正解」のタックルは私にとって好きなプレーの一つになったのである。

勉強でも仕事でも、そんな例は様々ある。勤めていた銀行では様々な社内ルールがあった。それをそのまま覚えるのも大事だが、「なぜそんなルールが生まれたのか」、「なぜそうしなければならないのか」を考えればより一層ルールが深く身につく。そしてその原則が分かっていれば、違うシチュエーションでも応用が効く。表面的に覚える(学ぶ)だけではなく、その背景まで深く「考える」ことが極めて重要である。

今でも日々の仕事にそれは生きている。それがあれば、状況に応じた「判断」ができるようになる。子供達も学校で習ったことをそのまま覚えて欲しくはないと思う。一つ一つ教えてあげることはできないが、食卓での会話などの機会にできる範囲内で話したいと考えている。一つ例がわかれば、あとは自分で応用を効かせられるかもしれないからである。この論語の言葉は、その深い意味とともに諳んじられるくらい教えたいと思うのである・・・






2017年12月20日水曜日

リーダーの熱き想い

仕事でこれから大きなチャレンジをしていこうとしている。チームでチャレンジャブルな目標を掲げてこれからそれに向かって邁進していこうとしているのである。それはそれでいいのであるが、1つ懸念事項がある。それはチームリーダーの「覚悟の度合い」である。これまでも幾度か方針に対する変節やリーダー辞任発言などがあって、そのたびに思い直してもらっていたが、大きな目標を立てる以上、そういうことがあっては困ってしまう。

そもそもなぜそういう変節(方針の180度転換)やリーダー辞任発言があるのかと言うと、そこには根底からリーダー自身の意思の脆さがあると思う。強い意思がないということであり、またそれはやろうとしていることに自信がないということでもあると思う。困難に面した時、やり抜くかやめるかを決めるのは意思の力によるところが大きいと思う。

自分自身を振り返ってみると、過去には大学受験の時がその試練の時だったと思う。第一志望の国立大学一本に絞って臨んだ1年目は見事に玉砕し浪人、捲土重来を期して臨んだ2年目は宅浪の身分であった。1年間自宅にこもって猛勉強したが、受かるという自信は最後まで持てなかった。このまま続けていいのか、目標をワンランク下の公立大学に切り替えるか(それだったら1年目に楽に受かっているレベルであった)、不安は尽きなかった。

結局、何とか合格を勝ち取ったが、今振り返ってみても合格できたのは何よりも最後まで諦めなかったことであり、先が見えない中、不安な気持ちを抑えながらやることをやり続けた結果に他ならない。学力もさることながら、途中で不安に負けて志望を変えていたら当然ながらその結果は得られなかったわけである。

今度のチャレンジも成功する確証などどこにもない。あるのはただ「できるはず」という思いだけである。あとはただその道を信じて進むしかない。その時、リーダーの役割としては、メンバーを鼓舞することだろう。途中で「やっぱり難しいかもしれない」というムードが出た時には、「俺は1人でもやるぞ」という覚悟を見せなければチームは一つにまとまって動けない。ましてやリーダー自ら「無理かもなぁ」などと言い出したら、チームの足はそこで止まってしまうだろう。ましてや「俺にリーダーは無理だ」などと言い出したら、THE ENDである。

リーダーには冷静さが必要なのは言うまでもない。猪突猛進するだけでも困るのは事実である。しかし、困難な中、チームを鼓舞し進み続けないといけない時は断固とした態度を見せないといけないと思う。こういうリーダーの姿こそ、チームのメンバーの支えとなるものである。会社では役員とは言え、自分はリーダーではないだけにもどかしいものがある。だが、それはそれで逆にリーダーが怯まないように支えていけばいいのかもと思う。

これからどうなるのか。どうなるにせよ、自分でできることをやっていきたいと思うのである・・・



【本日の読書】
 失敗の科学 - マシュー・サイド カント『純粋理性批判』入門 (講談社選書メチエ) - 黒崎 政男






2017年12月17日日曜日

ケンカ男子

小学校から中学校にかけて、私はどちらかというとおとなしい方だったと思う。ただ、では目立たない方かと言えばむしろ逆で、運動神経は良かったからスポーツでは割と中心的な位置にいたと思う。昼休みの野球では主力選手の1人だったし、運動会では常にリレーの選手だったし。中学では2年から途中入部したバスケット部でレギュラーになれなかったというのはあったが、最初から入っていればそんなことはなかったと思う。ただ、それ以外では大人しい子供のグループに入っていたと思う。

そんな私だったが、ケンカ度胸だけはなくて、この点では「逃げるが勝ち」派だった。小学校の時は友達をからかい過ぎて殴られたことがあったが、その時は予想もしていなかった反応で驚いたということもあって殴られっぱなしだった。ただ、そうでなくても殴り返せなかったと思う。中学の時も同様のことがあった。腹のなかでは「ちきしょう!」と思ってもやり返すだけの度胸はなく、悔しい思いを飲み込むことしかできなかった。

中学時代は、当時いわゆる「ツッパリグループ」と呼ばれていた一味がいて、自分は目をつけられないようにいつもビクビクしていた。一度道で出会ってしまい、公園へ連れ込まれそうになったが、慌てて何だかんだと言い訳をして逃げたことがある。今振り返って思い出してみても、悔しい思い出である。もしも今の自分だったら、そのまま公園へついて行って殴り合いのケンカに応じていただろう。だが、当時はまったくもってそんな意気地などかけらもなかったのである。

そんな自分がケンカができるようになったのは、ラグビーを始めてからである。体と体でぶつかり合うことを繰り返すうちに恐怖心も徐々に薄れ、体の大きな相手をタックルで倒すことができるようになると、「殴られてもこの程度のダメージ」ということもわかるようになっていき、自然と度胸もついていったのである。走り込んで来る相手にタックルに行くのは勇気のいる行為であり、これができるようになると、ケンカぐらい大したことはないと思うようになったのである。

ケンカをするのは当たり前だが良いことではない。だが、「ケンカをしない」のと「ケンカができない」のとの間には、天と地ほどの差がある。「いざとなったらケンカができる」、「殴り合いになっても怖くない」という自信は、心に余裕を生み、その余裕が腹が立っても感情を抑えて対処できることに繋がる。大人が5歳の子供にケンカを売られても優しくたしなめられるだろう。まさか本気で相手にする人はいないと思うが、それは力の差からくる余裕であり、それと同様である。格闘技を身につける意義もここにあると個人的には考えている。これは女性には理解できないことだろう。

社会人にもなれば、腹が立ったからと言ってまさかケンカをするわけにもいかない。ただ、理不尽なクレームに怯まずに対処するにはこの度胸が役に立つ。私も実際、銀行の窓口で理不尽クレーマーを撃退したことがあるし、つい最近も理不尽要求を突っぱねたところである。ケンカ度胸のない人は、こういう時にしどろもどろになってしまうだろう。少し前にコンビニで土下座させられた店員さんの動画が話題になったことがあったが、私だったら絶対にしないだろう。

こうした経験から、息子にも当然「ケンカのできる男」になって欲しいと思うが、一方で「力のコントロール」も学んで欲しいところ。ただケンカができるだけではマイナスにしかならないと思うからである。いざとなったら、自分や家族を守る。不当要求にはきっぱりと突っぱねる度胸を持つ。こうしたものの裏付けとなるのは、いざとなったらケンカができるという自信だろう。

ケンカができると言っても、理不尽な要求には屈しないと自慢してみても、実はそれは家の外での話。家の中では、耐えるばかりなのが実情。こればかりは如何ともしがたいものがある。息子が将来どんな大人に育って行くのかはわからないが、少なくとも家の外ではきちんと怯みなく自己主張でき、理不尽な要求には屈しないだけの精神力と腕っ節とを身につけてもらいたいと、父としては思うのである・・・




【今週の読書】
 投資の鉄人 - 馬渕 治好 消えない月 (角川文庫) - 畑野 智美










2017年12月14日木曜日

家庭内歴史教育

先日の事、家族での食事中に突然妻が小学校6年の息子に対し、歴史の授業で戦争についてどう教わっているのかと質問をした。何でもママ友との会話で、息子の通う学校でいわゆる「自虐史観」に基づく教育がされているらしいと聞いてきたようである。妻の質問に対する息子の回答はそれを裏付けるもので、「日本の侵略史」が教えられていたようである。

妻の突然の質問にも驚いたが、妻が自虐史観に反感を持っていると知っても驚いた。これまで夫婦でそんな話はしたこともなかったのだが、そもそもそんな話に興味を持っているとすら思わなかったこともある。選挙と言えば無関心だし、新聞もテレビ欄から見るような妻が、そんなところに関心を持っているとは夢にも思わなかったのが正直なところである。

その場には高校生の娘もいたが、さっそく我々が正史と考えている歴史を語って聞かせた。妻から説明役を任じられたことは言うまでもない。さすがに従軍慰安婦については説明しにくかったが、日本の植民地経営が西洋の「略奪式」のそれとは違うことを説明した。娘が「創氏改名」を持ち出してきたので、それも強制ではなく「選択制」だったことを朝鮮人でも朝鮮名で軍隊で出世できたことを例として説明した。インド兵はイギリス軍の中で同じような出世などありえなかったことを説明するとそれなりに納得していたようである。

自虐史観については、個人的にはいかがなものかと思う。子供たちがそういう教育を受けることについては心配な面もあるが、そういう自分も(そして関心などなかったはずの)妻も今では自虐史観教育の影響などないわけであり、心配する必要などないのかもしれないと思う。大事なことは、先生に教わったことがすべて正しいと無条件に信じることのない様に教えることではないかと思う。何事につけ、「自分の頭で考える」ことができれば大丈夫な気がする。

従軍慰安婦の問題も南京大虐殺の問題も、そもそも日本の侵略ももはや過去の歴史で、ほとんどの人は教えてもらうしか知りようがない。何が真実かは、当時の人たちしか知りえないからである。確たる証拠がないから論争になるわけで、部分的な証拠や意見から自分で「これが真実に近いのでは」と思う考え方をみんな採用しているわけである。もちろん、人は「見たいものを見る」傾向があるから、そういうバイアスには気を付けないといけない。要は双方の意見にきちんと耳を傾け、そして自分の頭で考えるということが必要だろう。

今回の話は実に有意義であった。娘は「新聞によって意見が違う」という事実も知らなかったようである。考えてみれば、私も娘の年頃では新聞は事実を報道するのだからみんな同じだと当然のように思っていたと思う。それについては話題になっている憲法改正についても朝日新聞と産経新聞とでは180度違うということを例に説明した。こういう話ができたのも良かったと思う。願わくばこういう話を普段からちょくちょくしていたいと思うのだが、バラエティ番組が背後に流れる我が家の食卓風景の中ではなかなか難しい気もする。

しかしながら、折に触れやっぱりこういう話を真面目にしていきたいと思うのである・・・




 【本日の読書】
 投資の鉄人 - 馬渕 治好 消えない月 (角川文庫) - 畑野 智美






2017年12月10日日曜日

論語雑感 為政第二(その14)

子曰。君子周而不比。小人比而不周。
()(いわ)く、君子(くんし)(しゅう)して()せず。小人(しょうじん)()して(しゅう)せず。
【訳】
先師がいわれた。君子の交りは普遍的であって派閥を作らない。小人の交りは派閥を作って普遍的でない
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論語に載っている言葉は、どれもこれもごもっともで、異論を挟む余地はあまりない。当然と言えば当然のことである。今回の言葉は、「君子は派閥を作るべきではない」という意味だそうである。派閥というと何だか政治家のようであるが、要は「広く多くの人と公平につきあう」ということだろうか。理想としてはその通りであるが、実際はどうであろうか。

我が身を振り返ってみると、とてもではないが「周して比せず」どころではなく、「比して周せず」となっている。もともと人見知りのところもあって、あまり多くの人と万遍なくお付き合いするというのが苦手ということもあるが、世の中いろいろな人がいる中、どうしても相容れない人がいる。そういう人とはなるべく距離をおいておきたいと思うのである。要は好き嫌いがあるということである。

好き嫌いと言っても、自分の場合、それは考え方の違いからくるものが多い気がする。サラリーマン社会では、「上司に媚びへつらう」人は多々いる。あるいはそこまでいかなくても、「なんでも上司の言う通り」という人もである。「上司の言う通り」にしなければならないのは、ある意味サラリーマンとしては当然なのであるが、それは例えば自分が上司と違う意見を持っていた場合などに、それをきちんと主張するかしないかと言い換えてもいいかもしれない。伝えた上で、それでも「やれ」と言われたらそれは従うべきで、黙って従うのとはちょっと違う。私などは必ずそうしないと気が済まないので、最初から黙って従う人を見ているとどうにも理解できない。

ただ、逆に上司の立場からすると、黙って自分の意のままに動く部下の方が、一々意見を言ってくる者よりも使い勝手がいいかもしれないとよく思う。一々説明するのは面倒かもしれないし、黙って従う方が「愛い奴」となるのかもしれない。それに説明してくれればまだしも、「○○のように黙ってやってくれればいいんだよ」などと言われようものなら、私だったらはらわたが煮えくりかえるだろう。

日常生活でも「そんなことぐらいで・・・」という意識の違いの話は溢れており、「そんなこと」の差でお互いの感情が衝突することが間々ある(我が家ではしょっちゅうだ)。家庭内なら黙って耐え忍ぶしかないが、外でまでそんな事をしたくない。勢い、「合わない人とは距離を置く」というスタンスにならざるを得ない。そして「合う人」とだけ親密に付き合うということで、居心地よく過ごすことになる。現に私の人付き合いはそんな考え方による行動の結果をきっちりと表している。実に見事なまでの「小人」振りである。十分な自覚があるが、では孔子先生の説かれる君子のようになりたいかと問われれば、それはやっぱり無理してそこまでしたいと思わないというのが正直なところである。

果たしてそんな私の状況を見たら、孔子先生は何ていうのだろう。「小人」と判断されて終わるだろうか。ただ、私も好き嫌いがすべてではなく、仕事やその他の集まりで、どうしてもチームを組まざるを得ない時はある程度「目を瞑る」ということはする。お客さんとのお付き合いも然り。中にはどうにも「人間の小さい」と思えるお客さんがいて、心の中では「やれやれ」と思うのだが、それを表に出すわけにもいかない。お金をいただく以上、ご希望には答えないといけないので、そこはわきまえている。

ただ、それ以外はやはり「馬の合う」メンバーと付き合うということになる。孔子の言わんとしたところがどういうものなのかその真意はわからないが、なかなか好き嫌いを超えて分け隔てなく付き合うのは難しい。悪印象の代表である政治家の派閥にしたところで、運用次第では悪いこととも思えない。理想は理想として、やはり心地よく生きるためには、「比して周せず」も悪くはないのではないかと思う。

考え方がやはり小人なのであろうか。それもまたやむなしと今回は思うのである・・・




【今週の読書】
 すべては戦略からはじまる - 西口 貴憲 逆説の日本史23 明治揺籃編 琉球処分と廃仏毀釈の謎 (小学館文庫) - 井沢元彦






2017年12月5日火曜日

心付けは必要か

先日、母親と話をしていて、伯母が入院したことを聞いた。その入院に関わる話の中で、先生や看護師に対する「心付け」の話になった。この話は以前母親が入院した時に議論したことがあって、それを念頭に母も私に語ったのである。曰く、「やっぱり対応が変わるんだよ」と母は得意気であった。「伯母がそうだって言うんだからなおさらだ」と付け足す。以前の議論では、私が心付けには反対だと主張し、「必要だ」と主張する母と意見が異なったのである。

母が言うには「対応が変わる」というのがその理由。さすがに先生はあまり変わらないらしいが、「看護師は変わる」と鼻息が荒い。経験のない私にはわからないが、「こんなにも違うのか」というくらい違うそうである。それが嘘だとは思わないし、そう感じるなら事実なのだろう。だが、それでも個人的には反対する気持ちには変わりがない。まぁ母や伯母が心付けを渡すのを止めはしないが、自分が入院した時には絶対やらないだろうと思う。

そもそも病院によっては、最近は「心付けはお断りいたします」と表示してあったりする。企業としての病院サイドに立ってみれば、もらっても困るであろうことは想像に難くない。現金をもらったとして、それをどうするのか。個人でポケットに入れるのはいくらなんでも問題だろう。では例えば看護師長に報告して渡したとして、看護師長はそれをどうするのか。経理だって渡されても困るだろうし、水面下で「山分け」するかという話になる。そうすると、山分けのおすそ分けにあずかれる人とあずかれない人の公平性の問題はどうするのかとか。いくらもらえるのかはわからないが、金額と分ける人数によっては雀の涙かもしれない。考えてみれば実際はどうしているのか興味深い。

また、「対応が違う」ということも病院サイドからすると具合が悪いのではないかという気がする。差をつければつけたで批判が出そうだし、つけなければつけないで渡してくれた人に悪い気もするだろう。現実的に母や伯母が「違う」という以上、違うのだろうが、もらってしまった以上は多少なりとも差をつけないと悪いという思いがあるのだろう。それは別に悪いとは思わないが、やっぱり自分はそれを利用したいとは思わない。実質的にはお金でそういうサービスを買うことには変わりないし、それで人よりいいサービスを受けたいとも思わない。「同じ」でいいと思うのである。

要は、利用したいと思わないのは、「お金がもったいない」といった金銭的な理由ではなく、「公平感」といったものだと思う。たとえばそれがメニュー化されていて、松竹梅とサービスに価格がついているならともかく、金額も何もまったく個人の「心次第」で不透明なやり取り(言ってみれば「袖の下」だ)で決まるのはどうにも心が落ち着かない気がするのである。そういう「気が回る」か「お金がある」かによって差がつくというのは、たとえ渡して利益を得る立場であっても心地よくない。

そんな話をすると、母は決まって「お前、世の中ってそんなもんじゃないんだよ」とたしなめられる。母の立場からすれば、それは「賄賂」というより「お礼」に近いものなのかもしれない。このあたりはもう長年身についたお互いの価値観の違いだからどうにもならない。仮に、私がもし入院するような事態になり、私が「心付け」を渡していないと知ったら、母はたぶん私に代わって「心付け」を渡すだろう。たとえそれが私の意に反していたとしても、である。そしてそれを知れば、当然私は気分を害するだろう。

どちらが正しいのかは問うても仕方ないことだと思う。母や伯母は長年身につけてきた考え方というものがある。それに病院サイドにしたところで、公式見解は「やめて欲しい」であったとしても、個々の現場の看護師さんレベルからすれば、実は運用面がうまくなされていて「もらって嬉しい」ものなのかもしれない。それに現実的に対応が変わって母や伯母は満足しているわけだし、それ以上批判するのもおかしな気もする。

結局のところ、「好きにすればいい」ということになるのだろう。そんなことより、そういうことで煩わされることのない様、できるだけお世話にならないように健康でいたいと思うだけなのである・・・




【本日の読書】
 小さな会社の稼ぐ技術 - 栢野 克己, 竹田 陽一, 豊倉 義晴(取材・執筆協力) 逆説の日本史23 明治揺籃編 琉球処分と廃仏毀釈の謎 (小学館文庫) - 井沢元彦