2024年7月31日水曜日

管理職を育てる

 社員教育の重要性はどこの会社でも同じだと思うが、中小企業においては特にそうである。我が社の場合も例外ではないが、まずは管理職について、一定レベルまでにはなって欲しいと思う。我が社に来てちょうど3年。それまでどうしていたかというと、「育つ奴は勝手に育つ」という状況。管理職についても、各々が「これでいいのだろう」と各自が思うように振る舞っており、統一感がない。それではさすがにまずいとなって、教育について力を入れていく事になったのである。

 さっそく、目につくのが部長候補のA氏。仕事の面では問題ないが、部長となると+αの管理能力が求められる。そこで社長自らがあれこれと要求を出すが、「私はまだ部長ではないので」とか、「部長になったらやります」との答えが返ってきて頭を抱える。「部長になったらやる」と言われても、こちらとしては「やれるから部長にする」のである。順番が違う。これは課長以上の管理職にはみな当てはまる事であるが、管理職というものの意味を理解できて行動できる人を管理職にするのであるから、「なったらやる」という人は一生なれない。

 新人には「給料分だけ働いていると給料分の人間になる」と教えている。常に給料分以上の仕事をしろという意味である。そしてそれは新人だけに当てはまるものではなく、役員を含めた全員に当てはまる事だと考えている。「管理職ではないから」と管理職未満の仕事をしていると、管理職未満の仕事に見合った人間になり、管理職にはなれない。「なれる」と言いたい人はいるかもしれないが、できなければ降格してもとに戻すというわけにはいかない。やはり「できるから昇格させる」ものなのである。

 また、別の機会であるが、来期の計画をそろそろ立てようという事になっているが、A氏は「目標が高すぎる」と言い出した。そもそも目標をどこに置くかという問題はある。目標は低過ぎてもいけないし、高過ぎてもいけない。しかし、目標自体は役員間で同意したもの。頑張らないと手の届かないものではないが、簡単に達成できるものではない。そこは個人の感覚による違いはあるかもしれないが、役員で同意した目標なので適切だとの前提で考えるが、「目標を下げる」という考え方は何よりも間違いであると考える。

 A氏には足元の現状から届く範囲というのが見える。それが適正だとするなら、手の届く目標ばかり追いかけていては会社の成長はない。微妙に手が届かないからこそ創意工夫をするのであって、その創意工夫が大事だと考えている。普通にやっていたら手が届かないからこそ、今までとは違うやり方を試みたり、新しい事にチャレンジしたりするのである。そうしないと目標には届かない。そしてそれこそが企業に成長をもたらすものだと思う。A氏は現場に近く、現場がよくわかっているからこそ、現場の発想でしか考えられないという限界がある。

 そうした事がすんなりと腹落ちして理解できる者とA氏のように引っ掛かって腑に落ちない者とがいる。ではすんなり理解できるものだけを引き上げれば良いかというと、そこは中小企業の悲しさ、そんな事を言っていたら引き上げる人間がいなくなってしまう。なので、引き上げられるように教育していく必要がある。何と言ってもA氏は実力があるのである。足りない部分は経営感覚だけなのである。そこを補うのは、やはり経営陣の役割だと思う。それにしても、すんなり理解できる人とできない人との差はどこからくるのだろうかと思ってしまう。

 1つには「視野の広さ」というのがあるかもしれない。自分の仕事の周辺しか見えていないと、「この現状でどうやって売上を伸ばせばいいんだ」と思うのは当然だろうと思う。しかし、そこをもっと俯瞰して考えるのが経営である。新規の取引先を開拓したり、他の企業と戦略的に提携して新たな収益ルートを確保する等、現場だけでは考えられない事を考えたりする事も必要だったりする。もちろんそれは経営陣の役割部分も大きいが、すくなくとも自分たちの限界以上は何か考えなければならないという意識だけでも持っていてほしいところである。

 そういう意識の部分はやはり教育という事になるのだろう。いずれ会社を担う立場になってもらうためにも、そこは自分たちの責務としなければならないと思うのである・・・


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【本日の読書】

歴史学者という病 (講談社現代新書) - 本郷和人  父が息子に語る 壮大かつ圧倒的に面白い哲学の書 - スコット・ハーショヴィッツ, 御立 英史





2024年7月28日日曜日

臓器売買は本当に悪なのか

Mine! 私たちを支配する「所有」のルール - マイケル ヘラー, ジェームズ ザルツマン, 村井 章子

 『Mine! 私たちを支配する「所有」のルール』という本を読んだ。面白い着眼点の本で、言われてみれば確かにその通りだが、そんなことは考えてもいなかった「所有権」にまつわる様々な問題が挙げられている。どの事例もそれぞれ興味深く、その根底に「所有/所有権」にまつわる問題があることがわかって面白かった。ただ、その中には深く考えさせられる問題もあった。それは自分の身体に関するもの。自分の身体は自分のものであるが、では自由にできるのか。そしてその一例として臓器売買が挙げられる。

 臓器売買は世界のほとんどの国で禁止されていて、公認されているのはイランくらいらしい。我々の感覚でいけば当たり前のようであるが、髪の毛は自由に売買できるが、なぜ臓器はダメなのか。かつて血液も売ることができたが、今は禁止されている。その理由は「命に関わるから」であろう。髪の毛は切ってもやがて生えて元に戻る。切ることは簡単で命の危険もない。しかし、臓器は手術のリスクがあるし、摘出後に健康を害する可能性もある。だから禁止するのもよくわかる。

 血液も同様で、適度(3ヶ月間隔で200〜400ml)であれば献血は認められているが、無償である。これも多過ぎれば命のリスクがある。そして売血を認めると、お金に困った人が命のリスクを顧みずに献血に走る可能性もある。2015年の韓国映画『いつか家族に』は、主人公がまわりが止めるのを無視して、家族のために限度を超えて売血する姿が描かれる。おそらく売血が可能となれば、金に困った人たちを中心に売りに行く人間はかなりいると思う。生活のためもそうだが、小遣いに不足するサラリーマンもかなり行くかもしれない。

 臓器売買が禁止されるのはよく理解できる。よくヤクザが絡む物語では、金を返せない相手に「臓器を売れ」と迫るのはよくあるストーリーだし、闇金なんかが金を返せない債務者にそんな返済方法を迫るのも容易に想像できる。しかし、『Mine! 私たちを支配する「所有」のルール』では思ってもみなかった世界の現実が紹介される。それは臓器売買が禁止されるアメリカでは、年間43,000人もの人が移植が間に合わずに亡くなっているのに対し、認められているイランではなんと0だと言う。

 考えてみれば、売る方に着目してばかりだと気づかないが、売った先には助かる命があるというのも事実である。もちろん、借金の取り立てに本人の意思に反して売らされるのは論外だが、自主的に売ってもいいと思うのも禁止すべきなのだろうかと思う。事実、先の本では住宅ローンを返済するために深夜労働などの重労働を強いられるよりも、臓器を売って楽に過ごせるならその方がいいのではないかという疑問も投げかけられる。

 考えてみれば、血液だって戦後の混乱期ならまだしも、今であれば厳格な本人確認と記録化によって安全に売血できる仕組みは作れるだろうし、そうすれば売る人も増えて血液が足りなくて必死に呼びかける必要もなくなるように思う。問題があるとしたら、私も今不定期に献血を行なっているが、売血と見られると嫌なので足が遠のくだろうと思うので、そういう献血者が減るかもしれないという危惧だろうか。

 ただ、臓器が買えるようになった場合、うまく仕組みを作らないと、「金持ちだけが助かる」という事態を招くことになるかもしれない危険がある。うまい具合に供給が需要を上回れば問題がないかもしれないが、そうでなければお金のない者が臓器移植のネットワークから弾き出されてしまうかもしれない。これは真剣に考えないといけないところである。ただ、頭からタブー視して議論もしないという態度ではなく、どうやったら問題なくできるのかを考えてもいいようにも思われる。

 売る側の倫理的な問題からだけではなく、「助かる命」という視点からも考えるべきではないかと思うのである・・・


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【本日の読書】
リーマンの牢獄 - 齋藤栄功, 阿部重夫





2024年7月25日木曜日

論語雑感 泰伯第八 (その4)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感
【原文】
曾子有疾。孟敬子問之。曾子言曰、鳥之將死、其鳴也哀。人之將死、其言也善。君子所貴乎道者三。動容貌、斯遠暴慢矣。正顏色、斯近信矣。出辭氣、斯遠鄙倍矣。籩豆之事、則有司存。【読み下し】
曾(そう)子(し)、疾(やまい)有(あ)り。孟敬(もうけい)子(し)之(これ)を問(と)う。曾(そう)子(し)言(い)いて曰(いわ)く、鳥(とり)の将(まさ)に死(し)なんとする、其(そ)の鳴(な)くや哀(かな)し。人(ひと)の将(まさ)に死(し)なんとする、其(そ)の言(げん)や善(よ)し。君(くん)子(し)の道(みち)に貴(たっと)ぶ所(ところ)の者(もの)三(さん)あり。容貌(ようぼう)を動(うご)かしては、斯(ここ)に暴慢(ぼうまん)に遠(とお)ざかる。顔(がん)色(しょく)を正(ただ)しては、斯(ここ)に信(しん)に近(ちか)づく。辞気(じき)を出(いだ)しては、斯(ここ)に鄙(ひ)倍(ばい)に遠(とお)ざかる。籩豆(へんとう)の事(こと)は、則(すなわ)ち有(ゆう)司(し)存(そん)す。
【訳】
曾先生が病床にあられた時、大夫の孟敬子が見舞に行った。すると、曾先生がいわれた。
「鳥は死ぬまえに悲しげな声で鳴き、人は死ぬまえに善言を吐く、と申します。これから私の申し上げますことは、私の最後の言葉でございますから、よくおきき下さい。およそ為政家が自分の道として大切にしなければならないことが三つあります。その第一は態度をつつしんで粗暴怠慢にならないこと、その第二は顔色を正しくして信実の気持があふれること、その第三は、言葉を丁重にして野卑不合理にならないこと、これであります。祭典のお供物台の並べ方などのこまかな技術上のことは、それぞれ係の役人がおりますし、一々お気にかけられなくともよいことでございます」

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 普段、自分が死ぬことなど考えることはないが、それでも何となく死ぬ時までにやっておいた方がいいなと思う事はある。曾先生のように死の間際に子供たちを枕元に呼んで思いの丈を語るというのも悪くはないが、自分はみんなに看取られて死ぬよりも人知れずひっそりとというのがいいと考えている。よって言いたい事は事前に伝えておきたい。そうすると、遺言という言葉が頭に浮かぶが、遺言と言うと財産の分配というイメージが強い。そういう意味での遺言はたぶん残さないだろう。

 子供たちに伝えたい事は、自分が今まで生きてきて学んだ事だろう。社会の中で生きていく上での考え方である。ただ、それも死の間際にまとめてというよりも、今から少しずつという風に思う。やはり曾先生の言うように「死ぬ前に善言を吐く」というのは自分にはあたらないだろう。善言ではないが、死に際して言い残すとしたら、自分の葬儀とか供養とかそういうものになるだろう。それであれば、忘れずに言い残したいと思う。

 まずは葬儀であるが、近親者だけでいいし、何より仏教式でなくていいという事は強調したい。もとより仏教徒ではない。なのに死んだときだけ急に仏式にする必要はない。よってお坊さんを呼んでお経をあげてもらう必要はない。生きている時に聞いてもわからないお経を死んでからあげてもらっても嬉しくもない。お釈迦様に弟子入りするつもりもないので戒名もいらない。今は簡略化して同時にやる初七日も四十九日の法要も必要ない。葬儀は自由形式でいいし、供養ならそれぞれ心の中で思ってくれるだけで十分である。

 葬儀に関しては、みんなどうしていいかわからないから無難な仏式にしていると思う。その時になって慌てて何宗だったか調べ、お寺を紹介してもらい、あたふたと葬儀社の人に言われるまま準備しているのをこれまで目にしてきた。家族が事前に準備するのもいかがかと思うから、ある程度は自分で(葬儀社を決めて打合せをするとか)準備しておきたいと今は思う。仏式でやらないとすれば、どうすればいいかと戸惑うだろうから、そのあたりも考えておかないといけない。

 墓は両親が故郷の長野県に自分たちのために用意しているところがある。小さな墓所だが、そこでいいと思う。家族が(特に妻が)どうしたいかは妻が決めればいいこと。一緒でなくてもいいと思っているので、そこはいずれ話し合いだろう。長野県は遠いが、墓参りも不要だと考えているので気にしない。それも言い残すことになる。供養は心の中で思ってくれればいい。どうせ墓には私の骨しかないし、本人たちが骨に意味があると思えばくればいいが、来なくても恨みはしない。

 私は人間は死んだらそこで消滅して終わりだと考えている。だからこの世に私の霊魂は残らないし、墓には骨があるという以上の意味はない。墓に来るという行為が何かの意味を持っているなら、わざわざ時間をかけてくるのも意味があるだろうが、私に悪いと思うだけならそれは無用だと伝えたい。死者を悼むのであれば、それは体を動かす事ではなく、心の中で思うだけで十分なのである。納骨を済ませれば、あとは時折私の事を思い出すだけで自分たちの生活を優先してくれればいいと考えている。

 自分の葬儀では、義務感で来てほしくはないなと思う。実は私は人の葬儀に参列するのがあまり好きではない。最後になにか話ができるのであればともかく、死顔を見たいとは思わないからである。それは裏を返せば自分も見られたくないという事であり、「お世話になったから」とか、そういう感覚で来てほしくはない。ただ、生前に挨拶状か挨拶文を作っておき、死んだら息子にそれを投函または投稿してもらいたいとは思う。そこでお世話になった人に自らの言葉でお礼を伝えるのである。死者からのお礼状というのも面白いと思う。

 曾先生の言うように死ぬ前に善言を吐くよりも、生きている間に善言は伝えておき(あれば、だが)、死んだ後の事は上記の通り伝えたいと思う。それが私の遺言と言えば遺言と言えるものである。唯一の不安と言えば、認知症であろうか。そんな思いもすべて忘却の彼方に行ってしまったら意味はない。意識のしっかりしている間にやっておきたいと思うのである・・・


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【本日の読書】
リーマンの牢獄 - 齋藤栄功, 阿部重夫





2024年7月21日日曜日

ハッキリ言いにくい

エレガントな毒の吐き方 脳科学と京都人に学ぶ「言いにくいことを賢く伝える」技術 - 中野 信子

 『エレガントな毒の吐き方』という本を読んだ。著者は脳科学者の中野信子氏。サブタイトルに「脳科学と京都人に学ぶ『言いにくいことを賢く伝える』技術」とあるが、あまり脳科学とは関係ない。むしろ京都人の「イケズ」を採り上げてこれをメインテーマとしているのが特徴である。京都人のイケズとは「ぶぶ漬け」が有名であるが、遠回しに言いにくいことを言うことである。

 個人的には、昔から「言いたい事はストレートに言う」というのが好みで、以心伝心など都合の良い言い訳に過ぎず、人間はやはりハッキリ言わないと伝わらないと考えている。子供の頃からそれでよく母親と言い争いをしたし、いわゆる「空気を読む」のも苦手であり、嫌いである。若い頃は女性に振られると、なぜなのかと理由を知りたがった。どうして自分ではダメなのだろうかと。しかし、誰1人としてその理由を教えてくれる女性はいなかった。

 銀行員時代には、よく融資の申し出を断る場合に理由として「総合的判断」という言葉を使っていた。お断りすれば、当然相手はその理由を知りたがる。しかし、その理由をハッキリ言うと相手はそこにつけ込んでくる。「担保がない」とすれば、「では担保があれば良いのか」とか、財務内容が理由だとすると、次の決算までにそこを直せば良いのかとなる(もちろん良い場合もあれば、ダメな場合もある。ダメな場合は、「前回そう言っただろう」とのクレームになる)。経験則上、「総合的判断」と言えば、それ以上のツッコミはかわせるのである。

 おそらく、私がかつて女性たちに振られたのも「総合的判断」だったのだろう。「何となく違う」という気持ちも今なら理解できるし、自分なりにダメだった理由もわかるし、もしもう一度時間を戻せたら、今度こそうまく行く自信はある。そんな経験を繰り返してきたからか、「ハッキリ言わない」という良さも悪さもわかっているつもりである。しかし、それでもやっぱり「ハッキリ言う」方がいいと思うのは今も同じである。会社でも基本的にそれで通している。人事評価などは本人にハッキリ伝えているし、聞かれれば余程の秘密事項でない限り、業績なんかも含めてすべての社員に教えている。

 しかし、やはり言い難いことはあるもので、さすがの私もハッキリ言えないことがある。それは同じ役員に対する意見である。その役員は叩き上げの古参役員で、もちろん私が転職して入社した時にはすでに役員であった人物である。ところが当時から、役員というより部長的発言が多く、私も違和感を禁じ得なかったのである。我々は小規模な中小企業であり、役員は全員担当部門の部長を兼務している。そこで「役員とは」を理解していれば問題はないのであるが、その役員はそれを理解していないのである。

 会社の業績目標未達に際し、「自分の部は目標を達成した」と主張する。「達成できなかったのは他の部の責任であり、自分の責任ではない」と。部長としてはその気持ちはわかるが、役員は全社ベースで考えないといけない。自分の部の成績も大事だが、それも全社目標を達成した上での話である。私も総務部という間接部門を担当しているが、どうやったら業績目標を達成できるのか、自分の部署とは関係なくても「役員として」責任を持って意見具申している。

 それがあらゆる所でそういう言動が目につき、社長との折り合いも悪い。どうにもいかがなものかと思うも、やはり同じ役員としてハッキリ言うのも抵抗があり、間接的に気づいてくれるようにいろいろ試みてきた。社外の役員向け研修をあたかも社長の指示であるかのように装って一緒に受けたり(私にはわかりきった内容であった)、社外の講師を呼んで役員合宿をやって一緒に学んだり(もちろん講師には事前に狙いをネゴしておいた)、直接言わずに理解してもらおうとしたのである。ところが、やっぱり通じない。人間はやはり言葉で直接言わないと通じないものなのである。

 それはもう仕方がない。ただ、私の方が役員としては後輩だし、立場を尊重する必要もある。言われて素直に改善してくれればいいが、下手に感情的に対立されても困る。「猫に鈴をかける」のは確かに難問である。京都人ならどんなイケズを言うのであろうか。残念ながらそんなヒントになりそうな事はこの本には書かれていなかった。私はハッキリ言うのが信条ではあるが、人間関係も大事である。もう少し「遠回り戦略」を続けようと思うのである・・・


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【今週の読書】
Mine! 私たちを支配する「所有」のルール - マイケル ヘラー, ジェームズ ザルツマン, 村井 章子  ある行旅死亡人の物語 - 武田 惇志, 伊藤 亜衣






2024年7月18日木曜日

ChatGPTのこと

 はじめてパソコンを買った頃の話である。親戚の叔父に「パソコンなんて買って何するんだ?」と問われたのを覚えている。日頃から皮肉屋で嫌いな叔父であったが、「何がパソコンだ」という批判がその言葉に込められていた。私は、と言えばこれからはパソコンが必須の時代になるので、早目に手にして慣れておこうと思ったのである。まだインターネットを少し眺めてみたり、メールのやり取りをしたりという程度であったから、それを聞いた叔父には鼻で笑われた。しかし、パソコンは世の中に浸透し、叔父も使うようになった。そして私も早目に手を出した効果は十分にあった。

 今ではスマホもかなり普及していてパソコンよりもスマホという時代なのかもしれないが、それでも仕事でも勉強でもパソコンがないと始まらない。今年大学に入学した息子も、自分専用のパソコンを買うか買わないかではなく、「何を買うか」で迷う状況であった(結局surfaceにした)。「パソコンなんて買って何するんだ?」なんて問うた叔父であるが、今その質問を振り返ればいかに愚かであったかがわかるだろう(そう言えばパソコンに向かっていれば仕事してると思ったら大間違いだぞと言う上司もいた)。

 今、世の中でAIやChatGPTが話題となっている。私も「ChatGTPで何をするんだ」という状態であるが、それでも一時の流行りで終わるものではないだろうし、少しずつ使っていこうと思っている。使っていくうちにいろいろと使い方がわかってくるかもしれない。ただ、今のところはその時々で思いついた質問を投げかけている程度である。たとえば、「社員がメンタル不調になるのを防ぐにはどうしたらいいか?」とか、「社員との人事面談で何を聞いたらいいか」とか。それなりに教科書的な答えが出てきて、特に得るものはないが、確認程度にはなる答えが得られている。

 ふと思いついて、「坊ちゃんの読書感想文を書いて」と入れてみた。その結果はそれなりの内容のものが出てきたが、ちょっと小学生が夏休みの宿題にズルして出すには大人過ぎるものである。しかし、そこでさらに「小学生用に」とお願いしたらそれらしいものが出てきた。これなら夏休みの読書感想文の代わりになる。書き写すだけなら20分もあれば「一丁上がり!」となる。工作なんかの宿題には対応できないが、工作のヒントなら与えてくれる。「夏休みの自由研究に何をしたら良いか?」と問えば、各種の例を挙げてくれるから、お父さんもお母さんも助かるかもしれない。

 ズルして読書感想文の原案を作ってもらう事はもちろん良くないことである。何よりも宿題の目的は「感想文を書く」事ではなく「本を読む」事であろうから、その目的を達成していない。しかし、ズルをする子は今でもあらすじだけ読んでそれらしい感想文を書いている(我が息子ももしかしたらやったかもしれない)から、それが時代にあわせて「進化」したとも言える。ズルではなく、「ChatGPTを使うという頭を使った」と言うなら、言えなくもない。「本を読む」という先生の意図からは逸脱するが、「使えるものを使って効率的に結果を出す」という意味では1つの成果なのかもしれないという気もする。

 一見、ズルかもしれないが、考えようによっては使った方がいいかもしれないとも思う。まずはきちんと読むことが前提となるが、読んだ上で感想文の一例とするなら、書き方をも学べるという効果が得られるようにも思う。ただ使うのではなく、自分のためになる効果的な使用ができるのであればむしろ使用を推奨しないといけなくなるだろう。そうしたところで、ChatGPTの効果的な利用方法を「本人」に聞いてみたが、返ってきた回答は下記の通り。

1.情報検索や調査
2.学習支援
3.クリエイティブなサポート
4.コーディングと技術サポート
5.日常生活のサポート
6.言語学習
7.メンタルヘルスとセルフケア
との事である。これらを念頭に置いておきたいと思う。

 何にせよ、時代はAIの時代である。それに背を向けていると今に「使えない爺さん」になってしまうだろう。それはかつて「パソコンなんかで何をするんだ?」と言っていた叔父のように思われてしまうだろう。精神の老化現象に見舞われないように、そこは自分で意識していきたいと思うのである・・・


【本日の読書】
思考の技術論: 自分の頭で「正しく考える」 - 鹿島 茂  Mine! 私たちを支配する「所有」のルール - マイケル ヘラー, ジェームズ ザルツマン, 村井 章子  ある行旅死亡人の物語 - 武田 惇志, 伊藤 亜衣




2024年7月14日日曜日

アンチエイジング

 その昔、頭が硬い上司がいて、いろいろとアイディアを提案してもあれこれ言って先送りの末に有耶無耶にされるという事があり、イライラさせられた事がある。石橋を叩くのも大事だが、叩いてばかりで渡ろうとしないのは問題である。慎重なことは大事であるが、慎重すぎるのは「過ぎたるは及ばざるが如し」である。さまざまな経験を積めば、いろいろなリスクに思いが及ぶのはわかるが、組織の活性化を阻害しては何にもならない。いつしかこれぞ「老害」なのだろうと思うようになっていた。

 しかし、自分もいつの間にか上司より部下の数の方が圧倒的に多くなり、かつての上司の立場になっている。そんな自分を振り返ってみて、「大丈夫だろうか」とふと思う。還暦になって、しかも会社の財務を預かる立場になって、いつの間にか保守的になって、かつて嘆いた「老害」になってはいないだろうかと心配になったのである。「大丈夫だ」と思いたいが、「評価は他人が下したものが正しい」という野村監督の言葉にある通り、自分で大丈夫だと思っていても本当かどうかはわからない。

 ただ、それ手でも何となく自分はまだ大丈夫な気がする。自分が受け持っている総務部(と言っても財務も人事も含む総務である)では、みんなに「業務改善提案」の提出を義務付けている。そしてその結果もきちんと人事評価に織り込んでいる。その目的は、「漫然と仕事をしない事」。常に何か改善点はないか、見直すべき事はないか、新しい工夫はないか、を強制的に考える仕組みを作っているのである。みんなには不評だが、やめるつもりはないと宣言している。

 その代わり、どんな些細な提案であろうと点数を与えている。0点という事はない。そうやって仕事のマンネリ化を防ぎ、何か新しい事を考えるように仕向けている。それは自分自身にも向けていて、役員としてどんな新しい工夫をするのかを意識している。新しい工夫と言っても、そうそういくつも簡単に出てくるものではない。悪戦苦闘の連続である。そういう意識でいると、若手から何か提案があれば、「やってみなはれ」という気持ちになる。

 実際、何か前向きの提案をしても、認められなければガッカリするし、そのうちにそんな提案などしても無駄だという気持ちになる。それは組織の停滞に繋がるし、そんな様子がわからない社長から見ると、「うちの社員はダメだ」となるのかもしれない。それを防ぐためには、何か提案があればそれを積極的に後押しするしかない。何が何でもというわけにはいかないかもしれないが、ダメならダメでその理由を説明し、できれば更なる改善を求める事も必要だろうと思う。

 実際、私も先日部下から改善提案を受けたが、非常にいい内容だと思ったので、全社的に進めようと答えた。「ではやれ」だと本人も戸惑うであろう。そこで次回の役員会で提案して役員の同意を取り付ける事にした。そうして「個人の提案」から「会社の施策」になればお墨付きが得られ、そうする事で本人も進めやすくなる。こうした環境作りは上司の責任だろうと思う。そういう施策が次々と出てくるようになれば、「アクティブ総務」の評判を築く事ができるかもしれない。

 世の中では「アンチエイジング」という言葉がある。いつまでも若々しくありたいという気持ちはよくわかるが、それは見かけだけの事であっては意味がないと思う。見かけも大事であるが、それ以上に「精神のアンチエイジング」は必要ではないかと思う。ただでさえ、肉体は老いても精神は老いぬもの。であれば「老害」というのも本来はあり得ないはず。ただ、「面倒だ」と思う心はあるのかもしれない。新しいものについて考えるのが面倒だと感じる心である。

 それは何となく理解できるところである。私もだんだんと億劫になってきているところがある。それは「精神の疲労」なのかもしれないと思う。当面、注意しなければならないのは、この「精神の疲労」かもしれない。それを防ぐのは、「精神の休息」なのだろうか。何が役立つかはわからないが、この「精神の疲労」に気をつけつつ、老害とならないように精神のアンチエイジングに努めて行きたいと思うのである・・・


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【今週の読書】
思考の技術論: 自分の頭で「正しく考える」 - 鹿島 茂  Mine! 私たちを支配する「所有」のルール - マイケル ヘラー, ジェームズ ザルツマン, 村井 章子  心はあなたのもとに (村上龍電子本製作所) - 村上 龍




2024年7月10日水曜日

論語雑感 泰伯第八 (その3)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感
【原文】
曾子有疾。召門弟子曰、啓予足、啓予手。詩云、戰戰兢兢、如臨深淵、如履薄冰。而今而後、吾知免夫、小子。
【読み下し】
曾(そう)子(し)、疾(やまい)有(あ)り。門弟(もんてい)子(し)を召(め)して曰(いわ)く、予(わ)が足(あし)を啓(ひら)け、予(わ)が手(て)を啓(ひら)け。詩(し)に云(い)う、戦戦(せんせん)兢兢(きょうきょう)として、深淵(しんえん)に臨(のぞ)むが如(ごと)く、薄(はく)冰(ひょう)を履(ふ)むが如(ごと)しと。而今(いま)よりして後(のち)、吾(われ)免(まぬか)るるを知(し)るかな、小(しょう)子(し)。
【訳】
曾先生が病気の時に、門人たちを枕元に呼んでいわれた。
「私の足を出して見るがいい。私の手を出して見るがいい。詩経に、深淵ふかぶちにのぞむごと、おののくこころ。うす氷ふむがごと、つつしむこころ。とあるが、もう私も安心だ。永い間、おそれつつしんで、この身をけがさないように、どうやら護りおおせてきたが、これで死ねば、もうその心労もなくなるだろう。ありがたいことだ。そうではないかね、みんな」
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 人の寿命はいったいどのくらいだろうかと思う。日本人男性の平均寿命は81.05歳らしいが、それはあくまでも平均であり、私の父は現在87歳、父方の祖父も伯父も89歳で天寿を全うしたことを考慮すれば、私も90歳までは生きるような気がしている。実際、私もそう認識しており、先月還暦を迎えて人生の2/3を終えたという気分でいる。もちろん、それは根拠の薄い思い込みであるが、残りの人生を過ごすにあたって、「残り時間」を意識するのは必要な事のように思うので、「あと30年」という意識でいるのである。

 長生きするために何か心掛けている事があるかと言われれば、特にない。あえて言うなら「朝食抜き」だろうか。これは『LIFESPAN-老いなき世界-』という本を読んで真似してみようと思った事で、効果のほどはわからない。まぁ、気軽に試しているところである。よくテレビなどで高齢者に向かって「長生きの秘訣は?」とか「健康の秘訣は?」とか尋ねるのを目にする。誰もが気になるところではあると思うが、たいていは「好きな事をしている」といった類で、酒もたばこも控えてひたすら健康的な事をやっているという答えはあまりないように思う。

 そもそもであるが、長生きに秘訣などあるのかと思う。『LIFESPAN-老いなき世界-』のように本格的に研究しているものを見るとあるのだろうとは思うが、なかなか素人が簡単に実践できるものでもない。今のところは長生きするかどうかは、「たまたま」ではないかと思う。大酒を飲んでいたってタバコを吸っていたって、長生きする人はするだろうし、酒もタバコもやらないのに短命に終わる人もいる。何が違うのかと考えてみれば、結局その人それぞれの生物としての細胞の生命力なのかなと思ってみたりする。

 機械にたとえればわかりやすいが、同じ製品でも寿命はそれぞれ異なる。我が家はこの夏、ダイニングのエアコンを買い替えたが、私の部屋のエアコンはもう20年以上使っているが、まだまだ現役である(利用頻度が低いために買い替え対象にはならないのである)。同じように作っている機械でさえそうなのだから、個別オーダーメイド生産の人間においてはなおさらである。「たまたま」長生きした人に秘訣を聞いたところであてになるとは思わないし、長生きするために健康で禁欲的な生活をしたいとまでは思わない(ちなみに朝食抜きはまったく苦にならないので禁欲ではない)。

 最近は生命の寿命よりも「健康寿命」という事が重視されるようになってきている。いくら長生きでも、ボケてしまったらもう迷惑以外の何ものでもない。亡くなった祖父は、晩年祖母がボケてしまって徘徊するようになり、だいぶ苦労して嘆いてもいたと聞く。人間が人間であるためには、認知機能というのは重要で、これがなくなればもはやただの生物になってしまう。自分の身内にそうなってほしくはないし、ましてや自分自身そうはなりたくない。体の健康も大事であるが、それと同じように精神の健康も重視したい。

 精神の健康となると、大敵はやはりストレスであろう。曾先生は肉体的に身を汚さないように生きてきたというが、私はどちらかというと、精神的に身を汚さないようにしたいと思う。不安や心配事は逃れられるものではないが、なるべく回避するようにしたいと思うし、仕事は楽しくやるようにしたい。仕事については、思い通りに行くことは少なく、その意味でなかなか難しい部分があるが、それも心掛け1つ、つまり意識の部分が大きいと思うが、今のところはうまくいっている。休みを前にした金曜日の夜はホッとして嬉しいし、日曜日の夜は翌日からの仕事を控えて楽しみなところも多い。サザエさん症候群とは無縁である。

 マズローの欲求5段階説によれば、「承認欲求」と「自己実現欲求」の段階にきている。周りから認められたいし、それによって「自分が満足できる自分になりたい」と思う。これが充足されればストレスとは無縁になるだろう。「仕事がつまらない」という人はかわいそうに思う。面白いと思ってやれば面白いし、嫌だと思ってやれば嫌なものだろう。「面白い仕事があるわけではない。仕事を面白くする人がいるだけ」という言葉の通りだと思う。仕事は自己実現欲求を満たす事のできるものの大事な1つである。

 仕事では会社を成長させ、社員のみんなと幸せになりたい。ラグビーではいいプレーをしてみんなと美味いビールを飲みたい。子供には心に残るようなアドバイスをして、「さすが親父!」と思われたい。そのためには日々精進。前職の社長のように他人を踏みつけて平気でいられるような人間にはなりたくない。最後の自己実現欲求の実現に向けて、楽しく精進する日々を過ごしたいと思うのである・・・


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【本日の読書】

思考の技術論: 自分の頭で「正しく考える」 - 鹿島 茂  エレガントな毒の吐き方 脳科学と京都人に学ぶ「言いにくいことを賢く伝える」技術 - 中野 信子  心はあなたのもとに (村上龍電子本製作所) - 村上 龍





2024年7月7日日曜日

2024夏の日雑感

 週末は例年の酷暑がやってきた。そんな酷暑でもシニアラグビーの練習はある。自分の事は棚に上げて、みんなよく参加するよなと呆れてしまう。世間では「危険な暑さ」と言われているが、そんな炎天下の中でのラグビーの練習に汗をながす。学生時代はこの時期シーズンオフで、高校の時はそんなものがなかっただけに喜んだものである。なのに学生より体力の劣るシニアでこの時期にラグビーをやるというのもどうなのかという気もする。おまけに来週は公式戦の試合が組まれている。

 それはそうと、過酷な練習をするわけでもなく、みんな頻繁に水分補給しながらやっている。高校時代は水を飲ませてもらえなかったから、今から考えると酷いものである。水分補給しながら、濡らしたタオルで頭から顔、首と拭っては次の練習に移る。時折、吹いてくる風になんとも言えぬ涼を感じる。立っていても汗が流れるような炎天下で、ちょっとした風が心地よく感じられる。どんな状況でもいい事はあるという暗示のようでもある。練習後の冷たいシャワーに幸せ感を得られる。

 一夜明けて本日は東京都知事選。炎天下でも投票には行く。今回は小池さんにも蓮舫さんにも投票する気はしない。第三の候補となると、個人的には元航空幕僚長か元安芸高田市長かと迷うところ。最後まで迷ったが、名前を書く段階で、もう一度候補者リストを見てみたが、数が多過ぎて探すのが面倒になる。やっぱり誰もが立候補できることは大事だと思うが、だからこそ真剣に市長を目指す人だけが立候補すべきではないかと思う。そのあたりは自由を与えられている方が持つべきモラルではないかと思うのである。

 その足で実家に向かう。週末1日は実家に行き、家事の手伝いである。トイレ掃除や床掃除。昼と夜の食事。母もよる年波には勝てず、だいぶ家事能力が衰えている。特に料理の気力が衰え、昭和男子の私がレシピと睨めっこして見様見真似で作った食事でも「豪華だ」と喜んでくれる。冷凍食品など1週間分の買い出しも行う。まだ自立して生活できているからいいが、介護となったらどうなるのだろうとよく思う。そしてそれは27年後の自分の姿なのだろうかと。

 父は耳が遠くなり、したがってテレビの音量も大きい。同じ部屋にいると猛烈なストレスを感じる。テレビのバラエティ番組はもともと好きではないが、音量を高くして聴くと害悪にしか感じられない。「テレビを見ていてバカになる」ような気が本当にしてくる。悪いとは思いつつ、音量を下げてもらったが、27年後の自分はどのような老後を過ごしているだろうかと思う。たぶん、PCに向かっている時間が長くなってはいるだろう。このブログもたぶん続けているだろうと思う。今のこの文章を読み直してどう感じるだろうか。

 8月には親戚会をやる事にした。親世代も数が少なくなってきたので、存命のうちにみんなで集まろうという企画である。我々は従兄弟同士の仲が良い。それは子供の自分に望月の母方の実家に集まり、みんなで遊んだ経験が大きい。だが、みんなそれぞれの都合があって、日程と場所の調整に難航している。「やりたい」という気持ちになってくれれば、調整も容易いと思うのだが、なかなか壁は厚い。こういう幹事役はもっとも苦手としている自分であるが、親のためにもやり切ろうと思う。

 暑い夏だが、夏だから暑い。それを嘆いていても仕方がない。冷夏で冷害に悩む事態よりは遥かにいいだろうと思う。どうせすぐに涼しくなって寒くなる。ならば今のうちに炎天下すら楽しもうと思う。そう思えば、わずかな風にも涼を感じられる。酷暑にあってもわずかな風に涼を感じられる、そんな自分でありたいと改めて思うのである・・・


joanna090によるPixabayからの画像

【本日の読書】
射精道 (光文社新書) - 今井 伸  心はあなたのもとに (村上龍電子本製作所) - 村上 龍




2024年7月3日水曜日

よくわからないこと(財政均衡論)

ザイム真理教――それは信者8000万人の巨大カルト 森永 卓郎

 『ザイム真理教』という本を読んだ。ザイム真理教とは、財務省を揶揄した言葉。その内容は、財務省が強力に固執する財政均衡主義を批判したものである。財政均衡主義とは、簡単に言えば「収入の範囲内に支出を納める」というもので、現在借金漬けになっている我が国の国家予算を収支均衡させようという考え方である。令和6年度の予算は、歳入が約77兆円。これに対して歳出が約112兆円。その差額35兆円は国債発行による借金である。1年間ならまだしも、こんな状況がずっと続いており、国の借金は膨れ上がり続けている。

 普通に考えれば、いったい政府は何をやっているのかと思う。歳入を増やすか、歳出を減らすかして収支均衡させるのは当然だと思う。しかし、歳入を増やすとはすなわち増税であり、歳出を減らすことは国民へのサービスを減らすことであり、これも難しい(というかまぁ、できる事はやってほしいが、やらないのをやらせる難しさも含んでいる)。「子孫に借金を残す」とかの批判もあるし、問題先送りに対する危惧もある。何も手を打たずにズルズル行って大丈夫なものとも思えない。

 そんな危惧に対し、実は問題はないのだと言うのが簡単な趣旨。財政均衡しなくても良いという意見は、一見「本当か?」と思わされる。短期的に財政均衡主義が正しくないのは簡単に理解できる。個人で言えば、家を買うなどの場合はどうしてもローンを組むなどの必要性がある。「収入の範囲で」などと言っていたら家などは買えないだろう。個人の場合は人生という決まった期間があるから、その範囲内で財政均衡を図る事になる。私もあと10年で住宅ローンを完済できる。

 しかし、国家の場合は個人のような期限はない。どのくらいのスパンが適正と言えるのかはわからない。現状はほぼ無期限の状態であり、だからこそ問題があるように思う。しかし、この本はそれすら問題ではないと言う。1つには借金は国債という形で行われているが、「永久に借り換えれば元本を返す必要はない」といい切る。国債は銀行などが引き受けるが、量が多くなれば引き受けきれなくなると思う。ただ、日銀が引き受けるとなると大丈夫という理屈なのだろう。

 日銀が国債を買った瞬間に政府は実質的に返済義務を負わなくなると言う。確かにいざとなればお金を印刷すればいいわけなので、そういう理屈は成り立つ。そんなことをすれば激しいインフレを招いて財政破綻するとかつて習った事があるが、現在の日本ではようやく物価の上昇が見られるようになってきた有様で、かつて習った理屈が当てはまるような感じではない。そして国家には「通貨発行益」があるので、これで賄えるとする。

 さすがによく研究しているのだろう、素人が「ここが間違っている」と指摘できるようなところはない。ただ、だからといって素直に感動できるものではない。何となく腑に落ちないという感覚が残るのである。著者は財務相を徹底的に悪者にし、その財政均衡主義を信じる人たちをその信者にたとえる。だから「ザイム真理教」なのである。著者の主張は既に「MMT/現代貨幣理論」としても知られているが、本当のところはわからない。

 本来、国は国家として国民の生活を守るために必要なお金を税金という形で徴収するのが本来の形である。その意味では、短期的にはともかく、長期的には財政均衡主義は当然であると思う。ただ、通貨を発行し続ければいずれどこかの段階でインフレになる。モノが増えればそのモノの価値は下がるのは道理で、お金も例外ではない。お金が増えればお金の価値が落ち、物の値段が上がる。そうするとそれに引きずられて借金の価値も減るという考え方もあるように思う。

 『島耕作』シリーズの「学生編」では、1969年が舞台となっているが、その中で「3百万円で家が建つ」というセリフが出てくる。今とは1桁感覚が違う。いずれお金の価値が落ちて行けば、1,200兆円の借金も120兆円、12兆円くらいの感覚になっていくのかもしれない。今月は40年ぶりに新紙幣が発行されると話題になっているが、同じ1万円札でも渋沢栄一より福沢諭吉の方が価値が高く、さらに聖徳太子の方がもっと価値が高いと言える。今でも「聖徳太子」と言っていた頃の1万円札には重みがあった気がするのは、決して気のせいではないという事である。

 実際のところ、ザイム真理教は著者の言う通り愚かな信者なのか。何となく白黒曖昧なまま行くような気もするが、興味関心は持っていたいと思うのである・・・


Jens NeumannによるPixabayからの画像

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思考の技術論: 自分の頭で「正しく考える」 - 鹿島 茂  射精道 (光文社新書) - 今井 伸  心はあなたのもとに (村上龍電子本製作所) - 村上 龍