2021年3月31日水曜日

大学で何をすべきか

 1年間の宅浪生活を含む受験期間を終えて晴れて大学の門をくぐったのは、もう37年も前のことである。1日10時間、週65時間の勉強ノルマを自らに課しての一年間は精神的にもきつく、合格発表の掲示板に自分の受験番号を見つけた時は、喜びが爆発というよりただただ安堵感で満たされるのみであった。春の穏やかな日差しの日で、ようやく長い冬が終わった瞬間であった。

 我が娘はまもなく大学2年生。本人なりに頑張って今の大学に合格したものの、世はコロナで授業はすべてオンライン。当初、本人は喜んでいたが、それがまだまだ続くとなると複雑な心境のようである。基本的に娘には自分なりに好きに大学生活を送ってもらいたいと考えているが、親として唯一希望したいのは「4年間で卒業すること」。もちろん、本人に何か明確な目的があればこの限りではないが、基本は4年間で卒業してほしいと思う。

 そんな大学生活だが、親としてはどんなアドバイスがあるだろうかと考えてみる。我が身を振り返ってみれば、大学生活はラグビーをやり、授業にも熱心に出て、アルバイトでなんとか親にこずかいをもらわないで済ませ、とても充実した4年間であった。よく卒業してから、「もっと勉強しておけば良かった」という人がいるが、私にはそういう後悔はない(ただ、違う学部にすれば良かったという後悔はある)。

 大学生活は、ラグビーに勉強に充実した日々で、成果は上がらなかったものの合コンにも多数参加してそれなりに満足のいくものであった。娘に残りの3年間何をすべきかとアドバイスするとしても、男と女の違いもあって難しい。価値観の違いもある。私はどちらかと言えば知的好奇心が高い方で、それと親への感謝もあって授業には積極的に出席したが、娘にそれを求めるのも難しい気もする。

 ならば、友達作りとも思うが、コロナで大学に行けない(行かなくてもよい)日々では、なかなか難しいだろう。何かサークルにでも参加すればとも思うが、私のように(ラグビーを)やると決めているものがあればともかく、娘にはそういうものもなく、サークル選びも何をもとにというものもある。このまま友人もなく時が過ぎていくのは非常に惜しいと思うが、こればかりは本人の責任でもなく、どうにもやりようがない。それでもただ家にいるよりはと、バイトに行っているのが唯一外の世界との接点という状況である。

 小学生であればまだしも、女子大生となれば親が(それも父親が)何か助けてやれるというものがあるわけでもない。せいぜいが、「この機会に本を読んだら」という程度である。私であれば喜んで片っ端から読みまくるが、娘の読書に対する関心は小学生時代で終わっており、いろいろと提案しても馬耳東風になると思う。そう考えていくと、自分自身の経験から何かを語ってあげられそうなものはありそうもない。ならば一緒に考えてあげるものになるだろうかと漠然と思う。

 いずれ息子が大学に入る時がくるだろうが、その時息子に何とアドバイスするだろうかと考えてみても、答えは同じである。クラブ活動をやって友だちを作り、講義をたくさん受けて教養を深め、アルバイトをして働く練習をし、合コンに参加してとにかく女の子と接点を持てと。社会に出れば働くことが生活の中心となる。学生時代のメリットは働く必要がないこと。ならば働く以外のことをたくさん経験すべきだろう。

 結局、アドバイスと言ってもその程度のことしかできないと思う。生きるために稼ぐ必要がなく、自由に好きなことができる学生時代は誰もが過ぎた後で貴重な時間だったと気付くものだろう。まっただ中にいる当事者にはわかりにくいことかもしれないが、わかる者としてはできる限り伝えたいと思う。誰あろう我が子であるし、そこのところはしっかり伝える努力はしたいと思うのである・・・



【本日の読書】
 



2021年3月25日木曜日

勉強することができる幸せ

 息子が中学を卒業した。この4月からいよいよ高校生。いつのまにか私よりも背が高くなり、子供の成長というものを実感する。人生初めて臨んだ受験は、公立と私立それぞれ1校を受験し、両方合格して第一志望の都立高校に通うことになった。学費の面でも、親としては大変ありがたい。かくいう私も、公立高校、国立大学と学費的には親孝行であったと自負しているが、息子にもそうあって欲しいと願うところである。

 今は、いい時代だと思う。私の父は、中学を卒業してすぐに上京し、住み込みで働き始めたという。当初は地元で大工修行という話もあったらしいが、同級生が親戚の関係で上京することになり、ならばと一緒に出てきたという。労働基準法などあったのかなかったのか、朝6時に起きてから慌ただしく朝食と支度を済ませ、8時に出勤してくる職人さんのための準備をし、夜も遅くまで働き寝るのは12時過ぎだったという。

 その後、中小企業を渡り歩くが(当時はそんな風潮だったらしい)、ある時、大手の会社に面接に行ったらしい。そこでは、中卒ではせいぜい工場長止まりと言われたと言う。父は技術者としては腕が良かったらしく、行く先々で重宝されていたから、この時はじめて「学歴の壁」を感じたらしい。あまりはっきり聞いたことはないが、高校へ行けなかった無念が改めて実感された瞬間だったのではないかと思う。

 そんな父の世代の猛烈な働きで、日本は敗戦時の最貧国状態からわずか20年でオリンピックを誘致できるまでに経済成長し、私はなんの障害もなく高校・大学と進学できた。父の実家は貧しい農家で、父は小学校時代、裕福な家の子が短くなって捨てた鉛筆をこっそり拾って使ったこともあったという。一方、同年代の義父は大学を出ているから、ある程度家庭環境の差もあるが、私も父の時代であれば、よくても高校までしか進学できなかったのだろう(父と同じ年の母は兄の支援で高校へ行けたという)。

 私は大学受験は現役の時は1校だけしか受けずに落ちて浪人した。予備校に行かせてもらうのも悪いと宅浪して2年目に合格した。予備校に通っていもあまり熱心に勉強していない友人も多かったし、大学ではまわりはみんな授業に出ずにいかに単位だけ取るかに腐心していた。友人たちの授業の平均出席数は週5コマ未満であったが、私は12コマ出ていた。知的好奇心ももちろんあったが、大学へ進学できるありがたさを考えれば「単位だけ取って遊ぶ」という選択肢は私にはなかったのである。

 よく子供が「どうして勉強しないといけないのか」と聞くことがある。小学生あたりでは理解が難しいかもしれないが、勉強は「しないといけない」ものではなく、「する事ができる」ものである。父の田舎にある寺の和尚さんは、ノートを3回使ったという。一度端まで使った後、逆さにしてもう一度使い、さらに赤鉛筆でもう一度使い、最後は真っ黒になったらしい。そんなことが可能だったのかわからないが、そういう思いをしてまで勉強していた人たちからすれば、勉強できるのにしないという贅沢などありえないだろう。

 人は当たり前になればありがたみを忘れる。紛争地帯にあっては命の心配をしなくていい環境はそれだけで何物にも代えがたいだろうし、砂漠にあっては一杯の水が貴重だろう。だが、紛争地帯にあってはじめて平和のありがたさを実感するのではなく、砂漠で水の貴重さを実感するのでもなく、普通に勉強できる環境にあって勉強できるありがたさを感受できるようでありたいと思う。そしてできれば息子にもそれを感じ取って欲しいと思う。

 先日、息子と2人で私の実家へ行ってきたが、行きの車中で父の経験談を聞かせた。70年前、息子と同じ年の父は、友達と2人で見も知らぬ東京へと出てきた。故郷から東京まで汽車で6時間。今よりはるかに遠かっただろうし、心細かっただろうと思う。私も息子も何の不安もなく当たり前のように進学したが、味わわなくて済んだ身近な父の苦労をせめて想像だけでもしたいと思う。息子がどんな風に思ったのかはわからないが、少しでも何かを感じ取ってくれたらと思う。

 息子にはあえて勉強しろとは言うつもりはない。ただ、勉強は「する事ができる」ものだとは思ってもらいたい。高校の3年間は実に楽しいものであった。勉強も頑張ったし、ラグビーも頑張った。息子にも同じように勉強に野球に友達との思い出作りに最良の3年間を過ごして欲しいと思う。これから楽しい高校生活を迎える息子を羨ましく思いつつ、エールを送りたいと思うのである・・・



【本日の読書】
 



2021年3月21日日曜日

To Be or Not to Be

先日、『ブレイン・ゲーム』という映画を観た。この映画は、「人の未来を見ることができる」能力を持った男が2人登場する。1人はその能力によって見えた未来から、連続殺人を犯していく。もう1人はFBIと協力してそれを阻止するというものである。連続殺人を犯す男が殺したのは、いずれも不治の重病によって苦しみながら死ぬ人たち。それを「苦しむ前に」殺すのである。これは果たして善か悪か。

 迷うまでもなく、「悪」であると答えたいところであるが、あるFBI捜査官の場合はどうだろうかと思う。その捜査官は連続殺人の犯人を追っているのだが、その最中、末期癌で余命宣告を受けてしまう。犯人の男はそれを知り、その捜査官を射殺する。追う男は憤りを感じるが、その葬儀で残された幼い子供を抱きしめた時、その子がスタンフォード大学に入学する未来が見える。それは、父親が殉職したからこその未来である。

 もしもそのまま父が病死した場合、なんの保証もなく大した蓄えもないので残された母子は困窮し、とても大学へなど行けない。しかし、殉職したからこそ補償が下りて子供は大学へ進学できるのである。父親の立場に立てば、どちらを選ぶかは言うまでもない。犯人の男は、その未来を突きつけ、同じ能力を持つ男に迫るのである。それでも自分を責められるのか、と。

 現実にはありえない映画の話であるが、それでもこういう能力を持っていたら、自分だったらどうするだろうと妄想する。それでも人を殺すような行為はやっぱりできないと思うが、ではそういう男を捕まえるために警察に協力する立場はどうだろう。FBI捜査官を射殺した行為を否定して捕らえる立場に立てるだろうか。たとえ残された家族が困窮しようとも、人を殺すことは悪であるといえるだろうか。

 もしもFBI捜査官の立場だったら、殺されることを回避しようと思うだろうかと考えると、おそらく殉職する方を選ぶだろう。どのみち余命宣告を受けている身であれば、死ぬまでの時間が何日間か違うだけである。であれば、残された家族が幸せになる方法を選びたいと思うのは人の常だろう。私にもしもこの映画のFBI捜査官の立場で自分の未来を見通す能力があって、殉職する未来と病院のベッドで病死する未来が見えたなら、殉職する未来を選ぶだろう。

 よく経済的事情から死を選ぶ人たちがいる。経営者の場合、会社が倒産すれば収入がなくなるばかりか自宅まで失うことになる可能性が大きい。それでも生きていればいくらでもやり直しがきくが、視点をその人個人ではなく家族に目を向けるとどうだろうと思う。生きて家族みんなで困窮した生活を送るのと、死んで保険金を残す(残せたら、であるが)のとどちらが家族のためであろうか。

 それは比べるまでもないと、安易に答えられるものではない。たとえばそれによって子供が進学を諦めて働くことになった場合、就職の選択肢はかなり狭まるであろう。もちろん、大学進学がすべてではないが、それは選択肢があってこその発想である。経済的に余裕のある状況で、それでも自分の子供に「大学へは行くな」と言う考え方の人であればいいが、そうでないなら「大学進学がすべてではない」と言うのは厳しい。

 もしも自ら命を絶つことで保険金が下り、それで家族が希望の人生を手に入れられるとしたら、果たしてどちらを選ぶべきだろうか。少なくとも一家の主たる収入に責任のある立場としては、安易に自分の「命が大事」とは言えない。経済的困窮から自ら命を絶つ人たちが一体どんな事情を変えていたかはわからない。もしかしたら単に「自分が楽になりたい」という単純な理由だったかもしれないが、家族の行末までも視野に入れたものであったとしたら、個人的には批難する気持ちは起こらない。

 本当のところを言えば、家族に困窮しても一緒に頑張ろうと言ってもらえるのが一番であると思うが、果たして自分は家族の中でそう言ってもらえる存在だろうかと考えるとどうも心許ない。先行き不透明な中小企業に勤めていると、下手をすると妄想ではなく現実の選択肢になる可能性がある。妄想はあくまでも妄想にとどめておきたいのは当然である。そんな選択肢を目の前に置かれることのないよう、しっかりと会社を支えていきたいと思うのである・・・



【今週の読書】
 


2021年3月17日水曜日

論語雑感 公冶長第五(その16)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感。
【原文】
子曰。晏平仲。善與人交。久而敬之。
【読み下し】
子(し)曰(いわ)く、晏平仲(あんぺいちゅう)善(よ)く人(ひと)と交(まじ)わる。久(ひさ)しくして之(これ)を敬(けい)す。
【訳】
先師がいわれた。「晏平仲は交際の道をよく心得ている人である。どんなに久しく交際している人に対しても狎なれて敬意を失うことがない」

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 いつの頃からだろうか。人を呼ぶ時に敬称をつけるようになった。「~君」「~さん」といったものである。そもそも女性に対しては、ずっと「さん付け」で呼んでいたと思う。おおよそ付き合った女性以外呼び捨てにした記憶がない。どうしてなのだかはっきりとはしないが、そういう感覚でずっときている。なので単なる友達の女性を呼び捨てで呼んでいる人を見ると、違和感というかちょっとうらやましいような感覚を持つ。では、自分もそうすればと思うが、逆にそれは難しい。それはもう己の性格に浸みこんでしまった感覚なので仕方がない。

 逆に男に対しては普通に呼び捨てにしていた。学生時代は先輩以外は、敬称なんて使わなかったし、ましてや敬語もである。とは言え、初対面等となれば話は別だったが、少なくとも友人関係ではそれが当たり前であった。それは社会人になってしばらくしてもそうだった。同期はともかく、後輩に対しても普通に呼び捨てである。それがいつの頃からかそうではなくなったのである。今では誰彼問わず基本的には「さん付け」となっている。

 そうなっていったのは、年齢不詳の輩が増えてきたということがある。銀行員は転勤がつきものだし、初めて会えば相手の年齢など正確にはわからない。また、違う部署とやり取りをする場合もしかり。そうなれば、相手が上か下かあれこれ考えるよりも「すべてさん付け」にした方が手っ取り早くて間違いもない。それで親しくなって慣れていったら呼び捨てでもいいだろうという感覚で「すべてさん付け」を始めたのである。

 それが定着し、それどころか「ずっとさん付け(あるいは君付け)」になったのは、変えるタイミングが難しいというのもあるが、「さん付け効果」に気付いたというのもある。たとえば部下を持つようになると、どうしても「上から目線」になる。仕事の指示もそうだし、指導もするから当然なのであるが、そうなると相手の意見も一段下に見てしまうことになりかねない。「誰が言ったか」ではなく、「何を言ったか」で判断してほしいと上司に言っておきながら、自分は「誰が言ったか」で判断しそうになる。それを回避するのに「さん付け」は効果がある。

 部下(あるいは後輩)でも「さん付け」で呼ぶことによって、一定レベルの「敬意」が生まれる。「返事は『はい』か『承知しました』だけ」という体育会精神で何でも頭ごなしに言うのは、上司部下関係では具合が悪い。こちらの心情にブレーキをかける意味では「さん付け」効果はあると言える。仕事はある程度冷静に物事を進めなければならないわけであり、そういう意味では部下(あるいは後輩)を尊重しないといけない。そういう中では、「さん付け」の効果は大きい。

 そうなると不思議なことに言葉遣いも変わってくる。さすがに部下に敬語というのはないが、丁寧語にはなる。命令形ではなく、依頼形になるのは、言われた方も悪い気はしないだろう。それは自分に置き換えてみても同様であり、上司に呼び捨てにされても気にはならないが、「さん付け」+丁寧語で指示をされると、尊重されている気分になる。それに結果として、上下隔たりなく同じ態度で接するのは、「相手によって態度を変える」のから比べると印象は良い。そんな経緯で現在の態度があると思う。

 ただ、三つ子の魂ではないが、学生時代の友人などはいまだに普通に呼び捨てである。また、社会人になってしばらくの若い頃の部下や後輩などもしかり。それはもうそう馴染んでしまったのであるからいきなり変えるのも難しい。それはそれでいいと考えるしかない。逆にそう呼び合う関係においては、気心も通じ合っているという感覚があるのも確かである。「遠慮のない関係」という意味では、呼び捨て仲間というのもいいものだと思う。

 仕事柄、建築関係の職人さんたちと接する機会が多いが、職人さんたち同士の会話はすべて「タメ口」である。同僚の現場監督は社外の人とタメ口で会話しているのであるが、なんとなくヒヤヒヤする感じがある。だが、それはそれでいいのかもしれない。とは言え、職人さん相手にタメ口を聞くのは、たとえ年下でも憚られるところがあって、自分には難しい。それが「とっつき難さ」につながっているのかもしれないが、たとえそうでも無理せず自分スタイルでいきたいところである。

 晏平仲ほどの人物ではないから及びもしないが、自分なりに「さん付け+丁寧語」はこれからも続けていきたいと思うのである・・・



【本日の読書】

   



2021年3月14日日曜日

走らないで

 毎朝、決まった時間に家を出て、池袋駅で西武線からJRに乗り換える。西武線を改札を出ると、否、西武線の改札に向かうところから既にダッシュしている人たちがいる。その人たちはコンコースを走りぬけ、何処へと向かって行く。その行く先は、のんびり歩いている私には知りようもない。いったいどこへ、そしてなぜ走っているのだろうかとずっと疑問に思っている。そして、そんなコンコースには、「危ないですから走らないようにしてください」といつもアナウンスが流れている。

 そんな毎朝の光景の中、私はいつも考えている。走る人とアナウンスとについてである。走る人は、最初は遅刻しそうなのかと思ってみた。誰でも駅で走る人はそうだろう。だが、どうやら違うだろうと想像するのは、以下の理由である。

 1.朝の6時半という時間は、企業の始業時間には十分早く、会社に遅刻するという理由は考えにくい
 2.仮に早出であったとしても、毎朝かなりの人数の人が早出に遅れそうだとは考えにくい 
 3.中にはちょくちょく見かける人がいて、おそらく毎朝走っている

 考えるに、走る理由は遅刻というより、「ポジション取り」だろうと思う。これから乗る電車の席取りである。実は私も山手線には30分近く乗るのでいつも座っている。だが、朝の早い時間であっても、座るには「工夫」がいる。座るためには一番最初に車内に入る方が有利であり、最前列に並ぶことである。そのために私がとっている方法は、「一本見送る」ということである。もし、一本見送らないのだとしたら、西武線から一目散に走らないと最前列は確保できない。おそらく、走っている人の理由はそんなところだろうと思う。

 私も席には座りたいが、かといって走るのはどうもカッコよくない。運動は必要だが、スーツで走る意味はない。そこで頭を働かせて走らずに座っているのである。経験値から座れる車両と座りやすいドアはわかる。あとは余裕を持って一本見送れば走らなくても座れる。それで座れるのであれば、朝からセコセコした気分に浸る必要がない。おそらく、走っている人のほとんどは、何らかの工夫をすればみんな楽に座れると思う。走るか、頭を使うか、どちらにするかと言うなら、私は頭を使う方を選ぶ。

 次に「コンコースを走らないでください」と言うアナウンス。もっともらしく聞こえるが、なぜそういうアナウンスをするのだろうか。走ったら危ないのは誰でも分かっている。本人が転べば自分が怪我をするだけの自己責任であるし、誰かとぶつかって相手を怪我させたとしても、当事者同士の民事事件である。西武鉄道がなんでわざわざそんな警告を発するのだろうか。はっきり言って、「余計なお世話」以外の何物でもない。よくよく考えてみると不思議である。

 我々は学校でも「廊下を走らない」と指導されてきた。これは学校という限られた空間で、管理者である学校が生徒の怪我を防ぐという保護者的観点を考えれば十分理解できる。また、これが駅のホームなどであれば、事故を未然に防ぐことで、たとえば人身事故等運行に支障が出るような事態を防ぐという自己防衛的観点を考えれば理解できる。だが、改札を出た後のコンコースにはそんな観点は見当たらない。否、もしも保護者的観点からであれば、それこそいい大人相手にバカにしていることになる。むしろそうであれば問題だと言えなくもない。

 いい大人をバカにしていると考えれば問題であるが、善意のボランティアと考えるとそうでもない。そういう善意の注意はいたるところにある。たとえば、銀行に行けば、ATMには「機械で還付はできません」と表示してある。いまだに多くの人が騙される「オレオレ詐欺」に対する注意であるが、これなどは典型的な善意のボランティアによる注意である。一方、「健康のため吸いすぎには注意しましょう」は、善意というより妥協の産物である。今はタバコが体に悪いのは小学生だって知っている。これはタバコをめぐる訴訟の中で生み出されてきたもので、意味のない「形式」である。

 善意のボランティアを悪いとは言わないが、雨が降りそうだったら自分で判断して傘を持って行けばいいし、走るなら自分で足元と周囲に気を配ればいい。余計なお世話が必要なのだろうかと思ってしまう。実際、アナウンスが流れようが流れまいが、走る人は走るし、走らない人は走らない。意味のあるものではないことは確かである。まぁ、いけないとは思わないがいいとも思わない。考えれば考えるほど不思議である。

 週末日曜日の夜。またもくだらないことを考えてしまった。明日の朝になれば、またそんなモヤモヤ感を覚えながら、走る人を眺め、注意のアナウンスを聞くのだろうと思うのである・・・


Gerd AltmannによるPixabayからの画像 

【今週の読書】
 



2021年3月11日木曜日

世を支える広告

グーグル、広告制限強化 個人の閲覧追跡させず

2021年3月4日 2:00 [有料会員限定]
【シリコンバレー=奥平和行】米グーグルがインターネット利用者の閲覧履歴を追跡する技術の使用制限を強化する。広告会社などが一人ひとりの情報を使って広告を配信する技術を排除する方針だ。米アップルもプライバシー保護を強化しており、配信対象を絞り込むターゲティング技術を高度にすることで成長してきたネット広告の転機となりそうだ。
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 広告というのは、実は密かに世の中の「便利」を支えている。テレビが無料で見られ、ラジオが無料で聴けるのは、CMでスポンサーがお金を出しているためであり、Googleの検索を無料で利用できるのも広告があるからであり、FacebookやTwitterやInstagramが無料で利用できるのもユーチューバーが収入を得られるのも、みんな広告があるからである。広告があるから便利なサービスをタダで利用できるわけであり、そう考えると広告とは誠にありがたいものだということがわかる。

 しかしながら、では広告がありがたいものと認知されているかと言うと、それはまた別の話で、むしろ嫌われていると言える。テレビではコマーシャルが喜ばれるのは、トイレに行きたくなった時くらいで、録画ではスキップされるのが常だろうと思う(録画にそういうスキップ機能がついていたりする)。どちらかと言えば嫌われている存在なのに、企業がお金を出すというのも不思議なものである。だが、嫌われているとは言いつつ効果があるのも確かであり、だから成り立っているのだろう。

 先日、仕事でピアノを処分する必要に迫られた。さて、どうしようと考えた時に思いついたのが、「もっと、も~っと、タケモット🎶」のタケモトピアノである。迷わず電話したが、あの耳にこびりつくCMがなければおそらくグーグルで「ピアノ 処分」と検索していただろう。また、何かの折に企業名を見た時、それがCMで知っている企業だと何となく安心感を得られるところがある。知らず知らずのうちにCM効果にさらされているようである。

 それにCM(広告)には、世の中のトレンドを知るという効果もある。ラジオCMでは、「過払い金」のCMが多いように感じる。10年前に消費者金融が大打撃を受けた過払い金返還であるが、最近は時効の関係なのか対象がクレジット金利に移っているように思う。司法書士や弁護士がCMを出して集客している。ネット広告では不動産売買(査定しませんか?)が目につくし、これは過熱する不動産市況の裏返しである。車の買い取りなど各種ある場合は競争の激しさが伺える。

 冒頭のニュースにあるグーグルの広告は、利用者の検索履歴に基づいて「最適な」広告を表示するものだろう。今やグーグル検索は、「神の領域」に及んでいると説く本もある(【the four GAFA-四騎士が創り変えた世界-】スコット・ギャロウェイ著)。人は誰にも言えないことをGoogleの検索窓に打ち込むというが、それを広告に利用しようというのも当然の考えである。おじさんに生理用品の広告を表示しても意味はないだろうし、テレビやラジオの「垂れ流し」方式よりははるかに効率的だろう。個人情報と言っても「個人の嗜好」レベルと言えるし、「いいんじゃないの?」と個人的には思う。

 それよりも疎ましく思うのは、たとえば今の時期、「ホワイトデー おかえし」などと検索すると、広告に引き続いて出てくる検索結果のページに飛ぶと、大概Amazonや楽天市場にリンクが張ってある。いわゆるアフィリエイトという「紹介料」目当てのものであるが、となるとどこまで信用して良いのかわからなくなる。個人で純粋に調べたものであれば信用できるが、アフィリエイト収入目当てでそれに見合う「おすすめ」であればいかがなものかと思ってしまう。

 アフィリエイトも広告の一種と言えば言えなくもないわけであり、そういうものだと思ってみれば問題はないわけであるが、そのあたりは利用者の裁量なのだろう。紹介料目当てのアフィリエイトだって、モノがよければ問題はないわけである。そのサイトの運営者に紹介料が入ろうがこちらの腹は痛まないわけである。自分の買い物で誰かが儲かっていると聞くと何となくいい気がしないだけで、「自分の満足」を基準に考えればいいと言える。

 今回のGoogleの広告制限強化が今後どのような影響を及ぼすのかはよくわからない。ネットサーフィンをしていて、ふと見る広告枠の中にかつて検索して物が表示されていたりするが、だからと言って特に気にはならない。もう買ってしまったり、用が済んでいたりすると、「何をやっているんだか」と思うが、その程度だろうと思う。それよりもPCを共有していたりすると、いろいろと不都合があるのかもしれない。

 かつていつだったか、楽天市場でウロウロしていた時、美人のモデルさんに惹かれてクリックしたところ、そこは女性下着のサイトであった。それを後日、妻に見られて白い目で見られたことがある。一生懸命「無実」を訴えたが、そんな訴えをしてみたところで白い目が黒くなるわけではない。いまはそれぞれ専用PCを持っているので、そんな心配はしていないが、子供もいることだし、「いつ何時」という懸念があるので、閲覧・検索履歴を残したくない場合にはGoogle Chromeの「シークレット・ウィンドウ」をきちんと利用している。「Googleに知られるよりも家族に知られる方が怖い」というのが正直なところである。

 今は何でもかんでも訳も分からず個人情報という時代である。保護もいいけど、行き過ぎないようしてもらいたいと思うのである・・・


FalkenpostによるPixabayからの画像 

【本日の読書】
 



2021年3月7日日曜日

童話に思うこと

 子供の頃は、みんながそうだったと思うが、私も童話が大好きであった。そんなこともあってか、自分の子供が小さい頃は、図書館で童話の紙芝居を借りてきてよく読んであげたものである。それは子供を楽しませたいという思いもあったが、自分ももう一度読んで楽しみたいと思ったのも事実である。そんな童話の数々は、今改めて振り返ってみると、子供の頃とはまた違う見方ができるなと思う。

 「十二支の始まり」は、なんでネズミが一番最初にきて、なんで猫が十二支に入っていないかという話。ネズミが猫を騙し、早起きの牛の背中に乗ってゴール直前で飛び出したというもの。それ以来、ネズミは騙された猫に追われ続けている。参加メンバーの中でネズミは最小、足もうさぎや犬、馬などの強敵から比べれば太刀打ちできない。誰が優勝するか事前に予想したら、おそらく犬や龍、うさぎ、馬といったところが優勝候補の筆頭だったと思う。その中で足の遅い牛と小さなネズミが1、2位を占めたのは、まさに作戦勝ちである。

 この競争には「いつスタートするか」という決まりがなかった。そこで足の遅い牛は、いち早く起きて出発という作戦を取る。亀との競争で不覚をとったウサギは、今回は同じ轍は踏まなかったようであるが、牛ほどの戦略性には欠けていたと言える。自分の欠点を嘆くではなく、いかにしてカバーするかを考えた牛は見事である。そしてその情報を素早くキャッチし、利用したネズミも見事である。猫を騙した部分はどうもいただけないが、ルールを熟知し、己の力を生かしたネズミと牛が勝ったのは見事である。

 「都会のネズミと田舎のネズミ」の話は、リスクとリターンの話である。田舎の食べ物は魅力に乏しい。都会に招待された田舎のネズミは、都会の食べ物の美味しさに目を見張るが、人間や猫といった外敵の存在に、「やっぱり田舎の方がいい」と帰っていく。安全を取るか、利益を取るか。どちらがいいかという話ではなく、「リスクなくしてリターンなし」という話なのであるが、どうも「田舎の方がいい」という教えになっているのが気になるところ。単純に「田舎の方がいい」と思う人は、もう少し考えてみる必要があると思う。

 「金の卵を産むガチョウ」の話は、1日に1つ金の卵を産むガチョウを手に入れた農夫の話である。1日1つの金の卵に満足できず、農夫はもっとたくさんと欲をかいてガチョウの腹を裂くという暴挙に出てしまう。その結果、腹のなかからは何も出てこず、次の日から金の卵も手に入らなくなったというもの。ガチョウの腹の大きさと金の卵の大きさを比較すれば、損得は簡単にわかりそうなものであるが、人間は得てして目先の利益にとらわれがち。株式投資や不動産投資で、似たような事例は多い。

 「マッチ売りの少女」の話は、「フランダースの犬」とともに子供心に涙した話。寒い大晦日に幼い子供にマッチを売りに行かせるというのは、今で言えば虐待に当たるだろう。多少なりとも戦略が考えられれば売れそうなターゲットや方法を模索したと思うが、幼い少女にそんなことは期待できない。絶望的な中、マッチを擦ってそのほのかな灯りの中に幸せを見出そうとした少女の心情が悲しい。翌朝、少女の亡骸を見た大人たちは、それを哀れに思う前に、なぜマッチを買ってやらなかったのか自問自答すべきであると憤りを覚える。

 こうした物語の背景には、かつてのヨーロッパの貧しい時代が反映されていると思う。「フランダースの犬」もそうであるが、物語で描かれているのは貧困だ。マッチはおそらく職人が作り(少女の父親だったかもしれない)、それを売って利益を上げるのに人を雇っていたのでは採算が取れない。そこで(無償の労働力である)家族に行わせたのであろう。非道に思える父親もマッチの生産に追われていたのかもしれないし、原料の仕入れから製造まで1人でやっていたと考えると、生産で手一杯だったのかもしれない。虐待を責める前に、事情を確認する必要がある。

 シンデレラは父親の再婚によって不幸になる。継母に快く思われず女中扱いされるようになる。再婚の経緯はわからないが、実父は継母に頭が上がらなかったのだろう。王宮に招待されるからにはそこそこの家庭だっただろうから、ひょっとしたら傾いた家系を継母との再婚によって再興させていたのかもしれない。そして1人留守番をするシンデレラの前に現れたのは魔法使いのおばあさん。魔法使いも白雪姫では悪役だが、ここではいい役柄。夜中の12時までの魔法の物語は、どうにもならない現状を紛らわせるための、庶民のささやかな願望から生まれたのかもしれない。

 「みにくいアヒルの子」も、変身願望と言えるかもしれない。不遇なる境遇にあっても、いつかは自分も羽ばたけるかもしれない。そう思えば不遇も耐えられる。否、せめてそうとでも思わなければやっていられないというのだったかもしれない。なんとなくヨーロッパの童話というのは、背景に「哀しみ」を感じるものが多いように思う。心正しきものが救われるというのは万国共通かもしれないが、最後は王様と結婚して幸せに暮らすというパターンは、「今の境遇からの脱出願望」があるようにも思える。

 一方、日本の童話では、「正直爺さん、いじわる爺さん」のイメージがある。こちらも「正直は美德」というのが根底にあるのだろう。かく言う私も、「正直に生きよう」と健気にも誓ったものである。もちろん、それはいいことであるが、今でもそう思う。ネズミは猫を騙す必要はなかったと思うのも、そういう正直爺さんの考え方が浸透しているからだと思う。欧米流の経済合理性もいいが、ビジネスの現場でも「正直爺さん」の精神は大事だと思う。

 何気ない童話でも奥が深いと思う。これまで読んできた数多くの童話だが、今までの人生経験を踏まえて読み返してみたら、また違った感想を持つのかもしれない。暇を見てそんなこともしてみたいと思うのである・・・



【今週の読書】
 



2021年3月4日木曜日

論語雑感 公冶長第五(その15)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感。
【原文】
子謂子産。有君子之道四焉。其行己也恭。其事上也敬。其養民也惠。其使民也義。
【読み下し】
子(し)、子(し)産(さん)を謂(い)う。君(くん)子(し)の道(みち)、四(よ)つ有(あ)り。其(そ)の己(おのれ)を行(おこな)うや恭(きょう)。其(そ)の上(かみ)に事(つか)うるや敬(けい)。其(そ)の民(たみ)を養(やしな)うや恵(けい)。其(そ)の民(たみ)を使(つか)うや義(ぎ)。
【訳】
先師が子産のことを評していわれた。
「子産は、為政家の守るべき四つの道をよく守っている人だ。彼はまず第一に身を持すること恭謙である。第二に上に仕えて敬慎である。第三に人民に対して慈恵を旨としている。そして第四に人民の使役の仕方が公正である」
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 政治を行う者としては、4つ心得ておかないといけないというのが、今回の言葉。
行動面では「慎み深く、へりくだる」。仕えては「敬い、気を配る」。下に対しては「恵み深く愛情をもって」。そして仕事をさせる場合は「公平に」。
その一つ一つはもっともである。ところが実際はそうではない。コロナ禍で国民に自粛を訴えておきながら多人数での会食をする政治家。ちょっと前には秘書を罵倒して辞職を余儀なくされた方もいた。古の社会もそうだったのだろうと想像に難くない。

 現代においても当然、当てはまる考え方だとは思うが、それは何も政治家だけに限られるものでもないと思う。身近なところでは、会社経営においてもそうである。銀行員時代、そういう実例を実際に見てきた。社長がワンマンなのはある程度は仕方ないと思うが、家族の食事等私用の領収書を経費として回したり、過大な報酬を取ったり、中には愛人手当を給料として支払っていた社長さんもいた。こうした行為は、社員は誰も文句は言わないだろうが、そのモチベーションダウンや不正の温床になったりはするだろう。

 №2以下の幹部であれば、「指示待ち族」というのも情けないが、実力があり過ぎて社長をないがしろにする人も困ったものである。ある不動産会社では、役員の1人が自ら別会社を立ち上げ、仕事をしながらおいしい案件は自分の会社の売り上げにしている例もあった。社長も文句を言って辞められても困るから何も言えない。さらに先代からの古い役員が、若い二代目社長を軽くあしらうというパターンもよくある。「俺が会社を回している」という意識は悪くはないが、それでも社長は立てないと傍から見ていてあまりいいものではない。

 また、銀行では一定年齢になると子会社に転籍するが、そういうベテラン社員が年下の上司を軽んじるというのもよく目にした。私も他部のベテラン社員に依頼事項を持って行ったところ、「そういうのは部長を通して依頼してくれ」と言うが早いか、「部長!ちょっと」と言って何と上司である部長を呼びつける人がいた。第二の人生でクビになる心配もないという身分であり、年下の上司を下に見ているのであるが、あれもバツの悪いものであった。

 部下に対する態度には、その人の本当の姿が現れる。上に対しては媚びへつらっていても、部下に対しては横柄というのはよく経験した。おかしな指示を出した課長に対して、その旨指摘したところ、「これでいいんだ」と強弁。しかし、その直後に部長に同じ指摘を受け、瞬時に指示を撤回。その早さ。「誰が言ったか」ではなく、その「内容」で判断してくれと腹立たしく思ったものである。一方、指示を出した後できちんと労ってくれる上司もおり、こういう方のためならいくらでも無理をしようと思ったものである。

 そういうできない例はともかくとして、我が身はどうだろうかと振り返ってみる。
経費の使い方などは特に気を配っている。その基準は「経理の女性の目」である。当然、処理してもらうわけであるから見られるわけであるが、その時堂々と「これは仕事で必要なものだ」と言えるか、あるいは言わなくてもそう思ってもらえるかを常に意識している。交通費も社内で私だけ「いつ」「どういう目的で」「いくら使ったか」の一覧表(銀行員時代に使っていたのを参考にしたもの)を添付しているし、会食もメンバーを明記して適切な価格を意識している。当たり前のことではあるが・・・

 仕事の指示は日々出しているが、その時意識しているのは、部下の手元の状況である。たくさん仕事を抱えている時には、他の者に担当させたり、しばらく手元に留めておいたりという調整をする。でないと余裕のない状況に渡してミスするかもしれないし、余計なストレスになるかもしれない。急ぎの場合は、状況を教えてもらって優先順位を変えるように指示をしたりする。仕事を指示するのが自分の仕事ではなく、きちんとやってもらうことが自分の仕事であり、大事なことであるわけであるから、そういう気配りは必要だろうと考えている。

 だが、仕事の指示が公平かと言うと、それは自信がないところである。「女に甘く男に厳しい」ところは自覚がある。もともと体育会系の性分であり、責任ある仕事なら「徹夜してでもやれ」と思ってしまう。男なら「四の五の言わずやれ」とはっきり言うが、さすがに女性にそんな言い方はしない。たとえるなら、「男にはそのまま出すが、女性には食べやすく切って出す」という感じである。もちろん、食べられる量も考慮することは間違いない。それが良いか悪いかは考えず、それが私の性分ということである。

 仕事をしていく上で、自分は「良い部下か」「良い上司か」「良い同僚か」というのは意識したいと思っている(できているかは別として、であるが・・・)。というのも、あとから振り返った時に、「もう一度一緒に仕事したい」と思ってもらいたいというのが基本にある。社会人デビュー時は、嫌な思いをすることが多かった。それが給与の対価という雰囲気があった。でも、自分がそうだったから、みんなそうあるべきとは思わない。現に尊敬すべき上司もいたわけであり、自分はそちらに名を連ねたいと思うからである。

 自分は政治の道には進まないが、サラリーマンの道への応用として、今回の言葉を捉えてみたいと思うのである・・・




【本日の読書】