2010年1月31日日曜日

映画雑感

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昨年までの世界興行収入ベスト5(億ドル未満切捨て)
 1.タイタニック               1997年  18億ドル
 2.ロード・オブ・ザ・リング 王の帰還    2003年  11億ドル
 3.パイレーツ・オブ・カリビアン デッドマンズ・チェスト
                        2006年  10億ドル
 4.ダークナイト               2008年  10億ドル
 5.ハリー・ポッターと賢者の石        2001年   9億ドル
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 米映画 『アバター』(ジェームズ・キャメロン監督)が凄いヒットを飛ばしている。配給元である20世紀フォックスの発表によると、それまで世界興行収入第1位だった『タイタニック』(同監督)の18億4,290万ドルを越え、18億5,500万ドルに達したという。

 『タイタニック』の記録は1年半にわたるトータルだが、『アバター』はわずか39日間でこれを越えたという。『タイタニック』の記録といえば上記の通り、それまで2位にダントツの差をつけて10年以上も君臨してきた大記録である。それをいとも簡単に越えてしまったとは驚きだ。まぁ映画自体は非常に面白いのでそれはそれで頷けるものはある。

 監督のジェームズ・キャメロンは私の好きな映画監督の一人である。「エイリアン2」「アビス」「ターミネーター2」「タイタニック」とどれもこれも私の映画史に輝いている。特に人間ドラマが秀逸だ。

 スピルバーグやルーカスといった大御所の映画は、「夢」溢れるものが多かった。現実世界とは異なる世界で、根底に流れるのは「夢」とか「希望」とかそういうもので、それはそれで素晴らしい。しかし、キャメロン監督の映画ではそれが重厚な人間ドラマなのである。その人間ドラマゆえに、胸が熱くなるのである。

 そしてその人間ドラマに共通しているのは「sacrifice」の精神である。「誰か(何か)のために、我が身を省みず信念をもって危機に立ち向かう姿」である。頼みの海兵隊が全滅し、たった一人で少女を守ってエイリアンと対峙するリプリー。深海に沈んだ核兵器を無力化するために片道切符覚悟で人類未踏の深度へと潜る「アビス」のバド。未来から送り込まれてきた殺人マシーンでありながら、「殺さない」事を学び、人類のために大きな決断を下すターミネーターT-800。沈みゆく船の中でパニックに陥り、我が身優先に考える人々の中にあって、最後まで恋人を守ろうとする青年。

 そうしたものは脚本までも手掛けるキャメロン監督の意図するものなのだろう。自分もそんな風にありたいと常々思っているせいか、観終わったあとあとにまで深く残るものがある。

 前作から10年以上も待たされた甲斐は十分にあった。満足する間もなく、「次回作」を期待してしまうが、それはまだまだ先の楽しみになりそうである。こういう映画を苦もなく観られる幸せをしっかりと噛み締めたいと思うのである・・・


【昨日の読書】
「ゴールドラッシュの超ビジネスモデル」野口悠紀雄
「コーヒーとサンドイッチの法則」竹内正浩
           
       

2010年1月28日木曜日

幼稚園児

 先週妻が風邪でダウンした。
鬼の霍乱ってやつだが、一家の主婦がダウンすると家事が混乱する。
それはわかるのだが、意外な悪影響がある事も発見した。
長男が幼稚園を休まざるをえなかったのだ。

 長男が通う幼稚園は親の送り迎えが義務付けられている。徒歩の子は幼稚園まで、バスの子はバス乗り場まで親が送迎しないといけないのだ。私が幼稚園の頃は、ほとんど一人で毎日テクテク歩いて通っていた。弟は甘えん坊で1年くらい母親に送り迎えしてもらっていたが、私はすぐに一人で通うようになっていた。やっぱり当時からしっかりしていたのだ。

 ちなみに当時のルートを地図ソフトで測ってみたら674mだった。大人の足で8分くらいか。記憶の中では遥かな距離を歩いた気がしていたが、意外と近い。長男の通う幼稚園は我が家から790mだから、私の通った幼稚園はそれより近かったわけだが、記憶の中ではずっと遠くに感じる。不思議なものだ。

 子供たちには早く自立してほしいと考えているので、当然幼稚園にも一人で通わせたい。しかし、昨今は信じ難いような事件も起こるし、おかしなやつがいるし、何かあるとすぐ責任を転嫁するモンスターペアレンツもいる。だからだろう、幼稚園が親の送迎を義務付けるのも自衛のためでやむをえない。園外までは責任持ちませんというわけだ。そうしたスタンスを責めるのは酷だ。

 そういえば先日妻がある番組の話をしてくれた。幼い子供たちに留守番をさせるという企画だったようである。あらかじめお母さんが子供たちに、「電話には出てはいけません、チャイムが鳴っても出てはいけません、知らない人について行ってはいけません」と言って外出する。その上で番組のスタッフが子供たちに仕掛ける。

 最初の電話こそ出なかったものの、2回目には応答し、聞かれるままに個人情報をべらべら喋ってしまう。工事を装ったスタッフをいとも簡単に家の中に上げてしまう。あげくに「お母さんが駅で待っている」と言われ、初対面のおばさんにホイホイついて行ってしまう。お母さんは見ていて頭を抱える、というものだったらしい。

 子供は純真で疑うという事を知らない。昔何かで読んだが、相手の悪事を見破ったり警戒したりできるのは、自分にそういう心があるからだ、という事だ。疑う事を知らない純真な人間はそれゆえにすぐに騙されるという訳だ。確かにそうだろう。インフルエンザの予防接種と同じで、悪をもって悪を撃退するのである。無菌室で育つと雑菌にすぐにやられてしまう。

 純真な子供たちがやがて雑菌の中で免疫を身につけていく。リンゴ農家の木村さんは農薬で「保護」する方法を否定して 「奇跡のリンゴ」を作り上げた。温室で大事に育てた子供が、外に出て逞しく生きていけるかというと不安がある。早くから外の厳しい環境で育てたいと、心密かに思う。園児が一人で通えたあの頃は、果たして良い時代だったのかどうなのか。どうなんだろう、何とも言えない気分の現代社会だと思うのである・・・


【本日の読書】
「ゴールドラッシュの超ビジネスモデル」野口悠紀雄
「コーヒーとサンドイッチの法則」竹内正浩
      


2010年1月27日水曜日

考えてみること

「永遠の0」を読んでいて考えた事の続きである。

 印象的なエピソードがある。特攻第1号となった関行男大尉の話である。関大尉は新婚の身であり、母一人子一人という境遇であったが、苦渋の決断で任務を受け入れ、米空母撃沈という戦果を上げる。

 祖国に残った母親はたった一人の子供を失ったが、「軍神の母」として周りの人達から畏敬を受ける。その心中は察するものがある。ところが、戦後は特攻批判の逆風に晒され、一人行商で生計を立てつつ昭和28年に亡くなっている。

 軍神とおだてたのも、戦後は掌を返して批判したのもマスコミであり、それを真に受けた周りの人達である。関大尉もその母も何ら変わったものでもない。その場の雰囲気の中で報道するマスコミと、それを盲目的に信じる国民という構図は、現代でもそのままである。

 私も銀行に勤務し、かつてのマスコミの「貸し渋り批判」を苦々しく思っていた。貸せば「ずさんな融資」と批判し(新銀行東京など良い例だ)、貸さなければ「貸し渋り」と批判し、ではその基準は何かと示すわけでもない。不況になればみんなお金を借りるのを控える。だから銀行貸出残高は当然下がるのだが、「貸出残高が下がった」という事実だけで、「銀行の貸し渋り姿勢鮮明に」という記事を平気で出していた。世間の人は「そうなんだ、ひどいな」と受け止めた。

 だからというわけではないが、今は新聞の記事を読んでも、そのまま受け止めることだけはやめている。例えば今は小沢さんの記事一色であるが、マスコミが批判論調を強めれば強めるほど、冷静に「事実はどうなのか、それをどう捉えるべきか」と想像している。別に小沢さんを擁護するつもりは毛頭ないが、それ以上にマスコミは信用しないようにしているのだ。

 ちなみに田中角栄をロッキード疑惑で叩いたのは、親米路線を変更した角栄さんを引きずり倒そうとしたアメリカの意思だと言われている。事実、事件はアメリカ議会における証言からスタートしたし、【反転 闇社会の守護神と呼ばれて】という本では、「不思議な事にアメリカ側から次々に証拠や証言を得られて、非常にやりやすい裁判だった」という記述がある(この本は別にロッキード事件を扱ったものではない)。小沢さんは田中角栄の影響を強く受けているし、アメリカから中国に軸足を移そうとしているところまで一緒だし、ひょっとしたら裏に何かあるのかもしれないと勘繰ってしまう。

 いずれにせよ、世の中の動きを観察し、マスコミの報道は見ても聞いてもそのまま受け止めずに、まずはいろいろと想像してみる、考えるというスタンスだけは持っておかないといけないだろう。よくよく心掛けておきたいと思うのである・・・


【本日の読書】
「ゴールドラッシュの超ビジネスモデル」野口悠紀雄
「永遠の0」百田尚樹
     

2010年1月24日日曜日

歴史から学べるか

 今「永遠の0」という本を読んでいる。太平洋戦争の時に、特攻で亡くなった祖父の足跡を孫たちが訪ね歩くというストーリーだ。読んでいて感じるのは無情感。結婚したばかりだった祖父。生きて帰りたいと願っていた祖父。しかし、国家の事情と軍隊という過酷な状況がその前に立ちはだかる。
 
 英語では”We are on the same boat”という表現がある。日本語では「一蓮托生」。国家をボートと捉えるか蓮の葉と捉えるかの違いはあるとしても、いずれも同じ運命共同体にある事は同じで、一人だけ逃れる事はできない。そしてその行く先を一人の意思で変える事もできない。

 戦争ともなると一国民としてはどうにもならない。その祖父は志願兵であったが、一般人も所謂「赤紙」で徴兵された。「嫌だ」と拒絶できるものでもない。他の国でも徴兵拒絶は重罪だろうが、戦前の我が国においてはそんな事は死にも値する行為だろう。選択肢はないわけである。

 そして旧日本軍では人間が一番軽視される。一機の飛行機の方が一人のパイロットよりも大事なのである。特攻も最後は戦果よりも死ぬ事自体が目的となっていく。そうした状況下で、個人の意思など荒れ狂う波間に漂うボートの如きである。どうしようもない。

 そしてそれが怖いところは、「過去の不幸な時期の話」と一概に言い切れないところだ。確かに戦後は民主主義の世の中になり、冷戦なんかもあったが、現代日本においては再び戦争へ進むという事は極めて考えにくい。そういう事態になる事は、共産党や社民党のおばちゃんがなんと言おうとありえないだろう。

 現代では差し詰め危険水準にある国家財政であろうか。このままではいずれ破綻するのは確実である。なにせ税収よりも支出が多い状態が続いているわけで、改善の道筋は見えていない。氷山に向ってひたすら進むタイタニック号なわけである。戦前の我が国も、現在の我が国も向っている氷山が違うとはいえ、同じ状況にあるように思えてならない。

 いずれ何とかなるだろうとみんな考えているが、戦前の我が国で敗戦による国家破綻を予想できた人がどれだけいただろうか。自分も含めて想像できない事態について考える事を放棄してしまっているのではないだろうか。どうなるかわからないが、もしも氷山に衝突したら自分だけ逃れる事ができない事だけは確かである。その事だけでも認識しておくしかないのだろうか。

 効果のほどはともかくとして、せめて自作のいかだくらい作っておくべきだろうかと思ってみるのである・・・

        
【本日の読書】
お休み
     

2010年1月22日金曜日

覚悟

 この年になってくると、昔ラグビーをしていて痛めた古傷があちこち痛む事がある。右肩を痛めたのでもう遠投はできないし(スピードボールも投げられない)、左肩はまっすぐに上がらない。靭帯が切れていて正座も長時間できないし、その他細かいのもたくさんある。だがそれでも幸いな事に大きな怪我はなかった。骨折もした事がない。一番大きな怪我は左肩の脱臼だ。

 4年の時の公式戦第1戦。開始直後に相手と激突して外れてしまった。ラグビー協会から派遣されて来ていたドクターが診てくれたが、その場で処置できないと判断し救急車を呼ぶように指示してくれた。その間、経験した事のない激痛に倒れたまま、体のどこも動かせずにいた(ちょっと動くだけで左肩に激痛が走ったのだ)。そんな状況下、実はある事を考えていた・・・

 高校時代の事である。やっぱり練習中に先輩が腹を強打して倒れた。当たり所が悪く、その先輩はまさにのたうち回って苦しんだ。幸い大した事はなかったが、いつも颯爽としている先輩が無様ともいえる姿を晒してちょっとイメージダウンだった。その時思ったのだ、「自分にもいつそんな時が来るかもしれない、自分は絶対醜態を晒さないようにしよう」と。

 救急車を待つ間、心の中では「早く来いよ~」と毒づいていたが、うめき声ももらさないようにあの時の先輩ののたうち回る姿を思い出して耐えていた。ようやく救急車が来たが、こちらは動けない。グラウンドもそんなに広くないし、私の倒れている場所まで来てもらうには試合を止めないといけない。「試合を止めろ!」と後輩が叫ぶのが聞えた。

 だが、冗談ではない。そんな事をしたら衆人環視の中、無様に運ばれて行く事になる。それに試合が止まれば試合中の敵も味方もそれをじっと見る事になる。味方が救急車で運ばれていくのは、心理的に敵を調子づかせ、味方にはダメージを与える。「試合を止めるな!」とその後輩に言って、激痛を堪えて救急車まで歩いた。その姿は背中の曲がった老婆のようでけっしてかっこ良くはなかったが、とりあえず最悪の醜態を晒す事だけは避けられた。

 生まれて初めて乗った救急車は、揺れると激痛が走るし、かといって後輩と女子マネがついていてくれたから、まだ醜態は晒せなかったし、病院までの道のりがひどく遠く感じられた。さらにその試合は負けるし、怪我でそのあと2試合出られなかったし、最後なのにひどいシーズンだった。それでもずっと意識していたからこそ、その時醜態を晒さずに済んだと思う。それだけは、まあ良かったのだ。

 その昔、武士は元服すると真っ先に切腹の作法を叩き込まれたという。常に武士道に生きていたサムライとは比ぶべくもないが、いざという時のための意識はしっかりとできていたつもりだ。怪我に限らずであるが、いざとなった時に醜態を晒さないようにしようとは今でも腹の中で思っている事だ。人間はピンチの時こそ真価を問われるし、その人の人間性が出るものだ。

 しかし失恋だけは辛かったなぁ・・・人前でこそなかったものの、けっこう枕を濡らしたよなぁ。これだけは、覚悟があってもなかなか厳しかったと、今も思うのである・・・     
   

【本日の読書】
「ゴールドラッシュの超ビジネスモデル」野口悠紀雄
「永遠の0」百田尚樹
   

2010年1月19日火曜日

街角雑感

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鍋の美味しい季節、東京電力が運営する生活情報リサーチサイトが以前行ったアンケート調査による鍋料理の人気ランキングは以下のようになっていた。
 総合1位 キムチ鍋  男性1位 すき焼き  女性1位 キムチ鍋
   2位 寄せ鍋     2位 寄せ鍋     2位 寄せ鍋
   3位 すき焼き    3位 キムチ鍋    3位 水炊き
   4位 水炊き     4位 水炊き     4位 すき焼き
   5位 湯豆腐     5位 湯豆腐     5位 しゃぶしゃぶ
男性の1位から3位までは僅差であったのに対し、女性のキムチ鍋(チゲ)は大差での1位。辛いものが嫌いな私としてはキムチ鍋だけは食べたいと思わない・・・
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 丸の内。改修工事中の東京駅前にずらりと並ぶタクシー。客待ち時間を潰すタクシーの運ちゃん(最近では女性も多い)たちだが、スポーツ新聞を読んでいたり、本を読んでいたり、ぼーっとしていたりと様々だ。最近はリストラで転職する人も多いらしいから、ちょっと前までスーツを着て私みたいに足早に歩いていた人もいるかもしれないと想像したりしてみる。かつて父は「食べていけなくなったらタクシーの運転手でもやろうと思った」と私に語ってくれた事があったが、今はタクシーの運転手も楽ではないだろうと思う。

 ふとドアの窓を見ると様々なステッカー。クレジットカードOKは最近よく見かけるが、今日は「ETC搭載」というのを見かけた。何か意味があるのかと考えてみたら、「1,000円高速か」と思い至った。高速料金は客持ちだ。ならばETCがあった方がお客さんの払う負担が少ないという考えなのだろう。自分たちが得するわけではないので、これも顧客サービスだ。こうして各社が顧客サービスを競っているわけだが、それもこれも不況で顧客が遠のいているためだろう。不況もサービス改善という点ではメリットもあるわけだ。

 皇居の近くでは一眼レフカメラを持った若い女性を見かけた。何よりも赤いカメラが目を引いた。最近ちらほらとカラフルなカメラを抱えた女性を見かける。


かつては一眼レフのような重厚なカメラは男性の専売特許のようなイメージがあったが、最近は性能がアップして素人でもそこそこの写真が撮れるようになったせいか、こうしたカメラを持っている女性も多く見かけるようになった。そしてやっぱり女性からすると黒一色の無愛想なカメラよりカラフルな方が「かわいい」となるのだろう。そうした消費者心理を見越しての製品開発なのだろう。最近は特に「デザイン」が商品の売れ行きを左右しているそうだが、改めてそんな実感を持った。どれくらい売れているのか知らないが、赤いカメラはなんとなく欲しい気がした。

 帰り道、立ち並ぶブランド店を眺めながら「このご時勢に果たしてどのくらい売れているのだろうか」と考えてみた。景気が悪いと言われつつも、こうしたブランドショップは高い家賃を支払えているわけで、という事は買う人がそれだけいるという事。まあよその人の事はともかく、働ける事に感謝しつつ、明日も地道に働こうと思ったのである・・・


【本日の読書】
「奇跡のリンゴ」石川拓治
「永遠の0」百田尚樹

 

2010年1月17日日曜日

子供の叱り方

テレビゲームばかりやっている息子に、お父さんは勉強させようと偉い人の話をしました。
「ジミー、リンカーンって知ってるだろ?リンカーンがお前の年の頃には、暖炉の明かりで勉強してたんだぞ。それぐらい勉強したんだ」
「ふうん。パパ、ボクも言っていい?」
「なんだ?」
「リンカーンはパパの年の頃には、アメリカの大統領だったよ」
                              アメリカン・ジョーク
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 二人の子供の父として、子育ては一応いろいろと考えてやっている。決して子供の躾は妻の責任などと言って責任回避する事はしていない。あれこれ迷う事もあるが、そんな時一つの指針となるのがやっぱり自分の経験だ。

 子供の頃、誰でも親には叱られる。私もそうだったし、だからといってそれで親を恨むという事もない。だがどうしても子供心に納得のいかない事があった。そしていつか自分が子供をもったらそういう叱り方はするまい、と心に誓った事がある。それが「お兄ちゃんなんだから我慢しなさい」というセリフだ。

 男二人の兄弟の長男であった私は、弟としょっちゅう喧嘩をしていた。そしてその都度親に叱られたものであるが、その時よくそう言われたのである。「同じ兄弟なのに僕ばかりずるい」と思ったものである(そして怒られている私の横で弟は舌を出していたりするのである)。親からすれば言っても聞かない次男に言い聞かせるより、長男に言い聞かせた方が早いという判断で、それは現在二人の子供をもってみるとよくわかる。だが、当時は不公平だ、長男は損だと思っていた。

 現在長女にはやっぱり「お姉ちゃんなんだから我慢しなさい」と言う事がたびたびある。だが長女はそれに対して「ずるい」とは言わない。なぜかと言えば、長女には事あるごとに「差をつけている」からだ。それはささやかな事で、例えばみんなでイチゴを食べる時に弟よりこっそり数を多くしてあげるといった程度の事だ。「これはお姉ちゃんとしていつも我慢している分」と囁いて渡すのである。その都度長女は長女としてのメリットを密かに享受している。

 あらかじめ長女には、「我慢して差をつけてもらうのと平等にするのとどちらがいい」と聞いている。長女の答えは「我慢する」だった。だからだろう、「お姉ちゃんだから我慢しなさい」と言ってもそれに対しては不満の声は上がらない。

 もっともある時から親も私にそう言わなくなった。いつだったか、やっぱり「お兄ちゃんだから我慢しなさい」と言われた時に、我慢しきれずに反論したのだ。「そんな事言っていつも僕ばかり我慢させられているけどね、僕は今の弟の年には『お兄ちゃんだから我慢しなさい』と言われて我慢していたんだよ、もう弟だって我慢できる年頃だ。今度は弟に我慢しなさいって言ってよ」と。

 今から思うと親だって完璧ではない。今の自分より若かったわけだし、無理からぬ事である。しかしながらそうは言っても子供心に不公平感は拭えなかったのは確かである。今でも親から「お前には理屈では適わない」と嘆かれている。すでにこの頃、その片鱗を見せていたわけだ。それが子供心に育まれた反発心から生まれたものだとしたら、悪いとも言い切れない。反面教師という事もある。

 さて我が娘はそういう私のやり方をどんな風に受け止め、そして自分の子供に対してどんな風に対処していくのだろう・・・想像してみると面白いものだと思うのである・・・


【本日の読書】
「永遠の0」 百田 尚樹
     
   

2010年1月15日金曜日

週間雑感思うまま

 先週の日曜日のラグビー大学選手権決勝戦。帝京大学が初めて日本一となったその試合、観客数は17,000人だったらしい。普通は30,000~50,000人くらい入っていたはずだが、今年は早慶明・関東学院などの人気校が残らなかったせいで、随分と寂しい限りだ。

 個人的には両チームとも昨年から良い成績を収めてきていたし(東海大学は3年連続でリーグ戦優勝しているし、帝京大学も昨年度の対抗戦優勝校だ)、「出るべくして出てきた」感があるので抵抗感はない。学生など毎年メンバーが代わるわけだし、本当に好きなら強豪同士の決勝戦というだけで観る価値はあると思うのだ(事実、見応えある良い試合だった)。なのに観客が激減したという事は、今まで会場に足を運んでいた大半がミーハーファンという事なのだろうか。

 それにしても両校とも外国人留学生が活躍していた。箱根駅伝でも目についたが、学生スポーツで留学生に頼るというのもどうかと思う(もちろんスポーツがメインでないというならわかるが・・・)。メジャー校には全国の強豪高校からどんどん選手が集まってくるが、それ以外の大学はこうした留学生を連れてこないとメジャー校に対抗できない、というものかもしれないが、それも問題あるなぁと思ってしまった・・・

 週央に野球の殿堂入りが発表された。東尾に江藤慎一・・・なんだか懐かしい名前だ。野球に最も熱中していた小学生時代に活躍していた選手だ。今頃になって殿堂入りだって・・・
しかも今回落合が落ちている。球史に残る屈指のバッターでさえ殿堂入りできていないというのもなんだかなぁと思ってしまう。ファンが忘れかけた爺さんたちを選んでどうするというのだろう。江川や落合や桑田といった、まだプレーが記憶に残っている選手をどんどん選んでもらいたいと個人的には思うのだが・・・どうにもよくわからない世界である。

 先日遅くに帰宅した際、近所でパトロール中のおまわりさんを見かけた。寒い中自転車に乗っていた。「ご苦労様です」と声をかけようかと思ったが、タイミングを逸してしまった。考えてみれば家の近所でこうしてパトロールしてもらえるというのはありがたい事だ。何よりそこにいるだけで防犯効果は抜群だ。おまわりさんというとつい駐車違反とかスピード違反の切符を切られたりとかで、あまり良いイメージを持たれていない気がする。しかし、全国各所に交番があってこうしてパトロールをしてくれているからこそ、我が国の治安は優れて良いのだと思う。もっと感謝の気持ちをもってもいいのでは、と感じた。今度はタイミングを逸する事なく、声をかけたいと思う。

 さて、週末だ。ゆっくりと英気を養いたいと思うのである・・・


【本日の読書】
「奇跡のリンゴ」NHK
「逆説の日本史16」井沢元彦




2010年1月12日火曜日

恥の文化

 朱建栄東洋学園大学教授から我が国の文化は「恥の文化」と指摘された。もともとあちこちでそう言われているのであるが、あらためて考えた。確かに我々日本人は何より他人に対して「恥じる」という感情を重んじる。他人から見て恥ずべき行為を忌避する文化があるのである。

 ある人から言わせると、それは「人に迷惑をかけるような恥ずかしい行為をしない」という事らしい。だが、それも不正確で、ただ「恥ずかしい行為をしない」という事だと思う。そうでないと「人に迷惑をかけなければ良い」となってしまうが、そうではないだろう。「お天道様がみているよ」と小さい頃に言われた記憶があるが、「恥ずかしい行為」の基準は他人にあるのではなくて、自分自身にあるものである。

 名誉を重んじ、時としてそれを命よりも重視したのが武士道であるが、今ではそんな伝統どこへやら、である。先日、電車の中で若い女性がおにぎりを食べていた。齧りかけのまま、バッグの中を探っていたが埒があかず、食べかけのおにぎりをぱくっと咥えて両手でがさごそとバッグを探っていた。化粧をするのはすっかり当たり前の感があるし・・・

 何を恥とするかは人によって微妙に違うのかもしれない。私などは妻から ええかっこしいとこばかにされているが、けっこう「かっこ悪さ」を気にする。例えば電車の中で夢中で本を読んでいて乗り過ごす時がある。瞬間的に気付いて走れば降りられるというタイミングでも敢えて乗り過ごす事を選ぶ。慌てて飛び降りるというかっこ悪い真似をするなら、一駅行って戻ってくる方を選択する、といった具合だ(ちょっと「恥の文化」とは違うかもしれないが・・・)。

 電車の中でおにぎりを咥えても人様に迷惑になるものでもない。だがやっぱり「人からどう見られるか」を意識する事は大切だ。男女を問わず、容姿の美しさを追求するのであれば、行動の美しさも追及したいところだ。そういう意味で ええかっこしいでもいいと私は考えている。

 今は風呂上りにすっぽんぽんで家の中を駆け回り、スカートからパンツが見えるのもお構いなしで遊んでいる我が娘も、いずれはそんな美しい行動ができるようになってほしいと思うのである・・・


【本日の読書】
「バフェットの教訓」メアリー・バフェット&デビッド・クラーク
「逆説の日本史16」井沢元彦
     
    

2010年1月10日日曜日

ああ中国人

ラグビー大学選手権決勝    
帝京大学 14-13 東海大学

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 母校(高校)の財団法人が後援している社会人向けの講座「寺子屋小山台」が昨日あった。今回は毎年お招きしている東洋学園大学の朱建栄教授が講師であった。「中国からみた日本」というタイトルで約3時間半にわたって講義と質疑応答の中味の濃い一時を過ごした。

 中国というと日本ではとかく斜に構えて見られがちだ。産経新聞でも先日自由主義先進諸国が手を出さないスーダンやアフガニスタンといった紛争国で、資源外交を展開する赤い帝国のことを苦々しいタッチで連載していたし、民主党政権が進めようとしている外国人参政権付与法案に対する反対理由として一党独裁国家中国による組織介入を警戒する意見もある。

 かつて北朝鮮を礼賛した朝日新聞は中国寄りだが、その他は全体として好意的とは言えないように感じる。自分としてはどう思うのか。マスコミは偏りがちだから相手の意見を聞くという意味で、朱教授の講座は毎年楽しみにしている。双方の意見を聞いた上で自分なりの考え方をもちたいものだ。

 今回は中国人そのものに関する話が面白かった。例えば中国人に何か頼みごとをする。してもらったら当然その場で御礼を言う。さらには後日、菓子折りとはいかなくても何かプレゼントして再度お礼をする。そんな行動は、日本人には違和感がないが中国人だと不快感を伴った違和感を持つという。

 この場合、中国人は後日お礼をされると、「それであなたとは貸し借りなしね」と言われているように受け止めるのだという。中国式には、「受けた恩義は次回別の事をしてあげる事で返す」となるのだと言う。その相互連鎖で互いの関係が深まっていくのだと。

 その根底には「大恩不言謝(大きな恩に対してはお礼を言わない、言葉ではなく別のもので返す)」という考え方があるそうである。だから日本のODAによる巨額の円借款にもお礼を言わないし(日本側からはお礼を言わないという批判がある)、だからといって何とも思っていないというわけではないのだ、と。所変われば、というやつである。知っているかいないかで大分違う。

 朱教授は日本と中国の文化をそれぞれ、「恥の文化と自己主張の文化」だと喝破する。以前も述べたが、まさに日頃思っていた通りで納得してしまった。赤い帝国中国ももはや単独で世界の覇権を握る事など不可能だと認識しているとの事。いずれは国政レベルで普通選挙が実現するだろうし、メディアの統制もインターネットの世界ではほぼ不可能になってきている(やっているが効果があがっていない)らしい。

 若者達の間には日本に対する反日的雰囲気は親の世代より薄れており、ファッションや音楽や漫画などは広く浸透しているらしい。その点では韓国よりは親しみやすいものがあると、個人的には思う。不必要な警戒論には踊らされたくはないものである。

 その他にも、
・ 白人なら無条件に相手を理解しようとするが、同じ顔の東洋人だと自分たちとの違いに目を向けがちな日本人の傾向
・ 中国人に対する頼み方と断り方
・ 軍事費増大の背景にある裏事情
などなど興味深い話が満載であった。

 「相手の立場からみる」事が大切だと教授は言う。まさにその通り。前々回に述べたが、今年は関わりあいのある人達との関係を大事にしたいと思っているが、その基本となるべき考え方だ。今回中国人の話を聞いて、「日本人てやっぱり良いな」と思う一方、彼らには彼らの世界があるのだと広く思える。これからもそんな気持ちで臨んでいきたいと思うのである・・・


【本日の読書】
「バフェットの教訓」メアリー・バフェット&デビッド・クラーク




     

2010年1月7日木曜日

お正月はラグビー

 ラグビーというと「お正月のスポーツ」というイメージを持っている人はかなりいると思う。まあ高校・大学・社会人と、全国大会がこの時期開催されるので無理もない事であるが、この時期試合をしているのは、「勝ち残った一部のチームだけ」なのである。

 もっともそんな一部のチームのハイレベルな試合を堪能できるのもこの時期のいいところである。結婚前は1月2日の大学選手権準決勝2試合は毎年欠かさず国立競技場に観戦に行っていたものである。最近は大阪の妻の実家に行く日なので、観れたり観れなかったりである。そして今日は高校生(花園)の決勝戦があった。

 優勝した東福岡高校は、今年はダントツの強さで優勝してしまった。まだ昼間の試合のビデオは見ていないが、ここまでの圧倒的な強さは全盛期のマイク・タイソン並みである。先日友人がベスト4に大阪朝鮮高校が残っているのを差して、「優勝したらどうする?」と不安気に聞いてきた(ちょっとアブナイ発言である)。しかし、私はベスト8の試合をダイジェストで見比べていたので、「大丈夫!東福岡に勝てるチームはいない」と断言していたが、その通りとなった(もっともその高校はベスト4で消えていったが・・・)。高校生といえども馬鹿にはできないものがある。

 大学生は今週末に対抗戦の帝京大学とリーグ戦の東海大学の決勝戦が行われる。どちらかと言えば現役時代に対抗戦で試合をした帝京に愛着があるので、やっぱり帝京を応援する事になるだろう。テレビでじっくり観戦だ。

 こんな具合にたくさん試合を観ているとやっぱり沸々と湧き上がってくるものがある。
「ラグビーやりてぇ~!」
と心から思うのである。

 今でも高校や大学のラグビー部にはシニアチームがあってやろうと思えばそこで出来ない事もない。しかし高校のシニアチームの試合など観ていると「そんな醜態を晒してまでやりたいか?」と思えてならない。60を過ぎたじいさんたちが、昔を懐かしんでよぼよぼとラグビーの真似事をしているのは微笑ましいのを通り越してみっともない。あんな中には入りたくはないものだ。

 私がやりたいのは現役時代さながらの正面からぶつかり合うラグビーだ。何かあれば即座に胸倉をつかみ合うような緊張感溢れる試合だ。ただ、運動不足で鈍りきった体では土台無理な話である。仕事から離れて2ヶ月くらいの時間があれば、筋力以外はかなり元の体に戻せるのではないかと思うが、それはまず無理な話。もうああいった緊張感のある試合はできないのか、と思うと何だか切ない気持ちになる。

 現役時代は練習を休みたいなと思ったり、何でラケット持って女子大生とテニスする方を選ばなかったんだろうと思ったりした事もあったが、あの時はラグビー漬けの、今から思うと本当に幸せな時代だったのだ。今やその時代の名残りと言えば、たまに集まってバカ話をする仲間たちだけだ。それはそれで良いのだが・・・

 まあそんな幸せな時代を過ごせた事を親に感謝しつつ、今週末はゆっくりと試合観戦をしたいと思うのである・・・


【本日の読書】
「家族の言い訳」 森浩美
「逆説の日本史16」井沢元彦
    


2010年1月4日月曜日

新春雑感

 大晦日から新年にかけて、我が家のスケジュールは毎年決まっている。大晦日に最後の大掃除と昼に年越しそば。夜は紅白を見ながらすき焼き。元旦は近所の北野神社に初詣に行き、破魔矢を買って帰る。午後は私の実家へ新年の挨拶に行く。2日から妻の実家(大阪)へ行く。当日午後はそのまま道明寺に初詣に行き、ここではおみくじを引き、なぜかベビーカステラを買って食べる。
とこんな具合だ。

 結婚以来、これは不変である。決まりきったスケジュールというのもこの時期は良いものだと思う。毎年どうしようかと悩む必要はないし、それは我が家に限らず、双方の実家もそうである。子供たちも年末年始とはそういうものだと思うだろうし、いつか巣立っていったあとも、「実家ではこうだったな」と思い出すだろう。

 いつもみているある人のブログでは、そこも年末は年に一度のすき焼きだという。もう定年を過ぎているその方は、この飽食の時代は食べ物にありがたみを感じなくなったと言う。昔は盆暮れのみ食べられた白米が楽しみで楽しみで仕方がなかったが、今はそんなにまでして食べるのが楽しみなものはない、と。贅沢に慣れ、その結果感動を失っていると・・・

 確かにそうである。その家では家族全員が年に一度の大晦日のすき焼きを心待ちにしているという。それが心地よいのだ、と。そういえば、我が家もすき焼きと言えば普段あまりしない。別にできないわけではないし、たまたまなのだが、言われてみればそういう考え方もある。「すき焼きは年末のみ」と決めるのもいいかもしれない(事実、1年振りのすき焼きは某所のおいしい肉を使ったせいもあって、美味だった)。

 大阪へ移動したあとの道明寺への初詣。これは妻の実家の恒例行事。私は内心毎年この日に行われるラグビー大学選手権準決勝2試合の方が気になって仕方がなかったのだが、第1試合の後半と第2試合の前半だけ観て、参拝した。

 参拝した後はいつもおみくじを引くのである。今年は小吉。だからどうだという事もないのだ。日本に生まれ育った以上、そうした風習に染まるのも悪くはないし、大事にしたいと思う。昨年も書いたが、「神仏は尊ぶが神仏を恃まず」で、風習としての神事には積極的に関わりたいが、困った末の神頼みだけは神様にも申し訳ないし、避けたいと思っている(といいながら昨年は密かに何度か弱音を吐いてしまったが・・・)。

 今年もまたその不変のスケジュール通りの年末年始を過ごした。家族はそのまま大阪で過ごし、私は本日帰京(1日休みをいただいたのである)。夜は大学ラグビー部のメンバーと久々に酒を酌み交わし、楽しい一時を過ごした。明日からの仕事始めに気分良く臨める。今年の目標はといえばいろいろあるが、関わり合いのある人達との関係を大事にしていきたいと思う。どんな一年になるか、すべて自分次第だ。

 ラグビー部の友人が別れ際、「良いお年を」と言ってくれた。そう、2010年は始まったのだ。その通りに今年もいい年にしたいと思うのである・・・


【本日の読書】
「くるま椅子のパティシエ」 ニッポン放送編
「逆説の日本史16」井沢元彦