2016年6月30日木曜日

経営者目線で働くということ

上司がAと言ったら「A+B」の仕事をこなさなければならない
(大前研一)
能力の差は5倍、意識の差は100
(永守重信)
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 東洋経済のサイトで、『従業員に「経営者目線を持て」という謎の要求』という記事を読んだ。「経営者目線を持つ」という意味をよく理解できていない記事なのだが、それはそれとして、「経営者目線を持て」ということは良く言われることである。私も20代の頃、上司に「一つ上(の職位に)なって考えろ」と指導された。一般社員なら係長の、係長なら課長の、課長なら部長になったつもりで考えろという事である。「なるほど」と思ってなるべくそのように意識していたつもりである。

 結果的に言えば、「なったつもり」と実際に「なる」ことには大きな差があって、なかなか難しいのが実感であった。その最大の要因は、「情報量」である。一つ上のランクになれば、私のように銀行員であれば、支店長や隣の課からいろいろと情報が入ってくる。ある事実について、自分の課だけで考えるのと、隣の課あるいは支店全体の、または銀行全体の状況を鑑みての判断とでは自ずと違いも出てくる。2階の景色を想像してみても、実際に上がって見てみるのとはまた違うのである。 


それはそれであるが、どちらも「今の自分より高い位置から考えろ」という意味では同じである。一つ上のランクどころか「経営者」となれば、文字通り「トップ目線」という事である。なぜそのようなことが求められるかと言えば、それは記事にあるように「残業せずに働け」という経済的理由ではなく、「サラリーマン根性」からの脱皮という考え方からの理由に他ならない。

サラリーマンは、与えられた仕事をして給料をもらっているが、ともすると「与えられた(言われた)仕事しかしない」という事になりがちである。また、極端な話、成果が出なくても(=何もしなくても)給料がもらえるという立場でもある。 一方、経営者は人を雇った瞬間から給料を支払う必要が発生する。それこそ、十分な成果が得られず、「何もなくても」給料を払わないといけない。片や成果ゼロでも給料を払わなければならず、片や成果ゼロでも給料がもらえる。この差はとてつもなく大きい。

それは通常意識の差となって表れるものであり、それはそのまま働くスタンスにつながる。経営者は成果が上がらなければ、寝ても覚めても真剣にあれこれ考えるだろうが、従業員の立場からすればそこまではしないだろう。 もちろん、成果が上がれば経営者はいくらでも報酬を得られるが、従業員の方はある程度決まっている。そこで調整されていると言えばその通りである。ただ、「経営者目線を持て」という言葉を経営者が発する場合、そこには大体従業員に対する「物足りなさ」があることは間違いない。「もっと真剣に、必死になって働いてくれよ」というわけである。もちろん、働く方の意識もある。「そこまでしたくないよ」と。 

そこからは、もちろん個人の働き方の問題で、どちらがいいという事ではない。東洋経済の記事も、「経営者目線など会社にとって都合のいい精神論」だと主張する。私などは、「プロのサラリーマン」という意識を持っているから、自分が何をなすべきかは会社の立場からも当然考えている。そして意地でも自分に求められる成果を上げようと思っているし、仕事のヒントになることを探して常に意識のアンテナを張っている。だからと言って、「社畜」であると言われる筋合いはなく、言ってみれば、プロのサラリーマンとしての意地である。 働いて給料をもらう以上、それなりに成果を出すのは当然である(と私は考える)。

もちろん「安い給料でそこまでやってられない」という意見もあるだろう。ただ、大体そういう意見を言う人ほど、「では高ければ高いなりに成果を出すのか」と言うと、そんなことはないだろう。なぜかと言えば、「給料にあわせて成果を出す」などという意識の人間が、成果など出せるわけがないからである。安い給料だろうと、高い意識で仕事をしている人間は、経営者の目に止まり引き上げられるものだし、経営者に見る目がなければ見る目を持つ経営者のところへ出て行ってしまうだろうからである。 

結局、「経営者目線」を持つという事は、働く従業員自身のために必要なことだと言える。もちろん、「そこまでしたくねぇよ」という人は別である。「経営者目線」で働いていれば、それが自然と自分自身の働く力となる。どこへ行っても困ることはないであろう。もしも、そういう意識で働いているにもかかわらず、「経営者目線を持て」と言われたら、それは「傍から見るとモノ足りない」というメッセージに他ならない。自分自身が「自分の経営者」と考えて、「経営者目線」を意識するのも良いかもしれない。 

それでもまだ、東洋経済の記事にあるように、「従業員目線」で働くというなら別に構わないと思うが、自分はそうはありたくないと思うのである・・・
















【本日の読書】
  
  

2016年6月26日日曜日

金融庁検査今昔

 池井戸潤の半沢直樹シリーズ『オレたち花のバブル組』を読んだ。今更ながら、であるが面白い本である。その面白さの一つとして、著者の池井戸潤が元銀行員というだけあって、話の内容が実際のそれに即しているというところがある。合併後も「旧T」、「旧S」と旧行意識を剥き出しにしていたのは、三菱東京UFJ銀行の実際の姿であるし、金融庁検査の前には、「疎開」と称して金融庁に見られてはまずい資料を隠していたのも事実である(私も経験がある)。「元銀行員」として、私もそれらの実際のエピソードを思い出しながら読んだのである。


 特に金融危機の頃は、金融庁は各銀行に検査に入り、次々と取引先を「分類」していった。「分類」とは、業績の悪い企業向けの貸出を「問題債権」として認定することである。これをやられると、銀行はその取引先に対する貸出金に引当金を計上しなければならなくなり、金額が大きければ銀行の経営が傾いてしまう。実際、UFJ銀行はダイエー向けの貸出についてこれをやられ、挙句の果てには東京三菱銀行に救済合併される羽目になった。また「認定」された取引先には追加融資ができなくなるので、取引先とて一大事である。

 銀行は必死に事業計画やら何やらを持ち出し、その企業が業績回復することを説明するが、金融庁は、難癖をつけてそれを否定しようとする。まさに『オレたち花のバブル組』に描かれている様子そのままである。そして金融庁が入れば、「銀行が守りきれなかった」取引先が「認定」され、銀行はその先に対する貸出金額を新たに公表不良債権額として発表する。するとそれをマスコミが、「銀行はまだ不良債権を隠しているのではないか」と報じたて、同調した世間から銀行はひたすら悪者扱いされたのである。

 こんな苦々しい経験を経て、「金融円滑化」の時代に入る。この時、政府はとにかく企業を救えと、銀行には返済の緩和を求め、金融庁検査も「いかに銀行が救う努力をしているか」にテーマが変わった。銀行に対しては、とにかく救う姿勢を求め、事業計画をつくれない企業に対しては、銀行が代わりに作ることを求めた。どれだけ救う努力をしているかが問われたのである。そこには、かつて銀行が懸命になって説明した事業計画をけんもほろろに否定した金融庁検査の姿は欠片もなく、甘い事業計画でもホクホク顔で承認したのである。「なんだったんだ」というのが、現場の正直な感想である。

 もちろん、銀行はいつの世も自らの貸出を守る。それは何よりも自分の利益でもあるから当然なのであるが、同時に取引先の利益でもある。だが、時代によって当局の対応は180度違う。半沢直樹の人気のセリフ「倍返し」ではないが、大「手のひら返し」である。もちろん、そんなことは当の金融庁の人たちだってわかっちゃいるだろう。金融政策は世の時々に応じて柔軟になされなければならない。大臣の気分一つで「大手のひら返し」にも、それまでと同じ顔してやらなければならないことだろう。わかってはいるが、「それでも・・・」と思う気持ちは無くならない。それに拍車をかけるのが、そんな事情を知ろうと思えば簡単に知ることができるのに、まるで何事もなかったかのような能天気なマスコミ・・・

 マスコミは「三歩歩けば昨日のことは忘れる」体質だから、これも仕方ないのかもしれない。だが、悔しい思いをした者はいつまでも覚えている。世間は風化しても、人気シリーズはそんな時代をありありと現在に伝えてくれる。小説を読みながら、溜飲を下げたのだが、それは主人公の活躍ばかりでもないのである。単純に読み物としても面白いし、読んでいない人や特に金融庁や経済担当のマスコミ関係者にも「今だからこそ」読んでほしい一冊でもある。

 今は転職して金融業界から離れてしまったが、あの頃の出来事は銀行員時代でも印象深い時代である。そんな「今は昔」の物語なのである・・・



















【今週の読書】